東京新聞 10回連載 私の東京物語

東京新聞 10回連載 私の東京物語 2016-9-20~10-3

〇1~10 全タイトル

私の東京物語 ①

ルーツはインパール作戦

私の東京物語 ②

MPにつかまった兄

私の東京物語 ③

新青梅街道の秘密

私の東京物語 ④

恋しちゃならない関公園

私の東京物語 ⑤

吉村昭が命名した学習塾青桐学園

私の東京物語 ⑥

吉祥寺と三鷹と太宰とメリイクリスマス

私の東京物語 ⑦

高田馬場、後期青春グラフィティ

私の東京物語 ⑧

父の銀座・私の銀座

私の東京物語 ⑨

神田神保町の古書店で漱石の肉声を聞く

私の東京物語 ⑩

漱石の声がする本郷


〇1~10 全原稿


私の東京物語 ①

ルーツはインパール作戦

銀座村松時計の池袋工場の時計職人だった父は、二十七歳で召集され、凄惨を極めたインパール作戦に出征した。

過酷な進軍に耐え切れず、父曰く、「泥水すすってマラリアになり、死んでやろうとした」が、皮肉にも軍隊生活は父の体を強靭にし、願いはかなわなかった。

降伏後イギリス軍の捕虜となる。収容所では捕虜たちの演劇会が開かれ、父は舞台の背景描きを担当。その際知り合ったピアニストの鷲見(すみ)五郎さんの紹介で、帰還後、原宿表参道の伊藤病院の看護婦長と見合いをした。私の母となる人だ。

母は長野の望月の出身。伊藤病院で大空襲にあう。雨霰の焼夷弾により、表参道のケヤキ並木が松明(たいまつ)のように燃え盛った。その中、重い往診鞄を携え、若い看護婦の手を引き、折り重なる黒焦げの亡骸を尻目に、明治神宮と青山墓地の間を右往左往し、九死に一生を得た。

父は生来のシャレ者で、藤田嗣(つぐ)治(はる)張りのおかっぱ頭にチョビ髭を生やし、毛髪を脱色し赤くしていた頃もある。田舎育ちで真面目一方の母は、父の都会的な軽薄に心眼を曇らせ結婚を決めた。

母の軽率のお陰で兄と私は生まれ、一家は武蔵小山の借家で過ごした後、六十年前私が一歳のときマイホームを西東京市にて入手。保谷公団住宅。十坪の庭付きのテラスハウスだ。

私の東京物語の幕が開いた。

私の東京物語 ②

MPにつかまった兄

今から半世紀前のこと、私の住む保谷団地の十坪の庭は、愛犬ボンには運動場、兄と私には実験場として機能した。

当時中一の兄は親の目を盗み、庭でロケット発射実験に勤しみ、私は立会人となる。糸川英夫のペンシルロケットの成功が、兄の開発魂に火を付けた。

兄のはペンシルサックロケットだった。アルミ製の鉛筆のサックを使い燃料は…。詳述を避ける。小学校二年の私の夏休みの絵日記は、実験成功をこう伝える。

「おにいちゃんのロケットが やねをこしてはたけのほうにとんでいったので、ぼくはびっくりした」

長じて都立高校の校長を歴任した兄は、実は少々危ない少年だ。といっても昔の子供の遊びは総じて危険で、近隣の東伏見の防空壕の探検もその一つだった。

防空壕といえば、当時自宅の周辺には、不発弾が数多く埋まっていた。近くに中島飛行機があったからだ。零戦の製造工場を壊滅すべく、B29が数千の爆弾を武蔵野、西東京一帯に投下。戦後中島飛行機の敷地は撤収され、グリーンパークと呼ばれたアメリカ軍の将校住宅が建った。

そんな状況下、兄は夏休みのある日、またひと騒動やらかした。アメリカ軍の将校の赤いスポーツカーに、自転車で正面衝突。バンパーが凹んだ。兄と自転車は無傷。小銃を肩にかけたヘルメット姿のMPがジープで駆け付け大騒ぎとなる。 

結局兄はお咎(とが)めなしで解放され、私はほっとするとともに、一撃を食らわせた兄を、なんだか少しだけ誇らしく思った。


私の東京物語 ③

新青梅街道の秘密

西東京市立保谷小学校のクラス会に参加した。半世紀ぶりに会ったケンカ相手がニヤニヤしながら近づいて来て、いきなり苦情を訴えた。

「税金が高くて困ったもんだよ」

彼は農家の長男。当時クラスに一、二割は農家の子がいた。私のような都心からの新参者と地元育ちとの軋轢が生じた。私は彼を叩いた記憶があった。おそらく資産数十億を持つだろう彼の税金話は、半世紀越しの意趣返しだった。人生はお金じゃないと思っても、意表を突く一撃を食らい戦意を喪失した私は、悄然として「高いのか」と答えるばかりだった。

