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アムド見所ガイド「ラツェ交換とユラ信仰」(2007年9月20日作成の記事)

写真1 山の神の依代となる「ラツェ」

写真2 村落内各氏族のコミュニティホール(マニカン)に見られる山の神の図像

昔書いたエッセイの中から、知られざるアムド地方の民間信仰を紹介する文章をここに転載します。

アムド地方では、ラサで制定されたチベット暦ではなく、漢民族の旧暦(農業暦)にカレンダーを合わせています。

旧暦六月にあたる初夏の時期、アムド地方はもっとも過ごしやすい季節を迎えます。この時期、各地に点在する村々で行われる最大の宗教行事は「ラツェ交換」です。ラツェというのは山の上に棲んでいる守り神のために村人が用意した社です。チベット語でこの守り神のことを「ユラ」(ほかにも色々呼称がありますが、ここでは便宜的にこれで一括します)と総称します。「ユ」は一定の境界をもった土地、「ラ」はラサのラ、つまり神様です。直訳すれば「土地神」ということになりますが、ここでいう「土地」はあくまでもある特定の人間集団によって継承されていく「テリトリー」を指しています。だから英語では"Territorial God"と訳されています。ラツェ本体は、「ヤンダー」(招福の矢)と呼ばれる先端を尖らせた長い木のポールを何本もまとめてひとからげにしたもので、一本ごとの形状は日本の神社でみかける破魔矢をでかくしたような感じです(写真1)。

アムド各地の村では、その村を構成する氏族グループ(ひとつの苗字を共有する集団)ごとに自分たちのユラを祀っており、その氏族の構成員(主に男性)が一年に一回、各々山頂に新しいポールを持ち寄ってラツェの化粧直しをします。これが「ラツェ・トパ」(ラツェ交換)と呼ばれる夏の風物詩的民間行事で、この行事が各地で一斉に、集中的に執り行われるのが旧暦六月なのです。

以下では、まずこのラツェ交換の目的と意味について、その儀式の受け手となるユラをめぐる文化事象を中心に紹介して行きます。具体的にどのような式次第であるのかについては、そのあとの事例紹介の部分に譲ります。

アムドにおいて、このユラの正体にはいろいろないわれがありますが、一般的にはそのテリトリー内に暮らす人々の最初の祖先だった人物、とされています。その人間が死んだ後、生まれ変わって山を棲家とする神霊になった、と考えられています。

チベットの村へ行くと、居住区のあちこちに、大きなマニ車を納めたお堂(マニカン)があるのを目にします。これらのお堂は年寄りたちの日々の日課であるマニ念仏の寄り合い所となるほか、折々の行事の際の共有スペースとして使われ、村の中の公民館的な位置づけをもっているのですが、その種の施設に行くと、たいていはその内壁に各氏族グループごとのユラの姿形が描かれているのを目にすることができます。その形象はさまざまで、猟師や呪術師、医者や学者、官服を着た文官風情のものもあれば勇壮な騎馬武者姿のものもあります(写真2)。

それぞれのユラには固有の名前がつけられており、それはそのまま集落の背後にそびえる山々の名称でもあります(たいていはアニ・~と名づけられています。「アニ」とはアムド語で父祖、お爺さんを指す敬称です。)もともと氏族の長をつとめた人物とされることが多いユラは、自らの末裔である子孫たちを災害や疫病、敵対集団などから守り、氏族全体の繁栄を約束してくれます。しかしその代わりに見返りも必要です。強い香りを持つ高山植物の枝葉を火にくべる「サン」(ユラはこの香煙が大好きです)や種々の穀物、お酒など、さまざまな供物を定期的に捧げることで、安定した守護―被守護の関係を築けると考えられています。これらの供物を怠って粗末にすると大変で、あえて畑に雹を降らせたり、家畜を蒸発させたりと、手に負えない報復を加えてくる、畏怖すべき存在でもあります。

ラツェ・トパはこうした守護―被守護の関係を確認し、さらに新たな一年に向けてその関係を更新・強化するための、年に一度の大切な儀式です。村人たちはただでさえ、日々の用水や木材、動物資源や冬虫夏草など、山からのさまざまな自然の恵みを受けて暮らしています。また、ラツェが交換される時期(地域によって日取りは違うのですが)は農業にしてみればこれから作物が伸び始める大切な時期であり、牧畜業にとっては家畜が精一杯草をはんで体を肥やす大事な時期に当たっています。このタイミングで天候不良や畜疫が襲ってきては一年の苦労が台無しです。平穏無事な生産活動の成就という願いを込める意味でも、氏族の成員みなでラツェのもとに集って、ユラに日ごろの感謝を捧げ、そのご機嫌を伺うことは重要なことだと考えられています。

