基本的に竹島問題の資料の最中に副次的に集めた資料のみなので、まあ参考程度に
韓国の、軍国主義者、ファシスト、偏狭な民族主義者を育成するためのプロパガンダ博物館には、対馬侵略のためのプロパガンダを鼓舞するためのモニュメントが立てられています。 この博物館は、反日企業Samsungがファシストや軍国主義者、偏狭な民族主義者を育成するためのプロパガンダ事業に資金を援助しています。 ここで、記載されている内容というのが、以下のとおりになります。
1.九鬼嘉隆の製作したといわれる朝鮮八道総圖に、対馬が書かれていることを理由としています。
しかし、この地図における対馬は、ただ単に朝鮮の八道総圖を写した程度であると思われます。当時日本と朝鮮の外交の窓口となっていた対馬を朝鮮との相対的な位置を把握する程度にしか書いていません。 朝鮮の地図には対馬が書かれることが多いですが、そこには対馬がどの国の領土か、きちんと説明がなされているものが多いです。 後に記載してありますので、ご確認ください。ちなみに対馬の宗氏は朝鮮征伐に日本側の武将として出兵しております。この画像に有る地図の原図:九鬼嘉隆伝、朝鮮八道総圖 1590's?
「朝鮮国地理図(抄)」:明治5年(1872)写【178-692】
似たようなものとして、1594頃製作か、.文禄・慶長の役朝鮮圖 高麗川上将監川上久国が朝鮮にて作図の父久辰製作
などがあり、これも対馬を八道総圖に記載していますが、日本側は、宗氏が朝鮮征伐に出ているとおり、当然日本と認識していたようです。
(2-3 画像)
2.「三国史記」巻三 新羅本記 三 實聖尼師今条
七年、春二月、王聞倭人於対馬島置営貯以兵革資糧、
以謀襲我 我欲先其末発 練精兵 撃破兵儲
實聖尼師今七年=408年
三国史記は1145年に完成しています。 つまりこれが書かれた時点で既に対馬は日本の領土であったことをを証明しています。
このような文献を元に領有権を主張するのであれば、日本は江戸時代に朝鮮に引き渡した鬱陵島どころか、伽耶や任那も日本領土であったので返還せよと主張することが可能です。(もちろん其のつもりはありませんが)
似たようなものとして、
對馬編年略(山家要略記(1260年代)からの引用部分)
・仲哀天皇の時代、新羅征伐の際にこの島が日本の物になった。
山家要略記云、對馬島者、高麗国之牧地也、新羅往之、開化天皇代、従此島襲来、仲哀天皇豊浦宮幸對馬島、征伐新羅、意取此島」
(山家要略記(1260年代) 日本天台宗顕真編纂
などもあります。
開化天皇 第9代
出生 紀元前208年
在位 紀元前158年11月12日 - 紀元前98年4月9日 ?
http://www004.upp.so-net.ne.jp/dassai1/shoki/frame/04/08/fr.htm
仲哀天皇 第14代
出生 生年不詳
在位 紀元後192年02月111日 - 紀元後200年3月8日 ?
http://www004.upp.so-net.ne.jp/dassai1/shoki/frame/08/fr.htm
神功皇后
http://www004.upp.so-net.ne.jp/dassai1/shoki/frame/09/fr.htm
神功皇后の三韓征伐に関するものは日本書紀に出てくるものの、
日本書紀の開化・仲哀天皇の項には、対馬編年略を裏付けるものはなさそう。
広開土王碑 391
百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡海破百殘加羅新羅以為臣民
Cf;中国ならびに日本の史料にある対馬について
魏志倭人伝(『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条)
成立 紀元後280-297年頃か?
始度一海千余里 至対馬国 其大官曰卑狗 副曰卑奴母離。所居絶島 方可四百余里。土地山険 多深林 道路如禽鹿径。有千余戸。無良田 食海物自活 乗船南北市糴。
『日本書紀』天武天皇3年3月丙辰(7日)(674)
対馬国司守忍海造大国言。銀始出二于当国一。即貢上。由レ是大国授二小錦下位一。凡銀有二倭国一。初出二于此時一。故悉奉二諸神祇一。亦周賜二小錦以上大夫等一。
http://21coe.kokugakuin.ac.jp/db/jinja/houbei.html
3.『青邱圖』 乾 第二十三層 六版 (金正浩)
対馬島 水路四百八十里 直東菜府之東南海中
本属新羅 至實聖王七年 倭設営於此 因為倭有
これは1834年に製作された地図に記載されたものですが、1834年の時点で既に日本の領土であることをを証明しています。
原本 青邱圖 奎章閣 (ただ、対馬に掲載がないのだが・・・)
http://147.46.103.182/OIS/GZ2/VIEWER.jsp?maptype=GK10341_00
(4-6)
4.『世宗實録』巻十一 世宗三年 四月己亥条
本島之隷於慶尚 古籍昭然 且汝島使者辛戒道 亦言本島
本為大国牧馬之地
5.『世宗實録』巻百四 世宗二十六年 四月己酉条
大内殿館伴蘆羅加都老言 対馬島本朝鮮牧馬之地
6.世宗實録』巻百十六 世宗二十九年 五月柄辰条
対馬一島 古籍載我国牧馬之地 倭人亦云本我国之島也
然其島終為賊敷
7.世宗實録』巻四 世宗元年 七月庚申条
対馬為島 隷於慶尚道の鶏林 本是我国之地載在文籍昭然可考 第以其地甚小又在海中 阻於往来民不居焉 於是倭奴是X於其国而無所帰者 X来投集 以為掘穴これら1-7を、サムソンが支援する反日洗脳機関独島プロパガンダ博物館の入り口に展示されていましたが、
本当は朝鮮側は対馬について、どう考えていたのか、もう少し文献を見てみましょう。
1419.06.28 世宗 4卷, 1年(1419 己亥 / 명 영락(永樂) 17年) 6月 29日(壬寅) 3번째기사
○李從茂等住船豆知浦, 日遣褊將, 下陸搜捕, 復火其戶六十八, 焚其船十五艘, 斬賊九級, 獲漢人男婦十五名、本國人八名。 賊, 日夜思所以拒我師者。 己亥, 從茂進至尼老郡, 令三軍分道下陸, 欲與一戰, 督左右軍先下。 左軍節制使朴實與賊相遇, 據險設伏以待之。 實率軍士, 登高欲戰, 伏發突前, 我師敗績, 褊將朴弘信、朴茂陽、金該、金熹等戰死, 實收兵還上船, 賊追擊之, 我師戰死及墜崖死者百數十人。 右軍節制使李順蒙、兵馬使金孝誠等亦遇賊力戰拒之, 賊乃退, 中軍竟不下陸。 都都熊瓦恐我師久留, 奉書乞退師修好, 且曰: “七月之間, 恒有風變, 不宜久留。”