彼をその日の勝者たらしめた要因は、西東京市の広大な畑の急速な宅地化と新青梅街道開設のための用地買収だった。畑の下には札の束が埋まっていたのだ。

ところで、その新青梅街道の地中には、今は私の大切なものがある。思い出だ。のび太は空き地の土管に腰かけた。私はそれよりも何十倍も大きな水道管の中で遊んだ。一つが直径三メートル、長さ五メートルほどの東洋一と謳われた水道管は、格好の遊び場だった。無論立ち入り禁止になっていた。しかし当時の子供たちは、柵は乗り越えるために、鉄条網はくぐるためにあると信じていた。

埋設を待つ巨大な水道管の中で大声で叫んでみた。管の内側の湾曲をどこまで駆け上がれるか競争した。自転車で乗り込み、サーカスのように管内を一周できるか挑戦して転倒した。

自宅近くの新青梅街道を踏みしめるたびに、あの日を思い出す。


私の東京物語 ④

恋しちゃならない関公園

 「ここであの釜本がものすごいシュートを打ってキーパーが捕ったんだって」

 「やるじゃん、そのキーパー」

 「それがさ、捕ったはいいけど両手の指の股が全部裂けて血だらけになった」

 半世紀前地元の子供たちは、今もある東伏見の早稲田大学のサッカーグラウンドを横切る際、そんな伝説を口にした。そして、隣りの武蔵関公園、通称関公園にクチボソやザリガニを捕りに向かった。

 その後都立石神井(しゃくじい)高校に進学した私は、勉学を極力控えてバスケットボールに熱中し、ひょうたん池を囲む関公園を、格好のトレーニング場として頻繁に利用。時折見かけるアベックに、心の中で指を加えながらトレーニングに励んだ。

 高校の授業で一番辛かったのは数学だったが、先生は好きだった。「男はつらいよ」の笠智衆さんそのままだった。朴訥であたたかで、真面目でユーモラス。授業中必ず一回唐突に人生訓を交えた。

 「この間関公園で、我が校の生徒だと思われる男女が手をつないで歩いておった。若いうちはあんなことじゃいかん。将来大したものにはなれん!」

 女子からクスクス笑いが漏れた。私は実にいいことをいうと感心したが、将来大物になれなくてもいいとも思った。

 私たち地元の若者たちは、だいたい関公園か隣りの石神井公園か、やや離れた井の頭公園で探し物をして大人になる。

どの公園にもクチボソやザリガニが隠れているし、大きなコイもすぐに見つかる。釣り上げるのは難しかったけれど。


私の東京物語 ⑤

吉村昭が命名した学習塾青桐学園

 昭和三十年代西東京市に住んでいた作家吉村昭は、近所の学習塾の様子が気になり塾長を招いた。子供たちが皆期待に輝く目をしていたのでその訳を知りたかったからだ。以来二人の親交が始まる。

そしてある日吉村氏が「青桐の葉のそよぎ」と書いた色紙を持参し、「これだ」と塾長に勧め、名無しの学習塾は青桐学園と命名された。私も小六から四年間目を輝かせてここに通い、長じてからも私は塾長をもう一人の親と慕い続けた。

塾長は麻布中学の出身。北杜夫や小沢昭一の少し後輩になる。作家や名優を輩出した同中学にはユニークな先生が多かったようだ。

あるとき、私が四十を過ぎてから覚えた「foget-me-mot」の意味を塾長に聞き困らせようとしたら、「忘れな草だろ。常識だよ」と涼しい顔で答えた。私は悔しくてなぜ知っているのかと尋ねると、中学時代一時間、忘れな草の特別講義があったという。そんな楽しそうな授業は非常識、反則だと思った。

塾長の授業も斬新だった。国語の時間にビアスの「悪魔の事典」を真似た。「女とは」と出題され、中一の私には何の連想も沸かず考えこんでいると、塾長は他の塾生の名答を紹介した。「女とは ワナ」。私は塾長の授業が楽しみになった。

