夏目漱石の手紙に学ぶ 伝える工夫 もくじ・本文 立ち読み資料
夏目漱石の手紙に学ぶ 伝える工夫 中川 越 著
〇もくじ〇
第一章 あいさつの手紙
■〔近況報告〕旅信
霧を角切りにして缶づめにして日本へ持ち帰りたい〔現代語訳〕
(霧を角切りにして缶詰(かんづめ)にして日本へ持帰度(もちかえりたい)〔原文〕)
――珍しい風物をできるだけ具体的に紹介する
■〔近況報告〕赴任先の近況
近頃女房がもらいたくなりましたので田舎者を一匹生け捕るつもりです〔現代語訳〕
(近頃女房が貰(もら)い度(たく)相成候(あいなりそうろう)故(ゆえ)田舎(いなか)ものを一匹(いっぴき)生檎(いけど)る積(つもり)りに御座候(ございそうろう)〔原文〕)
――素直、シンプルを基本にし、ときどきやせ我慢をまじえる
■〔感想の手紙〕家族写真を送ってもらった感想
このスピードで面白い方向に顔が変化していったらたまらない〔現代語訳〕
(此(この)速力(そくりょく)で滑稽(こっけい)的方面に変化されてはたまらない〔原文〕)
――ユニークな表現で、生き生きとした感想を伝える
■〔お礼の手紙〕作品をほめてもらったお礼
博士(はかせ)に推薦(すいせん)されたり勲章(くんしょう)をもらったりするよりも、はるかに勝(まさ)るありがたみです〔現代語訳〕
(博士(はかせ)に推挙(すいきょ)されたり勲章(くんしょう)を貰ったり(もら )するよりも遥か(はる )に優る(まさ )難有味(ありがたみ)に候(そうろう)〔原文〕)
――ときには感情的でおおげさな表現が深い礼意を強く伝える
■〔お礼の手紙〕好意へのお礼
お礼を言うその一方で失礼も言います〔現代語訳〕
(御礼をいう傍(かたわ)ら失礼も云います〔原文〕)
――失礼を恐れず正直な感想をまじえ誠意を伝える
■〔お礼の手紙〕贈り物へのお礼
大きな鮎をたくさんいただきました。とてもうれしく〔現代語訳〕
(大きな鮎(あゆ)を沢山(たくさん)頂戴(ちょうだい) 甚(はなは)だ以(もっ)てうれしく〔原文〕)
――ちょっと大げさなぐらいにはじけて喜ぶ
■〔承諾〕レコード録音の承諾
漱石の声を録音に来たと聞いたらびっくりして目を回すだろう。〔現代語訳〕
(漱石の声を詰めに来たと聞いたら吃驚(びっくり)して目を舞わすだろう。〔原文〕)
――承諾の返事だけでなく、愛想よく楽しい話もサービスする
■〔承諾〕値引きせずを承諾
絵は百円から一厘も引けぬとのお言葉、尊敬しながら承知しました。〔現代語訳〕
(画は百円より一厘も引けぬとの仰敬承しました。〔原文〕)
――条件をつけない承諾が理想で、承諾した理由があるとさらにいい
■〔季節のあいさつ〕暑中見舞い
私は朝から晩までサル股一つですごしています〔現代語訳〕
(私は早から晩までサル股一つでいます〔原文〕)
――暑さを言い合い、無事を伝え、健康を祈る。
■〔季節のあいさつ〕年賀状
恭(きょう)賀(が)新(しん)年(ねん) 夏目金之助 一月一日 東京牛込早稲田南町七番地〔現代語訳〕
(恭(きょう)賀(が)新(しん)年(ねん) 夏目金之助 一月一日 東京牛込早稲田南町七番地〔原文〕)
――自分の気持ち合った、賀詞とデザインを選ぶ
■〔通知〕猫の死亡通知
昨夜いつの間にか裏の物置のかまどの上で逝去(せいきょ)いたしました〔現代語訳〕
(昨夜いつの間にか裏の物置のヘッツイの上にて逝去(せいきょ)致候(いたしそうろう)〔原文〕)
――感情をまじえずにシンプルに事実だけを伝える
■〔通知〕本の送付通知
倹約(けんやく)してお金をおためなさい。時々拝借にうかがいます〔現代語訳〕
(倹約(けんやく)をして御金(おかね)を御(お)ためなさい。時々拝借(はいしゃく)に出ます〔原文〕)
――通知以外にいろいろな話をまじえると、さらにていねいな印象になる
第二章 行動をうながす手紙
■〔依頼の手紙〕調べものを依頼する
いやだ、などといったら、卒業論文に零(れい)点をつける〔現代語訳〕
