ユウシロ
注意
本作品は新クトゥルフ神話TRPG『カタシロ』及び同作品の舞台『カタシロリビルド』のネタバレを含む二次創作パロディ作品です。作品を知らなくても楽しめるように書いておりますが、TRPG未通過/舞台版カタシロのネタバレを気にする方はご注意下さい。
カタシロの患者がテニスの忍足侑士さんだったら面白そうだなと思って書いたやつです。
西の言葉があやふやなので口調注意。
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「──なぁ先生、話をしようや」
忍足侑士は、目が覚めると病院にいた。
医者が言うには、雷に打たれたらしい。
それ以前の記憶は、失われている。
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DAY1
「気がついたかい?」
初めて聞く男の声で目を覚ます。
見覚えのない景。辺りを見回すと自分が手術台に括り付けられていることに気づく。
なぜここにいるのだろう。事故にでも遭ったのだろうか。経緯が全く思い出せない。
それどころか──。
「俺、え、何? 何も覚えてへんとかそないなこと、ある……?」
身じろぎしようとするも身体は動かない。
「なんやこれ、なんで手ぇ括られてんの?」
ズキズキと痛む頭を必死に回転させ状況把握に努めるもむなしく、余計に痛みが増すだけで意味はなかった。
「君は落雷にあってここに運ばれてきた。見たところによると、どうやら記憶が失われているようだな。君、名前は?」
「名前……」
驚いたことに自分の名前すらも思い出すことができない。
「やはり覚えていないか。……運ばれてきた時、君の荷物のほとんどは落雷で焼け焦げていて君の身元は分からなかったらしい。しかし、辛うじて名刺か何かの端のだけは残っていてね。そこにはユウシ、と書かれていた」
そう言って男は焼け焦げたカードを見せてきた。
「学生証やんな」
「そうかもしれないね。とりあえず君のことはユウシくんと呼ばせて貰おう。」
男は学生証の残骸らしきものを白衣のポケットにしまいながら説明を続ける。
「わたしは医者だ。君には治療が必要なようだ。……そうだな、3日。3日かけて君の身体と記憶を元に戻そう」
医者を名乗る男の口元はマスクで覆われているため感情が読めない。胡散臭さは拭えないが特に入院の提案を拒否する理由も無いので従っておくことにした。
「それはまあいいんですけど、先生、これだけは勘弁してもらえませんか?」
侑士は拘束されている手を掲げる。医者はああすまないと言いつつも、しかし拘束をとく気は無さそうだった。
「寝ている時に暴れてね。大変だったんだよ。なにせ雷で脳に一度に大量の電流が流れたんだ。しかしそうだな、今日大人しくしていてくれたら明日には外そう」
ほっと胸を撫で下ろす。3日もこのままだったら叶わんわぁと呟けば医者はマスクの下から感情のない声ではは、と笑った。
「こうして話をしているだけでもいろいろと思い出すことがある。そこでひとつ、手始めに話題を提供しよう」
そう言って彼はモニターに表を映し出した。
「君は囚人のジレンマを知っているかな。つまり、覚えているだろうか?」
「……知らんな」
「では説明しよう。これは思考実験だ、重く考えすぎずに聞いてほしい。とある2人が犯罪を犯し、別々の取調室に入れられた。本来の懲役は5年だが、もし片方が自白、もう片方が黙秘をした場合は黙秘をした方が10年、自白をした方は無罪になる。両方自白したら懲役は5年。両方が黙秘したら証拠不十分で2年の刑になる」
なんやけったいな話やなぁ、と独りごちるも医者は顔を歪める侑士のことを気にもとめずに続ける。
「この時。仮に君と僕とでこの取り調べを受けるとしたら、君はどちらを選ぶだろうか」
「……せんせと、俺とでですか」
「そうだ。ユウシくんとわたしで。答えは決まったかい?」
侑士が頷いて見せると、せーの、と医者は声を張る。
「自白」
「自白」
一瞬の沈黙のあと、医者はぽりぽりと耳気かけられたマスクのゴムを掻きながら
「2人とも自白。わたしたちは5年の刑期だ」
と言った。
「せんせ、裏切るんや」
「というと?」
「俺とせんせはここで初めて会いましたよね?そんなら普通は患者に信頼してもらうために黙秘って言うんちゃうかな思いまして」
「そうかもしれないね。じゃあユウシくんもわたしの事を信じていないということになる」
「そらな」
医者の表情はあいかわらずマスクに覆われていて窺えない。だから彼がなにを思って自分にこんな話をしているのか分からず、侑士は困惑していた。
「いくらお医者さんの先生とはいえ今会ったばっかりの人のこと信頼せぇっちゅう方が無理な話やないですか」
「では君は記憶を失う前、相手との信頼関係を大事にしていたんだね」
「せやなぁ」
信頼関係。大事な人。
「岳人とか跡部なら……」
ふと、あくる日の夕焼けの記憶が蘇る。共に頂点を誓い合い切磋琢磨した仲間たち。
「それは一体?」
「……俺のチームメイトや。岳人とはダブルスを組んどった。跡部はウチの部長や」
「そうか。跡部と言えば跡部財閥のご子息かな。まあいい。それで、ダブルスということは君は何かスポーツ、例えばテニスをやっていたのかい?」
「せやな。俺は中学でテニス部に入っとって、ほんで全国に出てたんや」
「そうかそうか、君はすごい選手だったんだね」
医者に指摘されてひとつ記憶が取り戻すことができた。怪しげで悪趣味な問題だが、記憶を取り戻す手段としては確かに間違っていないのかもしれない。
