こんにちは。今回は古典論題の解説です。
Info:Vernacular school provides education in languages which are ingrained in the particular communities and not in the country’s primary language.
Motion
THBT developing countries with ethnically diverse populations should prohibit vernacular schools.
スペルと発音が一致しないキショい単語として有名なヴァナキュラーですが、日本では建築や写真を始めとする美術分野で使われることが多いと思います。私がこの単語に初めて出会ったのは高校生の頃当時はまだ月刊誌だった『美術手帖』を読んでいた時のことで、民藝特集の数ページがヴァナキュラー建築に割かれていたのでした。以下、美術手帖による「ヴァナキュラー」解説を引用しておきます。
「ヴァナキュラー(vernacular)」という言葉は、直訳すると「土着の」「その土地固有の」「日常的な話し言葉の」などといった意味を持つ。もともとは一般的な形容詞だったこの言葉が、とりわけ芸術分野で特殊化されて用いられるようになったきっかけは建築にあった。(中略) 類似したカテゴリーに「フォーク」や「ネイティヴ」などがあるが、とりわけ「ヴァナキュラー」という語が特殊化されるのは「話し言葉の」というニュアンスにおいてである。すなわち、ヴァナキュラー建築には「書き言葉」にあたる設計図などは存在せず、幾世代にもわたる経験の蓄積が口承で伝えられてきたという特徴を有しているのだ。
ヴァナキュラーという概念を教育の場で広めたのがイヴァン・イリイチです。イリイチの「ヴァナキュラーな価値」では、15世紀を生きたポルトガルの文法家ネブリハの手によって、近代主権国家の成立と軌を一にして人工的な普遍言語教育が提唱されることが描かれます。ここでは所謂「スタンダード」な言語と対比されて、全く異なる言語や、「スタンダード」の枠に当てはまらない(現代ではBrokenと表現されるような)地域的・個人的変種のことをヴァナキュラーな言語であるとイリイチは特徴づけます。ここでVernacular/Standardという対立が生起する場が主権-国民国家パラダイム上にある、ということは念頭に置いた方がいいでしょう。(ポルトガル王室はヴァナキュラーな言語を操るコロンブスのプロジェクトを支援し、国内の貴族たちの自治権に配慮してネブリハの言語統一プロジェクトを拒絶するのですが......)
植民地宗主国が恣意的な領土確定をした際に部族境界が纏めてごっちゃに1つの国にされたというお決まりの説明をしておきます。東南アジア、南アジア、アフリカあたりをイメージしてもらえればよく、具体例は各々ググってください。その国々の中のさらに周縁的な地域で、(ピジン・クレオールを含む)ヴァナキュラーな言語を使った民族学校みたいなものが今回の論題の舞台です。
調べるとどうやらマレーシアで2021年にヴァナキュラースクールに関する違憲審査があったようで、記事によるとマレーシアのヴァナキュラースクールでは中国語やタミル語を使った授業が行われ、1800以上の学校が存在し、異なる人口構成のもとで50万人以上が通っているようです。マレーシアの大会そこそこ出てるのに知らんかった......https://www.malaysianow.com/news/2021/12/29/high-court-rules-vernacular-schools-are-constitutional
教育系の議論において功利主義者が注意深くなるべき「視点の中立性」について、アメリカにおける保守的な宗教共同体であるアーミッシュを引き合いに、エイミー・グッドマンは以下のように指摘しています。
So the problem of neutrality now reappears on another level. Amish parents raise their children so as to prevent them from finding happiness outside of the Amish way of life. If happiness is subjectively determined utilitarians committed to maximising social happiness cannot be content to permit any group to shelter their children from influences that permit a wide range of choice among ways of life that might lead to happiness. Yet so long as all forms of educatIon predispose children toward certain ways of findIng happiness and away from others, utilitarians must choose the forms that are most likely to produce happy people. The more serious problem specIfic to utilitarianism is that it lacks any means of comparing the level of satisfaction gained from radically different ways of life. (Gutmann, A, 1982)
功利主義的なケースを走らせる際には、この示唆を元に(a)統一的な学校教育を受けた後の主観的な結果と、ヴァナキュラーな教育を受けた後の主観的な結果を比較すること、(b)その主観的な価値判断もまた学校教育により形成されること、の2点に注意を払う必要があります。Govは制度化された学校教育がより多くの職業選択のオプションを提供すると論じる事はできますが、その元でのみアクセスできる職業にアーミッシュがアクセスできないからと言って、アーミッシュの人々が幸福を感じないと結論付けるのには慎重になるべきです。学校が職業オプションを提供すると同時に職業に対する価値感を植え付ける機関であることを忘れてはいけません。ヴァナキュラーな価値観の元ではメリトクラシーや資本主義、物質的充足はそれほど賛美されないかもしれませんし、そもそも外銀のIB部門で働くという生き方を知らないので就活を気に病む必要もありません。それよりもローカルな歌や詩を継承することが重要視され、ローカルな人間関係や作物の出来不出来、文学的な才能についての悩みを抱くのがよりあり得る姿でしょう。メカニズムを分析する際にディベーターが装う「第三者視点」に資本主義的な価値観を密輸入するのではなく、ぜひこの「主観的価値のズレ」に対して敏感になってラウンドをしてみてください。
ようやく本題に入りました。
<Impact>
ローカルなコミュニティに生まれ育った個人が、就職や進学を通じてマジョリティの社会においてより成功を収めるオプションを増やすことができる