(いやだ抔(など)というと卒業論文に零点(れいてん)をつける〔原文〕)
――脅迫(きょうはく)めかして依頼すると、効果的な場合がある
■〔依頼〕仕事の依頼
君の筆で雅やかで面白いものをかいてくださればとても幸せです〔現代語訳〕
(君の筆で雅致(がち)滑稽的(こっけいてき)のものをかいて下されば幸甚(こうじん)と存候(ぞんじそうろう)〔原文〕)
――相手の自信をさりげなくくすぐり、イメージをはっきりと伝える
■〔依頼の手紙〕手伝いを依頼する
君は手伝いに来てくれるだろうね 伝四君、どう思う〔現代語訳〕
(君は手伝いに来て呉(く)れるだろうね 伝(でん)君(くん)以(もっ)て如何(いかん)となす〔原文〕)
――急がずあわてず、まずニヤリとさせてからものを頼む
■ 〔誘いの手紙〕 友人を観劇に誘う
一人ならそんなに行きたくもない〔現代語訳〕
(一人ならそんなに行き度(たく)もない〔原文〕)
――行先よりあなたの方が大切だとそれとなく強調する
■〔誘い・勧誘〕海水浴に誘う
ちょっと行って黒くなろうじゃありませんか〔現代語訳〕
(一寸行って黒くなろうじゃありませんか〔原文〕)
――楽しさを想像させる軽やかさ明るさ、興奮が必要
■〔案内の手紙〕牛肉を食べる会への案内
牛のほかにはなにも食べるものなし〔現代語訳〕
(牛の外(ほか)に何の食うものなし〔原文〕)
――通信事項を正確に伝え、シンプルに会の魅力をアピールする
■〔招待・案内〕食事への招待
粗末な台所のあり合せのもので、夕飯をさしあげたく存じます〔現代語訳〕
(寒(かん)厨(ちゅう)あり合せ(あわ )のものにて夕飯(ゆうはん)差上度候(さしあげたくそうろう)〔原文〕)
――気楽に来られるように、ぎょうぎょうしさを排除する。
■〔紹介〕仕事の紹介
君が生活に困るかと、君に頼まれもしないのに、少し心配していた〔現代語訳〕
(君が衣食に困る事をたのまれもせぬに少々心配して居た〔原文〕)
――おしつけがましくならないように細心の注意を払う
■〔紹介〕人物紹介
悪人ではなさそうだというぐらいです。〔現代語訳〕
(悪人ではなさそうだという位です。〔原文〕)
――いい所も悪い所も隠さずに、ていねいに依頼する気持ちで紹介する。
第三章 思いやりの手紙
■〔アドバイス〕世の中についての考え方を教える
世の中は自分の想像とはまったく正反対の現象でうずまっている〔現代語訳〕
(世の中は自己の想像とは全く正反対の現象でうづまっている〔原文〕)
――わかりやすい言葉で自分の体験をもとにして説得する
■〔アドバイスの手紙〕金に対する心構えのアドバイス
金さえ見れば何でもするようになります〔現代語訳〕
(金さえ見れば何でもする様(よう)になり候(そうろう))〔原文〕
――相手の浮かれ気分をそこねないようにわかりやすく教える
■〔お見舞い〕火事見舞い
もし見当違いだったら、ひたすらお許しを願います〔現代語訳〕
(もし見当違いだったら真平御免下さい〔原文〕)
――相手の不安をいたわり、こちらの心配を伝える
■〔お見舞いの手紙〕病気見舞い
むやみに高い本はいけません〔現代語訳〕
(無暗(むやみ)に高い(たかい)本(ほん)は不可(いけ)ません〔原文〕)
――さりげないユーモアがなによりの薬になる
■〔お見舞い〕病人が病人を見舞う
早くよくおなり。お見舞いに行ってあげようか。〔現代語訳〕
(早くよく御なり。御見舞に行つて上げやうか。〔原文〕)
――ユーモアが相手を安心させ、深い感謝を伝える
■〔お祝い〕結婚祝い
評判になった女とは、とてもうらやましいかぎりだ〔現代語訳〕
(浮名(うきな)の立った女とは大(おおい)に羨しい(うらやま )次第(しだい)だ〔原文〕)
――改まったお祝いと気楽なお祝いを使い分ける
■〔お祝い〕出産祝い
あかん坊が生れたそうでおめでとうございます〔現代語訳〕
(あかん坊が生れたそうで御目(おめ)出(で)とう御座(ござ)います〔原文〕)
