ウクライナに関するフォーラム

本ページつきまして

 ロシアによるウクライナ侵攻を鑑みて、現在のウクライナとその近隣諸国の現状や歴史について皆様から寄せられた意見などを随時掲載していきます。なお、このフォーラムに掲載された意見などについては、委員会が掲載の可否を判断していることと、一定期間が過ぎた後に非公開にする予定であることをご了承ください。投稿は古い順に並べていく予定です。

 2022年5月16日に新しい投稿を掲載しました。

「ロシアによるウクライナ侵略に寄せて」

 アダム・ミフニクは、『ガゼータ・ヴィボルチャ』(2022年2月24日付)に掲載された記事にて、「これは、1989年以来我々が生きてきた我々の世界の終焉である。このことの帰結を、我々はまだ想像することができない。」https://wyborcza.pl/7,75968,28150460,dzis-mowimy-jasno-i-glosno-wszyscy-jestesmy-ukraincami-michnik.html(最終確認:2022年3月15日)と述べた。かつて「連帯」運動を率いた人物がこのように述べたことからも、起きた出来事の深刻さをうかがい知ることができる。実際、その後も、ロシア政府によって着手されたウクライナへの侵攻は、安全保障と地域紛争、感染症と人類、原子力とエネルギー問題といった世界史的な諸問題を、いくつも絡ませ合いながら継続されている。

 このような中、「世界の終焉」後の新しい世界について、ロシアによるウクライナ侵略の後の学問について建設的な提言をすることなど、とてもいまの私にはできない。その上でだが、現在起きていることに関連して、二点気になることがある。一つ目は、ジョージ・L・モッセ(宮武実知子訳)『英霊――世界大戦の記憶の再構築』筑摩書房、2022年[文庫版、英語原著は1990年]で論じられる戦争の陳腐化や政治の残忍化が、SNSを通じたコミュニケーションの進展した環境において、どのように変容ないし刷新されるのかということだ。ファクトチェックなどの課題を抱えながらも、個人が操作するメディアによる発信で現地が可視化されることは、グローバルにどのような社会的精神的帰結をもたらすのだろうか。一部の地域ではFacebookにおけるロシアの大統領や軍隊への暴力呼びかけが容認されたようだが、すでに日本国内でも「ロシア脅威論」や、ロシア料理店に対する嫌がらせ行為などが報道されている。ロシアやベラルーシの人びとを孤立させ、対立を煽っても問題解決にはつながらない。相互に強化しあうナショナリズムの構造を相対化することの重要性をあらためて感じる。そして二つ目は、自分の専門に引きつけていうと、中東からの難民とウクライナからの難民とのあいだで、ポーランドの政府と社会が、少なくとも表面的には反応が大きく異なってみえることである。ベラルーシとの国境沿いに留まる中東からの難民を拒絶するポーランドが、ロシアに侵攻されたウクライナからの難民は率先して支援する。文脈の違いを考慮する必要はあるにせよ、その「ずれ」の中に、現代世界の在り方を捉えなおす契機となる問題があるようにも思われる。

 以上、現在抱いている疑問や違和感について述べた。本フォーラムをご覧になった方に何がしかのヒントを提供できていればと願っているし、私もまたこのフォーラムを通じて学びたいと考えている。

(福元健之)

2022年3月17日掲載

「近世ポーランド史の立場から今回のウクライナ侵略をみての雑感」

 今からちょうど250年前の1772年、当時のポーランド(ポーランド・リトアニア共和国)の領土の一部(約3割)がロシア、プロイセン、オーストリアによって奪われた。いわゆる第一次ポーランド分割である。この分割の当事者の一人、ロシア皇帝エカテリーナ二世が残した、分割に関する宣言が史料として残っている(同様の史料はほかにもいくつかある)。以下に翻訳して引用する(ポーランド語の史料集からの重訳引用。原文は入手していないが、おそらくフランス語かロシア語である)。出典:M.Sobańska-Bondaruk i inna(opr.), Wiek XVI-XVIII w źródłach, Warszawa, 1997, s.411-412.

