さりとて 連載コラム 

「近道にない景色 自転車に乗って今日も遠回り」1回~40回 全原稿

1

2012-09-8

老詩人と太宰治と紫陽花



 六月のことである。自転車に乗って、三鷹の老詩人の家に、ヘチマの苗を届けに行った。三年前、根岸の子規庵で六粒タネを買い増やしたヘチマだ。今年は実生の苗が三百も育ってしまい、捨てる勇気がわかず困り果て、あちこちの知り合いに引き取ってもらうことにしたのだった。

 根岸の子規庵とは、台東区根岸の正岡子規の家。現在も保存、公開されている。動けなくなった子規が病床から庭の景色が楽しめるよう、いろいろな植物を植えた。その中にヘチマもあり、私が手に入れたヘチマは、その頃のヘチマの直系のタネということである。つまり、子規が見たヘチマであり、その親友の夏目漱石も見たかもしれないヘチマだ。

 私は子規についてはあまり知らず、ファンとはいい難い。同じヘチマでも、サカタのタネのものより、由緒があって興趣も湧くだろうと思った程度の動機だった。

 ヘチマをやる数年前には、近くのホームセンターでメダカを六匹買い、少し増やしてメダカの学校の先生になろうと目論んだところ、うっかり数百匹に増やしてしまった。分校開設のつもりが、予期せぬマンモス校になり、エサやりやらゴミとりやら水槽の掃除やらで、一日の大半が費やされる深刻な事態となった。おまけに、水槽の水の自然浄化に役立つだろうと、近所の小川から採取してきたタニシ数匹、そして、やはりホームセンターで求めたホテイアオイ数株が、思わぬ爆発的な繁殖力により増殖し続け、手が付けられなくなり、家人にだからいわんこっちゃないと痛罵されるという、大変苦い経験があった。

 ヘチマを届けた老詩人の家では、今年は緑のカーテンを何で作ろうかと思案していた矢先だったと歓迎され、おいしい高級茶のもてなしを受けた。私はよい気持ちになり、例によってつい調子に乗った。こんなふうだった。

「柿木の横あたりに、ネットを張って、いただいたヘチマをはせせたらどうかしら、ヒロシさん」

 老詩人の妻は翻訳家であり、また詩作も行う才子で、育ちのよさがすぐに想像できる美しい声音と言葉づかいの持ち主である。

「そうだね」

 老詩人が、静かに穏やかに答える。

 悠揚迫らざる時間に包まれた、気品あるひと時である。

 私も仲間に加わりたくなった。

「うちにも、狭い庭に柿があって、もう五十年近くたちます」

「そう、柿は甘いでしょう。この柿は、甘いんですよ」

 夫人はにこやかに応じてくださる。いい感じだ。下衆な自分も以前から、この知的で穏やかな空間の一員であったかのような錯覚に陥る。

 そんな心地よさにひたるうちに気が緩んで、私はいつもの嫌な癖が発作的に出てきた。鏡のごとく静まる水面には小石を投げ込みたくなる。または、新雪におしっこの心境である。

「まあまあ、うちの柿も甘いんですけど、もっと甘いのは、盗んだ柿ですね」

 夫人の明るい表情が瞬時に曇った。しまったと思いながらも、私は衝動を、もはや抑え切れなくなっていた。

「盗んだ柿の中でも、もっとも甘いのは、僕の住む団地の隣にある修道院の柿です。この柿がまたおいしい。背徳の味っていうものでしょうか……」

 私が私から離れて暴走する。夫人のあからさまな怪訝な表情も、「まあ、そんなことしちゃいけないわ」という誠実な戒告も、私をさえぎる力として役立たなかった。

 詩人はまるで部外者であるかのように、私に賛成も反対もせず、うつむき加減にニヤニヤしているだけだった。

 二杯目のお茶は、とうとう注がれることはなかった。

 帰途、またもや軽口を叩いて人を不快にさせてしまったことを後悔し、自転車のペダルを踏み込む度に自分を責めた。

 私はなぜ夫人の清潔な公徳心のキャンバスを、汚そうとしてしまったのだろう。その原因を捜索した。

 唯一思い当たるのは、夫人に怪訝な顔をされ、戒告を受けたときの、小さな快感。私の非礼は、叱られたいという潜在する欲望によって、発揮されるのかもしれないと思った。母は女は、いつも私を叱り、人間の輪郭を知らしめる…、嗚呼。

 そんなことを考えながら、フラフラと自転車を漕いでいたら、老詩人の家からほど近い玉川上水に出た。

 江戸に飲料水を送るために人工的に掘られた、幅二メートル余りの小川が玉川上水で、今はでっかいコイがたくさん棲みつき、川岸の左右は、ケヤキ、カシ、ナラ、アオギリなどの雑木ですっかりおおわれている。沿道は車の往来も少なく、季節の草木の表情が楽しめるので、私に好都合な自転車散歩コースになっている。

 この川の現在の主は、開削の指揮をとった玉川兄弟ではない。太宰治だ。昭和二十三年六月十三日に、三鷹駅とむらさき橋の中間あたりで、愛人とともに入水し、この川の主となった。

 そういえば太宰も、親族、知人、友人、先輩、女性に、よく叱られていたようだ。薬物中毒、そして度重なる自殺未遂。その他醜聞数々。私に比べて迷惑の規模が破格に大きいから、叱られ方もさぞかしきつく、落ち込み方も相当だったに違いない。

 そしてその作品群は、陰陰滅滅というのが、もっぱらの評判だ。私の知る東京育ちの気風のいい料理屋の女将は、なかなかの読書家である。その女将に太宰評を聞くと、「あんな女々しい暗い話、気が滅入っちゃうよ。嫌いだね」。愛人を作り、薬物を乱用し、心中に失敗して生き残ったり、文学賞の受賞を選考委員に女々しく懇願したりなどといった、恥ずべき破廉恥、不道徳な経歴は、太宰の人間性のみならず、作品さえもおおい尽くすイメージとなってしまったようだ。

 しかし、それにしては、人気がありすぎはしないだろうか。蓼食う虫も好き好き、という解釈では到底説明できない、絶大な人気をいまだに誇っている。そして今後も未来永劫、変わらぬ人気を保ち続けると、私は物書きのはしくれ生命をかけ、自信を持って予言する。

 なぜなら私は太宰の作品が、色鮮やかな希望の文学だと思うからだ。確かに太宰はいつも叱られ泣いていたかもしれない。扱うテーマは哀しいかもしれない。けれど、私には彼の作品が、少しも暗くない、湿っぽくない、女々しくない、堅苦しくもないのである。彼の心根は実に明るい。彼の作品は、さわやかで軽快、しなやかでユーモアに満ち溢れ、雄々しく立ち、弱い者の心を誰よりもていねいにいたわっていると、私は強く感じる。私は頭がおかしいのだろうか。世間の頭がおかしいのか。どっちかである。

 太宰を知るためには、太宰を読めばいい。そうして黙っていればいい。言葉でできた十本の指で、太宰をすくい上げようとすれば、太宰はなんなくその指の隙間から、するすると逃げていってしまうのである。

 私は用あって太宰についての評論や研究書をいくつも読んだが、太宰を私にとってうれしく伝え、太宰の「列車」より面白いものは、一つとしてなかった。

 太宰のたった三千字余りの小品「列車」は、読むのに十分もいらない。十分もかけずに、正しく太宰にたどり着くことができる。

 あるいは未完の遺作「グッド・バイ」がいい。落語より愉快だ。太宰を、「人間失格」「斜陽」「晩年」から始めると、誤解する。代表作は、「親友交歓」、「令嬢アユ」、「女生徒」…、そんな気もするがいかがだろう。このへんから始めるのがいいと思う。

 私が推す作品はいずれもすぐに読める短編で、この場所でご紹介したいほどだが、ここでは、私が何十年も前に触れ、今も大好きな一文を示すことにする。

 「美男子と煙草」という小文だ。この一文により太宰は私に、ひとつのメルヘン、清潔な希望を教えてくれた。

 小文とはいえ全文は長いので、最後だけを示す。戦後、路上にたむろする戦争孤児と太宰を写真に収めるといった雑誌の企画で、上野に行ったときの話だ。煙草を吸う孤児は、十歳そこそこの少年たちだった。

 上野公園前の広場に出ました。さっきの四名の少年が冬の真昼の陽射(ひざし)を浴びて、それこそ嬉々として遊びたわむれていました。私は自然に、その少年たちの方にふらふら近寄ってしまいました。

「そのまま、そのまま。」

 ひとりの記者がカメラを私たちの方に向けて叫び、パチリと写真をうつしました。

「こんどは、笑って!」

 その記者が、レンズを覗(のぞ)きながら、またそう叫び、少年のひとりは、私の顔を見て、

「顔を見合せると、つい笑ってしまうものだなあ。」

 と言って笑い、私もつられて笑いました。

 天使が空を舞い、神の思召(おぼしめし)により、翼が消え失せ、落下傘(らっかさん)のように世界中の処々方々に舞い降りるのです。私は北国の雪の上に舞い降り、君は南国の蜜柑(みかん)畑に舞い降り、そうして、この少年たちは上野公園に舞い降りた、ただそれだけの違いなのだ、これからどんどん生長しても、少年たちよ、容貌(ようぼう)には必ず無関心に、煙草を吸わず、お酒もおまつり以外には飲まず、そうして、内気でちょっとおしゃれな娘さんに気(き)永(なが)に惚(ほ)れなさい。  

 私はそのまま自転車を走らせ、太宰が入水した場所に行き、そのそばに咲く紫陽花を見つけた。

 紫陽花。色鮮やかな小さな花々が集まってこんもりと丸い花房は、メルヘンの花束だ。長雨に泣き濡れて哀切を加え、さらに冴え冴えとした精彩を放つ花群れの美しさは、太宰の作品に重ね合わせることもできる。滴る青、紫、紅、そして純白。太宰の透明な涙に映る色だ。六月に生まれ、六月に逝った太宰は、こんな花束に囲まれて生まれ、この花束に送られて旅立ったのだろうか。

 折しも、蝶々がユラユラ飛んで来た。羽を取り戻した天使…。君はダザイか? 梅雨の晴れ間に愉しそう。 

 紫陽花の向こう、生い茂る草木の間の暗がりの奥に、黒く光る川面が見えた。川面は眼下に遠く、岸よりも三メートル余り低い。太宰の当時の川面は岸から近く、しゃがめば触れることができた。彼岸が近すぎたのか。臆病な太宰は、今のこんな深い谷には飛び込めなかったに違いない。またもや未遂に終わり、いろいろな人に叱られたことだろう。

「あんな下品な後輩は、もう連れてこないくださいね、ヒロシさん」。老詩人もまた、今頃叱られているだろうと想像した。


2

2012-10-5

ホーロー看板の由美かおるさん

「クレタ人はいつもウソをつく、とクレタ人がいった」という有名なパラドックスがある。

 クレタ人が、本当にいつもウソをつくなら、「クレタ人はいつもウソをつく」という指摘はウソになり、次の二つの可能性が生まれる。

 ①クレタ人は時々ウソをつく

 ②クレタ人はまったくウソをつかない

 しかし、もし、①クレタ人は時々ウソをつく、のであれば、「クレタ人はいつもウソをつく」という指摘は、正しい場合と正しくない場合とが生まれる。そして、もし②クレタ人はまったくウソをつかない、のであれば、「クレタ人はいつもウソをつく」という指摘は正しいことになる。

 こうしてクレタ人は、まったくウソをつかなかったり、いつもウソをついたり、ウソつきと正直者の間を、どっちつかずに激しく振動し続けることになる。

 私はウソつきである。

 といった場合も、同様に両方の可能性が生まれる。私はウソつきなのだから、「私はウソつきである」はウソということになる。

 すると、「私はウソつきである」という言葉がウソで、私が正直者だということだ。だとしたら、「私はウソつきである」というのは本当のことになる。結果、私はウソつきで正直者ということになる。

 そして、実際の私はウソつきである。

 先日も、自転車で近所を走っていたとき、車の窓から横柄な道の聞き方をした中年紳士に、ウソを教えて気がすんだ。というだけでなく、しばしばありもしないことを、あたかもあったことかのように書くのが、私の仕事だ。

 仕事の場合は、ウソを武器に高慢な人を困らせようとするわけではなく、いくばくかの真実を伝えるために事実を離れるわけだが、ウソつきにはかわりない。

 つまり、私は事実を正直に伝えることもあるが、ウソをまことしやかに伝えることもあるわけだ。そうすると、私の発言の何がホントで何がウソか、受け取る側は、常に疑いをさしはさむ必要が生じる。

 家人のみならず近所の親しい人たちからも、私が何をいってもとりあえず信用されないのはそのためだ。

 以上を踏まえると、たとえ私が夏目漱石より有名だったとしても、私にコマーシャルの仕事は、絶対に来ないことになる。物書きと呼ばれるウソつきがいうことは、たとえその発言に真実が潜んでいるとしても、にわかに真に受けることはできないと思われ、信用されにくいからだ。

 私が車のコマーシャルに起用されれば、「私はしばしば事実にないことを言ったり書いてみたりするので、日常生活では人にあまり信用されていないのですが、この車の乗り心地は最高で、私はこの車が大好きです」というメッセージを送ることになる。

 

 言いかえれば、「ウソをつくことのある私が、お客様にお伝えすることは、本当なのです」といっているのと同じことになる。乗り心地がよくて大好きということが、ウソかホントか、よくわからなくなるから、私はウソつきクレタ人の親戚と思われ、広告効果は期待できない。

 ところが現実ではむしろ逆の状況が起きている。有名な作家はコマーシャルによく誘われる。断る人もいるかもしれないが、断らない人も多い。作家は、事実などにはこだわらない、真実の探求者だから、小さなウソはついても、大きなウソをつかない、という信頼性があるからだろうか。

 あるいは作家に限らず、研究者や文化人も、コマーシャルに出る。彼らこそ、事実や真実の探求者だから信頼性は超高い。そして、事実や真実の探求者といえば、ジャーナリストもまた同様で、この人たちは決してウソをいわないと信じられているから、コマーシャルにはうってつけだ。

 さらには当然芸能人もミュージシャンも、真実の探求者であり表現者であるのだから、コマーシャルの説得力があるといえる。

 まじめで努力家で誠実で公徳心のあるアスリートもまた同じだ。

 そうすると、有名でそんなに不真面目でなければ、誰だっていいわけだ。企業イメージや商品イメージがあるから、適任者は厳選されるだろうが、基本的には知名度が高ければ、誰もがコマーシャル出演の有資格者といえそうだ。

 これはとてもよい知らせだ。私にもチャンスが巡ってきた。有名になれば、一本一千万円、いや三千万か。一億だって夢じゃない。コマーシャルに出て、さらに私自身の認知度が高まれば、本だって売れる。テレビ出演も多くなるだろう。出演の際に本の紹介もしてもらおう。テレビで宣伝すると、すぐに増刷になるというウワサを聞いたこともある。

 コマーシャル、宣伝というものは、すごいもので、いつか私の本が、大新聞の読書欄のコラムで紹介されたときは、アマゾンのランキングが瞬間的に三桁、いや、四桁も上がって、人気急上昇商品の仲間入りをしたこともあった。

 年を取りますます意固地になってきた私は、どんどん仕事が少なくなってきているから、ウン千万円のコマーシャルの仕事など入った日には、家人は狂喜乱舞して、決して私をないがしろにしなくなるはずだ。いよいよ楽しくなってきた。

 しかし、残念なことに、私はTVコマーシャルには出演できない。容姿に難があるからだ。先日ショーウンドウに映った醜い体型の自分を、最初他人と思い、そのすぐあと自分と知って、暗澹たる思いにさいなまれた。そして、私は並外れた恥ずかしがり屋で、カメラの前で演じることなどできない、という理由もある。一度だけNHKのテレビ番組に、ビデオで出演したことがあった。打ち合わせではべらべらと一時間余りも一人でしゃべり続けていたが、いざ本番となり、ビデオの収録が始まると、カメラの向こうに何百万の人がいるかと思ったら、頭が真っ白になり、もう何もいえなくなってしまい、NGを出し続けた。以来出演オファーはない。

 そんなわけで、以上二つの理由だけでも、ウン千万を蹴ることになると思う。しかし、もしこの二つの欠点が改善されたとしても、私はコマーシャル出演を断ったほうがよいだろうと考える。

 それは、私は物書きのはしくれでいたいからだ。

 私がもし、ちっぽけでも真実を伝え得る物書きになれたとして、それを信じてくれる読者が一人でもいたら、その一人のために、私は私の表現した真実によって支えられている私の信頼性を、商品の優秀性が本当であると信じてもらうために、使ってはならないと思うからだ。

 私は誠実でいようとしているのではない。私は私の仕事を守るためのことを考えているだけだ。

 私はこれまでに、広告記事を書いたこともある。詐欺まがいの商法の広告パンフレットを作ったことさえある。あれはギャラがよかった。しかし、もうやめようと思う。お金をもらえば、なんでも言う、なんでも書く、心ならずも笑顔まで作ってしまう物書きと思われたら、私の書くことは、ますます信用をなくしてしまうに違いないからだ。

 などと書いてきたら、なんだか格好いい話で、ちょっとウソ臭い気がしてきた。もっと正直に言おう。私はお金をもらうと、たとえ意にそわない商品でも、なんとか自分を説得して、なんでも言ったり、書いたり、へらへら笑ったりしてしまいそうな気がしてならないのだ。

 黒を白と言って、良心の呵責にさいなまれないようにするためのヘリクツの製造はお手のものだ。その種の訓練は三十余年も続けている。

 ウソつきでないと自他ともに丸めこみながらウソをつくことに快感を得る本性が、自分にはあるのではないだろうかと思うことさえある。

 私は一千万円もらったら、完璧なウソつきになる自信がある。

 私の蔵書に、大正五年、今から九十五年前に出版された、文書の書き方を教える本がある。その中に、「広告用文を草するに注意すべきは左の件々である」として、四件のアドバイスが掲げられている。最初の一つだけを紹介する。

 (一)至誠(しせい)を旨(むね)とすること。商人は人を欺(あざむ)いても構わぬという様な思想は、極めて古い思想で、大正の商人、其(その)他(た)実務家は一に至誠を旨としなくてはならぬ。従(したがっ)て其(その)広告文にも一点の虚偽をも混(まじ)えてはならぬ。『正直は最良の商策也(なり)』という語は、いつの世に於(おい)ても真理なのである。 

 あるいは、大正から昭和に時代は移っても、別な言い方で同じことをいったCMディレクターがいた。

 時まさに高度経済成長へ向かい歩み始めた、一九六〇年代から七〇年代にかけて、テレビCMの草創期に、数々のヒットCMを生み出し活躍したCMディレクターが、三十七歳の若さで突然自らの命を絶った。理由はいろいろ取沙汰されているが、真因は不明といえるだろう。ただし、彼が次の言葉を遺して逝ったことだけは、確かだった。

リッチでないのに

リッチな世界などわかりません

ハッピーでないのに

ハッピーな世界などえがけません

「夢」がないのに

「夢」をうることなどは…とても

嘘をついてもばれるものです 

 今も正直を旗印として、最良の商策を選択している多くの企業は、ウソのにじむ私を、お金によってウソをつく私を、やはりコマーシャルに起用すべきではない。そんなことをしたら、心血を注いで多くの社員が脈々と築いてきた企業の信頼性にキズがつくことになる。最悪の商策は、ぜひとも回避しなければならないだろう。

 自転車で街のあちこちをフラフラ走っていると、時々古い建物の板壁や薄汚れたモルタルの壁、あるいは錆びたトタン張りの壁に、昔のホーロー看板が残っていることがある。レトロ趣味として残すこともあるのだろうが、それにしては保存が適当で、ホーロー看板マニアの所有ではなさそうなものも多い。すでに看板としての役目を終え、マニアのものでもないホーロー看板は、誰に許されて、頼まれて、あるいは慕われて、何を伝えようとしているのだろうか。

 由美かおるさんは、そんなに好きなほうじゃないけれど、かつてはその肢体に鼓動が高鳴った。その肢体を誇示するかのように、今もなおアースのホーロー看板の中で、むき出しの素足を伸ばして微笑んでいる由美さんの視線と目が合ってしまったとき、私はこう語りかたけられた気がした。

「正直でいなさい。あなたはコマーシャルに出ちゃだめよ。だってウソつきなんだから」


3

2012-11-5

居酒屋踏切番



娘が生意気にも、私に腹を立てた。

娘の自転車の修理を、私が途中で投げ出したからだ。チューブ交換をしているうちに、外したネジの順番が分からなくなった。半分解体されたままの愛車が放置されているのを見つけた娘は、「ビデオデッキを直すといっても、時計を直すといっても、いつもこんな調子ね、バラバラにして終り。解体業に商売替えをしたら」と私を責めた。

自転車屋さんに支払うべき相場の工賃、1500円を節約してやろうという、文字通りの親心からの親切なのに、失敬だ。ときには直せることもある。私は面白くないので、ぷいと自転車で外に出た。

自転車をこいでいるうちに血流が増加してきたせいか、娘への小さな憤りだけでなく、日々の雑多な鬱憤がいっぺんにこみ上げてきた。「昨日もまた担当編集者が、三分遅刻して来た。三分で、立場の優位を知らしめようという魂胆か。三分のパワハラに憤慨する自分のいじましさ。呪うべきは我にあり」などなど…。行く先を決めず、どこまでも走り続けたい気持ちになる。もう、誰にも私を止められない、という心境だ。

だが、私はすぐに行く手を阻まれる。たとえば、踏切に。目の前で降下を始めた遮断機に、「私を止めるな!」と心で叫ぶ。

踏切はもとより忌々しい装置である。鉄道会社の都合により、我々の生活導線を寸断する。鉄道敷設のお陰をこうむる者たちが、当然引き受けるべき不自由であるとでもいわんばかりに。けれど本来は、鉄道が道路をくぐったり、跨いだりすればすむ話ではないか。そうすれば事故だってゼロになるし、私だってそのまま進める。お金がかかって運賃が倍になりますよというなら、誰かの給料を減らせばよい。クルーザーを売るといい。

しかし、大きな力に従順な私をはじめとする小市民たちは、電車の通過を待ちながら、ポン、ポン、ポンという、どこか懐かしい響きのある警報音を聞いていると、しだいに社会正義の実現のための公憤、そして、日々の私憤や苛立ちが、迂闊にもいやされていく思いがするのである。

「確かに、自転車修理に何時間もかけて失敗するより、本業にもう少し精を出したほうが、いいかもしれないな」などといった反省心が芽生え、さらには、仕事に疲れて逃げ出すための言い訳に、娘とのケンカを利用しただけではないのかという、自分への疑いを濃くしていった。

踏切は、その本来の役割とは別に、不思議な魅力を備えているようだ。

急ぎがちな私の心を整え、落ち着かせてくれる力がある。

いや、私だけではない、踏切で待つ人の表情は、もちろん苛立ち顔の人も多いが、間が抜けた、気の抜けた、邪気のない、無心な、とても自然ないい表情をしている人も少なくない。かつて文芸評論家小林秀雄が、「人間のあらゆる表情は病である」、なんてことを言っていたが、なるほど踏切にたたずむ人の無表情こそ、飾り気がなくウソがなく、健やかだ。

高速で通過する巨大な金属の塊に対しては、論を待たず、道を譲らざるを得ないという絶対的な諦めの境地を味わうことになる踏切は、人のさまざまな興奮を鎮めるのに役立つ場所かもしれない。

私は踏切で頭を冷やすうちに、あてどなく闇雲に走る計画を取りやめることにした。そして、あの店に行ってみようと思った。

それは、西武新宿線の野方駅と沼袋駅のあたりにある居酒屋だ。自動車が一台通れるかどうかの小さな踏切のすぐそばにあったと思う。看板には、「踏切番」と書かれていた。

すでに二十年以上も前から、電車の窓外の景色の中にその店をみつけ、気になっていた。しかし、昼も夜もその店に客の気配はなく、私が見つけた頃にはすでに閉店していたのかもしれない。閉店していても構わない、とにかく看板が見たくなった。

胃がシクシクと痛むほど、人を憎んだ日、あるいは、社会の茶番にうんざりした夜、西武新新宿線で西に下っていくとき、たまさか窓外にその居酒屋を見つけ、なぜか自分が滑稽に思え、胃痛が少し和らぐ思いがした。

数えきれないほどたくさんの居酒屋がある高田馬場も近いのに、中井だって、新井薬師だって、そこそこの趣を備えた飲み屋はあるというのに、どうしてこんな寂れた場所の、しかも騒々しい踏切脇の居酒屋に立ち寄らなければならないのか。さぞかしここには、いじけた面々が寄り集い、気勢が上がらぬままに、ちびちびと酒をなめながら、誰もがため息ばかりついているのだろうと想像すると、自分の同類がたくさん来ているような気がして、思わず苦笑し、殺伐として冷え切った心が、温まる思いがするのだった。

そもそも、この店を見つけたのは、こんな夜のことだった。

昔、ある出版社の雑誌の別冊ムックの編集を手伝ったことがあった。編集室は青山の大きなビルの一室。一室の大半は雑誌の営業セクションが占め、その片隅のほんの小さなスペースに、別冊ムックの編集長専用の机があって、お手伝いの私たちは、営業部員がほんとんど使っていない机を借りる形だった。そして、初めて会った編集長は、やけに腰が低く、気弱そうで、昔風の言い方をすると、市役所の戸籍係の職員のような人物だった。

まだ若かった私は、雑誌というものは、編集長が一番の権力者で偉いのだと信じていた。それに、有名な雑誌の別冊を作ろうというのに、どうしてこんなに編集室が小さいのだろうと、奇異に感じた。

しかし、私の謎は、手伝いを始めた初日の夜にすぐに解けた。夜遅くなったので、編集長がそろそろ帰りましょうと、私と数人のスタッフに声を掛けた。そのとき、部屋のドアが勢いよく開いて、てかてかしたシルクのスーツ、シルクの真っ白なワイシャツを着た、とても恰幅のいい紳士が、黒目の落ち着かない若い部下二人を引き連れて現れたかと思ったら、一言のあいさつもなく編集長に向かっていきなり、「帰るときは、机の上に何も置くな。いいな。キレイにして帰れ」と、叱りつけるように居丈高に言い放った。

私は、「誰だい、こいつは。こんな乱暴な言い方をする失礼なヤツは許せん」と思い、編集長がどんな顔で応対しているのかと思い振り返ると、驚いたことにいつの間にか起立して、直立不動の姿勢だった。

後でスタッフに聞けばその男は、雑誌や別冊ムックの最大権力者である、営業本部長だということだった。広告で成り立つ雑誌やムックは、編集長など屁のようなもので、営業本部長が王様なのだということを、私はそのとき初めて知った。なるほどその後も王様の一声で、編集企画がどんどん変わっていった。広告が取りやすいような、とった広告の広告主に媚びを売るような記事内容へと変更された。独立した編集権など皆無で、編集長は完全なイエスマンだった。

この雑誌にかかわる人たちは、自らに与えられた役柄を演じるのに、躊躇がなかった。ある朝、不興な顔で、手持無沙汰に鼻毛を抜いていた、例の黒目の落ち着かない営業マンが、営業本部長の突然の入室に、バネ仕掛けの人形のように素早く立ち上がって駆け寄り、つい一秒前の陰鬱で不興な面持ちがウソのように、もうそれ以上はないだろうというほどの晴れやかな表情を作り、底抜けに明るい声で、「本部長、おはようございます。今日はまたお似合いのネクタイですね」などと、褒めちぎったのだった。映画で見た、植木等演ずるところの無責任男、C調サラリーマンを目前にした思いで、ある種の感動さえ覚えた。十人中十人、それがいわゆるゴマすりだということがわかる、軽薄きわまりないパフォーマンスなのだが、眉間の皺の深い強面の本部長が、まんざらでもなさそうな笑顔を浮かべたのを見て、童話の裸の王様とは、こういうものかと感心した。

私は彼らに対して戸惑いを抱くとともに、尊敬も禁じ得なかった。

この若い営業マンのように、人様を愚弄することができたら、どんなに楽しいだろう。人前ではへどもどして、陰で舌を長く出すのである。また、植木等におだてられて、おだての風に乗る竹とんぼのように、クルクルクルクル楽しく回りながら空高く舞い上がり、気がつくと、風は消えて回転力も失い、あとは墜落するだけの、とことん頓馬な王様にもなってみたい。

陰で舌を出すが、出し方が小さく、十分頓馬だが、舞い上がり方が中途半端な私は、彼らの日々の茶番を100パーセント尊敬することができず、やがてアホらしくなり、ほどなくその仕事を辞めてしまった。辞めるとき私が「一身上の都合で辞めさてください」というと、編集長は苦笑いしながら、なかなか気の利いたはなむけの言葉を私にくれた。「それがいい」。

私は辞めたその日の夜、以前先輩に教えられた新宿ゴールデン街の店を訪ね、安酒をあおりながら気の抜けた顔のマスターに愚痴をこぼした。彼は他の客に忙しく目を泳がせながら、口だけは流暢に、私の傷心をソツなくなぐさめてくれるのだった。ここもまた、表面的な営業の世界にすぎなかったことに気づき、一層寂しさと空しさがこみ上げてきた私は、飲みかけのウイスキーもそのままに、そそくさと店を後にして帰路についた。

ちなみに、その店の名は南の島の方言で、ユートピアを意味する言葉だった。私の信じるユートピアではないと思った。

西武新宿駅までは、ゴールデン街から少しの距離である。歌舞伎町の入り口のしつこい呼び込みたちから速足で逃れ、駅にたどり着き、急行本川越行に飛び乗った。

私は仕事を始めても、すぐに辞めてしまう性質だった。いろいろひとりよがりな理由をつけて、辞めることを正当化してしまうのだ。若い私は窓外の暗い景色に、自分の未来を重ねた。何度も同種の逃避を繰り返し、自分の先行きが不安になり、泣きたくなった。そんなとき、沿線のうす暗闇に浮かぶ一軒の店が目に入った。急行電車は、あっという間にその店を通り過ぎたが、私は網膜に残ったその店の名前をゆっくりと読み返すことができた。「踏切番」という名の居酒屋だった。

私はいつかその店を訪ねてみたいと思った。

取るに足らない公憤、私憤、いじけた気持ちはどこかに去り、いつしか私はなんとなくわくわくしながら、その店に向かうために、自転車で新青梅街道をひたすら走り続けていた。言い忘れたが、真夏のことである。三十五度を超える猛暑の中の捜索が一時間半も続いた頃、もとよりゆるい私の頭脳は、さらにゆるゆるとなり、朦朧としてきた。

やがて陽も傾き、自転車と私の影が、道路に面白く長く伸びてきた。

確か野方と沼袋の間だと思い、二駅の間のすべての踏切を探したが、見つからなかった。諦めて帰ろうと思ったが、どうしても見つけたくて、念のため野方より先の新井薬師前との間の踏切を探してみた。

すると、ある小さな踏切のすぐ脇に、それらしき店が見えたのだった。

 

その店に入ると、窓は電車から見たときよりもかなり大きく、踏切の警報機の灯りや、そこを行き来する電車と通行人が、店内からよく見える。ただし、あからさまに通行人が見えるのも無粋だと考えたのだろう、窓には昔ながらの手延べガラスをはめ込んで、ちょっと歪んだ幻想的な風景が楽しめるようになっていた。室内の湿度でガラス窓が曇ると、警報灯の赤いまたたきの輪郭がボケて、さらに趣を増すのだった。

カラオケはない。有線も流れていない。店の窓を閉め切った真夏も真冬も、踏切の警報音が、ほどよい音量で聞こえてくる。

客たちが、昨日のこと、今日のこと、明日のことをぽつぽつと口にすれば、すぐに電車の通過音が会話の途中をかき消して意味不明となり、意味不明ゆえにありふれた会話が、俄然、象徴詩の気高さをおび始めたりした。

口ひげを蓄えて黒いチョッキの似合う店主を、客はナツメさんと呼んでいた。ロンドン帰りだそうだ。

客の多くは踏切が開くのを待っている間に、店の看板が気にかかり、ちょっと立ち寄り、一杯だけ飲んでいく人たちだけれど、そうした連中の中から、遮断機が上がっても、なかなか線路の向こうに渡らず、いつまでも店にぐずぐずする人が出て来た。彼らはやがて仕事を失い、社会から見放され、常連客となっていくのだそうである。

常連客の中に、雲水姿のヒゲぼうぼうで汚れた身なりのタネダというおっさんがいた。酒癖が悪い。ひどく悪い。酔っぱらって走行中の路線バスの前に立ちはだかり、止めたこともある。その弟分のオザキは、身なりはふつうだが、やはり酒癖よからず、東大出を鼻にかけて威張りちらすという悪評を垂れ流しているらしい。オザキの兄弟分はイシカワくんで、噂では無類の遊び好きで、あふれる才能を惜しみなく、借金の依頼文作りのために注ぎ、人のいい言語学者の親友を、だまし続けているそうである。

この三人のみならず、他にも常連客がいて、その人柄は種々雑多だが、共通するのは、貧乏という点だった。

店主のマスター・ナツメは、いつも嫌な顔一つしないで常連たちを招き入れ、酒をふるまい、ときにはお金まで貸してやるそうだ。

返済は、ある時払いの催促なし。その代りツケが貯まった者には、証文代わりに、俳句や詩や言葉を色紙に書かせ、それを店の壁の品書きの札の隣にはりつけた。

そうこうしているうちに、やがて色紙の俳句や詩を目当てに、この店に立ち寄る客も少しずつ増えていったらしい。

タネダの人気の色紙は、三句だった。モツ煮込み350円ともろきゅう250円の間にある。

どうしようもない私が歩いている 

まつすぐな道でさみしい 

笠にとんぼをとまらせてあるく 

タネダの半生を知る客たちは、この限りなく軽い句にひそむ底知れぬ闇の深さを憐れみ、そして、その闇の静寂に憧れてしまいそうになる自分に戸惑った。

オザキの人気はこの三句。手羽塩焼きとニンニク焼きの札の間だ。

咳(せき)をしても一人 

考えごとをしている田螺(たにし)が歩いている 

なんにもない机の引き出しをあけてみる 

オザキの孤独は因果応報とさげすみつつも客たちは、この句の愉快な充実を、ちょっとだけうらやんだ。

そして、イシカワくんの好まれた作は、この三つだった。サケおにぎりとタラコおにぎりの品書きの間にある。

はたらけど はたらけど猶(なお)

わが生活(くらし)楽にならざり

ぢつと手を見る

ふるさとの 訛(なまり)なつかし

停車場の

人ごみの中に そを聴きにゆく

やはらかに積れる雪に

熱(ほ)てる頬を埋(うづ)むるごとき

恋してみたし

短歌など知らぬ酔客の多くも、この童顔の若者の空恐ろしい心の奥行に、ゾッとしたり、ゾクッとしたりした。

そして店主のナツメのおやじさんは、こんな句を詠んで、鳥皮1本80円の品書きの札の隣にはった。

菫(すみれ)程な小さき人に生まれたし

一見の客の大方は、それらの色紙を見て、大して働きもしない怠け者たちが深刻ぶって、感じ出して、何いってやがると軽蔑し笑ったりもするのだけれど、店の窓外に灯る踏切の信号灯をぼんやり眺め、ノスタルジックな警報音を耳にしながら色紙を見ているうちに、うっかりこみあげてくる暖かなものを抑え切れなくなるのだ。つまりは、なんだか腹立たしいような、ひどく懐かしいような、奇妙なせつなさを肴に、ホッピーをグイとあおり、また一杯マスター・ナツメに、注文を追加するのだった。

私はそろそろ店を出ようと、会計を頼んで立ち上がると、店の奥の暗がりに、見た顔を発見した。向こうも私に気がついて、ニヤリとして、あいさつ代わりにグラスをちょっと上げた。「それがいい」といった、編集長だった。

 

店はなかった。それだと思った店は、違っていた。以上は帰途、私が夢想した内容である。

私のユートピアは、何処へ。

踏切番という看板自体、私の疲れた脳が生み出した妄想だったのかもしれない。

(*念のため……文中の俳句、短歌について。タネダの作は種田山頭火のもので、オザキのは尾崎放哉のもので、イシカワのは石川啄木のもので、ナツメの作は夏目漱石のものです。)


4

2012-12-2

たまらん坂に吹く風はブルース



好きな映画を三つ言わせて、性格を当てるのを芸にしている映画評論家? 芸人さん? をテレビで見たことがある。なかなかの正解率で、当てられた人は舌を巻くほどだった。どうせテレビのことだから話半分としても、確かに性格というか、趣味の傾向は現れるだろう。

ちなみに、私の好きな映画は、フォロー・ミー、フィールド・オブ・ドリームス、大脱走、バニシング・ポイント、スティング、ペーパー・ムーン…。三つに収まらないが、自己分析すれば、現実逃避と詐欺が大半を占め、ちょっと恋がまじる。もっとも恋愛映画フォロー・ミーも、追いかけっこみたいなものだから、逃避的要素が多く、つまりは逃げ惑う詐欺師が自分の本性であり、なるほどその通りで、下手な占い師の眼力を上回る気がする。

 

しかし、この当てっこを音楽でやってみると、かなり違う結果が出る。好きな曲は、恥ずかしくてすぐにはいいたくない。私はAKBが好きでないし、あの戦略を下品だと思うのだが、恥を凌いで言うと、キャンディーズが好きだった。微笑み返し、を聴けば、淡い思い出も蘇り、今でも胸が締めつけられる。武蔵大学に通っていた蘭ちゃんと同じクラスになった高校時代の友人が、彼女のホットな日常を報告してくれたときには、わくわくしながら聞き入った。ATGの「青春の殺人者」の主演の頃の水谷豊ならカッコよかったからまだしも、昔の透明感が薄れてしまった「相棒」の水谷豊と蘭ちゃんが結婚したと知ったときには、少しがっかりした。

 

ついでに、懺悔箱に入ったつもりでもっと言ってしまえば、アグネス・チャンの草原の輝き、天地真理の明治チェルシーのCMソング、中山千夏のあなたの心に、南さおりの17歳、ひとかけらの純情、伊藤咲子のひまわり娘、やまがたすみこの風に吹かれて行こうが好きだ。そして最近なら、森高千里の17歳、渡良瀬橋…。

 

嗚呼、私はどうしてしまったのだろう。もっと高邁な理想と深淵な哲理を求めて齢を重ねてきたはずだったのに、結局夢見る少女の領域を出ることができなかったようだ。サティーのジムノペディ第1番だって、モーツァルトのフルートとハープのための協奏曲だって、バッハのトッカータとフーガ・ニ短調だってカッコいいなと思うのであるが、どちらかといえば、あちらである。

結局成熟を見ず、多くの課題を残したまま、朽ち果てようとしている私であるが、ようやくここへ来て、ちょっといい傾向も出てきた。ブルースが聴きたい、などと誰かにいってみたくなるときがあるのだ。

ブルースといえば、高田馬場である。

かつて高田馬場には、哀しいS社という編集プロダクションがあった。ここには毎夜愉快な仲間たちが寄り集い、貴重な時間を贅沢に空費した。メンバーには、それぞれの夢も希望も憧れも未来もあったが、心の背景色は一致していた気がする。ブルーだった。

 

ある日私はブルースが聴きたくなり、自転車で国立のたまらん坂に出かけた。高田馬場の愉快な仲間たちを思い出すためでもあった。ちょっと道のりは長くなるかもしれないけれど、今日もよろしくと自転車にあいさつして。

ただし、私の自転車に名前はない。命名は実像を隠すからだ。名前をつけることにより、人は相手を詳しく見ることをやめてしまう。たとえ無機的な物質である自転車でも、私にとっては有機的な存在で、日々私の心のありようによって、その存在感の感触は変化するのである。彼、もしくは彼女の日々刻々の微妙な変化を味わいながらつき合いを深めていくことに妙味がある。だから私は自分の愛車を命名しない。ということもあるのだが、あるとき私が自分の青色の自転車を「ブルー」と呼んで話しかけていたら、それを偶然見ていた家人に「気持ち悪!」と言われたので、命名を断念したというのが実情だ。

国立のたまらん坂へは五日市街道を西に進み、府中街道を南に下って恋ヶ窪を過ぎれば簡単に行けるが、近道を選ぶとこのコラムの看板に傷がつくし、恋ヶ窪には暇だけはモナコの大富豪以上に持て余している貧乏な友人がいて、つい寄ってしまいそうな気がして、寄ってしまえば昼間っからビールをだらしなく飲み始めて、結局たまらん坂への小旅行が計画倒れになりそうだから、そのコースは帰途に使うことにした。

国立へは武蔵境からJR中央線の南側に出て、鉄路に沿って西に向かうことにした。目指す国立のたまらん坂は、国立駅の南側に位置している。

国立、国立という文字を見ていると、知らない人は、不必要に恐縮する人もあると思うので念のために断っておく。ここに記す国立はコクリツ=nationalに非ず、クニタチである。国分寺(コクブンジ)と立川(タチカワ)の間にできた新駅の命名が、安易になされた結果である。

この安っぽい名前の駅から数分歩いた所に、あのライブハウスがあった。たまらん坂から遠くなさそうだ。帰りに寄れれば寄ってみようかと、自転車をこぎながら、のん気に思いを巡らせていたら、東小金井駅を過ぎたあたりから、この小旅行は突如はなはだ困難なものとなってきた。

 

なぜなら、このあたりは国分寺崖線という大きな崖が立川の方まで続いていて、電動アシスト自転車でなければ、見ただけで勇気を失いそうな急峻な登坂、降坂が繰り返されるからだった。東京散歩の師と仰ぐ我らが荷風先生言うところの「平地に生じた波瀾」であるこれらの坂道には、挑みがたいものがあった。

しかし、これと決めたら貫き通すというより、どんなくだらない気持ちの勢いをも止める自制心が不足しがちな私は、自転車を左右に揺らして立ち漕ぎをして、気が遠くなるほど息を切らしながら、刑罰のような、えらいことになってしまった自転車散歩を続けるしかなかった。

 

しばらくすると私の疲労が極限に達した。いくつめかの坂を登りきって、もう平らになるかとおもいきや、またもや眼下に急な坂道が長く続いていたので、これは文字通りたまらんと、たまらん坂への小旅行を諦めようとした。もちろん下り坂は楽チンだが、下れば必ず登らなければならないからだ。

うらめしく坂を見つめていたら、国立市という道標の先に、嬉しいコンビニの看板が小さく目に入った。「コープとうきょう たまらん坂店」と書いてあるのが見えた。

25years ago.その夜私は国立のライブハウスに居た。狭い人混みは大っ嫌いだ。学生の頃、ディスコという所ではいいことが起こると聞いて、悪友に連れられ一度だけ新宿歌舞伎町のディスコBig togetherに行き、夜通し踊る連中を眺めていたが、一つもいいことは起こらなかった。

まあ、ライブハウスという所も、ディスコの類だろうと想像し、演奏を聴く前から私は、こちらが気恥ずかしくなるような、わざとらしいウソ臭い世界に違いないとあきれる準備をしていた。

気が進まないまま会場に入ると、立ち見だけのホールは満員で、ステージが低いから演奏者の姿はまったく見えず、ホールの奥の方から、ボーカルの恐ろしくしゃがれた声がスローテンポで響きわたり、時折何人かの慣れた客のヒューとかいう掛け声が混ざっていた。やっぱり、と思った。

グループの名は、憂歌団。歌を憂うる団体とは大仰なと思い共感できなかった。憂国の士という言葉も連想させ、思想もないだろうに、幼稚でナンセンスな連中だと決めつけた。

それに当時私は、もとより信じていなかった。日本人がブルースを歌ったところで様になるはずがない。ブルースの血なんか、一滴たりと流れているはずがあろうものかと、単なるコピーバンドの域を出ないだろうという想像も加えていた。

憂歌団から害を受けたことがあるわけではなく、しかも憂歌団は、私の親愛なる友人の同級生だったし、その夜は演奏後に、団員の一人に仕事の依頼をする用事があって行ったというのに、どうして彼らにそんなに敵愾心(てきがいしん)を燃やすのか、自分でもよくわからなかった。

憂歌団に頼みたい仕事は、音楽とは無関係だった。その頃私は各種スポーツ関連書籍の編集者だった。プロレスの様々な大技のかけ方を解説する本を作るために、憂歌団の団員の一人に、力を借りようとしていた。団員の一人が、当時大人気のプロレス団体のファンで、その中心的レスラーと懇意にしているという話を聞いたからだ。憂歌団と人気プロレス団体、二つのビックネームを冠した本を作れば、ベストセラー間違いなしと、安易な商売を企んだのだった。

この時私は、良心を売ってお金に換えることを厭わない精神状態にあった。危険極まりないプロレス技を、青少年たちに教えることによって起こるだろう出来事に対する配慮を怠った。

お金に困っていたからである。

私はしばしば軽薄で、お金にはいつも苦労しているが、とくにその頃迂闊で金銭欲が旺盛だったのは、私が書いた原稿料の未払いが発生したからだった。御茶ノ水駅の近くにある大きな出版社で、70万円分ほどの原稿を書いた。そろそろもらえる頃なのにまだ入金がなかったので編集部に聞いてみると、今年は出版のチャンスを逸したので来年に回したい、ついては原稿料の支払いも、来年の出版後になると、さも当然のように宣告された。電気代、水道代、新聞代、ガス代など、月々の支払の遅れがちな身の上である。70万もの売掛金を、1年も放っておけるほどの余裕はない。ガスの集金人も、最初は恭しくやってきたが、来月こそは、来月こそはと延引しているうちに、だんだん強そうなヤツがやってくるようになり、そいつは帽子をアミダに浅く被って、体も斜めに構えながら、まだ払ってくれないのと、いっぱしの取り立て屋気取りで凄むのだった。

しかしそんな状況にあっても、私に解決策がないわけではなかった。御茶ノ水駅近くの大出版社の、私の書いた原稿を担当する編集部の編集長は、労働組合の委員長だと聞いていたからだ。小さな出版社やプロダクションの原稿料の未払いは、日常茶飯の出来事だったが、まさか大出版社の労働者の味方たる編集長が、この理不尽な事態を見逃すはずはないだろうと思った。We Shall Overcome.万国の労働者は共闘しなければならないはずだ。私は編集長に電話をした。すると編集長は、こともなげに言った。来年の出版後の支払いとなります、と。申し訳ないの一言もなかった。ある会社の労働組合は、無縁な未組織労働者の味方ではないという公理を、身を以て知ることになったというお粗末な話である。

ライブハウスの会場に重い足取りで入った私は、憂歌団の幼なじみで、仕事の橋渡しをしてくれる友人に促されるまま、観客を掻き分けてステージのそばまでようやく進むと、会場の熱気とスポットライトの光熱により、水をかぶったように汗だくになって、ひり出すような声で、悲しそうに笑いながら歌い上げる人がいた。

私はその姿を間近にし、歌を聞き始めてすぐに、心の中で準備していた拒絶反応のことをすっかり忘れ、遠い過去からバナナボートが蘇ってきた。私が準備していた敵愾心は、大した根拠のない、うまくやって金回りのよさそうな人たちへの単純な嫉妬だったようだ。

バナナボートは、父が小学生の私に初めて聴かせたハリー・ベラフォンテのシングルカットレコードだった。大正生まれでインパール作戦に二等兵として連れていかれてひどい目にあった父は、軍人らしい所は一つもなく、若い頃は脱色して赤毛のおかっぱ頭で、丸メガネをかけ、東京銀座の広告会社でデザイナーをしていた洒落者である。賭け事が好きで、人をよく担ぎ、ジャズと美空ひばりも好きだった。

バナナボートの歌詞は、「もうすぐ日が昇る。オイラは辛い仕事を終えて家に帰りたいんだ。伝票をつけるおっさん、さあバナナを数えてくれ」といった内容で、バナナを積み出す港で荷役に従事していた人たちの労働歌をアレンジしたものだった。「デーオ・イデデェーオ」というユーモラスな掛け声が特徴的な、陽気でエネルギッシュな雰囲気が感じられる歌で、レゲーにも通じるのん気さもあふれているけれど、中心にあるのはペーソスだった。

バナナボートがメントなのかカリプソなのか知らないし、憂歌団のブルースとどう脈絡があるのかないのかわからないが、いずれもうまくやっている人たちのただのん気な歌では決してなく、なかなかうまくいかない人たちの哀歌であることは、共通しているように思えた。

そしてなによりも憂歌団の歌は、私の血の中のすでに記憶をなくした一部に働きかけ、身に覚えのないノスタルジーを強く呼び起し、体の芯から自分を温めてくれる気がするのだった。

ライブハウスに行った次の日、高田馬場の仕事場に出かけると、すでにメンバーは揃い、まだ十分には日が沈んでいないというのに、いつものようにイイチコとイカソーメンの廉価な宴が始まっていた。その中心は、仕事場の主、M社長である。

出版社兼編集プロダクションの社長M氏は1億の借金を抱えていたらしい。明細を見たわけではないので信じるに値する根拠はまったくなかったが、私は信じ、集まってきた連中も皆、それほど疑わなかった。M社長は、私と二人だけのときイイチコを飲みながら、「誰か肝臓半分買うやつ知らねえか」とやくざっぽい口調で尋ねた。そして、連日訪れる債権者の切実な形相を見れば、額はともあれ債務がかなりあることは、まぎれもない事実と思えた。

人を助けるなんていうことは、なかなか気分のよいものである。しかも、助ける相手が、助けなど本来必要としない豪傑、野盗の親分を彷彿とさせる風体の、貧しても屈せぬ強気の乱暴者となれば、まだ若く幼かった私は、まるで孤独な渡世人に憧れる純真無垢な少年のようにときめき、安い正義感に火がついてしまったのかもしれない。

それに、かつては十余人のスタッフとともに、年間40~50冊近くの本を作っていた社長だった。盛り返せば、またたくさんの仕事が入ってくるに違いないと私は踏んだ。ピンチの後にチャンスあり。株は底値で買うに限る。もしかしたら金銭的にもかなりうまくいくかもしれないと、内心ほくそ笑みもした。そんなあからさまな欲望を、人助けという美名で包み、M社長に接近しているのではなかろうかと、後ろめたさも感じる私だったが、多額の借金を背負った人間の再出発は、当然簡単なわけはなく、M社長も私の思惑をすんなりと実現してくれるほど単純な人情家ではなかった。私と同じぐらいには強欲で、甘ったれで、十分怠惰だったから、なかなか私の計算通りには進まなかった。

人は金の匂いに蟻集するものだが、貧乏の匂いに安心して集まる人種もいるようだ。高田馬場のメンバーたちは、みんなお金はもちろん、仕事もさしてないくせに、ゴキブリとネズミが我が物顔に走り回る、狭く汚い事務所の片隅で、折り畳み式の長机を二つ合わせテーブルを囲み、連夜催される宴会の時間を、何よりも優先した。

齢五十を過ぎてなお、毎日腕立てと腹筋200回を欠かさない力自慢のM社長が、船橋でヤクザに殴られ、殴り返して半殺して、止めに入った警官に、おじさんやりすぎだよと諭されたという、どこまでがホントかわらない武勇伝とか、N社の編集長は眉間の鼻筋がつぶれているから、ケンカが強いぞという、H君のムダな洞察とか、神楽坂のディスコ、ツインスターに行ってボディコン姉さんのパンツを見てきたと誇らしげなK氏の話とか、早稲田の喫茶店カフェ・ド・稲では、高齢のイネ婆さんがウエイトレスをしているがわかったというS君の浮かれ気分の報告とか、およそ愚にもつかない話で盛り上がる連夜だったから、私がその場で仕事の話などしようものなら、まずM社長が、「何カッコつけてんだよー。いいから、飲め、飲め」ということになるのは目に見えていた。

しかし、私は密かに、1億の借金を抱えたM社長のもとに集まった酔狂な若者たちと力をあわせ、仕事を盛り返し、理想郷を創ることができたら楽しかろうと、青い野望を抱いていた。憂歌団+プロレス技の本も、理想郷建設の足掛かりのための仕事にするつもりだった。

私は不粋なのは承知の上で、あえて昨夜のライブ終了後の打ち合わせの結果を、宴席にいた楽天家たちに、ちょっと憤然としながら伝え始めた。

 

M社長は私の勢いに負けて、いつもより大人しく私の話を聞いていたが、チャンスがあれば朝から酒を飲み続ける酒浸りのH君が、「まあまあ、それはまた今度ということで、今日は飲みましょ」と、のん気なことを言った。私は、高田馬場でいちばん気の合う仲間だったH君が、憂歌団もプロレスも好きだといったから、一緒に事務所の仕事として、頑張ってベストセラーを創ろうと約束したのである。その約束は、つい数日前のことだった。私は腹が立ってH君を罵倒した。するとH君はあっさりと、「俺、その仕事、やりませんから」と開き直った。私は怒り狂って理由を聞くと、「憂歌団もプロレスも好きですよ。でも、間に立ってる人、大阪人でしょ。俺、嫌いなんだ大阪のニンゲン。なんか調子がよくて。あの人抜きにしては、できないんでしょ」。憂歌団だって大阪人だろ。その同級生が大阪人なのは、最初からわかっていることだ。その前に、誰それが嫌だからといって、仕事を選べる身分なのか。私は気がつくと、スチールの事務椅子を思い切り蹴飛ばし、H君に掴みかかっていた。

しかし、そんな私たち二人のやりとりを見ながら、宴席の面々はM社長をはじめ、みんなニヤニヤしているだけである。私は自分の怒りの根拠を疑わなければならないような、奇妙な気がしてくるのだった。