 その後昭和六十年代、同塾が最盛期を迎えた頃突然閉園。青桐の家と改称し、北海道洞爺湖畔に小中学生の寄宿施設を開き、国内留学の先駆けの一つとなる。受験体制の強化に伴い、逆に子供たちの学力が低下し、目の輝きが失われてきたことに危機感を抱いたのが、閉園、開設の動機だった。


私の東京物語 ⑥

吉祥寺と三鷹と太宰とメリイクリスマス

 JRの三鷹駅と吉祥寺駅の間ぐらいの所に、山本有三記念館がある。大正末期に建てられた、暖炉や石積みの煙突がオシャレでかわいい本格洋風建築だ。小学校のときの遠足コースだった。

 結婚後、種子島育ちの妻をここに案内したら、幼い頃ランプのホヤを磨き、小川に水汲みに行っていた彼女は愕然し、「大正時代にこんなステキな家が…。やっぱり東京はすごい」と驚嘆したので、「恐れ入ったか」と言おうとしてやめた。

 とはいえ近隣の子供には、昔は三鷹も吉祥寺も、今ほど面白くはなかった。楽しみといえば、吉祥寺名店会館ぐらいなもの。六階建ての雑居ビルで、屋上に遊戯施設があり、三角の高い広告塔が、吉祥寺のランドマークとなっていた。

 ヤンチャな友達に誘われて、会館の屋上のゲーム機で遊んでいたら、急に後ろめたさに襲われ、耳としっぽが生えロバになりはしないかと心配になった。

 山本有三のみならず、吉祥寺や三鷹が、太宰治も親しんだ由緒ある文化エリアだと知るのは、大人になってからだった。

 「三鷹駅南口をまっすぐに百メートル、川岸にウナギ屋がございまして、そこの主人公に尋ねると、私の居所がかならず判明いたします」

 こんな太宰の私信が指し示すのは、三鷹駅近くの玉川上水沿い、今は風の散歩道と呼ばれている小道の途中だ。

 太宰はここらへんでいつもウナギを肴に飲み、哀感に満ちたとても美しい短編「メリイクリスマス」を書いた。

いつかそれも妻に教え、また恐縮させてやろうと考えている。


私の東京物語 ⑦

高田馬場、後期青春グラフィティ

 三十余年前私は、無謀な選択をした。

高田馬場の倒産寸前の編集プロダクションの社長に、「オレの所で編集長をやらないか。仕事はある。借金も一億ある」と誘われ、迂闊にも承諾した。

以前世話になった社長に、義侠心を発揮したい衝動にかられた。そして私は、未来を楽観するための根拠もわずかに見出すことができた。偶然にもプロダクションの隣室にこぐま社の創設者、和田義臣さんがいたので、験(げん)がいいと思った。

和田さんは私の恩師の知己で面識もあった。そして父の書棚の『学校劇の事典』をふと見ると、挿画、中川正と父の名があり、学校劇作家の紹介欄には和田さんの氏名と住所があった。和田さんとの不思議な機縁は父のときから始まっていた。

すでに隆盛を極めていたこぐま社にあやかって、自分の賭けに勝てそうな気がした。予感は的中し、紆余曲折はあったがプロダクションは再興した。

後年、夏目漱石の書簡に心酔した私は、かつてすごした高田馬場、ならびに隣接する早稲田に、約百年前、漱石と門下生らが織りなすドラマが存在したことを知った。あるとき漱石は寺田寅彦への手紙にこう書いた。

「きのうは留守に来て菓子を沢山置いて行って下さいまして まことに難有(ありがと)う存じます あの時は男の子を二人引き連れて高田の馬場の諏訪の森へ遊びに行っていましたので失礼しました」

 諏訪神社の森も、編集長を安請け合いして先行きが見えず不安な頃、昼休みによく独りで散歩したコースの中にあった。


私の東京物語 ⑧

父の銀座・私の銀座

 父は戦後間もなく読売広告社に就職した。イラストを描き、文字を各種書き分け造形も行い、草創期のテレビのタイトルのデザインや、銀座一丁目の自社の大きな広告ウインドーの発案、制作、飾りつけを担当した。

 ふざけた人で、打ち合わせのためスポンサーから、できたばかりの東京タワーに呼ばれても、高所が嫌いという理由で断った。故に出世はできず部下も持てず、七十歳で完全退職するまで、独り会社の狭いアトリエに幽閉された。