「では仮に、その仲間が共犯者だとしたら答えは変わるかい?」
「そらそうやな。あいつらやったら黙秘するで」
まあ岳人ならともかく、跡部相手ならそもそもこんなことにはならないような気はするが。
「やはり君は情に厚い人間のようだ」
情に厚いという言葉にむず痒さを感じるが、医者はそんな侑士のことに気付かず納得したようにうんうんと頷いている。
「いやあ、君のパーソナリティの見える大変興味深い話だったよ。ありがとう。これからわたしは他の患者の診察に行くがいいかい?」
「かまへんで」
「そうか。ではまた明日」
医者はそう言って手術室を後にした。
突然の落雷。記憶喪失。
直感的に物騒な何かを感じ取る。この恐怖は不安から来るものなのだろうか。だとしたらせめてそれが少しでも和らぐようにと、あたりを見回して状況把握に務める。
「なんでこないなもんがあるんやぁ……」
自分が括り付けられている手術台の脇に目をやると、恐らく手術で使われたのであろう道具が置かれていた。
「これ、ドリルか。少なくとも普通の手術には使わんもんやなぁ……」
この部屋に似つかわしくないものを見つけたことに対する恐怖心、そしてこの場所と医者に対する猜疑心は増す。
変に探らん方がよかったかなぁ……。
そんなことを思いつつも、何も知らないことのほうがより怖いような気がして再びあたりを見回す。
ふと後ろを振り向くと、薄ぼんやりとしたモニターに97,98という数字が並んでいた。
「なんの数字やろなぁこれ」
血圧にしては振り幅が小さすぎる。しかしほかに思い当たるものは何もない。
「俺の身体には繋がってない……?リアルタイムで検査してるんやないっちゅうことか?どういうことや一体」
不思議に思って詳しく調べようとするが、身体が動かないため徒にゴソゴソとするだけに終わる。
なんやおもろないなぁ……と虚空に向かって呟くと、思わぬ返答があった。
「誰かいるの?」
それは幼くてかわいらしい女の子の声だった。
「……誰や?」
「あっ! お兄さん! いまお話しても大丈夫ですか?」
女の子はこちらの様子を窺うように尋ねた。
「ええよ。入院しててやることないし、ちょうど俺も暇やと思っとったとこやわぁ」
「ほんと?よかったぁ……。あのね、わたし、アユムっていいます! お兄さんの名前はなんていうの?」
「俺はユウシ、っちゅう名前らしいで。お嬢ちゃん、よろしゅうなぁ」
小さい女の子相手に、思わず侑士の口元は綻ぶ。
「らしい……?もしかしてユウシお兄ちゃんも記憶喪失なの?」
「せや。あれ、てことはお嬢ちゃんもそうなん?」
「ううん。あのね、アユムの隣のお部屋に来る人はみんな記憶喪失なんだ」
ということはここは記憶喪失の患者を専門にしている病院なのだろうか。
「あれ?じゃあお嬢ちゃんはなんでここにおるん?」
「アユムね、事故にあったんだ」
明るかったアユムの声に翳りが射す。
「2年前にね、ドーーン! ガシャーーン! って。それでね、身体が動かせなくなっちゃってね、目も見えなくって、お母さんも死んじゃったんだ……」
それは小さい子供にさせるにはあまりに辛い話だった。
侑士はなるべく優しい声でアユムに言う。
「そうやったんやな。しんどくなるようなこと思い出させてしまって堪忍な」
「ううん! 大丈夫だよ、お父さんが絶対に治してくれるから!」
「お父さん?」
「そう、お父さん! お父さんはね、名医? なんだよ。だからアユムのことも、ユウシお兄ちゃんのことも絶対絶対ぜーーーったい治してくれるんだって! だから安心して!」
先程とはうってかわってアユムの声が明るくなったことにほっと胸を撫で下ろす。
「あのせんせ、アユムちゃんのお父さんやったんか!」
「うん!」
胡散臭ささの塊のような医者にもこのような娘がいたとは驚きだ。そして同時に"父親"という言葉に引っ掛かりを覚える。……そうだ、自分の父親は。
「……あんな、ひとつ思い出したわ。俺のお父ちゃんも医者やったわぁ」
「え!?お兄ちゃんも?」
「せや」
家族はどうしているだろうか。もし父親が今の自分の状況を知ったら、やっぱりアユムの父がアユムにそうしているように治そうとするのだろうか。医者であることしか思い出せない父親に思いを馳せる。
「お兄ちゃん?」
「ああ、すまんなぁお嬢ちゃん、お父さんのこと思い出してちょっとしんみりしてもうたわ」
「そっか。お兄ちゃん、早く良くなるといいね」
アユムの心からの励ましが心の奥底に染み渡る。
「お嬢ちゃんもな」
「うん!あ、ねぇねぇお兄ちゃん、お兄ちゃんはもし良くなったら何したい?」
「せやねぇ……お兄ちゃんな、ここに来る前テニスしてたらしいねん」
「え!?テニス?」
「そうや。仲間と全国まで出たことまでは覚えとるんやけど」
「全国大会?すごいね!」
アユムの無邪気な賞賛が純粋に嬉しい。
「でもなぁ、優勝はできんかってん。負けた時はものごっつぅ悔しかったわァ……」
「そうなんだ……」
自分の言葉ひとつひとつにコロコロと声色を変える少女のことを侑士は好ましく思った。
「せやからここから出たらテニスしていっちゃん上に行きたい思うわぁ」
「そっかそっか。じゃあお兄ちゃんが元気になって、アユムも元気になったら、テニス教えて!」
可愛らしく子供らしい提案をされ、断る理由はもちろんない。
「ええよ」
「やったー!お兄ちゃん優しいね」
「おおきに」
そんな話をしているうちに、強烈な眠気に襲われた。