なぜなら、宴席の大方のニヤニヤは、H君の感受性への賛意の表明で、私に分がないことをすぐに悟ったからだ。

カミュの異邦人のムルソーの不条理への憧憬、あるいは、太陽がいっぱいのアラン・ドロン扮するところの下層階級の青年、トム・リプレーの殺人が、太陽のさしがねだとする理不尽な理解に対する称讃、などを彷彿とさせるものが、H君の気まぐれには含まれていると、私にも思えた。

不合理な感情を優先し、無益なものをこそ珍重するかのようなH君の言動は、ありきたりな常識人には到底理解し難い、深淵な真理やニヒリスティックなこだわりを原因としていたといえば、ちょっと言い過ぎだろうか。

高田馬場の宴に集まった若者たちはH君に限らず、M社長も含めて、取るに足らない理由により、すぐに利害得失をはかる天秤がぶっ壊れ、いきなり起動する凶暴性を備えた、生き生きとした危険物だった。

皆のなだめに応じて、不承不承その夜の酒宴に参加したものの、どうにも納得できない気持ちを残しながら、終始ムッリツしていた私に、帰り際S君がつかつかと寄ってきた。

S君は、大学を出たばかりだったというのに、どういうわけか高田馬場に紛れ込み、私は憐れに思えた。温厚にして人当りがよく素直で誠実そうで、仕事への意欲も示したので、私は知り合ってほどなく、ある仕事を彼と一緒に行うことに決めた。著名な人物との打ち合わせのために、国立駅前の喫茶店で彼と待ち合わせた。彼の対外的な初仕事だった。私は30分前に現場に着き、著名人は10分前に到着し、S君は約束の30分後に喫茶店のカウベルを鳴らした。

私は取材後にS君を1時間半絞り上げた。いかにも申し訳ないと目を伏せたまま、誠実な反省の姿勢を保ち続ける彼に対して、すっかり頭に血が上った私は、相手にあまりに失礼じゃないか、ビジネスとは…、オレやこの仕事に関わる人間たちを愚弄する気かなどと、ありきたりの訓戒を繰り返したわけだが、私の心を占めていたのは、決して怒りだけでなかった。

やや風変りではあるが、謙虚で大人しく明晰なこの青年のどこに、派手な遅刻を可能にする大胆さや虚無が潜んでいるのか、不思議で興味深くもあった。

のっけから、品位と愛情を欠いた私の執拗な怒声と説教にさらされたにもかかわらず、彼は高田馬場を離れることなく、いつしか主要なメンバーの一人となっていったのである。

そのS君が私に近寄って渡したものは、清志郎の曲が入ったカセットだった。私は音楽好きなS君に、清志郎と森高千里が好きなんだと告白したことがあった。気まぐれなのんだくれ連中に翻弄されて、意気消沈の気配濃厚な私を、ちょっと元気づけてやろうというS君の親切心が嬉しかった。家に帰って早速聴いてみた。

いろいろあった中で、坂本九の「上を向いて歩こう」のカバー曲が一番カッコよかった。原曲とは似ても似つかないロックアレンジだけれど、原曲のすがすがしさがさらに際立ち、胸のすくスピード感は、誰かが言った、あの言葉を思い起こさせた。「悲しみは疾走する。涙は追いつかない」。なお、後年S君が書いて、私の胸を打ったコラムのタイトルは、「下を向いて歩こう」だった。

いずれにしても、1億の借金を抱えたM社長のもとに集まった若者たちは、もちろん私も含め、あきれるほど不十分だった。

件のプロレスの大技の解説書の仕事は、H君の大阪人拒否に端を発する私のやる気の喪失に加え、H君の気まぐれをM社長が擁護したこと、その擁護に対する私の嫉妬などにより、仕事の推進力は著しく失われ、いつしか頓挫することになってしまった。

結局、無計画、不合理、未統制、不摂生、不真面目、自堕落、不調和、強い嫉妬心などなど、多くの致命的な欠点を備えた私たちは、自らの性質により確実に疲れ果て、高田馬場のイイチコの宴が長く続くことはなかったのだけれど、なぜかあの頃がひどく懐かしく、輝いて見えるからおかしなものだ。

家から一時間半ほど自転車を漕いで、ようやく国立のたまらん坂にたどり着いた。S君を叱った喫茶店、憂歌団を初めて聴いたライブハウスからはほど近い。この坂の途中のアパートに、かつて忌野清志郎は住んでいたという。どのあたりなのか、記念碑はない。遅い午後に出かけたから、すでに秋の日は西の山並みに近づき、赤みを帯びていた。

私は憂歌団のこと、高田馬場のこと、そしてもちろん忌野清志郎のことを思いながら、たそがれ色に染まり始めた坂道を眺めた。

時は少し過ぎたようだ。憂歌団の団員の一人、高田馬場のM社長、清志郎も、夕空の向こうに行ってしまった。そして、中野六区から出馬して国会に乗り込んだニセ議員清志郎、あるいは彼のサマータイム・ブルース、JUMPの力は小さすぎて、ボディコン姉さんが好物のK氏は故郷双葉町に戻れなくなった。

私は坂道を行き来する車の途切れ間にブルースが聞こえないか、耳をすました。

聞こえない。代わりに聞こえてきた声があった。「愛し合ってるかーい」。悲しいのか、ふざけているのがよくわからない例の清志郎の声だ。

とうとうこの年齢まで、多くの仕事仲間はもとより、隣人とさえヨロシクやる術を持ち得なかった私は、清志郎の問いに対する答えに窮したまま、坂の途中にしばらくたたずんでいた。また、声がした。「愛し合ってるかーい」。

もういいよ、清志郎。私は心で苦笑した。すると、憂歌団、清志郎、どちらだろう、ブルースが……。いや、ダンプの発進音を含んだ秋風が、耳をかすめただけだった。

帰途、恋ヶ窪の友達の所に寄った。事情を話すと、自分は憂歌団の同級生だという。おいおいどうなっているんだい。この狭い地域に、そして、私の狭い交友の中に、憂歌団関連が詰まりすぎてはいないか。まさかと思い、清志郎への関わりも聞いてみた。好きだという。しかし、その好きだという言い方に、ちょっと素直でないものを感じた。理由は後でわかった。実は自分もシンガーソングライターであるという。30年もつき合っているのに初めて知った。なぜ言わないのかと聞いたら、聞かないからだという。歌えというと、ギターを奥から持ち出してきて、なにを、と聞く。何をといっても、いくつもないだろうと笑うと、口をとがらせて百はあるという。どうやら、清志郎にも憂歌団にも、負けない気があるらしいのだ。これは恐れ入りましたと、おすすめ曲をリクエストした。

気がついたら死んでいたという間抜けな男が、苦労をかけた女に詫びる、愉快で寂しげなブルースが始まった。

ブルースの語源を辿るとブルー=青い・憂鬱な・きわどい・下品に行きつき、しかもブルースはブルーズ=bluesの日本語訛らしく、We have the blues.で、 私たちはふさぎこんでいる、という意味になる。

ブルースなんて自分から遠い距離にあると思っていたのに、これほど自分や高田馬場の記憶にピッタリする言葉はほかにない。

 

私がこれまでブルースを聴かなかった理由がわかった。わざわざ聴かなくても、すぐそのそばに居た。振り返れば、私が通ってきた回り道こそが、ブルースめいていたようだ。今もどこかで愚図愚図しているだろう高田馬場の仲間たちと心を共にし、相変わらず愉快にふさぎこむ今日この頃である。


5

2013-01-4

コウタくんと森山大道とポッポちゃん


小平鈴木町二丁目 カメのしっぽ 2012-12-19撮影

気分がいいので説教がしたくなり、コウタくんを野川の河原に呼び出した。

子供みたいにその日に電話して、その日のうちに自転車で野川の水車小屋の近くに、私たちは集まった。

「やあ、久しぶり。突然で悪いね」

「いえ、突然がいいんです。前もって言われると、ずっと緊張しっぱなしで、仕事が手につかなくなって…」

「またまた、うまいことをいって」

私のその日のテーマは説教だったが、本人を前にすると、急に勢いがなくなった。もとより私は説教できる分際ではない。成功者でも道徳家でもサドヒストでもない。

「どうだい、調子は」

 あいまいな質問から始めた。

「どうもこうもありませんよ。まったく、最近の若い連中は…」

コウタくんはひとしきり、仕事関係の若い編集者の無礼をあげつらった。コウタくんももう若くはないのだと思った。

コウタくんは友人である。年は十五も離れているが、私の友人である。私と同じ仕事をしている彼は最近ヒマなようである。

私の気掛かりと説教の方向は、そこだった。ついこの間は、ハトを相手に遊んでいたという。

彼の住むマンションの十階のベランダにハトが飛来し、巣作りを始めたそうである。そこで彼は、フン害に悩むマンションの他の住民の騒ぎを尻目に、隠れてエサをやり、手名づけて卵を産ませた。そして、かえったヒヨコを手乗りバトにし、部屋に入れて仕事の合間に遊んでいた。やがて巣立ちの頃になると、そのハトをカメラで撮って、私以外にも誰彼なく写真を送りつけ、自慢していたようである。なるほど稀に見る、自慢し甲斐のある、実に凛々しくチャーミングなハトで、親バカも致し方なしと思えた。名前をつけただろう、言えよと彼に迫ると、恥ずかしがってなかなか言わなかったが、何回かしつこく聞いたら、嬉しそうに教えた。ポッポちゃん。私は彼の溺愛を、ほほえましく感じるとともに、少し心配にもなった。溺愛を可能にする大きなヒマを想像することができたからだ。

そのうちマンションの住人たちは、フン害に耐えきれず、全戸一斉に防鳥ネットを全ベランダに張り巡らせたので、ポッポちゃんとの蜜月はあえなく終ってしまったわけであるが、代わりはすぐに現れた。次はカメ。コウタくん、今は、カメのカメリに夢中である。首をもたげてなまめかしく振り返るカメリの写真を、ほめろとばかりにまた送ってきた。なるほどこれも、哀愁をおびた無邪気な目つきがかわいいのだが、コウタくんの未来を思うと、やはりちょっと複雑な気持ちになるのであった。

「カメリはどう。元気にしてるの」

私はコウタくんの今のツボである、カメリの話から始めて、気持ちをほぐし、説教に移るための環境を整えることにした。

「はい。大きくなりました。返事するんですよ」

「返事?」

「そりゃ、しゃべりませんよ。でも、僕が呼ぶと僕をチラッと見て、カミさんが呼ぶと、カミさんを見るんですよ」

「へぇー。すごいね。カメってそんなに聞き分けがよかったかな。ポッポちゃんみたいに、手乗りというか、手名づけて芸でもさせたらいいね」

「ええ、なんかできそうですよ」

晩秋とはいえ、まだポカポカと暖かな河原で、のん気な話がしばらく続いた。

 

コウタくんは、あるときまでサラリーマンだった。

会社にさして不満があったわけではないが、希望もなかったようである。私はサラリーマンと知り合うと、必ず愚痴を一つ二つ聞くことになるので、すぐにいいアイディアを授けることにしている。辞めれば、と明るく教える。すると、かなりの確率で会社を辞める。そんな人が何十人もいるわけではないが、これまで十人は超える。コウタくんもその一人である。

会社を辞めると人はすぐにハツラツとする。そんな姿を見るのは楽しい。やがて不幸にも生活苦が始まれば、私は口先では同情するが、本心は無関心である。いいことは二つ同時に起こらないと、昔から決まっている。

しかし、コウタくんは私より十五も年下だし、離職したとき彼はまだ二十歳代だったから、さしもの無責任な私も気が引け、仕事の口を紹介したくなった。どんな仕事がよいものかと、ファミレスで二人で話をしていたら、彼はたまたま私が持っていた雑誌の校正刷りに目を止めた。

「それ、なんですか」

「最近始めたカメラ雑誌」

「へえー、そんなこともやっているんですか」

「うん、なんでもやる。面白そうだから」

私は人の事務所の一角を借りて、小さな写真雑誌を、スタッフ四人で始めたばかりだった。全国の街のカメラ店に買い取って置いてもらう直売の雑誌である。

「ちょっと、見せてくれませんか」

「いいけど、カメラに興味あるの」

「いえ、まったく。でも、面白そうですね」

「そうだろ。最初、写真が一枚も載ってない写真雑誌の企画書を書いたんだけど、没になって…。でも僕のことをちょっとは気に入ってくれたのかな。写真の載っている写真雑誌をやれと、お金を出して販売業務までやってくださる奇特なプロデューサーが現れてね」

「へぇー、でも、これ…」と、コウタくんは雑誌の表紙を見ながら、ニヤニヤして口ごもった。

「えっ、何か言うのをやめた?」

「まあ」

「いいよ、何でもいってごらんよ」

「はい、じゃ。この表紙、地下鉄の中で持ってるの、恥ずかしいですね」

本気でカチンと来た。しかし、その後少しして心の動揺が収まると、一読者の率直な意見の貴重さに気がついた。私は気の利いた応酬を思いつき、笑顔でこらしめることにした。

「それじゃ、地下鉄で持ってて恥ずかしくない雑誌にしてみてくれよ」

コウタくんは少し困った顔をしたけれど、わかりましたと自信ありげに、適当に答えるのだった。

プロデューサーやスタッフに事情を話して、コウタくんを入れたいと頼むと、地下鉄で持っているのが恥ずかしい雑誌を作っている者たちは、当然一様に怪訝な表情をしたものの、もとより酔狂な面々なので、やがてニヤニヤし始めて、かかってこいとばかりに、コウタくんを受け入れることに賛成した。

コウタくんには、まず、雑誌の写真教室の講師役である写真家Hさんの担当になってもらった。Hさんは、私が二十代の頃からお世話になっている恩人の一人である。下町育ちの面倒見のよい人柄で、写真についてはほとんど何も知らなかったコウタくんを、きっとていねいに指導してくれると考えた。

私の目論みは的中し、Hさんとコウタくんはうまくかみ合った。そしてコウタくんは、Hさんの指導よろしく、少しずつ写真雑誌の編集者としての実力を備えていった。そこで私はコウタくんに、写真教室でHさんの談話をまとめて記事にする仕事を託した。

コウタくんが仕上げて来た記事を見て、感心した。穏やかでしなやかで、そこそこ品位があり、コウタくんらしさがよく出ていた。しかし、気になる所も何か所かあり、中でも見逃せなかったのは、「オイラ」だった。

「なんだい、このオイラっていのは」

「Hさん、いつも自分のこと、オイラっていうんですよ」

コウタくん、嬉しそうにそういう。

「そうかな。僕は二十年近くつき合っているけど、そんなふうにいってたかな」

「ホントですって。今度、ちゃんと聞いてくださいよ」

私には、心当たりがない。コウタくんはちゃっかりウソの言える人だが、そんなことではウソをいうはずはないし、コウタくんは年上を気持ちよくする雰囲気作りと話術に長けているから、もしかするとHさん、コウタくんにうまく乗せられ、ついうっかり、普段使いのオイラを出してしまったかもしれないのだった。

いずれにしても、Hさんやその周辺の人たちと二十年余つき合ってきて、Hさんのオイラに注目したのは、コウタくんが初めてだった。

オイラ話を聞いて、私は少しずつコウタくんの力を怪しむようになった。私は才気走った人を恐れない。才気により人を萎縮させて平気でいる迂闊さが幼稚だから。怖いのはむしろコウタくんの類。用心しないと裸にされる、というより、自ら進んで裸になってしまいそうな気もするのだった。

野川での会見を、実りあるものにすべく、私は少しずつ本題ににじり寄って行った。

「カメリは、何食べるの。僕が小学生の頃飼っていたカメは、煮干とか、スルメ、好きだったな」

「ペットショップに専用のエサがあるんですよ。よく食べますよ」

「そうか。口を開ければおいしい食べ物をくれるなんて、いいなー」

 そういって、私はコウタくんの顔をチラリと見た。なぜなら、共通の大先輩に以前、「口を開けて仕事が来るのを待っているようじゃ、いけない」と、始終口酸っぱく言われていたからだ。その言葉を思い起こすのがいいと思った。

しかしコウタくん、それには無反応で、足元の小石を拾って川面に投げつけて遊び始めた。

あるとき私はコウタくんとともに、取材のため、新宿の歌舞伎町の喫茶店に向かった。相手は森山大道さんだった。ブレ・ボケ写真で一世を風靡した伝説の前衛写真家である。

まさか、名もない小さな写真雑誌の取材を受けてくださるとは思わなかった。しかも、「名写真家のことば」というタイトルの連載の取材だったので、「名写真家」にうさん臭さを感じるだろうと思った。しかし、どういうわけか応じてくださった。そんなふうに、取材前から及び腰だった私は、一人で行くのが気が引けて、勉強のためという大義名分を使ってコウタくんを誘い、歌舞伎町の喫茶店で、おっかなびっくり森山さんを待ち受けることになった。

現れた森山さんは、予想通りの強面の迫力ある人で、初対面のあいさつをしても、ニコリともしなかった。私は変な予感を抱きながら、早速質問した。「この企画の主旨は、プロのお立場から、アマチュアに伝えたい心、ということなのですが、いかがでしょうか」。すると森山さんは、少し間を置いてから、たえかねたようにおっしゃった。「ぼくは今のアマチュアにはまったく興味がない。写真は本質的にアマチュアリズムであるはずなのに、そのことについての意識がまったく欠如している。もうそのへんでダメですね」。その清冽な話しぶりには、少しも高圧的、権力的な感じはなかったけれど、怖かった。

それでもなんとか取材を続け、私は森山さんの作品集の中から選んだ写真を、雑誌に掲載させていただきたいと頼んだ。私の選んだ作品は、水道の蛇口を写したものだった。公園の水飲み場にあるようなありふれた蛇口を、モノクロームで大写しにし、かなり焼きこんで、コントラストを強くしたものだ。なんとも力強く、生き生きとした存在感をたたえていた。その写真のオリジナルをお借りしたいと申し出ると、森山さんは初めて少し表情を緩ませ、「それか。それは確か今、ニューヨークのメトロポリタンミュージアムに出していて」と答えた。

私は感動し、笑い出したくなるのをおさえた。だって、ただの蛇口なのだ。私の蛇口の写真への崇敬のレベルが、ニューヨークのメトロポリタンミュージアム級であることが証明された気がして、嬉しくなった。

結局、蛇口の代わりに、もう一つの候補だった透明なビニール傘の写真を借りることになったのだが、これも壁に立てかけられたビニール傘をモノクロで撮り、強く焼きこんだものだった。ただのビニール傘のくせに、堂々と自身の存在を主張していて、ビニール傘に人格を感じてしまうほどだった。

蛇口にせよ傘にせよ、こんなありきたりなものを撮って、人の心を湧き立たせ、フレッシュにするこの写真家のことばは、もうこれしかないと、取材前からすでに決めていた。森山さんの『写真との対話』という著書の中のことばだった。

「さりげない日常の風景のなかにこそ、たとえば『愛』が、『革命』が、ひそんでいるとするならば、シャッターを押しつづける他はないのだ」

カッコいい。私は、この言葉を表題にすることの許しを得て、取材の終了と感謝を森山さんに伝えた。そして、写真界の大スターと言葉を交わすことができた感動の余韻に酔いしれながら、会計を済ますべくレジに向かうと、森山さんが私につかつかと歩み寄り、想像もしなかった行動に出たのだった。

森山さんは、その大柄で精悍な外見とはおよそかけ離れた几帳面な手つきで、小さな財布からお金をつまみ出しながら、「おいくらですか」と、自分のコーヒー代を払おうとしたのだ。

私は三十年余り編集者の経験をしているが、森山さんのような人はいなかった。もちろん丁重にお断りしたが、私は森山さんのカッコいい言葉を支えている太い柱の一本を見たような気がして、そこはかとなく嬉しかった。

 

それにしても、なぜ森山さんが、そんな行動に出たのか、深い謎だった。日本写真史上の屈指の大スターである。大手マスコミから受けた取材は数知れない。そのたびにレジまで歩み寄り、自分の飲食の分を払おうとされてきたのだろうか。この不思議な出来事とは無関係と思われるいくつかの要素を消去していくうちに、最後に残ったのは、コウタくんだった。

とくに森山さんの心をつかむ、決定的な質問や感想を述べたわけではなかったと思うが、取材中、固くなってぎこちなく、おどおどしながら、引きつるような笑顔しか作れなかった私とは対照的に、いつものように、感じのいい笑顔と、相手を包み込むような穏やかな語り口で、ほどよく合いの手の言葉を継ぐコウタくんがいた。成熟した聞き上手である。

もしかしたら森山さんも、Hさん同様、コウタくんの魔力にほだされて、いつもは隠している自分を、つい出してしまったのかもしれないと思う私だった。

コウタくんはその後、持ち前の人懐っこさと誠実さと、魅力というか魔力というか、不思議な力により、高名な写真家の心を次々につかんで、さまざまな写真の知識や情報を蓄え、やがて私にこんな人を取材してみてはと、すすめてくれるまでになった。

コウタくんの提案により、何人ものすばらしい写真家に、その後会うことができたが、中でも記憶に残るのは、ハービー山口さんである。若くしてイギリスに渡り、パンク発祥の現場に立ち会って、ミュージシャンを撮ったり、ロンドンの市井の人々の表情を、モノクローム写真に収め、名を得た人だった。

コウタくんとともに、ハービーさんのご自宅に伺ったときのことである。取材は、どのようにして写真家を志したか、という点に集中した。

ハービーさんは、生まれて間もなくカリエスにかかり、小学生時代はいつもコルセットをしてクラスの端っこにいて、悶々とする日々が続いた。友達はできず、先生からも厄介者扱いされ、いじめられるよりもっと辛く、六年間無視され続けた。それでも中学に進学して、自分のイメージをリセットするチャンスが来た。音楽家になりたくてブラスバンド部に入部。その頃ジャズミュージシャンのハービー・マンに憧れていた。しかし、病弱な身は厳しい練習に耐えきれず、半年足らずで退部を余儀なくされた。

ようやく孤独から解放されると思っていた矢先の挫折により、長い間引きこもることになってしまった。

そんな頃、友人が写真部に誘ってくれた。やってみようと思った。写真のテーマはすぐに決まった。「人のあったかい面を撮って、人の心をもっとあったかくしてみたい」と思った。写真の腕をめきめき上げ、高校では写真部の部長になり、大学生になったある日、公園に行くと、バレーボールで遊ぶ高校生ぐらいの女の子が二人いたので、カメラを向け、撮り始めた。

すると女の子の一人が、アッという声を上げ、ハービーさんの方を見た。ボールがハービーさんに向かって飛んで来た。そのとき、「僕はあわやというところでよけたんですが、その女の子が僕の顔を見ながら、二秒ぐらいの間に、あっ、当たっちゃう、痛そう、ごめんなさい、私のせいで、あっ、当たらなくてよかった…。そんな、人への優しさ、思いやり、いつくしみ、そして安堵感、反省心、謙虚な気持ちなど、十八歳の僕は、そこに人間が持ち得る美しい表情のすべてを見た思いがしました」という体験をされたのだった。

この二秒間が、その先数十年の写真家生活の原点となり、方法論となった。旅をして、いろいろな人たちのあたたかな表情を撮ってみようと決めた。そして、生まれた多くの作品は、多くの人々の心を和ませた。

ハービーさんは、二人の素敵な表現者が、自分に贈ってくれた言葉を、大切にしていた。一人は、寺山修司さん。「ハービー山口は、人間の顔の筋肉の一本の変化を撮ることのできる写真家だ」と言われたそうだ。もう一人は、アラーキーこと写真家荒木経惟(のぶよし)さん。ハービーさんの写真展に訪れたアラーキーが言った。「ハービー山口は、日本人で唯一人間の幸せの一瞬を撮れる写真家だ、ワッハッハッハ」。二人とも、わかったようでよくわからない評価の仕方だと思うかもしれないが、ハービーさんの写真を見れば、誰でも必ずなるほどと思うはずだ。

私たちの雑誌に掲載した、お台場の恋人二人の写真も、ちょっと遊んでいる風の男の子と女の子で、撮り方によっては、不良っぽい凄みを出すこともできるかもしれない二人だが、ハービーさんのレンズに向けたその表情は、透き通った優しさと気品あふれる、誰もが祝福したくなるような幸福感を、すがすがしくたたえていた。

私はすばらしい話を聞くことができたと、ハービーさんはもとより、コウタくんにも感謝したい気持ちでいっぱいだった。取材の帰途も感動にひたりながら、コウタくんに同意を求めると、やはり感動した様子で、満ち足りた笑顔を返してくれた。そして、ニコニコしながらコウタくんは別な感想をつけ加えた。

「ハービーさんの息子さん、かわいかったですね」

 取材中に、小学生の息子さんが帰ってきて、お父さんに、おやつのありかを聞いたのだった。屈託のないかわいい少年だった。

「そうだね、かわいかったね」と、それほど心をこめずに私が答えると、彼はさらに意外な感想を投げかけた。

「息子も、ハービーって、呼んでましたね」

私は心のスキを突かれた気がした。コウタくんは、外見も純然たる日本人にしか見えないハービーさんが、息子さんにもハービーと呼ばせているのが楽しく、その点からもハービーさんの面白さを、高く評価したようだった。

 

コウタくんは、結構よそ見をする。ともすると、いつの間にか心ここにあらずとなり、失礼な気がすることもある。しかし、彼の見ている先は、なるほど面白いことが多いのである。

秋の日は短い。私はいよいよ本題への突入を開始した。

「Тさんとは、最近も会うの?」

写真家Тさんは、私たちの雑誌で連載を続けてくれた散歩写真の名手である。軽妙洒脱なとても楽しい文章も書かれ、写真界でもその感性と技術の高さを認められた、隠れたる大御所の一人だが、マスコミ嫌いである。コウタくんが担当となり、いつの間にか、個人的なつき合いが始まり、お互いの趣味の落語も一緒に聴きに行ったりする仲となっていた。もうかれこれ十数年の交際となった。

「ええ、この間もお会いして、携帯写真の写真集作ったからって、もらったんです。これあげますよ」

 ポケットから出したのは、携帯電話の画面の大きさの、1冊8ページのちっちゃな写真集だった。立ち入り禁止の立札、待ち合わせの人の後ろ姿、そして白い雲などを写した散歩写真である。

「いいね。僕もこれを作ろう。自分の写真で。それにしても、Тさんとは長いんだから、たまにはТさんと仕事したら。そうだ、名写真家のことばを、本にしよう。Тさんに監修者になってもらって」

この類の話は何度もしていて、そのたびコウタくんは乗り気でなかったので、今回もダメかと半ば諦めていたところ、やはり色よい返事はない。

「Тさんは、そんなこと、やりませんよ、きっと。まあ、僕が言ってもダメでしょうね。ナカガワさんが頼めば、わからないけれど…」

コウタくんは仕事で知り合った好きな人を、利用しようとはせずに、大事にしようとするばかりなのだ。

「そうだね、そんな俗っぽい事、嫌いかもしれないね。でも、ハービーさんにもコウタくん、あの後何回か、取材に行っているんでしょ」

「ええ、まあ」

いろいろなジャンルの音楽に精通しているコウタくんは、パンクの発祥に立ち会い、ハービー・マンが好きなハービーさんとも、気心が通じたようである。

その後ますます名を上げたハービーさんも、すばらしい仕事上のパートナーとなり得る人だった。

「いろんな人、知っているのに、どんどん、いろんなこと、お願いすればいいんだよ。ハービーさんだって、森山さんだって、動いてくれるかもしれないよ」

「ええ、そうかもしれないけど…」

やはりコウタくんは、そういうことで好きな人をわずらわせるのが嫌いなのだ。

後でわかったことだが、コウタくん情報によれば、森山大道さんは、散歩写真家Тさんと友達であり、新宿のカラオケに、二人で歌いに行く仲だった。

その話をコウタくんから聞いて、私は大いに驚いたわけだが、ともかく、こうした絢爛豪華な人たちの隣に、コウタくんは自らの力でちゃんと席を得たというのに、そんな贅沢な財産さえ、彼は決して積極的には使おうとはしないのである。

と同時にコウタくんは、あるとき私がふと書いた一行を大事にしていることが、野川の河原の会話の中で判明した。「忙しい人は嫌いだね。いつ行っても遊んでくれる人がいい」と、私がメールの中で記したという。しまった。つまらぬことを書いたものだ。

あさましい世の中である。私もあさましく生きてきた。自分の興味や関心や、出会った人たちを、何でもお金に結びつけようとしてきたあさましい自分が恥ずかしくなることがある。だから、大切な人を大切にするコウタくんは、私の敬すべき、範とすべき友人である。そして、勤労意欲を鼓舞する人たちの卑怯な魂胆に、薄々気づいている彼の鋭敏さも好きだ。

でもねコウタくん、私はやっぱり俗人なのだろうか。もし君がそのスタイルをこれからも貫き通そうとするのであれば、やはり私は頑固に反対するのである。

もう少しだけ、あさましく生きるのがいい。忙しくなるのが自分のためだ。さもないと、そのうち、ハトやカメや私と遊ぶ時間さえ、ままならなくなってしまうかもしれないのだから。

野川における説教工作は、今回も失敗裏に終わったようだ。日が傾き、河原を渡る風が冷たさを増したので、私たちは野川を離れ、小金井の方面に向かった。途中、数百坪の豪邸が次々に現れた。私の隣を走るコウタくんに、腹立ちまぎれに言う。

「なんだよ、この家、人を脅かしやがる。どうやったら、こんな家に住めるんだ」

「わかったら、ナカガワさんとなんか、遊んでませんよ」

「それは失敬だろ。ピンポンダッシュでもするか」

「いやー」

「手ぬるいな。小石でも投げ入れるか」

「やりましょう」

 コウタくんの嬉々とした顔を見て、心配になった私は、もうそれ以上はその話はやめて、帰路を急ぐことにした。

 

中央線を越して途中で別れ、コウタくんは、小平の鈴木街道ぞいのカメの専門店「カメのしっぽ」に向かった。カメラよりカメリ。

天気のいい日、ちっちゃなクサガメ、カメリも、やっぱり甲羅干しを好むらしい。日向でじっとして気持ちよさそうだと、コウタくんが教えてくれた。


6

2013-02-7

丘の上の思い出ベンチ



この明るさのなかへ

ひとつの素朴な琴をおけば

秋の美しさに耐えかね(て)

琴はしずかに鳴りいだすだろう

(「素朴な琴」八木重吉)

「イチョウは、広葉樹ではなく針葉樹だって、知ってました?」

年季の入った自転車をガラガラと鳴らして後ろから着いてくる北風さんに、私は振り返り、少し声を張って尋ねた。きれいに黄葉したイチョウの大木が、遠くに見えた。

「エーッ!? 何だって」

やや急な坂道だったが、大柄、偉丈夫の北風さんが、グイと力を入れてペダルを踏むと、予想を上回る早さで、すぐに私の横に並んだ。

その力強さに気圧されながらも、あえて平気な顔をして、私がもう一度尋ねると、北風さんはちょっと悔しそうに、「いや、知らない。ホントですか」と答え、笑顔のまま眉間に皺を寄せた。

北風さんは、私のあばら屋の北側に住んでいるご近所さんだ。本名は別だが、冬の風の強い日に知り合ったから、以来私は心でそう呼んでいる。

北風さんは、頼もしいほど大きな人だ。私は大きな人には最初から負けた気になり、敗北感の裏返しで、過剰な対抗心が生まれやすい。

もとより私は若い頃は、野球やバスケットボールなどに励み、スポーツのことしか頭になく、随分鍛え上げた方だけに、体から醸し出される力に人一倍敏感で、体力エリートには崇敬の念を抱き、同時に、必要以上に嫉妬の炎を燃やすのである。

私は物を書いて暮らしてきたが、芥川賞や直木賞を取った方々より、神宮や甲子園でホームランを打った人のほうが、はるかに、何十倍もうらやましいのである。そして、四十代後半までラグビーをしていたという北風さんにも、何も恨みがないどころか好意を強く感じているというのに、つい心穏やかではいられなくなってしまうのだった。

私は北風さんに、いやらしい言い方にならないように注意しながら、受け売りの知識を披露した。

「イチョウは、葉っぱが針のようになってないけれど、針葉樹だそうですね」

そんな分類学上のマニアックな問題を、わざわざ引っ張り出して来たのは、北風さんが、植物にやけに詳しい人だったからだ。

何回か自転車デートを重ねるうちに、体力エリートのラガーマンというだけではないことが判明した。

こんなことがあった。いつも気になっていた、ケヤキに似ているが、ちょっと違う気のする木の下を自転車で通りかかったとき、私がその木の種類を試しに聞くと、北風さんは急に自転車を止めて、木の下に落ちていた葉っぱを一枚拾い上げ、私に渡しながら言った。

「見てください。葉脈の主脈、カーブしているでしょ」

なるほど、葉の真ん中の筋が曲がっていた。

「葉っぱがシンメトリーじゃないでしょ」

「ええ、確かに」

「これが、エノキの特徴です。ケヤキと樹形や樹皮は似ているけれど、ケヤキの葉はシンメトリーです」

私は普段見慣れていても、それが何十年もの間、何者かわからなったものが、エノキだとわかり、大変嬉しかったのだが、エノキの主脈のように根性のひん曲がった私は、北風さんの知識に、やられた、いつかお返しをしなければと思い、イチョウの分類上の問題を、樹木に関する雑学本をひっくり返して、持ち出してきたのだった。

 

北風さん、それを知らなかったことが、思いのほか悔しかったと見えて、対抗してきた。

「イチョウの学名、ご存じですか」

「ギンゴーなんとかっていうんですよね」

私はたまたま何かで読んで知っていた。

「銀杏(ギンキョウ)という字をラテン語表記するときに、Ginkyoのyを、gにしてしまったそうですね。ゲーテの詩にGinkgo bilobaという、学名そのままを題名にした詩というか、ラブレターがありますね。しかもそのラブレターは今でも残っていて、彼の庭のイチョウが二葉、張り付けてある。もっともすでに焦げ茶に変色しているんですけどね」

北風さん、まいったという顔をして、もうそれ以上はイチョウについては語らず、私を斜め後ろからまくしたてるように、それまでよりも勢いよく、ガラガラと自転車を漕ぐ力を強めたのだった。

大人げない私は、してやったりと思った。

私たちはその日、府中の飛行場に向かっていた。家からは、自転車で一時間ほどである。私は北風さんに妙な対抗心を向ける一方で、感謝も伝えたかった。気持ちのよい広い場所に連れて行き、私の発見したいくつかの面白い場所を紹介することが、感謝の印になればいいと考えた。

感謝とは、あるとき北風さんが私にしてくれた、ちょっとした気遣いに対するものだった。

私が近所の老父の世話をしている頃のことである。寡夫となりながらも、数年間、食事も含めて一人で身のまわりをこなしてきた老父が、急に何かと私を頼るようになった。その上、昼夜逆転が起き、午前三時過ぎに、私がその日の仕事を終えて寝ようとすると電話がかかり、お腹がすいたという。そんなことが頻繁に起こり、昼間は昼間で、あっちが痛い、こっちが痛いと、すぐに呼び出しの電話があり、当時たまたま忙しかった私は、文字通り寝る間もなくクタクタとなった。そこで、老父に施設での生活を勧めたが、頑として聞かず、どうしたものかと悩んでいた。

 

そんな私の様子をどこかで見ていたのか、あるいは聞いたかして、北風の強い日の夕方、まだ午後四時を過ぎたばかりだというのに、もう夕食が食べたいと騒ぐ老父に雑炊を作って家に帰る途中、自転車で通りかかった北風さんが、急に止まり、気の毒そうな顔で、声をかけてきた。

「いろいろ大変そうだね」

最初私はきょとんとして、何をいっているのかわからなかった。

「今、武蔵野図書館に行ってきたんだけど、知ってる、あそこ」

「ええ、何度か行ったことありますが」

「予約すると、机、使えるんですよ」

「はあ」

「静かですよ。落ち着けるし」

「はあ」

「いや、私も父親の世話をした時期がありましてね。それで、ちょっと、気の抜ける時間があるといいかと思って」

私はようやく北風さんが、老父の世話に追われる私を気遣ってくれていることがわかった。老父の世話はもちろん永遠ではなかった。しかし、世話の最中は、先が見えない。また、見ようとしてはいけない。永遠に続いてほしくない困難、永遠であってほしい命。この二つを同時に満たす解はないだけに、出口を見つけられずに独り苦悶する私は、北風さんの気遣いが、とてもあたたかく感じられたのである。

武蔵野図書館の読書コーナーを利用することは、結局なかったけれど、何かの形で感謝を伝えたいと考えていた。しかしそのまま、一、二年が過ぎてしまったある日、自転車で近所を流していると、大きな体を折って前かがみになり、力強く自転車をこいできた北風さんに出会った。週末ではなかった。北風さんが勤め人であることは知っていたので、どうしたことかと思った。休暇の可能性はもちろんあったのだが、その前にも、週末ではないとき、北風さんを見かけることが何回かあった。

私は北風さんに、いきなり軽口を叩いた。

「どうしました、こんな日に。会社、辞めたんですか?」

北風さんは、私の冗談に同調せず、生真面目に答えた。

「いや、ちょっと休んでいるんですよ」

「有給が余りましたか」

「いや、もうポンコツになって…」

北風さんはようやく、ニヤニヤし始めて、気楽な物言いを始めたが、私と違ってごく真面目な北風さんが、戯れたポーズで内心を取り繕うところを見て、覆い隠そうとするものが小さくないことを、私は直感せざるを得なかった。

私はもうそれ以上、詮索しなかった。

イチョウの学名を私にほぼ言い当てられて、ちょっとムッツリ黙り込み、気を悪くしたのではないかと思われた北風さんが、気を取り直して明るく口を開いた。

「それで、今日は、どこへ連れて行ってくれるんですか」

もとより感謝の印のための自転車デートだったのだから、なんでこんなときまで、私は北風さんと競ってやりこめようとするのか、自分のあさましさを反省しながら答えた。

「今日は、三鷹の天文台と、調布の飛行場です」

「そうでしたか」

「ご存じですか」

「はい、一応」

「でも、秘密のスポットですよ。きっと知らないと思います」

「それは楽しみだ」

私は北風さんを毎週一回の割合で連れ出すようになっていた。北風さんは植物が好きで、詳しいということがわかったので、強いて自分の自転車散歩コースにある、木霊が感じられるような巨木を見せて歩いた。あるときは、近隣農家の敷地内にある、二抱えもある樫の巨木を。そしてあるときは、深大寺の近くにある青渭(あおい)神社の樹齢数百年の大ケヤキに案内した。北風さんに、巨木の木霊のご利益があればよいと願った。しかし同時に、ウィークデーの昼日中、私と自転車デートを楽しんでくれる人など、なかなかいないので、感謝にかこつけて、北風さんを好都合な遊び相手にしてしまったような気もして、少し後ろめたくもある散歩であった。

私たちは、植物公園のように大きな樹木が生い茂る、三鷹の国立天文台の広い敷地の西側に辿り着いた。そして、三鷹七中の校舎と天文台の万年塀の間の狭い路地を西に進むと、突然道路が途切れ、崖となり、高さ20メートル以上はあるだろうか、眼下に民家の屋根や中層ビルの屋上を見下ろすことができた。左右の視界は180度の大パノラマで、府中の飛行場とその周囲のサッカー場、野球場、さらには緑地公園など、広大な地域が視野に収まり気持ちがいい。野川も大きな宇宙船のような味の素スタジアムも秩父連山も富士もよく見える。崖の淵には百メートル余りも小道が続き、小道の上には雑木林が趣深く生い茂り、路上にやわらかな木漏れ日が落ちる。

妙な観光スポットより、よほど気の利いた場所であるのに、人気は少ない。誰もが、この場所を荒らさせないように、あまり人に知らせずにいるのかもしれない。

北風さんの表情が緩んでいる。言葉はない。絶句、というやつだ。ここへ人を案内すると、例外なくそうなる。私は北風さんの反応に満足しながらも、ここでも、どうだい、と軽薄に勝ち誇る気持ちを戒める必要を感じた。

「次は、あのグラウンドのあたりに行きます」

私は、飛行場の隣に続く、サッカーグラウンドのあたりを指差した。

「今度は、何があるんですか」

「まあ、行ってのお楽しみということで」

頭一つ高さの違う北風さんを仰ぎ見ながら、つい今しがたの反省を忘れ、私は得意げに答えた。

崖を降りて北風さんに見せたかったものは、サッカーグラウンドの周りに何本か立ち並ぶ、背丈の高い樹だった。

それを私は初めポプラだと思った。樹皮の様子はポプラと変わりなく、深い筋が縦に入り、高さもポプラと同じかそれ以上に高かった。葉っぱも似ているような気がした。しかし、明らかに樹形が異なっていた。

ポプラの樹形は糸巻のような紡錘形というやつだが、その樹は、竹ボウキを逆さに立てたような樹形として知られるケヤキを、グッと引き伸ばしたような形をしていた。いずれにしても、とても美しい樹だった。

「見せたかった樹は、これです。ポプラではありませんよね」

北風さんはしげしげとその樹を仰ぎ見ながら、なかなか楽しそうだった。

「うーん、ポプラに似ているけど、違うね。どこかで見たことある気もするけど、何だったかな」

私は北風さんが困る様子が愉快だった。ギンゴーでは失点を取り返したが、エノキでは失点し、以前青渭(あおい)神社のケヤキを見に行ったときも、北風さんに負かされた。青渭神社の御神木のケヤキの大木で、北風さんをうならせたまではよかったのだが、その帰り道でこう質問され、完敗したのだった。

「武蔵野2号というケヤキがあるの、ご存じですか」

私は、質問の意味がわからなかった。

「あの御神木は、枝別れの位置が、低かったでしょ。でも、主幹が一本電柱のように長く伸びて、上の方で枝分かれしているケヤキもあるでしょ。あれが武蔵野1号とか2号とかいう改良種で、在来種は、御神木のようなやつなんです」

なるほど、思い出してみると同じケヤキでも、まったく樹形が違うものがあることに気がつき、これはやられたと、深い敗北感を味わったのだった。

ポプラに似た樹の正体を思い出せず苦しんでいる北風さんを見て、彼の攻撃を封じ込めた気になった。私の得点とは言い難いが、少なくとも失地をわずかに回復した思いがするのだった。

しばらく考えこんで何かを思い出そうとしていた北風さんは、その樹の葉を一枚拾い、「調べてみましょう」といって諦めた。

私たちがその場を離れようとしたとき、一陣の風が吹いて、背後の空でザワザワと音がした。振り返って仰ぎ見ると、気持ちのよい青空を背景に、無数の葉が風にそよぎ、こすれ合って音を立て、チラチラと揺れて輝いていた。

私は次の案内地に向かうべく、自転車を走らせ、飛行場の近くに行くと、突然北風さんが、「ちょっとお茶でも飲みませんか」と提案した。私は断る理由もなかったが、こんな所に喫茶店はない。自販機のお茶かと尋ねると、いい喫茶店があるという。私は北風さんの後を追った。

向かった先は、飛行場の敷地内の平屋のきれいな建物だった。その脇を通ったことは何度もあるが、飛行機を利用するわけでもないのに、こんな所まで入っていいものか心配になった。北風さんはためらいもなく、自転車を建物の入り口近くに止めた。よく見ると入り口に小さな看板が出ていた。「プロペラ・カフェ」という名の喫茶店だった。

 

喫茶店の南面は、大きなガラス張りで、滑走路のほとんどを横から見渡せた。小型、中型のプロペラ飛行機の滑走路だから、ジェット用に比べれば短いが、窓外近くには待機中の飛行機も見え、間近に見る滑走路の広大さは、気分を爽快にしてくれた。少し遠くでは、エンジン音を少しずつ高めて、そろそろ飛び立とうとしている十数人乗りの飛行機が見える。

「いいですね。こんな所があったとは」

私はまた北風さんに一本取られたわけだが、悔しさを忘れて、胸のすく景色に見惚れた。さらにこの喫茶店は面白いことに、どの椅子の位置からも、喫茶店と壁を接する隣の格納庫の中が見えた。立ち歩いて格納庫内に入り、規制ロープの範囲内なら、間近で小型機やヘリコプターを見学することもできた。

北風さんが、目を輝かせている私を満足そうに見ながら聞いた。

「飛行機は、好きですか」

私はためらわずに答えた。

「ええ、大好きです。特に離陸したばかりの飛行機の後ろ姿を見るのが好きです。なんとなく哀愁を感じて」

「そうですか。それはよかった」

負けっぱなしは、やはり面白くない。意地の悪い私は、北風さんをがっかりさせることも忘れなかった。

「飛行機を見るのは大好きだけど、乗るのは、大嫌いです」

北風さんは苦笑いして、期待通り、ややがっかりした顔になった。

「いやね、私も苦手なほうで、特に、小さいやつは嫌いですね。ここから、小さいのに乗って、航空写真の撮影につき合ったことがあるんですけど、怖かったな」

この屈強そうな剛の者は、植物を愛し、高所に震える、ということを知り、見かけに反して、繊細な人物かもしれないと思った。

それにしても、航空撮影に同行する職業とは何だろう。知りたいが、知らないほうが、二人にとっていいのかもしれないと、なんとなく感じた。北風さんも私の職業の仔細については、尋ねようとしない。

喫茶店で私たちは、飛行機にまつわる話をした。プラモデルの飛行機作りから、小刀で木を削ってゼロ戦を制作したこと、そして私は最近手なぐさみに、モチノキを彫刻し、人や動物の木像を作っていると話した。さらに、モチノキはとても固く、削るのに大変苦労すると教えると、北風さんがまたクイズを出した。

「世界で一番重くて固い木、ご存じですか」

「カシですか、ツゲですか…」。私は知る限りを答えたが、不正解だった。

北風さんは表情を明るくして答えた。

「リグナムバイタという木があって、比重は1.28だそうです」

「エッ、じゃあ、沈む」

「ええ、水に沈むんです。木工用の加工機械では歯が立たないので、金工用の機械で成型するそうですよ」

自分のことを棚に上げれば、北風さんは、ちょっと対抗心が強すぎる気がするけれど、その穏やかな物腰、高い教養、そして標準以上の品格と善良性を思うと、きっと社会ではそれなりのポストにいるはずだと想像できた。そんな中老の紳士が、私なんぞとウィークデーの昼日中、自転車散歩を楽しんでいることの意味合いについては、やはり慎重に解釈しなければならないだろうと、改めて感じるのであった。

とはいえ、ブラインドから見えない右フックを食らったような、リグナムバイタ攻撃により、思わぬダウンを喫した私は、スリップダウンだとアピールしながら、大きな失点を慌てて取り戻そうとするボクサーのように少々気がせき、飲みかけのコーヒーもそのままに、「そろそろ行きましょうか」と北風さんを促して、リベンジの思いもこめつつ、その日のとっておきの場所に案内することにした。

「プロペラ・カフェ」を出て、滑走路沿いの道を西に向かうと、飛行場の西隣にある、広い緑地公園に入った。元来この地域は、すべて飛行場だったから、地形的にも平らな地域だが、公園には人口池が掘られていたり、なだらかな丘陵が諸所に造られていたりなどして、計算されたほどよいアンジュレーションが、景観に変化をもたらし、ただ広いだけではない、趣きのある感じのいい公園となっていた。木立は少なめで、基本的には芝生の緑が気持ちよく広がっている。

「これは何ですか」

北風さんが、公園の入り口近くにあった、コンクリートの物々しい古い建造物の前で止まった。周囲の穏やかな公園のたたずまいとは、一見して違和感がある。巨大なお皿を伏せたようなドーム型だ。

「掩体壕(えんたいごう)というものらしいですよ。戦時中、飛行機をこの中に格納して、敵の爆撃から守ったようです」

北風さんは興味深そうにしげしげと見つめていたが、私の自慢はこれではなかった。小刀で木っ端を削ってゼロ戦を作っていた少年時代なら、さぞかし興味を持って胸躍らせた、貴重な歴史的遺産である。しかし、日本で三百万人、世界で五千万人を超える、多くの無辜、善良な人々の命が奪われたと伝えられる第二次世界大戦の記憶の断片だと知ってしまったからには、決して私の自慢の場所にはならなかった。

私は北風さんの掩体壕への好奇心に関しては、あまりていねいには応えず、さらに公園の奥へと進んだ。すると公園の一角に、芝生におおわれた小高い丘が見えてきた。頂上は公園内の通路から、十数メートルの高さがある。

「ここですよ、私がご案内したかったのは」

私はちょっと自慢げに告げた。北風さんは、自転車を止め、すぐに独りでぐんぐん大きな歩幅で、丘陵を登り始めた。私は遅れてその後についた。

頂上に一基だけあるベンチの脇に立った北風さんは、前方の広々とした景色の遠くに目をやりながら、「これは、いい」と独り言のようにつぶやいた。

私たちの目前には、滑走路が正面に見え、エンジン音を徐々に高め、いきり立つ猛牛のように興奮して、離陸の準備を整えている双発機が、こちらに機首を向けていた。

「ここは真正面ですね」

北風さんが、楽しそうだ。

「ええ、もうすぐあの飛行機、飛び立ちますね」

私は絶好のタイミングで丘に登ったことを喜んだ。この飛行場は、羽田や成田ほど、絶え間なく離発着が繰り返されるわけではない。二、三十分静かなときもよくある。

「そろそろですね」

「そろそろです」

エンジン音はさらに高鳴り、かなり遠くにいる私たちにも、まるで近くにいるかのように、力強い音が聞こえてきた。そして、ちょっと油断した瞬間に突然飛行機がスタートし、猛然とこちらへの突進を開始した。

見る見るうちに大きくなる飛行機。離陸をしくじれば、確実にこの丘に突っ込んでくる。それを遮る柵は、非常に低く弱く、役に立たない。

滑走路を爆走する飛行機は、いつも通りに、そのときもまた見事に舞い上がり、私のわずかな不安はすぐに去ったが、今度は、正面の頭上にふわりと浮かんだ飛行機が失速して、私たちに覆いかぶさってくるのではないかという一抹の不安が脳裏によぎるのであった。

飛行機は私の不安をよそに、銀色の腹を見せながら上手にどんどん高度を上げ、しばらくすると機体をやや傾け、進路を変え始めた。窓から乗客の楽しげな表情がチラリと見える。間もなく機影は蒼空の白い一点と化した。

私たちはベンチに腰掛け、離陸ショーの余韻を楽しんだ。

私は、「どうです、すごいでしょう」などと、無理に私の興奮への同意を求めることをしたくなかった。北風さんの様子を見て、何か楽しげなものが静かに広がりさえすればいいと思った。

北風さんが、口を開いた。

「特等席ですね」

私は北風さんの晴れやかな表情に満足した。

その後も私たちは、よく晴れた青空の下、緑の丘のそのベンチに座って、しばらく話をした。

北風さんは、自分の大学時代のラグビーの練習場は、こんな飛行場の隣にあって、滑走路に進入して遊んだことを思い出すと、懐かしそうに言っていた。そして、先ほど拾ったポプラに似た、不明な樹の葉っぱをポケットから取り出し、親指と人差し指で柄を摘み、風に葉をなびかせながら言った。

「思い出しましたよ、この樹」

「何ですか」

「ほら、この葉の柄、葉柄(ようへい)というんですが、ここが普通の葉よりずっと長いでしょ。こうして風にかざすと、よく揺れるのはそのためです。この柄の断面を見てください。三角形でしょ。長い葉柄の強度を増して、バネの働きをして、よく葉が揺れて、ほかの葉とこすれ合い音を出すようになっているんですよ」

「そうか、だからあのとき、樹がザワザワと鳴ったんですね」

「そうなんです。ポプラは別名、風に響く樹、風響樹(ふうきょうじゅ)といいます。ポプラの葉もこれによく似ているんですよ」

「それで、この樹の名前は?」

「確か、山鳴らし、だったと思います。山の中でこの樹が鳴ると、山全体がまるで鳴っているように聞こえるんです」

「へぇー、そうでしたか」

私は北風さんの知識によって、樹の秘密が解き明かされることを、とても愉快に思ったと同時に、これだけの明確な記憶を、どうしてあの瞬間に思い出さなかったのか、少し不思議だった。この丘から見る飛行場のアングルが、学生時代の記憶を呼び覚まし、それが呼び水となり、山鳴らしの記憶に辿り着いたのか。あるいは、飛行機の迫力ある離陸風景が、北風さんの記憶の一部の封印を解くきっかけになったのか。もしくは、それらとはまったく関係なく、ふと思い出したにすぎないのか、いくつかの可能性を考えてみたが、それはどうでもいいことのように感じられた。

私は脳裏に浮かんだ、別な好奇心に重心をかけて遊ぶことにした。

「それにしても、なぜ、鳴るんでしょう。なんのために」

「なぜ? そうですね、なぜでしょう」

北風さんは微笑しながらも、やや困ったように首を傾げた。私はさらに無造作に質問を重ねた。

「花がきれいだったり、実が美味しかったりするのは、鳥や虫や獣や人に、その存在を知らせて、受粉を助けてもらったり、実を食べさせて、種を遠くに運んでもらためですよね」