ラツェ・トパ当日、各氏族グループはそれぞれの集団ごとに各自のユラがいる山に登り、1日かけて供物を捧げ、ラツェをお色直しするほか、競馬レースや相撲に興じて草地を駆け回りながらみなで飲食を共にし、初夏の麗しい一日を謳歌します(今カム系のミクシなどで話題真っ盛りの勇壮な競馬祭りも、もともとは山の神様に奉納するためのものです)。アムドの農業地区などは、狭い谷間に密集して集落を築いていることが多いので、この年に一度の機会に、普段はごちゃまぜでさっぱり把握できない村内の人間関係(特に「ルコル」と呼ばれる地縁集団と、「ヒャニ」と呼ばれる血縁集団がそれぞれ別個の互酬体系を築いているため複雑を極めている)が雲を払ったように突如整然と切り分けられ、よその国からきたわたしのようなビジターにも、彼らの集団の作り方が一目瞭然になります。

こういう状況は、実はわたくしのごときチベット系コミュニティーおたくにとってはかなりの快感です。こうした機会がなければ、あれだけの数の親戚や各種の儀礼単位が一個人とどのように結びついていて、実際にどのような力関係になっているのか、全体像を把握することは到底できないでしょう。無論彼ら自身には当たり前の自然な行動なのでしょうが、普段は表に顕在化しないチベット人の苗字(父系の骨名システム)が生活の中で脈々と生きており、しかも行事の運営が、予算面にしろ役割分担にしろ、完全に自律的で、内発的かつスムーズに進行していく様を見せ付けられると、日本にあっては自分の直近の親類縁者の名前や顔すらうろ覚えの、親戚づきあいに疎いわが身が強烈に相対化され、その鮮やかな手並みに改めて感心させられてしまうのです。

ところで、さきにお堂のところで述べたように、ユラの形象にはさまざまなバリエーションがあり、またその性質には善悪の両面があって、扱い次第では手に負えないたたり神にもなりうる、と述べましたが、ユラをめぐる文化事象に共通するひとつの勘所があります。それは、ユラたちはみな一様に仏教に頭が上がらない、という点です。大体、出家したお坊さんがユラにかかわる儀式の現場にやってくることはまずありえません。お坊さんの方が、生身の人間ではありますが、位は上なので、むしろユラの方がこれを敬して遠ざけるのです。

チベットの宗教的価値観では、仏教の戒律に従っている度合いによって生きとし生けるものの精神的序列が定まります。そこには人間の目に見える見えないは関係ありません。出家者が不殺生をはじめとする厳しい戒律に従っていれば、それだけその身は清浄に保たれていることになり、凡欲にまみれて生きている世俗の一般人よりも精神的なレベルが高いということになります。この出家と世俗の優劣関係は人間と精霊の関係にも適用されます。ユラは、本来的に供物さえ捧げればどんな無法な願いにも応じ、村落間の利権争いに絡んで敵対者の命を奪うことも辞さない戦闘的な一面を持っています。利他を行動の前提とする出家者の価値観からみれば、ユラの利己的で戒律に触れる振る舞いは世俗の欲望こそ満たすものの、本当の救いである「解脱」に向けた欲望の止滅からはかえって遠ざかっていることになります(これに絡んで面白い話があります。青海省貴徳県の山に棲む超メジャーなユラであるアニ・ユラは、特定の期日に生贄の黒ヤギを持っていってその場で首を切って心臓と血を捧げれば、企業の幹部に昇進する夢や大学合格の願いをたやすくかなえてくれると信じられています。これについてはまた後日改めてお伝えします)。それゆえ、人が本当によりよい来世に心を向けたときには、ユラのような世俗神ではなく、仏法とそのエキスパートである出家者に頼らなくてはなりません。こうしたことから、戒律の遵守度という属性に照らして言えば、出家者はユラよりも上位に置かれるのです。ただ、ユラは人間の何倍もの寿命をもち、パワーも機動力も優れて高いため、仏法のために働き、殺生などの不浄な行いを控えれば、有限な人間よりも飛躍的に功徳を積み上げ、輪廻から解脱するための境地に向上していくことができます。チベット各地にいる無数のユラの間でヒエラルキーの格差が生じるのは、もともとの土着の文脈もありますが、主にはこの仏法への従属度というパラメーターに関係があります。人間も精霊も、仏法のものさしによってその精神的到達度が計られることは共通しており、この両者の並行性が、チベットの宗教文化と自然環境の認知に著しい特徴を生み出しています。