1419.07.10.世宗 4卷, 1年(1419 己亥 / 명 영락(永樂) 17年) 7月 10日(癸丑) 4번째기사
http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wda_10107010_004
○柳廷顯更啓: “對馬島戰亡者, 百八十人。”
1419.07.22.世宗 4卷, 1年(1419 己亥 / 명 영락(永樂) 17年) 7月 22日(乙丑) 6번째기사
http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wda_10107022_006
対馬で捕虜になっていた中国人を保護するも、「対馬での朝鮮軍の弱小ぶりを詳細に見ら れたことから中国に送還できない」と議論になる
○左議政朴訔啓: “左軍節制使朴實對馬島敗軍時所(護)〔獲〕漢人宋官童等十一名, 備知我師見敗之狀, 不可解送中國, 以見我國之弱。” 右議政李原及卞季良、許稠等皆曰: “宜解送, 以全事大之禮。” 上遣通事, 往見官童等于中路, 探問其所見。
1419.08.05 世宗 5卷, 1年(1419 己亥 / 명 영락(永樂) 17年) 8月 5日(丁丑) 3번째기사
http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wda_10108005_003
『世宗実録』より、8月5日の議論。「日本の戦死者20人に対し朝鮮側が百余名」 朝鮮の惨敗
○通事崔雲、宣存義就見宋官童等十二人于中路, 問其所見聞, 官童等曰: “對馬爲島, 長可三百餘里, 廣可六十餘里。 今戰死者, 倭人二十餘名, 朝鮮人百餘名也。” 雲等還, 具以啓。 上王問雲等曰: “官童等其幷解遼東乎? 其特留之乎?” 雲等對曰: “以中國之兵征達達, 而被殺尙過其半, 百餘人之死, 何足恥(載)〔哉〕?” 上王曰: “吾意本如是也。” 乃命解赴遼東。
1419.08.16.世宗 5卷, 1年(1419 己亥 / 명 영락(永樂) 17年) 8月 16日(戊子) 3번째기사
http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wda_10108016_003
○義禁府提調卞季良等詣壽康宮啓: “昨承命, 鞫朴實敗軍之罪, 實供稱: ‘李從茂初令三軍三節制使皆下陸而戰, 後變令三軍節制使各一下陸。 實執籌乃下, 賊强我弱, 再報請救, 從茂不聽, 柳濕、朴礎等亦不下救, 故見敗。’ 臣等謂非特朴實之罪, 從茂、濕、礎皆亦有罪, 請竝鞫之。” 上王曰: “朴實敗軍之罪, 固所知也。 若以法論, 則廷顯爲都統使, 不卽收實請罪, 是亦有罪。 今罪張蘊以誣告, 而賞諸將, 又下廷顯、從茂於(嶽)〔獄〕, 無乃有愧於國人乎? 況東征勝多敗少乎? 後日之事, 亦不可不慮也。 若爲大擧之計, 亦宜用權, 然吾豈以此終不治其罪乎? 今實當以功臣之子免之。”
1420.01.20 世宗 7卷, 2年(1420 庚子 / 명 영락(永樂) 18年) 閏1月 10日(己卯) 6번째기사
http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wda_10201110_006
○禮曹啓: “對馬島都都熊瓦使人時應界都來傳熊瓦言曰: ‘對馬島土地瘠薄, 生理實難。 乞遣島人, 戍于加羅山等島, 以爲外護。 貴國使人民入島, 安心耕墾, 收其田稅, 分給於我以爲用。 予畏族人窺奪守護之位, 未得出去, 若將我島依貴國境內州郡之例, 定爲州名, 賜以印信, 則當効臣節, 惟命是從。 都豆音串入侵賊船三十隻內, 戰亡十六隻, 餘十四隻還來。 七隻乃一岐州人, 已還本州, 七隻則我島人也。 其船主則戰亡, 但有格人等還來。 今已推捉各船作頭人各一, 幷其妻子囚繫, 收取家財及船以待命, 乞速送官人區處。’
1421.04.07 世宗 11卷, 3年(1421 辛丑 / 명 영락(永樂) 19年) 4月 7日(己亥) 4번째기사
http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wda_10304007_004
・対馬が慶尚道に属するなどと言う話は、歴史書を調べても、古老に聞いても根拠がない嘘である。
・対馬は日本の辺境で、対馬を侵略する事は日本を攻撃することと同じである、と回答される。
○禮曹語宗貞盛使人仇里安曰: “都都熊瓦何以不見回禮使乎?” 曰: “回禮使專是通信本國, 不干我島, 故不見。 且賊船之作耗邊邑, 本非島主所知, 干犯天誅, 理宜掃蕩。 其商船十三隻, 本無賊心, 竝被拘留, 若聖慈發還, 則當堅禁賊船, 永通交好。 且貞盛常言: ‘貞茂生 時, 厚蒙聖恩, 身死之後, 遣使致賻, 聖恩罔極, 欲遣一二百人宿衛, 但以隔海異域, 不得如心。’ 伏乞照恕。” 禮曹問曰: “來書稱無罪三百餘人被留, 被留人數, 本不至三百。 且與賊船一時出來, 窺覘虛實。 豈得無罪? 國人爲賊所害者幾三百餘人, 被虜在汝島者亦幾三百, 此有何罪乎? 爾不顧此, 反出如此之言乎?” 仇里安曰: “島主年少不學, 請人作書, 其間豈無錯誤? 當以此意達於島主。” 禮曹問曰: “來書有平道全係累之言, 道全從仕本朝, 官至上將。 自作罪咎, 故安置于外, 其妻子竝給口糧。” 仇里安曰: “道全本以貞茂代官宿衛, 今以見黜, 故疑以本道之故得罪耳, 非有他也。” 禮曹問: “前書云: ‘對馬島隷於慶尙道之語, 考之史籍, 訊之父老, 實無所據。’ 本島之隷於慶尙, 古籍昭然。 且汝島使者辛戒道 亦言本島本爲大國牧馬之地, 故前此汝島凡事, 皆報慶尙道觀察使以聞, 以此也。 朝廷非欲爭汝土地也。” 仇里安曰: “本島之屬於慶尙道, 己之所不知, 戒道豈能獨知乎? 必是妄言也。 假使本島雖屬於慶尙道, 若不撫綏, 必外於聲敎。 本雖不屬, 若撫之以恩, 誰敢不服? 對馬島, 日本邊境。 攻對馬島, 是攻本國也, 故小二殿以通好大國與否, 俱奏御所, 答以任意爲之, 故島主遣我來貢。” 禮曹承宣旨而問也。
1563.世祖 30卷, 9年(1463 癸未 / 명 천순(天順) 7年) 7月 20日(丁未)