「そうです」

「それじゃ、鳴るのは、なぜなんだろう」

北風さんが軽く息を飲んでから、心なしか物憂げな口調で答えた。

「意味なく鳴るわけはないと思いますね。かつては意味があり、今はないという場合もあるかもしれませんが」

北風さんが進化に関わる話をほのめかしただけでなく、話の後半に内心を託そうとしたことに気がついたので、私はあえて非科学的な、ロマンチックな方面からの解釈を試みた。

「ある詩人は、こう言いました。ポプラが高いのは、旅人に、空の高さを知らせるためだって」

北風さんは気楽な顔を取り戻して、愉快に尋ねた。

「風に鳴るのは、なぜだと言ってますか、その詩人は」

「それは言ってません」

この情緒的なベンチは、なにかと効き目が強そうだから、そろそろ離れたほうがよいだろうと思い、私はおちゃらかしを言った。

「私の解釈では、ポプラや山ならしが鳴るのは、旅人を脅かして、早く家に帰れと促すためです」

「なるほど」

北風さんは軽く呆れながら同調し、ベンチから立ち上がったのだった。

その後北風さんとは、あまり会っていない。いつからか、週末以外に出会うことがなくなった。早朝、ゴミ出しに出る家人が、スーツ姿で溌剌とした足取りで駅に向かう北風さんの後ろ姿を見かけたという話を、何度か聞いた。

東京都が管理する公園には、「思い出ベンチ」なるものがある。公園の維持管理の寄付金を募るために、いわゆるネーミング・ライツ、命名権の金銭譲渡制度を、公園のベンチに適用した頭のいい方法だ。東京都の公園に新しく設置するベンチに、高さ55ミリ、幅150ミリの銅色の真ちゅう板を張り付け、その板に、40字以内のコメントと、20字以内の署名を、黒い活字で刻印することのできる権利で、背もたれのないベンチなら15万円、背もたれのあるやつは20万円也ということである。コメントの見本には、「家族で訪れたこの公園 思い出をいつまでも ○○ファミリー」などとある。

私は、この正々堂々たる高価ないたずら書きには、実際どのようなものがあるのか、ちょっと気になり、公園に行くたびにそれとなくコメントを拾い読んだ。実にしみじみとした温かな記憶や感謝に満ち溢れているものばかりだった。しかし、残念なことに私は、コメント見本への共感度を上回るものを、一つとして見つけることができずにいる。

かといって、私に気の利いたコメントのアイディアがあるかといえば、何も思いつかない。「バカ」とか「ゴメン」とか相合傘とか、そんなありきたりなコソコソした落書きが、ベンチには一番似合っている気もするのだが、まさかそれらに署名するのもおかしいし、考えてみれば無記名を原則とし、風雪にかすれ、やがて消えてこそ、いじらしい落書きの本望といえるのではないだろうか。

それに、人々はさまざまな事情をかかえ、思いを抱いてベンチに座り、語り合い、独りごつ。恋する二人、別れた一人、うまくいった老人、つまずいた若者、そして私、北風さん…。ベンチはそれらをみんな覚えているに違いない。

白い雲が浮かぶ青空の下、緑の丘の上に置かれたベンチは、その美しさにたえかねて、自らの記憶を語り出すのである。私たちはただ耳を澄ましさえすれば、いつでもその声が聞こえる。

真ちゅうのプレートは要らない。


7

2013-03-12

教訓Ⅰ 野の花は野に…メダカの学校顛末記

自転車に乗って、オザキフラワーパークのペットコーナーに、メダカを探しに出かけた。

原稿が進まず、やはりこの仕事は向いていないのかと、ふと寂しさに襲われたとき、パソコンの脇を見ると、メダカが数匹、胸ビレをチラチラ動かし、泳いでいるのである。小さいのに頑張っているメダカに勇気をもらうという寸法だ。

どうせなら、いつか本郷あたりを自転車でブラブラ走っているとき、偶然見つけた金魚坂の上にある、創業三百五十年の由緒ある金魚屋で、ちょっと値の張る和金を買い、昔ながらの朝顔型の金魚鉢に入れて、大名気取りで雅趣にひたろうかとも思ったが、柄でもないし、もしすぐに死なせてしまったら、もったいないという気もして、オザキのペットコーナーの十匹300円の外来種のメダカを求めることにした。

「死なせたらもったいない」「十匹300円」――命の軽重を、金額で比べる私がいた。費用対効果、リスクマネジメントといった、氷点下の物差しで命をはかり、自分に都合のよい友達づくりを空想していたのである。

十匹のメダカは小さな水槽に入れ、早速パソコンの脇に置いた。人気のなかった仕事場に、あたたかみが生まれ、気がつくと私の顔はほころんでいた。

しかしほどなくメダカは、八匹となり五匹となった。

値段なりに弱いのだろう。ささやかな生き物との別れが与える落胆などささやかだと思っていた。とはいえ、たとえ300円でも、すぐにみすみす全部なくしてしまうのはシャクである。それに、なんとはない後ろめたさに起因する苦痛から、逃れたい気もあった。正しい育て方をネット情報で学ぶことにした。

メダカは臆病な生き物だと知った。睡蓮を浮かべた甕で飼うのが、昔からのやり方だ。メダカは基本的に甕の奥底の暗い所に身を潜める。私の透明な水槽には身を隠す場所はなく、ストレスにさらされて、弱いメダカはまいってしまったのかもしれない。

また、元来汽水域にも生息するメダカは、薄い塩水でも生きることができ、弱ったメダカは殺菌作用のある薄い塩水に入れると、元気を取り戻すことができた。

雌雄の判別も学び、五匹のうち三匹がメスだとわかり、産卵を期待した。メダカは排卵するとエサと間違え、卵を食べてしまうことも知った。メダカは小さく、脳みそも小さいから、バカなんだと思った。

五匹のメダカはその後順調に育ち、買ってきたときより、幾分大きくなった気がした。私はメダカの学校の校長になる計画を進めることにした。

そのためには、卵を産み付けやすい藻のようなものが必要と知り、準備し、その藻に卵が産みつけられていないか、始終藻を点検する日々が始まった。藻に卵がついたままにしておくと、成魚が食べてしまう。そんな修羅場は見たくもない。卵を放置する一刻の猶予もないと、ちょっとした緊張が続いた。

振り返ればこのあたりから、メダカへのかいがいしい奉仕が始まった。

エサを余分にやって残ってしまうと、すぐに水が濁り臭くなり、水槽の水換えが頻繁に必要となった。しかし、エサやりを我慢するのは難しかった。メダカ用のエサをチロチロと水面にまくと、メダカが水面に上がってきて、パクッと食べる。松屋で見知らぬ感じの悪い他人が、牛丼をあさましくほおばっている景色はいまいましいが、日本一小さな魚、メダカの食事は、見ていて楽しい。「ちひさきものはみなうつくし」(枕草子)である。

楽しいからついエサをやりすぎてしまい、水はすぐに汚れ、毎日のように取り換えが必要となった。

浄水器を付ければ、この手間は要らなくなるのだが、ポンプの音が始終しているのはかなわない。

できるだけ小まめに水換えをして、水槽の内側につく水垢も時々きれいにしておく。これはもう仕方のないことだと観念しようと思ったとき、いい手を思い出した。タニシだ。以前、金魚を水槽で飼っていたとき、一緒にタニシを入れておいたら、水を何か月も買えずにいても、水はいつも透き通っていて、まったく臭くもならなかった。調べるとタニシには、水の浄化作用があるようだった。

ペットショップにはタニシも売っているが、何百円かはしたので、それなら近くの落合川から拾ってくればタダだからと、早速獲りに出かけた。

タニシは多ければ多いほど、水はきれいになるのだろうと単純に考え、できるだけたくさん捕獲するつもりで出かけた。しかし、苔生した川石と同色のタニシは、なかなか見つからず、結局五匹しか探せず、無念を抱きながら帰宅した。

この五名がまさか始祖として、その後私の水槽で、どれほど目覚ましい活躍ぶりを披露するかということは、そのときの私には知る由もなかった。

タニシもまたメダカとともに、私のかわり映えのしない平凡な日々に、穏やかなドラマを提供してくれた。水槽の内側を這うタニシは貝の一種だから、歩みはのろいと思っていたし、「考えごとをしている田螺(たにし)が歩いている」という尾崎放哉の句も思い出していたから、タニシに崇高な思索者のイメージをダブらせていたところがあったが、そうした高尚な方々ではなかった。

タニシのテーマは一つだった。ちょっと目を離しているスキに、意外な速さで移動し、恋をした。そして、逃げるタニシ、追うタニシ。仲良しタニシ、無視されるタニシがいて、その関係はなかなか複雑だ。

メダカの産卵の確認作業とともに、ボルサリーノを被ったイタリア男に見えてきた、興味深いタニシの観察も加わり、私はますます水槽に気をとられるようになっていった。

こうしてタニシは水槽内で、メダカを上回る存在感を示したが、肝心の浄化作用はあまり期待できなかった。というより、むしろ逆効果を来たし始めた。メダカのエサの食べ残し、メダカのフンに、タニシのフンも加わり、水槽は汚れ、水換えや掃除がさらに頻繁に必要となった。

しかし、タニシを今更川に戻す気にはなれなかった。もう少し我慢すれば、浄化作用を発揮してくれるかもしれないというほのかな期待のほかに、メダカとともに私の嬉しい気がかりのひとつとなっていたからだ。

ある日メダカが藻に小さな卵を産み付けた。私はあわててその藻を取り出し、親と分けるために別な水槽に入れた。そして数日もすると、直径1ミリ余りの小さな卵にちっちゃな目が二つ現れ、卵の中でチョロチョロ動き、約10日でピョッと卵から飛び出て、歓喜の誕生を迎えたのだった。

メダカが産卵して、それを親が食べないうちに、別な水槽に小まめに取り分けると、面白いように次々に仔魚を得ることができるようになった。そして、予期せぬ問題が起きた。体長2ミリほどの仔魚たちを、なんとか成魚に育てなければならないという、強い親心、義務感が湧いてきたのだ。

この義務感は厄介だった。これを放棄しようとすると罪悪感が押し寄せ、苦痛になった。

そうこうしているうちに、メダカはジャンジャン増えた。そして、五名の始祖に始まるタニシはメダカを上回る繁殖力を示した。テーブルに乗る小さな水槽では、とても間に合わない。その数は、メダカもタニシもすぐに百を超えた。

大水槽を買うわけにもいかず、ホームセンターで求めた安いプラスチック製の大きなボックスを、水槽がわりに利用することにした。幅六十センチ、長さ百二十センチぐらいの行李だ。

夢想したメダカの学校が、生徒数においては一応完成した。ついでに、タニシの学校も。メダカもタニシも、それぞれ学年があった。メダカは、目玉ばっかりが目立つ、ゴミみたいな仔魚が、少しずつ大きさを増し形を変え、成魚の姿になっていく。一方タニシは、生まれたときはケシの実ほどの小ささだけれど、すでにその形は貝殻を背負い、一人前に親と同じ形をしている。

どちらも百を超えた、この小さきものたちを放置することは、もはや私には不可能になった。

餌やり、フン取り、水替えなどの日課は、少なくない時間を要した。

私の手厚い世話により、メダカの増殖速度は加速し、やがて大きなボックスが五つに増えた。さらに水替えのために、水道水を取り置きしておくボックスも必要となった。狭い仕事場は足の踏み場がなくなった。

しかもこの間に、私はもう一種の生き物の繁殖にも加担してしまった。メダカは臆病な生き物だから、身を隠す場所が必要であり、そして、卵を産み付ける藻のようなものが必要である。この二つの必要を廉価で満たしてくれるのは、ホテイアオイだった。水に浮かぶこの草は、どんどん株を増やし、ほどなく五つの水槽の水面をおおい尽くした。それとともに、不測の事態が勃発した。

ホテイアオイの根は、メダカの産卵に役立つだけでなく、タニシの産卵の適所にもなってしまった。ボルサリーノを被ったタニシは朝から晩まで恋をして、ホテイアオイの根に、卵を産み付けた。

かくして、メダカとタニシとホテイアオイの爆発的な増殖が始まった。その結果、私のメダカたちに関わる仕事の内容が、180度変更された。私はタニシの卵をホテイアイから取り除き、廃棄しなければならなくなった。タニシのケシ粒ほどの幼生も、見つけ次第どんどん捨てた。さらには、増えすぎたホテイアオイの株も、葉の端が黒ずみ弱ったものを見つけては捨てた。たとえその根にタニシやメダカの卵が産みつけられていたとしても。いやむしろ卵が多く付着したホテイアオイを選び、少しでもメダカとタニシを減らすことが主要なテーマになった。

原稿が進まず、この仕事が不向きだったと呆然とし、ふと寂しさに襲われたとき、胸ビレをチラチラ動かし泳いでいるメダカを見て、勇気をもらうという当初の心あたたまる計画が、文字通り殺伐としたものになってしまった。

そして、完全に本業の仕事に手がつかなくなった。初めのうち面白がっていた家人は、やがて青ざめ、いよいよ私への絶望感を強めた。

私はメダカの引き取り手を探し始めた。外来種を河川に放流する訳にはいかない。また、安価な外来種のメダカは珍しくもなく、ほとんど誰も興味を示さない。唯一高校で教師をしている兄が、校庭の片隅の池に、百匹ほど欲しいといってくれた。ただし、タニシと、タニシの卵が付着しているかもしれないホテイアオイは遠慮したいということだった。

結果、まだ数百のメダカとタニシとホテイアオイが残った。私は庭の水漏れする壊れた池を大きなビニールシートでようやく補修し、たくさん水をため、すべてのメダカとタニシとホテイアオイを押し込んだ。エサやりはするものの水替えも掃除もせず、ほとんど手をかけることなく、自然の成り行きに任せようと決意した。最悪彼らが絶滅しても仕方がないと諦めることにした。そのまま本業に手がつけられない状況が続くと、私の方こそ滅亡しかねなかった。

世話をしないことにより池は汚れ、ドブ水となり、卵を産んでも食べちゃうから、メダカの数は減る傾向となった。一方タニシとホテイアオイは、戸外の環境がパラダイスとなり、その繁殖力は手がつけられないものとなっていった。ホテイアオイは、次々に捨てていけば、数を減らすことは容易だったが、タニシを池から完全に取り除くことは、池の水を抜く以外、もはや不可能となった。タニシの子は、防水のために池に敷いたビニールシートのシワにも潜り込んでしまうのである。

しかし、劣悪な環境で数を減らし始めた数百のメダカはいつしか絶滅し、池の水抜きを敢行できる日がやってきた。

私は大きく丈夫そうなタニシを五つだけ採り出し、彼らの故郷、落合川に、自転車で向かった。

私は何を考えていたのだろうか。何も考えていなかった。いささかの崇敬の念も憐憫も愛情もない、氷点下のモノサシで命を計った。その残酷なモノサシに端を発する無知と無計画により、メダカ、タニシ、ホテイアオイの学校、いや、その数において国家規模となりつつあった彼らの連合国の国家建設に失敗し、多くの同胞の命と未来をないがしろにしてしまったのである。私の大罪をどう贖えばよいのだろうか。

いや、私は一部の犠牲を看過することはあったものの、ある期間、ある一定数の動植物の生命の繁栄を、献身的に支えたのである。これは、称讃に値することである。私の置かれた環境下で、あれ以上の何ができたというのだろうか。

落合川に辿り着いた私は、五名の始祖の末裔であるタニシ五名を、言葉なく元の場所に戻した。そして、振り返らずに立ち去り、何事もなかったことにした。


8

2013-04-9

街の匂い人の匂い――ヘンなおじさんたちの行方


練馬区大泉 白子川沿いの牛舎 2013年4月4日撮影

大泉のセンパイの所へ、自転車で遊びに出かけた。白子川添いの細い沿道を走ると、いつものように、カラオケ屋を過ぎたあたりで強い臭気が鼻孔を突いた。ここを通るとき風のない温かな日などは、息苦しいほどだ。東京の端とはいえ区内のこの地域に、まだ牛小屋が一軒ある。周囲は住宅街。半径約百メール以内の住人は、この香水を毎日嗅ぐこととなり悲惨だ。さぞかし迷惑だろうと思うが、先に居たのは牛さん。文句はいえぬ。

センパイは独り身なので、だいたいいつ行っても迷惑な顔をされない。私が二十歳前から、四十年来のおつきあいである。センパイは二十代の頃から老成し、私は青春の迷路の中で、示唆に富んだいくつものセンパイの言葉を胸に刻んだ。しかし、私はある時期から気がつき始めた。私が傾倒し尊崇するセンパイの日常に、センパイの迂闊に起因する気の毒としかいいようのない事態が、かなり多く混在していることを。

センパイは、四十で結婚した。相手はセンパイを敬愛してやまない純情な若い女性だった。式と披露宴は、文人ゆかりの有名ホテルで行われ、一癖も二癖もありそうな、センパイの知友が集まった。世に名を知られた人物も多く、華々しい雰囲気に、末席を得て参列した私は気圧された。しかし、センパイは、ここで結婚生活最初の不注意を犯した。ホテルに払うべき金を、全部二次会、三次会で飲んでしまった。相当な額である。センパイに悪気はなく、後で埋め合わせるための稼ぎはあったのだが、普通の家庭に育った新婦は、何が起こったのかさえも、そのときはにわかには把握できなかったようである。

この事件を皮切りに、次々に起こるセンパイの月並みではない非常識は、若い娘を苦しめた。そして、その日、Xデイは、結婚して何年もたたないうちに、突如訪れた。「おい、ちょっと来ないか」と、私はセンパイからゴルフ練習場に呼ばれた。行くと、センパイのドライバーが、いつもより強く右に曲がっていた。「今日、家に帰ったら、何にもなかったよ」と、苦笑いしながら告げた。私はしばらく実家に帰ったという意味だと思った。「いつもの家出ですか。でも何もないというのは?」。「いや、今度はホントに出てった。家具も全部なくなってた。なんにもない。でもなんにもないっていうのは正確じゃないな。床に紙が一枚置いてあった」「離婚届?!」「うん、空欄を埋めろって」。若い新妻にとっては不人情に思えたセンパイの日々の所業を埋め合わせる唯一の手段が、書類の空欄を埋めることだったとは、悲しいような面白いような、私は不謹慎にもこの皮肉な状況に、ユーモラスな一面を感じるのであった。

日頃たいていのことには悠然として動じないセンパイも、このときばかりは少し寂しげだった。私の予想は的中した。型破りのセンパイと型通りに暮らすことは、土台無理な話だった。

私はこのセンパイの半生における数々の名誉も不名誉もつぶさに見てきただけに、それらの奇想天外な事件をいくつか披露し、読者の一興に供することもできる。しかし、私が今回考えたいことは、センパイの栄誉でも滑稽でもなく、街の臭いであり、人臭い人のことである。

私はセンパイの家に向かう途中の牛小屋の近くで、酸味の利いた牛糞の香しい臭いに鼻孔の奥をえぐられ、めまいを起こしそうになったのをきっかけに、あるおじさんに送るための、少し長い手紙の文案を練り始めた。

拝啓 今年もあなたが引く残飯を満載したリヤカーとそのリヤカーの木枠の隙間から流れ出て、道路に長い帯を引く残飯汁の、あのえもいわれぬ悪臭が、強烈さを増すあたたかな季節の到来となりましたが、その後おじさんは、いかがおすごしですか。といっても半世紀も前にお会いし、その後行方知れずのあなたに、この手紙がどう届くのか届かないのか、知ったことではありません。

それより僕は、ある種の心地よさを感じながらこの手紙を書かずにはいられない自分が不思議で、驚いています。だってあなたは僕のかけがえのない時間の中で、ほんの一瞬傍らにいただけの、風変りな路傍の小石にすぎないと、僕はこれまで信じていたからです。なのにどうして折に触れてこんなにあなたを思い出すのか。今までは不思議にさえ思わなかったのに、今ここに来て、この年嵩を得て、もしかしたら、いやきっと、あなたは僕を成立させるための主要な成分のひとつになっていたのではないかとさえ思うのです。

僕の住む東京西郊の住宅地には、かつて多くの豚小屋や牛小屋が散在し、母校の中学のすぐ裏にも、強烈な臭気を発する豚小屋がありました。それらの中でも大規模だったのがあなたの豚舎で、手入れをしないまま鬱蒼と伸びる生け垣の合間から、かすかに覗き見ることのできた豚舎兼住居は、コの字型の二階建ての廃墟で、今思えば、何かの工場跡だったのかもしれない。そこから幌付きの軽トラックほどもある大きなリヤカーを引いて現れるあなたは、荒い目の麻布で作ったボロボロの上着をベルト替わりの荒縄でしばり、下半身は汚れて黒ずんだ越中フンドシ一つで裸足でした。フンドシの脇からは、しばしばチンチンがはみ出していました。被っていたツバ広の麦わら帽子もボロボロで、帽子の破れ目からは伸ばし放題の髪が流れ出て散乱し、口髭は数十センチの長さに達していましたね。

おじさんは誰とも交際がなかったと思うけれど、残飯を満載した重そうなリヤカーを引きながら、いつも誰ともわからぬ誰かにブツブツ話しかけ、時には語調を強め、行き交う人をいたずらに驚かせていました。

あなたの風体も形相も臭いも、僕をあなたから遠ざけるだけの要素しかなかったのだけれど、あなたは僕に向かって一度だけ、言葉を発してくれたことがありました。

僕は小さい頃から自転車が好きで、自由に乗りこなせる年頃になると、手放し運転に熟達しカーブも手放しで曲がれるようになったり(まあ時々曲がり切れずに電柱にぶつかり、思い切り股間を打ったこともありますが)、坂道で前ブレーキをかけて、後輪が浮くのを愉しんだり(前ブレーキを強くかけすぎて、そのまま自転車でデングリガエシをしてケガしたこともありますが)、わざと水たまりに猛スピードで入り、モーターボートのように水面を切り裂き水しぶきを上げたり(深みにはまって倒れてずぶ濡れになったこともありますが)、いろいろな遊びを楽しんでいて、あるとき熱中したのが、バタバタでした。

自転車の前輪の支え棒、フォークという部分に、洗濯バサミでボール紙の紙片を据えつけ、車輪が回るときにスポークがボール紙をはじき、音が出るようにするのです。すると、自転車を漕ぐスピードによってパタパタという音が早く強くなり、猛スピードで走ると、バタバタバタバタと大きな音を発し、当時普及していた自転車バイク、通称バタバタと同じような音が出ました。

これを初めてつけて街中を走っていたとき、僕は誰よりも愉快でした。大人になった気がしたし、この乾いた大きなエンジン音?を、聞えよがしに街中の人に聞かせたいと、誇らしげな気持ちになりました。

そこで僕はその日偶然出くわしたあなたにも、僕のマシーンの威力を誇示し、日頃あなたから受ける各種の圧力に対する返礼をすべく、あなたのリヤカーを後ろからバタバタ大きな音を立てて脅かしながら越こそうとしました。僕はあなたが驚いて少しは逃げるかとワクワクしました。するとあなたに追いつき追い越そうとしたそのとき、あなたは急に振り向いてコンドルのような鋭い目で、「ウルサイ!」と僕を一喝、僕は震え上がりました。

僕はあなたの迫力に圧倒され、もうそれ以来バタバタを封印し、公道では人に迷惑かけていけないのだと、公徳心について学びました。頭の悪い僕は、あなたの公徳心の欠如については思いが至らず、責める気持ちは起こらず、痛く反省するばかりでした。

そんな身勝手で汚く臭く怪しいあなたをこんなにまで思い出すのは、あなたを取り巻く風が、僕にはどういうわけか、気高いものに感じられたからだったと思わざるをえません。身勝手でも汚くも臭くも怪しくもなく、あなたの中心は、つつましく清々しく公明正大だったという気がするのです。

なぜそんな風に感じるのか、その論拠として挙げられる材料は、何ひとつ僕にはありません。あなたの口走る政治論、哲学論、らしき言説の難解さや、あなたは東大出で頭がよすぎて、世迷言ばかりいうようになってしまったという街の噂も、あなたが僕の主要な成分の一つとなったと感じる理由の説明とはならないでしょう。

あなたがチンチンをはみ出しながら、残飯汁を垂らす巨大なリヤカーを引いて、世の中について、人間について、謹厳に考察を深めていこうとした姿そのものが、あるいは、そんな姿にならざるを得なかった背景事情へのなんとはない共感が、道路に残飯汁がしみ込み、いつまでも臭いが消えなかったように、僕にしみ込み、僕の成分の一つとなっていったのだと考えられます。

その後僕たちの街にも各所で道路工事が始まり、あなたの豚舎も新しい道に取られ、あなたは小金を得たのでしょうか。蓬髪のままではありましたが、長く伸び放題だった髭をそり、くたびれた生地ではあったけれど黒いスーツと白シャツを着て、自転車で街中をうろついているのを見たことがありました。そのときはもう誰ともわからぬ誰かに話しかけるような独り言も発せず、あなたを取り巻いていた風は止み、心なしか寂しげに、自転車を漕いでいたように思われます。

おじさん。おじさんは今どこで何をしておられるのですか。そして、おじさんと同じように、孤独で慕わしい人物だった印刷屋のセイちゃん、その他街の人たち。僕は単なるノスタルジアとして懐かしむだけでなく、これからもなんだかとても必要な風景として、皆さんの行方を探し求めたく思うのです。

おじさん、この手紙を読んだら、この夏、あの臭気が際立つ無風の暑い時期に、ぜひあの姿で不意に街に現れてください。きっと世の中は騒然とし、潔い孤高の気高さと美しさについて、千人に一人ぐらいは気がつくことでしょう。

長くなりました。今日はこのあたりでやめます。僕はこれから、行くところかあるのです。リヤカーも引かず、チンチンも出しませんが、この牛舎の香しい匂いを潜り抜けて、あなたと同じような臭いのするおじさんに会いに行くのです。  

では、またいつか思い出す日まで。       草々敬具

                 

センパイの家に着くとセンパイは、狭い公営住宅の一室で週末の競馬の予想をしていた。最近は手元不如意につき、100円ずつ馬券を買うという。青雲の志を語り合う若い時期、センパイに将来何になるつもりですかと聞くと、夢は競馬の予想屋だといっていた。その後センパイは、たぶん日本一日本の競馬全体の表事情と裏事情に通じた権威になったけれど、馬券はことごとく外した。昔当たったという話はよく聞くのだが、先週は大当たりしたという話を、絶えて聞いたことがないのである。それに、今週はこれが確かだというセンパイからの情報を聞いて馬券を買ったことが何度もあるが、当たったためしがない。センパイの予想馬以外を狙うのが確かなようだ。センパイは予想が外れるとニヤニヤしながら恐縮するが、こんな言い訳をしたこともある。「競馬は馬券を買ったときに、もうレースは終わっているんだよ」。だから、当った、外れたと騒ぐのは、素人だね、レースの予想は知識と記憶と想像力と愛情の賜物、レースという物語は頭の中にあるんだよ、とでもいいたげな負け惜しみだけれど、僕はそういうセンパイの悠長で呑気で余裕綽々のやせ我慢、いわばロマンチックなダンディズムを好んだ。

その日もセンパイは、週末のレースは今度こそ確かだから、お前も少し買っておくと、ちょっとした小遣いぐらいにはなるかもしれないよというので、ハイハイと答えて、予想馬番を書いてもらったメモをポケットにねじ込み、すぐにそのことを忘れてしまった。

競馬の予想の話の後センパイは、例によって天下国家を論じ、日本の戦国時代史の講義の時間となった。そんなセンパイを私は面白く思うのだが、少し困らせてやろうと思ういたずら心が起きて、私はちょっと意地悪な質問をした。

「センパイはいつも天下国家を論じて、よりよい世の中になることを願っているようですけど、でも、僕は疑問に思うことがあるんですよ」

「なんだい」

「僕もいい世の中になればいいと思うけれど、社会に出て、そんなにたくさん好きな人には出会わなかった気がしているんです。つまり、イヤな人たちのために、いい世の中になることを一生懸命考えるのは、疲れる気がして」

「うん、まあな。オレも百人中九十九人は大嫌いだからな…」

 センパイは少し困ったような顔をして口ごもり、その日はそれ以上天下国家の話をすることなく、その後はメジャーに行ったダルビッシュの活躍の可能性について話し合った。

センパイと別れて私の仕事場のある公団住宅の敷地内に戻ると、夕刻のうす暗闇の中から、清潔な白い歯を出してニヤニヤ笑って、こちらを見ている青年に出会った。幼稚園の頃から知っているシューちゃんだ。シューちゃんは私を確認するなり笑いながら私の渾名を呼んだ。「おっ、○○○じゃん」。団地内に棲みついている猫のジミーに似た名である。

週末といわず連日昼日中から、近隣を独り自転車で駆け巡る孤高の私に対する世間の目は白い。なにかと白眼視を免れない。シューちゃんに限らず、私を長く知る子供たちは、私を見つけると意味もなく笑いながら、猫のジミー並みの通称で呼び、迫害する。

あのおじさんもセンパイも孤高を貫くために、どれほど不当な迫害を受けたか知れないと想像し、ネコ並みの呼び名を不本意と思いながらも、私は自分の奥底に在る、ある種の矜持が満たされる気がするのだった。

私も独特の臭気を振りまくヘンなおじさんの列に入れたとしたら本望である。


9

2013-05-1

面白い話



面白い話をするので、笑う準備をしていただきたい。

「道の向こうから真っ白な犬が歩いて来ました。…以上」

私の唯一の小噺(?)のネタで、たまに笑ってくれる人もいるが、だいたいキョトンとされて、「尾も白い」とネタをばらしても、ますます途方に暮れ、やがて私を気の毒そうに見るのがオチである。

では、驚くほど速く飛ぶ昆虫は何? ハエ(速えー)。砂漠で水を欲しがっている生き物は何? ミミズ(み、み、水)。この二つは、子供になら通用することがあるクイズネタ。

そして、替え歌の持ちネタは、サッちゃんだ。

元歌は、自分のことをサッちゃんと呼ぶサッちゃんの愛くるしさを歌ったものだが、替え歌は、このようになる。

「サッちゃんはね、ヨシコっていうんだほんとはね。だけどちっちゃいから自分のことアケミって呼ぶんだよ、おかしいなミッちゃん」

誰なんだ! という歌だ。

私はなぜ自転車に乗って街をブラブラするかというと、ひとつには、面白いことをたくさん探せるからだ。小噺や替え歌を覚えるより、もっと楽しい。

新学期。ちょっと大きめの制服を着た新小学一年生の女の子が二人、話しながらの帰り路。その後ろから、また別な女の子が、大きなランドセルを揺らして、ものすごい勢いで走って来る。気配を感じた二人は振り返り、「あっ、○○ちゃん」。○○ちゃん、呼び止められて急ブレーキ。「どうしたの? 何急いでるの?」と二人。○○ちゃん、足踏みを止めずに、「なんか、走りたくなったの。じゃあねー」というと、すぐにまたすごいスピードで走り去ってしまった。茫然と後ろ姿を見送る二人。そんな日が自分にもあった。

あるいは、高校の近くの曲がり角。自転車で下校中の女子高生、外見はちょっとやんちゃな二人組が、話しながら角を曲がろうとすると、逆側から勢いよく走ってきたハンサムな若い男の子と女の子の一人がぶつかりそうになった。女の子も男の子も二人とも運動神経がよく、瞬時に大きくハンドルを切り、道を譲ろうとする。が、不運にも大きくよけた方向が一致し、ガシャン。倒れるほどの衝撃はなく、男の子が気まずそうに女の子を見て、無言でまた自転車を漕ぎ始めて遠ざかると、もう一人の女子高校生が、からかうように男口調でたしなめた。「何やってんだよー」。するとぶつかった子が負けじと、「うっせーなー」などと、粗野な言葉で応酬するかと思いきや、明るくお茶目に言い放った。「やさしさとやさしさが、ぶつかっただけじゃん」。

たまたま駅の近くで、携帯の着信を確認するために、自転車を止めたときのことだった。昼下がりのガラーンとした駅のホームで下り電車を待つ、私立の制服の小学校高学年のお姉さんと、低学年の弟がいた。弟は新一年生か、まだ通い始めたばかりの様子。「ねぇ、まだ、こないのー」。待ちくたびれて、甘えた声でぐずる。するとお姉さん、毅然した口調で、お母さんのように。「わかった、じゃ、お話をしてあげるから、我慢しなさい」。弟、嬉しそうに「うん」。お姉さん、「おばけがお皿をかぞえ始めました」。昼下がりの明るいプラットホームで、まさかのおばけ話。弟、怖そうに、楽しそうに、「おばけ?」。お姉さん、ホーム中に響き渡る大きな声で、さっさと話を進めた。「もう一度言うよ、おばけがお皿を数え始めました。お一枚、お二枚、お三枚、おしまい。はい、おしまい」。弟は、キョトンとした顔をして、やや間があってから、やはりホーム中に響き渡る声を発した。「エ゛ッ!」

夕暮れ、街外れの裏道で、こんな親子に遭遇したこともある。膨らんだ買い物袋をぶら下げ、メガネをかけたスラックス姿の地味なお母さんが歩いていた。そのお母さんから離れて、道の端を、うつむき加減でスネた表情の男の子が歩いている。小学一年生か二年生ぐらい。二人の距離は不自然に離れ、買い物帰りの親子の親密さが感じられず、会話は聞こえない。たぶん、少年は、なんらかの思いを、母親に受け止めてもらえなかったのだろうと想像できた。二人の重い沈黙の間を、自転車で通り抜けようしたとき、お母さんが子供に向かって、笑いもせず、冷静にたしなめた。「さてはお前、ウルトラマンじゃないな」。ウルトラマンを自認する(?)少年の誇りを突いた、功名な叱責か。少年は、ますますうつむく角度を深くしたようだった。

こんな事々が面白い、というほどではないかもしれないが、ほほえましいと思った。そして、私はほほえましいぐらいの面白さが好きだ。

破顔、爆笑するような面白いことは、確かに魅力的だ。笑う門には福来たる、ということわざを、疑う人は誰もいないだろう。

しかし、笑うことは、本当にいいことなのか。疑う必要はないのだろうか。

最近のテレビを見ると、みんなよく笑う。難しいことを考えたり、言ったりする、政治家や学者もよく笑う。司会者もコメンテーターも、みんなゲラゲラ笑い、ニコニコしている。

なんだか、笑いを大きなウソの隠れ蓑にしているのではないかと思えてならない。

人間は笑うことによって、他の動物と区別されるとは、よく言われる言い方だ。そして、文芸評論家小林秀雄は、笑顔を含む人間のあらゆる表情は病だといった。すると人間は、すべて病んでいるということになる。

なるほどそんな気もするが、笑顔は病んでいる表情には見えにくい。むしろ健康の象徴に感じられる。しかし、そう感じるのは、笑顔が無防備で、知性という攻撃性を備えていないからか。嘲笑という批判的な笑いには、トゲが生えているが、それ以外の笑顔に攻撃性はないだろう。つまり、嘲笑以外の笑顔なら、とりあえず安心できるという印象において、健全であると感じるのかもしれない。

と推測するのは、やはり笑いというものを発する人間の心身の状況は、穏やかな状態、健やかな状態ではないという説があり、自分もその説に興味があるからである。

その説を唱えるのは、進化論で知られるダーウィンだ。『人及び動物の表情について』という本の中で、こう書いている。

「もし心が愉快な感情で強く興奮を催し、その上ちょっとした不意の出来事または考えが発生する場合には、ハーバート・スペンサー氏の説くように、『多量の神経力が、発生しかかっていた等量の新しい考えや情緒を生ずることにそのまま消費されずして、その流動を急に阻止される』から『その過剰は他の方向に解放されねばならぬ。そこで運動神経から諸種の筋肉への流溢(りゅういつ)となり、我々が音笑(おんしょう)と呼ぶところの半痙攣(けいれん)的動作を生じせしめる』」

つまり音笑、声を立てて笑うことは、ある方向性を持った愉快な興奮が、突然裏切られ、行き場を失い、有り余るエネルギーを消費しなければならない状態となり、そのエネルギーは、声帯や顔面の筋肉や腹の筋肉を激しく動かすこと、半分痙攣したような動作を行うことによって費やされる、という説だ。

もっと簡単にいえば、予期せぬ意外性に驚き、声帯や体が痙攣を起こすのが笑いの正体ということだろうか。

要するに笑いは、痙攣だ。どうりで笑っている人間がバカっぽく見えるわけだ。知性のコントロールとは真逆の現象で、人間が他の動物と区別される理由の一つが笑いだとすれば、人間はどんな動物よりバカなのかもしれない。

だから私はバカに見られまいと、できるだけ笑わないようにしている。本や雑誌や新聞などで原稿を書いたとき、プロフィールに使う顔写真を撮らせてほしいと求められることがある。何度か求められて無理に笑顔を作らされ、撮られたことがあるが、最近は断り、笑ってなんかいない、せいぜい微笑んでいるだけの、自分で撮った写真を送ることにしている。

選挙ポスターにしても、笑顔が基本だ。カメラに向かって作り笑顔のできる人間を、信用してはならない。手をたたいて哄笑している人を見ると、シンバルを叩きながら歯をむき出して笑う、ゼンマイ仕掛けのサルを思い出す。サルを軽蔑するわけではないが、あれは痙攣が高じたときの一種の醜態ともいえる。

すでに書いたように、私はほほえみを生む種類の面白さが好きだ。発作的な痙攣を起こすのではなく、余裕のある安定した精神状態を保ちながら、楽しい気持ちになれるからだろうか。

今年の正月にも、私をほほえませる、こんな光景に遭遇した。

ある古い団地の敷地内の道路を、自転車で走っていたときのこと。私の前方に、奇妙な形が移動しているのが遠目に見えた。団地内はもとより、一般公道でもどこでも、かつて見たことのない物体の移動だった。近寄ると、その正体の一部が明らかになった。自転車に乗った小学四、五年生ぐらいの少女だった。ジーンズに黒のパーカー姿。それだけなら特に何の変哲もないが、その自転車の左右に、大きな奇怪な黒い物体を引きずっていたのである。しかし、引きずっていた物体の正体がわからなかったので、さらに接近すると、ようやくわかった。スケートボードの上にしゃがみ込んで背を丸くした同じ年頃の女の子二人が、自転車の左側の子は右手を伸ばし、右側の子は左手を伸ばして、自転車の後ろの荷台を掴んでいたのである。しかもスケボーの女の子二人も、自転車を漕いでいる少女とまったく同じ服装で、ジーンズに黒のパーカーだった。さらに驚いたことには、女の子たちは三人とも、パーカーのフードをかぶり、フードのチャックを一杯に上げ、目だけ出している状態だった。そして、この三角形の怪盗団(?)は、仲間割れの最中だった。

「だから、そっちに引っ張んないでよ」「引っ張ってないよ、行っちゃうんだもん」「どっちでもいいから、もうヤメようよ」「ダメよ、頑張ろうよ」

定まらないスケボーの進行方向が自転車のバランスを崩し、崩れた自転車のバランスが、さらにスケボーの不安定を生み出し、まさしくコックリさん状態で、三者の意のままにならず、まるで命があるかのように勝手に、その三角形の物体は、あっちこっちに行ってしまうようだった。

このユニークな物体の創造に加わり、共同して操縦を実践し始めたことにより、友情の絆をさらに強めただろう三人が、やがて真剣な仲間割れを始めつつも、まだしばらくこの前代未聞の未確認移動物体のコントロールに挑戦する姿を、私は自転車を止めて見守らないわけにはいかなかった。

以上の笑いについての随想が、きわめて一面的で不十分な知識、知見を基にした浅いものであることは承知しているが、深追いはやめておく。フランスの哲学者ベルクソンは、『笑い』という著書の冒頭で、こう言った。

「笑いとは何を意味するか。笑いを誘うものの根底には何があるか。アリストテレス以来、おえらい思想家たちがこのちっぽけな問題と取り組んで来たが、この問題はいつもその努力をくぐり抜け、すりぬけ、身をかわし、たち立ち直るのである。哲学的思索に対して投げられた小癪(こしゃく)な挑戦というべきだ」

無知な私が無闇にものを考えるのは危険だ。笑いの迷宮で悶死するのがオチだ。

それより、白いしっぽを巻いて、この問題からすごすごと退散するのが賢明である。

さて、雨も上がったことだし、愉快な怪盗団があの団地内にまた出没していないか、自転車パトロールに出かけることにしようか。それとも、あの絶世の美人が招く魅惑の看板に誘われて、ひとっ風呂浴びにでも行こうか。

「ふろはふろやで ヘルストン人工温泉 千代乃湯」


10

2013-06-1

1Q84と原子核研究所と

ツムちゃんのウンチ




 余暇の健全なつぶし方のひとつに、「炒豆(いりまめ)を噛(か)んで古人を罵(ののし)る」という方法がある。荻生徂徠(おぎゅうそらい)がこれを発明し、夏目漱石や芥川龍之介が賛成したようだが、なるほど存命中の方々を批判するのは、なにかと差し障りがあり、場合によっては命がけとなる。

 だから私も梅干しの種をかみながら、ひたすら自転車を漕いで、心のモヤモヤを運動エネルギーに変換するのであるが、やはりちょっとは、同時代人にも悪口を言ってみたくなることがある。

「どうですか、今度のムラカミハルキの小説、色彩を持たないなんとかは、読みましたか」

「いや、まだだ」

「初版100万部」

「ふーん」

「そんなに売れる本は、どうせつまんないんでしょうね。アッ、でもHさんは、1Q84は面白かったって、言ってましたね」

「うん、それなりに面白かったよ」

 Hさんは雑誌編集者であり、作家である。今はほぼリタイヤし、印税で細々と暮らしている。Hさんが雑誌編集長の頃に発掘した作家がその後名を上げ、今やメジャーな文学賞の審査員を務めるようになった人が、何人もいる。

 つまりHさんは、たいていの作家に恐縮する立場になく、むしろどちらかといえば、たいていの現代作家に辛口だった。にもかかわらず、ムラカミハルキに好意的な理由はなぜか。本当に面白いと思っているのか、怪しんだ。

「そうですか、やっぱり面白いですか」

 私はあえて残念そうに言った。Hさんの舌鋒の冴えを期待しているのに、どうしたんですか、というメッセージを暗に込めた。

 Hさんは、面白いとする根拠は言わず、別な話を始めた。

「Dを知ってるよね。この間久しぶりに会ったんだ」

「はい、Dさん、Hさんの雑誌で連載をしていた」

「そう、今、ある女性に食べさせてもらっている。書く仕事はない」

「立派なことじゃないですか。それも甲斐性ですね」

「まあな、オレも老舗旅館の婿養子、バカ旦那というのが、理想だったからな」

「で、Dさん、ムラカミハルキを…」

「そう、ボロクソに言うんだ。それを聞いていたら、憐れになってな」

「そうでしたか」

「オレも、ああいう風に見られるのかと思ったら、悪口は言わないようにしようと思ったんだ」

 Hさん、七十を目前に控えた大悟にしては、いささか迫力に欠けると思われたが、なかなかチャーミングですがすがしくも感じられた。

「どうだい、読んでみるか」

 Hさんが、1Q84のBOOK1を貸してくれた。

「あとのやつは人に貸していて、今ここにないんだ。もし戻ったら、今度また渡すよ」

 私はきっとBOOK1も読み切ることなく、途中で投げ出すと思っていたから、続刊の行方については、あまり関心がなかった。

 原子核研究所の跡地にできた「いこいの森公園」の木陰のベンチで、1Q84を読み始めた。世界のムラカミ作品を原子核研究所で読む。これほどふさわしいロケーションはないのではないかと、大した根拠もなく、なんとなくそう思って悦に入った。

 分厚い本を開くと見返しの色は、初夏の公園の下草の若々しい緑に似て、さわやかだ。しばらくムラカミ作品は読んでいなかったし、自分も人間的にもブンガク的にも向上しているかもしれないし、Hさんも悪くないと言っていたし、なによりもムラカミハルキはノーベル文学書最右翼と目される存在になったのだからと、いつになく期待が膨らんだ。

「ここは見世物の世界 何から何までつくりもの でも私を信じてくれたなら すべてが本物になる」

 巻頭にこの言葉。これは何を意味するのか。いきなり自信がないのか。私を信じてもらえないと、リアリティが生まれませんという意味にもとれる。それとも、いかにも見世物と感じられる世界が、実は現実の正体であるということを、私が解き明かして進ぜようという自信なのか。どっちでもいいから、面白いことだけを願いながら、前に進むことにした。

 すると本文の冒頭から、「青豆(あおまめ)」である。主人公らしき若い女性の奇異な苗字だ。私はこのショックから立ち直れないまま、読み進むと、「ふかえり」という、俗臭の強い愛称の少女、「空気さなぎ」というどうしてもなじめない小説の名。私の未成熟で狭量で保守的な趣向や感受性は、すでにうちのめされ、ダウンしてテンカウント中にもかかわらず、累計300万超部の販売=読者、応援者を背にした彼は、執拗に私にパンチをあびせかけ続けるのであった。ムラカミワールドは健在だった。

 数十ページを読んだところで、私はひと息つくことにした。五月、木陰にいなければやや暑いほどの初夏の日差しだった。今年はハナミズキもすでに終り、公園の花のカレンダーは例年より、ひと月近く早くめくられていた。緑の深さを増した木々の葉は、五月の昼下がりの日差しをはねかえし、輝いている。

 さて、このままムラカミワールドの探検を続けるか、もうやめにして、東村山の北山公園にでも行って、菖蒲の花の開き具合を調べに行こうか迷っていたら、遠くから小学生の声が聞こえてきた。

 まだ昼過ぎ。週末でもないのに、どうしてこんなに早く下校するのだろうといぶかりながらながめていたら、ちっちゃな小学生たちが、大きなランドセルを背負い、二、三人ずつのグループになり、こちらにどんどん近づいてくるのが見えた。小学生たちは、明らかに一年生だった。つい、先々月までは、幼稚園や保育園に通っていた連中だ。

 私は、しまったと思った。私の居たベンチは、公園の入り口近くにある小学校と、公園脇の巨大な高層マンションへと向かう公園内の通路添いにあったから、しばらくの間、彼らの自由奔放な下校騒動に、巻き込まれるハメになったのである。もはや1Q84を読み進めるべきか否かを迷う必要はない。しばらく読書は不可能となった。

 予想通り小学一年生たちは自由だった。ワーとかキャーとか、歓声、奇声を上げながら、女の子が男の子を追い回したり、その日の出来事を楽しげに話し合ったり、小枝を振り回してチャンバラしたり、あるいは、沿道にある水飲み場の噴水式の噴出口を指で押さえ、男の子にかけ始めた勇ましい女の子もあらわれた。斜めに飛び出した水は、弧を描きながら中空で飛散し、青空を背景に七色の虹の橋がかかる。その橋の下を男の子たちが嬉しそうに濡れながら、次々に走り抜ける。

 自分も一緒にまざって遊びたくなった。子供はやっぱり面白いなと思ううちに、もう一つ、子供たちに期待をかけた。

 水飲み場関連ではしゃいでいる一団とは別に、二、三人ずつの塊が、私のベンチの脇を、次々に通り過ぎていった。ある者たちは、縁石を一本橋のように辿りながら、ベンチに座る私にはおかまいなしに接近し、私をかすめて通り過ぎていく。その際、彼らの話の内容がよく聞こえた。聞いているうちに、これだけ一年生がいれば、ぜったいあの話題を口にする子たちがいるに違いないと期待した。

 するとほどなく期待がかなった。私のベンチのすぐ後ろを、男の子二人が通り過ぎていったとき、ハッキリと耳に届いた。

「きょう、茶色いウンチ作ってさ」

「エーッ、ウンチかよ」

 この年頃は、ぜったいウンチ話が好きなのである。

 私は誤解されてもかまわないから言うと、「ざわざわ森のがんこちゃん」が好きだ。20年近く前から続いている、NHK教育テレビの小学校1、2年生向け番組である。ざわざわ森に引っ越してきた恐竜一家と森の仲間たちの物語で、主人公は恐竜のガンコちゃん。一本気でやさしく、破壊力のある女の子だ。昔は欠かさず視聴し、今もたまに見る。

 見るたびに面白いが、深く記憶に刻まれた名作は、カタツムリの女の子、ツムちゃんが主人公になったときの回だ。繊細で心優しく、とても恥ずかしがり屋で、よく殻の中に隠れてしまう。そんなツムちゃんが校庭の端の草むらで、自分の殻より大きなウンコをしてしまった。みんなに見つかったら恥ずかしいと思いツムちゃんは、草むらから一歩も外に出られなくなってしまったのだった。ツムちゃんが見当たらなくなったので、ガンコちゃんは心配し始めた。いろいろ探し回ってようやくツムちゃんを発見。ガンコちゃんは、どうしてそんなところに隠れているのと、ツムちゃんに聞いた。ツムちゃんは、仕方なく事情を話した。するとガンコちゃんは、なーんだそんなこと気にすることないよと、ツムちゃんを励まし、ツムちゃんが気を取り直し元気になるというお話。たわいもないが、自分の殻より大きなウンチをしてしまい、悩んで動けなくなったツムちゃんが、とてもかわいらしかった。

 しかし、と思った。ざわざわ森を包む、あの得も言われぬ清涼感、透明感は、なんだったのか。あらゆるパラダイスに潜む寂寥感に類するものにも思われたのだが。ちょっと気になり調べると、ざわざわ森の成り立ちが紹介されていた。

 それによるとこうである。

 環境汚染の影響によって、一部の場所を除いて地球の自然は壊滅状態となり、すべて砂漠化し、人類はすでに絶滅。そんな地球では、かつて人間による遺伝子操作によってつくられた高度な知能を持つ動物たち、恐竜、サソリ、カタツムリ、キノコ、木、河童などが、人類に代わって地球で文明を築いていた。「ざわざわ森のがんこちゃん」は、自然が失われた都会から、まだ自然が残る「ざわざわ森」へ引っ越してきた恐竜一家と、その仲間たちの物語だ。

 ざわざわ森とその仲間たちの物語が、哀しいほどにきれいに思えたのは、そんな設定のせいかと、半ばふざけ気分で独りジーンとしていたら、ふとあの日のことが脳裏をよぎった。

 あの3月11日、私はこの原子核研究所跡地にほど近い、コープ二階のダイソーに居た。経験したことのない強烈な揺れは、コープ周辺に林立する二十数階建ての巨大なマンション群をも軽々とゆさぶり、しばらくの間、私は歩行どころか、直立する能力さえも奪われ、しゃがみ込む以外に方法がなかった。しかし、揺れの最中は、怖くはなかった。恐怖を感じる余裕さえもなかった。

 そしてその夜、津波のことを知った。さらに、福島のことも。

 私の心に、東北の太平洋沿岸の小学生たちの下校風景が映し出された。私はそれ以上の想像力を働かせることをやめた。

「天災は忘れたころにやってくる」で知られる明治生まれの物理学者、地震学者、随筆家の寺田寅彦は、「津浪と人間」という文章の中で、次のように言っている。

「昭和八年三月三日の早朝に、東北日本の太平洋岸に津浪が襲来して、沿岸の小都市村落を片端から薙(な)ぎ倒し洗い流し、そうして多数の人命と多額の財物を奪い去った。明治二十九年六月十五日の同地方に起ったいわゆる『三陸大津浪』とほぼ同様な自然現象が、約満三十七年後の今日再び繰返されたのである。 

 同じような現象は、歴史に残っているだけでも、過去において何遍となく繰返されている。歴史に記録されていないものがおそらくそれ以上に多数にあったであろうと思われる。現在の地震学上から判断される限り、同じ事は未来においても何度となく繰返されるであろうということである。

 こんなに度々繰返される自然現象ならば、当該地方の住民は、とうの昔に何かしら相当な対策を考えてこれに備え、災害を未然に防ぐことが出来ていてもよさそうに思われる。これは、この際誰しもそう思うことであろうが、それが実際はなかなかそうならないというのがこの人間界の人間的自然現象であるように見える。」

 警鐘は乱打されていたのに、「人間界の人間的自然現象」が、3月11日、また繰り返されたのである。

 しかし、昔はもう少しマシだったと、寅彦は言う。

「昔の日本人は子孫のことを多少でも考えない人は少なかったようである。それは実際いくらか考えばえがする世の中であったからかもしれない。それでこそ例えば津浪を戒める碑を建てておいても相当な利き目があったのであるが、これから先の日本ではそれがどうであるか甚だ心細いような気がする。…(略)…しかし困ったことには『自然』は過去の習慣に忠実である。地震や津浪は新思想の流行などには委細かまわず、頑固に、保守的に執念深くやって来るのである。紀元前二十世紀にあったことが紀元二十世紀にも全く同じように行われるのである。科学の方則とは畢竟(ひっきょう)『自然の記憶の覚え書き』である。自然ほど伝統に忠実なものはないのである。

 それだからこそ、二十世紀の文明という空虚な名をたのんで、安政の昔の経験を馬鹿にした東京は大正十二年の地震で焼払われたのである。

 こういう災害を防ぐには、人間の寿命を十倍か百倍に延ばすか、ただしは地震津浪の週期を十分の一か百分の一に縮めるかすればよい。そうすれば災害はもはや災害でなく五風十雨の亜類となってしまうであろう。しかしそれが出来ない相談であるとすれば、残る唯一の方法は人間がもう少し過去の記録を忘れないように努力するより外はないであろう。」

 加えて寅彦は、今後も三陸だけでなく、太平洋沿岸すべてで、十分用心すべきだと強く訴える。

「津浪の恐れのあるのは三陸沿岸だけとは限らない、寛永安政の場合のように、太平洋沿岸の各地を襲うような大がかりなものが、いつかはまた繰返されるであろう。その時にはまた日本の多くの大都市が大規模な地震の活動によって将棋倒しに倒される『非常時』が到来するはずである。それはいつだかは分からないが、来ることは来るというだけは確かである。今からその時に備えるのが、何よりも肝要である。

 それだから、今度の三陸の津浪は、日本全国民にとっても人ごとではないのである。

 しかし、少数の学者や自分のような苦労症の人間がいくら骨を折って警告を与えてみたところで、国民一般も政府の当局者も決して問題にはしない、というのが、一つの事実であり、これが人間界の自然法則であるように見える。」

 良い国の条件は簡単だ。子供たちの下校時間を安全にすればよい。楽しいあのひと時を、どのような脅威からも守らなくてはならない。

 それなのにまた、「人間界の自然法則」が力強く働きだし、「安全宣言」が各所で乱発され始めている。

 結局私は1Q84を読破することはできなかった。BOOK1の237ページまで。しかし、この物語が現代の深層に潜む暗部=悲劇をとらえようとする、壮大な試みであることを知った。そして、私たちの社会に生成される下卑た物語の捏造が、私たちの感受性を破壊し続ける元凶の一つなのだろうと感じた。破壊された感受性は、ウンコ話にいそしむ小学生のパラダイスを、危険にさらすことの正当性を言い張るずる賢い連中のヘリクツを、うっかり信じるようになる。というより、他人のことなんてかまやしないという、私たちの誰もが持つ残酷な本性の一部が、堅固な拠り所を得ることになる。

 1Q84は1984のパラレルワールドだという。

 私は若い頃、パラレルワールドを想像したことがあった。

 道を歩いている。交差点を右に曲がる。左に曲がる。まっすぐ行く。引き返す。どの選択肢もあるとき、すべての選択肢ごとに、別な私の運命が進んで行くのである。そうした日常的なことはもちろん、就職、結婚などなど、重大な選択肢においても、選択肢ごとに別な運命、人生が展開されることになり、それらは同時に進行して行く。運命は分枝し分枝し、無数の私の運命、人生が、同時に進行しているのだ。ただし、それぞれに分枝した運命、人生に居る自分は、他の自分と交信することはできない。唯一の交信手段は夢であり、胡蝶の夢は、まさにパラレルワールドの存在を指し示している。

 そんなにたくさんの無数の世界が、いったいどこに存在できるかというと、四次元の世界に収納されている。私たち三次元の世界に居る者は、二次元のものを無限に収納できる。同様に、四次元の世界が三次元の世界を無限に包括し得る。そんなことがあるなんて、証明できないが、ない、とも証明できないだろう。

 なにやらムラカミハルキめいてきた。

「私を信じてくれたなら すべてが本物になる」という流れになってきた。

 ともあれ私は私を信じることにしよう。2Q11.3.11では、子供たちは、例の話もまじえて歓声を上げながら、無事に下校を終え、その晩も安らかな一家団欒を迎えたのである。

 そもそもあの日あの時、時空に大きな歪(ゆがみ)が生じて、異界への旅を始めたのは彼らではなく、実は私たちだったのかもしれない。

 1Q84は、来週Hさんに返しに行くつもりだ。そのとき感想をどうしよう。あの日のことやパラレルワールドのこと、東北の子供たちは別の世界でひとつも傷ついてはいないこと、そうした話は胸にしまっておこう。1Q84の感想はうやむやにして、すぐに別の本の話をしよう。

 別な本とは、「あかべこのおはなし」という絵本だ。児童文学者だったHさんの父さんが、三十数年前に出した本で、このほど復刊された。磐梯山近くの民芸店に並んでいた赤ベコが、磐梯山に魅了されて登りたくなり、歩き始め、登り切るという物語だ。磐梯山と会津の自然が美しい。

 寅彦言うところの昔の経験を馬鹿にする人間的自然現象が奪った会津の自然について、あかべこは語らずして、そのすばらしさを教えている。

「来週には、あかべこのおはなしが、もう一冊出版社から送られてくるから、進呈するよ」とHさんは言っていた。

 1Q84もムラカミさんも、ありがとう。

 でも、今はあかべこのおはなしのほうが楽しみだ。


11

2013-07-1

高円寺の聖地

「つまんないな」という絵本は、私の座右の書のひとつだ。さして気の利いた内容ではないが、私の平常心は、つまんないな、だから、慕わしく思われるのである。

 つまんないなという心境は、もちろんテンションが低い。けれど、低さに甘んじる気はさらさらない。なんとかテンションを上げたいと思っている。すなわち、私のつまんないなは、なんか面白いことないかな、の同義語である。

 そこで、しばらくぶりに銀行に行ってみた。たとえ自分のものではなくても、食品スーパーに行って、たくさん食べものが並んでいるのを見ると、自然に顔がほころび、幸せな気持ちになる。同様に、銀行にはお金がたくさんある、と想像できるし、お金の匂いもするから、やはり自然に嬉しくなる。私だけだろうか。

 梅雨のさ中、小雨模様。傘をさしながらの片手運転で、隣町の銀行に出かけることにした。少し漕ぐと自転車の操縦感覚がおかしい。どうやら、前輪の空気がやや減っているようだ。パンク?にしては空気の抜け方が穏やかだ。1日ぐらいはこのまま持つだろうと思い、そのまま出かけることにした。

 この自転車は2年前、店舗をどんどん増やし躍進目覚ましい自転車店で買った。買う際店員に、パンク予防の充填液があるから、注入してはと勧められ、なるほどそれはいいと、安くはない追加料金を支払い処置してもらったが、1か月余りしてすぐにパンクした。新車がそんなに早くパンクした経験はないし、しかも充填液を入れたのに、そりゃないでしょうと、すぐに自転車店に文句を言いに行った。

 すると若い店員は謝りもせず、即座にパンクの状況を確認して、空気が少ない状態でコンクリートのような固い段差を登ったときに発生するパンクで、これは保障の限りではないと冷やかに答えた。空気を十分に入れた状態でのパンク予防効果だと説明し、それは保証書にも書いてある、ほらねと言わんばかりに、保証書を開いてその部分を指差した。

 非道(ひど)い、懲らしめてやらねば、という気持ちが沸々と湧き上がってきた。

 私は聞き分けのない人間ではない。店員が、予防効果が空振りに終わったことについて恐縮する気持ちを示すなら、「いいよいいよ、お若いの、そんなにしょげることはないさ、こっちの扱い方が悪かったんだろう」と譲歩する気持ちだってあるんだ。

 なのにいきなり保証書を持ち出して、法的臨戦態勢に入るとは、まさにケンカ腰、久々に店内だろうとおかまいなしに、公衆の面前で暴れようかとも思った。しかし、私はもう若くないし、体調がもう一つすぐれないし、分別盛りの年頃だし、暴れた後の自己嫌悪や虚脱感に耐えられそうにない気がしたので、大きくない声で、二、三の悪態をついただけで、引き下がることにした。

 高速道路のパーキングで親切ごかしのオイルチェックサービスを受けて、真っ黒ですよと言われ、これは危険ですねと諭されると、思わず、高速道路=重大事故、変えなくっちゃと、まんまんと相手の術中にはまるがごとく、パンク予防の充填液の誘惑に負けた自分がバカだったのだと反省した。

 おお、怖い。世間はいつも私をだまそうとしている。

 その最たるものが銀行だ。こんな乙に澄ました、合法的なペテン師、いや失礼、スマートな策略家は、なかなかいない。この策士の巣窟に足を踏み入れ、その手口を改めて確認し、啓発されることは、間抜けな庶民のたぶん先頭集団に位置する私には、とても刺激的な勉強となり興味深い。

 人から金を安く借り、高く貸すのである。こんなにうまい商売は他にない。しかも、出資者はしばしば同時に債務者となる。自分で安く貸して、同じものを高く借りるのである。(アホかっ!) なおかつ金融情勢が変われば、ほとんどタダ同然でお金を借りて、高い利子で貸すことも許される。(ホンマでっせ!)