――相手の喜びに身をそわせて共に喜ぶ姿勢が大切
■〔忠告の手紙〕強すぎる敬愛をなだめる手紙
私の言うことはお互いのために未来で役に立つと信じています。〔現代語訳〕
(私のいう事は双方(そうほう)の為(ため)に未来で役に立つと信じています。〔原文〕)
――急ぐ気持ちを鎮(しず)めるために必要なのは清潔なやさしさ
■〔忠告の手紙〕原稿を批判されてしょげている人への忠告
障子を一枚開け放ってみなさい。春風は思うままに吹くだろう。〔現代語訳〕
(障子一枚をあけ放って見よ。春風は自在に吹かん。〔原文〕)
――相手の不満に同情し、激励しながら注意をうながす
■〔弔事〕お悔やみ
なんともご愁傷(しゅうしょう)のことと はるか遠くからお察しいたします〔現代語訳〕
(何(なん)とも御愁傷(ごしゅうしょう)の事(こと)と遥察致候(ようさついたしそうろう)〔原文〕)
――ルールから離れて自分なりの作法で弔(とむら)うのもよい
■〔感想〕作品感想
自分の事は棚へ上げて未来の君のために一言するのです。〔現代語訳〕
(自分の事は棚へ上げて君のために(未来の)一言するのです。〔原文〕)
――正直な感想は必要だが、自尊心を傷つけないように十分注意する
第四章 書きにくい手紙
■〔断り〕借金を断る
申し訳ないけれども今貸してあげる金はない〔現代語訳〕
(折角(せっかく)だけれども今借(いまか)して上(あ)げる金はない〔原文〕)
――貸せない理由だけでなく激励のアドバイスも伝える
■〔断りの手紙〕原稿依頼を断る
あなたの顔を立てたいのは山々なのですが〔現代語訳〕
(大兄の顔を立てたいのは山々なれど〔原文〕)
――やむをえず断るという根拠をていねいに伝える
■〔断りの手紙〕転職の紹介を断る
こんなやつらを増長させたら世の中のためにならないから辞めない〔現代語訳〕
(こんな奴等(やつら)を増長(ぞうちょう)させては世(よ)の為(た)めにならんからやめぬ〔原文〕)
――断る理由を熱くていねいに伝えるのが礼儀
■〔抗議〕不本意な肩書きへの抗議
私は明治大学からからかわれているような嫌(いや)な気持ちになります〔現代語訳〕
(私は明治大学から愚弄(ぐろう)されているような厭(いや)な心(こころ)持(もち)になります〔原文〕)
――冷静に礼儀をわきまえ、品位を保って依頼する
■〔抗議の手紙〕不親切に抗議する
大変なことを話さないで帰るのはひどい〔現代語訳〕
(大変な事を話さずに帰るのはひどい〔原文〕)
――抗議、愚痴は、相手への関心の強さを伝える手段にもなる
■〔お詫び〕身内の不始末のお詫び
小宮は馬鹿ですからどうぞ気にしないようにしてください〔現代語訳〕
(小宮は馬鹿ですからどうぞ取り合はないように願ひます〔原文〕)
――相手の怒りをごもっともと認めながらも、きっぱりと善後策を示す
■〔お詫び〕返却・返済の遅れのお詫び
もっと早くお返しするつもりでいました〔現代語訳〕
(もっと早く御返し(おかえ )致す積(つもり)で居ました(い )〔原文〕)
――冷や汗を流しながらご機嫌をとろうとする努力と誠意が必要
■〔お詫びの手紙〕預かっていた手紙の紛失を詫びる
あんなうつくしい手紙を見たら泥棒(どろぼう)も改心(かいしん)して善心(ぜんしん)に戻るだろう〔現代語訳〕
(あんなうつくしい手紙を見たら泥棒(どろぼう)も発心(ほっしん)して善心(ぜんしん)に立(た)ち帰(かえ)るだろう〔原文〕)
――紛失した事情を伝え、ユーモアで相手の驚きをやわらげる
第五章 手紙の知識
○手紙の知識○
はがきは失礼
失礼ですが、はがきでお礼を申し上げます〔現代語訳〕
(失礼ながら端書(はがき)で御礼(おんれい)を申上(もうしあげ)ます〔原文〕)
○手紙の知識○
長い手紙には長い返事を
僕には五メートル四十センチの手紙を書く勇気がない〔現代語訳〕
(僕には三間(さんげん)の手紙をかく勇気がない〔原文〕)
○手紙の知識○