もっとも、このような序列が、もともと外来の宗教である仏教がチベットに入ってきていきなりすぐに受け入れられたわけではありません。そこには行くたびかの紆余曲折がありました。しかし基本的には、この仏教優位の上下関係は古代吐蕃王朝の時代にそのモデルが確定したと考えられます。チベット人ならだれでも知っているインドのスーパーグル、パドマサンバヴァが、当時の王様に乞われて仏法を速やかにチベットに定着させるため、全土を飛び回って各地のユラをしらみつぶしに服従させていった、という伝説があちこちに伝わっており、これが動かしがたい勢力を持って民間に根を下ろしていることがその証拠とされます。ものの本では、パドマサンバヴァが入蔵した際、有名なニェンチェンタンラは長大な白い大蛇に、王家のユラであるヤルラシャムポは巨大な野ヤクの姿に変化してその行く手を阻もうとし、結局その呪術力の前にさんざんに打ちのめされて、それ以降はしぶしぶ仏法守護を誓った、と伝えます(どちらも現在の自治区に実在する同名の山の神様です)。

これは、仏教がインドから入ってくる過程で、自然神を崇める土着のポン教徒が大々的に反旗を翻したのを、顕教と密教を使い分けた秩序統制のシステムによって一挙にねじふせていった、という当時の政治的主導権交代のプロセスを寓意的に表現したものだと捉えることができます。要は、密教のカリキュラムによって修行した一個人の力が、自然の荒々しさを体現したユラのような土着神のエネルギーをはるかに上回り、社会を真に方向付けるのは自然への全面依存ではなく、仏教優位の体制である、という暗黙のメッセージがそこにこめられているわけです。ユラは原則として土地に縛られた神様であったため、その分閉鎖的な部族社会の因習を抱え込むことも多く、外から来た仏教はそうした社会的閉塞状況を打破する新しい統治原理として、当時の王権にも歓迎されたのでしょう。

だいぶ話が長くなりました。仏教とユラ・カルトの関わりについては、むしろ聖山巡礼の方でより大きくかかわってくることになるので、そちらの方を紹介する際にまた改めてお伝えする、ということにしておきたいと思います。ここまでをまとめておくと、要はラツェ交換という行事は、農牧業生産の安定と豊穣を願って、この時期アムド各地で頻繁に見られる民俗的宗教儀式である、ということです。またユラ・カルトというものは、本来的に土地のしばりと密接に結びついていて、それぞれの地域の集団構成に強くかかわっています。ですから、土地土地の昔の支配体制の遺習やら、外部の支配権力との関係を如実に写し取ったものにもなっている、というわけです。よくあっちの村とこっちの村のユラが実は兄弟関係で、とか、あの山と向こうの山とが夫婦である、とか、あるいは9とか13とかの象徴的数字でひとまとまりの神格セットになっていて、それがまたより上位の、よりメジャーなユラの家来である、と言い伝えられたりしているのは、そうした過去の社会構成の名残を写し取っている、と考えることができます。そういう村の言い伝えなんかを聞いていると、わたし個人としてはとても面白いです。村のお年寄りと話をしていると、自分の氏族だけでなく、近隣一円のユラの名前と姿形、そのいわれなどがごく当たり前の知識として頭の中に入っていて、それが他集団を語るときの代名詞のような機能を果たしていることがよく伝わってきます。

こうしたことから、チベット人はただ単にチベット高原に住んでいるから自動的にチベット人である、というわけではなく、まわりの環境に積極的に働きかけて、土地と自分とを意味のあるコードによって具体的に結びつけることを折に触れて実践してきたからこそ、総体としてチベット人であり続けてきたのであり、それがチベット社会の理解に一定の有効性を持つ、というような考え方があります。この点については研究書が出版されています[Buffetrille,K. & Diemberger,H. 2002 Introduction. In K.Buffetrille & Diemberger,H. (eds.), Territory and Identity in Tibet and the Himalayas, Proceedings of the Ninth Seminar of the IATS, 2000, Volume 9, Leiden, Brill: pp.1-22.]。

