すごい言い訳! もくじ・本文 

立ち読み資料

書籍「すごい言い訳!」 もくじ・本文 立ち読み資料

〇もくじ〇

はじめに

第一章 男と女の恋の言い訳

フィアンセに二股疑惑をかけられ命がけで否定した 芥川龍之介

禁じられた恋人にメルヘンチックに連絡した 北原白秋

下心アリアリのデートの誘いをスマートに断った言い訳の巨匠 樋口一葉

悲惨な環境にあえぐ恋人を励ますしかなかった無力な 小林多喜二

自虐的な結婚通知で祝福を勝ち取った 織田作之助

本妻への送金が滞り愛人との絶縁を誓った罰当たり 直木三十五

恋人を親友に奪われ精一杯やせ我慢した 寺山修司

歌の指導にかこつけて若い女性の再訪を願った 萩原朔太郎

奇妙な謝罪プレーに勤しんだマニア 谷崎潤一郎

へんな理由を根拠に恋人の写真を欲しがった 八木重吉

二心を隠して夫に潔白を証明しようとした恋のモンスター 林芙美子

第二章 お金にまつわる苦しい言い訳

借金を申し込むときもわがままだった 武者小路実篤

ギャラの交渉に苦心惨憺した生真面目な 佐藤春夫

脅迫しながら学費の援助を求めたしたたかな 若山牧水

ビッグマウスで留学の援助を申し出た愉快な 菊池寛

作り話で親友に借金を申し込んだ嘘つき 石川啄木

相手の不安を小さくするキーワードを使って前借りを頼んだ 太宰治

父親に遊学の費用をおねだりした甘えん坊 宮沢賢治

第三章 手紙の無作法を詫びる言い訳

それほど失礼ではない手紙をていねいに詫びた律儀な 吉川英治

親友に返信できなかった訳をツールのせいにした 中原中也

手紙の失礼を体調のせいにしてお茶を濁した 太宰治

譲れないこだわりを反省の言葉にこめた 室生犀星

先輩作家への擦り寄り疑惑を執拗に否定した 横光利一

親バカな招待状を親バカを自覚して書いた 福沢諭吉

手紙の無作法を先回りして詫びた用心深い 芥川龍之介

第四章 依頼を断るときの上手い言い訳

裁判所からの出頭要請を痛快に断った無頼派 坂口安吾

序文を頼まれその必要性を否定した 高村光太郎

弟からの結婚相談に困り果てた気の毒な兄 谷崎潤一郎

もてはやされることを遠慮した慎重居士 藤沢周平

独自の偲び方を盾に追悼文の依頼を断った 島崎藤村

意外に書が弱点で揮毫を断った文武の傑物 森鴎外

第五章 やらかした失礼・失態を乗り切る言い訳

共犯者をかばうつもりが逆効果になった粗忽者 山田風太郎

息子の粗相を半分近所の子供のせいにした親バカ 阿川弘之

先輩の逆鱗に触れ反省に反論を潜ませた 新美南吉

深酒で失言して言い訳の横綱を利用した 北原白秋

友人の絵を無断で美術展に応募して巧みに詫びた 有島武郎

酒で親友に迷惑をかけてトリッキーに詫びた 中原中也

無沙汰の理由を開き直って説明した憎めない怠け者 若山牧水

物心の支援者への無沙汰を斬新に詫びた 石川啄木

礼状が催促のサインと思われないか心配した 尾崎紅葉

怒れる友人に自分の非を認め詫びた素直な 太宰治

批判はブーメランと気づいて釈明を準備した 寺田寅彦

第六章 「文豪あるある」の言い訳

原稿を催促され詩的に恐縮し怠惰を詫びた 川端康成

原稿を催促され美文で説き伏せた 泉鏡花

カンペキな理由で原稿が書けないと言い逃れた大御所 志賀直哉

川端康成に序文をもらいお礼する際に失礼を犯した 三島由紀夫

遠慮深く挑発し論争を仕掛けた万年書生 江戸川乱歩

深刻な状況なのに滑稽な前置きで同情を買うことに成功した 正岡子規

信と疑の間で悩み原稿の送付をためらった 太宰治

不十分な原稿と認めながらも一ミリも悪びれない 徳冨蘆花

友人に原稿の持ち込みを頼まれ注意深く引き受けた 北杜夫

紹介した知人の人品を見誤っていたと猛省した 志賀直哉

