東北大学附属図書館 令和5年度企画展

「伊達騒動」

終演

刃傷の果てに

 争論に裁定が下った後、宗倫(*1)は若くしてこの世を去るが、裁定内容やその後の扱いに不満を抱いた宗重(*2)は訴訟を再開した。宗重はついに幕府に訴え、その場で宗勝を激しく批判する。寛文11年(1671)3月、大老 酒井雅楽頭忠清(*3)邸での審問の場で、宗勝側として出席した原田甲斐宗輔(*4)は突如乱心、宗重を惨殺してしまう。幕府は宗勝を処分し、長きに及んだ騒動は漸く終演を迎える。劇的な幕切れを迎えたこの事件は人々に強い印象を与え、創作を含む数々の逸話を加えて文学・演劇に取りあげられた。

[注]

*1:だてしきぶむねとも

*2:だてあきむねしげ

*3:さかいうたのかみただきよ

*4:はらだかいむねすけ

相関図_動画バージョン_4章.mp4

相関図

伊達兵部大輔田村隠岐守江被仰出之覚

  だてひょうぶたいふたむらおきのかみえおおせいださるるのおぼえ

 当館所蔵の古文書に刃傷の顛末を記したものはないが、事件後の幕府による処分の文書が残されている。これはその一つで、幕府が後見人宗勝・宗良の処分を伝えた申渡の写。これまでの家中の混乱と今回の原田甲斐の「不届」を後見人二人の「不覚悟」と断じ、宗勝を土佐高知に、宗勝の子 市正宗興(*5)も豊前小倉にそれぞれ御預、また宗良を閉門に処した。

[注]

*5:いちのかみ むねおき

『寛文事件古文書

(寛文11年(1671))4月6日

請求記号:延5/1965/50

  おぼえ

 松平陸奥守(伊達綱基、後の綱村)に対する幕府の処分を伝える申渡の写である。今回の騒動について、陸奥守本人は若年であり、後見人や家老が起こしたことなのでその責を問わないとし、あわせて陸奥守が成年に達したので後見を終了するとある。この文書では特にそれぞれの箇条の伝達について記されており、二条目は酒井忠清が伝達を担当している。

『寛文事件古文書

(寛文11年(1671))4月6日

請求記号:延5/1965/48

伊達綱村書状

  だてつなむらしょじょう

 成人した伊達綱村が奥山常辰(*6)に宛てた書状。年代は不明ながら、常辰が隠居して大炊と改名した延宝2年(1674)以後のものである。綱村は自身や父綱宗の消息を常辰に伝えるとともに、常辰の様子を気遣い、縮の単物を贈っている。奉行辞職後、藩政の表舞台から退けられた常辰であるが、ここではその後も綱村と親しく交流した様子がうかがえる。

[注]

*6:おくやま つねとき

『寛文事件古文書

6月26日

請求記号:延5/1965/26

六ケ条之儀申立候品々

  ろっかじょうのぎもうしたてそうろうしなじな

 奥山常辰が六ヶ条問題について記した覚書の一つで、寛文2年(1662)6月頃から12月にかけての様相を記したもの。常辰の後年の回想で、多分に常辰の認識によるが、六ヶ条問題をめぐる関係者の対応が記されている。展示箇所は、問題解決を決意した常辰が江戸参勤を前に一関の伊達宗勝を訪れ、その所感を問いただした部分である。

『寛文事件古文書

請求記号:延5/1965/9

桃遠境論集 序

  とうえんきょうろんしゅう じょ

 刃傷事件から28年後の元禄12年、仙台藩が国絵図作成の過程で争論以前の国絵図を確認したところ、遠田・桃生郡境が宗重の主張通りだったことが判明、藩は寛文9年の裁定を改めた。郡境の修正は涌谷伊達家を大いに歓喜させ、騒動に関する記録を編纂させる動きとなった。その記録の序では、涌谷伊達家の騒動への認識が示されている。

個人蔵

(元禄12年(1699))

  おぼえ

 桃生・遠田郡境の変更は、登米伊達家の所領にも当然ながら影響を与えた。これは谷地の境界変更により遠田郡となった深谷西谷地で桃生郡深谷の共同利用による「草飼」(草木の採集権)について、谷地に隣接する北村・大窪村・福田村の肝入が作成した願書である。谷地争論と「草飼」の経緯を説明し、谷地での利用の継続を願い出ている。