「あかん、眠くてしゃーないわぁ……。お嬢ちゃんごめんな、お兄ちゃんもう寝るわ」
「おやすみなさい、ユウシお兄ちゃん」
「ん、おやすみさん」
アユムともう少し喋っていたい、その思いに後ろ髪を引かれつつも侑士は微睡みに身を任せた。
DAY2
「んん……」
陽の光が射さない病室内は照明で生活時間を管理しているようだ。無機質な光が侑士の眠りを遮り、重い瞼を開く。
「なん、これ……」
昨日と同じはずの光景を期待するが、なんだか眩しくて目を開けて続けているのは少し辛かった。
すると廊下からコツコツと靴音が聞こえた。
「おはよう。調子はどうだい?」
ガラガラと後方の扉を開きながら医者が手術室に入ってくる。
「もぉ最悪やわぁ。目がチカチカして見にくいったらあらへん」
しきりに瞬きをするも、寝起きということもあってまだ医者の姿をうまくとれえることができない。
「どこか視覚か脳の神経に異常があるようだね。後で検査するとしよう」
「頼んますわぁ……」
「他になにか変わったことは?」
医者はカルテのようなものをサイドテーブルに置き、侑士のほうに目線を合わせて問う。
「目がおかしい事以外は普通やなぁ。あ、せや、せんせ娘さんいらはるの? 昨日せんせが帰った後に隣の部屋で入院してるっちゅーお嬢ちゃんが話しかけてくれたんやけど」
「ああ。アユムのことかい? 長いこと入院しているから暇なんだろう、娘の話に付き合ってくれてありがとう」
医者の声色が露骨に変わり、うれしそうだ。ここへ来てからそんな医者の姿を見るのは初めてで、侑士は少しからかいたくなった。
「娘さん、かわいいんやなぁ」
ニヤニヤする侑士に医者は少しむっとした様子で返事をする。
「それは一体どういう意味かな?」
「意味なんてあらへんよぉ」
今まで無表情だった医者が突然動揺し始めたのでおかしくなってついに侑士はくつくつと肩を震わせて笑った。
「何がおかしいんだ。さては娘になにか変なことを吹き込んだりしてないだろうな!?」
「なんもあらへんて、せんせ、安心しぃや」
「そうか、なんか君のその言い方は不安になるな……。まあいい、他に聞きたいことは?記憶の方はどうだい」
「特に変わったことはないですわ。あ、でも、少しだけお嬢ちゃんと話してる時に思い出したことがあって。俺もオトンが医者やったなぁて。それはそうとこれ、どうにかなりませんかね?もうこんなん付けてたら寝にくくて寝にくくてたまらんですわ」
拘束具をつけたままほとんど動かない手を医者の方へ向ける。
「では君の手の拘束は外そう。見た感じ視覚以外の不調は無さそうなのでね」
「おおきに」
医者は侑士の手の拘束を外しながら続ける。今日も相変わらず表情が読めなくて不気味だ。
「では、今日もお話をしよう」
「お話して昨日みたいなやつですか?」
「そうだ。君はテセウスの船というのを知っているかな、つまり覚えているかい?」
これは微かに記憶の片隅にあった。確か昔読んだ小説だか漫画かなにかで見たことがある。
「あれやろ、船のパーツを変えていって全部違うパーツになった時それが元と同じ船かっちゅうやつやろ」
「そうだ。ユウシくん、君はこれについてどう思う?」
侑士は腕組みをするも、ほとんど考える様子を見せずにすぐにその答えを口にした。
「同じ……やな。たとえば学校のテニス部があって、毎年部員は入れ替わっていくやないですか。それでも大枠は「あの学校のテニス部」に変わりはない、それと同じやないですか」
「なるほど。つまりテセウスの船という大枠が大事でその構成要素は大きな問題ではないということかね?」
「そんな感じやな」
医者はなるほどなるほど、と言いながら前髪をいじる。その時ちらりと見えた目が妙に昏いような気がしてゾッとした。
なんや。なんでそんな目で俺のこと見るん。
「ではたとえば、船に傷がついていたとしよう。その傷はテセウスが大冒険をした航海の際についた傷だったとする。その部分も交換して傷はなくなったとした時、やはり船は同じ船だと言えるかい?」
あ〜そういうパターンもあるんかいな、と唸る侑士のことを医者は静かに見つめる。それはこの世に対して絶望しているようにも侑士になにかを渇望しているようにも見えた。
やめや。そないな目で俺を見んといてくれや。
本能的に医者への恐れを感じ(元々今日の視界が最悪なこともあるが)なるべく目を閉じるか、そうでない時は医者から目を逸らして答えるよう試みる。
「確かに傷はなくなったかもしらんけど、船で大冒険をしたっちゅう思い出がテセウスとか皆にあるならやっぱり同じ船なんちゃうかな」
見えないのは見えないで怖い。しかしあの一瞬の恐ろしく深い視線ともう一度対峙する気にはなれなかった。
「……思い出を大事にする人だったんだね、君は」
「そうかもしれへんなぁ……」
「……ありがとう。面白い話が聞けてよかったよ。明日には退院だ。今夜はゆっくり過ごすといい」
医者の言葉が昨日よりもどこか重いことが気がかりだったが、その真相を確かめる間もなく侑士の後ろからはがちゃりと扉の閉まる音がした。外界とのつながりを完全に閉ざされているような気がして、侑士の気分はより一層滅入った。
自分一人だけになった手術室を見渡す。今日は拘束具は外れている。自由に動くことができる。となると。
「まぁ、こんなん見るな言う方がおかしいわな」
なるべく音を立てないように侑士は立ち上がり、ドアから部屋の対角線上に置かれた棚の引き出しに手をかける。
