東北大学附属図書館 令和5年度企画展

「伊達騒動」

谷地

一門の激突

 奥山失脚後、後見人の一人 兵部宗勝(*1)が仙台藩政を掌握する。宗勝の政治姿勢とそれへの批判が渦巻くなか、さらなる混乱の火種となったのが谷地争論であった。桃生郡に所領を持ち、前藩主 綱宗の兄である一門、登米伊達家当主 伊達式部宗倫(*2)と、同じく一門で遠田郡を所領とする涌谷伊達家当主 伊達安藝宗重(*3)が、両郡境界付近の谷地の帰属をめぐって正面から対立した。双方一歩も譲らぬ状況下で、藩政は混乱の度を深めていく。

[注]

*1:ひょうぶむねかつ

*2:だてしきぶむねとも

*3:だてあきむねしげ

相関図_動画バージョン_3章.mp4

相関図

口上之覚

  こうじょうのおぼえ

 谷地とは未開発の低湿地で、谷地を開発するとその領主の所領に組み入れられた。登米領の登米郡深谷と涌谷領の遠田郡との間にも谷地が広がり、双方で開発が進められていた。寛文7年(1667)10月、この谷地の一部を宗倫が藩士 若生半右衛門に分与しようとする。この文書はそれに対する宗重の口上書の写で、分与に異論はないが、その前に両郡の境を明確にしてほしいと藩に願い出ている。

『登米伊達家文書

寛文7年(1667)11月23日

請求記号:丙A1-11/1-4

伊達式部口上之覚

  だてしきぶこうじょうのおぼえ

 宗重の主張に対する宗倫の反論の口上書である。口上書とは訴訟に際して作成される当事者の口述を記したものであり、これは実際に提出されたものの下書と思われる。宗倫はここで藩の明確な判断による解決を強く求め、さらに宗重の主張に対して一つひとつ桃生郡側の証拠を提示して反論を行っている。

『登米伊達家文書

寛文9年(1669)2月3日

請求記号:丙A1-11/1-1

口上之覚

  こうじょうのおぼえ

 奉行の柴田・原田・古内に宛てた宗倫の口上書の下書。宗倫と宗重の主張は口上書のやりとりを通じて加熱していく。ここで宗倫は、藩重臣による調停を強く拒絶する。加えて、宗重の主張に従えば自分は宗重の領地を押領していることになり「武士之務」にも関わると述べ、殿様のために自分の身分を捨ててでもこの件を解決する考えであり、後見人にそう伝えるように要求している。

『登米伊達家文書

(寛文9年(1669))酉ノ5月6日

請求記号:丙A1-11/1-2

留書

  とめがき

 登米伊達家による谷地争論の記録で、展示部分は寛文九年に後見人宗勝・宗良が内示した裁定案への宗倫の回答である。裁定案は谷地の3分の2を宗倫、3分の1を宗重に与えるものであった。宗倫は殿様のためにこの案を承諾はするが、宗重が年上だからとされていることに自分の主張に理がないようだと不満を顕わにする。加えて、文中で宗重を「藝州」と呼び捨てにするところに、宗倫の強い感情がうかがえる。

『登米伊達家文書

請求記号:丙A1-11/1-5

留書

  とめがき

 登米・涌谷双方に強い不満を残しつつ、争論はいったんは解決した。その解決を受けて、登米伊達家は郡境が変更される登米郡大窪村に対して3分の2・3分の1の分割を通知した。これはその際のもので、登米側の訴訟の関係記録を伝えることで大窪村に対して登米側の主張の正当性を示し、今後の涌谷側からの異議申立に備えるものとしている。

『登米伊達家文書

寛文9年(1669)8月14日

請求記号:丙A1-11/1-3

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