 こんなボロイ商売は、他にない。学校の先生や親は、どうしてみんな銀行に入れと教えてくれなかったのか。高校の同級生の中には、地銀の頭取になったり、都銀のエライサンになった者もいるから、たぶん親や先生は、私にも少しは勧めたのだと思う。もっと強く勧めるべきだった。

 もちろん銀行にだってリスクはある。貸したお金が返らないことも。でも安心。担保を取っている。担保となる土地や家屋やもろもろを、高く見積もり過ぎて失敗することもあるが、そんな失敗だって、平気平気。いざとなれば国がなんとかしてくれる。そして、ゼロ金利政策をやってくれるから、どんなうっかりした経営者でも、どんどん儲かり、やり直しがきくのである。

 しかも、銀行ときたら、尊敬される。街金は軽蔑されるのに、銀行は尊敬される。街金も頭が悪くないから、やがて銀行の子分となった。いや失礼、提携した。そして、有名芸能人がコマーシャルに出演するようになり、すっかりオシャレで怖さもなくなった。そんなイメージ戦略に成功?した。

 街金を含めた銀行グループは、資本主義経済、自由主義経済の血液であるお金を、適切な場所に、適切な分送り込む機能を有するから、まるで心臓のように何よりも大切である。その一番大切なところで働いている方々は、一番尊敬に値する。

 したがって、この国家の心臓部たる銀行の機能が衰えたり、損傷したり、ダメになったりしたら、さあ大変。日本が、世界が、とんでもないことになる。多くの庶民が辛酸を嘗めることになる。そんな悲惨な状況を招いてよいはずがない。庶民や弱者こそは守らねばならない、という正義を貫く必要がある。だから、銀行はどんなときでも必ずつぶしてはならない。

 そんな神々しいばかりの光を放ち続けるパラダイス、銀行に久々に行ってみると、やっぱいい感じだ。預金金利のパンフレットを見れば、0.02%とか0.025%とか、すがすがしいほどに控えめな数字が並んでいる。さて、10万円預金すると、いくらの利子がつくのかと計算するのが難しく、カウンターの順番待ちの時間つぶしにちょうどよかった。

 100000×0.02=2000円か。ということは、100万なら2万円、1000万なら20万円。そうだな昔、利率の高い定期預金は、5%セント以上あったから、もし頑張って1000万円貯金できたら、1年間で50万円となり、そこそこの生活のベースになると夢想していたっけ。しかし待てよ、0.02は確かに2%だが、0.02%は、2%ではない。0.02%は、0.0002なのだった。

 したがって、100000×0.0002=20円、100万なら200円、1000万なら2000円…。20円?…。まさか。もう一度計算しなおしてみよう。

 10分ほど待たされ、カウンターに呼び寄せられるまでの間に、結局、腑に落ちる解答に辿り着くことができなかった。

 もやもやした気持ちを抱きながら、強面偉丈夫の高齢のガードマンに恭しく礼をされて、ちょっと自尊心をくすぐられ、店の外に出たとき、手元不如意であることを思い出し、戻ってATMに並び、3000円だけおろすことにした。同じ銀行のカードがなかったので、105円の手数料がかかるんだなと思ったら、また、寒気がした。いや、温かな敬虔な気持ちが胸に満ちた。105円は3000円の何パーセントに当たるのだろうと計算し、難しいので100円で考えたら、3.3%セントになることがわかった。0.02%と3.3%。なんと美しい差異だろうか。しかも、自分のお金を引き出すだけなのに、ここでも銀行に献金することができるのである。

 さらにはこの銀行、電力会社の大株主で、再稼働を応援する応援団長である。その応援団のカンパ箱に、今回もまた3.3%、105円もカンパできたわけだ。この胸が張り裂けそうな光栄を誰に伝えたらよいのか、途方に暮れるばかりである。

 私はそうして手にした3000円を携え、高円寺に向かうことにした。古本屋めぐりである。古本屋めぐりは、つまんないなの解消策の一つである。そして、銀行に行ってお金の匂いをたくさん嗅いで、そのときは気持ちよくても、その後自分にはお金がないことを思い出し、やや寂しい気持ちになっていたので、高い円の寺という響きのいい、ご利益がありそうなイメージも、高円寺行きを励ます力となった。

 高円寺に行くには、青梅街道に出る必要があった。青梅街道に出るには、メガバンク所有の広大なスポーツグラウンドの脇を通る必要があった。鬱蒼とした大樹に囲まれた野球場、陸上競技場、テニスコート…。樹木や芝生の手入れはもとより、グラウンドも常に整備が行き届き、しっかりとしたフェンスに囲まれたその施設は、品質において、周囲とは景観を異にする別天地である。木々の間から覗き見ることのできる、レジャーにいそしむ高貴な方々のお姿は、無論輝いて見える。その日は、週末ではなかったから、広大な芝生のグラウンドやテニスコートに人気はなく、大きな芝刈り車両を運転する職人が見えるだけだったが。

 私はこの莫大な管理費がかかりそうな施設を維持し、週末の銀行関係者にやすらぎを提供するために、ゼロ金利を応援し、手数料を献じることで、たとえわずかなりとも役立っていると思うと、ここを通る度、しみじみとした感動を禁じ得ないのであった。

 高円寺に着くと、早速ご利益があった。

 裏道を走っていたら、道の真ん中で妙齢な女性が手招きをしていた。オヤッ!樋口さん。折り目のついた一葉さんが、微風に揺られ、おいでおいでをしている。

 私は昔から、道でかなりいいものを拾うほうだ。鉄の塊、クリスタルガラスの破片、ボーリングの球、昔小学校で使っていたような木製の椅子、新丸の内ビルの再開発工事中には、六角の巨大なナットを拾った。いつもだいたいつまんなくて、うつむきがちに自転車を漕いだり歩いたりしていているから、よくいろんなものを拾う。

 しかし、一葉さんを拾うのは、ためらった。

 拾った後の心への影響を考えたからだ。

 まず、交番に届けるか届けないかで悩む。落としたことをすぐに気づいた人が、戻ってきたときそこになかったら、余計なお世話になる。交番に届け安全に保管するのもよいが、落とした人がそれを自分のものだと証明するのも手間だろう。

 次に、人をだまして巻き上げた5千円か、時給850円で丸一日働いた方の5千円かを想像する。人をだましたものなら、交番に行く必要はないかもしれないと考える。ただし、いずれにせよ交番に届けなければ、泥棒だ。高々5千円で泥棒の汚名を着る。行けば行ったで、いつ、どこで拾った? 身分を証明するものはあるか? いくつも質問され、時間を取り、挙句の果てに泥棒扱いされかねない。ああ、めんどくさい。

 そんなこんなの心の負担を受けるのは、真平ごめんだ。それに、樋口一葉という人、そんじょそこらの文学少女ではない。当時の高名な詐欺師久佐賀(くさか)義孝なる人物を説き伏せて、今に換算すると数千万円に及ぶお金や生活費を、彼から引き出した形跡のある策士である。つまり、この手招きは、罠の匂いがする。拾えば何かよくないことが起こりそうな気がしたので、それほど後ろ髪を引かれることなく、スルーした。

 ところがその後すぐに、よくないことが起こった。

 怪しかった前輪のタイヤの空気が、スッと音を立てて抜けた。

 クギやガビョウが落ちているような場所ではない。原因はそれしかないと思い、もうペッタンコになってしまった前輪の空気注入口のバルブを引きぬいた。案の定、バルブの虫ゴムが、ボロボロになっていた。これでは空気が抜けるはず。早速近くの100円ショップに駆け込み、バルブのセット4組100円を買い交換した。空気はやはり近くにあった自転車店の無料空気入れを拝借し、修理完了。パンパンの空気で走ればペダルが軽くなり、愉快愉快。

 100円ショップはいつも嬉しい。

 でも、と私はまたはたと考えこむ。私が嬉しい100円ショップは、みんなが嬉しいのだろうか。100円ショップの製品を製造している地域の円の貨幣価値は、10倍から20倍あると考えられる。すなわち現地の人は、1000円、2000円の製品を作っているのだから、損はない。いわゆるWinWinの関係である。100円ショップに限らず、日本の各種製品は、そうして低価格を実現している。日本中、世界中、WinWin、WinWinで目出度いことだ。

 本当だろうか。同じように働いて、その価値が10倍も20倍も違うということは、どういうことか。そこには、なんらかのマジックが働いていそうだ。経済力、軍事力を裏付けにした政治力により、安い材や労働力を利用できる仕組みがあるのだろう。これまたすばらしいことである。もし、現地生産費を日本国内並み、先進国並みに上げれば、私たちは1000円ショップで、現在100円ショップで買っている製品を買うことになる。そうなれば商品は売れないから、日本や先進国は店を閉じ、現地生産をやめ、何十万、何百万という現地の労働者が職を失うことになる。そんな不幸を生産してはならない。だからこそ、この経済格差は、保持しなければならない。

 そのために、銀行はもっと強大な力を得て、日本の心臓部を強くし、海外に対抗できる産業構造を構築できるよう頑張れ。経済格差を保持し、それによって生じるメリットを享受できるよう、日本はもっともっと強くならねばならない。再軍備、核武装、それゆけ、やれゆけ、どんとゆけ。

 ブラジルの100万人のデモ。そんなのカンケーナイ。ワールドカップ、絶対やろーよ。イタリアに善戦した日本の活躍が期待できるブラジルワールドカップ。見てみたいよ。あんなにサッカーが好きなくせに、何でワールドカップまでやめろなんていうのか、気が知れない。ワールドカップをやって活気づいたほうが、ブラジル経済だって、よくなるんじゃないの。ネイマールも、きっとやってくれるよ。日本に圧倒的な強さを示したブラジル。優勝圏内だよ。

 ――弱肉強食、勝ち馬に乗れ、寄らば大樹、親方日の丸、人は背中から撃て、勝てば官軍。

 裏切者、卑怯者、業突張り、人でなしと呼ばれたってかまわない。私の心の奥底にも、そんな声がわだかまっている。

 古本屋は2店で3冊、面白い本に巡り合えた。予算は、100円と500円と520円。1冊は、青いカミキリムシの絵が小さく描かれた表紙がかわいらしい『日本昆虫記』、昭和16年10月発行。太平洋戦争に突入しているのに、のん気な本も出ていたようだ。もう一冊は、『四篇』という書名の本。夏目漱石の短編小説4編をまとめたもので、明治43年に春陽堂から出たものの復刻版である。当時のままの装丁が美しい。小説が4編入っているから『四篇』という題名も、人を食っていていい。それから、もう1冊は、小林秀雄の『ドストエフスキイの生活』。昭和21年に創元社から出た、当時のものだ。日焼けして相当痛んでいる。最終ページには、「一九五三・六・一〇 赤羽デ 広神清」という書き込みがある。後で調べたら、この方後に哲学者になったらしく、1995年度まで筑波大学の哲学・思想学系の教授だったらしい。もし65歳で退官したとしたら、この本の書き込みをした当時は、まだ大学生だったことになる。古本の書き込み探しも楽しい。その本の来歴を知ったり、かつての持ち主の人柄が想像できたりすることがある。

 喫茶店でお茶を飲みながら、広神さんがたくさん引いた傍線を眺めていたら、ドストエフスキーがパリに行ったときの感想を綴った手紙の所にも、鉛筆で線が引かれていた。

「実にパリは退屈な街だ。たしかに異常なものは沢山あるにはある、だがそんなものでもなければ、退屈して死に兼ねないだらぅ。断言するが、フランス人といふものは、たまらない国民だ。(中略)彼等は、成る程優しいし、正直だし、磨きもかかつてゐる。しかし彼等は贋物(にせもの)だよ。金といふものがすべてなのだ」

 銀行から始まって、いろんなことがあった一日。いろんなことも考えた。人はやっぱり人でなしになる以外に道がないのかとさえ思ったりもした。

 私は、その日が面白いのかつまんないのか、なんだかよくわからない気持ちになって、高円寺から去ろうとして、雑居ビルひしめく裏道を走っていたら、薄汚れたビルの配管に、イタズラ書きを見つけ、自転車を止めた。

しかし、よく見ると、それは単なるイタズラ書きではなく、私が、いや日本の国が、目標とすべきテーマを示唆した箴言(しんげん)だと思った。正に神々しい言霊(ことだま)が、この配管に降臨したのである。

 その言霊とは――。

「ヒト・ト・シテ…」

 私はここを私の聖地にすることに決めた。


12

2013-08-5

自転車はギャンブ

人生もギャンブル



 西武園競輪という鉄火場がある。自転車競技に金銭を賭ける場所だ。今やきゃりーぱみゅぱみゅの故郷として知られる東京西郊の住宅地、田無からは、電車で二十分足らずだ。ちなみにきゃりーぱみゅぱみゅは、私の知り合いの娘さんの友達だった。

 そのきゃりーがまだ生まれていなかった随分昔のことになるが、ある夏の暑い日に私が田無をほっつき歩いていたら、白いポロシャツを着て小ざっぱりとした、でもどことなくダサいファッションのおじいさんが、とぼとぼと青梅街道の歩道を歩いて来た。すれ違うには互いによけ合う必要のある狭い歩道だ。私とおじいさんは、アイコンタクトで譲り合う気配を見せた。おじいさんはそのときの私の目つきに、同族意識を感じたのか、すれ違う寸前で私の前にたちはだかり、意外な一言を発した。

「悪いんだけど、お金かしてくれませんか」

 私は不意を突かれてどぎまぎしながらも、おじいさんの様子を見て、同情心が湧いてきた。ポロシャツは汗でぐっしょり濡れ、憔悴しきった様子だ。私は田無の大東会館にパチンコに行く途中だったので、軍資金が減るのは嫌だったが、あまりに哀れに思えたし、こんなところで寸借詐欺の常習犯が張っているわけはないので、少しなら貸そうかと思い始めた。それでも、見ず知らずの人にお金を貸すには、それなりの手順を踏まなければならない。ダサいが、お金がないという格好ではなかったから、私は不審に思い聞いた。

「どうしたんですか。財布を落としたんですか」

 おじいさんは、面目なさそうに答えた。

「西武園で全部すってしまったんです。千円貸してくれませんか」

 おじいさんは、いい勘をしていた。当時ズッポリ、パチンコやマージャンにはまり、友人たちがやっていた競馬にも手を染めたいと思っていた時期だった。そして、ギャンブル熱がステップアップしていくと、競馬から競輪、そしてオートレース、競艇へと進み、そのあたりで多くは破滅するという話を聞いて、破滅の二文字に誘われがちな私だったから、第二段階に居るおじいさんには、妙な敬いの気持ちさえ、幾分か抱いてしまうのだった。

 電車に乗れば二十分足らずだが、西武園から田無まで歩けば、元気な若者でも三時間はかかる。鉄火場はむごい仕打ちをするものだと思った。

 私は老人に答えた。

「お金はありません」

 私は自分でも驚くほどそっけなく、嘘をついて大東会館に向かった。同情心は湧いたが、博打で招いた運命は、自分で引き受けるのが鉄則であるという、いつ考えたのかわからない博打哲学を持ち出して、私はなけなしの千円を死守し、大東会館に予定通り向かったのだった。

 寺山修司は、「競馬は人生の比喩ではなく、人生が競馬の比喩である」と言ったと伝えられている。言葉遊びのふりをして、人間の驕りや人生の矮小さを、例の薄笑いを浮かべながらほのめかした。ギャンブルに熱中する者たちは、文学趣味がなくても、寺山修司のレトリックを素直に受け入れるだろう。

 寺山が件の言葉で暗に競馬に向けたまなざしの中には、もちろん競馬の長い伝統に対する崇敬の念も含まれるが、博打というものへの畏れもあるだろう。

 博打の世界には、二つの大きな力が働いている。

 一つは元締めの力だ。博打の世界には元締めがいて、元締めは寺銭を稼ぐ。寺銭の語源は、お上の手入れが少ない寺で賭場を開帳し、寺が場所代を取ったことから来ていると言われる。坊主丸儲けといい、寺には意外に俗臭がたちこめている。

 それはともかく元締めが取る寺銭は、博徒の禍福を大きく左右する。たとえばJRA日本中央競馬会は、総売り上げの約25%の寺銭を抜く。1997年のピーク時、1年間の売上は約4兆円あったから、1兆円が競馬会に入った。そして1兆円のうちの4000億円が国庫に入った。その後売上は落ち今は2兆円程度だが、5000億が競馬会に入り、2000億が国庫に行く。したがって、その売り上げを支えるファンたちをまとめて一個人と考えれば、2兆円お金を賭けて、1兆5000億円しか戻らないということになる。

 寺銭を上品に言うと控除率という言葉になり、この控除率は同じ競馬で国によって異なり、日本は高いそうだが、他の博打でも同じように控除率はあり、0%ということはない。すなわち、ファンや博徒は、総体としては絶対儲からない仕組みになっている。儲かること=幸福は、ある部分、ある瞬間に偏在するのみである。

 だから博徒は、その偏在する幸福の在り処を探し当てるために躍起となる。そして、探し当てようとするときに、必ずそれを阻止する力が作用する。それが博打の世界に働くもう一つの大きな力、賭けの神様の力である。

 ススムは色白の優しげな小柄な少年で、中学の頃、いじられキャラだった。兄さんが中学の大先輩で、めっぽう喧嘩が強かったからいじめられることはなかったが、ちょっとしたことですぐに泣いてしまう、涙もろさもあった。高校に入りススムの身長はグングン伸び、中学時にススムをいじっていた連中の身長を追い越す頃、ススムは性格も一変し、極めて好戦的で豪胆なワルに変身し、復讐が始まった。 私も復讐された。

 高校を卒業してすぐの頃だろうか。ある日ススムが別のワルを呼んで、麻雀をやろうという。中学の頃のことを思うと、私には微笑ましい成長ぶりである。上等じゃないかと、勢い込んでススムの家に上がり、麻雀が始まった。その後ススムが遊び慣れたのを聞いていたし、言動も荒くなっていたから、少しは骨のある麻雀を打つのだろうとは思っていたが、もとよりススムの計算力とそれを基とする推理力は知れている。負けるはずがないと安心して臨むと、いきなりススムに先制パンチを食らった。「リャンピンでウマつけようぜ」。麻雀の賭け用語の詳しい説明は避けるが、要するに、若者の麻雀の賭けのレートとしては、非常に高いもので、半日やれば何万円もの勝ち負けの差が出てくる。千円のパチンコ代にも苦労する時代においては、途轍もないレートだった。

 麻雀が始まった。私は完全に調子を狂わされた。負けて何万も払うことの不安だけが頭に満ちて、思考能力も勘も停止し負け続けた。ススムの麻雀はまったく計算も根拠もないデタラメな打ち方だったが、決して下りず強気で打ちまくり、結局独り勝ちした。幸いそのときの私の負けは五千円ほどで、すぐには払えなくても、パチンコで大勝すれば、なんとかなるだろうぐらいに思った。するとススムは、今全部まとめて返せる方法もあるぞと私を誘った。それは、チンチロリンだった。

 サイコロ三つを同時に振り、出た目のそろい方で勝負を競う、おなじみのゲームだ。ゾロ目(三個のサイコロの出た数字が全部そろうこと)が高得点となり、同じゾロ目でも1・1・1が最高点。6・6・6は次に高く、2・2・2はゾロ目でも一番低い。そして、1・2・3は最弱で、2・5・5なども点になるが、どんなゾロ目よりも点が低い。こうしたルールのもと、一人三回連続でサイコロを振り合って、高得点を争うわけだ。

 麻雀では賭けの神様に見放され私だったから、そろそろ神様が戻ってきてくれるかもしれないと思い、ススムの誘いに乗った。

 最初のうちは勝って借金はすぐになくなり、逆に二千円のプラスとなった。麻雀では痛い目にあわされ、ススムごときにしてやられるとは屈辱的だったから、今度は逆に後悔させてやろうと考え、時間の立つのも忘れまた何時間もやり続けた。そして、負けた。負けは五千円から二万円に膨れ上がった。

 すぐに払えないので分割にしてもらった。ススムの復讐は完璧に果たされた。

 あんまり悔しかったから、賭けの神様の居所を探す研究に没頭した。

 暇に任せて、何千回か、いや何万回だっただろうか、サイコロを振りデータをとった。そしてグラフ化すると、ゾロ目の高得点が出る確率が高くなったり低くなったりするグラフができた。しかも、その高い低いは、ある周期で訪れることがわかった。三つのサイコロを振ってゾロ目が出る確率は、36分の1、2.8%となる。しかし実際には、何回か回数を区切って平均を取ると、5%、10%になることもあり、逆に、何回かの平均1%かそれに満たない場合もある。詳しい数字はもう忘れてしまったけれど、とにかく2.8%の平均レベルを上下する、それぞれの数値をつなぎ合わせると、きれいな波型となった。

 すなわち賭けの神様は、この波型の頂点にいることがわかった。おおざっぱにいえば、自分の運気が波型の頂点にいるとわかったら、どんどん賭けていけばよく、最下点にいると知ったら、賭けを手控え、賭け金を小さくしたり、下りたりすればよいのである。

 しかし結果として、その頂点と最下点がわかるわけで、賭けの最中はなかなか見極めにくい。この運気の上昇期を正確につかみ、賭けの神様と親密になるには、何事にも心を奪われず冷静に運気の状況を感じることのできる強い胆力が、求道者のように必要なのかもしれない。

 学生時代、他の学生がサークル室や行きつけの喫茶店の片隅で、ワイワイガヤガヤ青春を謳歌している頃、話す相手がほとんどいなかった私は、神田神保町の人生劇場という名のパチンコ屋に通い詰めた。リアルな人生劇場では役どころを見つけられずにいたから、パチンコ屋の人生劇場において、席の一つをあたためる権利を得ることを、ささやかな喜びとしていた。などと、今思い出してもかわいそうで胸の詰まる思いだが、私が人生劇場に通った理由はそれだけではなかった。景品に本がたくさんあったからだ。小さな本屋と変わらない規模の書籍コーナーが、他の景品コーナーとともに充実していた。私は勝つと球を、セブンスターと文庫本に代えた。タバコを吸いながら、本でも読んでいればよかったと、空費した時間を嘆き、猛省するのだった。

 博打は負けるとなおのことだが、勝ってもとことんむなしいのである。

 とはいえ、私は博打が好きだ。パチンコも麻雀も競馬もチンチロリンもまったくやらなくなり、いつからか、私の人生そのものが博打になった。本を書いて、売れるか売れないか。博打が私の人生の比喩でも、私の人生が博打の比喩でも、どちらでもなく、私の場合は人生=博打。いつだって、吉と出るか凶と出るか、ハンかチョウか一か八か、博打の神様と話し合いながら、ヒヤヒヤの毎日である。

 だから自転車散歩もギャンブルで、決めずに走って出たとこ勝負だ。先日も、北か南か右か左か、その都度なんとなく道を選んで走っていたら、東京競馬場にたどり着いた。相当久しぶりのことだった。府中本町駅からの通路やゲート、関連施設は、驚くほど豪華になった。賭けの神様に弄ばれた人々の寄付により整備された東京競馬場という巨大にして荘厳ささえ漂う賭けの殿堂は、まさに一見の価値がある。

 今年のダービーは14万人がここに集まった。その日の人出はまばらで閑散としていた。夏はここではもう競馬をやっていないからだ。地方競馬の馬券を買いに来る人が、ちらほら訪れるだけだった。

 私は施設の豪華さや巨大さに圧倒されながら競馬場沿いの細い裏道を走っていると、前方に白い清潔なシャツを着たおじいさんが、やや肩を落としながら歩いているのが見えた。負けたのだろう。

 しかしその後ろ姿には哀愁とともに、何か不思議な毒気の抜けた、一種の清涼感が漂っていた。私はバックからカメラを取り出し、巨大な競馬場の施設の脇の小道をとぼとぼと歩くおじいさんの後ろ姿を撮ろうと思い、途中でやめた。シャッターの音でおじいさんの時間の邪魔をしてはならないと感じたからだ。

 あのとき田無で遇った白いポロシャツのおじいさんも、どこか浄化された雰囲気が漂っていたのは、賭けの神様の洗礼を受けたからかもしれない。

 

 うらぶれてオケラ道を帰るもまた博打の続き。欲望に背中を押されて前のめりで突き進み、帰り道を見失う。人は皆、stray sheep。悔やんでふさぎ込む充実もまた愉悦の一種だ。この美しい結末を誰も奪ってはいけない。

 私が白いポロシャツのおじいさんに、お金を貸さなかった理由の一つがここにある気もするのだが、どうだろう。


13

2013-09-6

風立ちぬ いざ生きめやも

 暑い。仕事場の寒暖計は、今日も午前十時から32度を突破した。築60年の公団住宅の私の仕事場にクーラーはない。電気をできるだけ使わないようにしているのは、決して原発への面当てではなく、火力発電によるCO2の増加を食い止めるため、という理由もないではないが、主な理由は、クーラーが嫌いだからだ。

 とはいえ、さすがに32度を突破し、33度に達する所まで行くと、その中で仕事を続けることは困難で、仕事場を飛び出し、自転車で涼を求めに出かけることも少なくない今日この頃である。

 今日は調べものもあったので、自転車で20分足らずの武蔵野図書館に出かけることにした。武蔵野市は吉祥寺のある文化地域で、吉祥寺駅周辺にはしばしば楳図かずお先生が出没するなど、非常に民度が高いせいか、温暖化への配慮も行き届き、武蔵野図書館は弱冷房に抑えられ、はっきりしない涼しさ?暑さ?に気分が悪くなり嫌気がさして、図書館からもすごすごとしっぽを巻いて逃げ出すことになった。近くのスーパーいなげやの鮮魚売り場に行けば、お年寄りがカーディガンを羽織るほど涼しいのはわかっているが、そこで仕事の想を練ることも、パソコンを打つこともままならず、仕方なく図書館からほど近い、武蔵野中央公園の木陰のベンチに向かうことにした。

 公園のベンチは幸いすべて空席だった。暑いからだ。それでも雑木林の木陰のベンチに腰を下ろすと、かすかに涼しい風がそよいでいた。見上げる蒼空には純白のはぐれ雲がいくつか浮かんでいる。雲はいいなと思いながら空をぼーっと眺めていると、視野の中を、鳥かセミかトンボか、飛行物体が横切った。物体が降下した先、公園中央の広い芝生のグラウンドに視線を向けると、それを拾う老人がいた。

 紙ヒコウキだった。この公園では、週末、ウィークデイを問わず紙ヒコウキの愛好家が集結し、手製の紙ヒコウキを空高く飛ばす。大会も開かれたりする。今この地にあるのは、トンボさえもおどかさない紙ヒコウキだが、68年前、ここ武蔵野中央公園には、戦闘機、零戦を作る工場があった。

 第二次世界大戦中アメリカは、世界屈指の俊英機零戦の製造工場を壊滅させるため、日本本土空襲に飛来したB29が真っ先に向かった攻撃地は、この武蔵野中央公園とその周辺に広がる中島飛行機だったと伝えられている。合計11回の空襲が行われたそうだが、昭和20年、1945年7月24日の空襲だけでも、B29爆撃機が78機飛来し、250キロ爆弾などを約2140個を投下したらしい。

 おかげで幼い頃もこの周辺に住んでいた私の少年時代は、町のあっちこっちで毎月のように、自衛隊の不発弾処理隊が出動し、土中にめり込んだ不発弾を掘り起こす光景が、日常的に繰り返されていた。 

 ジブリ美術館は吉祥寺にあり、私の仕事場から東南に自転車で30分余りだ。武蔵野中央公園からなら、自転車で10分で行ける。また、ジブリ美術館のすぐ近く、玉川上水に架かるむらさき橋を渡る道路の途中には、ジブリの商品開発部の事務所がある。この事務所は、桜並木の歩道にそって立ち並ぶ住宅街の中にあり、他の住宅とあまり変わらぬ大きさとたたずまいの二階建ての建物だ。ただし、他の住宅とまったく異なる部分があり、いかにもジブリジブリしているから、すぐにわかる。緩やかに傾斜する二階の屋根全体に草が生えている。天気の穏やかなときには、何人もの所員がここに登って、のんびりしているのが見える。丘の上の草原といった雰囲気でうらやましい。

 また、ジブリの本部も私の仕事場から西南西に二十分余りの所にある。宮崎駿さんが仕事をしている場所だ。こちらはいかにもアニメスタジオといった景観で、ガラス窓の多い建物全体にツタがからまり、壁面が見えないほどだ。

 私の仕事場のロケーションは、きっとジブリファンにはたまらない場所で、自転車によるジブリツアーを企画して、青少年から金品を巻き上げようと思ったりもするのだが、私はジブリファンではないから、ツアーを実施する予定はない。

 前置きが長くなった。このジブリが今度は「風立ちぬ」という長編アニメを作り、話題となっている。本当に話題になっているのか、話題となっていることにしているのかはわからないから、軽々しく首を突っ込むのは気が引けるが、少なくとも昨夜の我が仕事場では話題に上ることとなった。

 

 昨夜の来訪者は、40代の男性ジャーナリストだった。「風立ちぬ」を見たという。積極的な賞賛の意向はないようであった。

 宮崎駿さんの「風立ちぬ」は、零戦を設計した人をモデルにした物語だ。この長編アニメに対する毀誉褒貶(きよほうへん)は、すでに内外問わず始まっているが、私は見ていないから、何も言う資格はない。

 しかし、戦後この国が零戦に対して、これまでどのような姿勢を貫いてきたかということは、市井の片隅で体験しているので、それについては少し言うことができる。私は少年の頃、1960年代、建築現場に落ちている角材の端キレなどを拾ってきては、小刀で零戦を彫っていた。太平洋戦争が終わり、20年ぐらい経過した頃のことである。プラモデルも普及していたが、少年の私には高価で、正月のお年玉でようやく買える程度だった。バルサという柔らかい工作木材で、巧みに機体を切り出し、紙やすりをかけ、ラッカーパテで表面加工し、水やすりで磨き上げ、最後に色彩を施して、本物そっくりの零戦を作る中学生がいて、彼は卑怯な不良だったが、その点に関してのみ私は、彼に尊敬を禁じ得なかった。零戦という世界を驚嘆させた優秀な戦闘機に対する崇敬の念が、巧みに零戦を作る中学生への敬意の大部分を占めていたことはいうまでもない。

 それとともに戦闘機雷電、あるいは戦艦大和などなど、軍国少年さながらに、私もしくは私の同世代の子供たちの情熱が、かつての兵器に向けられていた。靖国神社に今でも展示されている人間魚雷回天も、当時私たちの少年雑誌に掲載され、もてはやされたため、私はまったく無批判に回天とその使命について、誇らしく思うばかりであった。その悲劇性の記述もあったはずだが、私の誇らしい気分を損なうほどの力はなかった。戦艦大和の悲劇にしてもしかり、零戦による神風特攻隊にしても、同様に勇ましいという印象が、私たち少年の心を確実に支配していたといえるだろう。

 国を守ろうとした人々の決死の覚悟に、どんな疑義をさしはさむことができるのだろう。少年たちは、その勇ましさに胸を打たれ、その勇ましさを演出したテクノロジーに、賞賛を惜しまなかった。父や母の肉親が、縁戚が、朋友が戦火の犠牲になったことを知りながらも、戦争を美化する勢いは止まらなかった。戦争がまるで天気のような自然現象であったかのような、不可避なものであったというか、避け得る余地など想像さえもしなかったというのが、私たち少年に施されていた市井の教育環境であり、それを取り立てて咎め立てする大人は、少なくとも私のまわりには見当たらなかった。

 その夜ジャーナリストと私は、テクノロジーの発達と人々の幸福について考えた。古くはノーベル、そしてアインシュタインの後悔について思い出しながら、政治家やデス・マーチャントの責任はもちろんのこと、科学者や技術者の良心に関しても、視野に入れて話した。科学技術や道具は、常に諸刃の刃だ。それにより、禍福、どちらを生ずるかは、使い方、運用の仕方の問題である。したがって科学者や発明家は、その責めを受けない。というのが、現代の賢者、常識家たちの一致した見解だが、そうなると、ノーベルもアインシュタインも馬鹿か、ということになる。彼らの反省は愚であり、零戦の完成も是ということになる。

 美しい飛行機が作りたかった。けれど、軍部が主導した時局により、それが殺戮兵器となり、仕舞には、神風特攻隊の乗り物となった。仕方のないことである。

「でも、なんでも仕方がないですませるこの国の無責任体制によって、ぼくの父親はインパール作戦に駆り出された。傷病兵や餓死者を見捨てて、その末期のうめきや叫びを聞きながら退却を余儀なくされ、英軍の捕虜となりました。そして、去勢されるという噂の恐怖にたえ、命からがら帰還した父は、その後もずっと毎晩のようにうなされ続け、恐怖に震える声、発狂したのではと思われるような叫び声を、ぼくは幼い頃からずうっと聞いて過ごしました。当時は神経質な父親の性質の一つとしか考えなかったけれど、あれはきっと戦時に受けた精神的な打撃の後遺症に違いありません。また、父はすでに鬼籍に入っていますが、生前献体を申し出ました。子供としては、医学の発展のためとはいえ、反対しました。しかし、父から献体の理由を聞いて、不承不承認めました。その理由とは、こうでした。『若い傷病兵は、あの見知らぬジャングルの中で、みんなお母さんといって死んで行ったんだ。天皇陛下万歳なんていう人は、誰一人いなかった。自分だけが生き残り、安穏と暮らして、人並みに葬られることなんて、できないんだ』。利己的で身勝手だと思っていた父から、まさかそんな理由が聞かれるとは、思いもしませんでした」

 私はジャーナリストにそう訴えたものの、やはり研究者や技術開発者や発明者を責めるわけにはいかないだろうと思った。彼らは自らの好奇心や探究心に誠実だったに過ぎないのだから。とはいえ、彼らが自責の念に駆られることがないとしたら、それはやはりおかしいと思うのだった。

 

 私はある時期、殺戮が大好きだった。振り返れば鬱屈してやりきれない思いを抱えていた頃、蟻に対して、その他の昆虫に対して、無益な殺生をどれだけやったか知れない。水攻め、火責め、薬品攻め。殲滅すると気分がすっきりした。それが私の隠せない特徴のひとつであり、もしかすると、誰にでも発現し、ある究極の条件下で昆虫ではなく人に向かう残虐性は、人間の共通した心性の一部だと考えることもできる。

 人は平和を望まない。命を限りなく軽く見る。その結果本当は、人が何百万人、何千万人亡くなろうと、悲しくはない。場合によっては気持ちいい。

 それがもし人間というものの正体の一部だとしたら、研究者も技術開発者も、その事情を踏まえて、自らの仕事の方向を決めることが必要になるだろう。

 ノーベルとアインシュタインの反省の所以が、ここにある。

 宮崎駿さんが、技術開発者の苦悩に、どれだけ正しく迫ったか。あるいはモデルとなった人物の苦悩の質はどうだったのか、そのあたりに、昨夜のジャーナリストは、不満を覚えたのかもしれない。

 ジャーナリストは別れ際、これまで書籍を二冊書いたと、控えめに教えてくれた。その一冊は、『ヒトラーの特攻隊――歴史に埋もれたドイツの「カミカゼ」たち』である。ヒットラーは政権の終末期において、日本の特攻隊を真似て、特別攻撃隊を組織した。ジャーナリストがヨーロッパで特派員をしているときに、ヒトラーのその攻撃隊の生き残りの兵士を取材してまとめた本だという。

 一説では600万人、他説では1000万人余。無辜の人々の命を奪った人類史上最悪の男。そしてこの男の暴挙を皮切りに世界へと戦火が広がり、6000万人もの世界の人々が無意味に亡くなった。その中の一人には私の叔母もいる。この男とその特別攻撃隊と神風特攻隊と零戦と中島飛行機とジブリと「風立ちぬ」が、武蔵野中央公園の上の青空を飛ぶ紙ヒコウキの向こうに見えた。

 私は研究者や技術者や大日本帝国の主導者たちやヒットラーを謗(そし)る前に、自分にも巣食う残虐性を見定め、さらにていねいにそれと向き合う必要があると思った。

 手元に古い文庫本がある。日焼けが強く歳月を物語る。奥付を見ると昭和48年、40年前の出版だ。堀辰雄の『風立ちぬ』。タイトルページの裏には、

「Le vent se lève, il faut tenter de vivre.* PAUL VALERY」とある。

 *は注で、この訳を次のように示している。

『本文には「風立ちぬ、いざ生きめやも」とあるが、作者が他の場所で書いた「風が立った。……生きなければならぬ」のほうが、原詩に近い』

 なるほどとなんとなく納得したものの、そもそも「生きめやも」とはなんだろう。日本語に詳しくなく、特に古い日本語に弱い私は、人の力を借りる。すると、「生きめやも」は「生き」+「む(推量の助動詞)」+「やも(助詞『や』と詠嘆の『も』で反語を表す)」と分解でき、直訳すると、「生きるのかなあ。いや、生きないよな、死んでもいいよな」であり、生きることに消極的な表現らしい。

 フランス語の専門家は、堀辰雄の誤訳と冷笑するが、私にはこの小説の内容にはふさわしい言葉だと思える。

風が吹いてきた、さあこれから元気に生きよう、というのではなく、生きようか、どうしようか、やっぱりやめようかな、と思う。そんな後ろ向きのいじましさの中に、人の弱さをにじませて、弱いから寄り添うことの必要を訴えたのだと、私は解釈する。

 弱さは恰好悪いから、勇ましさで覆いたくなる。悪の旗印はいつも正義だ。勇気と正義の果てに殺戮があり、殺戮の末に孤立、孤独が待ち受けていた。

 この研究を推し進めることが、いいことなのか悪いことなのか。この技術は果たして人間を幸福にするのだろうか、しないよな、やめておこうか……。どっちつかずにいじましく懊悩する研究者、技術者が、この国の未来には必要なのではないだろうかと、自転車を止めてベンチに座り、白雲浮かぶ蒼空を舞う紙ヒコウキを眺めながら、思った。

『ヒトラーの特攻隊 歴史に埋もれたドイツの「カミカゼ」たち』

三浦耕喜 著 作品社 刊 2009年 本体18 00円


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2013-10-5

働かないアリ

 あれはまだ雪が残っている頃のこと、今年の一月の終わりだったか、私は自転車を走らせ、沖縄から遊びに来た若い友だちを、近くのいこいの森公園に案内した。一眼レフカメラの基本を教えるのが目的だった。

 私がカメラを教える? プロでも専門家でもない私が人様にカメラを教えるのは、大変間違ったことだが、10年近くカメラ雑誌にかかわり、すばらしい写真家を数多く取材した経験があるので、そのとき得た知識や感動を、若い友だちに伝えられればと考えた。

 彼は私より30も年下だけれど、私より30倍ぐらい頭のできがよいので、絞りとシャッタースピードと適正露光の関係や、ボケ味、背景処理、アングル、レンズ特性などの基本的なカメラの知識を、あきれるほどすぐに理解し、自分の仕事に生かそうと、意欲を燃やしている様子がうかがえた。

 彼はとても小さなものを相手に仕事をしている。そしてそれは、意外に速く動く。私は速く動くものを撮るときの心構えと方法についても、彼に紹介した。

 

 その心構えについては、F1のカーレースの写真家として名高い、ジョー・ホンダさんを取材したときに聞いた言葉を伝えた。

「時速300キロの車を撮るには、どうすればいいんですか。流し撮りでも、1秒間に100メートル近く走るレーシングマシンの動きに合わせるというのは不可能だと思うんですが」と私が聞くと、ジョー・ホンダさんは、少し考えてから、静かにこう答えた。

「心をニュートラルにしておくんだ。そしてシャッターを押す」

 宮本武蔵の五輪書にも確か、相手のすばやい動きに対応するためには、相手のどこか一点を注視するのではなく、漫然と全体を見ることが必要だと書いてあったと思う。まさにニュートラルの状態だ。武蔵の剣術の奥義にも通じるジョー・ホンダさんの至言を、若い友だちは痛く感心しながら、「なるほど、なるほど」と言って理解した。

 そして私は、高速で動くものを撮るための流し撮りについても、彼に伝えた。

 流し撮りとはいうまでもなく、カメラを固定して撮るのではなく、動いているものの動きに合わせて弧を描くようにカメラを動かしながらシャッターを切る方法だ。

 この方法を使って被写体の動きに合わせてカメラを動かせば、理論上は時速300キロで走るレーシングマシンさえ、ピタッと止めて撮ることができる。しかもそれほど速いシャッタースピードでなくても撮れるから、絞りをかなり絞り込み、ピントの合った輪郭のくっきりとした写真を撮ることができる。

 私はこの心構えと流し撮りの方法を、若い友だちに頭ではなく、体で理解するために、実際に彼に一眼レフカメラを持ってもらい、私が高速移動物体を投げ、それを流し撮りしてもらうことにした。

 私が自転車で走り、それを撮るのもよいと思ったが、園内は自転車禁止だ。そこで私は、自分のツバ付きの黒いフェルトの帽子を、フリスビーのように放り投げた。それを彼がカメラで追いながら、流し撮ることにした。

 最初はうまくいかなかったが、何回か試すうちに、冬の澄み切った青空を背景に、UFOのように飛ぶ私の帽子が、バッチリ画面に捉えられた。空とともに映っている背景の高層マンションや木々の梢の輪郭は、幻想的に流れ、不思議で面白い趣の写真となった。

 これに気をよくした若い友だちが、何回も、満足のいく流し撮り写真を撮ろうとするので、私も面白くなり、今度は手袋を投げた。すると早くも流し撮りに熟達し始めた彼は、生き物と化した二つの手袋が虚空をつかまえようとしているような、哲学的、宗教的示唆に富んだ(?)写真を得ることができ、二人のテンションはどんどん上がっていった。そしてさらに私たちは、帽子や手袋といった小物では飽き足らなくなり、最後にはかなり大きな丸太を、公園の端から探し出してきて、それをエイコラショッと投げ、彼がまた見事にそれをとらえ、重量感のある物体の浮遊状況の妙を、ゲージュツ的に表現することに成功したのだった。

 ウィークデイの昼日中、世間の人たちが一生懸命働いているときに、私たちは帽子や手袋や丸太を放り投げて、「撮れた?!」「ハイッ!」「背景が流れて幻想的だな。これはいい」「いいですねー」などと、キャッキャいいながら遊んでいた。

 そんな楽しい写真教室から、半年余りが過ぎた先月8月のこと、彼から連絡が入った。スイスに居るという。スイスのレマン湖の畔にある大学で籍を得た彼は、そこで研究生活を始めていた。

 彼が相手にしている、速く動く小さなものとは、アリである。アリのコロニーの研究をしている。しかも、彼が注視しているものは、働かないアリである。

 イソップ童話のアリとキリギリスの話を持ち出すまでもなく、アリは働き者の象徴といえる。なのに働かないアリがいるとは驚きだ。なんだか私や友だちのコウタくんのことをいわれている気がする。しかし、この働かないアリは、私たちよりもヒドイ。まったく働かないらしい。私とコウタくんは、よく遊びもするが、一応人様の役に立つ本を作ったりすることもある。「働く」という行動は、自分のエネルギーを犠牲にして他者を利する=他者ために役に立つ行為を意味するので、私とコウタくんは、少しは「働く」のである。

 働かないアリはコロニーの中に、ある割合(アリの種類によっては約2割)いるという。働きアリがもたらす助け合いの利益にただ乗りする。具体的にはエサをもらったり、巣の掃除をしてもらったりするそうだ。

 

 ここまで具体的になってくると、私とコウタくんは、ますます肩身が狭くなる。そもそも、もの書きという仕事は虚業だからだ。虚業に対する言葉は実業で、実業というのは、実際に生きるために必要なお米を生産したり、魚を獲ったり、それを流通させている仕事だ。一方虚業というのは、私とコウタくんの書く原稿のように、それがなくても誰も餓死することはないという仕事である(ただし、コウタくんは生きるために役立つ本もたくさん書いてはいるが)。したがって私とコウタくんは、フリーライターでありフリーライダーである。

 フリーライダーとは、ただ乗りする人であり、必要なコストを負担せずに利益だけを得る人であり、いわゆる不労所得者を意味する。働かないアリは、まさにフリーライダーである。

 私たちもの書きがもらうことのある本の印税は、しばしば不労所得と呼ばれる。とうとう私は働かないアリと、区別がつかなくなってきた。

 もちろん私は、もの書きすべてが働かないアリ、フリーライダーだというつもりはない。世の中の進歩のために、進歩による生産性の向上や健康の増大のために、ひいては経済、厚生事業の充実、拡大のために、日夜身命を賭して、著述業にいそしむ方々が数多くいることは、いうまでもない。私とコウタくんは、その方々にくらべ、あまりに志が低く技量も未熟だ。私たちの仕事の成果がなくても、世の中の人はまったく困らないだろうなという日々の反省が、フリーライダーの自覚を強めるのである。

 そして聞くところによれば、会社にも、私とコウタくんのような、フリーライダーが存在するという。一般的には2割がフリーライダー、給料泥棒と呼ばれているそうだ。組織が成熟するとその割合が増えて、やがてみんなフリーライダーとなり、組織が壊滅するという。

 

 私の若い友だちと同様に、働かないアリについての研究をしている進化生物学者長谷川英祐さんは、その著書『働ないアリに意義がある』〈メディアファクトリー新書〉の中で、次のように指摘する。

「『個体が貢献してコストを負担することで回る社会』というシステムが常態化すると、そのシステムを利用し、社会的コストの負担をせずに自らの利益だけをむさぼる『裏切り行為』が可能になってきます」

