夜明けの立願

目の前に広がる青い海。背後に連なるピンドス山脈から吹き下ろす風は、優しく頬を撫でて涙で濡れる肌を乾かす。

 ここはエーペイロス。ギリシア本土の北西に位置する国だ。

「これが私の新しい国……」

 城の部屋から海を見下ろす彼女は、四十路に入るか入らないかの年齢に見えた。しかし、彼女の実年齢は三十三歳である。その顔に刻まれた皺の数から、彼女がいかに壮絶な人生を送ってきたのかが伺える。

 それもそのはず、彼女は今までいくつもの国を渡り歩いてきた。亡国の王子の妃である彼女は、行く先々で酷い目に遭ってきた。そのたびに彼女の心を支えたのは、いつだって初めての結婚で出会った一人の男の存在だった。

「今度こそ、穏やかに暮らしたい。今度こそ、民が安心して暮らせる国を……」

 こんなことを自分が望んだところで意味はないのに。

 そんなとき、突然後ろに人の気配が現われた。

「アンドロマケ」

 彼女の三人目の夫の声だった。

「なぜ泣いているのだ」

彼女は押し黙っていた。この男は予言の能力を持っている。彼女が何も言わずとも、涙の理由は分かるはずだった。

「黙っていたら何も分からないではないか」

 そう言うと、彼は後ろから彼女を抱擁した。

「私が……」

 彼のほうを向こうとしたが、今から告げることを思って彼女はそれを取りやめた。

「私が、このエーペイロスに戦を持ち込んで滅ぼしてしまうような気がして」

 半ば諦めのように彼女は呟く。

「なぜそのようなことを言う」

 まさかそんなことを言われるとは思わなかった、というような声色で彼は問うた。

「私の、名前」

「え?」

 聞こえるか聞こえないかというほど小さな声で彼女は答えた。が、彼の耳にはそれが届かなかったらしい。

「私の名前。その意味、知っているでしょう?」

 アンドロマケーー男の戦い。彼女は自分の名によって国を滅ぼす戦いをもたらしてしまったのではないか、と常に思い悩んでいた。

「そんなことを。大丈夫だ、今度の国は必ず僕が守って、繁栄させてみせよう」

 違う、と思った。しかし、なにが違うのかは彼女自身にも分からなかった。


 眠りにつく前、たまに人肌恋しいと思うことがある。

 自分は確かに今の夫であり新しいエーペイロスの王でもあるヘレノスの腕に抱かれてはいるものの、心の中ではいつも満たされない思いを感じていた。

 ヘレノスは決して軟弱な男ではない。故国の王子であり、先の大戦でも予言者として大いに活躍した。しかし、彼女には勇敢で慈愛に満ちた先夫がいた。

 こうして眠れない夜は、いつもその先夫のことを思い出す。誰よりも祖国を愛し、かけがえのない日常を、人々の暮らしを守るために戦って死んだ男。彼には強さだけではない、誰もがついて行こうと思うような特別な魅力があった。

 もちろん、今の夫を貶すつもりは毛頭ない。先夫が死んで敵国に報奨品として連れて行かれたアンドロマケは、先夫を殺した男の息子の妾となった。しかしその男が死んだ後、奴隷として転落するところだったのを救ったのがヘレノスだ。彼は自分に求婚し、ついにはエーペイロスの王妃という身分まで与えた。感謝してもしきれない。だから、先夫とヘレノスを比べるのはヘレノスに失礼だ。そう頭の中で分かってはいても、どうしても先夫を忘れることはできなかった。

 まだ妻となるには若い時のこと。アンドロマケはギリシア本土のテーベから海を渡って先夫の元へ嫁いできた。知らない土地、知らない人の元へ一人で行くのは不安で仕方がなかった。夫となる人は自分に乱暴しないだろうか。民は自分を受け入れてくれるだろうか。食べ物は美味しいだろうか。王家の人たちは自分を虐めたりしないだろうか。目に入るものすべてが自分の天敵のように思え、足が震えた。