見たところ普通の手術室道具らしきものしか入っておらず、目立っておかしいもの──昨日サイドテーブルに置かれていた工具のような──は見当たらなかった。
「おもろないなぁ」
そう呟いて一番下の引き出しを開けると、そこには1冊のファイルが収められていた。
「堪忍なぁせんせ」
勝手に部屋を漁った罪悪感はあったものの、好奇心がそれを上回ってしまった。
ファイルの表紙を捲るとそこには人の名前とそれに付随する2つの数字の表が延々と続いていた。
「適正率1と適正率2……?なんのことやこれ」
パラパラとページを捲っていくと最後のページにたどり着く。そこには鉛筆で「見つからない」と走り書きがされていた。
嫌な予感がする。
理屈ではなくただただ直感的に、背中がぞわりと粟立つ。
落雷、記憶喪失、手足の拘束、感情の読めない医者、囚人のジレンマ、工具、97、98、アユム、事故、視界の異常、テセウスの船、適正率。
一見するとバラバラのこれらの事象がひとつになって恐ろしい形を成していつか自分に襲いかかって来やしないだろうか。
そんな得体の知れない不安が脳裏を掠める。
とにかくクラクラとする頭をなんとか持ち上げて、これからのことを考える。まずは棚を漁った形跡を消そう。そう思うと侑士は手にしていたファイルを元に戻し、視線を部屋の入口付近へと移した。
するとそこには金庫があった。
金庫に近づくと側面に小さく「バースデー」と書かれている
「バースデー……?誰かの誕生日が暗証番号っちゅうことか? いやでもさすがに不用心すぎるしそんなことはあらへんと思うけど……」
そもそも自分の誕生日すらまともに覚えていないのだ、ましてやそれに思い当たる人などいるはずもない。あるとしたら医者の誕生日か、それとも──。
「もしもーし、ユウシお兄ちゃんいますかー?」
「あ……お嬢ちゃん」
医者が、自分の娘の誕生日を暗証番号にしたという可能性はないだろうか。
「あっ! ユウシお兄ちゃんだ! 元気?」
「お、お兄ちゃんは元気やでぇ……」
まるで自分の考えを見透かされたかのようなタイミングで声をかけられた事で、侑士は身体が飛び上がりかける。
「よかった! あのね、そこのお部屋に来る人たちみーんなね、来た次の日になると元気じゃなくなっちゃうの。なんかね、お話が通じなくなっちゃうっていうか、あーとかうーとかしか話さなくなっちゃって」
「え……」
立て続けに怖いことが続き、さすがの侑士も身構える。
「だから、今日もユウシお兄ちゃんとお話できてアユムうれしいんだ!」
……なにか、とんでもなく重大なことを聞いたような気がした。聞いてはならぬものだったかもしれない。
「まってお嬢ちゃん、それほんまなん? え、じゃあここに来た人たちはみんな最後どないなったん?」
「うーんとね、2日目は変なんだけどね、3日目になると元に戻ってバイバイするの」
随分とおかしな話だ、急に様子がおかしくなったと思ったら翌日にはもう元通りで元気に退院だなんて。ここはもしかして人体実験でもしているのではなかろうか。
「そうなんか……」
「そう! だからね、お兄ちゃんも絶対に良くなるよ!」
「だったらええんやけどなぁ……せや、そんなことよりもっと楽しい話しようや。アユムちゃんってお誕生日いつなん?」
気を取り直して侑士は情報を得るためアユムに語りかける。
「え? アユムのお誕生日? 7月9日だけど……お兄ちゃん、お誕生日プレゼントくれるの!?」
「それでもええんやけど……」
そばにあるドアの隙間から吹き込む風は冷たい。恐らく今の季節は冬だろう。アユムの誕生日は初夏なので今からプレゼントをするとなると少し遠い。
「お医者さんのせんせ……お嬢ちゃんのお父さんがな、明日退院出来るって言うてるんよ。そんで、もしお嬢ちゃんが良かったらなんやけど、チョコレート欲しない?」
アユムに話しかけつつも冷静に金庫の暗証番号を入力する。0709。アユムの誕生日を入れてツマミを回すとカチッと音を立てて鍵が開く。
「チョコレート?」
「せや。今は多分冬やと思うんやけど、お嬢ちゃんの誕生日は夏やろ? お見舞い行くにはちょっと長いかな〜思わん? せやから、バレンタインかホワイトデーか、まあそれはどっちでもええわ、とにかくお嬢ちゃんにチョコ買ってこよう思うんやけどどうや?」
鍵の開いた金庫の中を覗く。そこに入っていたのは──。
「バレンタイン!? ホワイトデー!?」
銃、のようなものだった。
どういうことや、なんでこないなもんが病院に。
サイドテーブルの工具といい、さすがにおかしすぎる。見たくなかった、知りたくなかった。
侑士の身体は何かに拒絶反応を起こしているかのように震えている。速やかに銃を元の金庫の中に戻し鍵をかける。なかったことにしよう。
「……ユウシお兄ちゃん?」
アユムの声で我に返る。
「あ、アユムちゃんごめんな。バレンタイン、楽しみにしててや」
声が震える。
「うん! 楽しみだなー楽しみだなー。アユム、男の人にチョコ貰ったことなんてないから嬉しい! ユウシお兄ちゃんは優しいね」
だめだ、何も考えたくない。頭がぼんやりとして、だるくて、なにもしたくない。
手術台に戻り横になった侑士に楽しげなアユムの声が遠くから響く。
「お兄ちゃん、あのね、もしよかったら明日、退院する時にアユムのお部屋に来てくれたらもっと嬉しいな〜って思うんだけど」
「あ……うん、ええよ」
「やった〜!」
遠のきかけている意識の中で返事をする。
明日、なにかとてつもないことが起こる予感を必死で無視して、侑士は眠りに落ちていった。
DAY3
「おはよう、ユウシくん」