『登米伊達家文書

元禄14年(1701)3月5日

請求記号:丙A1-11/1-7

伽羅先代萩

  めいぼくせんだいはぎ

 伊達騒動を題材とした歌舞伎「伽羅先代萩」の名場面を描いた錦絵で、作者はいずれも歌川国貞三代(歌川国政四代)。「伽羅先代萩」は奈河亀輔らの作で、安永6年(1777)に大坂で初演、騒動を鎌倉時代の奥州に託して描く。

個人蔵

明治期

伊達競阿国戯場

  だてくらべおくにかぶき

 「伊達競阿国戯場」は伊達騒動の筋を室町時代に移したもので、作者は桜田治助・笠縫専助、安永7年(1778)江戸で初演された。これはその一場面の錦絵で、歌川国芳の作、終盤のクライマックスである仁木弾正が渡辺外記左衛門に斬りかかる「刃傷の場」を描いている。

個人蔵

近世後期

伊達競阿国歌舞妓

  だてくらべおくにかぶき

 同名の歌舞伎・浄瑠璃による合巻で、文は戯作者の三亭春馬、絵は一蘭齋国綱である。展示部分は上下巻それぞれの表紙にあたる部分で、上の巻には綱宗と遊女高尾が華々しく描かれている。

請求記号:狩野4/12823/1

早雨鳥伊達聞書

  ほととぎすだてのききがき

 歌舞伎「早雨鳥伊達聞書」の錦絵で、亀千代の乳母浅岡とその子千代松の別れの場面「奥御殿の場」を描く。作者は豊原国周(*7)。「早苗鳥伊達聞書」は通称「実録先代萩」、河竹黙阿弥作で、明治9年(1876)に初演された。「実録」と題して舞台を実際の騒動に移し、役名も実際の登場人物を採り入れている。

[注]

*7:とよはら くにちか

個人蔵

明治二七年(一八九四)

伊達黒白大評定

  だてこくびゃくだいひようじよう

 伊達騒動を題材とした実録。近世に刊行はされていないが、写本や貸本で流布した。展示部分は宗輔(*8)と宗勝が綱宗の悪行を重臣に伝える書状であるが、全くの偽文書である。同書中には、実録としながら架空の設定や偽文書が随所に見られ、事件の理解やイメージにも影響を与えている。

[注]

*8:むねすけ

個人蔵

伊達黒白大評定

  だてこくびゃくだいひようじよう

 伊達騒動を題材とした実録。刊行されたもので、年代不明だが明治期のものと思われる。全三巻。書写本とは異なり、挿絵を数多く入れているのが特徴。展示した部分は綱宗の悪行を伝える宗輔・宗勝の書状により招集された重臣が評議を行う場面である。

請求記号:KG239/040

伊達評定

  だてひょうじょう

 戯作者 篠田仙果二代の作、歌川国貞三代(歌川国政四代)による合巻。合巻とは近世後期から近代初頭まで流行した草双紙の一種であり、数冊を1冊に合わせて売られたことによる。展示した部分は各巻の表紙にあたる部分であり、原田宗輔が伊達宗重に斬りかかる緊迫感のある場面が描かれている。

明治期

請求記号:狩野4/12827

伊達模様実録譚

  だてもようじつろくたん

 関根孝助の編、歌川国貞三代(歌川国政四代)による合巻。実際の刃傷事件の際に原田宗輔と斬り合い、重傷を負って後に死亡した蜂屋六左衛門が挿絵に描かれているのは、他の類本には見られない。

個人蔵

明治15年(1882)

伊達評定奥之碑

  だてひょうじょうおくのいしぶみ

 東京の書物地本問屋大西庄之介の編による合巻。刃傷の後、幕閣の板倉内膳正重宗(*9)が亀千代・片倉小十郎に伊達家の安堵を伝える場面である。史実とは異なるものではあるが、騒動の終結と仙台藩の将来を象徴して物語は終演を迎える。

[注]

*9:ないぜんのかみしげむね

個人蔵

明治期

桃生郡大窪村絵図

  ものうぐんおおくぼむらえず

 桃生郡大窪村(宮城県東松島市)を描いた絵図。近世後期の文政年間(1818~1830)に作成された村絵図に様式が類似する。この図の西側の村境は元禄の郡境変更に伴い山沿いに設定されているが、寛文年間当時はこのはるか西に設けられていた。

『登米伊達家文書

請求記号:丙A1-11/10-64

TwitterInstagramYouTubeLink