 しかし、そんな不安は彼と会ったその日のうちにすべて消え失せた。閨の端でひとり震えていると、いつの間にか部屋に入ってきた彼は優しく自分を包み込んでこう言った。

「遠くからの旅で疲れたでしょう。慣れない土地で不安も大きいでしょうから、今夜はしっかりとお眠りなさい。この部屋は私とあなた以外いれないようにしてありますし、部屋の外には誰も襲ってこないよう兵を置いてあります。眠れないようなら私が横で添い寝しましょう」

 彼が初夜を求めてこないことに私はひどく驚いた。なにせ相手は今日初めて会った、十歳以上も年上の男だ。どうせ自分のことなど情欲の相手としてしか見ないのだろうと踏んでいた。ところがどうだこの男は。いやらしい目で見るどころか、寝台に横たわったままただ私の髪を愛おしそうに撫でているだけである。恐る恐る閉じていた目を薄く開けると、微笑んだ彼の顔が目に入る。

「何も怖いものはありません。誰かがあなたを傷つけようものなら、私が守りましょう」

 彼はそう言うと、私の唇に触れるだけの優しいキスを落とした。突然の感触に私は肩をびくりと震わせた。

「驚かせてしまい、ごめんなさい。あまりにもあなたが美しかったので」

「そんな、美しいだなんて」

「ええ、美しいです。私が今まで見たどの女性よりも。この国の女性はみな、私を男として見る前に、王子としてしか見てくれません。あなたは初めて自分のことをまっすぐ見てくれた女性なのです。だから、あなたを傷つける人がいたとしたら、絶対にわたしはその人を許すことができないでしょう。あなたは私にとって、この国と同じくらい大切な人です」

 そう言いながら私を見つめる彼の目は夜空のようであり、底なしの井戸のようでもあった。強い輝きは同時に濃い影を生み出す。彼の瞳は彼のそういった姿を映しているようであり、強く惹かれた。

 彼が他界してから、眠れない夜が増えた。大きくて温かい彼の身体が恋しい。ああ、彼がまだ生きていたら!!

トロイアが滅んでいなければ!!



 懐かしい潮風、足元には波の音、見上げれば満天の星空。そして、目線を下げれば愛する男のシルエット。

 ここが現実の世界ではないことはすぐに分かった。なぜならこの風景はとうに滅びたはずのトロイアがまだ栄えていた頃のものであり、遠くの影は今は亡き先夫であったからだ。であれば、これはアンドロマケがつくりだした夢の中の世界に違いない。

「ヘクトル!!」

 たとえ幻想が作り出したものであっても、アンドロマケは彼の名を呼ばずにはいられなかった。

「アンドロマケ」

 彼は生前と変わらない落ち着いた低い声で彼女に応えた。そして、彼女のほうへ振り向くと、ゆっくりと歩みを進めた。

 アンドロマケはたまらず彼の元へ駆け寄った。彼が死んで数十年前、あれだけ会いたいと、一目でもいいから見たいと思い続けていたヘクトルが、目の前にいる!!

「なぜ泣いているのだ、アンドロマケ」

 自分でも気づかないうちに涙を流していた。長年切望した彼の腕に抱かれ、アンドロマケは今までの思いを叫ぶようにヘクトルにぶつけた。

「あなたが死んだあと、トロイアは滅びました。アステュアナクスは城壁の上から落とされて死に、わたしはあなたを殺したアキレウスの子、ネオプトレモスのものとなり、プティーアへ連れて行かれました。ネオプトレモスの妻であるヘルミオネに酷くいじめられ、ネオプトレモスとの子モロッソスを殺されました。ネオプトレモスが死んだあと、わたしはあなたの弟であるヘレノスの妻となり、今はエーペイロスの王妃となっています。しかし、今の今まで、あなたのことがわたしの頭のなかから離れたことは一度もありません。ああ、愛しいヘクトル!!あなたが生きていたら、と何度考えたことでしょう。わたしが今日まで心折れず生きてこれたのは、あなたが初夜に言った言葉のおかげなのです!!」

 ヘクトルはアンドロマケが話しているあいだじゅう、ずっと彼女を優しく抱いたまま、彼女の髪を撫でていた。そしてアンドロマケが話を終えると、彼女の目をみてゆっくりと語った。