 いよいよ私とコウタくんの分が悪くなってきた。私たちは「裏切り者」のレッテルを貼られても仕方のない存在なのかもしれない。

 私の親しい若い友だちは、まさに私とコウタくんをとことん追い込み、猛省を促すべく、スイスにまで行って、働かないアリの研究をしているような気さえしてくるのだった。

 去る者日々に疎しではないが、若い友だちのことや働かいなアリのことが、頭から離れていたある日、ネットでヤフーニュースを見ていたら、トップページのトピックスの一つに、こんなタイトルが出ていた。「働かないアリは長生き」(琉球新報3013-9-18配信)。記事の内容はこうだった。

 私の若い友だちと琉球大学の教授が、働きアリよりも働きアリの労働にただ乗りする働かないアリの生存率が高いことを突き止め、人間社会でも見られる「公共財のジレンマ」の実例を、人間と微生物以外で初めて発見し、その研究成果が、「米国科学アカデミー紀要(PNAS)」(オンライン版)に掲載される、という速報だった。

 ちなみに、公共財のジレンマというのは、知らなかったので調べると、全員で協力して社会をつくれば最終的な利益が大きくなるのに、他者よりも大きな利益を得ようとして、他者の働きにただ乗りする者が多くなり、結局社会の形成さえおぼつかなくなるということらしい。

 そして、「米国科学アカデミー紀要」というのもよくわからなかったのでウィキペディアを見ると、「自然科学全領域のほか、社会科学、人文科学も含む。特に生物科学・医学の分野でインパクトの大きい論文が数多く発表されている。総合学術雑誌として、ネイチャー、サイエンスと並び重要である」とあった。

 おやおや、遂に私とコウタくんの逃げ場がなくなった。世界的な学術雑誌のお墨付きを得て、フリーライダーの有罪が確定したことになる。唯一の救いは、「働きアリよりも働きアリの労働にただ乗りする働かないアリの生存率が高い」という点だけだが、これもまたよく論文を詳しく読むと、生存率の高い理由は、働かないアリの増加にともない、働くアリの労働量が多くなり、過労死するからだという。なんとも罪深い、働かないアリである。

 とはいえ、私の若い友だちだって、もとはといえばチョウチョを追い回していた昆虫大好き少年にすぎない。その延長でアリの巣を見つけ、アリをじーっと見つめていた。するといろいろな不思議を感じたので調べてみると、アリのコロニーの成り立ちがわかってきた。その結果を、大仰な研究論文という形にしただけのことである。私だって、自分自身やコウタくんをじーっと見つめて、なぜこの二人は働きたくないのだろうと疑問に思い調べ、巧妙な手段を講じて、ただ乗りを試みようとする二人の性根と戦略の共通性と、二人以上に狡猾なフリーライダーが、世にごまんといることを突き止め、日本は世界は、フリーライダーという名の裏切り者たちの増加により、壊滅に向かってひた走っていることを究明したのであるが、私にはこれを研究論文にする力量がないだけの話である。

 けれど、そんな負け惜しみは、何の意味もない。

 若い友だちが発見した、アリの世界の「公共財のジレンマ」は、ただ乗りしたいという個の欲望と組織の生産性の関係を解明しただけでなく、病原体と宿主の関係の究明にもつながるらしい。

 病原体は宿主を壊滅させ、宿主もろとも自らも死滅する。しかし、病原体は消えない。働かないアリもコロニー(=宿主)を壊滅させる可能性を秘め、自らもコロニーもろとも死滅する方向に進む。けれど、働かないアリの遺伝子は引き継がれ、存在し続ける。つまり、働かないアリとコロニーの関係の研究という側面から、病原体の駆逐に迫ることができるかもしれない、というわけだ。

 

 私は米科学アカデミーに発表する論文を書く知識も能力もないが、もう少し、いやもっと、何故コウタくんがカメのカメリに夢中になるのか、仕事より遊びが好きなのか、私は何故自転車に乗って白い雲を追いかけていると気分がいいのかということを、突き詰めて考えてみる必要があるようだ。そこから人類のために役に立つ普遍的な理論を発見することができれば、フリーライダーの汚名を返上できるかもしれないと、少しだけ思う今日この頃である。

 以上で今回の筆を置こうとしたら、スイスの若い友だちから、メールが届いた。近況とともに送られてきた添付写真を開くと、部屋の中でジャンプしている彼の姿だった。なんのためのジャンプかわからない。こういう無駄な遊びは私もよくやるのだが、彼はすでに働くアリと認められた。私とコウタくんも、なんとか頑張ってキチンと、人のためになる何かをやらなくてはならない。

 さて、何を? コウタくん、それについては、近々一杯やりながら考えてみようじゃないか。


15

2013-11-5

直哉少年のデイトンと切支丹坂

 明治の後半、今から120年ぐらい前のことになる。東京の往来を行くのは馬車ばかりで、まだ電車も自動車も走っていなかった。自転車は、主に英米からの輸入車が普及し始めていたようだ。

 イギリス製の自転車は作りが親切で頑丈だが野暮ったかった。アメリカ製は泥除けもなく不親切な造りだが、イギリス製よりもカッコよく安価なため、若者に人気があった。

 そこでかの文豪志賀直哉は学習院の中等部に上がった13歳のとき、お祖父さんにせがんでアメリカ製のデイトンを買ってもらった。そしてその後5、6年間、気が狂ったように自転車を乗り回したと本人はいう。

 麻布三河台、現在の六本木交差点近くの雑木林に囲まれた千七百坪になんなんとする広大な屋敷から、目白の学習院までの通学路7、8キロの往復はもとより、買い物や友達の家への訪問にも使い、休日には江の島、千葉への日帰りの自転車旅行も決行した。

 ちょうど同時期、夏目漱石も留学先のロンドンで自転車を習いはじめたが、直哉少年のような具合にはいかなかった。漱石の随筆「自転車日記」によれば、大きな落車5回、小さな落車は数知れず、「或る時は石垣にぶつかって向脛(むこう)を擦りむき、或る時は立ち木に当って生爪を剥が」し、「ついに物にならざるなり」とある。

 

 直哉少年をどこへでも連れて行ってくれた高性能車デイトンには、一つ大きな欠点があった。今の一般的な自転車とは異なり、ハンドル部分で操作するブレーキがない。デイトンはいわゆるピストバイクで、ペダルをこぐのを止めると後輪も一緒に止まるので、走行中に止まりたいときは、ペダルを逆に踏み込んでブレーキをかけた。

 慣れない者には危険極まりない制動システムにもかかわらず、彼が好んだのは坂道の走破だった。「登山家が何山何嶽を征服したというように、私は東京中の急な坂を自転車で登ったり降りたりする事に興味を持った」と彼は小文「自転車」に記す。

 私も東京中の坂を、あちこち自転車で昇り降りしている。その際私は、登坂においてはなるべく立ちこぎはせず、できるだけ涼しい顔で座ったまま登り切るよう心がけ、他の通行人または沿道のギャラリーがいる際には、なおさらその努力を惜しまないことにしている。そして、今はもうそんな危険なことはあまりしないが、下り坂ではブレーキをかけないこと、もしくはさらにペダルを踏み込みスピードアップすることで快感を得た。

 とはいえ、そんな遊び方のできる坂道は、大した傾きではない。東京の都心各所の本格的な坂になると、変則ギアのない私の普通車では、立ちこぎでも歯が立たない登り坂や、ブレーキをかけ続けて降りないと暴走し、とんでもない惨事を招くだろう下り坂がいくらでもある。

 目白にある日無坂とその隣りの富士見坂などは、見ただけで戦意喪失し、私はいまだに自転車による登り降りをしていない。

 学習院はこの坂の近くだから、直哉少年がこの二本の坂について触れてもいいはずなのに、前出の小文にその記載がないところを見ると、ここだけは二の足を踏んだのかもしれない。

 直哉少年は富士見坂よりさらに東に2キロほど行った所にある、今の丸ノ内線茗荷谷駅あたりの切支丹坂に、果敢にチャレンジしたようだ。まるで崖のような急峻な坂を、ハンドブレーキのないデイトンで下ったときの模様を次のように記している。

「私は或る日、坂(=切支丹坂)の上の牧野という家にテニスをしに行った帰途、一人でその坂を降りてみた。ブレーキがないから、上体を前に、足を真直ぐ後に延ばし、ペダルが全然動かぬようにして置いて、上から下までズルズル滑り降りたのである。…中心を余程うまくとっていないと車を倒して了(しま)う。坂の登り口と降り口には立札があって、車の通行を禁じてあった。然し私は遂に成功し、自転車で切支丹坂を降りたのは自分だけだろうという満足を感じた」

 明治の昔、おそらく我が祖先はテニスラケットではなくクワを握り過酷な農作業にいそしみ、デイトンの代わりにやせ馬を駆り、壊れそうな荷車をガタゴトと必死でひいていたに違いないから、私は彼のこの回想の冒頭を、心穏やかに読むことはできない。だが、急坂でブレーキをかけながら微妙にバランスをとって自転車で滑り降りるスリルと、それを成し遂げたときの喜びについては、ほほえみをもって共感することができる。

 

 それから遠乗りや坂道の遊びだけでなく、直哉少年が自転車で楽しんだもう一つのこともまた、私の趣味とだいたい重なる。それは、競走だ。

 ふだんはおとなしい穏やかな人が、自動車を運転すると人格が変わることがある。若い頃私には、車に乗ると豹変するスピード狂の友達が何人もいて、その助手席で驚愕の体験をしたことが何度かある。また、そうした友達の車に同乗し、覆面パトカーに追われて捕獲された経験もあるから、日常生活者の中の多少手荒いドライバーの車に乗ってもそれほど驚かないが、あのカメラマンの運転だけは恐ろしかった。人格が変わるとはまさにあのことで、高速で抜かれるとその度にスイッチが入り、格別な闘争本能をむき出しにして命を張った。抜かれずともちょっと後ろに接近されただけでも、相手が誰であろうと見境なく、いちいち挑発行動を開始した。日頃は人一倍低姿勢で温厚な人柄だけに、凶暴性が一層際立ち、私は二度と彼の車に乗ることはなかった。

 私はこうした性質の人たちを交通安全の面からは嫌悪し、心情的には憐むのであるが、振り返ってみれば私自身も似たり寄ったりという気がする。私の中の眠れる獅子もまた、自転車という文明の利器の利用により、目覚めることがしばしばある。

 いつものんびりと自転車をこいでいるから、おじいさんもおばちゃんも子供も皆、たいていの自転車は、私を邪魔そうに追い越していく。すると私は、なにをそんなに生き急ぐのかと軽蔑し、優越感を抱きながら、ますますゆっくりとこぎ進む。

 ところが、これが遠出となるとのんびりとした心持を失い、精神がすっかり変質する。私はにわかに他車との競走を開始する。

 他車とは信号待ちで隣り合わせた自転車の場合もあるが、もう少し若い頃は、自動車と張り合うこともあった。もちろん買い物カゴ付きの我が普通車は、自動車のスピードにはかなわないが、信号の多い道路や渋滞気味の道路では、いい勝負になることもあった。

 自動車との競走は基本的には負けるし、年を取ると危険も大きくなるのでもうやらないが、今でも自転車での長距離散歩のときに、自転車通勤の青、壮年者、あるいは長距離散策の高齢者たちが私を追い越していくと、なんとなく面白くないので、歩道に乗って車専用の赤信号を回避したり、逆に歩道の混雑を避けて車道に出て、歩道の人混みでまごまごしている相手を出し抜いてやったりすることがある。

 私のみならず長距離走行車たちは一般に、生活圏内を自転車でブラブラする人たちとは、一見してその様子を異にする。百里を行く者は九十を半ばとす、と自らを戒めるかのように懸命にペダルを踏むから、当然スピードも通常よりかなりアップする。このアップしたスピードにより他車に先んじ、そして引き離すことを、走行中の最大の幸福と感じるようになるのである。

 私は常々自分を幼稚だと思っているが、まさにそれをとことん思い知るのが、自転車による長距離走行中の競走においてである。

 直哉少年もこういっていた。

「私達は往来で自転車に乗った人に行きあうと、わざわざ車を返し並んで走り、無言で競走を挑むような事をした。時にはむこうから、そういう風にして、挑まれる場合もある」

 さらに直哉少年は自分の自転車の競走性能が相手に劣ると見るや、卑怯な手段を使って対抗した。それは上野の広小路を走っていて、背後から来た二人連れの自転車に挟まれ、競走を挑まれたときのことだった。

「その車ではもう競走は出来ないので、不意に一人の車の前を斜めに突っ切って、對手の前輪のリムに自分の後輪のステップを引っ掛け、力一杯ペダルを踏むと、前輪が浮いて、その男は見事に車と共に横倒しに落ちた。二人とも私よりは年上らしく、一人と二人では敵わないから、一生懸命逃げた」

 なかなかやるじゃないかと親しみが湧いてくる。

 私は彼ほど度胸がないから、気に障るライダーに遭遇すると、もっと陰険なやり方で相手を困らせようとする。たとえば、中高年の紳士たちのこれみよがしの高級自転車が私の後ろから、どけよとばかりに咳払いなどして追い立ててくれば、すぐに私はカッとなり、意地悪をしたい欲望を抑えたり、抑えきれなくなってしまうことがある。そこが狭い歩道なら、わざと歩道の真ん中を走って後から抜かせないように邪魔をして、もっとイライラさせてやるのだ。

 私と直哉少年の自転車ドライブ中の意識はよく似ている。しかもその似ている部分が、坂道に挑むとか、競走を好むとか、あるいは鼻持ちならない相手への好戦性とか、私のバカげた特徴との一致だったりするから、幼稚で下衆な自分を鏡で見るような思いがする。嫌な気がするとともに面白い気もして、心境は複雑だ。

 スリルとスピードと意地悪は危険なり。されど楽しからずや。桑原桑原、といったところか。

 なお、直哉少年と私の自転車にまつわる一致は、やはり自転車にまつわる大きな不一致を前提としているということも、付記しておく必要があるだろう。

 不一致とは、自転車の価格だ。彼のデイトンは、イギリス製よりも安く160円だった。160円なら私だって何台も買えるが、もちろん当時の160円には十分すぎる価値があった。彼の話によれば、10円あれば一人分の1か月の生活費になった。つまり10円は最低10万円、大卒の初任給ぐらいだとすれば20万円に相当し、160円の自転車は、160万円から320万円したということになる。今なら金満家の息子が初めて免許を取り、新車のBMBミニを買ってもらうようなものだろうか。方や私の自転車は、ホームセンターで買った1万円ぐらいの前カゴ付き普通車である。

 この格差は大いに憤りを覚える見逃せない矛盾だが、今回はそれに関して悶着を起こすことは避けて、以上をもって、百年余を隔てて巡り合った自転車仲間、志賀直哉少年のご紹介とさせていただく。

 

 さて、こうなればもう切支丹坂に出かけるほかはない。ブレーキをかけてズリ落ちながら、小癪な直哉少年を偲んでみたくなり、台風一過の晴れ渡る青空の下、切支丹坂を目指した。

 しかし現地に着くと疑問が湧いてきた。現在の切支丹坂は、直哉少年の降りた切支丹坂ではなさそうだった。「坂の登り口と降り口には立札があって、車の通行を禁じてあった」というほど急ではなかったからだ。

 では、目指すそれはどこにあるのか。切支丹坂の坂下から、逆方向の小石川台地へと登る坂、庚申坂(こうしんざか)が怪しい。なぜなら、庚申坂は極めて急峻で狭く、直哉少年が苦労して降りた坂のイメージにピッタリ重なるからだ。そして、庚申坂を登り切ったところに、坂の由来を示す立札があり、次のように書かれていたことも、その証左となるだろう。「この坂を切支丹坂というは誤りなり。本名は“庚申坂”昔坂下に庚申の碑あり」。この一文は、明治の中ごろ、ちょうど彼が坂を下ったときより、少し前に出版された東京の名所ガイド『東京名所図絵』からの引用である。すなわち、庚申坂は当時切支丹坂と通称されていたことがわかった。

 まあ、どうでもいいことだけれど、なるほどこの坂を300万円のピスト自転車で降りてきたのかと思うと、さらにその馬鹿さ加減にリアリティーが増し、なるほど世紀を代表する文豪の根性は見上げたものだと、今ではコンクリートで固められ、階段と手すりがつけられたその坂を、感慨深く見上げる私だった。

私が自転車での走破をためらう目白の富士見坂。坂下から見たところ。 2013-10-27撮影

志賀直哉少年がデイトンで降りたと思われる庚申坂 2013-10-26撮影

現在の切支丹坂。それほど急ではない。 2013-10-26撮影


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2013-12-5

カイツブリとお金



 秋も暮れ、街中落ち葉だらけの冬が来た。公園を訪れ、乾いた落ち葉を踏みしめて自転車を漕ぐ。ザクザク、ミシミシ。桜の落ち葉の紅のグラデーションは、夕焼けのようだ。これが小判だったらなとも思う。でも本当にそうだったら、一枚も落ちてはいない。

 漱石の秋の手紙の書き出しにある、こんなのが好きだ。

「伊香保の紅葉を貰って面白いから机の上に乗せておいたら風がさらって行って仕舞った。どこをたずねてもない」

 真似をして赤くなったモミジを公園で拾ってきて、白いテーブルの上に置いた。予定していた来客に風流をひけらかす計画だった。閉め切った部屋だから、モミジは風にさらわれず、そのままそこに居たけれど、客が来るころには、時が赤を奪ってしまった。枯葉も生きているらしい。とくに葉の薄いモミジは乾燥に弱く、鮮やかな赤はすぐに茶色く変色し、星形は無残にしわ枯れてクシャクシュになってしまった。

 モミジはアッという間に精彩をなくした。漱石は机に乗せておいて鑑賞したというふうなことを書いていたが、ウソをついたのかもしれない。だとしたら、きれいなウソだ。

 

 昔よく酒を飲んだデザイナーは、都心の真ん中に住んでいた。流行りのショップや食べ物屋、先端のファッションに囲まれて、新しいデザインを感じて暮らすのも仕事のうちと考えていたのだろうか。けれど彼はときどき山に出かけた。トレッキング程度らしいが、ともかく山はいいと言った。都会も自然も好きですよという広い感受性を誇示するための気取りの一種かと疑い、私はちょっと意地悪に自然のどこがいいのかと尋ねた。すると彼は照れ臭そうに答えた。「都会で見るものには、全部値段がついている。ぼくのデザインする商品にも。でも、山の中の葉っぱの一枚一枚には、値札がついていないんだよな」と。

 太宰治の作品に、「私は、七七八五一号の百円紙幣です。」で始まる、「貨幣」という短編がある。太宰が焼却処分間近い百円紙幣に成り代わり、過去を述懐する。「焼かれた後で、天国へ行くか地獄へ行くか、それは神様まかせだけれども、ひょっとしたら、私は地獄へ落ちるかも知れないわ。生れた時には、今みたいに、こんな賤(いや)しいていたらくではなかったのです」などと。

 ちなみに、七七八五一号の独白が女言葉なのは、貨幣は外国語で女性名詞だからだ。彼女の話によれば、生まれた時分は幸福だったらしい。

「はじめて私が東京の大銀行の窓口からある人の手に渡された時には、その人の手は少し震えていました。あら、本当ですわよ。その人は、若い大工さんでした。その人は、腹掛けのどんぶりに、私を折り畳たたまずにそのままそっといれて、おなかが痛いみたいに左の手のひらを腹掛けに軽く押し当て、道を歩く時にも、電車に乗っている時にも、つまり銀行から家へと、その人はさっそく私を神棚にあげて拝みました。私の人生への門出は、このように幸福でした」

 それなのに、なぜ、地獄に落ちるかもしれないと彼女が思うかというと、恥ずかしくて仕方がない臭気が、体に付いてしまったからだ。

 神棚に上げられ拝まれた幸福な門出のあと、七七八五一号はすぐに大工のおかみさんに質屋に連れて行かれ、着物とかえられ、質屋の冷たくしめっぽい金庫に入れられてからというもの、次々に人の手に渡り四国や九州を転々として、めっきり老け込んでから東京に戻ると、「それからまもなく、れいのドカンドカン、シュウシュウがはじまりましたけれども、あの毎日毎夜の大混乱の中でも、私はやはり休むひまもなくあの人の手から、この人の手と、まるでリレー競走のバトンみたいに目まぐるしく渡り歩き、おかげでこのような皺(しわ)くちゃの姿になったばかりでなく、いろいろなものの臭気がからだに附いて、もう、恥ずかしくて、やぶれかぶれになってしまいました」ということだったようだ。

 彼女が、自分の体についた、恥ずかしくて仕方のない臭気については、さらに次のように説明している。

「けだものみたいになっていたのは、軍閥とやらいうものだけではなかったように私には思われました。それはまた日本の人に限ったことでなく、人間性一般の大問題であろうと思いますが、今宵死ぬかも知れぬという事になったら、物慾も、色慾も綺麗に忘れてしまうのではないかしらとも考えられるのに、どうしてなかなかそのようなものでもないらしく、人間は命の袋小路に落ち込むと、笑い合わずに、むさぼりくらい合うものらしうございます。この世の中のひとりでも不幸な人のいる限り、自分も幸福にはなれないと思う事こそ、本当の人間らしい感情でしょうに、自分だけ、あるいは自分の家だけの束(つか)の間(ま)の安楽を得るために、隣人を罵(ののし)り、あざむき、押し倒し、(いいえ、あなただって、いちどはそれをなさいました。無意識でなさって、ご自身それに気がつかないなんてのは、さらに怒るべき事です。恥じて下さい。人間ならば恥じて下さい。恥じるというのは人間だけにある感情ですから)まるでもう地獄の亡者がつかみ合いの喧嘩をしているような滑稽で悲惨な図ばかり見せつけられてまいりました」

 そんな状況の中で人々の間を渡り歩き、臭気を身にまとい、疲れ切った七七八五一号が、どう救われたのか救われなかったのか、結末はあえて伏せてご一読をぜひ勧めたいが、この作品は、希望と欲望と幸福と不幸、たくさんの思いを身にまとう、あまりに現実的な、あまりに抽象的な、その意味において詩的な、貨幣というものの不思議さを、改めて感じさせてくれる。

 

 漱石の「永日小品」という随筆風の小話を集めた作品集にも、「金」という興味深い作品がある。それほど長くないから、そのまま以下に紹介する。

 劇烈な三面記事を、写真版にして引き伸ばしたような小説を、のべつに五六冊読んだら、全く厭になった。飯を食っていても、生活難が飯といっしょに胃の腑まで押し寄せて来そうでならない。腹が張れば、腹がせっぱ詰まって、いかにも苦しい。そこで帽子を被かぶって空谷子(くうこくし)の所へ行った。この空谷子と云うのは、こういう時に、話しをするのに都合よく出来上った、哲学者みたような占者(うらないしゃ)みたような、妙な男である。無辺際(むへんざい)の空間には、地球より大きな火事がところどころにあって、その火事の報知が吾々の眼に伝わるには、百年もかかるんだからなあと云って、神田の火事を馬鹿にした男である。もっとも神田の火事で空谷子の家が焼けなかったのはたしかな事実である。

 空谷子は小さな角火鉢(かくひばち)に倚(も)たれて、真鍮(しんちゅう)の火箸で灰の上へ、しきりに何か書いていた。どうだね、相変らず考え込んでるじゃないかと云うと、さも面倒くさそうな顔つきをして、うん今金(かね)の事を少し考えているところだと答えた。せっかく空谷子の所へ来て、また金の話なぞを聞かされてはたまらないから、黙ってしまった。すると空谷子が、さも大発見でもしたように、こう云った。

「金は魔物だね」

 空谷子の警句としてははなはだ陳腐だと思ったから、そうさね、と云ったぎり相手にならずにいた。空谷子は火鉢の灰の中に大きな丸を描かいて、君ここに金があるとするぜ、と丸の真中を突ッついた。

「これが何にでも変化する。衣服(きもの)にもなれば、食物(くいもの)にもなる。電車にもなれば宿屋にもなる」

「下らんな。知れ切ってるじゃないか」

「否(いや)、知れ切っていない。この丸がね」とまた大きな丸を描いた。

「この丸が善人にもなれば悪人にもなる。極楽へも行く、地獄へも行く。あまり融通が利(き)き過ぎるよ。まだ文明が進まないから困る。もう少し人類が発達すると、金の融通に制限をつけるようになるのは分り切っているんだがな」

「どうして」

「どうしても好いが、――例えば金を五色(ごしき)に分けて、赤い金、青い金、白い金などとしても好かろう」

「そうして、どうするんだ」

「どうするって。赤い金は赤い区域内だけで通用するようにする。白い金は白い区域内だけで使う事にする。もし領分外へ出ると、瓦(かわら)の破片(かけら)同様まるで幅が利きかないようにして、融通の制限をつけるのさ」

 もし空谷子が初対面の人で、初対面の最先(さいさき)からこんな話をしかけたら、自分は空谷子をもって、あるいは脳の組織に異状のある論客と認めたかも知れない。しかし空谷子は地球より大きな火事を想像する男だから、安心してその訳を聞いて見た。空谷子の答はこうであった。

「金はある部分から見ると、労力の記号だろう。ところがその労力がけっして同種類のものじゃないから、同じ金で代表さして、彼是(ひし)相通ずると、大変な間違になる。例えば僕がここで一万噸(トン)の石炭を掘ったとするぜ。その労力は器械的の労力に過ぎないんだから、これを金に代えたにしたところが、その金は同種類の器械的の労力と交換する資格があるだけじゃないか。しかるに一度(ひとたび)この器械的の労力が金に変形するや否や、急に大自在(だいじざい)の神通力を得て、道徳的の労力とどんどん引き換えになる。そうして、勝手次第に精神界が攪乱(かくらん)されてしまう。不都合極まる魔物じゃないか。だから色分(いろわけ)にして、少しその分(ぶん)を知らしめなくっちゃいかんよ」

 自分は色分説(いろわけせつ)に賛成した。それからしばらくして、空谷子に尋ねて見た。

「器械的の労力で道徳的の労力を買収するのも悪かろうが、買収される方も好かあないんだろう」

「そうさな。今のような善知善能(ぜんちぜんのう)の金を見ると、神も人間に降参するんだから仕方がないかな。現代の神は野蛮だからな」

 自分は空谷子と、こんな金にならない話をして帰った。

 人間はしばしば、身に余る、手におえない発明をして喜び、苦しむ。その最たるものがお金かもしれない。

「この丸が善人にもなれば悪人にもなる。極楽へも行く、地獄へも行く。あまり融通が利(き)き過ぎるよ。まだ文明が進まないから困る。もう少し人類が発達すると、金の融通に制限をつけるようになるのは分り切っているんだがな」

 そんな時代が来たら、私のような人間が受け取ることのできるお金は、五色のうちの何色なのだろうかと思ったりもするが、ともかくもう少しお金があるといいなというあさましい気持ちは消せないし、一人で仕事をするようになってからの三十五年間というもの、一日としてお金のことを考えなかったことはなかったなとつくづく思いながら、さっきまで潜ったり浮かんだりを繰り返していた公園の池のカイツブリをふと見ると、冬にしては暖かな昼下がりの日和の中、池の真ん中にぽっかり浮かび、丸くなって昼寝をしていた。その隣には銀杏の落ち葉が浮かんでいる。

 気持ちよさそうだなと思い、持参したカメラの望遠で、銀杏とカイツブリを撮ろうとして驚いた。カイツブリはとても小さな水鳥で、肉眼の遠目には首をひねってクチバシを背中の羽毛につっこみ、昼寝をしているとばかり見えたが、望遠レンズをのぞいて拡大してみると、片目をしっかり見開いていたからだ。

 穴のあいたコインのようなその目は、私を気の毒そうに見つめていた。


17

2014-01-6

草野球



 とくに行くあてもなく自転車を流していると、時々草野球に出くわし、しばらく足を止めて観戦することがある。週末には小学校の校庭で子供たちの試合に心なごませ、ウィークデーなら市営グラウンドでおじさんたちのへっぽこ野球に相好を崩す。

 12月も押し詰まった昨日も、近隣の小金井公園のグラウンドで、草野球に遭遇した。最初は、ああまたやってるな、この寒風の中、元気で結構なことだと思う程度で通り過ぎようとしたら、はしゃぐような、驚くような、甲高い声が聞こえたので、少し離れたグラウンドの方にそれとなく目をやった。すると、使い古した不揃いなユニフォーム姿の若者たちが黒い土のグラウンドに散らばり、ピッチャーがマウンドに立って投球練習をしていた。甲高い声はその投球に対する、一人の男のリアクションだった。

「速えーな! なんだこれ。135は出てるぞ。スピード違反だよ」

 浮ついた、少しイヤな感じのするしゃべり方で、気の利いたウイットも誠実さもなく、私の好きな種類の人間ではなさそうに思えた。そもそも草野球で、軟式ボールを135キロで投げるピッチャーなどいるはずがない。軟球は軽くて空気抵抗が大きから、120キロの速度を出すのがせいぜいだといわれている。135なんて、適当なことをいうもんじゃないと、私はちょっとそのピッチャーの投球を自分の目で確かめ、その男のいい加減さを証拠立ててみたい気がした。

 自転車を止めた道路からバックネットまでは、少し距離があった。しかし、遠目でも十分スピードを確認できるだろうと、1、2球に目を凝らした。速かった。ジャージ姿の大柄で肥満体のキャッチャーは、いちいちミットをはじかれ、ボールを横や後ろに逸らし、まったく捕球がかなわなかった。それでも草野球で120を出すピッチャーなど、そんじょそこらにいるものではなく、ましてや不揃いなユニフォームを着た寄せ集めのチームの中にいるはずかないと、私は自分の常識を確認するために、道路を離れてバックネット裏へと近づいて行った。

 

 相変わらず甲高い声の男が、スゲー、スゲーと下品に囃し立てている。そのうちマスクとレガースを付けた本物のキャッチャーが登場し、お役御免となったジャージ姿の大柄なキャッチャーは、レフトの守備位置についた。

 バックネット裏の金網越しに見ていると、本職のキャッチャーが来たためか、ピッチャーの投球練習はさらに力が入り、いよいよスピードが増してきたようだった。

 確かに120は出ていた。いや、135とはいわないまでも、130キロ近くあるようにも感じられた。

 最近以前にも増して目がかすんできた私だから、気のせいかもしれないと思い、130キロ内外で投げられる体力とフォームが備わっているのか、そうした面からも仔細にチェックすることにした。

 私は自転車を乗り回しているばかりではなく、構想1年、制作1年余、足掛け3年もかけて『150キロのボールを投げる!』という野球のピッチャーの投球術の本をプロデュースしたことがあり、プロ、アマの専門家を取材し、じっくり勉強したから、普通の人よりは投球の方法やそのトレーニング法について詳しい。

 大柄な体格ではなかったが、そのピッチャーの足腰の筋肉はたくましく発達しているように見えた。土台の性能はいかにも高そうだ。そして、フォーム上の最も重要なポイントといえる、踏み出し足のヒザの割れもなかった。130キロの速球を投げる体力と技術は、十分備わっているように思われた。

 そこでもう一度その球筋をしっかり見ると、なるほど球がホップするような伸びがあった。しかも彼はサイドハンドスローである。リリースポイントが低いから、バッターから見ると、球が浮かび上がって来るように感じられ、非常に合わせにくい球筋だ。

 私はこれほどのピッチャーの球を、こんな所で偶然見られるとは、大きな得をしたような気になった。そして、サイドハンドローという点も、私がピッチャーに好意を寄せる理由の一つとなった。

 肩関節の可動域の問題で、先天的にサイドスローが投げやすい人も、中にはいる。しかし、大方の人は斜め上のスリークォーターから投げるのが自然で、ピッチャーを目指す者は、基本的に上から投げたがる。いかにもダイナミックで、理想的な剛腕投手のイメージもそこにある。だから好き好んでサイドスロー、アンダースローなど、横や下から投げるピッチャーは非常に少なく、高校野球ではだいたいチーム事情により、無理矢理サイドスローにさせられてしまうケースが多いようだ。上から投げる主戦投手が一人いれば、あともう一人の二番手投手は、球の出所の違うサイドスローを用意して目先を変え、敵の打者を翻弄するという戦法だ。このときサイドスローに転向させられる投手は、涙をのむ。屈辱的とさえ思うこともあるだろう。そして、落胆の底から這いあがり、それをバネに人一倍奮起して、サイドスローでありながら、上から投げる主戦投手よりも速い球を投げるべく努力する。そんな高校野球のサイドスローのピッチャーを、私は実際に知っている。小金井公園のグラウンドにいた彼も、きっと同様な辛酸をなめた一人で、その球の速さから推測すると、高校野球の都道府県予選のベストエイト以内に名を連ねる強豪校にいた可能性が高いように感じられた。

 夢をつかみ損ねた誇り高き彼が、小うるさい軽薄な男を黙らせ、グーの音も出ないほどに圧倒し、実力差を見せつけてやるのがいいと私は願った。しかし、そう願う理由は、過去に挫折を味わったであろう彼への同情と小うるさい嫌味な男への嫌悪だけではなかった気がする。私は彼の投球を利用して、私個人の夢を奪った何かへのお門違いの復讐を目論み、せこい爽快感を得ようとしていたのだった。

 多くの野球少年がそうであるように、私もピッチャーとして甲子園のマウンドを目指し、プロ野球を夢見、そこにたどり着くために日々努力重ねた。そして、その夢を諦めなければならない日が来て、止めどなく涙が流れたのを覚えている。たとえ私のレベルが低くても、その挫折感の本質は、おそらく目前の彼が味わっただろうそれと、それほど変わることがないだろうと思えた。

 見知らぬ彼よ、いや自分と重なる君よ、下賤な下々に高貴な投球の真価を知らしめよ。と、私は心でつぶやいた。そして、ニヤニヤしながら独りネット越しに、夕刻間近の真冬の野球場で幕を開けた小さな物語の成り行きを見つめていた。

 いよいよ練習試合が始まった。

 一番バッターは、きゃしゃな青年だった。目深にかぶった野球帽の脇から長い茶髪がはみ出している。私は日本人の茶髪が未だに好きになれない。一球目、かなり高めのボール球だった。球がベースを通り過ぎてから、空しくバットが振られた。例のうるさい男が、「ウォー」とかなんとかいって騒いでいる。しかし、バッターも他の者たちは誰ひとりとして声もなく、その速球の速さに唖然とするばかりだった。

 二球目は、ど真ん中の速球だった。バッターは辛うじてチップした。ボールにバットがかすっただけで、どよめきが起こった。

 普通この手の若者たちの草野球には、マネージャーや応援に若い同世代の女の子がいて、下手でも上手でも、それなりに華やいだ雰囲気に包まれ、ゲームを楽しむという空気が感じられるものだ。ところが、このグループに女子は一人もおらず、しかも破格な威力を持つボールのせいで、緊張すべき理由など一つも見当たらない草野球の紅白戦でありながら、一球ごとに、この場にふさわしからぬ真剣味が加わっていくようにも感じられた。

 三球目。チップに気をよくしたバッターの構えが変わった。構えの段階から右肩に力が入り、打ち気が見える。サイドスローから放たれた速球は、斜め横から観戦していた私には、ホップするように見えた。その球はチップされた球速よりさらに速い。案の定、球はホームベースに到達したときにはかなり高めのボールとなった。しかし打ち気満々の打者は強振した。球の軌道とスイングの軌道は、二十センチも離れていた。

 例のうるさい大将が、さらに興奮しながら、「スゲー、スゲー、打てねぇーよ、こんなの。なんだよー。やっぱりパトカー呼んで来いよ」と、相変わらず腹立たしいほど低級な野次を飛ばし続ける。

 私は、まあ予想通りだと思った。ピッチャーの投球は、重力を受けて落下する。しかし、速度が速いと落下の幅が小さくなる。バッターにとって既知の速度の投球は、その落差を予測してスイング軌道を決め、ホームベース上で球にバットをアジャストすることができる。ところが未知の速さの球は、落差を予測することができないので、バッターは経験済みの落差の範囲内で、スイング軌道を決める。すると、未知の速度のボールは打者の見積もりよりはるか上を通過し、無様な三振となるのである。

 二番バッターは、やや小柄な狡猾そうな目をした若者だった。やはり線が細く非力に見える。しかし、彼は前の打者の三振から多くを学んだ。とても打つことのできる代物ではないと。そこで作戦を立てた。球は速いが比較的制球の定まらない投球だったから、スイングせずにじっくり見ることにした。フォアボール狙いだ。ストライクゾーンは、体が小さいほど小さくなる。高めに浮きがちな投球はストライクになりにくく、二番バッターはすべての球を見逃して、結局スリー・ツーのフルカウントからフォアボールを選んだ。

 攻撃側にとってはフォアボールさえ思いもよらぬ大きな勲章だった。連続三振をいくつ重ねられるかを期待していた私にとっても意外で、ややがっかりしたが、ハイアマチュアが素人相手に完全試合を達成するのは、あまりに大人げない。フォアボールを一つぐらいは、草野球仲間に対する必要な配慮かもしれないと思った。

 そして、三番バッターの登場となった。身長は高く腰回りの大きなしっかりした体つきをしている。打席に入る前の素振りに十分な勢いがあり、スイング軌道もダウンスイングを意識したものだった。少しは心得があるように見えた。一球目、やはり高めの速球。彼は一球目から強振した。球速に負けないタイミングとスイング速度でボールをとらえ、チップした。「おいおい、当たるぞ、当たるぞ」と例の声がする。

 二球目。今度は初めて内角をえぐるボールが来た。バッターはその球威に驚き、体をのけぞらす。しかし、ストライク。ピッチャーは少しは手ごわさを感じたのかもしれない。単に速球で押すだけでなく、コースのゆさぶりをかけてきた。さらに三球目が来た。外角高めの速球。二球目で腰が引けたバッターのバットは、力なく空を切り三振を喫した。誰ももう声を発する者はいなかった。圧倒的な力の差により、グラウンド全体が攻撃側の絶望感によって支配された。守備側もこのピッチャーをチームに招き入れたのは初めてのことのようで、いくつもの呆れ顔が黒い土のグラウンドの上に並んでいた。

 私の顔のほころびが増したのはいうまでもない。もはやピッチャーの彼は彼ではなく、私そのものといってもよかった。

 ツーアウトになった。次は四番打者。素振りを始めたのは例のうるさい男だった。その素振りは比較的軸のしっかりした強いもので、四番打者でもあるし、騒ぐだけのことはあるのかもしれないと、少しだけ思った。

 しかし、年末の雑事がまだ残っていて、あまり長居はできなかった私にとっては、これでちょうどよい締めくくりになるだろうと、短いドラマの終幕を予感した。あの剛腕江川卓が全盛期のとき、オールスターで見せた空前絶後の8連続三振を彷彿とさせる投球を期待した。最盛期の江川の速球はホップし、顔のあたりの高さを通るとんでもないボール球を、パリーグの強打者たちは、まるで素人のダイコン切りのようなスイングで空振りを重ねるだけだった。

 一球目、真ん中高めの速球が来た。彼はためらわずフルスイングした。すると意外にもチップし、ボールが真後ろに飛んで行った。まさかとは思ったけれど、タイミングは合っているようだ。しかも、なんとピッチャーがキャッチャーに歩み寄ってきて、何やら真剣に相談し始めた。バッターがそれを見て、「おいおい、打ち合わせかよ。何話しているだい」といいながら、ピッチャーとキャッチャーに近づいて行った。そして、「変化球投げていいかって言ってるぞ。勘弁してくれよ、あの速球に変化球まぜられたら、打てっこないよー」。相変わらずよくしゃべる男だと思った。しかし、私はそのとき、ピッチャーが相談する意味がよくわからなかった。なぜなら、チップは偶然で、変化球を混ぜる必要のある相手ではないと信じていたからだ。

 二球目、今度はやや外角にそれる直球が来て、男はへっぴり腰の手先だけのスイングで、力なく空振りした。たぶん速球は捨てて変化球のタイミングで待っていたら速球が来たのだろう。まあ、そんな程度だろうと、私は次の球で三球三振を想像した。

 そしてついに三球目が投じられた。

 一塁ランナーがホームインした後、息苦しそうにようやく三塁に到達したそのうるさい男は、ピッチャーを見ながら半分勝ち誇り、半分憐れんで言った。

「バッティングセンターに通ってて、よかった。でもバッティングセンターの130より速えーよ」

 攻撃側も守備側も、グラウンドのすべての選手たちは、打たれた当のピッチャーも含めて一様に大きな驚きを隠さなかった。私はピッチャーが負った心の傷が気になった。

 投じられた三球目はインサイド高めの速球だった。その日の最速だったかもしれない。しかしバッターは、うまく腕をたたんで腰の回転を速めることでスイングを加速させ、見事に速球をとらえ、レフト線ギリギリにライナー性の大飛球をカッ飛ばしたのだった。

 ピッチャーが二球目を投げる前にキャッチャーに相談したのは、この男のスイングを見て、速球だけでは合わせられそうな予感がしたからだった。この予想外の事態の後に、私はようやくそれを理解した。それなのにピッチャーが速球を投げたのは、やはり変化球で逃げたくはないという速球投手持前の強気な心理が働いたからだろうか。

 いずれにしても、やかましい男の見事な勝利だった。

 私はもうそれ以上試合を見る必要を感じなかった。バックネット裏を離れて、仕事場へと帰路を急ぐことにした。

 公園内の林間を埋め尽くす乾いた落ち葉を自転車で踏みしめて走ると、バリバリと音がした。私の迂闊な予断が崩れ去る音だ。そして私の胸中は、新鮮な反省で満たされ始めた。

 私はピッチャーが抱えてきたと思われる心の歴史ばかりに気が奪われていたようだ。やかましい男の方が、ピッチャーよりもっと大きな透明な屈辱を忘れずにいたのかもしれない。私は申し訳ない気になり、自転車を漕ぎながら恐縮して背中を丸め、その後ろ姿を三塁ベース上の彼に、謝罪の印として差し向けることにした。


18

2014-02-5

偶然と必然



 去年の年末、最後に会った家族以外の人はKくんだった。そして、年頭最初に顔を合わせたのもKくんである。はからずも私の狭い交友関係を実証することになり、いささか不本意な気もするが、それはともかく、Kくんに誘われて年頭一緒に訪れた先は、散歩写真の名匠Tさんの個展だった。Kくんとは会場となった中野のギャラリーで落ち合うことにした。彼は電車で新中野の駅から向かい、私は自転車を利用することにした。早稲田通りを東に上りJR中野駅を経て、案内状の簡単な地図を頼りに会場を探し当てるつもりで家を出た。

 天気は上々で、今年初の自転車散歩のためには絶好の日和だった。しかし私は15分ほど自転車を漕いでから、西武新宿線沿いの庚申橋(こうしんばし)駐輪場に自転車を入れ、武蔵関駅へと向かった。鼻孔の奥にわずかな痛みを感じ、ちょっと悪寒もしたから、用心のため電車で行くことにした。正月早々風邪をひいて熱を出すのは幸先がよくない。

 やや気が急いて、少し早足で駅へと歩き始めた。出がけに仕事のメールの返信にてこずり、予定よりかなり遅れ、自転車でも電車でも約束の時刻にギリギリというタイミングとなってしまった。寛容なKくんは少しぐらい遅れても意に介さないだろうが、久しぶりにお会いするTさんには失礼になる。Kくんが私の到着時刻をTさんに予告している可能性もあった。

 そんな私の横を、優しげな横顔の若い女性が小走りで追い越して行った。駐輪場に私の後から入って来て、私のすぐ近くに赤い自転車を置いた女性だ。彼女も出がけに思わぬ用事で時間を食ったのかもしれないと思った。

 電車に乗ってから考えた。高田馬場まで出てしまい、東西線で中野まで折り返すのが早いか、西武新宿線の新井薬師前駅から歩いて中野駅まで行くのが早いか。単純な足し算引き算につまずきながら得た答えは、新井薬師前からのコースだった。用心深い私はこう考えた。JR中野駅から十数分離れた住宅街にある、初めて行くギャラリーだから、案内状の地図には12分と書かれているが、迷ってその倍の時間がかかることを計算に入れておく必要がある。とすれば、高田馬場まで出て折り返すほうが、少々時間がかかってもリスクは低く安全だと。

 しかし、それはあまりに用心しすぎではあるまいかと、私の中の楽天家が、ニヤニヤしながら蒸し返してきた。なぜなら、新井薬師とJR中野の間は、何度も歩いている既知の道のりだったからだ。新井薬師前から15分も歩けばすぐに中野ブロードウェイの北の端に出るのである。ブロードウェイの中をくぐれば中野駅までは、残りはわずか300メートルほどだった。

 私の中の楽天家が蒸し返したのは、わざわざ高田馬場まで出て折り返すより手っ取り早いし、電車賃もかからないという理由だけでない。何よりも前日Kくんからもらっていた親切過剰なメールが気になっていた。案内状にはギャラリーまでの地図が印刷されているというのに、彼はわざわざ次のようなメールを送って来たのだった。

「明日はよろしくお願いします。ご一緒するのを楽しみにしています。迷うといけないので、詳しい地図を添付します」

 

 Kくんは時々小癪(こしゃく)である。しばしば、といってもいいかもしれない。その昔、私が今よりさらに十キロ近く体重が多いとき、何かの折に私が素早い動きを披露したら、Kくん笑いながら驚いてこう言った。「やっぱり、ただのデブじゃなかったんですね」と。私は生まれて初めてデブと言われたので心外この上なく、返す言葉をなくして苦笑いするのが精一杯だった。以来Kくんには油断しないよう努めてきたが、まさか中野のギャラリーへの行き方で攻めて来るとは予想だにしなかった。

 私を誰だと思っているのだろう。昨日今日の西武線乗りじゃない。半世紀以上、この線を行ったり来たりしている。新井薬師前と中野の間も何回も、いや百回近くは歩いているかもしれない。そして中野周辺だって、数限りなく歩き回っているのである。

 Kくんは人をおちょくるのが好きなわけではない。年長に対して礼儀正しく、ほどよい尊敬の姿勢を貫く。が、彼の心中にはもう一つ泉があり、そこからは、絶えずいたずらのチャンスをうかがう情熱がふつふつと湧き上がっている。彼はそれを抑えきれなくなって、言動にほのめかしてしまうことがしばしばある。

 私はまた攻撃を仕掛けて来たな、ちょこざいなと思いながらも、「ご親切にありがとう。私は実は方向音痴で自転車には方位磁石を標準装備しているので、道に迷うことはありません、ご安心ください」と丁重に返礼し、余裕を示すことでスマートな反撃を試みたつもりだった。

 武蔵関駅から各駅停車に乗り、20分足らずで新井薬師前駅に着いた。中野駅までの道の途中には、いくつかの甘い思い出、ほろ苦い記憶が、街のそこここに埋め込まれている。それらを眺めながら新春の晴天のもと、待つ人のいる場所への向かうは、なかなか味わい深いものがあった。

 しかし、あまり思い出に浸りすぎて、道を間違えるようなことがあってはいけない。中野駅までは既知の道のりであっても、それから先は未知だ。迷うことを計算に入れ、できるだけ余裕をもって中野駅に到着することが必要だった。

 私は几帳面でも誠実なわけでもない。むしろその逆だ。私は昔、調子に乗って人を待たせたことがよくあった。自分で仕事の打ち合わせを招集しておきながら、すでに遅刻の道すがら、心の中でこううそぶいて恥じなかった。「自分が行かなければ、何も始まらんのだから、慌てる必要はないか、アハハ」。おごり高ぶるにもほどがある。何様か。私の心に刺さって抜けないトゲの一つである。

 私は念のため1分でも早く中野駅に辿り着くべく、小さな冒険を試みた。既知の道のりを進めば中野ブロードウェイの裏手に出る。しかし、ブロードウェイの人混みをかき分けて中野駅に向かうのは時間のロスになる。それより裏道を選んで早めに大通りに出るほうが、歩道が広く速く歩けるから得策に思えた。

 そこで私はある角を曲がってしまった。そのときそこがまさか、迷路への入り口だったなどということは、気づくよしもなかった。

 私は迷いに迷った。方向感覚は90度ずれ、南に向かうべきが真西に向かってひたすら歩いていた。東京の街は大方東西、南北に道が流れ、大間違いは起こりにくい。なのにどうしてか。自分が大きな間違いをしでかしたとようやく気づいたとき、空間が捻じ曲げられているような錯覚さえ覚えた。

 私が生まれてからの道のりもまた、幾度ものこうした偶然の思いつきにより、思わぬ方向へと引き寄せられ続けてきたのかもしれないと思った。南に進んでいると信じたのに西に、あるいは真逆の北に進んでしまったこともあったのだろう。おかしいやら、なさけないやら、妙なところで自分の一か八かの無計画とその結果与えられた手痛い褒美について、考えさせられるはめとなった。

 

 結局ギャラリーには、15分ほど遅刻して到着した。先着したK君はニヤニヤしながら私を待ち受け、Tさんは業界関係者らしき方と、それほど広くはないギャラリーの隅に置かれたテーブルを囲み歓談中だった。

 私は久々にお会いするTさんと目を合わせ、お話の邪魔にならないように軽く会釈をしてから、展示会場を一巡りすることにした。

 1970年代から90年代にかけての東京の散歩写真だった。東京各所で開発の槌音が響く中、失われていく時代の地平が見えてくる作品群である。いろいろな街をさまよい、いろいろな人々に会い、これまでいくつの、いく百の、いく千の偶然をカメラにおさめてこられたのだろうと想像した。そして、そこで垣間見た偶発のドラマ。命令を受けて歩いた必然の場所、そして、ポーズを願った必然の写真は、ひとつとしてないはずだった。

 ギャラリー中央の低いテーブルには、Tさんの散歩写真がまとめられた写真集も置かれていた。一通り展示を見た私はソファーに腰かけて、写真集をめくった。もう三、四十年前の神田の街中を撮った写真の中の一枚に目がとまった。古いしもたやの格子の玄関戸が狭く開いたその隙間から、初老の夫婦のなごやかな顔が、上下に二つ並んでいる。外をのぞいただけなのか、これから出かけようとしたのか、それは定かではないが、構図もその笑顔も新鮮で楽しい。

 歓談を終えた後のTさんに、長い無沙汰の詫びを短くしてから、この写真についてうかがった。

「こういう写真は、どうしたら撮れるのですか」

 私は答えにくい質問を不用意にしてしまったことを後悔した。一瞬のシャッターチャンスであろうこうした瞬間に、まずカメラを構え、構図や露出を決めてシャッターを押すということなれば、カメラに警戒して夫婦の晴れやかな表情は曇り、場合よっては玄関戸をぴしゃりと閉めてしまいかねない。

 Tさんは穏やかに笑いながら、少し困った顔をしてから、「まあ、偶然ですよ」と答えるだけだった。

 ギャラリーの帰り道、中野ブロードウェイの東側に続く飲み屋街で、Kくんと一杯やった。私は悔しさを隠さないで道に迷ったことを白状すると、Kくんは満足そうに言った。

「ぼくも実は以前西武線に住んでいた頃には、新井薬師から中野までよく歩いたんですよ。そうすると必ずといっていいほど、道に迷うんです。知らず知らずのうちに、西へ西と引っ張られていくんです」

「そうか、やっぱりそうなのか」

 と、私は答えながら、Kくんの善意の忠告を素直に感謝しなかった自分を反省した。Kくんは自分だけの固有な体験かと思い、私に強く注意を促すことが余計なお世話になるかしもれないと考えらしかった。

 しかし、それにしても不思議だった。中野から新井薬師前駅に向かうときは、道を間違えることはなかった。大まかな方向は把握できていて、知らない裏道を冒険しても、目標から大きくそれることなどまったくない。そんなこともKくんに話すと、

「ぼくもそうなんですよ。中野から新井薬師へは、絶対まちがえない」

 そんな話やTさんの写真展のこと、そして今年の私たちの小さな抱負を語り合いながら、帰る時刻も特に決めず、何杯も杯を重ねた。

 私たちの歓談はかれこれ3、4時間続き、そろそろ話も尽きたので帰ることにした。Kくんは中野ブロードウェイを見ていくという。古いレコードでも探すのだろうか。私は寄り道をせずに新井薬師駅へと向かった。

 少しも道を間違えることなく、駅まであとわずかとなった。そのとき、駅の隣りの踏切の警報音が鳴り始めた。新井薬師前駅には急行が止まらないから、一本各駅を逃すと急行の通過を一本待たなければならないので、私は50メートルほどを走ることにした。特に急ぐ用事が待ち受けているわけでもないので、何を急ぐのかと半ば自分に呆れながら走った。

 しかし、努力は徒労に終わった。改札を抜けたそのとき、すでに電車の扉は閉められたところだった。ほんのわずかなタイミングのずれにより、私は冬空の下のプラットホームに取り残された、たった一つの影となった。

 急行を一本やりすごし、ようやく来た各駅停車に乗り武蔵関駅に着いた。庚申橋駐輪場まで5分ほど歩くと、ひっそりとした駐輪場に一つの人影を認め、はっとした。その人影が私の自転車の近くの赤い自転車のハンドルに手をかけたからだった。

 私は感慨深く、彼女を見送った。

 今日私は道を選んだ。道に迷った。写真を見た。話をした。笑った。いろんな偶然を、あみだくじのように進んできた一日だったのに、最初に彼女に遭い、最後に辿り着いたのも彼女だった。

 私は、偶然と必然について考え、抗(あらが)うことのできない運命というものを目の当たりにして、奇妙な安心感に包まれるのだった。


19

2014-03-5

錯覚



太宰治が好きだった三鷹跨線橋付近で撮影 2014-3-3

 恋愛とは美しい誤解である。かつてこんなことをいって人気になった哲学者がいた。失恋した数知れぬ若者たちが、この言葉に傷心を癒された。へちゃむくれを美人と、悪質を美質と取り違えていたのだから惜しくはないと気づかせてくれる頼もしい啓示だった。そうはいっても未練は残ると完治せずに疼きだす傷口に、何度もこの名言の軟膏をすり込んだ記憶が私にもある。

