文豪たちの手紙の奥義 もくじ・本文 立ち読み資料

書籍『文豪たちの手紙の奥義』 もくじ・本文 立ち読み資料

〇もくじ〇


 目   次

  

 はじめに 3

第一章 心に響かせる「愛の手紙」 9

 夏目漱石 ──「おれの様な不人情なものでも頻りに御前が恋しい」 10

 樋口一葉 ──「私しは唯々まことの兄様のやうな心持にて」 19

 有島武郎 ──「一度私を泣かせて見せて下さい」 27

 芥川龍之介──「そうしてkissしてもいいでしょう」 35

 高村光太郎──「ゆうべはそれはそれは大変な夢をみました」 43

      

第二章 人柄があらわれる「挨拶の手紙」 53

島崎藤村 ──「秋の深さを一緒に送って頂いたように思いました」 54

 幸田露伴 ──「あやしきものを製造つかまつりましたれば」 61

 国木田独歩──「雀のおしゃべりにおこされ申候」 69

 尾崎紅葉 ──「大雪々々! 御地はどうか知らねど」 76

第三章 気配りが大事な「おしらせの手紙」 83

 織田作之助──「遂に大デブと結婚というはしたなきことに」 84

 森鴎外  ──「モウ十ネルトカエリマス」 91

 中原中也 ──「今大学の近所の小さなカフェーで飲んでいる」 97

 梶井基次郎──「僕はこの忍耐強い精神で生きてゆきます」 105

 志賀直哉 ──「私も男だと思うといい、カケになりませんでした」 111

第四章 命がけで書く「もう一つの愛の手紙」 119

 谷崎潤一郎──「今度からは泣けと仰っしゃいましたら泣きます」 120

 佐藤春夫 ──「僕はあなたのためになら命の外なら何でもすてる」 127

 北原白秋 ──「今度逢わばお前様を殺すか」 136

 斎藤茂吉 ──「写真を出して、目に吸いこむように見ています」 144

第五章 人生を切り拓く「お願いの手紙」 153

 太宰治  ──「芥川賞をもらえば、私は人の情に泣くでしょう」 154

 石川啄木 ──「金十五円許り御拝借願はれまじくや」 162

 種田山頭火──「新年早々不吉な事を申上げてすみませんが」 171

宮沢賢治 ──「あの田舎くさい売れないわたくしの本」 179

第六章 私たちも参考にしたい「手紙の心得」 187

一、「書き出し」の工夫 191

二、「時候」に心を託す 198

三、「終結」の妙味 205

四、「追伸」の効き目 212

五、「筆短情長」の戒め 219 

終 章 「まごころ」を伝えるために 225

 

 あとがき 233



〇本文〇


「おれの様な不人情なものでも頻(しき)りに御前が恋しい」

夏目漱石(三十四歳)から妻・鏡子(二十四歳)への手紙

(明治三十四年五月八日付)

夏目漱石(なつめ・そうせき)慶応三年(一八六七)~-大正五年(一九一六)享年四十九歳。小説家。代表作は「吾輩は猫である」「こゝろ」など。森鴎外と並び称される、明治・大正期を代表する文豪の中の文豪。女性問題のゴシップがなかった数少ない作家の一人。教え子や後輩の同性にはよくモテた。

 

夏目漱石は、熊本で迎えた新婚当初から、妻鏡子(きょうこ)と連れだって散歩や買い物に行くことを避けた。当時、英語教師として熊本第五高等学校に赴任していた漱石は、「生徒に見られていやだ」った。冷やかされるのが嫌いな照れ屋だったのだ。江戸時代の最末期、今の東京・早稲田に生まれた江戸っ子漱石らしいエピソードだ。

そして漱石は、結婚直後に二十歳の新妻を遠ざける薄情な関白宣言までしている。

「俺は学者で勉強しなければならないのだから、お前なんかにかまっては居られない。それは承知していて貰(もら)いたい」(夏目鏡子述、松岡譲筆『漱石の思い出』)

 恋愛経験が少なかった堅物(かたぶつ)の漱石が、新婚生活に臨んで浮き立つ自分をの戒めたのかとも思われるが、こんな宣言を喜ぶ新妻は、古今東西一人もいない。

 とはいえ、やはりそこは新婚、仲の好さを示す情景の一つぐらい、どこかに残されているだろうと探してみると、鏡子本人のこんな話があった。

「私は昔から朝寝坊で、夜はいくら遅くてもいいのですが、朝早く起こされると、どうも頭が痛くて一日中ぼうっとしているという困った質でした。新婚早々ではあるし、夫は早く起きてきまった時刻に学校へ行くのですから、何とか努力して早起きをしようとつとめるのですが、何しろ小さい時からの習慣か体質かで、それが並外れてつらいのです。……時々朝の御飯もたべさせないで学校へ出したような例も少なくありませんでした。そこでこれではいけないというので、枕元の柱に八角時計をもって来てねていますと、チンと半時間打つ度に驚いて起き上がったりする滑稽を演じなどして、結局眠り不足と気疲れとで、ほんとにしばらくの間ぼんやりしていました」(同前)

