早稲田大学戦史研究会機関誌『烽火』第9号 ― 内容の紹介

第1部 日本史

青島攻略戦期の国内世論推察 —後世に於ける当戦役のイメージについての一考察— /海棲哺乳類

青島攻略戦は、第一次世界大戦で日本軍が本格的な戦闘を行った唯一の事例であるが、それに対して後世に流布されているイメージは、芳しいものではない。 一般的な言説として、“孤立した植民地相手に上陸以後2ヶ月以上も時間をかけるとは何事か”と言った具合で、本作戦を指揮した久留米第18師団長であり、参加した日英合同部隊の総指揮を執った神尾光臣中将は“慎重将軍”などと評されている。だが、これらの言説は、現実に行われた作戦が日露戦役のような歩兵の力に頼った白兵戦ではなく、重砲類を大量に使用した物量戦であり、周到な準備が必要な火力戦であったという面を無視している。その点については片山(2011)による「第一次世界大戦と日本陸軍--物量戦としての青島戦役」にて詳しく述べられている。

上記の研究内容を念頭に置き、本稿では後世において流布されている青島戦役のイメージが当時の一般世論にも存在していたのかを検証することを目的とし、その為の手段を当時の新聞に求めた。同時に、当時の新聞世論が青島戦役のどのような点に着目していたのかを解き明かして行きたい。

虚構の合戦 —河越夜戦の実像に迫る— /乱会

今から約500年前、日本列島は合戦の頻発をその特徴とする「戦国時代」と呼ばれる時代の最中にあった。関東地方では戦国時代初期~中期にかけて、古河公方足利家・関東管領上杉家・北条家・今川家・武田家等がその勢力圏を競い合い、幾度となく合戦が勃発した。本稿ではそれらの戦いのうち「河越夜戦」に焦点を当て、その実像を解明することを目的とした。まず第1章では、軍記物に書かれた従来の河越夜戦像を紹介した。次に第2章で、各軍記類の記述を比較検討した後に、書状類や先行研究をふまえながら日時・布陣地・兵士数・城主について考察を行った。第3章では、第2章で考察した内容をふまえて合戦の実態の復元を行い、この戦いの意義を「夜戦であったこと」に求めるのではなく、「旧勢力と新勢力の戦略方針レベルでの対立であったこと、関東情勢の一画期となったこと」であると捉えた。

戦間期における海運・造船と海軍の関係 —海軍はなぜ助成施設を支援したのか— /八八艦隊加賀の航海士

第一次世界大戦によって莫大な利益を得た日本の海運業は戦争が終わると一転、海運不況に陥った。造船業も同様に第一次世界大戦後の海運不況、そして、二度に渡る海軍軍縮条約よって深刻な状態となった。その中で政府は船舶改善助成施設、優秀船舶建造助成施設、大型優秀船建造助成施設という3つの助成施設を実施し不況を解決することを目指した。その中で海軍もそれらの政策を支持し援助した。その背景には商船を戦力として活用するという海軍の目的と思想、戦略が存在した。

「ペン」と「剣」と「権」 —満州事変勃発時における新聞報道とその統制— /こやすこ

明治維新後、資本主義社会の「利潤を追求する」ことを目的とする一企業として出発した新聞社は、権力との接近と発行部数拡大への欲求、そして新聞社のジャーナリズムの担い手として批判精神との間に三竦みにならざるを得ず、次第に自壊状態に陥っていった。そこに重ねて権力による規制・検閲が介入することで新聞社は自主規制を始めざるを得ず、論調も権力に寄ったものに変容していくこととなった。しかしながら、地方紙の中には満州事変後も不偏不党の立場をとる中央紙と差をつけるため、敢えて軍や政府と対決姿勢をとり続けたものもあり、この満州事変を以て戦前のメディアが完全な機能の停止に陥ったと言い切ることについては不可能であると言える。従って、何時を以て俗に言われる「言論の死」に完全に陥ったか、また厳密な意味での「言論の死」は実在したのか、ということについては再検討が必要である。