 哲学者は人生相談もするともっと大事にされると思う。大学時代、一般教養の科目にハイデッカーの『時間』を訳した先生の哲学の授業があったので試しに取ってみた。常々時間というものに迷惑を感じていた私に対して、教授先生最初の授業で開口一番こうおっしゃった。「哲学は、君らの日常生活の悩みは受け付けない」。密かに受け付けてもらえるかもしれないと期待していた私は大いに失望した。

 

 失望といえば、あるとき私は自転車で県境のカレー屋を目指していた。噂によれば日本一のカレーだそうだ。美食の宝庫日本において一番ということは、世界で一番という言い方もできるはず。とはいえ、私の味覚は至極幼稚だ。銀座のナイルや神保町の有名な何とかというカレー店でご馳走になったときも、たいしておいしいとは感じなかった。それより母親がハウスのカレー粉で作った淡泊な(半世紀前はそんな印象だった)カレーのほうが、カレーらしくておいしかった。また、中学1年の遠足で埼玉県の宮沢湖畔に行って、男子は火を起こし飯ごうでご飯を炊き、女子はカレー作りを担当し、そのとき仕上がった思いきり水っぽい黄色いカレーのほうが、どれだけインパクトがあったことだろうか。そりゃ、ノスタルジーの味だろうといわれれば、いかにもその通りであると答えるしかないが、味覚とは何かといったときに、それを作った人の顔、それを一緒に食べた人の顔によって形成されるものではないだろうかと、口をとがらせて応酬したくなる気もするのである。

 そんな私が美食家気取りに日本一のカレーを目指すのは、珍しいことだった。いや、初めてだったかもしれない。だいたいグルメ情報に右往左往する人々を、私は軽蔑する。食という欲にあからさまに屈服する風潮は、情けなくはしたないと思う。私が高潔で自制心旺盛なはずはない。私はあらゆる欲望に負けやすいから、敗北感を少しでも軽減したくて自らを戒め、ついでにグルメや食いしん坊たちも罵倒するのである。

 また、噂の発信源が、提灯持ちのグルメレポーターでも、嫌なクセのある食道楽の評論家でもなく、しかも、金にあかせて全国の名店を歩き回るお金持ちのボンボン以上に、何十年もの間、全国をくまなく飛び回り続けてきた人だということも、私の日本一のカレー店探索の大きな動機となった。

 さらには、噂の主が私にとって幼い頃からカレーのカリスマだったということが、私に初めての行動を促した決定的な理由といえる。

 ある日の午前11時ころ、北へと進路を取り、愛車を駆った。前日のラジオでカレーのカリスマが絶賛したそのカレー店は、大泉学園駅から北の方角、確か埼玉県との県境、新座に近い関越の手前あたりだった。

 大泉学園の繁華街を抜け新座に近づくにしたがい、徐々に空地や畑が目立ち始める。道路沿いに食品スーパーやコンビニがあるけれど、カレー屋はおろかラーメン屋さえないだろうという雰囲気になっていった。

 もとよりそれほど執念を燃やしたわけではなく、散歩がてらに見つかれば面白いという程度の気持ちだった。諦めて帰ろうとしたとき、広い空地のひと所に数本の高い木立があり、その下に車が何台かとまっているのが見えた。11時半。早くもお腹がすいてきた私は思わずほほゆるませ、唾液がにじみ出てくるのを覚えた。自転車のペダルを強く踏み込んで速力を上げ、木立に近寄っていくと案の定レストランのようだった。さらに近づくと、目当てのカレー専門店であることが判明した。

 広い駐車場に、そこそこ大きな店。なるほどカレー店にしては大規模だ。繁栄の証だろうか。しかし、それにしては駐車場にとまっている車の数は、全体の半分も満たしてはいなかった。前日、あの有名な彼が、ラジオであれだけ美味しい、日本一といったのだから、さぞかし混んでいるだろう、もしあまり並ぶようだったら、ほとぼりが冷めてから別の日に行くことにしようという心づもりをしていた私は、やや拍子抜けした。ラジオの訴求力はテレビとは格段に違い、この程度なのかと思った。

 店内に入るとほぼ満席で活気を呈していた。ざわざわと客の話し声が響き、店員たちは忙しげに動き回る。12時より少し前なのに、これだけの混みようということは、やはりほどなく想像通りの混雑が訪れるのだろうと思われた。

 席に座って少し間があり、中年のエプロン姿のおばさんが注文を取りに来た。愛想に乏しい雑な接客姿勢で、馴染み客を相手にすることが多いからだろうと感じられた。場所柄もあり、気取らない、知る人ぞ知る名店に違いないと解釈した。

 注文は、その店の一番オーソドックスなものにした。バリエーションではなく、この店の味のベースをまずおさえようと、まるでいっぱしのグルメのように研究心をたぎらせた。

 待つ間も当然カレーの匂いが鼻孔をくすぐり、食欲を増進させた。すでに食事中の周囲の客の食べっぷりは、なかなか活発で、味の優秀さがうかがえる気がした。

 さてさて、早く来ないかなと、私の胃の腑は無邪気に勢いづき、私は食べる前から、顔がだらしなく緩んでいることを自覚した。店内には、相変わらずカレーの匂いが漂い、それとともに、おや、なんだか嫌な臭いも感じた。清潔感を欠いた食べ物屋独特の酸化の進んだ油の臭いというか、それにタバコのヤニの臭いがミックスされた異臭というか、そういう不審な臭いもあったのだけれど、そんなものは、その時の私のまっすぐな力強い食欲にとっては、何の差しさわりにもならなかった。

 いよいよカレーが来た。明るい黄色のカレーではない。暗いカレー色をしている。さっそく食べた。ひと匙め。うまい、気がした。ふた匙め。うまい、にちがいないと思った。み匙め。まずい、はずがない。よ匙め。どこがうまいのだろう。ご匙め。えっ? 私は店内の異臭の元凶を、口の中に放り込んでいる気さえしてくるのだった。

 カレーは作って一晩寝かせると、味に深みが増しおいしい。けれど、残ったカレーをさらにもう一日持ち越して、何度も煮詰め直すと、やがて野菜やジャガイモが崩れ、新鮮さをなくした具材たちが、嫌な臭いと味を発揮してくる。そんな感じが否めないのが、この店のカレーだった。

 幼稚な味覚の持ち主である私の貧しい感想にすぎないので、このカレーを美味しそうに食べておられる店内の皆さん、そしてあの噂の主の味覚に対して、何の異議を唱える気もさらさらないのであるが、私の極めて個人的な感想を包み隠さず申し述べれば、次の一語に尽きるといわざるを得ない。まずい。さらに付け加えるならば、二度と来るものか。

 しかし、私はそのカレーを完食した。料理人へのいたわりではない。貴重な教訓を胃の腑に記憶させるためだった。

 私は帰路、値段の割に量が多かったそのカレーがのど元まで満タンになり、不快な後味が消えないまま、ペダルをいつもよりかなり強く踏み込み続けた。消化速度を少しでも早めるためだ。そして、西城秀樹にはしてやられたな、と苦笑いを禁じ得なかった。

 日本一のカレー店の噂の主は彼だった。西城秀樹は私にとって、YMCAでもローラでもなく、ハウスバーモントカレーなのである。「リンゴとハチミツとろりとけてる、ハウスバーモントカレー♪」は、私の母の作った淡泊だけれどおいしいカレーの主原料だった。その量感のあるかすれ声のCMソングを長く聞き続けてきた私にとって、西城秀樹はカレーのカリスマだった。

 そんなことなどあるはずがない。ベンツのコマーシャルをしているミュージシャンが、ベンツのカリスマか。井上陽水が日産の車に乗ってコマーシャルをしているとき、彼は免許さえなかった。コマーシャルの宣伝文句と、出演者の個人的な見解とは、まったく無関係であると、私は誰よりも知っていたはずなのに、母さんの思い出がからみつく西城秀樹を、勝手にカレーのカリスマに仕立て上げてしまったようだ。

 飲食店は、同じ店でも生き物のように、劇的に味が変化することが多い。調子に乗った店はすぐに味が落ちる。最近行った近所のスシローも、開店当時に比べると、半分以下の味になり下がった。

西城さんと私の訪問の時差は、確か1年余だったと思う。その間に味が落ちることは十分ある。とはいえ、そんな事情を差し引いてみたとしても、日本一という店ではあり得ないと私は感じたのだった。

 私の期待値の大きさは、西城秀樹、イコール、カレーのカリスマという先入観によって生じたようだ。その店のせいでも西城さんのせいでもなく、私個人の勝手な思い込み、錯覚が、私自身に過剰な期待を生じせしめたのだった。

 私はこのほろ苦い体験を、のど元にまだ残る不快感とともに自宅まで持ち返ると、家電がけたたましく鳴り続けていた。家人は留守のようだ。私は慌てて家に入り受話器を取り上げると、中年の男の声がした。

「ああ、俺だけど」

 ごくふつうの感じで、ちょっと気落ちした印象で、不機嫌もややまざっているような様子だった。そして、「俺だけど」というからには、私の知友の一人に違いないと推測した。その結果、気落ちして、不機嫌もまざっている「俺」を、もうこれ以上がっかりさせてはいけないという気持ちが、私の中で強く起こった。

 そんなわけで、相手へのいたわりの気持ちが原動力となり、私の脳内の低性能なコンピュータが、記憶ファイルを高速であたり始めた。そして無理やり一つの照合結果を引き出し、私は「俺」を勝手に特定したのだった。

「おお、ヤマちゃんか、どうしたんだい」

 

 私はオレオレ詐欺にかかる人は、よほどモウロクしている迂闊な方だろうと想像していた。ところが、私もなんなく引っかかった。相手は中年の息子を演じ、年老いた母親か父親をだまそうとしたらしく、「ヤマちゃんか、どうしたんだい」から始まる友達関係の筋書は用意していなかったようで、ほどなく向こうから電話を切ってしまったのだが、私がおかしいと気づいたのは、電話が切れてからだった。

 私は聞き覚えもない声を、無理やりヤマちゃんの声と一致させてしまった。そんな頓馬な苦心を力強く後押ししたのは、「もうこれ以上がっかりさせてはいけないという」善意だった。

 人はノスタルジーに足をとられるだけでなく、善意を発揮しようとして錯覚を見事に構築していく生き物のようである。

 と、結論づけたところで、背後から声が聞こえた。

「人は?」

 そうかもしれない。ノスタルジーのトラップにかかりやすく、偽善的な傾向が強いのは、一般的な人の性質ではなく、私の個性にすぎないのだろう。

 狭い了見を普遍的なものと錯覚して安心するのも、私の安っぽい得意技の一つだった。


20

2014-04-5

夏目漱石の手紙




 やわらかな日差しがそそぐ春の日に、バッグに本二冊を入れ、多摩湖自転車道路を西へと向かった。目的地はそう遠くない小平の駅前の喫茶店POEMだった。

 三時の約束だけれど、半ば無理やりいただいた時間だったから、少しでも早く行って待ち受けるのが礼儀と考え、二時半には店に着いた。古びた木枠のガラス戸を押し開けると、店内はウィークデイにもかかわらず、ほぼ満席のようである。

 さてどうしたものかと困って、黒目をチロチロ動かし店の奥を探し始めたら、S先生がすでに二人掛けの小さなテーブルに、両ひざを揃えるようにして行儀よく座って居た。私の気配に気づいた先生は面を向け、いつものように満面の笑みを浮かべ、開口一番「早いね、偉いねー」とおっしゃった。

 先生は五十年近く前、初めて出会った頃から少しも変わらず、誰に対しても分け隔てなく決して偉ぶることがなく、おおらかで、基本いつも笑顔だ。一言一言心のこもった優しい言い方をする、誠実で気遣いに満ちた人である。しかし、寛大さがスーツを着たような、そういう人ほどものごとにいい加減ではないということは、一応長く社会経験をしてきた私は知悉していた。先生には遅れたものの、三十分前に到着でき、せめてもの礼は尽くせたと、ややほっとした。

 それにしても、私のこの傲慢さは、どうしたものかと暗然とすることが多い。朝起きて天気がいいと、急に誰かに会いたくなり、無理やり約束をとりつけることが時々ある。そんな子供じみたやり方はもういけないと、その都度厳しく自戒するのだが、完全に戒めることがまだできない。

 私はだいたいヒマだから、いつ誰に急襲されても歓迎できるし、むしろ前もって約束をしてしまうと、未来が決まってしまったようで窮屈な感じがする。子供時代のように、会いたくなったら友達の家の前に行き、大声で叫ぶのがいい。「○○ちゃん、あーそぼ」。すると友達が不興な顔をしながら出てきて、「あーとで」と一蹴される。代わりに母親が顔を見せ、「今お勉強中なの」と冷たくあしらわれたりもする。私はしゅんとして踝(くびす)を返し、独り自転車で町内のパトロールに出かけたり、空き地に行ってコンクリートのカベに軟球をぶつけたりして、大リーガーになる夢を見る。そんなときの私の心中は、今も昔も自らの身勝手を棚に上げて、人の薄情がうらめしく、いまいましい。度し難い性格と言わざるを得ない。

 S先生との約束も、その日だった。天気がよく、しかも自分が書いた新刊本の発売日だったから、突然先生に電話して、「今日お届けに上がるだけ上がりたい。玄関先で失礼するから」と告げた。すると先生は少し考えてから、夕刻小平方面に行く用事があるので、その前にちょっと会おうといってくださった。少し考えてからといっても、それはほんの一瞬ではあったが、その間に先生は、その日の予定を修正してくださったに違いない。私はまた先生に甘えてしまったと思いながらも、先生の温情を引き出せたことに、いやらしく満足した。

 S先生は、私が中学生のときに通っていた近くの学習塾の講師で、当時は大学生だった。男子にも女子にも人気があり、授業が終わるとプレハブの教室前のコンクリートの三和土にジーンズのまま腰掛け、群がってくる中学生の男女何人かと、学校のこと、恋愛のこと、クラブのこと、いろいろな話を日が暮れるまで続けるのがいつもだった。私はその輪の中に入ることはできなかったが、先生が私を見つけると時々笑顔で二言三言声をかけてくれるのがとても嬉しかった。

 先生は私のクラスの担当ではなかったし、そんな具合で特に私との関わりが深かったわけでもないのに、私は一方的にその後も先生を慕い、大人になってからも、折に触れて事に寄せて先生にお願いごとをしてはばからなかった。

 私は自転車を急がせほてった体を鎮めるために、アイスコーヒーを注文したあと、慌ただしく本を取り出し、先生に渡した。すると先生はすがすがしい笑顔で、「今度は夏目漱石の手紙か。ありがとう」と答えてから、耳を疑う意外な言葉を発せられた。

「ぼく、漱石の手紙、暗記しているよ」

 もちろん声は聞こえてきたが、初め何を言われているのか、すぐには理解できなかった。なぜならS先生が文学に興味があるとは思っていなかったからだ。長年コンピュータ関連サービス企業のSEとして活躍し、リタイヤー後も豊富な人脈を糧に、人材派遣サービスの仕事などに関わっておられる先生の口から、まさか漱石の手紙、暗記、といった語句が出てくるとは、思いもしなかった。鼓膜にかすかに残った先生の声の痕跡をたどり、いぶかりながら聞いてみた。

「えっ、アンキ? アンキって、どういうことですか」

「牛になる事はどうしても必要です。吾々はとかく馬になりたがるが、牛には中々なり切れないです。……あせっては不可(いけ)ません。頭を悪くしては不可(いけ)ません。根気づくでお出でなさい。世の中は根気の前に頭を下げることを知っていますが、火花の前には一瞬の記憶しか与えて呉(く)れません。うんうん死ぬまで押すのです……」

 先生は、すらすらと長い手紙を暗唱し始めた。聞けば、高校時代、現国の名物先生が、この手紙の暗記を全員に命じたそうだ。だからクラス会で集まると、全員で漱石の手紙をスラスラと暗唱し、五十年前の青春を思い出すのだそうだ。私はアイスコーヒーのストローを口につっこんだまま、しばし唖然とするばかりだった。

 S先生が暗唱したのは最晩年、四十九歳の夏目漱石が、二十五歳の芥川龍之介に与えた手紙だった。四百字詰原稿用紙、五枚以上になる長大なもので、文士として立つための心構えを説いている。私は漱石の書簡を長年読んできて、もちろんこの手紙のことはよく知っていた。幾度か自分の本にも引用しているが、まさか小平駅近くの喫茶店POEMで、この手紙の朗読を聞こうとは、想像することなどできなかった。

 一人の人間がどのような成分からできているかは、非常に興味深い問題である。そして、予測し得ない成分の存在を確認したときの驚きは、また格別だ。まさか先生を構成する成分のひとつが、漱石だったとは。

 しかし、私の心の波立ちは、それほど時間を要することなく凪いでいった。ほどなく、漱石という大きく穏やかな湖に浮かぶいくつもの小舟のひとつに、先生の姿を見つけることがたやすくできた。

 さらには、漱石という大海に、日本という一艘の船が、浮かんでいるようにも思えてくるのだった。

 私は二時間もの長い時間を私のために突然割いてくだったS先生に帰り際、さらに厚かましいお願いをかぶせた。N先生にも本を渡してほしいとお願いしたのだ。S先生はその日、N先生とその教え子たちと共に、立川で旧交を温める計画だった。私は当時大学院に通っていたN先生を私淑し、倒れそうな重い本棚に囲まれた狭い下宿にお邪魔して、経済学や教育についてご高説を拝聴し、痛く感動した思いがあった。その際N先生の厳密さにも驚かされた。N先生は実にさまざまな勉強をしておられ、その一端を学生だった私に教えてくださった。

「ぼくは、文章表現についても勉強しているんだ。そこでこんな文章の書き方という本も読んでいる。でも、この本はいい加減だ。センテンスは短いほうがいい。五十字以内がいいと、ほら、ここに書いてある。だから僕は数えたんだ。するとこの本には、何十か所も五十字以上のセンテンスがある。著者に文句を言ってやろうと思っているんだ」

 世の中はこういう人を、融通の利かない人というかもしれない。けれど私は昔から、あまりにおおざっぱだったし、今も依然としていい加減だから、N先生のような厳密さは、常に尊敬しなければならないと思ってきた。

 とはいえ、N先生の社会の授業を受けたのは、約五十年前。そして最後にお会いしたのは40年前のことになるから、いくら私が先生を覚えていようと、先生はその後大学の教授になり、多くの学生と接してきて、私のことなどとうに忘れているに違いないと想像するのが順当だった。たとえ忘れていらしてもいいから、当時の感謝をこの一書に託したいという思いで、そんな気持ちをつづった手紙を添え、S先生に本とともに託すことにした。

 後日、N先生から長いメールが届いた。

 私は心中快哉を叫んだ。それでこそN先生と。

「老人の戯言と笑い流して下さい」と断りながらも、期待道理先生は、私の本の文章表現のあいまいさを指摘してくださった。さらに先生は私の思い出になかった事件を振り返り、私が先生の記憶の一部に鮮明に残っていることを示された。このように。

「ボクが想い起こすのは、貴兄が小6のとき、三振させられたことです。一振、二振の球は、高めでストライクゾーンを外れていると読みながら、軽く当ててファールに、というのが空振り。三振めは、少し真剣になって臨んだのですが、見事空振り。6年生でもこんな速いボールを投げるのか、と感心させられたものでした。」

 私はあの頃大リーガーになることを夢見て、少々おおげさに言えば、漱石いうところの「根気づく」で日夜トレーニングに明け暮れ、野球を「うんうん」押していた。だから、「一瞬の記憶」で終わることがなかったかもしれない、などと、ちょっとばかり思うのだった。

 こんなふうに、昔の恩師を美的に懐かしむのは、過去を美化しようとする人間一般の性向によるものかもしれないし、年齢を重ねるほどその傾向が強くなるためともいえる。

 しかし、私はそれだけではないと思っている。私は夏目漱石の書簡二千五百通余りを何年かかけて子細に読み込み、漱石が芥川龍之介ら門下生たちと繰り広げた師弟関係の豊かさや美しさに触れ、それに憧れただけではなく、自分の経験に潜んでいる師弟関係の中の美的な面を、改めて味わいたくなったのだという気もするのである。

 漱石だって芥川だって、ただの人間だ。そうたいしたものじゃない。私たちとそれほど違うところがあるはずはないだろう。

 もちろん、S先生をはじめとする、私が半世紀にわたり親愛を寄せる恩師たちは、漱石とはまったく異なるいつもの特性を備えている。ある人はギャンブラーである。ある人は冒険家である。ある人は科学者で、ある人は教育者。そしてある人は詩人である。しかし、漱石と共通する点がひとつある。

 そのひとつこそが、子弟の関係の中に、すがすがしく美的なものを見出すきっかけを、いつも与えてくれるのである。

 そのひとつとは。あえて言うまい。

 言ってしまえば、逃げていく性質のものだからだ。

夏目漱石の手紙に学ぶ 伝える工夫


中川 越

マガジンハウス


1,400円+税


気持ちを通わす、こころの伝え方、そのヒントは漱石の手紙にあった。

夏目漱石の書簡は、2500余現存し、その内容は、生活全般にわたる。しかも、漱石の手紙は、芥川龍之介、武者小路実篤、佐藤春夫はもとより、多くの文人たちが愛読し、そこから多くを学んでいる。生活書簡からにじみ出る、漱石の面白さ、そして、人生をどう生きるか、楽しむかということについて、手紙の端々から学びとることができる読み物。


21

2014-04-25

はぐれ雲、よい旅を

 青い空にぽっかりと白い雲が浮かんでいる。

 そんな白雲は、大きな雲のかたまりの端っこ、しっぽが、強風に吹き飛ばされてちぎれたり、はぐれたりしてできたものらしい。『空の名前』の作者がそう教える。

「おうい雲よ ゆうゆうと 馬鹿にのんきさうじゃないか どこまでゆくんだ ずっと磐城平の方までゆくんか」とつぶやいたのは山村暮鳥だ。「君は雲を見てくらして居るだろう」「閑静で綺麗な田舎へ行って御馳走をたべて白雲を見て本をよんで居たい」と手紙に書いたのは漱石だった。

 そよ風の中に立つ歌姫から音楽CDのアルバム二枚が届いた。私の本を差し上げたお礼だった。嬉しい物々交換が成立した。さっそく耳を傾けると、どちらも心地よいものだったが、印象はかなり違っていた。

 旧作はメローな雰囲気の中にひそむ適切な高揚感が、明日を感じさせた。新作はフレッシュなステップが、私を遠い過去に誘った。

 歌姫はいつもそよ風の中に居るのだけれど、その風は初夏の高原に吹く風とは限らなかった。ときに、ねっとりした夏の夜に、汗ばむうなじをなでつける指先のような微風の中にも居た。いずれにしても彼女が風の中に歩み入ったのか、彼女自身が起こした風か、それはどうだかわからない気がする。

 あるとき私はサラリーマンだった。キャリアはすでに二十年。ちょっとおっちょこちょいで社長ににらまれるヘマをしでかすとこともあるけれど、責任感が強く、週末ともなると慕う部下が家に訪れ、妻の手料理をほめそやした。酒が入り興に乗ると、クローゼットの奥からギターを持ち出し爪弾きながら、昔流行ったポップスを一人で歌ったり、みんなで歌い始めたりすることがある。そんな様子を見て純にほほえむ妻を見るのが至福のひとときだった。

 週末が終わればまたやって来る仕事。少し厄介なクライアントとの対応が控えていたりすることもままある。けれど時は確実に過ぎゆき、問題はそれなりに片付いていくのだった。また月曜日が来て少し我慢すると金曜日が来て、月日は循環の永遠の輪の中にある。こんな日がいつまでも続かないことは知っていても、いつまでも続きそうな錯覚を疑う力をなくしていた。

 ふとしたときに襲われるそこはかとないむなしさ。親友を裏切ったときのような巨大な後悔が胸の奥底にわだかまり、私の笑顔は行き止る。

 すがしい明日への興奮が野放図に高まることに、一つの哀切がいつもほどよいブレーキをかけるのだった。

 あるとき私は旅人だった。さまざまな国を地域を経巡り、私はめくるめく日々を惜しげもなく、航跡のように白く左右に追いやった。するとある日過去が、ものすごい勢いで私に追いすがった。

 そして、過ぎ去ったはずの春が四十ばかり、あっという間に私を追い抜いて、私は暖かな五月のお昼前、鷺ノ宮の駅に居た。歩いて中村橋に向かう予定だった。中村橋からは電車で二つ目の桜台で降り、坂道の途中にあるあの人の家へ行く。冷やし中華を作っておくからおいでと誘われていた。共に過ごす初めてのお昼だった。

 昼前の穢れなき光が、町中にこぼれた。古ぼけた家々の青や緑の瓦屋根が、清潔に濡れて輝いていた。歩道のつつじは赤く燃え、下草のタンポポはまぎれもなく黄色だった。それなのに色は音として聞こえた。町中の音は色彩として見えた。私の感覚はいつしか愉しく境をなくしていた。

 途中私はそれほど親しくない旧友に会った。つまらない近況をいつになく楽しく語り合い、気がつくとずいぶん時間が過ぎていた。慌ててあの人の家に着くと、ほっぺたを膨らませた料理人が無言で冷やし中華をテーブルに運んだ。ちょっと大きく切りすぎたなと思われるトマトが初々しくそえられた麺を口に入れると、のびていた。あの人の小言がしばらく続いた午後だった。

 二枚のアルバムを聴いて、二つの物語を過ごした私は、歌姫の昨日までの物語を想像してみた。何者にも寄りかかれない頑固な甘えん坊が、とうとう無人島にたどり着いた。正直だから仕方がない。そこで花と鳥、風と月を友達にした。ワタシは話したいのだ、そんなにも聞きたくはない。都合のいい相手に満足した。ところがやっぱりそのうち人恋しくなった。島を出ようした朝、ヤシの葉の後ろに人影を見つけた。歩みより呼び止め名前を聞くと、ロビンソン・クルーソーだという。あたりをよく見ると、岩陰にも、丘の上にも、朝凪の入り江にも、あっちこっちに人影があった。彼に聞いたら、見える以外にもたくさんいて、男も女も名前はすべてロビンソン・クルーソーだといった。

 人々の間には取り立てていさかいはないけれど、こころの距離は清潔に遠く、それぞれがはぐれ雲みたいに、青い時間の中にぽっかり浮かんでいるように思われた。雲のしっぽ。そんな言葉が似合うと思った。無遠慮な突風になぶられ、いたずらでいたいけな雲のしっぽがちぎれ、蒼空の一人旅を開始したのだった。そのときもちろんもとの雲は、雲のしっぽにこう声をかけた。よい旅を。

 歌姫のアルバムのそれぞれのカバーには、「The Cloudtails」、「Bon Voyage」とあった。クラウドテイルズの意味を私は知らない。調べてみるつもりもない。歌姫は白雲のいたずらなしっぽ、それでいい。そよ風に浮かび旅を続ける。

 私ははなむけにもう一度言う。

 どうぞ、よい旅を。

 さて、私も青空の旅を続けることにしよう。


22

2014-07-25

ボンのしっぽ 自分のしっぽ

 いつのことか、自転車で黒目川に行く途中、西武池袋線ひばりヶ丘駅の近くの住宅街にさしかかったとき、こんなことがあった。

 七十ぐらいのおばあさんが、四つ角で自転車に乗った八十ぐらいのおじいさんに出会い、反射的に親しげに声をかけた、「あれっ、元気?」。するとおじいさんは自転車を止め、すぐさま頭を縦に振り、「おおっ、元気、元気」。

 顔なじみのありふれた挨拶かと思いきや、その返事の後おばあさんが間髪を入れず、予想外の言葉を強い口調で返した、「誰っ?」。

 おじいさんが不審そうな顔つきで、首を傾げながらペダルを踏み、その場を離れたのはいうまでもないが、おばあさんはおじいさん以上に怪訝な表情をたたえ、刺すようなまなざしをおじいさんの後ろ姿に向け、心の中に被害者を確立したようだった。

 この事件の真相は謎だ。果たして、勘違いしたおばあさんの開き直りなのか。勘違いではなく正解なのに、「おおっ、元気、元気」と聞いた次の瞬間痴呆が現れ、おばあさんは相手のおじいさんの記憶とともに、自分自身さえも見失ってしまったのか。はたまた本当の夫婦で、おじいさんはおばあさんのそんな状況をおおらかに受け止めていたのか。もしくは、夫婦二人とも痴呆が進み、互いをどこかで見たことのあるような赤の他人として位置づけたのか。その詳細についてはもはや知る由もないが、私自身歳を取るにつれていろいろなことを忘れやすくなり、忘れたことも忘れ、とどの詰まり、自分さえも忘れてしまうことになりかねないという感じが少しずつわかってきて、楽しいような悲しいような気がする今日この頃である。

 ところで、「自分さえも忘れる」というときの「自分」とは何なのか。これは子供の頃から解決を望んで果たし得ない懸案の一つである。人類を代表する英知が寄ってたかって考えても答えが出ない問題だから、私ごときに手におえる問ではない。無論自分を物質の組成によって定義することはできる。また、運動機能面から説明することもできるだろう。しかし、ここでいう自分とは、まぎれもなく自分特有の精神であり、自我である。通信簿の生活行動の記録欄の協調性に、常にCをつけられていた私だが、協調性とか自主性とか、そうした大づかみな精神の傾向や在り様ではなく、もっと詳しく私の精神の形を知ってみたいと願うのである。クレペリン検査や心理学の力を借りると、かなりはっきりと性格判断ができ、職務適正がわかり、自分の正体を突き止める一つの方法として知られているが、それは私をうまく使おうとする人たちの役に立つだけで、私の探究心を満たすものではない。血液型のよる性格判断といった根拠のない迷信よりははるかに好感が持てるのだが。

 昔私の家にボンという名の犬が居た。柴犬の雑種で、頭が悪かった。退屈すると、よく自分のしっぽを追いかけていた。楽しそうだった。けれど、クルクル回る回転速度を上げれば上げるほど、しっぽも速く逃げていった。ボンは結局自分のしっぽにかみつくことはできなかった。

 私は代わってボンの宿願を果たそうと思う。自分のしっぽぐらいはつかまえてみたいものである。

 今日は昼前に自転車で隣駅に出かけた。久しぶりに訪れる兄のために、最近オープンした空揚げ屋で、おいしい空揚げでも買って食べてもらおうと思ったからだ。兄はクリアファイルを山ほど持ってきてくれることになっていた。ある協会の事務局を退任し、もう事務用品は要らない境遇になった。しかし、あいにく空揚げ屋は開店前で、仕方なくLIVINの地下で空揚げのパック287円と一口カツのパック283円を買って戻ることにした。帰り道、西武新宿線のガード下で、三十代後半だろうか、ママチャリに乗った青いTシャツと紺のジーンズ姿の、どう見てもママだろう、目がパッチリとした不美人ではない女性に呼び止められた。

「すみません」

 彼女は住宅地図の看板の前で、自転車を止めて見ていたから、用事の趣はすぐに想像できた。兄はすでに到着したとの電話が入っていたから、できるだけ早く帰りたいとは思ったが、そう手間取る仕事でもないだろうと、快く応じることにした。

 あえて、快く、と決意したのは、相手の気忙しい様子が伝わってきたためだ。気忙しい人はときとして、周囲の人まで巻き込んで気忙しさにつきあわせ、それを恥じないことがある。私は見ず知らずの人にはそれほど親切ではなく、ましてや礼を失した人には、できるだけ冷淡に振舞おうとする性質だ。

 快く応じようとは頑張ってはみたのだけれど、そんな内心をかかえていたから、正直な私は、「すみません」に対する「はい」という短い返事が、いささか明るさを欠いたものになってしまい、返事の後で少し申し訳ないと感じた。

 しかし、彼女の質問の仕方は、私の反省を打ち消してくれた。

「市役所は、どっち?」

 私は凍りついた。彼女は私の知り合いではない。言葉づかいがまだ不十分なトツクニの方でもない。無礼を許されるままに今日まで生きて来た人なのか、あるいは、老いぼれを幼児扱いしたつもりなのか、その内心は測りがたかったけれど、ともかく私はそのとき侮辱された思いがし、亡父の病院での振る舞いを、より深く理解することができた。

 年老いて病をかかえた父を治療、看護した医師や看護師たちの中の少なからぬ人々は、老若男女の別なく、父を子供扱いした。

「はい、おじいちゃん、腕をまくってー、血を採るからね。ちょっと痛いよー」といいながら、採血を始める女の看護師。

「なんだよ、これじゃー、エコー撮れないじゃねぇか。だから、おしっこしてきちゃ、ダメだっていっただろー、チッ!」と、怒り出す老練な医者。

 父から見れば看護師は孫ほど、医師は子供ほどの年嵩にすぎない。年長者に対する態度として許せなかった。人間としてダメだと思った。私がこうした人々の口をつまんでひねってやれば罪になる。けれど、こういう人たちのこうした言動は罪にはならない。おかしな話だ。

 自分たちの大先輩に、医師や看護師たちは、どうしてああした言葉づかいができるのだろうか。

 父は、無礼な医師や看護師たちの言葉にはできるだけ返事をせずに、自らの尊厳を守り通した。いよいよ腹に据えかねたとき父は、平手で医師や看護師をひっぱたいて応酬した。手を焼いた病院は、父に拘束服を着せた。

 病院から呼び出しを食った私が、父親に自重するよう頼むと、父親は小声でこういった。

「警察に通報してくれ。この病院は、俺を殺そうとしている。ほら、あの医者だ。俺に拘束服を着せて、毒を注射しようとしたのは」

 父にはもともと物事を大げさにいう癖がある。拘束服は事実でも、毒とか医者の殺意とかは妄想に違いない。しかし比喩としての毒や殺意は、確かに存在したのだと思われる。

 あの「星の王子さま」のサン・テグジュペリが、こんなことを書いている。

「ひとりの人間の年齢というものは、感動を誘う。それは彼の全生涯を要約している。その人間のものにほかならぬ成熟は、実にゆっくりと育てあげられてきたのだ。多くの障害を克服し、多くの重い病から癒え、多くの苦悩を鎮め、多くの絶望を乗り越え、たいていは意識されなかったが、多くの危険を踏み越えて育てあげられてきたのだ。多くの欲望、多くの希望、多くの悔恨、多くの忘却、多くの愛を経て育てあげられてきたのだ。一人の人間の年齢というものは、経験と追憶とのすばらしい積荷を現わしている。」

 話がそれた。

「市役所は、どっち?」の無礼な言い方に対して、私はつい語気を強めて、「ア゛ア゛ッ?」と言ってしまった。

 すると彼女はようやくこちらの不快感に気がついたのか、「市役所は、こっちですか」と聞き直したが、依然ぶっきらぼうな調子で、敬意は微塵も感じられなかった。私は呆れて怒気を消し、憐みの思いを濃くしたけれど、ていねいに教える気持ちはとうにそがれていた。ぞんざいに指さして、「こっちの方向」とだけ答えた。二百メートルほど「こっち」に行けば、大きな市役所の建物が見える場所だったので、そう迷うこともなかろうと思った。

 これでお役御免と立ち去ろうとすると、また彼女が口を開いて質問した。

「どの道?」

 消えたはずの不快感が瞬時に戻った。私はもはや返事をする気が失せ、黙って彼女を見つめた。沈黙の間にたえきれず、彼女が自ら言葉を継いだ。

「線路に沿ったあの道を行けばいいの?」

 いや、違う。その一本手前の細い道を行かないと駅の北側に出てしまい、市役所の方面には行くものの、市役所には永遠に到着できない。

 私は彼女の質問に「うん」と答え、生まれて初めて意識して人に嘘の道を教えた。彼女は、線路沿いの道を走り始めた。

 ざまあみろ、因果応報と思うとともに、彼女自身や家族にかかわる大切な届出が遅れてしまわないように願うのだった。

 私はこうして後味の悪い懲らしめに成功した。

 

 これも自分のしっぽの感触だろうか。そうだとも、そうでないとも思える。


23

2014-08-25

湘南の思い出

 思い立って鎌倉由比ヶ浜から、徒歩で海岸伝いに九州を目指した。ナップサックには10リットル入るポリ水筒と薄手の毛布と地図と文庫本数冊。どんな本か詳しくは忘れたが、一冊は砂漠で隊商となったランボーの詩集だった気がする。

 海を見ながら毎日太陽を追いかける旅を計画した。歩き疲れたら、夜空と陸とのすき間にもぐりこんで、草を枕に満天の星を数えながら朝を迎えようと思った。

 杜撰な計画だった。

 由比ヶ浜を後にしてしばらくすると、海岸が途切れるなどして、砂浜を歩けなくなり、仕方なく沿岸道路に乗った。側道を歩いていたら、車が凄まじい勢いで後方から通り過ぎ、そのうちの何台かに一台は、けたたましくクラションを鳴らしながら私を追い越して行った。車道と側道との間は、かなりのスペースがあるというのに、失礼な連中だと腹を立てた。しかし、あまりに次々にクラクションが鳴らされるので、何か自分に落ち度があるのかと周囲を見回すと、自転車も通行人も、私以外にはいないことに気がついた。私はいつからか自動車専用道路を歩いていたらしい。

 高速道路をトボトボと歩いていたのと同じだった。それを知ってにわかに恐ろしくなった。通り過ぎた自動車のドライバーたちは、クラクションを鳴らしても鳴らさなくてもその数だけ肝を冷やしたに違いないと反省し、すぐに道路外に逃れ命拾いをした。

 春、出版社に就職したが、うまくはいかず、夏前には辞めた。会社は私に辞めることを勧めた。私の両親、先輩、周囲は、我慢を勧めた。

 あの人たちと日々茶番を演じる能力が、私にはなかった。それが一生続くかもしれないと思ったら、居ても立ってもいられなくなった。

 辞めてからの計算は何一つない。

 とりあえず思いついた計画が、海岸伝いの西への旅だった。

 

 私は所定の路線からは外れたのだから、既成の鉄路に従う旅を潔しとはしなかった。足の向くまま気の向くまま、空と海と陸とを見ながら、西へと向かい、私の進むべき未来を考えるのである。

 だが、この旅はすぐに、私の颯爽とした目論見を根底から覆した。

 10キロ余りの重量のナップサックを背負い、真夏の炎天下、主に砂浜を歩き続けていると、何一つ考えなかった。少なからず私を捉えて離さない将来への不安も、いつの間にかひたたる汗とともにすっかり蒸散してしまうのだった。そんなことより、背中の三浦半島が小さくなり、江の島が大きくなって、そして伊豆の山並みも前方にうすぼんやりと見え始め、富士山さえも手招きする。私はこの青い、蒼い大パノラマを独り占めにしながら、快適な旅を一歩一歩確実に進めていく充実を、体全体で感じていた。

 私の入った会社のボスは、業界の風雲児としてつとに知られ、一代で巨万の富を得て、都心の一等地にビルを構えた立志伝中の人物だった。財界、政界、マスコミ界の大立者たちと次々に親交を結び、独創的なアイディアと人脈を駆使して、出版界のみならず、不動産、通信、サービス業界などなどに進出していった。

 ボスは社内で王様だった。王様ゲームのように自由に命令を下し、従わない兵卒を公然と恫喝し、震え上がらせた。絶対服従の世界に生まれて初めて接した。社員の一部はボスを真似、社外の下請け業者に対してボスと同様に振る舞った。

 ある日印刷会社の営業部長が、社内のフロアーの真ん中で、衆人環視の中、土下座をして、土足で歩き回る絨毯の床に何度も額をこすりつけていた。50がらみの営業部長は、顔をくしゃくしゃにして泣きじゃくり、鼻水を垂らしながら上ずった大声で、「どうか、お許しください。打ち切りだけは、ご勘弁ください」。値引きをしないなら、印刷物の年間契約を打ち切るといわれ、必死に哀願しているところだった。

 ボスに恫喝され、衆目も憚らず涙ぐんでしゃくりあげていた人が、今度は下請け業者をいじめ抜いている。学校を出たばかりの私は、こんな世界が現実にあるとは想像もできなかった。

 後で社内の親しい先輩にこの一件を話すと、彼はニヤニヤしながら、「印刷屋だって、土下座なんて平気なんだよ。涙もバケツの一杯ぐらいは用意している」ということだった。

 どうやら私の見た現実はゲームらしいから、深刻に考える必要はないことがわかったけれど、大の大人が取り組むには楽しくないゲームだった。それに、傍観者としてならまだしも、私もゲームのメンバーの一員であるという事実は、私の心をさらに重くした。

 

 たとえばこんなことがあった。私はボスの赤字校正をもらうために、都内の高級ホテルの美容室へと向かった。

 ボスは、飲食、衣服、宝飾、旅行、女などには、限りなく贅を尽くすのだけれど、ボールペン一本の購入伝票まで目を通す性分だった。だから、ちょっとした印刷原稿にまで目を通し、赤字を入れる。経営者としては優秀だったらしい。

 ホテルの美容室にたどり着くと、ボスは大きな鏡の前で、大きな椅子にふんぞり返り、二人の美容師を従えていた。一人は頭部のマッサージ、一人はかしずいて爪の手入れをしていた。ボスは週に2、3回ここに来る。文字通りの王様気取りである。

 私は恭しく近づき、かしずきはしないが、気持ちはかしずきながら、一枚の校正紙を手渡し、チェックを依頼する。ボスは返事もしないでそれを左手でもぎ取り、空の右手を広げる。お付の秘書課の人が「赤ペン!」と、私をなじる。私はようやく気がついてペンを差し出すと、ボスは瞬く間に赤字を何か所かに入れ、振り向きもせずに校正紙を肩口に掲げた。もって行けということらしい。私は有難く頂戴して美容室を後にした。会社への帰途、自分に問うた。

 私はこの男にかしずき、恭しく校正を頂戴するために生まれてきたのだろうか。答えはすぐに出た。

 まだ25歳。体力には自信があった。毛布一枚を頼りに、砂浜で寝るのである。無論潮の満ち引きがあるから、それぐらいの注意はするつもりだ。

 さて、一泊目の夕暮れとなった。海はまだ明るい。平塚の海岸である。左には江の島が見える。右にはシルエットの伊豆半島。防砂林の松林の中では、眺望がつまらない。防砂林脇の小高い砂丘に陣取って持参の毛布を敷き寝転んで、温んだ缶ビールのプルトップをブシュッと抜いて、ピーナッツを肴に晩酌を開始した。

 炎天下の砂浜や道路を歩いて疲れ切った私は、少しのアルコールですぐに睡魔に襲われた。隊商に加わり、砂漠で寝たであろうランボーを思い出す暇もなく眠りに落ちると思われたそのとき、快いまどろみを邪魔するものに気がついた。それは海風だった。日が陰るにしたがって風速は増し、やがてまるで扇風機の前で寝ているような状態になった。

 私はすごすごと浜辺から退散し、松の防砂林と国道を超え、街中へと向かった。すると野球グラウンドがあったので、そこで野宿することに決めた。人通りからは木立でさえぎられ、夜は静粛が保たれそうだ。私はグラウンドの中央、ピッチャーズマウンドの傾斜を利用して毛布を敷き、星空を見上げながら寝ることにした。海風は多少あるが、浜での強さとはくらべものにならないほど穏やかだ。これで安眠が保障されると思った。しかし、また異なる困難が待ち受けていた。今度は背中が怖いのである。背をグラウンドにつければ背中は地面だけれど、感覚として背中が怖かった。背後から襲われる危険を感じた。浮浪者への襲撃が流行る前の頃だったから、現実にはそんなことはあり得なかった。なのに一個の動物として、背中が怖いという感覚が否めず、背中を守るためにバックネットのコンクリートのへりに毛布を移し、何者かの襲撃の可能性を制限することで、多少の安心を得ることとなった。

 明日は頑張って小田原まで歩こう。そのためには十分な睡眠だ。私は夜空の星を数え始めた。

 人はなぜ電車に乗って会社に向かうのだろう。私は勤めてすぐにそんなことを疑問に感じた。毎日同じ電車、朝8時3分に、準急西武新宿行に乗る。そうするともうそこから何も考えなくてよかった。ボスが考え、ボスが決める。もちろんその範囲の中でいろいろと自分なりに考え、よい仕事をしなければならないのだが、大枠はボスが決める。だから、朝8時3分の準急西武新宿行に乗りさえしたら、私はもう何も考えずに、生きるていくことができるのだろうと実感した。

 人はどう生きなければならないのか。人のために何をすればよいのか。そんな厄介な問題とは生涯おさらばできるのである。叱られ、怒鳴られ、意地悪に出あおうと、準急西武新宿行に乗りさえすれば一日は終わる。ボスのために収益を上げる努力を怠らなければ、決まった日に給料がもらえるのだ。

 人はそうして命をボスのためにささげる。ボスになれない人たちは、この宿命から逃れられない。

 どう生きるべきかなんて考えなくていい世界があるとは知らなかった。私はボスに仕える苦痛と快楽を、同時に知ることとなった。

 星は星の数ほどあった。いくら数えても数え尽くせず、私は結局その夜、まんじりともできなかった。

「おっ、誰か死んでるぞ。けっとばしてみようか」

 酔っ払いが近づいてきたこともあった。

 朝方には犬の散歩の老人が近づいてきて、「どうしたの、家出」と聞かれる始末だった。

 自分は野宿さえできないのかと不満に思いながら、ぼんやりした頭を抱えながら早朝の海岸へと向かった。

 風は止んでいた。そして生まれて初めて見る光景が眼前に広がっていた。

 目と心を奪われた。それは海ではなく湖だった。

 朝凪は波立ちのない海を私に示した。海面はピタリと鎮まり、鏡として水色の空を映していた。

 どれほど鏡の海をながめていただろうか。

 私は生涯二度と見ることのないだろう奇跡の光景を十分目に焼きつけて、平塚駅のコインロッカーへと向かった。貴重品をロッカーに預けておいたからだ。お腹がすいたので、町で何か食べようと思った。

 もちろん、ボスに仕えることをしない生き方だってある。けれどそれを可能にするのは、準備だ。私は三歳の頃からピアノのレッスンを受けてこなかったし、幼稚園の頃から父に連れられ、ゴルフを始めてもいなかった。

 だから、会社や団体で雇われる以外にないのである。多くの人がそうするように。そして、少しでもいい条件で雇われるように、人はやはり幼い頃からそのための準備をするのであるが、その準備も私には欠けていた。

 だからここは一つ、どんな会社であれ我慢して、雇われの身を貫くことが、私に与えられた最善の道であるのは、わずかの疑念も不要なほど自明なことだった。それに、考えなくてもいいのだ。どう生きるべきかを。どう尽くすべきかを。

 けれど私はボスに私の時間を差し出すことは嫌だった。そして、そのボスだけでなく、世界のあらゆるボスに、断じて私の時間を渡さないと思った。

 一番列車が走る頃だっただろうか。平塚駅へと向かう勤め人が一人、二人、足早に徹夜明けの私を追い越していく。早朝の涼やかさもあっという間に去って、浜辺の町はまたその日も強い日差しに晒され始めていた。

 駅の近くまで来ると、沿道の低い生垣に、投げ出された足が見えた。何事かと近づくと、汚れた衣服の人が生垣に潜り込むようにして、つっぷして寝ていたのだった。寝息までは聞こえないが、わずかに身じろぎをした。

 こんな所でこんなふうに、背中も無防備なままで寝ることができるようになるまでには、いくつのハードルを超えなければいけないかと思った。ボスを持たないとは、こういうことなのかもしれないと実感した。絵に描いた自由の代償に見えた。

 あの旅から35回ばかり夏が過ぎた。

 結局私はボスを持たない生活を続けたが、幾人もの慕わしい友と敬すべき先輩に出会うことができ、私の生活は貧しくも嬉しい彩のあるものとなった。

 その敬すべき先輩の一人が平塚に居た。明晰な頭脳と鋭敏な洞察力と溢れんばかりの素朴な愛情を持ち合わせた人である。先頃30年の歳月を隔てて偶然再会した。空白の30年間においても、私の心のボスの一人だった。

 30年の空白を埋めるために、先週平塚を訪ねた。その日東名高速は意地悪だった。私のはやる気持ちをからかうかのような大渋滞。1時間半足らずで行けるはずのところを、3時間半かかって、ようやく平塚市内に入った。

 35年前の町並みとは変わっていたのかもしれない。見覚えがない。けれど町中を進むうちに、なんとなく見たことのあるような雰囲気を感じてきた。平塚の町中はそれほど大きくはないといっても、私が35年前に歩いた道は、ごく一部。海岸と駅を結ぶ道とその周辺だけだ。時代も隔たり家々も変わり、見覚えのある場所を通る偶然などあるはずがないと思ったそのときだった。木立に囲まれた公園が現れ、木々の隙間からバックネットが見えた。忘れもしないあの35年前のバックネットだった。先輩の住まいは、その公園のすぐ隣だった。

 不思議な縁に導かれて30年ぶりに再会した先輩。そして、先輩に導かれて35年ぶりに戻って来たあのバックネットだった。

 1979年夏。2014年夏。これが私の湘南の思い出である。


24

2014-09-5


Etsu

 先週末、代々木第一体育館で、高校時代のバスケットボール部のOB会が開かれたので行ってきた。私も老人チームに入って試合をした。往年の名?シューターも、この年となっては見る影もない。放ったシュートがことごとくゴールの手前で失速した。

 それはともあれ、代々木に行ってきたことを娘たちに伝えると、「なんでこのタイミングで、ピンポイントでそんな所に行くかなー」と呆れられた。

 今まさに代々木公園はデング熱で大騒ぎとなっている。そして、代々木第一体育館は、代々木公園のすぐ隣。潜伏期間は一週間とか。まだ一週間は過ぎていない。感染していないことを祈るばかりだ。

 で、デング熱といえば、蚊。このところ10月並みの気温も多くなり、急に秋めいてきたが、夏の終わりとデング熱にちなんで、今回は、前にいつか一匹の蚊と話をしたときのことをご紹介する。

 ある日の昼下がりのことだった。蚊が一匹、網戸の目の一目にはまり、もがいていたので、つぶそうと思った。けれどやめて、説得することにした。

「どうして俺たちを刺すんだい。

 もういいかげんにやめてくれないか。

 血は少し多めにあるから吸ってもいいよ。

 でも代わりに痒い液を置きみやげにするなんてひどいじゃないか。

 お陰で刺されたところを爪で×してもムヒ塗っても、気休めぐらいでいつまでも痒い」

 説得が説教に移り始めると、蚊はブンブン羽ばたきもがくのをやめて、「わかった、わかった、わかったから、ちょっとここから出してくれないか」と、不機嫌に口をとがらせて言った。

 そこで私は逃げないか、逃げないなら出してやってもいいと告げた。

 蚊は長い口を下に向けてうなだれて、「はい、逃げません」と、いつになくしんみりとした口調で言うものだから、信用して網目から出してやった。

 私は蚊をテーブルの上に正座させ、説教を続けた。

「あの羽音もなんとかならないかい。

 今まさに寝んとして、わずかの意識があるだけで、頭はもう手足の神経との交信を絶とうとするときに、ブーンと飛んできて、我らを悩ます。

 逃げようにも払おうにも、追おうにも、もう手足が十分動かないから、君たちの攻撃を甘んじて受けるしかない。

 それでも緩慢な手つきで君らを追い払い、夢うつつの間で不自由に逃げ惑うあの嫌な時間。

 そもそも君たちは我々の血を栄養にするしか方法がないのか」

 すると蚊は寂しそうな目を向けた。私はようやく後悔し、改心するのかと思った。蚊は静かに口を開いた。

「バカかお前」

 私は砂糖水のつもりで塩水を飲んだときのように、一瞬正しい理解ができなかった。けれどすぐに血がのぼり、蚊をつぶしそうになったが、蚊ごときの一言で心を乱すのはニンゲンの名折れだと思い、怒りを抑えて話の続きを聞くことにした。

 蚊は私をたしなめる口調で続けた。

「お前昨日か今日、ブタ食ったよな。ブタじゃなけりゃ、ウシ。ウシじゃなけりゃアジかサンマ。先おとといは、トビウオと若どり、食ったよな」

 私はもちろん、蚊の言い分を理解した。

 生きるためなら、他の連中に迷惑をかけているのは同じだろ。そしてお前らは、俺たち以上に迷惑で、殺生までしている。その罪深さをさしおいて、殺生まではしていない俺たちに、説教するとは、厚顔にもほどがある、と言いたかったのだろう。

 私は蚊の分際でと、腹の中でせせら笑った。

 偉そうなことをほざくと、本当につぶすぞと思った。

 思ったとたんに、猛烈な恥ずかしさに襲われた。

 

 ふと見ると蚊は、いつの間にか正座を崩して立て膝になり、片膝を両手でかかえながら、諄々と諭すように私に話し始めていた。

「どうだい、ここらでまた、あのすばらしい法律を、三百年ぶりに復活してみたらどうだろう。犬、猫、鳥や魚介類だけじゃなくて、俺たち蚊や蟻の殺生も禁止するってやつ。人のほほにとまった俺たちを、パチンってやったら、島流し。俺たちの子、ボウフラも大事にするために、ドブ川の水を道に撒くのも禁止とか。君らは天下の悪法として伝えるけど、あんな善法はない。それに人間界でも最近、動物愛護の活動の人とかベジタリアンが、綱吉さんと憐みの令を、再評価し始めたそうじゃないか。エコロジーの観点からも、俺たちを絶滅させちゃ、まずいんだろう」