さて、ここからは実際に山の儀礼を見に行くときの参考になるように、具体的な事例を挙げておきたいと思います。

以下紹介するのは、アムドの極東部の一角に位置する「ホァリ」と呼ばれる地域の実例です。ホァリは現行の中国の行政区分では「天祝チベット族自治県」に区分けされている地域で、毎年六月十五日(今年は7/28)に行われているラツェ交換のローカルな事例について紹介します。

甘粛省の天祝チベット族自治県では、毎年旧暦六月十五日がラツェ交換の日になっています。シルクロードにまたがっているこの地域は漢民族との接触の最前線で、現在でこそ県内人口の三割弱しかチベット族はいませんが、ほんの百年前までは良質な牧草地が広がる牧畜民の天下でした。

天祝のチベット族はアムドの中でも幾分浮いた存在らしく、「李さん」とか「馬さん」とかの漢字姓を持つ人が普通にいる上に、チベット語も満足にしゃべれず、民族服も着ず、清明節にお墓を拝んだりして、漢化の見本市のようになっている、と見なされがちなのですが、実際にはこの地域にはアムドの他の農業地域などに比べて古い文化がかなり濃厚に残っています。中でも天祝方言はアムド諸方言の中でもかなり古層の要素を残す言葉で、発音もゴロクあたりの牧畜民としゃべっているのかと勘違いするほどクリアーで雅やかです。今でも県西部の山の上の方で牧畜を細々と続けている牧民に会いに行くと、そうした古い時代の牧畜系チベット語を耳にすることができます。

このような古い時代の名残は、山の信仰にも残っています。天祝地域のチベット人「ホァリワ」は、古くから大通河という河川流域に分布して牧畜を営んできた部族集団です。青蔵高原の周縁部に古くから住んでいる多くのチベット系部族同様、このホァリワもまた、吐蕃の時代に辺境防備軍として派遣されてきた部隊の末裔であるという祖先伝承をもっています。そのころ、部族は13の氏族グループにわかれていて、それぞれの族長によって治められていたそうです。この13人の族長が死後、山に祭られてそれぞれの地域の守り神となったものが、現在「大通河十三峰」(ジェラク・トンボ・ジュスム)と呼ばれているセットになったユラたちです。

ここでは、この13のユラの中から、大通河のほとり、青海省と甘粛省の境目に位置するチョルテンタン地区にそびえるアニ・ラプザンという山で行われるラツェ交換について見てみます。アニ・ラプザンを信奉しているのは、「トプツァン」という名前の氏族グループで、彼らはアニ・ラプザン周域に開けた峡谷のあちこちに集落を形成して半農半牧の生活を営んでいます。このトプツァンは内部でさらに8つの支族に分かれているとされ、年に一度のラツェ・トパの日には、普段甘粛省と青海省側にばらばらに分かれて暮らしているトプツァン氏族のひとたちが三々五々、各自のヤンダーを携えて山に登ってきます。

3500m近い山頂には直系6mを超える巨大なラツェ(写真3)が置かれており、人々は山頂に到着するとまずヤンダーを傍らの地面に刺して並べ、サンとツァンパを取り出して、すでに先着の人たちによってもうもうと焚かれている焼香台の上にくべます。さらにお酒やビスケットなどのお菓子、あるいはミルクやバターなど畜産品を供物として火の上に投げ込みます。その際「サンゾォーサンゾー」というまじないを数回唱えます。もっと本格的な人は、酒ビンを片手に持って、その中にサンの細枝を浸して、時々その枝を中空に振り上げて酒のしずくをあたりに振りまきながら、「サンチョ」と呼ばれるユラの勧請のための経文を早口で唱え、自作の「トルマ」(ツァンパの生地を羊などの動物の形にこねあげた供物)をボンボンと火の中に投じいれます(写真3)。

それからみんな一斉に三回ずつ五体投地をして、地面に刺したヤンダーを抜き、今度はラツェの周りを酒やルンタを振りまきながらぐるぐる廻り始めます。「ハーギャロー!」(神に勝利を!)と叫んだり、「キーホホホホ!」という意味不明な奇声を発して何回かラツェのまわりをにぎやかに周回した後、おもむろにヤンダーをラツェの束を囲っている木組みの台座の中に投げ込みます。この地域のラツェ交換は、アムドの多くの地域で見られるような、一回ごとに古いヤンダーを取り除けて新しいものに取り替える方式ではなく、そのまま古いものの上に付け足していく方式です。ですからラツェは年々大きくなって行くことになります。どんどんと新しいヤンダーが放り込まれていって、一通り投げ入れてしまうと、ラツェのあちこちに吉祥のしるしであるカタクや赤い布、羊のウールの固まりなどを巻きつけます。ラツェが崩れかけているところには羊毛で編んだ粗い目のロープを巻いて補強します。このままどんどん大きくしていって、巨大になりすぎて崩壊してしまったら、また新しいラツェの台座を作って、またそこにつけ足していくことになるそうです。ラツェはあちこちを駆けずり回って人々の願いのために奉仕しているユラにお出でを願うときの宿り場になる大切な場所ですから、丹精込めて美しく飾り、めでたい様子に仕上げて喜んでもらわなければなりません。