先輩に面会を願うために自殺まで仄めかした物騒な 小林秀雄

謝りたいけれど謝る理由を忘れたと書いたシュールな 中勘助

第七章 エクスキューズの達人・夏目漱石の言い訳

納税を誤魔化そうと企んで叱られシュンとした 夏目漱石

返済計画と完済期限を勝手に決めた偉そうな債務者 夏目漱石

妻に文句を言うときいつになく優しかった病床の 夏目漱石

未知の人の面会依頼をへっぴり腰で受け入れた 夏目漱石

失礼な詫び方で信愛を表現したテクニシャン 夏目漱石

宛名の誤記の失礼を別の失礼でうまく隠したズルい 夏目漱石

預かった手紙を盗まれ反省の範囲を面白く限定した 夏目漱石

句会から投稿を催促され神様を持ち出したズルい 夏目漱石

不当な苦情に対して巧みに猛烈な反駁を盛り込んだ 夏目漱石

おわりに

参考・引用文献一覧

解説 郷原 宏



〇本文〇


納税を誤魔化そうとして叱られシュンとした夏目漱石

教師として充分正直に所得税を払ったから 当分所得税の休養を仕(つかまつ)るか…繁劇(はんげき)なる払い方を遠慮する積(つも)りでありました。  夏目漱石

       

    

 不惑で転職する人は勇敢です。夏目漱石は明治四十年、四十歳のとき、それまでの安定していた大学の教師の地位を捨て、朝日新聞社の社員へと果敢に鞍替えしたのでした。

入社に際して漱石は、年に小説を何本書けばよいのか、書いた小説を他社で本にしてよいか、印税を自分のものにしてよいか、賞与はどのぐらいか、自分の小説がはやらなくなったときも地位を保証してくれるのかなど、入社後の安全を担保するために、各種条件のすり合わせを綿密に行いました。

そして何よりも、教師時代を超える年俸を希望し、月給は二百円(今の二、三百万円)、賞与は年二回で一回二百円を確保し、かなりの高額所得者となりました。当時、新聞各社は、日露戦争の戦勝ムードにより販売数を伸ばしましたが、明治三十八年戦争が終結すると、購読数が伸び悩んだため、同時期「吾輩は猫である」により、一躍文壇に躍り出た漱石の人気にあやかるべく、朝日新聞は漱石をヘッドハントしたのでした。

入社当初より、朝日新聞の主筆よりもさらに高い俸給を得ることになった漱石は、やはり人の子、ちょっと魔がさしてしました。入社後すぐに節税の工夫を、同僚の渋川(しぶかわ)玄(げん)耳()にたずねたのです。すると叱られました。慌てた漱石は、手紙でこう詫びました。

所得税の事を御聞き合せ被下(くだされ)まして 御手数の段(だん)どうも難有(ありがとう)存じます。実はあれもほかの社員なみにズルク構えて可成(かなり)少ない税を払う目算を以て伺った訳であります。実は今日迄教師として充分正直に所得税を払ったから 当分所得税の休養を仕(つかまつ)るか左もなくばあまり繁劇なる払い方を遠慮する積りでありました。然(しか)る所公明正大に些々(ささ)たる所得税の如き云々(うんぬん)と一喝された為()めに 蒼(あお)くなって急に貴意に従って真直に届け出でる気に相成りました。御安心下さい。

大意と漱石の真意は、次の通りです。

〈所得税のことをきいてくださり、お手数をおかけました。どうもありがとうございます。実はズルをして、所定の額よりかなり少ない税を払う方法はないかを、あなたに伺おうと思ったわけです。といっても、他の社員並みのズルを考えていたので、それほど悪辣なことを計画したわけではありません。それに、実際のところ今まで教師として十分正直に税金を払いましたから、当分は納税を休養させていただかく、あるいは、あまりしょっちゅう払うことを、遠慮するつもりでした。ところが、あなたから、公明正大にやるべきだ、些細な所得税のごときで…と一喝されたために青くなり、急にあなたのアドバイスにしたがって、正しくいつわりなく届け出る気になりました。ご安心ください〉