ワンレター、ワンテーマの原則
女性から手紙が来たよ。夏目先生のお近くに手紙を置きますと書いてある。〔現代語訳〕
(女から手紙が来たよ夏目先生御許へとかいてある。〔原文〕)
○手紙の知識○
カタカナ文字・当て字の効果
子供の頃から「ドメスチック ハッピネス」などということは考えず〔現代語訳〕
(小児(しょうに)の時分(じぶん)より「ドメスチック ハッピネス」抔(など)いう言(こと)は度外(どがい)に付(ふ)し〔原文〕)
○手紙の知識○
頭語(とうご)と結語(けつご)の常識、非常識
そのかわり時々ごちそういたします 以上(いじょう)頓首(とんしゅ)恐惶(きょうこう)謹言(きんげん)〔現代語訳〕
(其(その)代り(かわ )時々(ときどき)御馳走(ごちそう)を致候(いたしそうろう) 以上(いじょう)頓首(とんしゅ)恐惶(きょうこう)謹言(きんげん)〔原文〕)
○手紙の知識○
返信の書き出しのバリエーション
朶(だ)雲(うん)拝読(はいどく)。それによるとご病気日々全快に向かい祝うべきことと思います。〔現代語訳〕
(朶(だ)雲(うん)拝読(はいどく)然(しから)ば御病気(ごびょうき)日々(ひび)快癒(かいゆ)の趣(おもむき)珍重(ちんちょう)此事(このこと)と存候(ぞんじそうろう)〔原文〕)
○手紙の知識○
前文のあいさつの基本
厳しい暑さの時季ますますお幸せにおすごしのこととお慶(よろこ)び申し上げます。〔現代語訳〕
(酷暑(こくしょ)の砌(みぎり)愈御清勝奉賀候(いよいよごせいしょうがしたてまつりそうろう)〔原文〕)
○手紙の知識○
時候の書き方
伊香保(いかほ)の紅葉(もみじ)をもらって面白(おもしろ)いから机の上へのせておいたら〔現代語訳〕
(伊香保(いかほ)の紅葉(もみじ)を貰(もら)って面白いから机の上へのせて置いたら〔原文〕)
○手紙の知識○
手紙文の便利な終わり方
貝は子供がおもちゃにしています。余(よ)は後便(こうびん)〔現代語訳〕
(貝(かい)は小供(こども)がおもちゃにして居ます(い )。余(よ)は後便(こうびん)〔原文〕)
○手紙の知識○
相手の名前と自分の名前の書き方
自分の名字だけ書くなんてえのは失敬だよ〔現代語訳〕
(自分は姓丈かくなんてえのは失敬だよ〔原文〕)
○手紙の知識○
脇付(わきづけ)の使い方
盆(ぼん)の十六日 平(たいら)凸凹(でこぼこ) / 物(もの)草(くさ)次郎(じろう)様 むしろの戸の中 〔現代語訳〕
(盆(ぼん)の十六日(じゅうろくにち) 平(たいら)凸凹(でこぼこ) / 物(もの)草(くさ)次郎(じろう)様 こもだれの中〔原文〕)
○手紙の知識○
追伸の利用法
むやみやたらに「吾輩は猫である」の悪口などをいってはいけません。〔現代語訳〕
(滅多(めった)に「猫(ねこ)」の悪口抔(わるぐちなど)を云って(い )いけません。〔原文〕)
〇本文〇
■〔お詫びの手紙〕預かっていた手紙の紛失を詫びる
あんなうつくしい手紙を見たら泥棒(どろぼう)も改心(かいしん)して善心(ぜんしん)に戻るだろう〔現代語訳〕
(あんなうつくしい手紙を見たら泥棒(どろぼう)も発心(ほっしん)して善心(ぜんしん)に立(た)ち帰(かえ)るだろう〔原文〕)
――紛失した事情を伝え、ユーモアで相手の驚きをやわらげる
人から預かっている大切なものを失くしてしまったときは、謝るしかない。どう謝るかといえば、心からお詫びする。といっても、心からただ一言、「申し訳ございません。失くしてしまいました」というだけでは、相手は何か物足りなく、お詫びの気持ちが不十分な気がするにちがいない。
預けたものをなくされた側の頭の中には、たくさんの疑問符が、不満とともに湧き上がる。なぜなくなってしまったのか、そのときの状況はどうだったのか。なくならないように注意していたのか。注意していたとしても、注意が足りなかったのではないのか。そんな不注意な人には、今後はもう大事なものを貸せない。今後なくさないようにするための対策を考えているのか……などなど。