医者の声で目を覚ます。
「調子はどうだい?」
昨日より視界は随分と良くなり、身体のだるさや頭痛も特にない。
「ん……元気やと思いますけど」
「そうか。それはよかった。……体調以外に、なにか変わったことはあるかい?」
昨日、医者の診療(あれを診療と呼んでいいものか未だ侑士は甚だ疑問ではあったが)の後のことを思い出す。
部屋を漁って見つけ出した怪しげなリスト。銃のようなにか。ここに来た人は2日目に必ず様子がおかしくなるというアユムの証言。
記憶なんてなくたって分かる、きっと自分は治療以外のなにかの目的でここにいる。しかし今下手に医者の機嫌を損ねたら何をされるか分からない。今日は約束の3日目だから、おとなしくしていれば何事も無く帰れるかもしれない。
──ここが正念場やな。
だから侑士はつとめて明るく、無邪気な青年として振舞おうとした。
「あ〜そういえば。昨日もお嬢ちゃんと話しましたよ」
「ほう、アユムと。どんな話を?」
「俺、一応今日で退院っちゅうことになっとりますやん? せやから病院出て元気になったらアユムちゃんとこにお見舞い行こうと思って」
誕生日のことに触れるのは危険だから、なるべく不自然にならぬよう見舞いの話をする。
「それはどうも」
「そんでな、多分今冬やん? ここの部屋は一応暖房効いとるけどたまに外の冷気が漏れてきとるから分かったんやけど……冬やったらバレンタインかホワイトデーがあるなぁ思って」
「冷気が漏れていたのはすまないが……ユウシくん、それはどういうことかね」
「どういうこともなんもあらへんよぉ。ただアユムちゃんともっと仲良うなりたいだけや」
「仲良うなりたいだけ、って、きみ……!」
娘のことに関してだけは相変わらずこの医者は感情露出が増える。
そんなにか。そんなに娘のことが心配か。
「せやで。そういやアユムちゃんが退院したらテニスコートにデートしに行く約束もしたなぁ」
「で、デートぉ!?」
「デート言うてもせんせが心配することはなんもあらへんて。ただ俺がお嬢ちゃんにテニスを手取り足取り教えたるだけやわぁ」
「手取り……っ!?」
絶句する医者の様子がおかしくて侑士は声を上げて笑う。大丈夫だ、怖くない、なにも心配することはない。このまま診療をしてもらって、記憶を取り戻して、帰るだけだ。
「でもほんまに、はよ良ぅなったらええな、お嬢ちゃん」
これは心の底から願うことだ。あんなにいい子がこんな無機質な病院の中で一生を過ごすだなんてあんまりだ。
「ああ。そうだ、そうだな。……もうすぐだ」
医者の顔に影が差したのを侑士は見逃さなかった。
まただ。
昨日の診療の時にも医者はその目で侑士のことを見つめた。深く昏く底無しの絶望を孕む目。
それに気づいてはいけない、と思った。気づいていることを気づかせてはならない。平静をつとめて侑士は聞き返す。
「治る手立てが見つかったんですか」
「……そうだ」
医者はわざとらしくこちらから視線を逸らして答える。それはまるでアユムに対する今までの贖罪を背負っているようで、なんとなく侑士は見ていられなかった。
「それより前に君だ。君の記憶を取り戻すために、最後の話題を用意してきた。……君は臓器くじについて知っているかな、つまり、覚えているだろうか」
「……よぉわからんけどものごっつい嫌な予感ならしますわ」
「説明しよう。ある健康な人達の中からくじを引いて当たった人を積極的に殺し、臓器を取り出して臓器提供が必要な人たち複数人に分け与えてより多くの人を救うのは良いことだろうかという思考実験だ」
「げぇ」
「いくつかルールがある。まず、くじは公平なものであり不正は行われない。ほかに臓器移植を求める人が臓器を得る手段はない。移植は必ず成功する。この場合、君はこれをどう思うかな」
「……一日目の囚人のジレンマやったか、あん時から思ってたんやけど。せんせぇ質問の趣味悪すぎひんか?」
「そうかもしれないね。もし答えたくないなら答えないでもいい。だがこれは君に関わる重要なことなんだ。答えてくれると助かる」
医者はじっとこちらを見つめ、答えを促す。どうやら逃れられないらしい。
「許されへんやろな」
「ほう?」
「いくら他の人が助かるったって、関係あらへん健康な人が殺される筋合いは無いですよね」
助かる複数人の命と殺されるひとりの命は決して秤にかけられるものではない。もちろん自分がくじに当たる側だったとしても受け取る側だったとしても──雷に打たれて記憶をなくしているいまはどちらかというと受け取る側なような気もするが──胸糞が悪くなる話であることに違いはなかった。
「では君がもし臓器の提供を受ける側だったとしたらどうだい?」
苦虫を噛み潰したような侑士の顔はより一層歪む。
「そないなことして助かったとして、おとんにしばかれるのがヲチですわ」
「君の父親はたしかわたしと同じく医者だと言っていたね」
「せや。うち医者の家系やからそういうことは昔っからうるさくてなぁ」
まっさらな記憶の奥底から糸を手繰り寄せるように、父親に関する思い出だけが掘り起こされる。ああ、きっと怒るだろう。人の生命と日々向かい合うあの人ならば、自分の息子のために無辜のいのちが散ることを、彼は必ず嘆くだろう。
父親がたまに口にするこうした話はあまり真剣に聞いてこなかった。けれど、自分はたしかに心のどこかで父親のことを尊敬していた。
「では君に臓器を提供するのが君の父親だったら? 息子のために自分の命を差し出すだろうか」
「分からん。分からんけど、オトンは俺の事きっと真剣に治そうとすると思います」