 寝ぼけ眼(まなこ)のいたいけな新妻に対して漱石は、東京早稲田に生まれた江戸っ子漱石らしいエピソードだ。

 とはいえ、やはりそこは新婚、仲の好さを示す情景の一つぐらいはある。鏡子本人がこんな話をしている。

「私は昔から朝寝坊で、夜はいくら遅くてもいいのですが、朝早く起こされると、どうも頭が痛くて一日中ぼうっとしているという困った質でした。新婚早々ではあるし、夫は早く起きてきまった時刻に学校へ行くのですから、何とか努力して早起きをしようとつとめるのですが、何しろ小さい時からの習慣か体質かで、それが並外れてつらいのです。……時々朝の御飯もたべさせないで学校へ出したような例も少なくありませんでした。そこでこれではいけないというので、枕元の柱に八角時計をもって来てねていますと、チンと半時間打つ度に驚いて起き上がったりする滑稽を演じなどして、結局眠り不足と気疲れとで、ほんとにしばらくの間ぼんやりしていました」(同前)

 もっとも、寝ぼけ眼(まなこ)のいたいけな新妻に対して漱石は、

「お前はオンタンチンノパレオラガスだよ」(同前)

と、同情なくからかった。

オンタンチンノパレオラガス、または、オタンチン・パレオロガスは、「吾輩は猫である」にも出てくる。オタンチンは、まぬけの意の江戸俗語で、これに東ローマ帝国最後の皇帝コンスタンチン・パレオロガスの名をかけたしゃれである。

鏡子は、貴族院書記官長などの要職にあった中根重一の子で、尋常高等小学校卒業後は、学校へは行かずに家庭教師を雇って家で勉学にいそしむ。純然たるお嬢様だった。家事は雇い人がやること。早起きする必要がないから、その習慣もなく、早起きが不得意なのだった。

 漱石の鏡子に対する口の悪さは、ロンドン留学中に鏡子に宛てた手紙にも多く見られる。

御前の手紙と中根の御母さんの手紙と筆(ふで)の写真と御前の写真は五月二日に着いて皆拝見した 久々で写真を以て拝顔(はいがん)の栄(えい)を得たが 不相変(あいかわらず)御両人とも滑稽(こっけい)な顔をして居るには感服の至(いたり)だ 少々恥かしい様な心持がしたが先づ御ふた方の御肖像をストーヴの上へ飾つて置た すると下宿の神さんと妹が掃除に来て大変御世辞を云つてほめた 大変可愛らしい御嬢さんと奥さんだと云つたから 何日本ぢやこんなのは皆御多福(おたふく)の部類に入れて仕舞んで美しいのはもつと沢山あるのさと云ってつまらない処(ところ)で愛国的気焔(きえん)を吐いてやつた 筆の顔抔(など)は中々ひょうきんなものだね 此(この)速力で滑稽的方面に変化されてはたまらない                     (明治三十四年五月八日付)

                  

せっかく送った写真に対して、「不相変御両人とも滑稽な顔をして居るには感服の至だ」とは憎らしい減らず口。その上、愛娘の筆をつかまえて、「此速力で滑稽的方面に変化されてはたまらない」とは、なんという言い草。ユーモアがあふれた楽しい言い方だが、毒舌ににはちがいない。江戸っ子の悪口雑言(あっこうぞうごん)は日課のようなものだが、それにしても度が過ぎる。この手紙を受け取って喜ばなかった人々の顔が、まざまざと思い浮かぶ。

 こんな仲であるなら、漱石はなぜ鏡子と結婚したのか。理由はこうだ。

「あの女は、歯並びが悪くて、汚い歯をしている癖に、一向に、それを隠そうともしないところが気に入った」(夏目伸六『父・夏目漱石』)

 長所と短所は表裏一体。おおらかさには、いい面も悪い面もある。漱石は鏡子の個性を好み、また憎んだのだろう。

 そもそも漱石は、夫婦の関係というものを、どう考えていたのか。それをわかりやすく伝える文章がある。漱石の門下生の一人、野間真綱(まつな)に、こんな手紙を書いた。野間は新婚で、夫婦問題に悩んでいた。

「夫婦は親しきを以て原則とし親しからざるを以て常態とす」(明治四十年七月二十三日付)

夫婦は結婚するぐらいだから、基本的には親しいのだが、日常表面的には親しくない、という意味だ。

これは、漱石結婚十年後の感想だった。そして、こう続ける。

「君の夫婦が親しければ原則に叶ふ 親しからざれば常態に合す いづれにしても外聞はわるい事にあらず」

 夫婦が親しくても親しくなくても、原則か常態には合うのだから、世間体は悪くない、取り立てて問題はないじゃないか、と言っている。

 この漱石の言い分は、屁理屈の匂いもするが、冷静な見解だ。

しかし、漱石の妻に対する思いは、実際にはもう少し感情に支配されていたようだ。ある手紙でこんなことを言った。

「細君は始めが大事也(なり)。気をつけて御(ぎょ)し玉(たま)え。女程いやなものはなし」(同前)