結局公明正大に納税せよとの渋川の言葉にしたがった漱石ですが、節税を企んだ言い訳がふるっています。

「今日迄教師として充分正直に所得税を払ったから 当分所得税の休養を仕(つかまつ)るか左もなくばあまり繁劇なる払い方を遠慮する積りでありました。」と書いて、「正直」を「休養」するか「遠慮」しようと思っていると表現したのでした。

 この部分を少し詳しく読み解くと、まず、これまで正直にやってきたというのが、直接的な言い訳です。まあ、ヘリクツですがリクツです。〈ずうっと正直にやってきたのだから、しばらくズルしても、帳消しでしょう、悪くないでしょ〉という意味になります。

 そして、「休養」と「遠慮」は、不正直の決行の言い換えにすぎませんが、これもまた、言い訳の一種と考えられます。というのは、〈悪事を働く〉というより、〈正義の休養、遠慮〉といったほうが、はるかに聞こえがいいからです。聞こえがいいということは、悪く思われにくい、ということです。すなわち、自己弁護、言い訳のカテゴリーに分類できる気がします。

 漱石は、嫌な感じのしないスマートの表現に長けていました。

たとえば、門下生に宛てた手紙の中に、こんな一文があります。

「二月のほととぎすには猫の続きが出ます 是は健康に害のある程のものではないから読んで下さい」

雑誌「ホトトギス」に「吾輩は猫である」の続きが出るので読むようにという知らせですが、少しも押しつけがましくないのは、「健康に害のある程のものではないから」という表現があるためです。

また、当時名を成したジャーナリスで政治家の福地源一郎が亡くなったときには、漱石はよほどきらいだったのでしょう、ある手紙に、次のように悪口を書きました。

「源一郎福地という男が死んだ。今の学士や何かは学問文章共に出来るが女を口説く事と借金の手紙をかく事を知らないという演説をやった男だそうだ。死んでも惜しくない人ですね。」

 たとえこの手紙の受信人も、福地をよく思っていなかったとしても、漱石が〈死んでよかった〉と書けば、漱石の人間性を疑ったはずです。しかし、漱石は、「死んで惜しくない人」と書きました。つまり、〈亡くなったのは気の毒で冥福を祈るけれど、惜しまれる人ではなかった、少なくとも私からは〉というニュアンスで表現することにより、受信人の不快感から逃れることができたのです。

このことから、優れた文章というのは、読み手から嫌われないようにするための自己弁護、言い訳が、表現の随所に、あるいは行間に、直接、間接に施されていることがわかります。

漱石や文豪たちの名文に潜む隠れ言い訳の発見は、スマートな言い訳のスキルアップにつながるかもしれません。

渋川玄耳(しぶかわ・げんじ)明治五年(一八七二)~大正十五年(一九二六)。享年五十三。新聞記者、著述家。明治三十一年頃、熊本で漱石を中心とした俳句団体に参加し、漱石と知り合う。明治四十年に東京朝日新聞社に入社し、社会部長を務める。漱石は朝日新聞社に招聘した立役者の一人。





手紙の失礼を体調のせいにしてお茶を濁した太宰治

これで失礼申しあげます。コンヂションがわるくて、幾十度でも、おわび申します。                    太宰治                                                                      

   

東京三鷹の玉川上水に女性とともに入水し情死した太宰治は、女性の求めるまま情に流され一命を落としたという説があります。確かに太宰は多情なロマンチストでありましたが、同時に、ずば抜けた懐疑主義者でニヒリスト、あるいは冷静なリアリストでエゴイストしたから、私は同説にはなかなか賛成できません。

「もの思う葦」の中で、彼は次のように述べます。彼の人生観の根っ子の部分が垣間見え面白いので、少し長くなりますが引用します。

なお、文中の「謂い」は、~という意味、を示す言葉です。

「デカルトの『激情論』は名高いわりに面白くない本であるが、『崇敬とはわれに益するところあらむと願望する情の謂()いである。』としてあったものだ。デカルトあながちぼんくらじゃないと思ったのだが、『羞恥(しゅうち)とはわれに益するところあらむと願望する情の謂いである。』もしくは、『軽蔑とはわれに益するところあらむと云々(うんぬん)。』といった工合いに手当りしだいの感情を、われに益する云々てう句に填()め込んでいってみても、さほど不体裁な言葉にならぬ。いっそ、『どんな感情でも、自分が可愛いからこそ起る。』と言ってしまっても、どこやら耳あたらしい一理窟として通る。献身とか謙譲とか義侠とかの美徳なるものが、自分のためという慾念を、まるできんたまかなにかのようにひたがくしにかくさせてしまったので、いま出鱈目(でたらめ)に、『自分のため』と言われても、ああ慧眼(けいがん)と恐れいったりすることがないともかぎらぬような事態にたちいたるので、デカルト、べつだん卓見を述べたわけではないのである。」