それはきっと。
「せんせも、一緒やんな」
父親は名医なんだと言い張るアユム。動けないほどの大事故に遭ってもなおも治る日のことを夢見て信じて疑わないアユム。
「お嬢ちゃんのこと、大事なんやろ。もうすぐ治るいうんは俺にはよぉ分からんけど。医者の子供としてなら分かる。せんせは、間違いなくよぉ頑張ってんで。それはきっと、お嬢ちゃんにも伝わっとるわ。……俺がお世話になるのは今日までかもしれへんけど、気張りや」
「……そうだな」
ここへ来て3日目だが、医者の張り巡らしていた緊張がはじめてふっと緩んだ気がした。
「午後には退院だ。わたしは今から退院の手続きをしてくる。……もしよかったら、アユムに会いに行ってやってくれ」
そう言うと医者は無機質な廊下の向こうへと消えていった。
「……忘れとったけど。俺、一応記憶喪失やんなぁ?ほんまに午後までに記憶が戻って退院なんてできるんやろか」
ひとり取り残された手術室で侑士は途方に暮れていた。
たった今最後の診療が終わって、てっきりそこでじっくりと自分の記憶について掘り起こすものだと思っていた。しかしどうだろう、実際は相変わらず気持ちの悪い思考実験をひとつしただけで戻った記憶は父親に関することだけだ。
そんな状態で退院だなんておかしくはないか? そもそも自分の苗字すら思い出せないし、家の場所もさっぱり分からない。
それに、今日の問答で確信を持った医者やこの場所に関する違和感の正体も結局分からずじまいだ。
「あ〜〜あかんわ。悪いほう悪いほうに考えてしまう」
なくとなくそれは自分らしくないような気がする。元々の自分なんて分からないが。
そうしてひとりで悶々としていると、ここ数日で聞き慣れた少女の声が聞こえてきた。
「あれ?お兄ちゃんどうしたの?」
「あっ、アユムちゃん。俺な、今日で退院やねんな」
「えっ、そうなの?もう治ったんだね!」
「いや、身体はともかく記憶の方はまだまだ全然なんやけど。せんせぇ……お嬢ちゃんのお父ちゃんがもう帰ってもえぇよって言ってくれたさかい、そうするほかないっちゅーか」
「そっかぁ。短い間だったけどユウシお兄ちゃんとお話するの楽しかったから、アユム寂しいなぁ」
たった3日間だけの交流だったが、アユムがあまりにも名残惜しそうなのでつい口から言葉が零れ落ちていた。
「ほなら今からお嬢ちゃんのお部屋行こか」
「ほんと?来てくれるの?やったー、うれしい!」
「ほんまやでぇ。ちょっと待っとってな」
病室は隣同士。ここへ来てからはじめて手術室のドアに手をかけ、開く。重い扉がガチャリと侑士の後ろで閉まる音がする。廊下は予想通り冷えきっていて、窓すらもない薄暗さにぞっとした。
一歩一歩踏みしめるように歩く。隣のドアまで十数歩。アユムがいるであろう部屋の前に立ち、コンコンとノックする。
「お嬢ちゃん、入るで」
「はーい」
扉を開けると、そこに"彼女"はいた。
薄暗い部屋の中央、ぼんやりとした明かりに照らされているそれは、人ならざる形をしていた。
いくつもの配線に繋がれている鉄の水槽。
その中心に浮かぶ脳。
到底この世のものとは思えない光景に対峙し、侑士は動揺した。
「ユウシお兄ちゃん! 来てくれたの?」
「アユム、ちゃん……?」
中央部分に据えられているスピーカーのようなものから"彼女"の声が響いている。
この病院に来てからずっと感じていた違和感のひとつひとつがこのアユムの姿に集約されているような気がした。
「ユウシお兄ちゃん、退院おめでとう。先越されちゃったな」
これが、アユムちゃんなんか……?
なぜ、どうやって生きているのかまったく検討もつかない。
「あれ、お兄ちゃん?どうしたの……? もしかしてアユム、ずっと入院しててベッドの上にいて、髪の毛も伸びっぱなしで汚くなっちゃってるかな。ごめんね、お兄ちゃん……」
アユムの悲しげな声が心の奥に突き刺さる。
「そんな、謝らんでええ! 謝らんでえぇよ、お嬢ちゃん。汚くなんてない。とっても綺麗やで」
きっとアユムは自分がこうなっていることを知らない。アユムの父親である医者はそのことを娘に悟らせないようにしてきたのだろう。
──こんなのあんまりやないか。事故に遭うて、身体うごかんようになって、学校も行かずになんも知らんと、このまま水槽の中で外の世界を夢見て一生を終える。
それは、想像を絶するほど哀しいことだ。
「そうなの……?」
「せや。やから、もしお嬢ちゃんが元気になって学校行けるようになったらモテモテやと思うわぁ」
なんとかしてこの娘を守らなければならない、と思った。
「アユム、かわいい?」
「かわえぇよ」
俺、こんな感情的な男やったかな。
取り戻しつつある朧気な記憶の中にいる自分は、いつもクールでマイペースであまり他人に踏み込まない人間だった。父親の転勤で何度も引っ越すうちに人とは距離を取って嫌われない程度には話すけれど深くかかわることは避けることを覚えた。
それは、深く踏み込むことで自分が傷つくのを避けるための処世術だ。
なのになぜ今自分はこうしてアユムのために涙を流しているのだろう。
「お兄ちゃん、泣いてるの……? どこか痛いの? 辛いの?」
「泣いてへんよ、お嬢ちゃん……泣いてへん」
滲む視界は何度瞬きしても変わらない。この少女の道に待ち受ける困難を思えば、止められるはずもなかった。
「ユウシくん」
思わぬ医者の声に反応する気力さえ湧かないほど辛い。この場から逃げ出してしまいたいのに体が硬直して思うように動かない。