漱石夫婦の日々は、漱石が言う常態にあったことを隠さない。

 とくに留学から帰国した頃、漱石の精神状態は不安定の度を増し、夫婦仲も最悪となった。結果、しばらく別居した。

「つまり両方で神経衰弱なんだ。帰りたいというなら、そんならかえってくるがいい。が、大体中根の家では子供を甘やかせて我儘に育て過ぎる。だから鏡子なんぞもあのとおり我儘(わがまま)で、自分のやりたい放題をやる」(『漱石の思い出』)

これがその別居前の漱石の言い分だ。

対して鏡子は、漱石の精神の病とそれを元とする家族への虐待を伝えるが、それは日本男児の悲願とも言える暴君ぶりだ。

「或る晩夕飯を食べていますと、子供が歌をうたいました。するとうるさいというが早いか御善をひっくりかえして書斎に入ってしまいました」(同前)

 別居を含めた夫婦のせめぎ合い、どちらに分があるか、実際のところは知る由もないし、分の多寡(たか)を計ることの無意味も感じる。

 だが、そんな漱石が、ロンドン滞在中に鏡子へ出した長い手紙の中にこう書いた。

「おれの様な不人情なものでも頻りに御前が恋しい」 

渡英以前の夫婦の歴史を背景にして眺めると、なんだか妙だ。

このフレーズの違和感を強調するために、これまでに示したエピソードを選りすぐったわけではない。すでに紹介した夫婦仲が、全結婚生活の平均的状態と言える。それが証拠に、この手紙の前段にも、ややぎくしゃくした夫婦仲が見える。

「国を出てから半年許(ばか)りになる 少々厭気(いやけ)になって帰り度(たく)なった。御前の手紙は二本来た許りだ 其後(そのご)の消息(しょうそく)は分らない 多分無事だらうと思って居る 御前でも子供でも死んだら電報位(ぐらい)は来るだらうと思って居る 夫(それ)だから便りのないのは左程心配にはならない」

 漱石はもちろん、温かな言い回しのできる人で、そうした知人、友人への手紙も多数ある。なのにこの言い草は、いじけて、ふてくされている。

そして、「お前が恋しい」といった後も、夫婦の間のいつもの横柄も忘れない。

「頻(しき)りに御前が恋しい 是丈(これだけ)は奇特(きとく)と云って褒(ほ)めて貰(もら)わなければならぬ」

 恋しいという思いはなかなか感心だろう、ほめろ、と請求しているのだ。

 漱石のロンドン留学生活は、最初からすぐに困難を極めた。明治三十三年十月末にロンドンに着いた漱石は、留学生活四カ月にして、「早く日本に帰りたい」と漏らしている。

孤独と金欠。さらには妻から思うように手紙が来ないという不満。二年間の留学期間が終わる頃には、神経衰弱が高じ、いよいよ頭をやられてしまったという噂が日本にも伝わった。かくして欧州在住のある邦人関係者に対して国から、「夏目ヲ保護シテ帰朝セラルベシ」という電信文までが飛んだ。後に漱石自身この時期を、「尤(もっと)も不愉快の年間なり」と振り返る。

精神的に疲労困憊(こんぱい)して、漱石はうっかり「御前が恋しい」と言ってしまったのか。あるいは冷静な頭で戦略的に使った言葉なのか。どちらかは決めにくいが、少なくともこの一通以外には、現在知られている漱石の書簡二千五百余通の中に、鏡子本人へ「恋しい」と書いたものもなければ、第三者宛ての手紙の中で、鏡子のことを恋しいと書いたものもまったくない。漱石関係者の多くの証言の中にも、恋しいという言葉を使った漱石の発言やそれに類する言葉を、聞くことはできない。

一生に一度の告白。稀有(けう)な自白の一つだった。

揶揄愚弄(やゆぐろう)、悪口雑言(あっこうぞうごん)、罵詈讒謗(ばりざんぼう)の海原に浮かぶ、一枚(ひとひら)の優しい言の葉の効き目は、いうまでもなく強く大きい。

 女性はこうした一言を心に刻み、自分の一生を捧げることがある。女性はこれを言質(げんち)として胸にとどめ、その後男性を牛耳り、猛威をふるうこともある。どう効くかは、場合と人による。

鏡子がどちらとして受け取ったか、あるいは両方として利用したか、実際のところはわからない。しかし、動かせない事実がある。漱石、鏡子は、二男五女を授かった。

十五年間に七子。これは、おそらく一つの真実を物語っている。漱石の一言が、夫婦仲に幸いしたのは、まちがいない。

大切な言葉を一度だけ、いつどこで使うのか。愛の手紙を書くときにふまえたい、かなり重要な注意の一つだ。