このようにしてラツェ・トパの化粧直しが終わると、今度は草原の思い思いの場所に散らばって、お酒を酌み交わしたり、羊肉のスープを飲んだりして、しばらく会わないでいた人たち同士で旧交を温めあいます。競馬レースに興じたり、踊りを踊って楽しむ人もいます。もともとこのラツェ近辺の草原を夏の放牧地としている近隣のひとたち(やはり同じ集落に属する人たちですが)は自分たちのテントを臨時の小売店にして、お茶やビールを販売したり、食事を提供したりします。付近にはいろいろといわれのある小さな聖地のような場所があって、そこにおまいりに行く人もいます。また、「ツェタル」と呼ばれる風習があって、山頂までつれてきた羊や牛などの家畜を、ラツェの前でアニ・ラプザンに捧げます。捧げるといっても生贄にして殺すのではなく、逆にその家畜の命を神様にゆだね、飼い主はこれを食用にせず、毛も刈らず、老衰して自然死するまで大切に面倒を見る、という誓いを立てます。つまり山の神様に対して「放生」をするのです。この際には畜群の中でも優れて健康で、毛並みが良い一頭を選び、耳たぶに穴を開けて布切れをつけるなど、他の一般家畜から聖別化するためのしるしをつけます。これは、家族の中に病人がいてその病気平癒を祈ったり、なにか個人的にかなえて欲しい特別な願い事があるときにそれを聞き届けてもらうために行います。動物供犠の代用供物である先のルンタやトルマと合わせて、「不殺生」のスタイルが行動の規範となっているわけです。これは、アニ・ラプザンが仏教の戒律に従って修行に励んでいる、半分出家したような身分の神様であると考えられているところから来ています。

面白いのは、この地域には清朝末期からの回族反乱の影響で、多くの漢族やトゥー族が避難民として流れ込み、開墾者としてチベット族と混じって同じ集落の中で生活してきたため、ラツェ・トパにもこれらの人たちが混じって参加するということです。彼らの多くは、互助や楽都、さらに永登や古浪などの地域から入植してきた人たちです。当時のトプツァンの慣習法では、外から移住してきた人間は、必ずアニ・ラプザンに服従の誓いを立てなくてはならない、と定められていたそうです。そうでなければ定着することは許されなかったといいます。また、彼らは農耕に長けた入植者として山麓の平地を開墾し、居住区と放牧地との中間に耕作地を広げていくと共に、チベット族の生業である牧畜にも参画し、今でも山の上でたくさんの家畜を飼っています。山の神様の信仰は狩猟や牧畜などの生産活動を支える基層的な技術や感覚と密接に関わっていますから、もともとユラ・カルトのような民俗信仰をもたない漢族などの移住者も、周辺環境から多くの恩恵を受け、山のエネルギーに触れて暮らすうちに、ごく自然とユラを敬う作法が身についていったということでしょう。この次元では、民族の間に分け隔てはなく、生業の無事と繁栄、という観点からみながひとつの場所を宗教的に共有している状況が見渡せます。このような山の上での多民族共存状況は、ホァリのほかにも化隆や貴徳、夏河などのアムド辺縁地域で普遍的に見られる光景となっています。

