東北大学附属図書館 令和5年度企画展

「伊達騒動」

六ヶ条

後見人に挑む

 寛文2(1662)年から翌年にかけて、仙台藩を揺るがしたのが「六ヶ条問題」である。幕府は後見人を大名として取り立て、その所領を仙台藩領のなかから3万石ずつ割り出して与えた。その所領の取り扱いや幕府との関係をめぐり、後見人と奉行 奥山大学常辰(*1)が激しく衝突する。仙台藩の立場を優先する奥山は、後見人の意向をねじ伏せて自らの主張を認めさせることに成功したが、その後奥山は藩内外の支持を失い、失脚することになる。

[注]

*1:おくやまだいがくつねとき

相関図_動画バージョン_2章.mp4

相関図

奥山常辰書状写

  おくやまつねときしょじょううつし

 奥山常辰の書状の写で綱宗逼塞以前のものであり、宗勝の加増の経緯について当時派遣されていた幕府の国目付に説明している。その最後で常辰は、一門のなかで「兵部様ほと御用ニ被為立候ハ無御座」と宗勝を絶賛し、宗勝が綱宗のために尽力するほど悪評が立つのが悔しいとまで述べている。この段階での常辰による宗勝の評価として興味深い。

寛文事件古文書』

(万治2年(1659))3月14日

請求記号:延5/1965/30

  おぼえ

 六ヶ条問題が表面化したのは寛文2年5月のことで、6月に常辰は問題の解決を政宗・忠宗の霊前に誓って江戸へ向かった。江戸滞在中の10月15日、常辰は将軍徳川家綱に御目見得を許されている。この日常辰は尾張・加賀の家老とともに拝謁し、将軍に太刀・馬代を献上している。藩内に並ぶ者のない権勢を手にした常辰の様子がうかがえる。

寛文事件古文書』

(寛文2年(1662))

請求記号:延5/1965/47

兵部様右京様御知行中如前々従亀千代様可被仰付覚

  ひょうぶさまうきょうさまごちぎょうちゅうまえまえのごとくかめちよさまおおせつけらるべきおぼえ

 六ヶ条問題の最初の山場は、寛文2年11月に訪れる。常辰は江戸滞在中親戚大名の立花忠茂を通じて老中 酒井忠清に訴える。11月12日に老中 酒井忠清邸に田村宗良とともに出頭し、そこで六ヶ条についてこれまでの通りにせよとの指示を受けた。常辰は、宗良との間で12日の忠清の指示内容を文書として取り交わすことを提案する。これはその文書の写で、忠清の指示を常辰がまとめている。

寛文事件古文書』

寛文2年(1662)11月13日

請求記号:延5/1965/6

田村宗良書状写

  たむらむねよししょじょううつし

 宗良から常辰に宛てた文書を写したもの。宗良は先の常辰のものと比べ「大鷹」を「黄鷹」に変え、最後に「道中為証文」などの文言を付け加えている。常辰の回想では、宗良はこの文書の作成を相当に逡巡し、いったんは拒絶したが、後に思い返して作成したのだという。実際にこの部分には、宗勝に見せる証文だと常辰がいうからそのように書いた、とある。

寛文事件古文書』

(寛文2年(1662))11月16日

請求記号:延5/1965/21

兵部右京知行中仕置之儀末々迄為申合候覚

  ひょうぶうきょうちぎょうちゅうしおきのぎすえずえまでもしあわせそうろうおぼえ

 六ヶ条問題が大きく動くのは翌 寛文3年である。この年宗勝が江戸に参勤し、3月以降後見人両人が参会し解決案をとりまとめた。11月案と比べて、二条で「亀千代様の自由」という文言を削除し、さらに五条の他国者の返還に関して亀千代様の指示に従うとあるところを「その時々で相談する」と変更したことなど、修正がいくつか見られる。

寛文事件古文書』

寛文3年(1663)3月25日

請求記号:延5/1965/22

覚書

  おぼえがき

 江戸の後見人による解決案は、仙台にいる奉行にすぐさま伝達されるが、それを見た常辰はその問題点を指摘している。これはその問題点を記したもの。常辰の指摘は3点あり、第1点は前書の「申合」が適当でないこと、第2・第3点は五条と末尾の文言を11月案に戻すことであった。常辰は忠清の命による11月案の遵守を後見人に迫っている。

寛文事件古文書』

請求記号:延5/1965/19

伊達宗勝・田村宗良連署書状

  だてむねかつ・たむらむねよしれんしょしょじょう

 六ヶ条問題の解決は、最終的には酒井忠清の意を踏まえた立花忠茂の調停などを経て、6月にまでずれ込んだ。この文書は、宗勝・宗良が最終的な解決に際して仙台の奉行に宛てたものである。宗勝・宗良が六ヶ条の遵守を誓約すると同時に、3月案の文書の回収も指示している。1年に及んだ六ヶ条問題はようやく最終的な解決に至ったのである。

『寛文事件古文書

(寛文3年(1663))6月6日

請求記号:延5/1965/8

柴田朝意・大條宗快連署書状

  しばたとももと・おおえだむねよしれんしょしょじょう

 六ヶ条問題をめぐって後見人と激しく対立した常辰だったが、ほぼ同時にその政治姿勢に対する批判が藩内に巻き起こる。困難を極める藩政運営を前に、常辰は心身の疲労を理由に奉行辞職を願い出る。この文書はそれに対する奉行柴田朝意(*2)・大條宗快(*3)の書状で、奉行退任以降も御用への関与を望む常辰に対し、「緩々養生」と病気療養を理由に一切の公職の罷免を命じている。

[注]

*2:しばたとももと

*3:おおえだむねよし

『寛文事件古文書

(寛文3年(1663))7月27日

請求記号:延5/1965/1

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