つまりは、〈崇敬、羞恥、軽蔑などの感情、そして、献身、謙譲、義侠などの美徳は、デカルトに言われなくても、自分をかわいがり、正当化するための欲念を、カムフラージュするための言葉だと知っているさ〉と、太宰は言っているのです。

 いかがでしょう。デカルトと太宰の説を読み進むうちに、なにやら言い訳の臭いがしてきませんか。

言い訳を英語でいうと、excuse(エクスキューズ)。「cuse」には罪、「ex」には免れる、という意味があります。自分のために自分をかわいがり、自分に罪はないと正当化するための感情を表す語や美徳を表す語は、言い訳の仲間であることがわかりました。

「どんな感情でも、自分が可愛いからこそ起る」のであれば、お詫びの気持ちも自分のためであり、決して人様の不愉快をいたわることが、主眼ではありません。

そうなると、お詫びの気持ちを表すときの理由や、言い訳などは、大して重要視されるものではない、オマケみたいなもの、という考え方も生まれてきます。所詮、相手方に役立つものではなく、自分自身の欲念の正当化に資するものと位置付けることができます。

そんな意識があったためなのか、太宰は二十七歳のとき、先輩の小説家に、こんな手紙を書きました。

私、やっぱり、一年に一作以上書けないようで、あきらめています。死骸のような一日一日を送っています。のこっているのは、わけのわからない、ヒステリックな、矜持だけです。みんな「ダス・ゲマイネ」(通俗性)にとられてしまった。衣紋(えもん)竹(だけ)が大礼服を着て歩いている感じです。がらんどうです。…丹羽文雄氏がうらやましくてなりません。あんなにどんどん書けたなら、と、私としては、あのひとは理想でさえあるのです。(けいべつでも、パラドックスでもありません。)アルプス山を眺めている感じです。「烏麦日記」いつも拝読しています。「もの思ふ葦」は、お読みになるほどのものじゃありません。

寡作を嘆き、自惚れを反省し、通俗小説を批判し、人気作家丹羽文雄を軽蔑しながら羨み、相手の先輩作家の文章を読んでいると伝え、最近の自作「もの思ふ葦」を卑下しています。いったい彼は何を伝えたかったのか、支離滅裂、意味不明な手紙です。

こんな手紙を書いたあげくに、どういうわけか送る必要を感じてしまった太宰は、とても雑に次のように締めくくりました。

これで失礼申しあげます。コンヂションがわるくて、幾十度でも、おわび申します。敬具。

冒頭で紹介した「もの思ふ葦」を書いたばかりの彼は、この手紙における自らの謝罪の言葉にさえ疑いの目を向けていたに違いなく、ゆえに謝罪理由も投げやりです。とってつけたように、コンディションの悪さという、同情を得やすくバレにくい言い訳でお茶をにごしました。

「コンディションが悪いので」という言い方は、太宰がまとならない手紙を書いて後始末に困って編み出した、苦肉の言い訳かもしれませんが、そんな事情からちょっと離れてみると、意外に汎用性の高いフレーズのような気もします。

「最近体調が悪く、ふつつかな手紙となりましたことを、お詫びいたします」というよりも、「最近コンディションが悪いため、ふつつかな手紙になってしまいました。お許しください」と書けば、相手に過度な心配をかけずにすむからです。

また一方で、真面目なふりをして人を軽くからかう言い訳として機能させることもできます。

太宰の「コンヂションがわるくて」は、誠実なようすを示しながらも、どことなく人を小馬鹿にした印象が否めません。人を食った太宰の文学に、一脈通じるものを感じます。

丹羽文雄(にわ・ふみお) 明治三十七(一九〇四)~平成十七年(二〇〇五)。享年百。小説家。上記の手紙の頃、昭和十一年、丹羽は東京朝日新聞に「若い季節」を連載し、多作な人気流行作家となる。