東北大学附属図書館 令和5年度企画展

「伊達騒動」

逼塞

殿様が消えた

 万治3年(1660)7月、若年の仙台藩三代藩主 伊達綱宗は、幕府から不行跡(*1)と病気を理由に逼塞(*2)、その後 隠居を命じられた。藩主不在の危機に陥った仙台藩は、綱宗の嫡子 亀千代(*3)に相続させたが、当時二歳の亀千代に政務を執るのは不可能であった。幕府は親族の伊達兵部少輔宗勝(*4)・田村右京亮宗良(*5)に藩政の後見を命じ、幕府の監視下で後見人が藩を主導する体制をとる。ここに仙台藩最大の騒動が幕を開ける。

[注]

*1:ふぎょうせき / 行ないがよくないこと [精選版 日本国語大辞典]

*2:ひっそく / 謹慎すること。 [精選版 日本国語大辞典]

*3:かめちよ / 後の伊達綱村

*4:だてひょうぶ しょうゆうむねかつ

*5:たむらうきょうのすけむねよし

相関図_動画バージョン_1章.mp4

相関図

奥山常辰書状写

  おくやまつねときしょじょううつし

 幕府による綱宗逼塞の命から五日後に、奥山常辰(*6)が綱宗の側近である中村数馬に宛てた書状の写。常辰は、自分が至急江戸に登り、親戚の水戸徳川家を通じて善処することを殿様はご希望だが、まずは国元の不穏を押さえなければならず、江戸出府はできない、今はともかく殿様の自制が最優先だ、と述べる。藩主の処罰に混乱する江戸・仙台双方の様子がうかがえる。

[注]

*6:おくやま つねとき

寛文事件古文書』

(万治3年(1660))7月23日

請求記号:延5/1965/45

奥山常辰書状草案

  おくやまつねときしょじょうそうあん

 常辰が和田・鈴木に宛てた書状の下書で、和田は綱宗の小姓頭である。先の書状とあわせて、常辰が綱宗側近と頻繁に連絡を取り合う様子がみえる。常辰は隠居先である品川屋敷に移った綱宗に自制を促している。その一方、綱宗が自分に不信感を持っていることについて、自分を悪く言う者がいるせいだとし、自らの綱宗への忠誠を強調しつつも、今すぐの江戸出府はできないと突き放している。

寛文事件古文書』

(万治3年(1660))8月11日

請求記号:延5/1965/38

伊達宗倫由緒書写

  だてむねともゆいしょがきうつし

 伊達式部宗倫(*7)が自らの由緒を記したものだが、包紙に「公方様御目付」に提出したとあり、幕府の国目付への報告であることがわかる。この直前に仙台に下向した国目付に、自らの出自や継承の経緯を説明している。綱宗逼塞から2か月足らずで、重臣の出自などを一つひとつ幕府に報告する必要に迫られたところに、事態の緊急さがうかがえる。

[注]

*7:だてしきぶむねとも

『登米伊達家文書

万治3年(1660)9月25日

請求記号:丙A1-11/9-4-1-1

松平亀千代家中之者縁組申合候覚

  まつだいらかめちよかちゅうのものえんぐみもうしあいそうろうおぼえ

 仙台藩重臣の間での婚姻について、幕府老中が許可したことを伝達するもの。亀千代が相続した後の仙台藩は老中・親戚大名の監視・指導のもとで藩政を運営することとなる。その一環として、すでに先代藩主綱宗の許可を受けていた重臣間の婚姻についても、老中の許可を得ることとなった。幕府監視下に置かれた影響が、ここにも読み取れる。

寛文事件古文書』

(万治3年(1660)11月)

請求記号:延5/1965/49

原田宗輔書状

  はらだむねすけしょじょう

 騒動の最後に伊達宗重を斬殺した原田甲斐宗輔(*8)の書状で、当館所蔵文書のなかでもよく知られている。宗輔は藩重臣の一人で、この時は評定役、後に奉行(家老)を務めた。この書状は宗輔が藩の重臣で伯父の茂庭左月(良元)に送ったもの。長期の江戸詰や借金、小石川堀普請の困難さを吐露し、重役として藩の危機に対応する宗輔の憔悴の様子が見える。

[注]

*8:はらだかいむねすけ

(万治3年(1660))極月(12月)23日

請求記号:延4/1961

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