 私は大きなものには説得されやすいが、小さなものにはされにくい。山の中の大きな古木は、神かと思うことがあっても、道端のカタバミの花はいかに可憐でも神とは思わない。

 確かにこの蚊、いいことはいっているが、この三ミリグラムの物体を、心から尊敬することは、感覚的にとても難しかった。

 

 とはいえ、話すうちに私たちは打ち解け、互いの立場を少しずつ理解できるようになっていった。

 それじゃ、近づきの印に、一杯やろうかという話にもなり、なんと私は生まれて初めて、蚊と呑み交わすことになった。

 私は焼酎が残っていたので、それを呑み、蚊は酒を飲まないから、私の腕にとまらせ、ちょっとだけ血を分けてやった。

 ほどなく私たちは、真っ赤になった。

 蚊は、大きな真っ赤な腹を抱えながら言った。

「すまないな、こんなことまでしてもらって」

 私は豪気な心持がしてきて、

「いいんだ。気にするな」と答えた。

 

 蚊と打ち解ける気分は、新鮮だった。けれど残念なことに、蚊の腹は小さかった。私はもっと杯を重ねたいのに、蚊はすぐにダウンした。飛べないほど、血で体を満たし、目はうつろになった。

「蚊ーちゃんよ、もっと飲めよ」

 私はすすめた。

「もういいよ、勘弁してよ」

 と、蚊は断る。

 私は酒席の礼儀を知らない輩が、嫌いだ。

「腹を割った二人なら、とことんつき合うのが礼儀だろ」

とすごんだ。すると蚊は、急にきりりとして、眉間にしわを寄せて言い放った。

「礼儀は正義か。正義は真理か。勝手だな」

 私はいっぺんに酔いが醒めて、傲慢な自分を恥じて平謝りした。

 それから二週間が過ぎた。奴とは二、三日おきに呑む約束をした。

 家族ぐるみのつきあいになった。奴の家族は、やたらと多かった。相変わらず腕にとまらせ、一緒に呑んだ。

 もちろん猛烈に痒かった。痒いのを我慢していると、この友情の価値が、どんどん大きくなり、私も人間として成長できる気がした。

 もちろん、奴らがこちらの好意を際限なく利用するだけなら、すぐに私は奴らをつぶしていたかもしれない。しかし、奴らは、私の血を得て産卵できることに心から感謝の意を表し、これ以上には迷惑をかけないようにと、産児制限までしていると聞くに及んで、私は胸を熱くした。

 共存共栄。美しい時代の幕開きに、涙さえ催す私だった。

 無論、蚊との対話は作り話である。いわゆる午睡の出口付近でまどろみながら、蚊と話したような気になっただけだ。

 目が覚めると二の腕の裏がとても痒かった。実際蚊が来たて吸って行ったらしい。ツメで×してムヒを塗った。そしてその指で目をこすったものだから、目がヒリヒリ痛くなった。よくやる失敗だ。

 蚊はデング熱とのかかわりからも断じて退治すべきものである。議論を待たない。されど、やはり命。生殺与奪の権は、できたら放棄したい。

 などとぼんやり考えていたら、床を黒い物体がダッシュで横切り、部屋の隅で止まったのが見えた。ゴキブリだ。この夏、ゴキブリもたくさん退治した。ゴキジェットに手を伸ばそうとして腰を静かに浮かした。するとゴキブリがこっちを見た。見逃すことにした。

 私はいつかゴキブリとも、キチンと話す機会を持たなくてはならないと思った。


25

2014-11-25

柿の実

 仕事に疲れて硝子戸の外に目をやると、狭い庭の端に柿の木が見える。かろうじて残る枯葉が北風に震え、真っ赤に熟した実もいくつか数えられる。そして、そのうちの二、三は雀か四十雀がついばんだせいで、丸い形は失われていた。

 今年の柿は豊作だった。かつてないほど実り、面白いので仕事場の床に並べて四百まで数えた。あとは面倒になり、ランダムに十個実を選んで一個の平均重量を出し、収穫した柿の実の総重量を測ったあとで一個の平均重量で割った。答えは約千四百。途轍もない値だ。一日五ずつ食べても二百八十日かかる。大変なことになった。

 柿が一個五十円で売れれば七万円になる。こんな木が十本もあればなあと想像した。

 実際には売ることなどできないから、自分で食べたり人に引き取ってもらったりしなくてはならない。いずれにしても高枝切りバサミで丸一日かけて収穫した柿の実を、次の日は小枝や葉を実から払い落とし、キズモノをより分け、ひとつひとつきれいに水洗いする必要があった。以上の工程を一人でし終えてわかったことがある。二度とすまいと思った。

 さて次に、洗い終わってプラスチックの洗濯カゴやバケツに入れた柿の実を、どうしたものかと考えた。ビニール袋を買ってきて五個ずつぐらいに小分けにしたら、人様に差し上げる際体裁もいいし便利だろうと思った。そして小分けにする手間を計算した。千四百割る五は二百八十。二百八十回もビニール袋に柿を詰める仕事を思い描いたら嫌になった。

 そこで、百個単位で引き取ってくれる奇特な人を探すことした。すぐに思いついたのはこうたくんだった。仕事仲間のこうたくんなら、きっと、百や二百もらいますよ、ありがとうございます、喜んでと、やる気茶屋の店員さんのように、声だけは気持ちよくこたえてくれるに決まっていた。

 早速こうたくんに電話をして事情を話すと、「いいですよ」という、あまり弾まない返事だった。「いいですよ」とはちょっと心外である。如何なる胸の内かといえば、そんなに気がすすまない、という意味にほかならなかった。意外も意外、なんとこうたくんは仕事で忙しく、その日のうちの外出は難しく、約束は翌日となった。こうたくんが私に与える処遇としては、異例なものとなった。できるだけ仕事をよけて暮らしているこうたくんには、常日頃もっと仕事をするようにと勧めていた私だけれど、仕事で忙しいそぶりですげなくされると、なんだかいつも暇だった頃の彼が懐かしくなった。

 翌日深大寺の蕎麦屋でこうたくんに会った。いつものようにゲゲゲの鬼太郎の店の前で待ち合わせた。こうたくんは忙しそうだから、その日はビールでも飲みながら、蕎麦を一枚食ってお開きにしようと考えた。あいにく天気のいい週末だったので、蕎麦屋はどこも満員で、行列を作っている店さえあった。並んでいる人々に、そんなにはおいしくはありませんよと教えたくなった。行列に並んでも食べる価値のある蕎麦など、ここ深大寺にはないと知っている私とこうたくんは、不人気の場末の蕎麦屋を見つけ、入ることにした。硝子戸の張り紙に新そばとあったから、そう外れはしないだろうと高をくくった。店内は思ったとおり誰もおらず、貸切だった。

 バス通りがガラス越しに見える席を陣取った。はす向かいの蕎麦屋は同じ場末なのに行列ができていた。道一本挟んだだけでこうも違うということは、この店にはある種の特別な威力が備わっているのだろうと思った。人擦れしたおしゃべりなおばあさんが注文を取りに来たので、私が「新そば?」と確かめると、「新そば、おいしいよ」と答えた。新そばというものはおいしいものだよ、と答えたのか、この店の新そばこそおいしいのだと教えたのか、判然としない言い方だった。私とこうたくんは、ざる二枚とビールを一本頼んだ。本当に忙しいのだろう。いつになくいそいそとした雰囲気をたたえるこうたくんを感じたので、本題を先に切り出すことにした。

「これ、柿、百個ある。見てくれ悪いし、大しておいしくないけど、二人で食べて」

 するとこうたくんは、私が期待した八割ほどの感謝を示した。私はそのとき、こうたくんが出し惜しんだ二割の感謝の意味について、深く考えることをしなかった。

 結局、新そばにしてはうまくなかった。汁もゆで加減もダメだ。コンビニのざるそばのが、まだうまいかもしれない。貸切の理由がハッキリした。口直しにビールをもう一本頼もうとすると、こうたくんが遠慮したのでやめた。これまでこうたくんの生活にけじめを感じた記憶がなかったので、けじめある遠慮に、稀にみる忙しさを想像した。仕事の充実のせいか、いつもより表情が引き締まり、一年前に決行したスキンヘッドも板について、すっかりカッコよくなったこうたくんに、ちょっと物足りない心持を抱きながら蕎麦屋を出た。私はあわただしく自転車に乗って帰ろうとするこうたくんの背中に、近々の再会を約して別れた。

 私のその日の勢いはこうたくんだけではとどまらず、その後も続いた。近隣の先輩三人に柿の引き取りを依頼し、一人に遠慮され、二人に承諾を得たので、やはり数十個の柿を自転車で届けた。しかし、柿はまだまだ一向に減らなかった。柿の山とともに徒労感が残るばかりだった。

 私はその晩、パクチー入りのタイのインスタントラーメンを食べたあと、イケヤの太陽光電気スタンドをつけ、芭蕉の本を読み始めた。読んでも文字は頭に入らず、こうたくんに柿を手渡したときの二割の不満足を思い出していた。

「これ、柿、百個ある。見てくれ悪いし、大しておいしくないけど、二人で食べて」とこうたくんに手渡し、期待する八割の感謝しか得られなかったとき、私の胸中に芽生えた思いを振り返ってみた。 

 私はたぶんあのときから少し気がついていた。見てくれも味もよくないものを、百個も人に引き取ってもらうことの厚かましさについて。せっかく実った柿を無駄にしたくないという志は悪くないとしても、自分の満足のために忙しい人を呼び出して、しかも「ありがとうございます」という感謝さえ引き出そうとしている欲深さを薄々感じていた。感謝すべきはむしろ私のほうであると。そうなると、なんで自分は苦労して千四百もの柿をもぎ、枝や葉をていねいに払って実を洗い、四十分あまり自転車をこぎ、忙しい人を呼び出して、わざわざ相手に感謝するための機会を作る必要があったのか――。いくつかの絡み合う思いを解きほぐす落ち着きは、あの瞬間の私にはまったく不足していたようだ。

 無論久しぶりにこうたくんに会いたいという思いはあった。だから柿は単なるかづけにすぎなかった。それはそうなのだけれど、やはり私は、柿の木に尊敬をこめることの喜びと、受け取るこうたくんの喜び、この二つの喜びを、同時に手に入れられると信じて疑わなかった。良い事づくしで、私もあなたもハッピー、ハッピーさ! という素朴で厚かましい感受性が息づいていたことは、否定すべくもなかった。

 パクチー入りラーメンはこうたくんから、電気スタンドと芭蕉の本は先輩二人から、柿のお礼にいただいたものだ。

 あまり明るくならない電気スタンドの光のもと、芭蕉の本をながめながら、私はようやく今日の自分をおぼろげにつかまえた気がした。こうたくんに会いに南へ、先輩二人にも柿を届けるために東へ北へと疾駆したその姿は、いささか醜いものだったにちがいない。

 口中にはまだ先ほどのパクチーの味が残っていた。

 ちょっと苦味のある青臭い清涼感だった。


26

2015-06-25

江戸の風に吹かれて柳橋

 柳橋の亀清楼(かめせいろう)を訪れた。

 昔馴染みの芸妓に会うためだった。

 名は吉州(きちず)という。あれから十余年が過ぎた。さぞかし無残に時の刑罰を受けたに違いない。そんな想像はしなかった。この女の蠱惑は、きっと初々しく保たれていると信じた。

 吉州は寒いといった。十余年前の夏のことである。浅草橋のたもとの三浦屋から小舟に乗り、墨田川の川風に当たりに出かけた。吉州のうなじの汗が引いたころ、不意に吉州の小さな口先から、吐息のように、寒いと漏れた。

 夏とはいえ、夕暮れ、そして間断なく吹く川風は、華奢な吉州を過度に寒からしめたのだと、その時は思った。

 それからほどなくして吉州は、利左(りざ)に請け出され、二人は柳橋から姿を消した。

 利左とは利左衛門。柳橋、新橋、二柳きっての粋人だった。月夜の利左の異名を持ち、月明かりに濡れたその美容は、女は無論、男どもさえはっとさせた。

 利左と吉州の名が、またここ柳橋界隈で囁かれるようになったのは、二人が出奔して十年が過ぎたころだった。上野黒門のしんちゅう屋に、利左らしきが出入りしているという噂が立った。 

 しかし、利左をよく知る者は噂を端から信じなかった。出来のよくない冗談と受け流そうとした。そこで、噂を立てた男はむきになり、ある日ボーフラ売りを呼び止め問い詰めた。

 そう、利左と思しきは、金魚の餌となるボーフラを満たした小桶を両天秤に担いで、しんちゅうやという大きな金魚屋に出入りする身なりの貧しい男だった。

「もしや、あの利左衛門さんではありますまいか」

「いえ、旦那、人違いで。ご覧の通りのボーフラ売りの太吉でございます」

 そして、「ボーフラのご用命はいつでも承ります」と、いやしい笑顔を作って踵を返し、立ち去ろうとしたそのとき、期せずして後ろ姿が正体を自白することとなった。やや左肩を落とし、首を右に傾げて歩く姿は、利左そのものだった。そのしぐさがあまりに艶っぽいので、馴染みの芸妓に利左の真似をせよとせがまれる旦那も少なくなかったほどである。

 亀清楼に着き部屋に通されると、すでに吉州は部屋に居た。

ボーフラ売りにたどり着いた利左との暮らし向きは、二人を分かつ力となった。そんな自明な成り行きの詳細について、吉州に今更問う趣味はなかった。

 にもかかわらず、つい口をついて半端な言葉が出た。

「金魚か…」

 吉州は変わらないね、まるでしんちゅう屋の生簀の中、清流に揺れる藻をくぐり、身を翻してきらめく、金魚、銀魚だ、とでも言うつもりだったのか、私は己の真意を掴みそこねたまま、利左へと向かう言葉が胸の内で暴れた。

 吉州はそれには何も答えなかった。ガラス戸越しに遠くに見える屋形船を目でしばらく追ってから、口を開いた。

「花火はいつかしら」

 目を閉じるといつか吉州と見た打ち上げ花火が、まぶたの裏で美しく散った。

 自転車を駆り、神田川を辿って柳橋に行き着いたのは、いつのことだったか。あの頃は、柳橋について、聞いたことはあるけれど、何も知らなかった。ましてや、安政の昔から柳橋に継続する亀清楼などという老舗料亭があることなど、知る由もない。

 緑色のペンキでべったり塗られた、風情も何もない鉄橋、柳橋を自転車で渡りながら、ここからが隅田川かと、自転車の長旅の充実と徒労を感じながら、きれいではない川面に目を落とすばかりだった。

 今度雑誌に頼まれて、柳橋の老舗と文豪と手紙をキーワードにした原稿を書いた。粋筋とはおよそ縁遠い小生ではあるが、西鶴へのオマージュとして太宰が書いた「遊興戒(ゆうきょうのいましめ)」に登場する三粋人や美しい芸妓吉州と、想像力の中で遊んでみた。

 吉州はきっとそそとした美人で、我を通すところなど一つもないのだけれど、男をとこんとんダメにする女に違いないと想った。マノン・レスコーのような蠱惑的な悪女とはいえ、マノンほど明確な本人の意思はない。柳のように風任せに心をなびかせ、枝先で男の頬をなでつけては、残酷に男心を翻弄するのだろう。

 まあ、そういったわけなんだ、こうたくん、ゆうたろうくん。

 雑誌に載せた記事は、もう少し大人しいものになったけれど、もし本屋で立ち寄りする機会があったら、208頁と209頁に、柳橋、漱石、荷風、太宰、三粋人、吉州、しんちゅう屋、金魚銀魚などと上品に?遊んだことを書いたから、読んでみてください。

 雑誌名はメンズプレシャス 2015年7月号増刊(小学館)。値段は950円。そんなに高くなから、二人にも買えるはず。でも、買わなくていい。僕の所にあるから、今度見せてあげる。それから一つ注意します。もし、本屋で立ち読みするなら、僕の頁以外は見てはいけない。なぜかというと、雑誌に掲載されている広告は、カルティエのクラッシュ スケルトン ウォッチ 895万円とか、リシャール・ミルの腕時計が1億1千700万とか、気絶しそうなものばかりだから。

 そんな雑誌があるんだね。そんな世界があるんだよ、こうたくん、ゆうたろうくん。

 貧乏の勲章をぶら下げていたって、誰も感心しやしない。

 なんとかしなくちゃ、僕たちは。


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2015-07-5

地球ゴマ

 地球ゴマという教育玩具がある。今はどうなのだろう。昔は小学生なら誰でも持っていた。先日自転車に乗っていて、ふとそれを思い出した。地球ゴマは、金属製のコマの軸に、垂直方向と水平方向に、コマをカバーする丸い枠が付いていて、枠の外から回転中のコマを触ることができるようになっている。コマの軸にヒモをからめ、思いっきり引っ張ると勢いよく回転し、ふつうのコマより速く長く回る。速く回っている間は、軸を指で押して傾けてもすぐに垂直に立ち直り、立ち直って水平を維持する力が強いから、ヒモの上でも安定して器用に回り続けるところは曲芸師さながらで、まるで生き物のようだ。

 以前、ある大学の博物館で、生物とは、という企画展を見た。まず、博物館の入口に生物の定義があった。無論生物の増殖性がその条件の一つにある。そして、それ以外にもいくつも生物の条件があり、無生物との違いを明確にするのはそれほど簡単ではなさそうで、私の貧弱な理解力をはるかに超えていた。しかし、私にとっては少しも不都合はなかった。生物と無生物の境界は、あいまいらしい。それがわかっただけで愉快だった。

 したがって、大まかでけじめのない性質を持った私の頭脳にとっては、地球ゴマや、それによく似た自転車を、生き物の範囲に入れてもさしつかえない。もっといえば、グルグル回っているときは倒れないけれど、回っていないとすぐに倒れてしまうコマや自転車は、人間によく似ているし、ついでに私にも似ているように感じられる。

 ギリシャの哲人ディオゲネスは、終生、樽、もしくは甕を住まいとして、基本その中に居たらしい。クルクルとコマのように立ち回らないと糊口を凌ぐことができない私は、彼を羨む。じっとしているだけで満たされるためには、どうしたらいいのかといつも考えている。もっともディオゲネスにも人並みの欲望はあったようで、あるとき哲人と噂の高いディオゲネスのもとにアレキサンダー大王が訪れ、「何か欲しいものがあるか」と尋ねると、ディオゲネスはこう答えたそうだ。「日陰になるからどいて欲しい」と。

 東京品川は私の生地である。今は東京の西郊の片田舎に住んでいるので品川とは縁遠くなったが、新幹線が品川に止まるようになり、京急が羽田に乗り入れるようになってから、品川へはしばしば人の出迎えや見送りに出向くことがある。

 先日も夕刻品川駅に行く機会があり、ラッシュに遭遇した。この十年程、ラッシュ時にターミナル駅に赴く機会がなかったので、初めて見る光景のように新鮮に驚いた。

 品川駅に乗り入れる十数本の列車が次々に無数の乗客を運び込み、乗客は階段を昇って中央通路に這い上がり、各々目指す路線のホームを目指すのである。中央通路は幅二十メートル以上、長さ百メートル以上あるだろうか。ここを左右と中央の三つの流れに別れ、乗降客が間断なく行きかう様子は壮観だ。交錯する激流のようにも見える。その足並みはバラバラでも、歩幅とスピードにある種の調和が見られ、まさに動脈や静脈を勢いよく流れる血流だ。

 この血流が四方八方、縦横無尽に大東京をグルグル回って、経済や精神の軸を起立させているのだと実感した。この歩幅、このスピードが、東京を支え、東京を支配し、私に影響を与えているに違いないと発見した。この圧倒的な人並みに抗う力は私にない。抗えば飲みこまれ、踏みつけられ、息の根が止まるだろう。東京自体が生物であり、この巨大な生物の回転を止めることは、誰にもできそうにない。

 期せずして東京の皮層をめくり、血流を目の当たりにした私は、ため息をつきながら自らその血流の一滴となり、人並みに歩調を合わせて山手線に乗り込む以外に方法がなかった。

 地球ゴマも自転車も、回転数を上げれば上げるほど、安定して外力にも強く垂直を維持し続けるのだけれど、ゆらゆらと軸を乱しながら、たよりなく、危なっかしく走ること、回ることはいけないのだろうか。

 そして、結局誰のために、垂直に起立して回っているのだろう、走っているのだろう。一人一人のためであればよいのだが、おそらくそうではあるまい。

 追記

 この原稿を書き終えてその日の新聞を見ると、タイガー商会の記事が大きく出ていた。同社は「地球ゴマ」の製造会社の老舗。今月で廃業の予定らしい。私はときとして、周囲も驚くほど鋭い直観や予感や霊感が的中することがある。しかし的中させた事柄は、例外なく無駄なものばかりだ。馬券や宝くじや麻雀の当たり牌の的中に適応された試はない。

 すっかり記憶の底に沈み、長く思い出すことのなかった地球ゴマを、なぜこのタイミングで思い出したのか、不思議だ。時代の地平に没していくものたちが、別れに声を上げることがあるのだろう。


28

2015-07-25

東伏見早大プール

 砂利を混ぜたプールサイドのコンクリートは、真夏の太陽に晒され、その上をまだ柔らかな子どもの素足で歩くと、砂利の凹凸が足裏を刺激してちょっと痛く、そして火傷しそうなほどに熱かった。

 準備運動もそこそこに小学校低学年のその少年は、50メートルプールに満ちあふれる人々の合間をジグザグにずんずん泳いで進んでいった。足裏はすぐに気持ちよく冷やされ、人々の歓声が少年の浮き立つ心をさらに弾ませた。

 しかし、一度顔を水中に沈めると、歓声は急に静まり、ごぼごぼと泡の音があちこちから聞こえ、人々の手足がスローモーションで動いていた。水面一枚で区切られた別世界の不思議に少し心細さを覚え、少年は助けを求めるように、プールサイドにいるはず彼の父親を捜した。赤い海水パンツから腹がはみ出した父親は、まだていねいに準備運動を続けていた。少年は父親が自分を見守っていることを確認して安心し、気を取り直して向こうのプールサイドへの進行を続けた。

 父親が、プールの中の大勢から、たやすく少年を見つけ出せたのは、少年の姿が他と明らかに異なっていたからだ。少年一人だけがライフジャケットを装着し、しかもその色は、鮮やかなオレンジだった。

 今から五十年前のことである。当時、プールに浮き輪を持参する子供はいても、ライフジャケットを着けて泳ぐ者は、子供も大人も皆無だった。恥ずかしがり屋の少年ははじめ人中で目立つことを嫌い、ジャケットを力弱く拒んだ。しかし、父親に抗議を無視され渋々従ううちに、足の届かない大人用のプールでも自由に泳げることに味を占め、当初ジャケットを拒んだことを、いつの間にか忘れていた。

 少年は、父親から教わった平泳ぎで得意になって大人用プールをスイスイ泳いだ。街々に水泳教室のない時代、足の届かない大人用プールを自由に泳ぎ回る小学校低学年の子どもは、少年以外にはいなかった。たとえジャケットの力を借りているにせよ、少年の自尊心は満たされた。そして、ジャケットを着ることにより、恥ずかしがり屋の自分の殻を脱ぎ捨てることができ痛快だった。

 少年の晴れ舞台は、西武新宿線東伏見駅前にあった。1960年のローマ五輪で銀メダルに輝いた山中毅選手が所属する、由緒ある早稲田大学水泳部の専用プールである。正式な競技会が開ける50メートルプールと、高い飛び込み台のある水深5メートルのプール、そして大人のひざぐらいの深さしかなく、真ん中に噴水の付いている幼児用プールの3種類があった。もともとは早大の水泳部のプールだから、幼児用は一般開放されるようになってから設置されたに違いない。

 近隣の子どもたちは、皆ここでプールを初めて体験することになる。まず幼児用の足の届くプールから始める。泳ぐというより水遊びの延長だ。そして、小学校中、高学年となり、泳ぎがある程度できるようになると、50メートルプールの浅いほう、すなわち、競技用のスタート台がある側とは逆の端付近で泳ぎ始める。スタート台がほうの水深は約2メートあり、大人でも足が届かないが、逆側の端のほうは、小学校高学年になると、爪先立てば頭の半分が水上に出て、アゴを上げると口を水面から出して息ができた。

 いざとなればいつでも足を水底につけることができれば安心だ。しかし、足が届かない底なしの不安を抱きながら泳ぐスリルは、快感にもつながる。ライフジャケットで安心を得ながらも、底なしのプールを泳ぐ冒険に、少年は酔い痴れた。

 また、さらに少年を魅了する出来事が、このプールでは起こった。それは父親の泳ぎっぷりだった。

 50メートルプールを利用する人々のほとんどは、50メートルを泳がず、プールの横幅15メートルほどを泳いだ。少年もその群れに従って泳いだ。

 ところが父親は、50メートルをそのまま悠然と縦に泳ぐことがあった。スタート台からプールの中ごろまで、水深が深い所には人もまばらで、そのあたりを泳ぐとき、プールはまさに父の一人舞台だった。しかもその泳姿は、少年の目にも実にあでやかなものだった。

 クロールの腕の抜き上げがスムーズでしなやかでリズミカルでゆったりとしていた。そのときの少年の語彙にはなかったが、プールの中で誰よりも品格に満ちていた。

 さらに、時よりクロールにまじえる古式泳法の抜き手は、クロールにもまして高い格式を感じさせ、泳ぐ者の人品を錯覚させる威力さえあった。

 父親は、東伏見早大プールにおける、夏の王者だった。そして少年は、その正統な従者だった。

 しかし、王者はすぐに消えた。泳ぎ終えて更衣室で父親は、タオルもかけずに赤い海水パンツを脱ぎ、誰はばかることなくぶらぶらさせて、シャワーを浴び、またぶらぶらさせてロッカーまで戻り、真っ白な越中ふんどしをきりりと締めた。少年はその一連の父親のふるまいが恥ずかしくてたまらなかった。さらに、プールを出ておでん屋で注文するとき江戸っ子の父親は、「おやじ、大根とがんもとちくわぶ」と、叱るように大声で注文した。おでん屋のおじさんは機嫌よく、「へい、旦那ビールは? キリン? アサヒ?」と答えるのだけれど、少年は父親がとても威張っているように感じられた。おまけに少年は、おでん種で一番嫌いな三種類、大根とがんもとちくわぶを分け与えられ、仕方なく飲みこむようにして食べたのだった。

 炎暑の中自転車で図書館から仕事場に戻るとき、近所の小学生が大きなビニールプールで、気持ちよさそうに水しぶきを上げていた。遠い日、父親とプールに通ったことが、その隣に思い出された。


29

2015-08-5

新し物好きな銀座は密の味――銀座ミツバチプロジェクト



 銀座に養蜂場があるという。13階ビルの上だ。驚くなかれ年間一トンの収穫があるらしい。あらかじめ断っておくが、ここでいう銀座とは、長野県北佐久郡の軽井沢銀座はなく、ましてや東京都葛飾区の亀有銀座のことではなおさらない。本家本元東京中央区の銀座の話である。

 狐につままれた気になり、私は自転車をころがしながら、最寄駅までM氏を見送る道すがら話を聞いた。

 この不思議なミツバチプロジェクトの話を教えてくれたのは、これまた不思議な名古屋の怪人M氏である。いつからか月一度の割合で、日本橋の老舗の美味しい出汁の素を携えて、私の仕事場にいらしてくださるようになり、某新聞社の新聞記者の方とともに、四、五時間、粗酒粗肴の宴を張る。

 どうやらM氏はこの銀座ミツバチプロジェクトに一枚噛んでいるらしい。どんな噛み方かうかがったが、私の記憶力は揮発性なので、すぐに蒸発してしまった。いずれにしてもお金儲けが主たる目当てではなさそうだ。M氏はある事情から、お金にはあまり興味がない。一方、ある事情から、お金にとても興味を持つ私とは、好対照をなす。

 それはともあれ、M氏はミツバチプロジェクトをとても自慢げに楽しそうに話し始めた。

 ミツバチと聞き、また、銀座と聞いて、黙っていられない私は、すぐに次々に質問の矢をM氏に放った。

「銀座に花はありますか」

「皇居まで飛んで行きます。浜離宮にも、それから銀座の街路樹にも花の咲く木を植えるようになりました」

「蜜を集める花の種類は」

「ソメイヨシノ、マロニエ、ユリノキなどです」

 桜はもとより、マロニエもユリノキも私の好きな木だ。マロニエの蜂蜜はどんな味だろう。さぞかしロマンチックにちがいない。そして、つや消しの新緑が美しいユリノキの花の蜜も、味わってみたいものだ。さわやかな青春の香りがするかもしれない。

「蜂蜜として販売したりするのですか」

「蜂蜜としても販売しますが、銀座の老舗バーのカクテルで使ったり、ケーキ屋さんや和菓子屋さんの名店で、様々なスイーツに利用されたりしています」

「へえー、知らなかった」

「銀座の蜂蜜からビール酵母が発見され、その酵母でビールも製造されているんですよ」

「それも飲んでみたい」

「それに、蜜蝋でロウソクも作りました」

 それほどゴージャスでロイヤルな甘い香りがする炎はなさそうだ。

 

 実の所、私がミツバチと聞いて黙っていられないのは、よい思い出のせいではない。

 小学生とのき、ミツバチが筒状の赤い花に潜り込んだのを見つけ、すばやく花の先端を親指と人指し指でつまみ、閉じ込めることに成功した。自分はなんて頭がいいのだろうと、一緒にいた友達に得意満面のまなざしを向けた。しかし、次の瞬間、人差し指の爪と肉の間の一番敏感な部分に激痛が走った。ミツバチが花弁を通して私の指を突き刺したのだった。その痛さ半世紀過ぎた今でも忘れない。まあ、痛いのなんの。そんな思い出のあるミツバチだ。

 そして、銀座も自分と切り離せない因縁がある。私の名前は越という。銀座一丁目にあった広告会社でデザイナーをしていた父が名づけた名前だ。どんな困難をも乗り越えて生きていけるようにとの願いを込めたと、命名の由来を聞いていた。なるほど親心あふれる発想だと素直に感謝した。しかし、ものごころついて父の銀座の仕事場近くをたずねたとき、その感謝がやや薄まる思いがした。父の仕事場のすぐ近くに、私の名前が大きく看板で出ていたからだ。○の中に越。三越の看板である。父はこれを毎日見ていた。小さなウソをつくことには、およそ反省のなかった父だから、これぐらいのウソは平気でく。なんでも乗り越えるようにとの願いは、きっと後付けにちがいない。

 この父、銀座を拠点に、仕事に遊びに小暴れした。髪の毛を脱色して赤くし、前髪をパッツンと切りそろえて丸メガネをかけたり、自作の帽子、バック、上着をこしらえて、独自のファッションを目指したり、自分の勤める広告会社の10メートル幅のウインドディスプレイの制作を何十年も続け、四季折々の物語性のあるオブジェや絵や人形を好き勝手に作り続けた。そして、広告社に勤めながら近くの出版社の挿絵をアルバイトで書いたり、出版社の編集者との徹マンに興じたり、日課のように銀パチに通ったり、それはもう縦横無尽に銀座の街を謳歌した者の一人だった。

 その後私も働くようになってから、銀座の編集プロダクションで仕事をもらい、銀座のブランドショップに関わる仕事をしたりした。また、銀座の出版社から本を出し、雑誌に載せてもらったりということもあり、随分いろいろな角度から、銀座の魅力に触れるチャンスをもらった。

 そういえば遠い親戚のKちゃんは、銀座のホステスをしていた時代がある。夜の銀座の裏事情の中で、随分辛い思いをしていた。それも銀座の一つの顔として、私の記憶に深く刻み込まれている。

 そうした一切合財を踏まえて、ミツバチと聞き銀座と聞くと、このかけ離れたもののイメージが、私の中で妙に違和感なく融合する思いがするのである。

 銀座は新鮮で高貴で甘い蜜の味がする。

 銀座の老舗とかなんとかいってありがたがる人がいて、確かに老舗の伝統が、芳醇な香りを漂わせるよさもあるけれど、元はといえばイノベーティブな空間。父は自身のファッションだけでなく、新し物好きだった。新製品好きだった。自宅の模様替えも大好きで、月一回は机やテーブルや食器代、テレビの位置を変えた。私たち家族はその度、せっかく馴れた生活導線や景色が変わり、不満しか残らない恒例の模様替えだったが、新鮮な風を常に追い求めた父の精神は、今にして思えばなかなか興味深い。

 桜花、マロニエ、ユリノキなど、あるいは、ファッション、絵画、写真、飲食などなど、様々な品格を備えた特徴ある高品位な蜜がこの地域に集められ、そして、その蜜に集まる人々がいて、その人々が織りなすドラマがあり、そのドラマは決しパッピーならざる裏事情にも支えられ、いたいけなKちゃんのような花が摘み取られたり、あるいは人によっては裏事情の中でたくましく生きて、黒皮の手帳を持ち、ハチの一刺しで大物を失脚させたりすることもあったのだろうと想像する。

 銀座ミツバチプロジェクト。これほどミスマッチでありながら、これほど銀座にふさわしいプロジェクトはないだろうと、最寄駅の改札で怪人M氏に別れを告げてから、自転車に乗って仕事場に戻る道の上で、ひとしきり思う私だった。


30

2015-09-5

エンブレム


新エンブレム A案・B案 作EN

 雨が続いて、自転車に乗れない。仕方がないので仕事をしたり、本を読んだり、テレビを見たり。

 テレビは今エンブレムの問題でにぎやかだ。新国立競技場に続き、昨日エンブレムも取り下げられ、やり直しになった。テレビのニュース番組の司会者やコメンテーターは、こぞって鬼の首を取ったように騒ぎ立てる。そして、一昨日まで擁護していた推進派も、手の平がえしの攻撃を開始した。勉強になる。賢い処世の術がここにある。

 かくいう小生もまた、当初から「デザイナー氏の過去の作風とエンブレムは、明らかに世界観が違う。盗作でしょう」という業界関係者の見解に組みし、「まあパクリでしょう」と自信を持って断じた。

 

 けれどもここまで一方的な個人攻撃が過熱すると、自分の胸に手を当てなくてはならないような気がしてくる。私は何もパクッてないかと。実はさりとてのこの連載で2013年1月4日にアップした「コウタくんと森山大道とポッポちゃん」という記事は、太宰治の「令嬢アユ」のオマージュだ。似たような言い廻しをややまじえ、その世界観を尊敬し真似たつもりだ。ただしこれは、「令嬢アユ」を少しも彷彿とさせないから、盗作の誹りを受ける栄誉を、どこからも得ることができなかった。

 一方長い編集者生活で、逆に一度だけ盗作されたことがある。バスケットボールの指導書をプロデュースした際、説明イラストを盗用された。あるとき書店で何気なく競合他社の同種のバスケットボールの指導書を観察していたら、頁をめくるごとに次々に見覚えのあるイラストが出て来た。おかしいなと思い買い求めて仕事場に戻り、自分のプロデュースした本と見比べるために、コピーをとりライティングテーブルで重ねてみると、ほとんどすべてのイラストが盗用だった。新たに描き起こしてはいるが、どれもが細部までぴったり重なった。そんな見え透いた盗作をよくもヌケヌケとやったものだと驚いた。しかし、その盗作者にも、いくばかの良心は働いたようだ。盗作したイラストは全部、小生の本のイラストの逆版だった。すべて左利きの選手のイラストになっていたのである。前代未聞の左利きの人専用のバスケットボールの指導書となった。そのように銘打って販売されたわけではないが、もし左利き用として販売したら、意外に売れたかもしれない。

 また、小生の著作の文章の盗作は、しばしばネット上で見受けられる。これに関しては、むしろ名誉だと思っている。真似されるなんて大したものだ。だから、文句をいったこともなく、今後もいうつもりもない。件のバスケの指導書のイラストの盗作に関しては、イラストレイターの著作権と出版社の出版権が侵害されたので、出版社同士で話し合って、盗んだ側が該当書籍の出版を停止しただけで、金銭のやり取りのない示談となったようだ。お互い探ればスネにキズ持つ身ゆえの大人の解決を図ったものと思われる。

 ことほどさように、表現世界においては、盗作はつきものといっていいかもしれない。インターネット上では、パクリ疑惑のポピュラーソングが、原曲とともに山ほど紹介されている。小生もよく知るあの曲もこの曲も、なんだパクリだったのかとがっかりした。それからずいぶん前のことになるが、世田谷美術館で常設展を見ていたら、素朴派の絵画の展示があり、腰を抜かすほど驚いたことがあった。当時流行っていたヘタウマのイラストに、そっくりだったからだ。そのような不正確な言い方が自然なぐらい、ヘタウマが堂々とニューウェーブとして取沙汰されていた。われわれはしばしば中国のパクリを笑うけれど、日本だってつい最近まで、欧米の流行をそのまま日本に持ち帰った各ジャンルの表現者たちを、ちやほやしていたような気がしてならない。

 そもそもこの問題を討議するには、オリジナリティとはなにか、という定義が必要になる。今回のエンブレムも、盗作とはなにかの定義が不明確であれば、盗作ともなんともいえない。似ているとは、異なるという意味も含まれる。ただし、似ているから嫌だとか、面白くないとかいうことだけはいえるだろう。

 

 太宰治もこの問題に関して、過去から参戦しているので、最後にご紹介しておく。

「もともと、このオリジナリティというものは、胃袋の問題でしてね、他人の養分を食べて、それを消化できるかできないか、原形のままウンコになって出て来たんじゃ、ちょっとまずい。消化しさえすれば、それでもう大丈夫なんだ。昔から、オリジナルな文人なんて、在ったためしは無いんですからね。真にこの名に値いする奴等は世に知られていないばかりでなく、知ろうとしても知り得ない。だから、あなたなんか、安心して可なりですよ。しかし、時たま、我輩こそオリジナルな文人だぞ! という顔をして徘徊している人間もありますけどね、あれはただ、馬鹿というだけで、おそるるところは無い。」(太宰治 「渡り鳥」より)

「原形のままのウンコになってて出て来たんじゃ、ちょっとまずい」は、けだし名言。

(追記 エンブレムなんて簡単だろうと思って作ってみたのが冒頭にかかげたA・B案。これはダメです。いただけない。2時間もかけたのに。難しいものです)


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2015-10-5

BMW Z4を買った私

 貧乏なふりをしているのが面倒になって、BMW Z4を買った。色はアルピン・ホワイト。値段は約千万。いろいろ付けたり変えたりしたためだ。早速これで吉祥寺の紀伊国屋に乗り着けたら、いろんな人がジロジロ見てた。いわゆる二度見する人も多かった。気持ちがいい。美男、美女は、こんな体験を毎日続けてきたのだろうと想像した。しかし車の場合は車の高級感が注目されるだけで、ついでに運転する人間まで高級だと思われることはない。

 高級車をジロジロ見る人々の様子を観察すると、まず車に目が行き次にドライバーの品定めをする。そして、高級車に見合った見てくれや人格を感じさせるドライバーが乗っていると判断したら、いかにも不愉快そうにプイと横を向いて、何も見はしなかった、無関心であるというしぐさを見せる。場合によっては反対に、きつい目で車を睨み付け、悪事を働いた成果だろうと詰問モードの視線を発射する人もいる。フォロを収納しオープンで走ると、さらに以上の傾向が強まる。

 一方高級車にはふさわしくなく軽トラが似合いそうなドライバーなら、なんとも理解ある微笑をたたえ、許可を与える視線を投げかける。祝福の笑顔さえプレゼントすることもあるようだ。私の場合はどうかというと、まず私を責めるようなまなざしはなく、祝福の笑顔を得ることもないから、微妙なところなのだろう。そのうち車格にそぐう人格を備えられるようになりたいと思っている。

 また、人に道を尋ねるときも、ママチャリとBMW Z4ではかなり待遇が異なる。ママチャリで尋ねたときの相手の対応は、ていねいに尋ねればていねいに答えてもらえるのが一般で、特にママチャリだからといってじゃけんにされることは少ない。しかし、BMW Z4から降り立ってていねいに道を尋ねると、大方の人はとてもていねいに答えるだけではなく、晴れがましささえ感じている気配だ。光栄です、と顔に書いてある。何かいいことがあったような、これからあるかもしれないと思っている感じが伝わってくる。

 車の中に居るときは、車格にマッチしないドライバーと判断されても、ひとたび車から外に出て道を聞くと、聞かれた人は気圧されて、ドライバーの人格を高く見積もる傾向がある。この傾向は都心から離れるほど強くなった。青山や麻布や六本木はそんな車ばかりだから、車だけ見て恐縮する人はまずいない。

 そして、こうした車を得たときの不安として、人の妬みを買って、車を傷つけられることが多くなるのではないかと思ったが、それは杞憂だった。むしろこのクラスの車には、人は逆に近づこうとしない。後続車は車間をあまり詰めないし、追い越し車はできるだけ離れて追い越そうとするし、スマホを操作するために環七で停車したら、後続のトラックや営業車は、笑っちゃうほど遠巻きにして私のBMW Z4を追い越して行くのだった。こすりでもしたら、えらく高いものになってしまい面倒だという心理が働くからだろうか。これも気分のいい経験だった。

 器量も人格も金の有無も、人の特徴である。どれを上位の特徴とすべきかは一概にいえない。そしてどれを下位とすべきかも同様だ。器量といったところで、不確かなものだ。ある時代のその地域の平均顔が美男、美女と呼ばれる。無個性であることをほめそやす。そして人格もまた、その高低を決するのは、ある時代その地域の価値観に大きく左右される。滅私奉公をもって人格高潔と見る向きは、現代においてはごく一部にすぎない。唯一金だけが、どの時代どの地域にあっても、人間を測るための明確な特徴となる。金持ちは時空を超えても確かに金持ちである。

 この確かなものを拠り所にするのが真のリアリズムであって、見てくれや人格など、あやふやな基準によって成立する特徴に頼ることは、どんな時代にどんな地域においても賢明とはいえない。すなわち、一千万になんなんとするBMW Z4を手に入れドライブを楽しむ私は、絶対的な価値を有した人間の列に並んだことになる。そこに矜持を感じるかどうかは、人格に関与する価値観の問題になるから、あえてコメントは避けるが、四つのタイヤで移動するゆるぎない価値の象徴は、これからも往来の人々の心を少なからず騒がせることだけは確かだろう。

 10月4日日曜日。今日はいい天気だった。先ごろ市役所を定年でやめた近所のおじさんが庭いじりをしながら、「暑いですねえ」と、気持ちのよい大きな声であいさつをくれた。私も「そうですね」と気分よく応えてその気分のまま自転車散歩に出かけたら、新青梅街道の保谷町の交差点にBMWのクーペが信号待ちをしているのを見かけ、ドライバーと目が合った。乗員二名は、団塊世代の夫婦の様子だ。二人とも偉そうで生意気そうで意地悪そうでズルそうで、私を軽蔑していそうに見えた。貧乏な私の偏見だ。と反省するほど私は素直ではない。十中八九睨んだ通りの人格に相違ない。

 けれどいつも高級車に合うたびそんなふうに考えるのは、楽じゃない。自分が嫌になる。最近は高級車がとても多くなったから、始終嫌になる。だから今日は向こうの側に立って、向こう側の人々の了見を想像してみた。

もし私がBMW Z4を運転していたら。

 私は生憎35年前に免許の更新を忘れ失効させたので、いずれにせよ叶わぬ想定ではあるのだけれど。


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2016-05-26

D2(デーツー)

D2への道順は三通り

所沢街道の細い歩道を窮屈に進む

墓地の脇道を静かに辿る

新生ひばりが丘団地を軽快に突っ切る

遠回りになるが最近は

ひばりが丘団地のコースを選ぶことが多い

昔 広い麦畑の上で

初夏になるとひばりが空中に留まり

ピーピー鳴いていた

本当にひばりが丘だった

見捨てられたひばりの子を

飼ったことがある

おとといのこと D2で10キロ298円の

ガーデンロックミックスを一袋買った

仕事場の玄関が草ぼうぼうだったから

抜いて小砂利を撒いて小奇麗にしようと企てた

298円で10キロものものが買えるのが

嬉しかった

この嬉しさはさらなる嬉しさを求めた

きのうはD2で20キロ178円の砂を見つけて買った

178円でこれ以上重いものは買えまい

得した気分になった

誇らしい気持ちにもなった

けれど困った

20キロの砂の袋を自転車の前カゴに載せるのは

容易ではなかった

載せようとするとバランスが崩れ

おっとっとと倒れそうになった

ようやく載せふらつきながら発進した

余りの重さにハンドルをとられる

前カゴは今にも壊れそうだ

墓地の脇道を選び帰ることにした

遠回りも狭く危ない歩道も避けたかった

ここらへんにしては広大な墓地だった

整然と立ち並ぶもうひとつの団地だ

縁もゆかりもないから特別な気持ちにはならない

ただ いろいろな人のことを思い出した

人だけじゃなく 飼っていたひばりのことも

犬のこと カメのこと 

ヒヨコ 文鳥 鳩 アヒル 

ドジョウ メダカ タニシまで

引き潮のようにぼくの思いが一斉に

彼岸へと向かう

そしてほどなく我に返り

自分にあきれる

砂なんか運んでなにしてるんだ

そう自問して初めて気づいた

D2でこのところ買ったのは

砂利と砂だけではない

小型の鍬も手に入れた

土を掘り草を削り

石と砂を記憶の上にかぶせた

後はどんな花を植えるかだ

午後またD2に行く


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2016-10-5

コンサート

再来週のコンサートへの出演に際して、このところ人妻と、自分らしからぬ内容の会話やメールの交信をひそかに愉しんでいる。

人妻 「2種類送ったつもりだけれど、同じの送っちゃったかな」

私 「うん、同じみたい」

人妻 「アルペジオとストロークの2つ」

私 「なにそれ?」

人妻 「つま弾く奏法とジャーラーンって感じに弾くやつ」

私 「なるほど、もう一回聴いてみる」

私 「最初はどっちも同じに聞こえたけれど、たしかに2種類、アルペジオとストロークだった。ポロンとジャラーン。ぼくの頭の中の辞書にはアルペジオとストロークがなかったから、聞こえなかったんだ。言葉がないと、聞こえない、匂わない、見えない。心理学だね、言語学だね、哲学だね」

人妻 「なにそれ、まあいいや、よかった。どっちかで合わせてみてください」

私 「うん、わかった。アルペジオの伴奏に、ハモニカと歌をつけてみる」

人妻 「ハモニカっ? 持ってらしたの」

私 「うん、昔のがどこかにあったはずだから探してみた。低音がさび付いてるやつ、確かあったんだ。でも結局なかったから、西友の文房具売り場で一昨日買った」

人妻 「わざわざ、悪かったわね」

私 「いや、久しぶりに…、五十年ぶりに吹いてみたくなったから。それに、幼児用の安いものだ」

人妻 「それは楽しみね。頑張って」

私 「頑張るけれど、結果は保証できない」

人妻 「スタジオ練習日までに、私もなんとかしないと」

私 「いや、あなたもヤツも、もう大丈夫でしょう。ヤツは高校時代文化祭の舞台で演奏してたし、あなたもズルイ、高校時代フォークソング同好会だったんだって」

人妻 「そうだけれど、練習さぼってばかりいたから」

私 「ストロークのギター伴奏に、ハモニカと歌、つけてみた。それを録音したものを、データで送るね」

人妻 「それにしても、ハモニカの楽譜、あったんですか」

私 「そんなのないさ。ユーチューブに流れていたライブのを、真似したんだ。だから、いいかげん、ヤツにチェックしてもらいたい」

人妻 「ライブのは、同じ曲でも、前奏、間奏、いろいろなバージョンがありますよね」

私 「あるある。だから、一番ハモニカに向いてる楽しそうなやつを探した」

人妻 「それじゃ、そのライブの演奏も、データで送ってくださる」

私 「いいよ。そうか、それがないと、ヤツが伴奏できないわけだ」

人妻 「そう、あの人、初めて聞く曲らしいからね」

私 「コンサートって、こんなに大変なんだ。まあ、まるで素人で音痴のぼくが出ようなんてするからか」

人妻 「そんなことない。みんな、結構練習してくるよ、彼も。ワタシもしなきゃいけないだけれど、まだ全然」

私 「音楽やる人って、不真面目で軽薄なのかと思ったら、ぼくよりはるかにマジメなんだね。このところ、ずっと練習していても、ちっとも上達しない。もちろんぼくには才能がない。いくら練習しても上達しない才能はありそう。才能がある人は、きっといくら練習しても、飽きないんだろうね。ピアニストは、毎日十時間の練習を365日続けるんでしょう。そして、三日練習を休むと観客がわかり、二日休むと仲間の演奏者がわかり、一日休むと自分がわかる、という厳しさらしいね」

人妻 「そうね、ワタシなんかチャランポランだけど、彼は趣味とはいえ、マジ」

私 「そうなんだよな、怖いんだよな。ちゃんとやらないと、口きいてくれない」

人妻 「そう、いまだに、そう」

ヤツ、すなわちMと、人妻すなわちその妻T子さんは、30年前名古屋に転勤した。そのとき、2、3年で戻るからといっていたのに、30年がすぎてしまった。その間、どんな時間を過ごしたのか、詳しくは聞いていない。もちろん、お互いにいろいろなことがあった。それでも、高校時代の旧友であるMは少しも変わらず、いつも私をめんどくさそうにかまってくれる。

「今度、仲間でコンサートを開く。来いよ、歌ぐらい歌えるだろ」

まさかのご招待だった。

私は人様の前で何かを演じるなど、とんでもない。ことごとく人に接する機会を避け、こそこそと書斎で文字を書き綴っているだけの男である。スピーチも講演も、宴会の締めの挨拶も、なにからなにまでお断りだ。

しかし、Mの依頼だけは断れない。口をきいてくれなくなってしまうから。MがT子さんと結婚する際、司会を頼まれ、断ったときのMのひどくがっかりとした顔が忘れられない。無論Mは私の流暢な司会を期待していたのではなく、粗忽な私がしでかす不始末の数々が、堅苦しい結婚式を盛り上げてくれるに違いないと踏んだのであった。

だから、今回も実は気が楽だ。断ると怖いということもあるが、Mは私の歌唱力、音楽性などには一切期待をしていない。何かとんでもない失敗をやらかすだろうと期待し、その不安を愉しんでいるのだ。だから、私は決してうまくやってはいけない。無難にこなせばMはきっとがっかりする。

けれど、うまくやらないように調節するのは、難しい面もある。接待ゴルフがうまい人は、相手よりスコア―を少し悪くするよう努力する。調節を効かせるには、かなりうまくなければならない。下手すぎるとメンバーは呆れ、お荷物に思う。そう思われず、少し下手を演じることが、接待の成果につながる。

もちろん、Mを接待するわけではないから、そういう考え方は失礼だけれど、私はとにかくMのご機嫌をとりたい。

Mは私が機嫌をとりたい、数少ない男の一人なのだ。

コンサートでは、高田渡の生活の柄と泉谷しげるの春のからっ風とブルーハーツのToo much painを歌うつもりだ。ハモニカの練習は、Too much painのためである。

本番を思うとぞっとするけれど、毎日ハモニカを吹き、歌を歌うと不思議と気持ちが安らかになる。

10月9日の本番に向けて、練習の日々が続く。


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2016-12-5

NHKラジオ深夜便・ないとエッセー「手紙で出会う漱石」


2016-12-2 NHK録音スタジオにて Kさん撮影写真を加工

私は、見つけることが好きだ。子供の頃はよく下を向いて歩いていて、近くの鉄工所の付近では、棄ててあった鉄塊を拾ってきたり、保谷クリスタルの工場も近くにあったから、そのゴミ捨て場で、シャンデリアの壊れた部品のカットガラスを拾い、太陽にかざして、その煌めきを楽しんだりしていた。林の中でセミを探すのも、草むらでバッタを探すのも、四つ葉のクローバーを探すのも好きだった。

だが、残念なことに、私は物覚えが悪いし、理解力も乏しいし、何より根気がないから、学者にはならなかった、なれなかった。

私は大学の文学部史学科で、東洋史を専攻したのだけれど、大学に入って初めてのホームルームのような集まりで、担任の教授が語った最初の言葉の意味を、今頃になって理解した。「学者になるには、頭がよくてはいけない。なぜか。頭がいいと、すぐに推論してわかった気になってしまう。学問は、一つずつ確かめて、着実に進む必要がある。わかった気になってはいけない。そのためには、頭がよくないほうがいい」。学問とは、そういう地道なものなのかと、そのときは思ったのだけれど、周りを見ると、呑気そうな顔をしている仲間が多かったから、私も含めて、「君たちはバカだから、学問をするには適している」と、教授先生はおっしゃったのだと、今頃になってようやくわかった。40年余りを要したこの血の巡りの悪さに、自分ながら恐れ入るのを通り越し、惚れ惚れする。

教授先生の「バカは学者に適している」説の正否については、いつか考えるとして、私は最近日本文学の大御所に関する本を、うっかり何冊か書いてしまい、怯えている。夏目漱石の書簡に関する本などだ。もちろん、無学無知非才な私の漱石に関する言説や評論的なものについて、改めて取沙汰する人などあまりいないとは思うけれど、なにせあの漱石である。「漱石以来、日本文学は一歩たりと進歩していない」と断じる文芸評論家もいるぐらいの日本文学の最高峰のひとつだ。それに引きかえこの私は、17歳の夏までに読了した本は、児童版のHGウェルズ『タイムマシン』と、やはり児童版の『宮本武蔵』の2冊だけ。どちらもとても楽しかった記憶があるが、それにより、読書習慣がつくことは、何よりも嫌いなのは読書だった。17歳の夏までは。

では、それまで何をしていたかというと、バットの素振りと投球練習とバスケットボールのシュート練習ばかりだった。特にバスケットボールのジャンプシュートについては自信があり、アマチュアでもプロでも、私は今でも、シュートの成功率を上げる指導をすることができる。これだけは自信がある。中学高校時代の膨大な時間を費やし、シュートの練習方法とフォームの開発、シュートチャンスについて考え抜き、実際に試して成果を上げたからだ。

そんな私がなぜ漱石に辿りついたかについての話を始めると、長くなるので割愛するが、ともかく私は漱石の手紙が好きになり、足かけ四年をかけて、漱石の現存する手紙2500通余りを読み込み、一つ一つ手紙の内容別に仕分け、面白さ、興味深さの等級をつけ、重要なキーワードを拾い、あるいは感想を添え、2500の手紙文とともに、それらの情報をエクセルでデータベース化して、漱石の手紙を徹底的に眺めて愉しみ始めた。そして、愉しんだ結果を本にしてみたくなり、『夏目漱石の手紙に学ぶ 伝える工夫』と『漱石からの手紙』を書いたのだった。

私は本稿の冒頭で、見つけるのが好きだったと書いたが、私にとっては漱石の書簡を眺めることもまた、鉄工所周辺の鉄くず探し、保谷クリスタルのごみ箱の近くのクリスタルの破片探し、林間のセミ、草むらのバッタ探し、あるいは、バスケットボールの美しいシュートの追究と、ほとんど変わることがなかった。もう誰の役にも何の用にもならなくても、私には面白い、奇妙な形をした鉄くず、壊れていても美しく光を跳ね返すクリスタルガラス、鳴かないメスのセミを見つける醍醐味、草と同化するバッタの発見、確立されているようでいて、実はほとんど確かな根拠のない曖昧模糊としたスポーツのパフォーマンス理論の中から、自分に合ったフォームを探し求めることなどと、漱石の書簡の大海原から、時めく文句、愉快なフレーズ、品格に満ちた表現、優しさあふれる言い回しそして妙なる言葉を探すこととは、まったく同様な、スリリングな胸躍る喜びだった。

そんな私の漱石の書簡についての愉しみと喜びの成果に共感してくださる方が、夢のように現れた。NHKラジオの「ラジオ深夜便」のディレクターKさんだ。同番組の「ないとエッセー」というコーナーで、「手紙で出会う漱石」というテーマで、3日間話してみないかというのだ。私は本を出してから、どなたか厳しい漱石の専門家の方に見つかり、こっぴどく叱られはしまいかと恐れつつも、一方でどうか私のこの漱石観を見つけてほしいという願いもあったので、専門家を恐れるためらいなどどこ吹く風で、図々しくすぐさまKさんの依頼に応じたのだった。

そして一昨日、収録日を迎えた。

収録までには三週間ほどあったので、練習に練習を重ねた。1日、3時間前後、毎日練習した。もともと滑舌が悪いので、その改善にも努力した。1日10分余りの放送だけれど、事前の収録は1日なので、3日分、都合30分以上をしゃべり続けることになる。1回でうまくいくとは思われない。30分を2,3回話すことになるかもしれないと思うと、体力面が心配になってきた。普段人とほとんどしゃべることもない私は、10分一人でしゃべり続けるだけでも大変なのに。よっぽど体をしっかり健康に保っておかなければと思った。そこで、ほんの少し喉に違和感があり、風邪のごく初期症状かもしれないと思い、収録の三日前に、インフルエンザの注射を打った。体が弱っていると、インフルエンザにかかりやすいのではと思ったからだ。注射を打ち終え、これでなんとか乗り切れるだろうと一安心した。

すると、その夜から異変が起きた。なんとなくだるい、のどに違和感がある。寝れば治るだろうと思い、いつもより早く寝たら、夜中に咳き込んで目が覚めた。熱はないが、ひっきりなしに鼻水が喉に回り、二、三十秒に一回むせ返るようにして咳き込んだ。翌朝にはもっと状況は悪化し、翌日に控えた収録があやぶまれた。まだ一日ある。熱もないし、まあなんとかなるだろうとその日安静にしていたが、回復傾向は生まれなかった。

そして当日、どうか朝には回復しているようにと祈りながら目覚めると、咳はかなり収まっていた。だが、体がだるい。いわゆる病み上がりのぼーっとした感じ。収録は午後2時からだったので、午前中はちょっと横になっていようとベッドに滑り込んだ。気がつくとすでに昼近くになっていた。一か月近くも準備期間があって、体調管理もしてきたつもりなのに、なぜピンポイントで具合が悪くなってしまったのか。さすが自分だ、またまたやってくれるじゃないかと呆れた。今日ネットで調べてみたら、風邪をひいているときにインフルエンザの注射をすると、風邪が悪化する例もあるらしい。

ともあれ収録は無事? いや、なんとか終えた。練習中も大変だったが、本番はもっと体力が必要だった。しゃべっている途中、とてもお腹がすいてきて、調整室に居たディレクターKさんにバレた。NHKの高性能マイクは、私の些細な「音」を聞き逃さなかった。「中川さん、すみません、今お腹が鳴ったので、もう一度お願いします」と、笑顔とともに注意された。そんなことが二度あった。しかし本当はお腹は五度鳴った。

その他にも途中でつっかえるし、深夜放送にふさわしく、ムーディーに、ソフトに、大人に、魅惑的に話そうとしたのに、その真逆となるなど、あれほど練習したのに、なんだったのかと愕然としたが、Kさんは喜んでくれたようだった。

ディレクターのKさんとは、すでにメールや電話で何回かやり取りはしていたが、お会いするのは初めてだった。私の娘よりも少し年上ぐらいの若い女性だろうか。女性の歳はよくわからない。私の本に興味を持ってくださるような方だから、きっと個性的な方に違いないと予想していたら、予想を上回っていた。どう上回っていたかの詳述は避けるが、別れ際のKさんの対応を、私はきっといつまでも忘れない。

収録を終えた私は、NHK放送センターの西口玄関でKさんに挨拶をして別れ、西口玄関前に広がる駐車スペースの奥に止めた車まで歩いた。そして、カバンを後部座席に置き、コートを脱いで、飲みかけのペットボトルのお茶をゴックンと飲んでから、すぐに車を出すのはやめて、大きなため息をつき、やれやれと肩の大きな荷を下ろした気分で、しばしボーッとして、それからおもむろに車をスタートさせ、順路に従い出口に向かった。すると西口玄関口で、カラフルなブラウスを着たKさんが、こちらに向かってニコニコしながら大きく手を振っている。もうとっくにお別れしたはずなのに。わざわざ待っていてくれたようだ。私もすぐに窓を開けて手を振った。仕事の後にニコニコ笑っている仕事の人と、手を振ってお別れをしたのは、生まれて初めてのことだった。

そのとき私は中原中也の詩の一節を思い出した。

さよなら、さよなら! 