 ちなみに、ウクライナは1667年のアンドルソヴォ講和の結果、ロシアとポーランド・リトアニアによって分割されて国家としては存在していなかった。ロシアの隣国がポーランド・リトアニアであった。


第一次分割に関する1772年7月14日のエカテリーナ二世のマニフェスト

 ロシア宮廷は、ロシア帝国の利害に鑑みて、ポーランドで起こっている無秩序[訳注:反ロシア、反国王のバール連盟(1768~1772年)のこと]を際立たせている泥沼に終止符を打ち、(ポーランド)国家の没落を防ぎ、ロシア自身の合法的な権利を正当に満たすことを保証させることを強いられている。それゆえ、隣国ポーランドのために一致した努力と方策を通じて、一刻も早くこの目標を達成するという点において、オーストリア宮廷とプロイセン国王との間で完全な合意を見た。

 その合意を基に、(ロシア、プロイセン、オーストリア)三宮廷はすでにポーランド国民に対して、ポーランドにおける秩序と平和の再建、ポーランド国家の国制の維持、国民の自由の維持[注:これらはポーランドを弱体化させてきたリベルム・ヴェト(自由拒否権)やシュラフタ(貴族)特権の維持を意味する]といった一連の再建事業に対する一致した対応をすることを表明した。その際、隣国の最重要の利害にとって非常に望ましい、ポーランドの内政の形を維持し、継続性を保つことが不可欠とされた。

 同時に、ロシアを遍く支配する皇帝は、ポーランドの側からの正当な裁きをこれ以上待ち続けることはできない。それゆえ、ロシアとロシア国民の当然の利害に損失をもたらさないために、ロシアとロシア国民に対して満足を与えることが不可欠であると認める。その満足とは、下記のポーランド共和国の土地[注:いわゆる第一次分割でロシアが獲得することになる土地を指す]と財産の所有権に対するロシアの全面的な支配を、ポーランドが受け入れることである。

 ロシアが自分の権力下に置き、自分の領土に加える土地は、上記に示したすべての措置に対する全くささやかな代償であることは疑う余地がないことである。加えてそれらは、ポーランドにとって最小限の損失でロシアに譲られうる土地である。なぜならポーランドの領土における譲歩は、ロシア・ポーランド両国家に対して非常に明瞭で論争の余地のない国境であるという点において、相互の利益を保証するものだからである。それゆえ、もしポーランド共和国自身が、ロシアに対して義務付けられているこの不可避な代償の問題について平和裏に交渉を行えば、ロシアの正当な権利とその重大性を考慮に入れた場合、ポーランド共和国自身は他の条件を提案できないし、より少ない犠牲にとどまることはあり得ないであろう。


 以下は門外漢の牽強付会として読んでいただければ幸いであるが、今回のプーチンによるウクライナ侵略は、この250年前の第一次分割のさいのエカテリーナ二世の対応と似ている点、異なる点がそれぞれあるように思った。

・ロシアによる分割の正当化―上記史料では、「ロシア自身の合法的な権利を正当に満たす」あるいは「ポーランドの領土における譲歩は、ロシア・ポーランド両国家に対して非常に明瞭で論争の余地のない国境である」という表現で、一方的にロシアの領土的主張が正当化されている。この点は今回のウクライナに対するプーチンの一方的な領土的主張と共通点を感じる。

・略奪対象国への責任転嫁―上記史料では、「ポーランドで起こっている無秩序を際立たせている泥沼に終止符を打ち」という非難がなされている。ここで無秩序とされているのは、反国王・反ロシアの民族運動で、ポーランド国内の内乱の原因にはなったが、隣国に波及するようなものではない。これは、今回のウクライナに対するプーチンの一方的なゼレンスキー体制批判とも共通する。