http://sillok.history.go.kr/viewer/viewtype1.jsp?id=kga_10907020_001&grp=&aid=&sid=0&pos=0
丁未/日本國對馬州宗貞國ㆍ宗盛弘、五島宇久守源勝、石見州藤源周布和兼各遣人來獻土物。
1592.10.14 선조 31권, 25년(1592 임진 / 명 만력(萬曆) 20년) 10월 14일(경자)
・對馬は日本人であるとの認識。
備邊司啓曰: “今見京畿監司上東宮秘 密之事, 及分備邊司所獻議。 謀不厭奇, 機不可失。 若如所通, 計終得施, 豈非幸乎? 銀四五百兩, 令戶曹下送, 姑爲試之。 朝士中有智謀 者, 別無可送之人。 聞落後朝士, 多聚成川云, 令分備邊司擇送。” 上敎曰: “見此啓辭, 足見料敵奇謀。 但予見異於是。 夫倭奴至狡至 譎。 而對馬島卽日本之人, 俱是秀吉之所督遣, 寧有離間之理乎? 況對馬島主平義智, 乃日本大將平行長之壻, 尤無可間之勢。 設使可間也, 不待 闕白之令, 而經還其國, 萬無此理。 又自相?殺, 而竟歸何處? 昔唐之吐蕃回?, 乃是異方之人, 而各自成群, 一時合兵入寇, 非如倭奴, 固 是一國之人, 而關白爲之主, 而戰督者之比。 分備邊司, 引此而比之, 徒見古迹, 不揆古今形勢, 豈不謬哉? 我以賂物要約於馬島之賊, 則彼備 告其由於日本之將。 日本之將, 若令馬島之人, 受其物而潛自相和, 有若日本不知者然, ?試我國之淺深, 而我國得其相通文字, 反間諜於日本之 將, 則必爲其所賣, 必發一?也。 賂物不足惜, 和議不足數, 而爲賊所賣爲可惜也。 ?彼瑞雲之輩, 方附賊黨, 中立觀變, 其言亦何足盡 信? ?陷於其術, 所損非細。 自前擧朝之陷於倭術者多矣。 予見如此, 只備參考, 更議以啓。” 回啓曰: “伏承聖敎, 臣等深服聖度之超詣 也。 分備邊司所通辭緣, 勿爲擧行。”
1625.07.07.인조 9권, 3년(1625 을축 / 명 천계(天啓) 5년) 7월 7일(계축)
日本對馬島主平義成, 力辭回答使鄭?等所留之銀 貨。 先是, 鄭?等之奉使日本也, 日本國王源家光, 贈?銀四千五百十五兩、金屛二十四部、甲衣九領、大劍三柄, 鄭?等辭不獲已, 留置馬島而 還。 其後月餘, 島主封而還送, 上盡給鄭?等。 於是, ?等力辭, 廟堂以其半, 送于都元帥, 以爲軍需, 以其半, 又還于島主, 以酬接待之 勞。 至是, 平義成送人辭之。
1660.對馬島失火救活, 外國救災 현종 1년 庚子四月二十三日
http://db.history.go.kr/url.jsp?ID=bb_020_001_04_0730
對馬は外国なので、(火事が起きた援助として)百石程度援助すればよい。更に商業用の文も援助すればよい。
今四月二十三日大臣·備局堂上引見時領議政鄭太和所啓, 頃者訓鍊副正朴就文, 被箭於街上輦轂之下, 有如此之變, 固當重治, 以杜後弊, 而柳克堅·車時賢兩人中不分罪之輕重, 竝爲刑訊, 未知何如, 洪重普曰, 柳克堅, 則與朴就文曾有嫌怨云, 萬無所疑, 而車時賢, 則就文亦言所昧平生云, 只以射伴, 常時借箭之故不必知情, 而指其所射之箭, 年前所失云者, 出於誣飾, 故當初惡其飾詐, 一樣請刑, 該曹之規, 旣請刑推之後, 則例爲連請加刑, 而似不可一向嚴刑矣, 上曰, 旣非正犯, 則二次之刑, 足懲其詐言之罪, 直爲放送可也。
又所啓對馬島失火, 延燒甚多, 其居民, 生理蕩盡, 將無以存活云, 若待其告急而後救之, 則彼必不知德意, 不如自我先給之爲愈也, 左議政沈之源曰, 臣亦聞之, 其勢果爲窘急, 難以支保云, 若於此時救活, 則在我實有生色之事, 而彼雖蠻夷, 亦豈不深感德意也, 刑曹判書洪重普曰, 東萊府使欲以百餘石米啓請, 而有所不敢云矣, 上曰, 救災外國, 百石之米似爲太略, 更爲商量加給可也, 鄭太和曰, 必須三百石然後, 彼可以知德意, 而此則
1717.02. 日本國對馬州太守拾遺平 義如 對馬州太守拾遺平 義如 朝鮮國禮曹大人 二月 日
http://db.history.go.kr/url.jsp?ID=ts_002_0030_0020_0150_0060
日本國對馬州太守拾遺平 義如 奉書
朝鮮國禮曹大人 閤下
(中略)
元文二年丁巳二月 日
對馬州太守拾遺平 義如
1719.05.講定書契寫 朝鮮國禮曹參議魚 有亀 日本國對馬州太守拾遺平公 五月 日.
http://db.history.go.kr/url.jsp?ID=ts_002_0040_0020_0030_0220
講定書契寫 朝鮮國禮曹參議魚 有亀 日本國對馬州太守拾遺平公 五月 日
〃講定書契寫、 左記、
朝鮮國禮曹參議魚 有亀 奉復
日本國對馬州太守拾遺平公 閤下
(中略)
18C中旬 星湖僿說 李瀷
・對馬島は新羅に属していたというが、三国志などにもそんな記述は見当たらない。
巻十九 経史門 征対馬島
愚按對馬島者、古今言本属新羅、蒙三国志、未見其必然
巻二十六 答安百順別紙丁丑・
明治維新以前の記録にある対馬島主が徳川将軍の外交使者をしている記録
○孝宗 順治六年七月五日 壬戌對馬島主送差倭、別獻書契願得鷹、狗鳩鶉鷪蝟鴛鴦穴燕活貂朝廷令道臣許之。 時關白新作園林廣聚珍禽異獸故島主有此請。
1811.01.01.禮曹抵日本國對馬州太守拾遺書
東槎錄 柳相弼
國書 拾遺書
奉書日本國對馬州太守拾遺平公閤下。朝鮮國禮曹參議鄭觀綏謹封 右皮封
屆春和。緬惟興居對時珍相。慰溸交至。朝廷聞貴大君嗣承丕緖。專价馳賀。敦信修好。惟願諒此至意。另垂款護。俾遄往還幸甚。畧奉菲儀。並冀莞領。不備 嘉慶十六年正月日
・宛名書きからも判るとおり、日本であると認識しています
地誌等
1418.世宗實録地理志
1424.世宗6年 慶尚道地理誌 河演 東菜に對馬の記載無し
Vol 2 > 慶州道 (p36) >東菜県 P86-89
巻32 慶尚道 東萊県 對馬島 卽日本國對馬州也舊隷我鷄林未知何時爲倭人所據
1615.東国輿地誌 P76.77
對馬島 本属鷄林府不知何時為倭所侵據
1682.?もしくは高宗年間(1864-1895)寫 東與便攷 P154に対馬の表記
對馬島 即日本国対馬州 此旧隷我鷄林未知何時爲倭人所㩀
1756.『旅菴全書』巻之七、「疆界考」十二、釜山 申景濬
釜山
文献通考朝鮮釜山地方距日本對馬島僅一日程相伝舊属日本為大海限隔棄于朝鮮崎是日本以歳侵借朝鮮穀萬○朝鮮令人往索日.....