陸軍戦車開発史 —「九七式中戦車」から「M3ショック」までを中心に— /バーべット

第一次世界大戦において初めて登場した戦車の活躍に注目した列強各国は、戦後、次世代の兵器としての戦車の研究、開発に邁進した。これは、将来における自軍の戦力強化、特に機械化による軍の作戦範囲の拡大を図るため、欧州戦線の情勢を注意深く見ていた日本陸軍も例外ではなかった。当時の戦車先進国であった英国、仏国からの「ホイペット」「ルノー」などのような輸入戦車の試験運用、研究並びに諸外国における戦車運用に関する研究を積み重ね、自主的な戦車開発の土台作りを行った日本陸軍は、これらの成果を活かし昭和2(1927)、初の国産戦車である「試製一号戦車」の試作に成功。2年後の昭和4年(1929)には初の制式戦車である「八九式軽戦車」が登場するに至る。 ・・・

米と国策 —1939年の朝鮮半島大干ばつが日本に与えた影響— /戦時食糧省

1939年に西日本・朝鮮半島を襲った大干ばつは、朝鮮半島で未曽有の大凶作を引き起こした。これにより、国内の米供給の不足が一気に表面化し、1910年代以来の規模の外米輸入が行われた。また外米の確保を求める意識は南部仏印進駐の遠因のひとつとなった。本稿では、第一次世界大戦末期から1939年までの日本の食糧政策を概観したうえで、干ばつの実態について考察し、その後の国策決定にどのような影響を与えたのかを見ていきたい。

第2部 世界史

閉された夢 —第一次世界大戦時のロシアによるガリツィア占領の歴史的意義— /rusian_n

ウクライナ民族主義は旧ヘトマン国家領域のドニエプル川東方で誕生し、当初はロシア帝国領ウクライナで発展していったが、弾圧によって次第にハプスブルク君主国領であり、ウクライナ人が多数派を占めていた東ガリツィアに中心を移していった。しかし第一次世界大戦時にロシアによってガリツィアが占領され、厳しい占領政策が施行されたことで、ウクライナ民族主義はロシアからの分離主義傾向を一層強め、また両帝国のウクライナ人の統合運動も具体化していった。

古田会議 —中国における党軍関係の分岐点— /sig8492

近年急速に力を強め、その活動範囲を拡大させている中国人民解放軍であるが、日本を含む周辺諸国との軍事的摩擦が多発している中、「人民解放軍は文民統制化にあるのか?」と言う議論が活発に行われている。中国人民解放軍(以下人民解放軍)は中華人民共和国を統治している中国共産党の軍隊であるからして、ここでは「党は人民解放軍を統制下においているのだろうか」と言い換えることも出来る。人民解放軍は他の社会主義国家、例えば社会主義国の軍隊であったソ連軍が政治将校という、西側の軍隊にはない特異な制度を有しており、現在の解放軍も政治委員制度を有している。

しかしソ連軍の政治将校と人民解放軍の政治委員では「政治委員が軍事指揮権を有している」という決定的な違いが存在する。では、同じ共産党の軍隊であるソ連軍と解放軍はなぜこのような違いを有しているのだろうか?そして、このような違いはいつ生まれたのだろうか。ここでは、その中国の「特色ある」政治委員制度の始まりである「古田会議」までの中国における党軍関係を見ていきたいと思う。

中蔵関係の概観 —東チベットの反乱からダライラマ14世の亡命まで— /ロリコム

中国における民族問題の1つとして、チベット問題は日本でも広く知られており、チベットの法王であるダライラマ14世の知名度も高い。しかし、チベット問題は現在に到るまで解決されていない繊細な問題であり、世に出ている情報は、それぞれの利害を代表する偏ったものが大勢を占めているように思われる。これでは問題を理解することは難しい。少しでも正確な理解にたどり着くためには、双方の意見に耳を傾け、両者の間に存在する歴史認識問題を分析する必要があるだろう。よって本稿では、チベットと中国双方の見解を取り上げつつ、チベットと中国の武力衝突が多発し始めた1905年から、1959年のダライラマ14世の亡命までを概観していくこととしたい。また、本稿内での中国の呼称であるが、基本的に中国を用いる。ただし、特に強調を要すると思われた時にのみ、清、中華民国、中華人民共和国を使い分ける。

アンゴラに渡ったキューバ軍 /トルコ爺

2015年7月に54年ぶりにアメリカと国交正常化を果たし、また2016年11月には長らく最高指導者の地位にあったフィデル・カストロが死去するなど、キューバは変革の時代を迎えつつある。今まさに転換期にあるキューバの「これから」を理解する上で同国の「これまで」を知ることはより深い意味を見出せることだと考える。 キューバは1960年代から現在に至るまで、世界各国で革命運動の支援を行ってきた。 とりわけ本稿で取り上げるアンゴラの独立およびその後の内戦への介入は、20年以上に渡って総力をあげて行ってきたものであり、キューバの外交・政治の歩みを知るためにテーマとして扱うことには大きな意義が存在するだろう。 以下では同国の革命の前後と米ソとの関係、そしてアンゴラの政治史について背景として触れたうえで、キューバがなぜ、そしていかにしてアンゴラへの介入を長きに渡って続けてきたかを考察したい。