あなたはそんなにパラソルを振る

僕にはあんまり眩しいのです

あなたはそんなにパラソルを振る

私は漱石の手紙から私だけの漱石を見つけたつもりだ。

そんな私を、今度はKさんが見つけてくれた。

帰途、渋滞気味の井の頭通りで、ふと私は胸にぶら下がる勲章に気づいた。

見える人にしか見えない勲章。街中を彩り始めたクリスマスのライティングよりはささやかだけれど、私には、はるかに眩く暖かな煌めきを放っていた。

※私の放送は、12月27日、28日、29日の23時15分以降の23時台にあります。

番組名、コーナー名、各回の演題は以下の通りです。

NHKラジオ 「ラジオ深夜便」・ないとエッセー

総合タイトル「手紙で出会う漱石」

12月27日 第1回 「手紙を読めば漱石がわかる」

12月28日 第2回 「手紙から浮き上がる漱石の素顔」

12月29日 第3回 「手紙から見る漱石の人生論」

いずれも、23時15分以降の23時台です。

年末のお忙しいときですが、よかったら聴いてみてください。


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2017-02-27

下を見ろ! おれの下には俺がいる

村西とおるという一つの事件を、どう見るか。そんなしかつめらしいいい方では、なにもわかないのが、村西とおるだろう。村西とおるはナイスですねーと一言いえば、それがすべてという気もするけれど、やはり、もう少しだけ詳しく考えてみたくなる。

どうして、ナイスなのか。

人のウソを、私のウソを、すべてはぎとって全裸にしてくれるからだ。

「全裸監督」村西とおるは、何一つ装飾がなく偽装がない。

ぼくらに毎回生真面目な速球を投げ込む。

そしてその速球には、どういうわけか、品位、品格が備わる。作法の先生より百倍上品だ。

「全裸監督」は貴公子としての礼節を貫き、雄々しき騎士の如くに偽りの巨大な風車に挑み、破廉恥の限りを尽くす。

この孤独の戦いを戦い抜く者、村西とおるの憂いが、恐ろしく透明であることに気づく者は幸いである。

しかもこの堂々たる勇者は、意外にも、いや正しく反省心が強い。

自らを決して勇者とは思わず、クズと断じる。

ゆえに、この稀有な名言が生まれる。

“人生、死んでしまいたいときには下を見ろ!おれがいる”

人は、村西とおるが捨ててきたものを、すべて拾い上げると幸福になれると信じている。けれど、この求道者は、それを選ばなかった。

すべての破廉恥をし尽くした先に残る高貴な幸いこそが、高貴の真実なのだろうか。

かといって村西とおるが素朴なエピキュリアンだとは思いにくい。

彼のまわりにはいつも複雑な憂愁の風が吹き抜ける。

村西とおるは独り、知の宇宙旅行に出かけたまま帰還しない。

この潔さ、清冽さは、クズであろうか。

クズはほかに山ほどいる。

したがって村西とおるの名言は、実は万人にとっての名言ではなく、自らをいたわる懺悔の辞。決して村西とおるは私の下にいない。

村西とおるの名言をもってしても、彼岸への憧れを断ち切れない人に、できることなら私の不徹底な人生を世にさらけ出し、こう伝えてみたい欲望にかられる。

それでも死にたくなったら下を見ろ! おれの下には俺がいる


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2017-05-5

忘れようとして思い出せない

わが鳳啓助師匠の、「忘れようとして思い出せない」「ポテチン」は、思い出さずとも思い出される印象深い名言である。

「ポテチン」こそ放っておけない謎のことばだけれど、今回は見逃して、「忘れようとして思い出せない」について考えてみたい。

忘れようとすることなど、思い出したくもないのだから、思い出せなくなれば幸いである。しかし、忘れようとしたことが思い出せなくなる頭脳の性質が生じてくると、忘れまいとしたことも思い出せなくなる可能性も生じる。いずれにせよ、何を忘れたかも忘れてしまうようになれば、とてもさっぱりして常に新鮮で楽しい気がする一方、自分をどうつかまえておけばよいのか、自分が自分から逃げていってしまうようで心配だ。

俳優のモーガン・フリーマンがナビゲーターを務めるEテレの科学番組があって時々見るのだが、先日は「自意識」についてやっていた。脳科学の分野のことだ。人間が自分を自分だと意識できるようになるのは、一歳すぎぐらいかららしい。鏡に映る自分の姿を見て、自分だと認識するようになるのが、自意識の始まりだという。それ以前は、自分が鏡に映っていても、自分だとはわからない。

こうした自意識の形成は、記憶力と大きくかかわっているようだ。というか、記憶こそが自意識といってもいいのかもしれない。自分が自分であり続けるという感覚、自意識の持続性は、まぎれもなく記憶力のなせるわざだ。

今から半世紀近くも前、小生幼少のみぎり、「チロリン村とくるみの木」や「ケペル先生こんにちは」を、わくわくしながら見た感覚が今でも鮮明に蘇り、あの頃の物語への憧憬や素朴な好奇心のありようは、半世紀を隔てた今と、ほとんど変わらない気がして、自分は五十年たっても、ある意味ほとんど一歩も動いていないのではと感心したり、がっかりしたりするのは、記憶力のせいであるとしかいいようがない。

で、思うのだが、この記憶というやつ。いったいどこに、どのようにしまいこまれているのだろうか。「記憶とは何か」という、岩波新書を読んでみた。これもまた数十年前の古い本だから、その後進歩した脳科学の成果がほとんど収められていないのだが、人間に備わっている記憶力のメカニズムについては、その後もほとんど解明されていないというのが、実際のところらしい。

「記憶とは何か」という本や最近の脳科学の成果の断片に触れると、いろいろ驚かされる。人間が感覚器官を使って、何かを認識するときの脳の働きに関しては、相当なことがわかってきたようだ。グーグルかどこかが、頭の中で考えただけで、文字が入力できる装置を開発中とのことだが、それもきっと最近の脳科学の成果によって生まれつつある技術の一つだろう。

例えば、「あ」という文字を認識するとき、脳の何か所かの部分が、いつも同じように興奮するということがわかってきた。「あ」の字の興奮パターンがある。ということは、脳の興奮パターンを読み取ることのできる普及型センサーができれば、文字を思い浮かべただけで、どんどん文字が入力できるようになるという寸法だ。きっと実験段階ではすでに成功しているのだろう。

また京大ではこんな研究も進んでいるという。まず被験者に、単純図形をたくさん見せる。○とか×とから+とか-とか。それを数千だったか数万だったか見せて、その図形を見たときの脳の興奮パターンをデータ化する。そして、今度はそのデータを利用して、被験者が見ているものを、映像化するという実験だ。試みに、「neuron」という文字を被験者に見させた。すると、脳の各所が興奮した。その興奮のパターンを、すでに蓄積した興奮パターンのデータをもとに映像化してみると、おぼろげではあるが、不鮮明ではあるけれど、確かに「neuron」の文字がモニター上に映し出されたのだった。このことが何を意味するかというと、被験者が就寝中に夢を見ているとき、その映像をモニターで見ることが可能になるということだ。そして、起きているときも、考えていることが全部モニターに映し出されてしまうことにもなる。

それほど脳の中のことはわかってきている。けれど、やはりわらかないのは記憶についてだ。「チロリン村とくるみの木」や「ケペル先生こんにちは」を見たときの映像の記憶や思いの記憶は、どこにどのようにしてしまいこまれているのだろう。印刷物のようにプリントされている部分、ハードディスクのように情報が高密度に信号化されている部分が、脳のどこかにあるのだろうか。あるとしても、それはどのようなメカニズムによって記憶が定着され、持続し、また、意識の表面に呼び出されるのだろうか。

このあたりのことを、わかりやすく説明してくださる方、サリトテの読者のみなさんの中に、いらっしゃいませんか。

年齢にふさわしく、このところ記憶力の低下が著しい、などといったレベルではなくなってきている。忘れたことを忘れてしまって、なかったことになってしまうケースが頻発している、らしい。らしい、というのは、本人にはなかったことなのだから、何の戸惑いもないのだが、周囲からは、それはなかったことではなく、忘れたことと知らされるからである。そんな小生の現状に対して、周囲はざわつき始めている。

愛すべき周囲、隣人たちのために、記憶の確保、再生に今後も努めようとおもうのだが、さて、どうなりますか。できうれば、思い出したいことだけすぐに思い出すことができ、忘れたいことは思い出せなくなる好都合な記憶システムを、この貧しい頭脳に構築したいと思うのだけれど、そんなことって可能だろうか、と鳳啓助師匠に尋ねれば、返る言葉はたぶん「ポテチン」。この語に記憶のヒミツが隠されている気がしないでもない。


37

2017-06-25

匣の中のペット 1

 郊外電車の急行の止まらない駅の近くに、ありふれた小さな居酒屋があった。夜な夜な近所の常連が集まり、ひいきの野球チームが負けたとか勝ったとか、誰がパチンコで儲けたとか、愚にもつかない世間話で盛り上がり、各々その日の憂さを少しばかり晴らしていた。

 そんな居酒屋である夜、いつもとはいささか趣を異にする珍妙な話が交わされ、いつになく満座が新鮮に盛り上がった。

 会社員の越野が店に入ってきた。すでに常連の二人がいて、一人はウェッブライターを始めたばかりの裕美で、もう一人は地元の土地成金の薮本だった。

「よう、祐美ちゃん。来てたのか。楽しそうだね。いい男でもできたのかい」

「越野さんこそ、ご機嫌じゃないですか。またお金が入っちゃったんですか」

 越野は普通のサラリーマンなのに、株や馬券や宝くじやロトなど、土地成金の薮本よりお金の話が好きだった。 

 越野は、マフラーとコートを店の壁のフックに掛けて座るなり、

「いやいや、お金はそうそう入らない。それより、駅の西側の、夜になると誰も通らないガード下で…」

 薮本が越野をさえぎった。

「けったいなおっさんが…」

「そうそう、藪ちゃん、知ってたんだ」

「ぼくは地元の事情通ですからね、何だって知ってますよ。昨日駅前の郵便局長の奥さんが、カラオケで何を歌ったかも」

 裕美が不満そうに割って入った。

「私を置いていかないでくださいよ、ガード下のけったいなおじさんって、何ですかそれ」

 越野が裕美に説明し始めた。薮本は知っていたので、黙ってにやにやしながら、芋焼酎をロックで飲みながら聞いていた。

「それがね、裕美ちゃん、そのおっさん、変わったもの売ってたんだ。いや正確には売ってない」

「えっ、売ってるんですか売ってないんですか。まあ、いいや。ともかく、それはなんですか」

「ペット」

「普通じゃないですか、それじゃ。どうせ大きくならないウサギかカメかヒヨコでしょ。みんなすぐに大きくなるのに」

「いや、そんなもんじゃなくて、青いきれいな箱に入ってるんだ」

「ケースつきのペットですね」

「まあ、そうなんだけど」

「まあ、というのは」

「どんなペットか、姿が見えない」

「えっ、ペットの種類もわかないんですか。なにそれ。どういうこと」

「二十センチ四方の木箱には、迎え合わせに、直径十センチぐらいの丸い穴が空いてて、その中に入っているというんだけど」

「それって、手品用品の販売でしょ」

「いやいや、そうじゃなくて、ただペットが入っているというだけなんだ」

「いくらですか」

「いや、値段はない」

「じゃ、どうしろというんですか」

「それがわからないんだ。持ってけとも、持っていくなともいわない」

「うーん、困った人ですね、そのおっさん」

「僕も困ったよ。でも、値段がないっていのうが怪しい。逆にお金の臭いがしないか」

「あら、またお金ですね。それもそうですね。高級時計を道であげるっていって近づいて来る詐欺もありますからね。それはともかく、ペットがいるというのなら、何が入っているんですか。鳴き声とか、物音とか、気配とか、匂いとか、ないんですか」

「それが一切ない」

「あはは。それじゃやっぱり、何も入っていないということじゃないですか」

「まあ、そうともいえるけど、そうともいえない」

「どうしてですか」

「僕も彼にそういったら、気の毒そうな顔して僕を見て、じゃ、手を入れてみなさいっていうんだ。あのガード下の暗がりだから、箱の中がよく見えなくて、なんだか薄気味悪いな、何かがいて噛まれでもしたら、いやだなと思いながら、恐る恐る手を入れてみたんだ」

「そしたら」

「なんと」

「なんと」

「何もいない」

「なんだ。やっぱりそうですか。からかわれたというわけですね」

「僕もそう思って、彼にくってかかったんだ。ひどいじゃないか、人を騙すなんて、といったら、私は一つも騙してなんかいやしません。このペットは、つかもうとすると逃げるんです。つかもうとしなければ、この箱の中か、飼い主のそばにいつもいて、大人しくしていますよ、とぬかしやがる」

「そばにいるって、じゃ、見えるんじゃない、その人には」

「僕もそう突っ込んだら、それが見えないっていうんだ」

「そうか、それじゃあ、ものすごい速さで動いているからですか」

「いや、じっとしているんだけど、見ようとすると見えないらしい」

「もう、お手上げですね。恥ずかしがり屋なんだ」

「そう、ものすごく恥ずかしがりやなんだっていってた、おっさん」

「わかった。それじゃ、自分のそのペットは、そういうわけで、見えないとしましょう。でも、他人が見れば見えるですね」

「見えない」

「どうして」

「他人のペットは、絶対に見えないんだって」

「それなら、彼が持っているペットは、誰のペットなの」

「それを持ち帰った人のになるんだって」

「まあ、いいや。そういうペットがいるとしましょう。それなら、そのペットは何の役に立つんですか」

「僕もそれを聞いた。何の役にでも立つそうだよ」

「たとえば何の」

「それはなかなかわからないという」

「わからないのに役に立つ?」

「そう、そう」

「なんの役に立つのかわからないのに、役に立ったとはいえないじゃないですか」

「まあ、そうともいえるけど、そうともいえない」

「それで納得したんですか、越野さん」

「うん、できないから、聞いたんだ。ちょっとわかりにくいから、具体例で説明してほしいって」

「そうそう」

「そうしたら、あなたが自転車に乗っていて、ドブにはまって倒れて怪我をしたとしますね。そのときに、ドブにはまるように悪戯するのがそのペットなんです、というんだ」

「そんなペット、ロクなもんじゃない」

「そう僕も、ロクなもんじゃないといったら、おっさん、待ってください、あなたはドブにはまったお陰で、次の角で曲がるタイミングがズレて、ダンプカーにひかれなくてすむんですよ。だから、ペットのお陰なんです。役に立つんです、といううんだ」

「そりゃ、ドブにはまらないときに何が起こるかわからないから、なんとでもいえますよね」

「そう、僕もそういった。そしたら、ダンプにひかれるということが、実際に起こってみないと、このペットの存在がわかないようでは、困りますよというから」

「というから?」

「まあ、確かに、それもそうだね、と答えた」

「なあんだ、丸め込まれたんだ、ダメだな越野さん、もっと突っ込まなきゃ」

 裕美に責められている越野に加勢しようと、そこまで黙っていた薮本が口を開いた。

「ぼくもそんな感じでおっさんに説き伏せられてしまいそうになったから、こう切り返した。それじゃ、お守りといっしょだね。交通安全のお札買って、その帰りに事故に遭ったら、大事故にならなかったのはお札のお陰、という方便と同じだって」

「うんうん、いいですね、薮本さん」

「でもね、また逃げられた。お守りとはまったく違うんです。箱の中のペットには命があるんです、というんだ。それじゃ、飯も食うし酒も飲むの、と聞いたら、それはわからないけれど、栄養は必要みたいです、といってた」

「栄養って、なんですか」

「それもわからないらしいんだ。あるときはかわいいと思うことが栄養になり、あるときはこいつめと思うことが栄養になるという」

「まるで子供みたい」

「ぼくもそういったら、似ているかもしれませんと、当然の事実かのようにいうから、まいったね」

 雲をつかむような話にいらいらし始めた裕美が提案した。

「このままじゃ埒があかないから、そのおじさんからペットをもらってきて、誰かがちょっと育ててみたらいいじゃないですか。そしたら何かわかるかもしれない」

越野も薮本もそれがいいと頷いた。そして越野がいった。

「裕美ちゃん、まず君からどうだい。その後でぼくたちもやってみるから。この前彼と別れたばかりで、退屈しているんでしょ」

 するとレモンサワーを飲み干した裕美が、はあーとため息をついてから答えた。

「相変わらず越野さん失礼ですね。でも、面白いから、ちょっと飼ってみようかしら。記事のネタにもなるかもしれないし。今度その結果を報告しますよ」

 この種の約束は、その日の酒興に供するだけで、実際に履行されることなどないのがふつうだが、裕美には失恋の痛手を紛らわすために、好都合な遊び道具になりそうな予感がした。

(つづく)


38

2017-08-5

匣の中のペット 2

《第一回のあらすじ 郊外電車の急行が止まらない駅近くの居酒屋である夜、常連客の祐美(若いウェッブライター)、越野(ギャンブル好きのサラリーマン)、薮本(土地成金)が、店の近くのガード下で奇妙な空匣を並べているおっさんの話を始めた。匣の中には眼には見えないペットがいて、誰でもタダで持って帰ってよいという。そこで祐美が、その匣をもらい受けてペットを育ててみると宣言し、その夜は別れた。》

  

二   

     

 それから数日後の晩、また三人が集まった。越野と薮本が先着し、最後に店に入ってきたのは裕美だった。まず越野が裕美の異変に気づいた。

「裕美ちゃん、どうしたの」

「どうしたのって、どうもしませんけど」

「いや、なんかちょっと楽しそうだし。それから、寝違えでもしたの。首痛いの。頭がちょっと傾いてない」

「そうですか。そんなには楽しくなくもないけど。首は痛くないですよ。私の心の重心はいつも定まらないから、どっちかに傾いているんですよ、きっと。そんなことより、聞きたくないですか、例のガード下のおっさんのこと」

 越野と薮本は、ちょっと驚いた顔をした。裕美の発言が意外だったからだ。ガード下のおっさんの話は、すでに前回の晩で消費され、終わっていたものと思っていた。

 薮本が興味深そうに聞いた。

「えっ、裕美ちゃん、行ったの、あそこに。それで、まさかあの匣を」

「もらいましたよ。だって約束したじゃないですか、私がためしてみるって」

「結局お金要求されなかった」

「ええ、まったく。その代り、一つだけ約束を守ってほしい、といわれました」

「やっぱりね、何かあるんだ。怪しいな。信用金庫の連中も、いつもいい話があるっていってくるけど、必ずなんか面倒な条件がついてくるんだよね」

「担保がほしいとか、そんなんじゃないですよ。ただ一つ、匣の中のペットを大事にしてやってほしいといってました」

 越野があきれたように笑いながらいった。

「大事にって、影も形もないのに、どうしろっていうんだ」

「それはそうなんですけど、大事にすることにお金はかからないし、わかりましたと答えて、青い匣を一つもらって帰りました」

「うん、それで」

「それで家に帰ってご飯を食べてから、紙袋に入れてくれたその匣を取り出して、テーブルの上に置きました。そしたらその瞬間にミシッて家がきしむ音がしたんです」

越野も薮本も異口同音に「エッ」と声を上げた。裕美がニヤッと笑っていった。

「残念でした。違いますよ、地震ですよ。昨日震度三ぐらいのちょっと大きいのあったでしょ、あれですよ」

 越野が少し苛ついて質問した。

「で、裕美ちゃん、結局ペットはいたの、いないの」

「まあ、越野さん、慌てないで。夜はまだ長いんですから、じっくり聞いてくださいよ」

「じっくりもいいけど、オチはちゃんとあるんだろうね」

「オチねぇ。あるような、ないような。まあ、越野さんが競馬で超大穴当ててひっくり返るような、そんな衝撃的なありえないオチは、ないですけどね」

「ないのか」

「じゃ、やめときましょうか」

「いや、ごめん、ごめん、聞かせてもらいます」

「そうです、ペットも私のことも、大事にしなくちゃ。で、テーブルの上の置いたとたんミシッと来たものだから、最近地震が多いとはいえ、なんかいるのかなーっていう感じがしてきたりもしたんです。そこで恐る恐る匣の左右に開いている丸い穴に、両手をゆっくり突っ込みました」

「ビビビッと来た」

「そんなもの来るわけないじゃないですか、ただの匣ですよ」

「なんだ、やっぱり。それがオチか」

「だから、慌てないでくださいって。ビビビッとは来なかったけれど、両手を近づけるにつれて、少し奇妙な感じがしてきたんです」

「奇妙な!」と、カウンター内のマスターが、いつになく食いついてきた。

「それが、両手で何かを挟み込むように近づけてても、右手が左手と、左手が右手と出合わないんです」

「ホラホラ、来ましたよ。祐美ちゃん魔法劇場の始まりですよ」と、越野が茶化したが、その言い方には、おびえた様子も含まれていることを、誰もが感じた。

 薮本が素朴な質問を祐美になげかけた。

「えっ、でも祐美ちゃん。縦横高さ、たった三十センチぐらいの匣でしょ。なのに、手が手に出合わないというのは、どういうこと。右手も左手も、三十センチ突っ込めば、逆の穴から出てしまうわけじゃない。それが出合わないというのは、匣の中で手が消えてしまうの。それとも、想像もできない異次元空間が、匣の中で広がっているのかな」

「そんな異界はないです。正確にいうと、三十センチ四方の狭い空間ですから、両手はもちろん出合えます」

「なんだ、ウソか」と、越野ががっかりしたような、安心したように。すると祐美は、落ち着きはらって話を続けた。

「いいえ、まるっきりウソというわけではないんですよ、越野さん。右手で左手を探そうとすると、いつもの感覚より五センチぐらいかな、ズレるんでよ。ここだと思って握ろうとすると、失敗するんです。五センチぐらい届かない。へんなんですよね。宇宙が広がっているわけじゃないけど、なんか、見た目より匣の中の空間が広いっていうか、のびている気がするんです」

「それは奇っ快いですね」と薮本。

「不思議だねー」とマスター。そして越野は、さらに怯えながら、怯えを隠すように乱暴に、「そんなワケないよ、酒場の話としては面白いけど」

 祐美は笑いながら返した。

「酒場の話ですよ、越野さん、そうビビらないで。ビビらせついでにもう一つけ加えると、匣の中に手を入れ続けていたら、少しずつあったかい感じが両手の平に伝ってきたんです」

 薮本が真面目な顔をして尋ねた。

「それは、両手を近づけたために、体温が感じられたせいじゃなくて」

「確かに私もそれを思いました。それしかないですからね。でもね、しばらくそうしているうちに、あたたかさだけでなく、まるでウサギの毛をさわっているような、ふんわりとした手触りも両手に伝わってきたんです」

 越野が訝しそうに割って入る。

「気のせいでしょ、それって」

「エッ、気のせいって今おっしゃいました、越野さん?」

 越野は祐美の意外な剣幕に気圧されて、すぐに謝った。

「すみません」

「そりゃ気のせいですよ。そんなこといったら、この世は気のせいばかりでしょ。愚にもつかないラブソングいくつも無駄に創って、明日の事なんにも考えないあんなクズを、ちょっとでもいいなんて思った瞬間があったのも、結婚したいと思ったのも、みんな何から何まで気のせいです。だけど、大した仕掛けもなく、無駄なラブソングを何曲も聴いたわけでもなく、あんな空匣一つで、気のせいが起きたことが、私には面白いんです」

「そうだね」とそっけなく越野。

「えっ、そうだねってどういう意味ですか、越野さん。私の元カレがクズだったということですか。私にはクズをクズっていう権利と資格がありますが、越野さんにはありません」

「いや、違うんだ。僕は世の中すべて気のせい、という意見に賛成しただけだよ。仮想通貨や株が儲かるかもしれないというのも、最近気のせいのような気がしているから」

「今頃気がついたんですか。取引手数料で稼いでいる人たちが、あれがいい、これがいいというのを鵜呑みにして、何回も何回も株買って、手数料を払っているのって滑稽じゃないですか。儲かるかもしれないという気にさせて騙されているだけでしょ。仮想通貨も怪しさ満載でしょ。株やいろんなものの投資で儲ける秘策とか確率とかいうけれど、投資する人、株買う人のすべてが儲かるわけじゃないでしょ。儲かる人がいれば必ず損する人がいる。それが現実ですよね。それに投資とか株ってなんですか。ワケわかんない。売り買いのタイミングで、何十億、何百億っていう利益が出てしまうことがあるのは、いいことなんですか。私の時給九百八十円ですよ。半年ぐらいやって実績上げると、九百九十円になります。投資や株なんてバブルでしょ。みんなが働くことやめて、そんなものにすがりついて、世の中は進むんですか。進みっこないじゃないですか。自分が信じる企業に投資して利益が出るならまだしも、投資や株やっている人は、だいたいどんな商品でも株でも買うんですよね、上がりさえすれば。そんなことで、日本は世界は、ほんとうに大丈夫なんですか。本当に国や世界をよくしてくれる企業を見極めて投資して、利益を得るのが、投資家の役目なんじゃないですか。そうじゃなければ、単なるバクチ打ち。投資や株は経済や社会や政治に影響力大だから、そういう意味では、パチンコや競馬のバクチ打ちより、タチが悪いですよね」

「はい、ご説ごもっともです」と、越野はもうかた無しのポーズで祐美の勢いに抗わないことにした。土地成金の薮本は、祐美ちゃんは若い、青い、タチの悪い連中が実権を握る世の中で、どうやって自分を守るかが問題で、理想論では解決できないのが現実というものさ、結局必要なのは、ある程度のお金、と伝えたかったが止めた。祐美が口を尖らせて続けた。

「儲け話や証券アナリストの適当な解説はずいぶん信用するくせに、私が匣の中にペットがいる、という話は信用しないというのは、おかしいじゃないですか。金融商品や株は確かに物体はあるけれど、それは、目に見えない怪しい信用というものの代わりでしょ。あの匣だって、ペットがいるかもしれないっていう思いを生みだしてくれるんだから、どっちだって同じじゃないですか」

 薮本がなだめるようにいった。

「裕美ちゃん、いいこというね、僕もそう思うよ。土地の値もどんどん下がっていくし、不動産神話が崩壊して、お金についてのいろんなことが、気のせいだった気がしてならない。また、大きな天変地異があれば、僕の土地も無価値になって、僕はきっとすぐにすっからかんになってしまう。つまり僕には本来何もないんだという気になることが、最近よくあるんだ。それより祐美ちゃんの匣の中のほうが、確かなものがいるような気がしないでもない」

「ですよね。だから人間はみんな気のせいを拠り所にして動いているんです。大した根拠もないことを、ずいぶん真面目に信じてる。ウェッブライターの仕事も、まことしやかなウソ、ウソを隠すための本当を大量生産して、アクセス回数増やすだけの仕事みたいです」

 マスターが、少し固くなった空気をほぐすために、話を戻した。

「で、祐美ちゃん、ペットはどうなったの」

「そうです、ペットです。動いたんです、私の手の中で。それで私はそのペットを掬い取るようにして匣の外に出し、声を聞いてみました」

「えっ、声まで聞こえたの」

「声を聞いてみたら、湧水の湧き出し口のコポコポという音がかすかに聞こえるような聞こえないような」

「ゴボゴボですか」

「いえ、コポコポってかわいい感じです。でも、鶯が鳴き始めは下手でも、そのうちうまくホーホケキョって鳴けるようになるように、やがて意味のある言葉に聞こえてきたんです」

「なんだって」

「サムイはアツイ、パッピーはアンハッピー、ハヤイはオソイ、ダイスキはダイキライ…」

「なんだ、それ」

「わかりませんっ。とにかく、反対のことばかり言い続けていました。でも、何かを私に伝えたいっていう感じで、もどかしいっていう感じのいい方でした」

 一同は、祐美の話に引き込まれながらも、もちろん全く信じるはずもなかったが、座興としてはまんざらでもないと思われた。この店の下手な酒の肴よりは気が利いた肴になりそうだとマスターも含めて全員が思ったので、祐美が持ちかけた謎を、みんなで解き明かすゲーム感覚の努力は続けられた。

越野が質問した。

「それで、祐美ちゃん、そのペット、臭いなんかしたりするの」

「はい、臭いもかいでみました。これも不思議でした。まったく何の臭いもしないんです。と思ったら、同時に、いろんな臭いがしてきたりして。大自然の中で、ほんとうに音のない静けさを感じたことはありませんか。風の中森の中や雪国の朝なんか。あの感じに似ています。あまりに静かだと、うるさいって感じることありませんか。静かなのにうるさい、無臭なのにいろいろな臭いが…」

 越野がまたチャチャを入れた。

「祐美ちゃん、大丈夫、飲みすぎ? 飲みが足らない?」

 マスターと薮本が、越野を軽くにらんだ。祐美は越野の声が聞こえなかったのか無視したのか、そのまま話を続けた。

「それで、今日は皆さんにお披露目しようと思いまして、実は連れてきちゃったんですよ」

 マスターが唖然としながら、恐る恐る聞いた。

「祐美ちゃん、もしかして、店に入ってきたとき、心なしか首を左に傾げていたのは、肩に?」

「はい、右肩にペットを乗せて連れてきました」

 祐美は晴れやかに答え、首をひねって右肩を見た。一同も見た。しかし、もちろん祐美の右肩に、何かを見つける者はいなかった。


39

2017-08-25

匣の中のペット 3



《前回までのあらすじ 郊外電車の急行が止まらない駅近くの居酒屋の常連、祐美(若いウェッブライター)、越野(ギャンブル好きのサラリーマン)、薮本(土地成金)がある夜、近くのガード下で奇妙な空匣を並べているおっさんの話を始めた。匣の中には眼には見えないペットがいて、タダで持って帰ってよいという。そこで祐美が、その匣をもらい受けてペットを育ててみると宣言し、その夜は別れた。そして、数日後、祐美が酒場に現れ、箱をもらいペットを育てていると報告した。姿は見えないが確かにいるらしく、言葉もしゃべるという。疑心暗鬼の他の常連を尻目に祐美はそのペットとの不思議な体験を次々に語る。しかも、その晩そのペットを肩に乗せて来たと伝えたのだった。無論誰の目にも姿は見えないから、他の常連客は戸惑うばかりだった。》

微妙な空気に包まれた店内で、独り祐美だけが落ち着き払っていた。マスターも他の常連も、祐美とペットをどう扱えばいいのか、適切な答えを見つけあぐねていた。祐美がどこまで冗談のつもりか本気のつもりか判断するには、材料が少な過ぎた。そこでマスターが、あえて軽快に質問して、糸口を探すことにした。

「祐美ちゃん、ペットの名前は」

 祐美は躊躇なく答えた。

「MOSS。ガード下のコンクリート壁面に、苔が生えているから、それにちなんでM・O・S・S=MOSSにしたんです。女か男かわからないけど」

 周囲がほっとした。祐美への対処の入り口が見つかった気がしたからだ。

 早速越野が、その入口から侵入しようとした。

「祐美ちゃん、いいネーミングだね」

「クールでしょう。苔って水気がないと、ほとんど枯れて死んでしまったのかと思うほど、アウトな感じなんです。ガード下のコンクリートの壁の苔、見たことあるでしょ。下手な痛い落書きされても、雨が降らないともう、落書きも見えなくなるぐらい、ダメダメになってしまって。でも、雨が降ったりして水分が与えられると、鮮やかな緑になって劇的に生き返るでしょ。死んでいるのか生きているのか、生きているのか死んでいるのか、まあ、ほんとわからない不思議な生き物。死にそうなときには生きようとしないから、いいのかな。MOSSはそんな苔みたいな感じのとってもいい子なんです」

 入口に間違いはなさそうだと思った薮本だが、やはりその室内の様子はさっぱりわからないので、さらに祐美の心の小部屋の奥へと踏み入ろうとした。

「MOSSは、何食べるの。ペットフード」

 一同がまた固まった。まだ、そこまで不用意に入りこむのは冒険じゃないかと思ったからだ。祐美の表情にみんなの視線が注がれた。

 祐美が答えた。

「ペットフードは食べないんですよ。餌は人が食べるおいしいものなら、なんでも」

 マスターはニヤッと笑ってから、目を泳がせた。越野はひきつり笑いをし、薮本は目を丸くした。入口は正しかったようだが、その室内の様子は、誰もが想像し得ない混沌としたもののようだった。

 祐美は嬉々として話し始めた。

「おいしいものっていっても、本当にあげるわけじゃなくて、イメージ。浅草鮒金の佃煮の川えび、しそ昆布、まぐろ角煮とか、麻布青野の抹茶ぷるるんとか、自分が実際に食べたことのあるものを思い出して、おいしかったなーとイメージしながら、心をこめてあげるんです。そうすると、とっても喜ぶ顔が見えるんです。もちろん家事えもんのマクドナルド風のチキンナゲットでも、自分で作っておいしかったなと思ったやつなら、それでいいんです、安くても高くても。とにかく、心を尽すってことが大事で、いくら高いものを想像してあげても、心がこもっていないと、すぐにヘソ曲げちゃって始末が悪いんです」

 越野も薮本もマスターも、もうペットの実在の有無を解明することは、無意味だと諦め、祐美が飼い始めたペットについての詳しい性質を解明する方向にしか進めない雰囲気を受け入れたのだった。

 薮本が尋ねた。

「それで祐美ちゃん、おっさんは、大事にするという条件で、祐美ちゃんに匣の中のペットを譲ってくれたんだよね」

「そうです、そうです」

「祐美ちゃんは、今、どうやって大事にしているの」

「まあ、そういうわけで、餌あげるのも一苦労で、真心こめておいしいものあげてるんですけど、それがなかなかね、難しんですよ。桑原さんには約束したものの、いざ飼い始めると、どうすることが大事にすることなのか、さっぱりわからなくて困ってるっていうのが実情です」

 マスターが皿洗いの手を休めて尋ねた。

「桑原さんっていうの、あのおっさんの名前は」

「たぶん。わからないけど、そんな気がしたから、そう呼ぶことにしたんです」

「クワバラ、クラバラって、なんかあったよね」と薮本。

「雷除けのおまじないですよ」と、越野が入ってきて、「天のイカズチを受けないように、気をつけないとね。あまり世迷言を言いすぎて」と諌めるように言ったものの、越野が一番祐美の話にのめりこんでいた。祐美の話にどんどん引きずられていく自分が怖くなり、なんとか歯止めをかけようとしたのだった。しかし、祐美は越野を無視して、とどまる気配を見せない。

「まあ、MOSSにとってどんなことが大事されることなのかよくわからないから、私はとりあえず、できるだけ一緒にいてあげるようにしたんです」

 祐美の話はしばらく続いた。

「寝坊してすっごく慌てているときはダメだけど、最初は朝の忙しいときも、二分でも三分でも、匣から出して遊んであげたんです。そしたら、とっても喜ぶんです。それまでは一日中ずっと匣の中だったから、すっごく喜んでいる雰囲気が伝わってきて、私までなんだか楽しくなっちゃって。ところがそんなことが続くと、朝私だって結構忙しいのに、頑張って相手してあげているのに、外に出しても全然嬉しそうじゃなくなってきて。嬉しそうな素振りはするんですけど、心から嬉しそうには見えなくて。そのうち露骨につまらなそうな顔をするようになって。物足りないって感じで。だから今度は仕方なく、仕事から戻ってクタクタなときも、できるだけ外に出して一緒に遊んであげるようにしたんです。そうしたら、また嬉しそうで。私も一日の疲れが取れるぐらい嬉しくなって。でも、それが続くとまたMOSS、つまらなそうな顔になって。だから、また次のサービスを考えるようになって、そのサービスも続くとまた…。その繰り返しになってしまったんですよ。この子の満足って何よって考えるようになりました。こっちが大事にすればするほど、足りないっていう気持ちがMOSSの中で育っていくみたいで。ちょうどいいところで止まっていられないのって、文句いいたくなっちゃいました」

 祐美の話が一段落ついたようなので、薮本が尋ねた。

「そうか。いよいよ、いつも一緒、今夜も一緒っていうことになってしまったんだ。でも今の話、MOSSは聞いていないの? 気を悪くしたりしないの」

「ええ、大丈夫みたいです。今は越野さんの肩の上に乗って胡坐かいて、私の話をニヤニヤしながら聴いているみたいだから」

越野は酔いがいっぺんに冷めたように驚いて、左右の肩を慌てて確認した。

「おいおい、カンベンしてよ、オレ、実はこういう話、一番弱いんだよ」

 祐美は楽しそうに越野を安心させてから尋ねた。

「越野さん、大丈夫よ、噛みつきはしないから。ねぇ、越野さん、MOSS、どうしてあげたらいいの」

 越野は目を泳がせながらも、ちょっと考えてから、真面目に答えた。

「しつけだよ、しつけ。祐美ちゃんがMOSSをしつけるんじゃなくて、MOSSに自分のしつけ方を教えるんだ。そうしないとかわいそうだよ」

「へぇー、越野さん、なんかよさそうなこというじゃないですか。なんか、よさそう。それで…、もう少し詳しく教えて」

「まあ、俺も苦労したんだよ、こう見えても。ギャンブルはキリがないんだ。もうちょっと、もうちょっとと追いかけているうちに、必ずドーンと落とされる。あのとき、あそこでやめておけばよかったのにというのが、必ずある。でも、追いかけているときには、それがわからない。もっと当たる、もっと勝てる、もっと儲かるって、根拠のない自信に満ち溢れるんだ。すると必ずドーンと外れる、負ける、失うんだよ。MOSS、わかるかい、わかったほうがいいぞ。実はオレ、一人者っていったけど、一昨年まで女房がいたんだ。愛想尽かされて逃げられた。オレの、もうちょっと、もうちょっという気持ちのクセに、うんざりしてしまったそうだよ。オレだってうんざりしているんだけど、もうちょっとっていう気持ちが起きてくると、反省心なんて、すっかりどこかに消えてしまうんだ。恐ろしいぐらいに悲しく前向きになってしまうんだよ。負けが込んだって、信じられないぐらいに楽天的、明るい気持ちで胸が高鳴る。きっと取り返せる、必ず取り返せる。そんなときがあったよなと、まれに経験した成功体験にすがりついて、ワクワクしてくるんだ。ギャンブラーの幸福って、勝ち進んでいるときじゃないんだ。むしろ勝ち続けているときは、つまらない。不安になることさえあるよ。いつか終わりが来るって。まあ、そのとおりなんだけどね。ところが、負けているときは、いつか必ず勝てる、当たるって、吞気で当てにならない夢が、胸一杯に広がって、これがまた楽しいんだな。切ないけど、いや切ないから楽しいのかな。サラ金といつからか仲良しになった大手銀行が、誰よりも頼りになる親友にさえ思えてくるんだよ」

 祐美は目を丸くして聞き惚れ、初めて越野を尊敬したように言った。

「すごい、越野さん、初めて惚れたわ。カッコいい。カッコ悪いから、カッコいい。ごめんなさい、こんな言い方したら、いけないわ、逃げられてしまったんですものね。お気の毒だわ」

 越野は祐美にほめられて、ことのほか嬉しそうに。

「そうだよ、お気の毒だよ、まったく。でも、MOSS、わかったかな。自分をしつけること、大事なんだよ。ニンゲンはすぐに誘惑に負けるんだから。ところで、MOSSは、何? ニンゲン? それともペット? 動物?」

「MOSSは、ニンゲンでも動物でもなさうだけど、ニンゲン的で動物的なような気がするんですよ。そしてペット的」

 マスターが聞いた。

「ねえ、祐美ちゃん、今越野さんの話聞いて、MOSS、どんな顔しているの」

「はい、いい顔してますよ。越野さんを尊敬している顔。でも、奇妙に楽しそう。どうしてだろう。いたずらっぽくほほえんでいます」

 薮本が言った。

「それじゃ、祐美ちゃんと同じ表情だ」

「違いますよ、私は越野さんを、これまでとはまったく違う人として、尊敬し始めているんですから。記念すべき瞬間に遭遇した感動に、うち震えているところです」

 祐美はそういってから、急に眉間にしわを寄せて、聞き耳を立てるそぶりをした。

 マスターが尋ねた。

「祐美ちゃん、どうした?」

「MOSSが何か言っているんです。ちょっと聞いてみますね」

 一同はおし黙った。常連客以外の数名の客の声だけが、しばらくの間店内に聞こえていた。

(つづく)


40

2018-08-5

「さりとて」デビュー、若林 佐江子さんの「ワンツージャンプ」7-25を読んで

へぇー、そうなんだ、東京って、そういうところなんだと、若林さんの文を読ませていただき、東京に生まれ63年住み続けている私は、認識を新たにしました。もちろん、これまでにも、東京生まれではない人にはいくらでも会っているし、東京に住み着いた理由も聞いていますが、若林さんの新鮮な感じ方が、顔の見えにくい東京人の一つの顔を、素直に見せてくだった気がして、なんだか愉快でした。

わたしは東京の辺境、西東京市という、いわゆるベッドタウンに住み続けていますので、東京といっても、いわゆる、渋谷、新宿、銀座という場所とは、かなり趣を異にしています。子供の頃は、あたりは麦畑ばかり、ウドの畑もたくさんありました。麦畑にはひばりの巣があって、いつも麦畑の上にはヒバリがピーピーいいながら飛んでいました。だから、近くにはひばりヶ丘という地名もあります。

ヒバリって、知っていますか。北海道にはいるのですか。ヒバリは麦畑の上でエサ探しをしているのでしょうか。ピーピー鳴きながらエサ探しをした後、麦畑の中の巣に戻りますが、そのとき、ヒバリが降りた場所に行っても、巣は見つかりません。ヒバリは巣よりかなり遠くに降りて、歩いて巣に戻るのです。ぼくの目をあざむくためです。

ぼくは多分、麦畑に降り立ったヒバリの後を、そっと抜き足差し足で追いかけ、巣を突き止めたことはあると思いますが、そこから卵やヒナをとることはしなかったはずです。でも、どういう経緯だったか、ヒバリの赤ちゃんを育てたことはありました。ニワトリのひよこより、かなり大きかった記憶があります。おしりも大きくて、ウンコも大きくて。残念なことに、巣立ちの日を迎えられたかどうかは、覚えていません。

東京といっても、そんな場所で育った私は、大学生になって都心に出るときの気持ちは、若林さんと、それほど違わなかったかもしれません。見るものいろいろ珍しく新しく、大学構内のエレベーターに乗ったとき、エレベーターガールがいないので、大変まごつきました。操作の仕方がわからなかったからです。一人で乗ってしまったときには、慌てて降り、人と一緒に乗るようにしました。

そして、就職するときも、一苦労でした。私は街遊びをする人間ではなかったので、学生時代も都心で過ごす経験は少なく、遊び慣れた友人に連れられて行く場所は、せいぜい新宿の高層ビル、住友三角ビルの「独逸邸」というパブぐらいでした。だから、初めて就職した場所が赤坂のTBSテレビの近くで、東宮御所の隣だったので、毎日すっかり上がりっぱなしでした。テレビ局、サントリー、東急エージェンシー、鹿島建設、赤坂東急、そして、ちょっと行けば永田町。麦畑でヒバリを追いかけていた少年には、ちょっと難しい場所でした。

で、三ヶ月ほどで会社を辞めてしまった私は、それからというもの、万年失業者で、いまだに常に職を求める毎日です。貯金も年金もなくて、少し困っています。年金は払っていなかったので、受給資格がないのです。若い友達のこうたくんには、その昔、何回かコーヒーや飲み代をおごったことがあるので、いよいよ貧窮したら、お金を借りに行こうと密かに計画しているのですが、彼もなかなかの貧乏なので、あまりアテになりません。

ぼくも若い頃には、「東京」に希望を抱いていました。いろいろな分野のいろいろな立場のいろいろな才能の、カッコつけた人たちに会いました。憧れたときもあります。というか、随分長い間、憧れ続けてきました。けれど、最近になって、本当にカッコいい人というのは、なかなかいないもんだと気がつきました。

若林さんは、こんな言葉をご存じですか。

「スカしてるんじゃねぇーよ」

東京の辺境で少年時代を過ごしたぼくが、一番恐れていた言葉です。私の街にには不良がたくさんいまして、毎年中学の卒業式は、鮮血で染められていました。まず、生徒会長、優等生、そして、不良を毎日のように殴ってしつけていた先生たち何人かが、血祭りに上げられるのです。グーで顔とお腹をなぐられ、顔を腫らし、口から血を流します。警察の介入はありません。クラスメイトには、兄さんが練馬鑑別所に入っているという人が二人いました。そのうち一人は、ケンさんのようにさらしを巻いて学校に着て、サラシにはドスをさしてきて、昼休みにそのドスをカーテンにブッさし、重みだけでカーテンが切れると、切れ味を自慢していました。

僕は同学年の不良には、慕われるタイプだったので、怖くありませんでしたが、上級生は恐ろしく、できるだけ刺激しないようにしたものです。そして街で出会ったとき、「スカしてんじゃねぇーよ」と、言いがかりをつけられないようにしていたのです。

「スカす」という言葉の語源は、調べたことはありませんが、カッコつけるな、という意味です。そしてそのカッコとは、これ見よがしに、見てくれや知識や権威をひけらかすことです。不良たちの暴力性は、どうかと思いますが、その感受性は、なかなかだったと、今は評価できる気がします。

見てくれや知識をひけらかし、パワーでハラスメントされたから、不良たちは拳で対抗したのでした。その結果、札付きとなり、つまはじきとなり、結局は損をすることになるのですが、ぼくは今でも、そしてこれからも、不良たちのスピリッツを受け継いで行くつもりです。

どんな分野の人でも、偉そうな人を見ると、すぐに思います。「スカしてんじゃねぇーよ」。カッコつけてるカッコ悪い人を、みんなが笑うようになると、もう少し世の中は住みやすくなるのだろうと考えています。

イキでイナセな江戸、東京魂は、物欲優先の経済思想を抑制するためにも、お金集めが好きな人を羨望し尊敬する社会の病を治療するためにも、ずいぶん大事な感受性になるのだろうと信じています。

まあ、私ごときが何をほざいたところで、何が変わるわけではありません。

ただ、私はこれからも、いじけながら、「スカしてんじゃないよ」と、小声でつぶやき続けるつもりです。太宰曰く「千の嫌悪が一つの趣味を生む」。まだ、四百五十ぐらいしか嫌悪していないので、確かな趣味がイメージできるようになるためには、これからです。

唐突でふつつかですが、若林さんの文を拝見して、以上の感想を差し上げます。

唐突ついでに、絵は、夏の花火です。

花火は、カッコいいですね。