「あ! お父さん! 今ね、ユウシお兄ちゃんが来てくれてね。お兄ちゃんしんどいみたいなの。お父さん、治してあげて!」
アユムの悲痛な叫びが病室に響く。
「お嬢ちゃん、大丈夫やで、お兄ちゃんは全然平気やから……っ」
平気じゃないのはアユムのほうだ。
「ほんとに? ほんとに大丈夫なの……?」
「アユム。少し、ユウシくんとお話があるんだ。少し眠っていてくれないか?」
「それは、アユムが聞いてちゃダメなお話?」
「ああ。大人の話だからね」
「でもお兄ちゃん、泣いてるの。アユム、お兄ちゃんのことが心配で……」
「アユム。おやすみ」
「え、ちょっと、お父さ……」
医者がアユムの入っている水槽に手をかけると、先ほどまでうっすらと光っていた電気が落とされ、アユムの言葉が遮られる。
「先生」
侑士は滲む視界の中で息も絶え絶えに医者の方を睨みつける。
「これはなんなん」
動揺している自分と、そんな自分のことを冷静に俯瞰して見ているもう一人の自分がいる気がした。
「自分、こんなことが許されると思ってんのか」
医者と対峙するのが怖かった。何かとんでもないことに巻き込まれているのではないかという予感が不快だった。アユムと他愛のないことを話している瞬間だけが気晴らしだった。
そんな長くて短い3日間のことを思い返す。
すべてはこのために仕組まれたことだったのか。
「許されようなんて思っていないさ」
ふと、水槽の隣のベッドに誰かが横たえられていることに気付く。暗くて顔がよく見えない。
「これがお嬢ちゃんの身体なん」
医者は静かに首を横に振った。
「じゃあ誰なん」
「これは、君の元の身体だ」
今更何を言われても驚かない。むしろ頭は冴え渡っており、淡々と医者に真実の提示を促す。
「元の身体……じゃあこの身体はなんなん」
「機械の身体だ」
「……雷に打たれて記憶喪失になったいうんも嘘か」
「ああ。本当は電気銃で君を撃って連れてきた」
電気銃。おそらく昨日金庫の中から出てきた異様な銃がそれだろう。
それにしても、今まで秘密にしてきたことをこんなにも簡単に明かしても大丈夫なのだろうか。それとももう自分は逃げ場のないところまで追い詰められており、死ぬ前にせめて本当のことを教えてやろうという情けなのだろうか。
「少し、昔話をしようか」
医者は神妙な面持ちで語り始める。
「2年前、事故に遭ってこの状況が出来上がった。そのことはアユムから聞いているね? ひどい事故だった。その時にわたしの妻、つまりアユムの母は死んだ。アユムもいつ死んでもおかしくない状態だったが、辛うじて脳の保存だけは成功した。幸いにもわたしには"そういうこと"ができる種族との交流があったのでね。それでわたしは急いでアユムの脳を移植するため機械の体を作った。しかし、遅すぎたのだ。機械の身体はアユムには適合しなかった! ……だから、探したんだ。アユムの脳と適合する人間を、機械の体と適合する人間を」
「それが俺やったっちゅうわけか」
「君の身体とアユムの脳の適合率は98%、そして君の脳と機械の身体との適合率は97%だった。2年探した。何人も何人も来る日も来る日も探し続けた、しかし両方の適合率の高い人間は現れなかった! 大半は両方とも適合率は低かった、たまに片方が高い人間が現れたと思って機械の身体に移し替えると目覚めた次の日には気が触れる! ……こちらの気が狂いそうだったよ。そんな時に君が現れた。君がくじに選ばれたんだ。君は臓器くじの話をしたときに苦しそうな顔をしていたがわたしにとって君は当たりくじだった。当たりを引いたわたしは狂喜乱舞したさ、やっと解放される! と。勝手に機械の身体に入れ替えて、その時の記憶だけ消して何も知らないまま君を返すことだってできた。……だがしかし、わたしの中に残る最後の理性がそれを引き留めた。後ろめたさと言ってもいいかもしれない。黙秘をして知らないふりを続けられるほどわたしは強くなかった。だからこうして君にすべてを自白している」
2日目の思考実験のことを思い返す。
昨日侑士はテニス部を例に出して答えた。ある学校のテニス部という概念はたとえ中の部員が全員入れ替わっても変わらない。中核となる思想や文化は確かに先輩から後輩へ受け継がれているからだ。
今、テセウスの船は自分だ。船のパーツは全て機械に置き換わった。しかし自分は「侑士」としてここに立って、思考して、対話している。
「わたしからの願いは一つだ。君の身体を、アユムに譲ってほしい。自分勝手な願いだとは承知している。だが、どうしても娘に身体を与えたいんだ。もしどうしても承諾できないと言うのなら……その時は元の身体に戻そう」
侑士は突然、自分の名前の由来を父親に聞いた幼い日のことを思い出した。普段はあまり入ることのない父親の書斎の重厚なドアを開き、なぁオトン、俺の名前ってどーゆー意味なん? 宿題で書かなあかんのやけど、と聞くと父親は侑士の頭を撫でながら語った。
うちは代々、医者の家系であること。
父親はその宿命を背負い誇りを持って仕事をしていること。
そして、人を侑たすけるのが自分の名前に込められた意味であるということ。
血によって継承される悠久の祈りに想いを馳せて、その末の自分に課せられた責任を思い出す。
気が遠くなるほど長い沈黙とため息を経て、侑士は静かに口を開く。
「譲るわ」
「え……?」
「譲ったる言うとるんや」
「しかし、」
「なにがそんな不安なんや! 自分が譲れ言うたから譲ったる言うとるやん、共犯者になったる言うとるやん! ……せやのに自分が驚いててどないすんねん」