1759.?輿地圖書 http://db.history.go.kr/url.jsp?ID=sa_020_0110_0210_0090
慶尙道 東萊 山川
鷄鳴山 在府北二十五里乃金井山北峯自沙背也峴來 上山 在府東十五里望對馬島最近自 機張雲峯山來 干飛烏山 在府東二十里上山南峯自上山來 其比峴 在府西八里自金井山來 釜山 在府南二十一里山如釜形故名其下卽釜山浦也有恒居倭戶 肅宗朝戊午移館草梁 吾海也項 在府西南四十三里有牧場自勝岳山來 海 在府南十五里 絶影島 在府南三十里有牧場高麗太祖七年八月甄萱遣使獻絶景島馬一匹後聞絶影名馬至百濟亡之識悔之九年使人請還其馬太祖笑而許之新增壬辰亂爲倭賊所掠崇禎癸酉復置 牧場在釜山浦海中 古智島 在府南三十里 毛等邊島 在府南三十里 南乃浦 在府南二十里有魚梁 石浦 在府南二十三里舊有牧場今移 茶島 在府南四里 梵魚川 在府西二里其源出金井山流入海雲浦 絲川 在府東十五里源有二一出圓寂山一出梁山境沙背也峴流入海雲浦 溫井 在府北五
里其熱可熟鷄子帶 病者浴之輒愈新羅時王累幸于玆甃石四隅立銅柱其穴猶存李奎報詩未信硫黃漫水源却疑暘谷浴朝暾地偏幸免楊妃汚過客何妨暫試溫 鄭誧詩湯泉傳自昔浴室至今存水脈來非遠槽欄尙帶溫二年困瘴癘半日洗囂煩此樂除曾點無人可與論 朴孝修詩洞房深處開石塘净漾十解盈汪汪深可齊腰僅二尺溫烟暖霧蒸其傍畫燭紅燈照水底半揎香袖扶入湯愧煩纎手洗鮐背垢膩鱗甲消雪霜快如麻姑爬癢處熱汗發面流 淸漿浴罷徐徐拭白紵晞髮頹然臥一床身輕骨爽若換髓何羡飄飄鶴背翔頓忘身世得甘寢怳惚夢遊何有鄕覺後還爲行路客驛騎塵土汚衣裳 權踶詩病餘湯井固堪珍舊梁除時覺日新若向凡門誰與去情懷髣髴浴沂春新增今則建閣于井上又以甃石作一小井以別男女之浴 對馬島 卽日本國對馬州也舊隷我鷄林未知何時爲倭人所據自釜山浦都由朔至島之船越浦水路凡六百七十里島中分爲八郡人戶皆沿海浦南北三日程東西或一日或半日程四面皆石山土瘠民貪
以 煮鹽捕魚販賣爲生宗氏世爲島主其先宗慶死子靈鑑嗣靈鑑死子貞茂嗣貞茂死子貞盛嗣貞盛死子成職嗣成職死而無嗣丁亥年島人立貞盛母弟盛國子貞國爲島主貞國死子 杙盛嗣郡守以下土官皆島主所署亦世襲以土田鹽戶分屬之爲三番七日相遞會守島主之家郡守各於其境每年踏驗損實收稅取三分之一又三分其一輸二于島主自用其一島 主牧馬場四所可二千餘匹馬多曲背所産柑橋木楮耳南北有高山皆名天神南稱子神北稱母神俗尙神家家以素饌祭之山之草木禽獸人無敢犯者罪人走入神堂則亦不敢追捕 島在海東諸島要衝諸酋之往來於我者必經之地皆受島主文引而後乃來島主以下各遣使船歲有定額以島最近於我而貧甚歲賜米有差其南又有一岐島距船越浦四十八里自 一岐經薄多島至赤間關又六十八里赤間乃日本西崖也新增杙盛死子義盛嗣關伯源義尹時特賜名義字及府名屋形屋形乃尊稱也義盛死弟四郞殿之子盛長嗣盛長死弟能登 守之子將盛嗣將盛死叔父晴康嗣晴康死子義
寒臯觀外史v1
對馬島舊隷我鷄林未知何時爲倭人所㩀島中分爲八郡圡瘠民貧以魚鹽販賣爲生宗氏世爲島
主其先宗慶死子靈鑑嗣靈鑑死子貞茂嗣貞茂死子貞盛嗣貞盛死子成職嗣成職死無嗣島人
立貞盛猶子貞國爲島主貞國死子杙盛嗣南北有高山名天神南稱子神北稱母神家家以素
饌祭之山之草木禽獸無敢犯者罪人走入神堂則亦不敢追捕自東萊釜山浦至島水路凡六百
七十里自島至一岐島四十八里自一岐島至赤間關六十八里赤間關卽日本西厓也
嘉靖己酉皇帝特賜陪臣宴于禮部中廟遣官謝恩禮部郞官覧其謝表曰表詞極佳其表曰雨露
恩㴱撫綏罔間於內外雲天澤霈優寵延及扵賤 㣲云云何圖擎表之下价特被錫宴之殊榮浹骨
淪肌怳親沐於洪渥醉酒飽徳若普沾於全封兹豈陪臣之私叨實是一國之同慶云云金 慕齋安 國 之詞也[주:安國字國卿義城人官二相謚文敬配享仁宗廟庭
○對馬島卽日本對馬州也舊隷我鷄林未知何時爲倭人所據自釜山浦都由朔至島之船越
浦水路凡六百七十里島中分爲八都人戶皆沿海浦南北三日程東西或一日程或半日程
四面皆石山土瘠民貧以煮鹽捕魚販賣爲生業宗氏世爲島主後乏嗣貞國代爲島主牧馬
場四所馬多曲背所産柑橘木楮耳南北有高山皆名天神南稱子神北稱母神俗尙神家家
以素饌祭之島在海東諸島要衝諸酋之往來於我者必經之地皆受島主文引而後乃來島
主以下各遺使船歲有定額以島最近於我而貧甚歲賜米有差其南又有一岐島距船越浦
四十八里自一岐*經博多島至赤間關又六十七里赤間乃日本之西崖也
(山川附道里/對馬島)
對馬島舊隷鷄林未知何時爲倭人所據自釜山水路六百七十里島中分爲八郡土瘠民貧以煮鹽捕魚爲業
((倭國) 對馬島)
○對馬島主歲遣船二十五隻島主宗盛長之子 宗 熊滿 歲遣船三隻島主之侄宗盛氏歲遣一船(주:幷通文館志)
○對馬島舊隷我鷄林未知何時爲倭人所據島中分爲八郡土瘠民貧以魚鹽販賣爲生宗氏世爲
島主其先宗慶死子靈鑑嗣靈鑑死子貞茂嗣 貞 茂 死子貞盛嗣貞盛死子成職嗣成職死無嗣島人立貞盛猶子貞國爲島主貞國死子杙盛嗣南北有高山皆名天神南稱子神北稱母神家家以素饌祭之山之草木禽獸無敢犯者罪人走入神堂則亦不敢追捕[주:稗官雜紀]
○馬島土地磽瘠五穀不生惟種瞿麥人皆掘葛蕨根而食之島主亦徵稅於三浦以資生馬島居人受我官爵拜護軍者歲一來朝無慮五十餘隻來則留連數朔又受格倭粮料以養其妻子慶尙下道米穀太半耗於倭料[주:傭齋叢話]
甁窩全書 東耳刪畧
本對州[주:주시미]郡八今則下管二郡曰上縣曰下縣
四方一日程或云南北三日程東西或一日或半日程或云橫三百里離日本地故號爲島有異珍之類勸淸神隨唐是故被置探題職小下國也
對馬守宗氏世襲爲島主其先宗慶死子靈鑑嗣
靈鑑死子貞茂嗣貞茂死子貞盛正統八年天皇之嘉吉三年癸亥嗣貞盛死子成職嗣成職死而無子丁亥年島人立貞盛母弟盛國之子貞國爲島主壬辰年間平義智食之
其南嶴爲哥爲甘大密東南爲佛乃哥世西北爲推沙几爲山谷爲撒思乃爲知亦磨爲儞打北爲倭奴烏喇其邑稱芳津形勢雖好而絶與倭城郭不同居大山之下大海之口大抵人皆沿海浦而居凡八十二浦無高城深池可以防守四面皆山坂岑蔚有急則只足以竄匿而已東距壹岐島必
待盡日風可渡南距平戶島稍近於一岐而風浪益惡西距豐崎陸行則二日船則順風一日櫓行二日自豐崎西距我國海面只是半日風其 山東西長而南北短其土磽确水田無一畝蔬菜牟麥盡種之沙石之上長不滿數寸大槪土瘠民貧以煮鹽捕魚販賣爲生在平時只通我國之關市以資生理黑角胡椒等物自南蠻出 來獺皮狐皮等物在倭國無用故賤買於虜中而貴賣於我國若紗羅綾緞罽布金銀則其國之所重故不得轉賣於我國其女子多着我國衣服男子幾解
我國言語 稱倭國必曰日本稱我國必曰朝鮮未嘗專以日本自處在平時則蒙利於我國者多賴日本者少故自將倭至卒倭戴我國之心勝於附日本常以道路迂遠風濤險惡及秀吉幷呑六十 六州義智懼罪遂賣我國以媚秀吉而爲前鋒秀吉割筑前博多以賞其功馬島之將倭始得粒食前則惟食我國之賜米而已然在倭京猶未有家舍擇市樓之近其婦翁行長家者暫時 賃泊擯不與諸將倭之列云大槪深處之倭銳毒有餘而不甚巧詐於我國之事又不知東西交兵八年迄不