 しかし父は、遊びの分野ではトップリーダーだった。俳人西東三鬼を呼んで社内で句会を始め、近所の実業之日本社で挿絵を描き小遣いを稼ぎ、同社の編集者と麻雀に興じた。そして昼休みは銀パチに連日通い、宴会となれば褌(ふんどし)一つになり、太鼓腹に絵を描き裸踊りで主役になった。あの植木等を彷彿とさせるものがあった。

そういえば、父はレコードを遺した。タイトルは「よみこう音頭」。作曲はいずみたくで作詞は中川凡児(父の俳号)とある。一九六六年、読広の二十周年記念に制作された社歌だ。針を落とすと明るく元気な昭和が聞こえる。

 父が暴れたそんな銀座に私が足を踏み入れたのは二十代後半。今はCM総合研究所として知られる会社でライターの仕事をもらった。TOTOの広報誌を担当し、高級な住居に設置された温水洗浄便座を取材した。いかに豪華できれいでも、人様のトイレをほめながら話を聞く仕事は、少しだけ悲しかった。父のような華々しい活躍はできず、銀座での勝負は私の完敗だった。


私の東京物語 ⑨

神田神保町の古書店で漱石の肉声を聞く

 大学に近かったので、神保町にはよく通った。といっても古書店ではなく「人生劇場」という名のパチンコ店。勝ったときには、大事な時間を浪費した後悔を薄めるために、景品の中から本を選ぶのが常だった。今座右の書棚にあるゴーリキーの「どん底」もその一冊。

 神保町の古書店街を繁く訪れるようになったのはものを書き始めてからだった。仕事に関係あってもなくても、面白そうな本はつい買ってしまう。自慢の一冊は昭和六年発行の『ボビー・ジョンズのゴルフ』。グラビアも豊富な豪華本だ。ただし、ショットのインパクトの写真は奇怪にもクラブがすべて消え、当時のカメラの性能の限界を物語る。

それにしても、昭和六年にマスターズの創始者が書き下ろした技術解説の翻訳本が存在し、定価五円、今の約五万円で買う人がいたというのは驚きだ。どんな歴史書を読むより、時代の一端に直に触れる気がして大変興味深いものがある。

 そして、神保町で得た仕事に関係する最も大切な古書は、昭和九年発行の『作法文範古今名家書簡文大集成』だろう。文豪たちの手紙文の評論を書くために、神保町の古書店すべてを回ったとき、最後の店で私を待ち伏せていた本だ。藤村のお礼状、白秋の転居通知、漱石の暑中見舞いなど、数百人の文豪、名士の生活の手紙が掲載されている。

 文豪、名士たちの手紙は本人の魅力的な生の声だ。わけても夏目漱石の肉声は他の文豪たちに勝って楽しい。もっといえば、彼自身のどの作品にもまして、私を愉快に興奮させたのだった。


私の東京物語 ⑩

漱石の声がする本郷

 写真家土門拳(どもんけん)が仏像を自然光で撮っていたときのことである。アシスタントのレフ板の準備が遅れたので、「仏像は走っているんだぞ」と、彼は一喝したという。夕刻の日差しの変化は仏像の表情の急速な移ろいをもたらす。その注意を詩的に伝え、一(いっ)刹那(せつな)のシャッターチャンスを逃すまいとしたのだった。

 そんな写真家の箴言を載せた写真雑誌を作ってみたかった。そこで知友を通じて、本郷壱岐(いき)坂(ざか)上の広告代理店の酔狂な社長に提案したら、奇特なことに、即決で勝算の薄い雑誌を始めてくれた。

 私は文豪たちの書簡の評論を書き進める一方で、写真雑誌の編集者兼ライターとして本郷に通った。写真とは本来どうあるべきかを読者とともに考える大げさな仕事ができればと大望を描いた。

 企画がまとまらないとき、本郷あたりを散歩し、かつて同じ道を歩いた夏目漱石の足跡に靴底を重ねてみた。 

すると彼の手紙が思い出された。

 「画が御望みならひまな時に何かかいて上げますが私のは画というよりも寧(むし)ろ子供のいたずら…その子供の無欲さと天真が出れば甚(はなは)だうれしいのです」

では、技術を磨く必要はないのか。それにも漱石は手紙の中で答えていた。

「書でも画でもかきなれないと一通りのものは出来ず、又書きなれると黒人(くろうと)くさくなって厭(いや)なものです」

 写真もまったく同様に思え企画のヒントがつかめ、心が少し晴れやかになった。

 東京に耳を傾けると、慕わしい人たちの声が聞こえる。この地に降り積もる膨大な懐かしい記憶が、私の小さな危なっかしい物語を頼もしく支えている。