侑士は医者に吐き捨てるように言う。
「だいたいな、自分の都合のいいことしか言わへんとこほんま好かんわ」
毒づく侑士のことを医者は見つめるだけで反駁することはなかった。それはすべてに対して疲れ切った脱力感を感じさせ、より侑士のことを苛立たせた。
「だってそうやろ? 囚人のジレンマん時は自白する言うたくせにいっちゃん大事なことはお嬢ちゃんに話されへん。身体を譲られるのはあんたやない、お嬢ちゃんや。せやのにお嬢ちゃんの気持ちも確かめんと自分のエゴだけで俺の身体譲れなんてそんな都合いいこと言うていいはずあらへんわ」
医者の弱さが許せなかった。アユムが真にほしいのは身体ではなく、親からの愛だ。それを蔑ろにしている時点で医者の言い分はすべて欺瞞だ。
「臓器くじの話ん時も言うたけど」
反応の薄い医者に近付く。医者が僅かに身じろぎするが、侑士はそれを無視して続ける。
「俺のオトンも医者やった。医局勤めやったから転勤ばっかで、いっつも帰ってくるんは遅ぅて、まぁ家庭からしたらいい父親かっちゅうと微妙なとこやった。せやけど、俺が遊んでほしい言うたら遊んでくれたし、宿題の面倒も見てもろたし、悪いことしたらどつかれた。そんで何より患者のことを大事に思っとった。普段は無口で無愛想やったけど、絶対にほんとのことから目を背けん人やった」
記憶の父親の輪郭をなぞる。侑士、何度も転校して寂しい思いしてすまんな、とばつの悪そうな顔をしていた父親がいる。
「俺はオトンのそういうところが好きやった。尊敬しとった。せやからあんたの言う"娘のため"は信じられん。お嬢ちゃんは俺とぎょうさん話してくれたし、少なくとも俺のことは嫌いやないと思う。やけど、もしそんな人にから身体を奪って元気になってって知ったらどう思う? 俺やったら生きていかれへんわ」
でも、と侑士は続ける。
「もしあんたが今ここで改心する、娘にすべてを自白する、っちゅうなら信じたってもええ。俺は医者の子や。将来何になるかはまだ決めるん早いと思うけど、俺の身体でひとりのお嬢ちゃんが救えるんなら、誰かを助けることができるなら譲ったってもえぇよ」
侑士の切れ長の瞳の奥を医者は縋るように見つめる。
「そうか……。君はわたしよりもずっといろんなことを娘のために真剣に考えてくれるんだね。自分が恥ずかしくなるよ。そうだね、君の言う通りわたしは間違っていたようだ。必ず娘に真実を伝えると約束しよう」
「俺かて約束したしな。お嬢ちゃんにチョコあげて、一緒にテニスして、デートするって。今まで2年間ずっと寝てた分やりたかった全部一緒にやろうって。それを反故にするほど俺は惨い人間やあらへん。……俺が、お嬢ちゃんに普通の幸せをあげたいだけや」
2年間。部活に、テニスに没頭してきた自分にとっては一瞬だったが、果たしてアユムにとってはどうだろう。子供は大人よりも長い時を生きるというが、今からそれが取り戻せるだろうか。
それは侑士の預かり知らぬところだ。止まったままの2年間をどうやって動かし始めるかは、この親子が決めることなのだから。
それでも、少しだけでも力になれればいいと思う。たまにアユムのところに顔を出して、お話をして。それがこの親子に対して自分ができる最大のことだろうから。
「……ありがとう。ありがとう、ユウシくん……君の身体、大事に使わせてもらうよ」
泣き崩れる医者の肩を掴み、顔を上げさせる。
「泣きなや。しっかりせえ。ちゃんと父親になるんやろ」
「ああ。そうだ……そうだな」
電気の落とされた水槽の方を見る。アユムの脳は律動し、彼女が本当に生きているのだということを思い出させる。
願わくば、お嬢ちゃんのこれからの人生に少しでも多くの僥倖在らんことを。
「おやすみ、ユウシくん」
医者が侑士の顔の前で手を掲げる。侑士の視界が暗転する。意識を手放す直前、アユムのおにいちゃんありがとう、という声が聞こえた気がした。
Epilogue
こうして、侑士の奇妙な3日間は幕を閉じた。
あの後寝ているあいだに医者に何かしらの施術を受け、今までの記憶すべてを取り戻した。そしてもちろん、あの病院での出来事も会話ひとつひとつが脳内で再生できるほど詳細に覚えている。
家に帰ったら3日間もどこにいたんだと親からこっぴどく叱られた。最近はあまり話すことも少なくなっていた父親すらも珍しく怒り気味で、それがなんだか嬉しくて家族に見られないようにこっそり自分の部屋で泣いてしまった。
あかんなぁ、機械の身体になって元の身体よりも涙もろくなってるんやろか。
今日は2月14日、バレンタインデー、時刻は16時の少し前。あの日、牢獄のような手術室でアユムとした約束を果たすため、侑士は病院の前に立っていた。
手には一箱の可愛らしいチョコレートと花束。レディにプレゼントをするなら花束くらい持っていけ、ついでにフォーマルな格好でキメていくのも忘れんなよ、と派手好きな仲間に言われた。──記憶を無くした時、真っ先に思い出した男だった。
病院に入って受付を済ませる。アユムの病室の場所はもちろん覚えている。
長い長い廊下をゆっくりと進み、一番奥にあるドアの前に立つ。前に来た時と気温は大して変わらないはずなのに、心なしか前よりもあたたかな気がした。
深呼吸をしてドアに手をかける。ノックをすると「はーい」という自分より少し高い声で返事が返ってくる。
重い引き戸を一気に引こう。そして、アユムの顔を見て満面の笑みでこう言うのだ。
「アユムちゃん、チョコレート持ってきたでぇ!」