・略奪対象国の国制維持の肯定―上記史料では、「隣国の喫緊の利害にとって非常に望ましい、ポーランドの内政の形を維持し、継続性を保つことが不可欠とされた」と表現されているが、実際には自由拒否権や議会麻痺などの停滞を助長する制度を変えさせず、当時の国制改革を妨害することを助長するものである。これは、欠点を持つ国制維持がロシアにとって得であるという観点からの維持評価であるが、その点では今回のプーチンの政策とは正反対だろう。ただ、ロシアにとって得になる国制(政権)の確保という点では共通しているかもしれない。

・ロシアが被る影響と領土獲得の整合性のなさ―上記史料の2段落目までの対応と、3段落目以降の対応は全く連関がない。つまり領土獲得は全く一方的に正当化されている。これは今回の侵略においても共通する。

 ちなみに、その後ロシアを含む近隣三国は、ポーランドを実効支配したうえで翌年1773年に議会を開催させて分割条約を批准させる。この際、ポーランド国内の分割反対派、反ロシア派を力で抑え込んで事を進めた。

 一方、この行為に対する近隣三国以外の反応は概ね冷淡であった。フランスは近隣三国の軍事力に対応する力を持てず分割を傍観し、イギリスはポーランド援助よりもフランスとの対抗を重視して、やはり無関心であった。もちろん北米十三植民地は独立以前の状態である。

 いうまでもなく、250年前のこの分割の出来事と今回のプーチンの侵攻とは、異なる点も少なくない。

・この時はロシアだけでなく、プロイセン、オーストリアも加わっている。当初主導権を握ったのはむしろプロイセンであった。ロシアの拡張主義という点だけでなく、近隣三国のというべきだろう。

・国民国家、国際法、国軍の規模・破壊力(核の保持を含む)、情報伝達といった諸点における250年間の時代の懸隔は甚大である。

・何より、プーチンの侵略への動きは性急かつ威圧的かつ一方的であり、その強圧性は、啓蒙主義時代の宮廷中心の外交とは大きく異なる。

・国家分割と侵略は性格、目的が異なる。

(この雑感は、2月26日にfacebookに投稿した文章に加筆・修正を施したものです)

白木太一

2022年3月22日掲載


「ウクライナのユダヤ人兵士——ロシア・ウクライナ戦争とユダヤ人に関する個人的な経験と考察」 

 1枚の写真がある。ウクライナ国旗を背にして、白く、豊かなあごひげを蓄えた老人。軍服に身を包み、銃を抱える彼の額には幾重にもしわが刻まれ、目の奥には悲愴な決意が漂う。彼は軍人だろうか。しかし、よく見ると、頭頂には被り物がある。キッパと呼ばれる、ユダヤ教徒が伝統的に被る帽子のようだ。この写真は、ウクライナ西部の街、リヴィウのユダヤコミュニティの知人が、彼の友人のものとして送ってくれた。知人によると、この老人はウクライナ軍に志願し、リヴィウから激戦地のキーウ(キエフ)に向かったという。写真はキーウで撮られSNSに投稿されたもので、多くの賛同が寄せられており、彼のように軍や郷土防衛隊などに志願するユダヤ人は他にもいるようだ。

 祖国ウクライナの防衛のために、銃をとるユダヤ人。しかし、このリヴィウ、そしてウクライナのユダヤ人の歴史を辿ると、それは必ずしも自明なことではないかもしれない。ショアー(ホロコースト)の破局をはじめ、ウクライナ人を含む他民族からのユダヤ人の差別、迫害というテーマはユダヤ研究の中で重要な位置を占めている。1648年のボフダン・フメリニツキーの乱によって引き起こされたユダヤ人殺戮、18世紀の政治、社会の混乱から「大洪水」と呼ばれる時期のユダヤ人迫害、また19世紀から20世紀前半の帝政ロシア下で起きたポグロムまで様々な事例が知られている。リヴィウのユダヤ人も1918年11月、ポーランド人によるポグロムの被害を受けた。第二次大戦中のリヴィウにおけるホロコーストとその記憶については、歴史家オメル・バルトフによる先駆的な著作(Omer Bartov, Erased. Vanishing Traces of Jewish Galicia in present-day Ukraine, Princeton/Oxford, Princeton University Press, 2007.)の他、近年では、リヴィウのゲットー跡に2016年に完成した「テロの領域——全体主義の記憶博物館」で紹介されている。