そこで漱石は、東京帝大の教え子の一人、中川芳太郎から預かっていた、三間(さんげん)=約五・四メートルの長大な手紙を泥棒に盗まれて失くしてしまったときに、次の詫び状を送った。盗まれた手紙の書き手は、鈴木三重吉で、やはり漱石の教え子の一人だった。漱石を心からしたい、ラブレターまがいの告白を巻紙に書き、漱石に見てもらうために、友人の中川に託したのだった。
一寸(ちょっと)申上(もうしあげ)ます。昨夜来客(らいきゃく)があって帰ろうとすると帽子(ぼうし)がない。玄関(げんかん)にあった小生(しょうせい)のゴム製の雨具(あまぐ)がない よって泥棒(どろぼう)だろうと云(い)う鑑定(かんてい)であった。
所(ところ)が夜更(よふけ)に及(およ)んで月を見ながら椽(えん)の下(した)をのぞいて見たら君から来た三重(みえ)公(こう)(=鈴木三重吉)の手紙を入れた状袋(じょうぶくろ)(=封筒)がある。而(しこう)して中身がない。して見ると是(これ)も泥棒君の所為(しょい)(=しわざ)だと思う。三重吉君が三間余(さんげんよ)(=五・四メートルあまり)の手紙を天下の珍品(ちんぴん)と心得(こころえ)て持って行ったとすれば此(この)泥棒は中々(なかなか)話(はな)せる泥棒に相違(そうい)ない。然(しか)し君の所へ来た手紙を僕がぬすまれて平気で居(い)る訳(わけ)にも参(まい)りかねるによって一寸(ちょっと)手紙を以(もっ)て御詫(おわび)を致す(いた )訳(わけ)だがね。どうか御勘弁(ごかんべん)にあずかりたい。向後(こうご)(=今後)気をつけると申したいが僕の家は是(これ)より気のつけ様(よう)がない。気をつけるなら泥棒氏の方で気を付けるより仕方がない。尤(もっと)もあんなうつくしい手紙を見たら泥棒も発心(ほっしん)(=改心)して善心(ぜんしん)に立ち帰るだろうと思うから其(その)内(うち)手紙も自然どこかから戻るかも知れない。戻ったら正(まさ)に返上仕(つかまつ)るから左様(さよう)御承知(ごしょうち)を願い度(た)い。先(まず)は古今(ここん)未曾有(みぞう)の泥棒事件の顚(てん)末(まつ)を御報(おしらせ)に及(およ)ぶ事しかり(=この通り)。是(これ)で見ると今迄(いままで)も色々なものが紛失(ふんしつ)して居(い)るのかも知れんが少しも気がつかない。随分(ずいぶん)物騒(ぶっそう)な事だ。此つぎは僕の書斎(しょさい)を焚(た)き払(はら)う(=焼きはらう)かも知れない。泥棒が(大学の)講義の草稿(そうこう)を持って行ったら僕は辞職(じしょく)する訳だが泥棒君も中々(なかなか)仁恵(じんけい)(=思いやり)のある男だ 以上 〔原文〕
(中川芳太郎宛・明治三十八年九月十六日付)
中川から三重吉の手紙を預かったとき、漱石は次のように言っている。
「あれだけ長く僕のことを書いて、あれだけ僕のことをほめているが、少しもお世辞らしいところがない。昔の文章家のようにウソくさい文句がない。誇張も何もない。どうしてもまじめな感じしか受け取れない。その部分こそ、僕が三重吉君にもっとも深く感謝するところだ」〔現代語訳〕(中川芳太郎宛・明治三十八年九月十一日付)
漱石も被害者だった。大事な手紙がなくなり、がっかりした。
しかし、それよりも失くしたことを詫び、盗難事件のあらましを要領よく説明し、一応の注意をしていたことや、今後も気をつける意志があることなどをていねいに伝えている。
そして、このショッキングな出来事を、ユーモアに包んでいることも、漱石ならではの心配りだ。
空き巣にでくわせば、強盗に変身することもある。事件を知った中川や三重吉は、手紙をなくされたことへの不満より、漱石が傷つけられたかもしれなかったという心配のが強かったはずだ。
漱石のさりげないユーモアのにじむお詫び状は、教え子二人の驚きをやわらげるためにも役立った。