識我國邊將姓名對馬之倭銳毒不足而巧詐百出於我 國之事無不周知自平時擇島中童子之伶俐者以敎我國言語又敎我國書啓簡牘之低昂曲折雖明眼者倉卒則不能辨其爲倭書我國無釁則專意力附倭奴盛强則賣弄我國請爲 嚮導其凶謀詐計不一而足邊將之撫御若或失道則必復爲此奴之所誣矣郡守以下土管皆島主差任亦世襲以土田鹽戶分屬之爲三番七日相遞會守島主之家郡守各於其境每 年踏險損實收稅取三分之一又三分之一中輸其二于島主自用其一島主牧馬場四所可二千餘匹高多曲背所産橘柑木楮耳南北有高山皆名天神南稱子神北稱母神俗尙神家 家以素饌祭之山之草木禽獸人無敢犯者罪人走入神堂則不敢追捕島無立錐地可耕故人民貧甚生子者只留繼姓餘悉投水及我國和復贈米公料米合幾至三萬餘石島主以此 分給民間四歲以上皆給料故無殺子之俗而民皆德我國
退溪集
退溪先生文集攷證卷之三
第八卷辭狀啓書契修答(文獻通攷)書者。文字。契者。刻木。而書其側故曰書契。一云以書契約其事也
禮曹答對馬島主宗盛長對馬島。(地志)卽日本國對馬州也。舊隷我雞林。未知何時爲倭人所據。 自釜山浦都由朔。至島之船越浦。水路凡六百七十里。島中分爲八郡。人戶皆沿海浦。南北三日程。東西一日。或半日程。四面皆石山。土瘠民貧。以煮鹽捕魚販賣 爲生。宗氏世爲島主。郡守以土官。皆島主所署。亦世襲。島在海東諸夷要衝。諸酋之往來於我者。必經之地。皆受島主文引而後乃來。島主以下。各遣使船。歲有 定額。以島最近於我而貧甚。歲賜米有差
賜米太一百石(攷事撮要)歲賜米太共二百石。正德七年約條時。減一百石。
五船還受案撮要。島主歲遣船三十隻。正德約條時。減爲二十五船。蓋至是。請依前受三十船也。
商物滿貿案撮要。舊例。日本書契內別幅。只土宜少許。隨其多少。而量加酬賜。未嘗有定規。然別幅漸多。國計滋耗。其後。別幅內。始稱賣物。又其後。變賣爲商。名種甚多。朝廷許貿幾盡。自此每行。必別錄物目。謂之商船。稍不滿意。則輒發詬怒。冀使本國不得已而强從之。
巧諼(說文)諼。詐也。
特遣船(攷事撮要)島主有特送船。正德約條時減。若有事則付歲遣船中來告。
授職倭人云云(攷事撮要)受職人一人不許接待。壬辰亂後。始許接待。歲一來朝。○案授。撮要累處。皆作受。
大中小三船云云(攷事撮要)歲遣船二十五隻內。大船九隻。長二十八九尺三十尺。每船船夫四十名。中船八隻。長二十六七尺。每船三十名。小船八隻。長二十五尺以下。每船二十名。尺量船體。點數船夫。不得過之。
薺浦在熊川縣南五里。有恒居倭戶。○案嘉靖甲辰。設加德,天城二鎭於熊川海中。薺浦之塞。蓋謂此。而水枬之立。疑亦在此時。
釜山在東萊府東二十一里東平縣。山如釜形故名。有恒居倭戶。
李貴淸事實未詳。
1827.択里志
自安東......其東南則慶州、北自寧海、南至東菜、凡九邑、皆在嶺背之外、..........
為東菜、即東南海上、自倭人登陸之初境也、自壬辰前、於邑南海上、創置倭館、周囲数十里、設木柵為限、置卒以防之、禁我国人出入交通、而毎歳、對馬島人、受島主文引、数百人、来留館中、朝家、割慶尚租賦(税)若干、与之所留倭、以一半貢于島主、以一半 用、無所事、.....
1850's 位 與図備雑 金正浩 慶尚道 東菜
リンクから、Vol7.巻7 P108頁から。(Viewer必要)
P112頃に対馬戦役の事が記載あり。
ただし、慶尚道の地理として、対馬は記載せず。
1860's 大東地誌 金正浩 慶尚道 東菜
附録
附對馬島
對馬島在本府東南海中便風一日可到舊隸辰韓新羅實聖王七年(*408年?)倭置營於對馬島是爲倭人所據之始 (*408年の話は、三国史記からの引用)
屢爲新羅邊患島中分爲八郡人戶皆沿海浦而居南北三日程東西一日程或半日程四面皆石山
土瘠民貧以煮鹽捕魚敗賣爲生宗氏世爲島主郡守以下土官皆島主所署占世襲以土田鹽戶分屬之收
稅納三分之二于島主有牧馬場四處馬多曲背所産多柑橘木楮南北有高山皆名天神山島在東海諸島
之要衝高麗末作賊於我國者皆日本西邊各島及此島之倭也 本朝世宗朝對馬島倭犯邊命李從茂領
九節制征之大捷 宣祖壬辰日本之入寇也亦因此島往來本島最近於我國而貧甚每歲賜米布有數
朝廷年例所賜公貿綿布五萬七千四百五疋二十尺五寸禮曹年例回
賜求請鷹子五十八連人蔘三十二斤八兩虎皮十三張豹皮十七張白苧布四十疋白綿紬黑麻布
各三十二疋白綿布六十五疋筆墨各四石七十五四付油芚六十八番花席一百十張白紙七十七束雨傘
紙二十九束十張火熨眞梳虎肉虎膽犬膽各五十二刀子獅子覓覓滴各二十六馬省七十四扇子八十法
油淸蜜綠末薏苡各一石二斗胡桃柏子大棗黃栗各三石七斗榛子一石十一斗此外又有歲賜島主米穀
及雜物而不能盡記對馬島年例所獻別幅公貿銅鐵二萬九千三百七十三斤
五兩四錢鑞鐵一萬六千十三斤八兩蘇木六千三百三十五斤黑角四百桶胡椒四千四百斤白礬一千四
百斤朱紅八斤彩畫硯匣二坐紋紙三軸貼金屛風一雙赤銅盥盤一部黒漆華牋匣一坐水晶笠緖一結彩
畫七寸鏡二面假銀烟管十箇○倭館釜山浦舊有恒居倭戶 中宗五年與薺浦居倭作亂乗夜陷
城遂遣將討平之絶不許居後島倭納款請罪許居如舊至于壬辰之前入本島 宣祖己亥通和後更爲置
館待之凡三百人有館首書僧草梁客舍卽貢倭肅拜所 肅宗四年移館于草梁○倭學訓導別
差一員倭館公貿綿布三萬六千四十四疋米一萬八百三十九石大豆五千八百八十六石三
手米四千七百二十石倭料米二千二百八十七石大豆八百二十二石三手米三百八十三石錢八
百兩下納各邑東萊機張慶州大邱仁同漆谷蔚山星州善山草溪高靈寧海盈德淸河興海迎日
長鬐○開市世宗朝倭人來寓釜山浦薺浦鹽浦等地此爲三浦倭戶之始後漸至滋蔓命島主刷還
成宗朝以日本書契使臣私有所獻責以人臣無私要拒不許其後別幅內始稱賣物未幾又稱商物朝廷又
許貿昜 宣祖朝許和後始令開市於倭館大廳○館市每月三日八日爲定而若倭人有請或物貨委積之
時則別開市
1895 朝鮮地誌 記載無し。
1899.-1906.大韓地誌
慶尚南道 (P133)
位置境界 慶尚南道.......日本對馬島●相對
慶尚南道
位置 慶尚南道X........南東大海X臨...日本對馬島蓬蓬相對
1908.10.25.大韓新地理學 金夏鼎 김하정
http://db.history.go.kr/url.jsp?ID=ma_05_003_0180
第三章 境界 我國은 東西 及 南面이 日本海에 臨고 其 南端의 海角이 日本 對馬島와 相對야 海峽을 成 處 卽 朝鮮海峽이 라 此를 日本人이 西水道(부롱돈 海峽)라 云니 此間의 距離 二百十四里에 不過며 西南은 黃海에 枕야 支那에 山東省, 江蘇省과 遙遙 相對고 北方大陸에 連 部分은 河流及山脈을 因야 自然的 境界를 成니 卽, 支那와 鴨緣江 及 長白山(不咸山)脈을 因야 割界되얏스며 露領 烏蘇里와 豆滿江을 因야 劃界되얏니라.(未完)<31>
地図など。
1471.海東諸国記
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/eastasia/kaitou.htm
申叔舟(朝鮮)撰、不分巻、1471年 対馬は、 日本国対馬図に記載。九州大学
1562.籌海図編
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/eastasia/chukai.htm