 だが、今回のロシアのウクライナ侵攻では、キーウの首席ラビが、3月2日のビデオメッセージで、プーチンのいう「ネオ・ナチズムはウクライナのどこでも知られていない」と発言し、代わりに、第二次世界大戦時のユダヤ人殺戮を追悼するバービ・ヤールの記念碑にロシア軍がミサイルで攻撃したことを非難している(https://www.facebook.com/boris.lozhkin.7/videos/688305825855520 3月26日視聴)。また別の首席ラビは、ドイツ系メディアのドイチェ・ヴェレのインタビューで、ロシアとプーチンは、今回の戦争によって共通の被害者となった「ウクライナとユダヤ人を一つにした」と発言している(https://www.dw.com/en/kyiv-chief-rabbi-putin-has-united-ukrainians-and-jews/a-61108712 3月26日最終閲覧) 。そもそも、現代のウクライナのユダヤ人口は、5万~14万近くと、近隣の東欧諸国より比較的多いが、2018年の調査では、ユダヤ人を同胞とみなさない人びとの割合は5%程度と、10%台の近隣諸国と比べて低い数字になっている(https://ukrainianjewishencounter.org/en/news/antisemitism-in-europe-ukraine-turns-out-to-be-the-most-friendly-to-jews/)。

 こうしたラビの発言や統計だけでなく、現代のウクライナ国内のユダヤ人の状況を理解する手掛かりとして、戦争前、リヴィウのローマ・カトリックコミュニティのクリスマスイブのミサに、例年ラビやユダヤ教徒が参加していたことも、ここで紹介しておきたい。またユダヤコミュニティは、カトリックの施設を借りて、ユダヤ教のハヌカ(12月に行われるユダヤ教の年中行事の一つ。マカバイ戦争におけるユダヤ人のエルサレム神殿奪回を祝う。)の行事も開催しており、私は昨年の12月に双方に参加する機会を得られた。ハヌカの方では、カトリックの施設に、ユダヤ人住民20名ほどが集まっていた。3時間ほどの会では、前半は歌と踊り(https://www.youtube.com/watch?v=5coIXo9POe8)、後半はラビによる出エジプト記の聖書講読があった。会の途中では、カトリックの司祭も顔を出すなど、教義の違いを超えて、ユダヤ、カトリックの各コミュニティ間の関係は円満に見えた。世俗的な人口を除くと正教会やギリシャ・カトリックが多数派のウクライナでは、両者は共に宗教マイノリティであり、互いに助け合うことで、自らのコミュニティを維持しようとしているのではないか、と推測される。 

 ユダヤ教徒とキリスト教徒の友好に関して、例えば歴史家のジョージ(ゲオルゲ)・L・モッセは、18世紀の統一以前のドイツにおいて、個人を尊重し、その個人間の友好関係を重視する啓蒙主義精神がキリスト教徒とユダヤ教徒の間の障壁をなくし、ユダヤ人の解放を促したという。啓蒙主義哲学者で敬虔なユダヤ教徒でもあったモーゼス・メンデルスゾーンとレッシングなどの非ユダヤ系知識人の交流がその一例である。同時にモッセは、当時の啓蒙主義が、適度の愛国主義にも支えられていたことも指摘する。18世紀におけるドイツの愛国主義とは「市民の権利の自由な行使であり、支配ではなく連帯を意味していた」(George L. Mosse, “Friendship and Nationhood: About the Promise and Failure of German Nationalism”, Journal of Contemporary History, Apr., 1982, Vol. 17, No. 2, p.352.)。国民意識の創造は、世界市民としての意識に至るための段階として重視されていたのである。もちろん、当時から祖国への献身と個人的な関係をどのように調整するのかについて、ジレンマがあることは理解されており、モッセによれば、その調節の鍵とされた理性的な敬虔主義が衰退し、国民を解放するための革命が挫折の憂き目を見ると、代わりに情念のロマン主義や、開放的な友人関係を否定する閉鎖的な同胞意識が台頭した。その結果、一種の政治宗教のように、個人を抑圧する排他的、統合的なナショナリズムが第一次世界大戦を経て、ドイツ政治を支配するに至った。「ナショナリズムに人間の顔を与えなくては、寛容と市民が互いを尊重してきた我々の文明は、不寛容な熱狂と、専制的な軍国主義に陥る」とモッセは警告する。

