◇はじめに
1.朝生田町の基本情報
朝生田町の人口推移表
2.朝生田町の歴史
【古代】
平安時代の辞書である倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)によると、伊予国に久米郡(天山郷、石井郷、吉井郷、
神戸郷、余戸郷)があり、朝生田は天山郷に属していたと考えられている。
関連する歴史的旧跡・文化財として、朝生田町2丁目の善宝寺周辺には奈良時代以前に造営された古代院である朝生田廃寺(旧善宝寺跡・麻生田廃院)の存在が知られている。関連遺跡として塔の心礎石(三重塔の中心柱を受けた礎石)や瓦が出土されていおり、現在は、善宝寺境内にて保存されている
【中世】
久米郡は河野氏の支配下にあった。河野氏は戦国末期の家臣団内紛や天正13年(1585)の豊臣秀吉の四国討伐により、湯築城の開城を余儀なくされ降伏。結局、伊予国は豊臣秀吉の統一政権下に置かれることになった。
【近世】
加藤義明・蒲生忠近による治世が続いたが、寛永12年(1635)以降、松平氏による松山藩領となった。
慶安元年(1648)に江戸幕府に提出された伊予国知行高郷村数帳(村名、石高等を記載した帳簿)によると、
久米郡の項に「浅生田村 小川有」と記載されている。また、天保郷帳(1834)に「浅生田村」の記載がある。松山領里正鑑によると、明治5年(1872)に「朝生田村」となり、現在までこの表記が使用されており、読み方も、「あそだ、あそうだ」となっている。なお、浅生田から朝生田に変更された時期は幕末頃の模様である。
【近現代】
明治22年(1889) 市町村制施行により久米郡石井村の大字となる。
明治30年(1897) 所属群が温泉群に変更される。
昭和37年(1962) 石井村が松山市に編入合併され、松山市の大字(松山市朝生田町)となる。
昭和40年(1965) 一部地域が、立花3丁目、立花6丁目、拓川町となった。
昭和50年(1975) 松山南環状線が朝生田町の真ん中を東西に横切る形で開通したことにより、以後、一気に
商業地域としての発展を遂げるきっかけとなった。(上記の人口推移グラフ参照)
3.主な施設
4.朝生田の古地図
5.懐かしの写真(倉庫を整理していたら見つかった写真)