中国の明代・嘉靖41(1562)年に地理学者鄭若曽 対馬は日本国図に記載。 九州大学
対馬の西北に、『西此至朝鮮国界』と記載がある。
1541図 書 篇
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/eastasia/toshohen.htm
中国明代の学者章(しょうこう、1527-1608)が、1541(明・嘉靖41)年から1577(万暦5)年にかけて編纂した「類書」(百科事典の一種) 対馬は日本国図 に記載。九州大学
対馬の北に、『北至朝鮮国界』と記載がある。
1599.登 壇 必 究
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/eastasia/toudan.htm
明の王鳴鶴が武官の昇進に必要な知識をまとめた書物で、1599(明・万暦29)年に刊行されました。対馬は 西日本図 に記載。九州大学
『西北朝鮮国界』と記載。
1621.武 備 志
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/eastasia/bubishi.htm
茅元儀(ぼうげんぎ)が1621(明・天啓元)年に完成させた兵書です。対馬は 日本図 に記載。九州大学
1750?해동지도(海東地圖)〈古 4709-61〉慶尚道図/日本界対馬島と記載韓国中央図書館
팔도지도(八道地圖)〈古軸 4709-48〉 慶尚道図/日本地対馬島ソウル大学奎章閣
지도(地図) 日本国図/対馬島 ソウル大学奎章閣
좌해지도(左海地圖)〈奎 12229〉 慶尚道図/日本界対馬島 ソウル大学奎章閣
조선팔도지도(朝鮮八道地圖)〈奎 12419〉 慶尚道図/日本界対馬島 ソウル大学奎章閣
여지도(古4709-78) 慶尚道図/日本界対馬島 ソウル大学奎章閣
여지도(古4709-37) 慶尚道図/日本界対馬島 ソウル大学奎章閣
여지도(古4709-37) 日本国図 ソウル大学奎章閣
동국여도(東國輿圖)〈古大 4790-50〉 慶尚道図/日本界対馬島 ソウル大学奎章閣
각국도(各國圖)표지 日本国圖 対馬島
東京山川八道地図 慶尚道圖/日本界 対馬島 高麗大学図書館
輿地圖 日本国圖/対馬島 高麗大学図書館
輿地圖 日本国圖/対馬島 高麗大学図書館
1898.朝鮮地圖 対馬島(日本)朝鮮の町名は記載されず対馬島(日本) 高麗大学図書館
朝鮮地圖 日本国圖/対馬島 高麗大学図書館
地圖1835-1894 慶尚道圖/日本界 対馬島 高麗大学図書館
天下圖 日本国圖/対馬島 高麗大学図書館
朝鮮の地図には、朝鮮半島全体図においては確かに対馬が記載されていることのほうが多い。
しかしながら、それら地図には、支配領域には水営や兵営を記載しているものであるが、朝鮮半島の各都市には記載がされているものの、対馬に関しては、それらは記載されていない。
また、対馬の部分を拡大してみてみると、きちんと日本国である表現が加えられていることが多い。
思うに、対馬は日本の玄関口および日本との相対的な位置関係を表すために記載されているように思われる。
戦後
1948.01.25 ソウル新聞 口ウイに対馬を朝鮮領土で復旧させようという提案が提出されるということ
朝鮮海峡に位置している対馬島を朝鮮領土に復帰させることを対日講和会議に提案しようという提 案が過渡立法議院に提出された。
提案者は立議議員許侃龍で提案理由において対馬島は朝鮮海峡中央にある上・下2個の主島と周囲に数十個の属島で 成立しているので釜山(プサン)からは22里地点にあって日本福岡長峠では2百19里地点にあってまた本来新羅領土だったことを文書上によって明白だが中 間に倭冠が侵したが李氏組に達してやはり中断されたことはあるが世宗(セジョン)の時から高宗(コジョン)の時に至るまで約4百年間余り政治経済的に朝鮮 に隷属していたことという。
以上事実と共に日本が大陸侵略基地(機知)として遅世に占拠しただけにこれから東洋平和を成し遂げるために朝鮮に服 属させなければならないということだ。 同提議に立議議員中50人が捺印賛同していて今後立議の正式可決が注目される。
ソウル新聞1948年 01月25日
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2010/03/1974-52224-276-278-6.html
1948.02.18.口ウイに対馬朝鮮領土復旧案を対日強化会議に建議提案 『東亜日報』
朝鮮海峡の中央に横たわっている対馬島は本来我が国の領土として政治的経済的に私たちとの関係が 深かったことは歴史が証明するところで同島を日本が強制的占領した後東洋平和をかく乱させる大陸侵略の基地(機知)で利用されたしこれから唾(針)薬日本 の再起を防ぐために対馬を朝鮮領土に復帰するということを対日強化会議に建 議しようという提案を立法議員許侃龍が49議員の賛同捺印を得て17日イブィボヌェウイに回付したがその提案理由は次のようだ。 対馬は朝鮮海峡の中央にある上下2個の主導と周囲に散布された数十個の速度で成立したし日本九州大宰府の所在地の福岡長崎から33里地点にあって釜山(プ サン)からははるかに近くて119里地点にある。 この島は本来新羅に隷属したことで上告新羅の人々がこの島に駐在往来したしまたこの島が二つの主導で成立した理由に二石だと命名されたことなのに日本海的 がこの島を占領した後我が国で命名した二石の偽名をそのまま使ってツシマといって大麻あるいは律島で記録するようだ。 要するに対馬は世宗朝から高宗(コジョン)組初年まで4百年間余りたとえ一時の簡単はあったが政治的経済的に我が国に隷属したことは門跡が騒然としていた ことだ。
東亜日報1948年02月19日
1948.02.19.、対馬島朝鮮領土復帰建議
(出典:東亜日報 1974年5月22日 秘話 第一共和国 276 第十一話 李承晩と日本 4 独島領有権をめぐって韓日間紛糾しきり 対日平和条約草案に 所有権明記せず)
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2010/03/1974-52224-276-278-6.html
立法議院で、立法議員である許用亀ほか59人の署名を受け、対馬島朝鮮領土復帰建議を対日講和会議に建議しようと したことがあった。提案理由は「対馬島は元来、新羅に属したもので、日本の長崎からは119マイルにもなるのに、釜山からは33マイルにすぎずに非常に近 く、二つの主島からなるので「二島(トゥソム) と命名されたこと」などであった。
1948.08.05(09.16).korean Petition Concerning overSovereignity of "Docksom", Ullunegdo, Tsushima, and "Parang" Islands.