「トロイアを、あなたを守ることができなくて、本当にすまなかった。あなたはあの夜の誓いをずっと信じてきてくれたのに」

 夜風がふわりと二人を包み体温を奪おうとする。しかし、抱き合った男女が寒さに震えることはなく、むしろ互いの身体を熱く紅く染めあげていた。

「ああ、わたしの愛しいヘクトル!!運命の荒波に揉まれ、わたしは今まで三人の夫を持ったけれど、あなた以上にわたしの心を満たした男はいなかった。新しい夫を得るたびにあなたのことを忘れようとしたけれど、その都度わたしの心がそれを許さなかったのです。『おまえが真に愛する男はただひとりヘクトルだけなのだ、それにもかかわらず忘れようとするとは、彼への裏切りに値する』と叫ぶのです!!」

 アンドロマケの声が夜の帳へと吸い込まれる。それから長い間、二人はただ抱き合ったままであった。だんだんと強くなる夜風にさらわれぬよう、ヘクトルがふたたび自分の前から消えてしまわぬよう。



 東の地平線が白みはじめた。それを目の端で捉えたヘクトルは、アンドロマケを離してこう言った。

「アンドロマケ、私はそろそろ行かねばならぬようだ。そしてあなたも、元の世界へ帰らねばならない。この世界は、太陽が昇りきったら崩れるだろう。しかし、あなたと私がここで会い、語ったという思い出は決して崩れはしない。私は冥土の土産としてあちらへ持って行こう。だからあなたも、現世へと持ち帰り、今までと同じように前を向いて生きてほしい。私は冥界と現世の境目であなたが天寿を全うする日まで待っている」

 そうしてヘクトルはアンドロマケの右手をとり、跪いて手の甲に口付けをした。アンドロマケはその姿を見て、寂しい思いを抱えながらも、どこか満足そうな表情を浮かべていた。

 太陽が上端を現した。アンドロマケは海に背を向けて歩く。彼女の後ろには、月の沈んだ方へ歩くヘクトルの姿があるのだろう。

 アンドロマケはゆっくりと一歩を踏み出し、心の中で誓いを立てた。

-愛する男は国のために戦い、死んだ。であれば、残された妻である自分は、彼に恥じぬように生きねば、冥界で彼に会った時に合わせる顔がないではないか。だから、生きていこう。エーペイロスの王妃として。新たな土地の民のために、できる限りの平和を、安らかな日々を。

 太陽へ向かって一歩一歩確実に歩んでいくアンドロマケの姿は、気高く、美しく見えた。

 そして、太陽が昇りきるまで、ついにアンドロマケとヘクトルは互いの姿を見ることはなかった。



 目を覚ましたアンドロマケは、自分の頬が濡れているのを感じた。隣で寝ているヘレノスを起こさないようにゆっくりと起き上がると、寝屋に風が入り込む。

 潮の香りだ。エペイロスのではなく、トロイアの海の匂い。

 そんなはずはない。先ほどまでのは自分が夢の中で作り出した幻想であるのだから。しかし、右手を見たアンドロマケは驚きのあまり声を失った。

 そこには、桃の花びらのようなキスの跡がひとつ。

 昨夜もその前の晩も、ヘレノスはアンドロマケよりも早く眠りについていたし、夫以外のものが彼女に触れることはない。

であれば、右手のそれは夢の中の彼以外に考えられない。

 そっと寝台から立ち上がり、テラスに出る。まだ陽はのぼったばかりで、夜風の残り香が肌を冷やす。

 それがアンドロマケのこれからの人生を象徴しているようで、城の高さも相まって彼女の足をすくませた。大きな瞳をそっと閉じ、幻の中の彼を追懐する。

ーー願わくば、自分が彼に並び立てるような立派な人になれますように。この街を、大切な人を、二度と失うことがありませんように。そして、彼の魂が未来永劫、救われますように。

 太陽に向かってひとつひとつ祈りを捧げ、アンドロマケは今の夫の隣へと戻った。起きるにはまだ寒すぎる。

 陽の光がエペイロスの山脈を照らしながらゆるゆると昇っていく。ひとりの女の立願は、そのきらめきの一部となって街の家々を暖めるのだろう。

 それは奇しくも、トロイアの大英雄ヘクトルの命日のことであった。