教育は個人の将来の可能性を増やすことに関わる(analogy: Liberal Arts)
<Mechanism>
A. 情報へのアクセシビリティが上がる
話者人口の多い公用語の方が経済規模が大きい
多くのメディアが公用語で発信している
ハイレベルな進学・就職機会も公用語で提供されていることが多いので、学習機会の逸失は不利
(even if 入れたとしても)
標準教育を受けてきた人間はアクセントの差異に対して敏感(e.g. Standard Englishに対するオリエンタリズム)
標準教育に含まれるコンテンツは知的共通基盤をなしており、非学習者は会話などに参入しづらい(e.g. 話題としての『山月記』)
B. 高い教育の質
教員の質が高い
より多くの人口母集団からの競争で教員が選ばれている
教員は正規の大学教育を受けて資格を持っている
教材の質が高い
より多くの教材作成業者間の競争が存在する
洗練された教育メソッド
教育メソッドの研究も公用語や公用語との接触機会も多い英語で行われており、最新のものが反映されやすい
Conclusion
公用語で質の高い学習ができるので、3R(Reading, Writing, Arithmetic)の習得が容易である。
公用語での情報収集を通じてマジョリティ社会での就職/進学オプションを手に入れることができる
<Impact>
言語や宗教の異なるローカルなコミュニティについて
Sense of Representation; 投票結果により政治家が地域にとって何かしらのアクションを行う(来訪する・予算がつく, etc…)ことで中央政府から見捨てられているという疎外感から解放される
投票を通じて地域のニーズ(インフラ整備とか)が実現して物質的に幸福になる
選挙権は民主主義国家においては基本的な権利なので、その実質的な遂行を妨げるような制度は廃されなくてはならない
<Mechanism>
個人が発信できないメカニズム
メディアは公用語を使って報道する
政治家は公用語を話す
投票に必要な手続きは公用語を用いて行う必要がある
SNSで発信する際に公用語でないとメインストリームの政治クラスターに届かない
などの理由により、オフィシャルな公用語を学ばないと投票に必要な情報収集/手続き/政治的意見の発信ができない。発信しないと、選挙での得票がイニシャルな動機である政治家はケアしない。
oppの世界ではvernacular schoolに通っても普通の公立学校に通ってもよく、それはchoiceである
公用語を話せるようになったからと言って進学や就職が成功するわけではなく、多種多様な差別・偏見を乗り越える必要があり現実は厳しい
<impact>
子供たちが出身地のローカルコミュニティで上手く生きていける
大人たちも自らの慣習や価値観を存続させることができて嬉しい
<mechanism>
家庭内でローカルな言語を使った会話等は行われるが、親は一般にエキスパートではないので文字や文学作品, 歌, 建築などについて体系的に学ぶ機会はあまりない
学校はコミュニティ内の知識人により運営されるのがlikelyなので、家よりそういった知識や価値観を効率的に吸収できる
単純に自文化に接触する時間が長い
結果地元のミームを理解でき、老人の話についていける
<weighing>
よい職に就ける可能性の追及は、個人の選択を最大化するという側面の他にもう一つの面を持ちます。それは資本主義社会を維持・継続するということです。近年「人的資本」という言葉が氾濫して久しいですが、人間は投入され、再生産の対象となる資本として客体化されつつあります。
Commiunity/Cultureの維持はそのCommunity/Culture自体の善さに依存しますが(毎日挨拶代わりに肩パンする文化は自明に悪いので消えてなくなるべきでしょう)少なくともアイデンティティの拠り所となるNarrativeや意義のあるコミュニケーションを可能にする人的ネットワークを持つといった側面、そしてそれが資本として非人間化された存在によってではなくその地の文化サークル内にいる特定の個人によってのみ存続されることを強調すれば、資本主義社会の維持のための職業訓練というGovのゴールと同等かそれ以上には文化の維持がアイデンティティの維持の側面から大切なことは導けるのではないでしょうか。
ILLICH, I., (1980) “Vernacular Values”, Philosophica 26. doi: https://doi.org/10.21825/philosophica.82612
『シャドウ・ワーク』イヴァン・イリイチ著, 玉野井芳郎・栗原彬訳, (岩波現代文庫2006)
上掲論文を含んでいる日本語書籍です
Gutmann, A. (1982). What's the use of going to school? In A. Sen & B. Williams (Eds.), Utilitarianism and Beyond (pp. 261-278). Cambridge: Cambridge University Press. doi:10.1017/CBO9780511611964.016
Info Slide: The Kathmandu Metropolitan City has made Nepal Bhasa (Newari language) compulsory in the school curriculum from Grade I to VIII. With this new rule, all private and public schools inside the Kathmandu metropolis will now have to teach Nepal Bhasa (Newari language). The policy has been seen as an extension of the constitutional provision that all local governments should incorporate one subject that reflects the identity of the local government in one or the other way. Kathmandu is the capital of Nepal and Newari people have historically inhabited the valley. Currently, Kathmandu has the highest population density of any city in Nepal, and there are and have been, high rates of rural to urban migration into the city.
This house supports Kathmandu Metropolitan City's decision to mandate Nepal Bhasa classes in school.(UADC 2022 R3)
ではまた!