Ⅱ Transferring the island "Tsushima" to Koreas
The island Tsushima located at the boundary between the
Sea of Korea and the Sea of Japan is a strategic point on the trans-
portation from Japan to the Continent. Its geographical importance
is easily recognized by the defeat of Russia. We have to uderstand
that the Baltic Fleet could not escape from this point and it made
Russia defeated in the final stage of the Russian-Japanese war.
Oriental-istorially, the Tsushima was the Waiku, headquarters
of agression into the orient for 5 centuries since the 5th century.
and Korean-historically, it was the den of the burglars who abused
their power in the front of Korea for about 2000 years.
Thus, Japan always ◎arched out into Korea or the continent by
using the island as a basal point or as a stepping point. In the
world-map made by Lapo Homen, 1554 (and old oriental map) the
"ladrois" on the sea between China and Japan was undoubtfully the
Tsushima and its charactor was already know among the Europeans.
Escaping from the attacking of the pirates based at the Tsushima,
Kora had to pay them several million suks of rice, several milliion
pieces of cloth and other means of living annually, for 5 centuries.
When we consider that black clouds covering the recent Korean history
started from Japan adn ill air current was retained in this
island, Koraen peopel cannot pacify their nerves against the Tsushima.
In the local reconstruction after the great world war Ⅱ, the
Tsushima should be transfered to Korea as to
1)remove absolutely a standing menace to the ?????? for Koraen
People,
2)pfohibit the Japanese agressive emergence into the continent,
3)prevent the trapling upon the orient of the burgla s.
We hereby indicate the appropriate basal condition as follows;
a) geographically: The localization of the Tsushima a rather
nearer to Korea than to Japan, and it is not unnaturally thought that
the Tsushima belonging to Kora if we decide its belonging freely
standing far from the political conditions,
b historically] The name of "Tsushima" was orignated from the
Korean name "Taeosum" ,meaning two island (Tsnushima is composed of
two island actually9 and the grounding civilization of the Tsushima
were almostly due to the Korean old civilization, as many scholars
said, and it is well indicated that the recent civilization was made
by the hand of the Japanese of Koean origin, according to various
references.
First of all, when Korea subjugaled the Tsushima 1396 and 1419,
due to their bad faith, the tsushima re-recognized the relation be-
tween both nations, namely, master and servant. And as most of the
people in the Tsushima recieved official ranks and salaries from
Korean government, Korea thought the Tsushima a land belonging to
Korean goverenment, and this fact was clearly described in the history
and geography of Korea (lee's Korea). It is explained that Tsushima
belonging to Korae and then to Korea nad Japan since Japnese pirates
occupied this island. Such instances occupied by two nations, are
often found in the oriental history. For example, ryukyuu belonged
to China and Japan, and Joshin belonging to Korea and China. And it
is not denied that for some period, the Tsushima belonging to Korea
and Japan doubtfully
c. Politically: though the oriental peace will be completely
made according to the equally developen plitical sulf-awakening of
then, the Japanese agression should be by the riot removed before
to be so. For these purposes, firstly it is necesarry not to let
Japan have any bridge to the orients and the tsushima is carefully
considered for it. As long as Japan ages and governs the
Tsushima freely and legally, Japan will have the chance and power
to agres into the orient. ofcourse, this reagression of Japan
is a great menace to Kora and the orient.
Considering frankly the uneasiness of the United States when
Cuba and Haiti being basal ground of pirates of aggressing powers,
everyone can well understan the sharp mental process against the
Tsushima.
d. Economically: The Tsushima has poor soil to agriculture
that independent supporting was never obtained. And this resulted
from that the island was under the supervision of Japan. But satis-
fied with the mean position to Korea. and , they could not help falling
to beggers as soo as they could not pirate ships. And those who
were under such stranges of beggering , they used to get fishing profits
to submit the Tushima was to open then three fishing bases in the
south coast of Korea , too.
thereafter, when the Meiji-restraction was established and
international relation between Korea and Japan was interrupted, re-
opening of diplomatic relation between both counries began with the
fishing treaty. this fishing profit obtained in the Korean coast.
which center is the Korean channel, is necesarry for only this island
population but also indeed plays a great role in the financial
problem of Japan.
It is doubtlessly expected that the fishing o their fishing
centers for liveing vbetween both countries will be severely. And so
the reversion of the Tsushima where is the point of co???????? sea
is of importance meaning, and this economical base may be tunnel to
the starting point to the political activity.
Without objection, the chance tof living means of japan or their
living and developement will be indec allowed, but it will be never
permitted to rehabilitate standing of the base of our fear and sacri-
fices. We firnly carry out point that transferring the Tsushima to
Korea will be the grouding stone for establishemen ot the new
oriental orders. some debator may say that Korea which is not a
direct victor will not be able to request the division of land. In
for one or two lives. and so. it will not much estimated to take back
the Tsushima for our great sacrifice or loss for 2000 years, though
all lands of Japan will be less enough to compensate them. It is
better understand that small island "Tsushima " will be a compensation
for loss of people and substances of Korea. Establishemt of
Polish Corridor in the Versailles construction was for the new
European order cut for the Polish merjtorious service, and the mili
tary service of Korea will be considered.
Potsdam annoucement of 26th July 1945 said "the soverignity "
of japan should only be on Honshu, Hokkaido, Kyusyu, Shikoku and
island directed -------" It is to be interesting that the Kyusyuu
and the Tsushima were omitted from the item, and this point is the
very base to request the problem. oicily to Italy, Rsica to France
and Tsushima to Korea" They are legal.
1948.08.20 1948年8月20日、「我々は、対馬島を韓国に返還することを日本に要 求する」と主張(出典:東亜日報 1974年5月22日 秘話 第一共和国 276 第十一話 李承晩と日本 4 独島領有権をめぐって韓日間紛糾しきり 対日平和条約草案に 所有権明記せず)
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2010/03/1974-52224-276-278-6.html
1948年8月20日、「我々は、対馬島を韓国に返還することを日本に要 求する」と主張し、「対馬島は、上島と下島の二島からなり、韓日両国の中間に位置するものであるが、数百年前日本が奪取したものだ」と強調した
1949.01.08.韓国の李承晩大統領、対馬返還要求を声明。アメリカと日本はこれを拒否
http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/ytoanippo19490108.PNG
1951.03末頃 洪璡基が崔南善を訪ねる
(出典:東亜日報 1974年5月22日 秘話 第一共和国 276 第十一話 李承晩と日本 4 独島領有権をめぐって韓日間紛糾しきり 対日平和条約草案に 所有権明記せず)
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2010/03/1974-52224-276-278-6.html
1951年3月末、法務部法務局長の洪璡基(ホン・ジンギ)が、対日平和条約の草案を掲載した日本の朝日新聞をもって兪鎮午をたずねた
.......中略........