コロンビア革命軍の概観 —戦後コロンビア史と共に俯瞰する— /Mirage

2016年末、コロンビア政府とラテンアメリカ最大の反政府組織、コロンビア革命軍(FARC)が和平に合意した。コロンビアという国の戦後史は、硬直した体制や腐敗した権力に根差す政治的問題、麻薬汚染や暴力の常在による社会的問題と不可分であることは疑いようもない事実である。その中でFARCが生まれ、拡大し、ラテンアメリカ最大の反政府組織となった。その大規模な反政府組織との和平は、ウリベ、サントス両政権による尽力の末に至ったものである。そして、それはラテンアメリカの平和構築と現代史における一つのターニングポイントとなるだろう。

第3部 随筆

クラウゼヴィッツ『戦争論』の直観的方法 /Ryotaro3110

本稿は、難解な書として知られるクラウゼヴィッツ『戦争論』を、初心者向けにできるだけわかりやすく解説したものである。「『戦争論』は未完成だから難しい!」という人は多いが、それは非常に勿体ないことである。本稿では『戦争論』の内容について深く議論することは避け、入門書としてかみ砕いた解説を行う。本稿が対象とする読者は「戦史や兵器についての知識はあるけれど、それらがどう結びついているのかよくわからない……」「『戦争論』を買ったけど、読めないまま放置している……」「海外のドクトリンを読んでみたけど、よく意味がわからない……」という悩みを抱えている方々である。なお、手元に『戦争論』を所有していなくても本稿を理解することは可能である。尚、本稿は筆者の個人的な見解であり、防衛省のいかなる機関の公式見解でもなければ、防衛大学校に於ける授業内容を紹介するものでもない。

菅野直 ―最後の撃墜王と呼ばれた男― /蘇摩利亜之翁

近年、深夜アニメや漫画、ゲームなどの影響で「菅野直」という男が注目されている。この「菅野直」という男(作品によっては女になっている物もあるが)は皆粗暴ではあるが、優しい心を持ち、何よりも強いパイロットとして描かれているように思われる。では実際の彼はどのような人間だったのだろうか。「本当に強いパイロットだったのか?」「本当にこんなことをする人なのか?」「こんなに荒っぽいところのある人なのか?」などといった疑問がわくのではないだろうか。そこで本稿では「菅野直」という一人のパイロットの姿に迫り、そのような疑問の答えに迫っていくことを目的としたい。

ドイツ突撃隊の起源は大楠公か? /牧野べりー

俗にこういわれている。欧州大戦において、ドイツ軍は「浸透戦術」なる新戦術をつかった、と。この新戦術とは、流れる水のごとく、敵陣に浸透する戦術である、という。この説明はあいまいであり、疑問が生じる。というのは、下級指揮官に大きな自由を与えること、正面攻撃を避け、敵の側面背後をたたき、包囲撃滅を追求すること、いずれも独軍の伝統であり、大戦中に始まったことではないからである。普仏戦争にて、モルトケは、野戦軍の指揮官たちに大きな自由裁量権を与え、仏軍の側背への攻撃を追求した。さらばセダンの勝利者も浸透戦術を使っていたのだろうか。もっと驚くべきことがある。太平記によると、楠兵衛正成も、鎌倉幕府軍に包囲された赤坂城より脱出するとき、浸透戦術を使っていたらしい。

「皆物具を脱ぎ、寄せ手に紛れて、五人、三人、別々になり、敵の役所の前、軍勢の枕の上を越えて、しづしづとこそ落ち行きけれ。 [児島法師?, 2014年] 」私は疑問を抱かざるを得なかった。浸透戦術とは何だったのか、その何が新しかったのか、それとも浸透戦術とは、新しい戦術ではさらさらなく、大楠公も使っていた、古くてオーソドックスな戦術なのだろうか。 ・・・

序文 /戦時食糧省

発行に際して /海棲哺乳類

編集後記 /こやすこ

製作 早稲田大学戦史研究会烽火編集局

編集長 /戦時食糧省

編集員 /こやすこ・海棲哺乳類・あさはらしょうこ