ラツェ・トパの儀式全体はこのあとも数日間にわたって続けられます。隠居した年寄りなど、特に用事のない人は一週間も続けて山の上でのんびり過ごすそうです。もっとも最近は、この地域にも近代化の波が急速に及んできており、町への出稼ぎや運転手などの副業にいそしむ人も多いため、特に若い人を中心に、ヤンダーだけをラツェに収め、人々との交流もそこそこに下山して都会に帰っていく参加者も多く見られます。彼らは普通の村人と違って、むしろ都会での自分の商売がうまくいくように、そのための縁起かつぎの一環として山に登ってくるように思えます。村人の生活が近代化の中で多様化していくと共に、神様に捧げられる祈りの内容もさまざまに分岐していくことは避けられない事態です。アムドの他の地域の事例として聞いた話ですが、最近ではラツェ・トパの際に、ユラに古いバイクや車の部品を備えたりする人がいるそうです。村人の願い事が多様化し、人の移動も激しく、広域化しているため、昔のように馬に乗っているのでは間に合わない、神様にも便利な近代科学の恩恵を享受してもらわなければ、というような考えの表れなのでしょうか。あるチベットの友人は、それならラツェに使わなくなった中古の携帯電話を供物として捧げればいい、そうすれば神様同士連絡が取れあって、助けの必要な人のところにスムーズに駆けつけてくれるだろうから、と冗談をいって笑っていましたが、あながちそのような感覚で供物を捧げるようになる日も近いのかもしれません。

考えてみれば、このラツェ・トパをはじめとする山の宗教儀式自体が復活してまだ20年ほどしかたっていません。文化大革命の時期には、村人の一部が率先してラツェを山から撤去し、ユラ・カルト自体を愚かしい迷信として排撃した経緯があります。改革開放後、ふたたび宗教信仰に一定の自由が与えられてから、ラツェを土台から新しく作り直し、そこにアニ・ラプザンを迎える儀礼を、村人総出で執り行ったということです。ラツェを土台から作り直す場合には、これまたたくさんの供物とさまざまな宗教的手続きが付随するのですが、これについて書くにはまたかなりの長い説明が必要になってくるので、また別の機会にゆずります。

以上のように、ラツェ・トパは初夏の楽しいピクニック、といった雰囲気を横溢させつつ、生業活動の無事成功という祈願をこめて行われるものであることが見て取れると思います。六月は甘粛のはじっこから青海黄河源流域の奥の奥まで、あちこちでこの儀式が執り行われます。ゴロクやジェクンドにいっても、タイミングさえあればラツェをお色直ししている場面に出くわすことができます。本来競馬祭りの最初に行われるものですから、注意深く地元のひとたちの動きを見ていれば、これから彼らがひとところに集まって内輪で盛り上がろうとしている様子が察知できると思います。個人的には、郷単位以下の小さな集団で行われるラツェ・トパに参加すると、組織化された大規模なそれよりも小回りの効いた交流ができて楽しいと思います。現在あちこちでやっている競馬祭りに付随するラツェ・トパは、どうも政治的に組織されすぎているような気がして、かえって興ざめな部分が無きにしもあらずです。無論、政府主催の競馬祭りにはそれはそれで豪壮な魅力があることも事実ですが、ローカルな文脈でひっそりと営まれている小さな集まりに参加してみるのもなかなかオツなものです。持ち寄られるお酒や食べ物も、自家製のどぶろくやここだけの郷土料理、といった種類のものがあって、その素朴なおいしさに感動を味わえること確実です(写真4)。

とりあえず、山の上を見て、木のポールをたばねたような妙なオブジェがあったら、そこがチベット人が住んでいる土地、ということになります。アムドをあちこち旅していて、平地の都市から高地へ移動したりするときに、どのあたりからラツェが山の上に現れ始めるか、逆に平地に降りるときにどの地点から山の上にラツェが見られなくなってくるか、を観察していると、ただ単にバスにのって移動している時でも、車窓からみえる限りの景色の中に、モザイク状になって広がっている多民族状況の仮想地図を思い浮かべることができます。車がひた走る幹線道路からはるか見晴るかす谷向こうの村では、今まさに山の上の見晴らしのいい場所に以前のラツェを復活させようと、村人たちが神の山から切り出したご神木を削っている最中かもしれないし、あるいは逆に、向こうの痩せ細ったハゲ山の上では、村人に見限られた非力なユラの古びたラツェが風に吹かれて朽ち果てていっている最中かもしれません。茫漠と連なる峰々の頂に結び合わされた民族間のダイナミズムと文化的興亡の「対局譜面」、それがラツェという天地の狭間に置かれたモニュメントが全体として描き出す構図であり、現在的な民族間関係のひとつの鮮やかな表象なのです。


(Bessho Yusuke/カルマ・ギャムツォ)

2007/9/20作成,2018/5/11再掲

注記:本サイトに使用されている写真画像は著者本人が撮影したもので、その権利は著作者に帰属します。文章・写真とも、無断での転載・複製はお控えください。

写真3 ツァンパ(はだか麦の粉)とバターを使って捏ね上げた代用供物。写真は羊型のトルマ。

写真4 ラツェトパを終えてくつろぐ参加者たち