「草案」を手にした兪鎮午は、洪璡基とともに綿密に検討した。兪鎮午は、意見書作成の準備に着手し、まず初めに尋ねたのは崔南善であった。対馬は 日本が奪取歴史上、韓国領土と主張できるのは、どの島であるかを知るためであった。六堂・崔南善は、記憶力がよく、独島の来歴について色々と根拠をあげ、 兪鎮午が確信できるだけの説明をした。兪鎮午は続いて、対馬島について訊ねた。「李承晩博士が、対馬はわが領土だとしきりに言いますが、根拠が確実なこと ですか?」崔南善は、にこりと笑って首を左右に振った。対馬島に関して李承晩は、1948年8月20日、「我々は、対馬島を韓国に返還することを日本に要 求する」と主張し、「対馬島は、上島と下島の二島からなり、韓日両国の中間に位置するものであるが、数百年前日本が奪取したものだ」と強調した。これより 前、政府修立前の1948年2月19日、立法議院で、立法議員である許用亀ほか59人の署名を受け、対馬島朝鮮領土復帰建議を対日講和会議に建議しようと したことがあった。提案理由は「対馬島は元来、新羅に属したもので、日本の長崎からは119マイルにもなるのに、釜山からは33マイルにすぎずに非常に近 く、二つの主島からなるので「二島(トゥソム) と命名されたこと」などであった。(朴舜在 パク・スンジェ記者)
1951.04.26. 「林韓国国連大使からダレス国務長官特別顧問への書簡」(1951年4月26日)
(国史編纂委員会『大韓民国史資料集30』(1996))
対馬を韓国領土に加えるよう要求する
Chapter 3 Terrotpry
In the firm belief that justice is only basis for a lasting peace, the Government of the Republic of Korea requests that a through study be given to the territorial status of the Islands of Tsusima. Historically, the two islands called Tsushima were Korean territory until foreibly and unlaufully taken over by Japan. In paragraph bored 5, Japan is ordered to hand over to the Union of Soviet Socialist Republics the southern half of Sakhalin, all adjecent islands and, in addition, the Kurile Islands. In the belief that Korea shuold be accorded full and equal justice and equality of treatment, the republic of Korea requests that Japan specifically renouce all right, title and claim to the Islands of Tsusima and return hose to the republic of Korea
http://www.geocities.com/mlovmo/page30.html
1951.07.09.
北東アジア課朝鮮担当官(エモンズ)による会談覚書
694-001/7-951
北東アジア課朝鮮担当官(エモンズ)による会談覚書
(ワシントン)1951年7月9日
韓国大使は、本日午後二時、事前の面会約束によってダレス氏を訪問した。ヤン博士は、会談の開始に際 し、韓国政府が対日平和条約に組み入れることを考慮してほしいと希望するいくつかの点を掲げる国務長官あての公文(添付資料)をダレス氏に提出した。(中 略)ダレス氏は韓国大使の伝達文第一項が対馬島に言及していないことを指摘し、韓国大使はこれが落とされたことに同意した
Memorandum of Conversation、 by the Officer in Charge of Korean
Affairs in the Office of Northeast Asian Affairs (Emmons)
SECRET
[Washington、] July 9、 1951.
Subject: Japanese Peace Treaty
Participants: Dr. Yu Chan Yang、 Korean Ambassador
Ambassador John Foster Dulles
Mr. Robert A Fearey、 FE
Mr. Arthur B Emmons、 3rd.、 Officer in Charge、 Korean Affairs
(途中省略)
The Korean Ambassador then asked whether the Islands of Tsushima was to given to Korea under the terms of the treaty、 stating that Tsushima properly belonged to Korea.
Ambassador Dulles took exception to this statement and pointed out that Japan had been in full control of Tsushima for a very long period of time; the treaty therefore did not affect the present status of Tsushima as a minor Japanese island.
参照:http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2008/08/1951-coversation-of-yu-chan-yang-with.html
Memorandum of Conversation、 by the Officer in Change of Korean Affairs in the Office of Northeast Asian Affairs (Emmons)
[Washington、] July 19、 1951.
FRUS 1951 volume6 page 1202&1203
http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/takeshima/frus1951.gif
Mr. Dulles noted that paragraph1 of the Korean Ambassador`s communication made no reference to the Island of Tsushima and the Korean Ambassador agreed that this had been omitted. Mr. Dulles then inquired as to the location of the two islands、 Dokdo and Parangdo. Mr. Han stated that these were two small islands lying in the Sea of Japan、 he believed in the general vicinity of Ullungdo. Mr. Dulles asked whethr these islands had been Korean before the Japanese annexation、 to which the Ambassador replied in the affirmative. If that were the case、 Mr. Dulles saw no particular problem in including these islands in the petinent part of the treaty which related to the renunciation of Japanese territorial claims to Korean territory.(omit)
1953.
第21号 昭和28年2月28日
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/015/0082/01502280082021a.html
○加藤(勘)委員 その海面の場所はどういう所ですか。
○梶井説明員 この海底ケーブルは福岡から壱岐へ参りまして、それから対馬へ参りまして釜山へ参ります。それでこの釜山と対馬との間において故障が起きております。もちろん李承晩ラインの内側になつております。そして釜山と厳原との間のまん中よりは朝鮮寄りになつております。
○加藤(勘)委員 そうしますと、日本側から見ればいわゆるマツカーサー・ラインの外であり、韓国側から行けば李承晩ラインの内側である、こういうことになりますか。
・・・・・・・・・中略・・・・・・・・・
○福田(昌)委員 外務大臣は千代田丸の船及び乗組員が絶対安全だということをおつしやいましたから、その通り私も確認いたしました。
もう一つお尋ねいたしたいのは、講和条約の第四条C項によりますと、こういつた海底電線は、折半して日本側の分だけが日本に所属するというような条文があると思うのでございますが、故障を起した場所の海底電線の所有権はどちらにあるのでございますか。
○梶井説明員 これはサンフランシスコの講和条約によりまして対馬と釜山の間、ちようど中央でその所属が日本と韓国とにわかれるわけであります。そういう意味から言いますと、向う側に所属するわけであります。
○福田(昌)委員 講和条約からいいますと朝鮮側に所属すると考えられるわけですが、朝鮮側に所属するようなものをなぜ日本の船が修理し、しかもその身の危険を伴うようなものまでも修理する必要があるのですが。
○梶井説明員 これは、サンフランシスコの講和条約北別におきましては、日本が進駐軍の依頼によつてすべて保守、修理をいたしておつたので あります。本来ならば、韓国政府と日本との閥にはつきりときめができますれば、向うがその保守修理の責任を持つべきはずでありますけれども、まだそれがで きてないということ、もう一つは従来日本で保守、修理をしておつたその習慣が、そのまま継続されておるということ、もう一つは、韓国政府が保守修理しよう と思いましても、海底電線の布設船も何も現在持つておらないという事情もありますために、国連軍の委託によりまして、こちらが保守修理しておるという現状 であります。
○福田(昌)委員 講和条約を結んでおつて、しかも所有権が向うにあるという形でありながら、相かわらず日本が保守、修理をする、従来保 守、修理をしておつたから、その習慣に従つて保守、修理をするというお話でありますが、そういうことは、もとをただして行けば、やはり講和条約に対する違 反行為だといわれてもしかたがないと思います。なぜ外務当局はそういうようなことを事前に韓国とお話合いなさらないのかということに私は一つの疑問を感ず るのですが、外務当局はこのことに対して疑義をお感じになつておられたかどうか承りたい。
○下田政府委員 平和条約第四条のCに御指摘のような規定がございます。しかしこれは原則を規定したのでございまして、はたして将来この通 りに解決するかどうかは、関係国と具体的な折衝をいたさなければなりません。ただいま類似の問題は、韓国のみならず、台湾と日本との間の海底電線について も起つております。これは、平和条約でこう書いてありますけれども、関係国の利害に最も適当する解決方法を講ずるために、たとえて申しますならば、向う側 の半分は日本が金を出して買うとか、あるいは二本の海底電線がある場合には、途中でちよん切るのはお互いに不便だから、一本は全部こちら、他の一本は全部 向うというふうに解決する手もあるのでございます。従いまして、韓国や中華民国は直接この条約の当事国ではないのでございますし、日本側はその当事国であ りますが、この原則を必ずしもそのまま適用いたさなくても、関係国との話合いで、お互いに便利な解決方法がつくと思います。しかし日韓間に各種の問題では つきり条約ができますまでは未確定な状態でありまして、先ほど梶井総裁がおつしやいましたように、現状においては従来のしきたりで、とりあえず日本側が修 理しておる、そういう状態であると私は承知いたしております。