 冒頭に戻ると、他宗教の人々と共存することに細心の注意を払いながら、自らの信仰生活を守ってきた現代のリヴィウのユダヤ人の中で、あの老人のように、キッパを被りながら軍服をまとい、銃をとることは、祖国への献身と、ユダヤ人としての個人のありかたの関係を示す一つの事例といえる。老人に限らず、今回従軍したユダヤ人は、戦中あるいは戦後に渡って、ウクライナ国民の同胞として記憶され続けると思われるが、その際、彼らのユダヤ人としての側面はどの程度意識されるだろうか。兵士の記念には、共同体の一員として神話化される傾向と、その個人的側面が強調される傾向があるとモッセは指摘している(George L. Mosse, “Two World Wars and the Myth of the War Experience”, Journal of Contemporary History, Oct., 1986, Vol. 21, No. 4, pp. 491-513.)。前者は、第一次世界大戦後にドイツなどで見られた、文学作品などで兵士の「男らしさ」や同胞意識を強調したり、記念碑を建設し、兵士の犠牲を称えることで、戦場での過酷な暴力の経験に意義を与える、いわゆる「戦争体験の神話」に基づいており、対して後者は、第二次世界大戦後、ナチスの蛮行によって戦争の大義を失ったドイツや、民間人の犠牲や原爆使用など戦争の悲惨な性格が知られたイギリスなどで、国家や共同体の称揚よりも個人の追悼の方に焦点を当てたものを指す。共同体思想や暴力を正当化する「戦争体験の神話」は、戦後、外敵の他に国内に「内なる敵」を設定し、人種主義的な偏見を持って糾弾する、社会の「野蛮化brutalization」も進めてしまうとモッセはいう。歴史上、その「野蛮化」の被害を受けてきたユダヤ人は、国民の一員としての側面と、ユダヤ人としての側面の間に複雑な葛藤を抱えている。

 ただし、今回のロシア・ウクライナ戦争に関しては、上記のモッセの議論が想定する第一次世界大戦、第二次世界大戦と比べ、様々な要素の違いがあることも考慮するべきだろう。第一に、今回ウクライナ側は、単に自衛のためでなく、自国における自由や民主主義を守るための戦いを標榜していることが挙げられる。そのため、同国のナショナリズムが、個人を抑圧する方向に無批判に向かうとは考えにくく、国家と個人の関係をどう調整するかは引き続き、民主主義社会の枠内で議論されるのではないかと思われる。第二に、今回の戦争では、SNSの発達もあいまって、兵士だけでなく、民間人をも巻き込んだ前線での過酷な現状が、ウクライナ国内だけでなく、世界中に知られていることも重要である。これは前線の状況が銃後の社会でよく知られていなかった、第一次世界大戦時の単純な「戦争体験の神話」の再生産に終わらない、女性や子どもを含む、戦場での多様な人々の語りを可能にする。また、そうした語りは第二次世界大戦時のような、大義なき戦争によって個人が受けた被害を強調するだけでは終わらないのではないかとも思われる。プーチンのロシアが引き起こした、国際秩序を揺るがす侵略戦争への抵抗、という大義が今回ウクライナ側にあるからであり、戦場で斃れた兵士、市民、そしてユダヤ人を含めた新たな抵抗神話が創造されることも想定される。こうした差異を念頭に置きつつ、今後の推移について検討していきたい。

*本稿を執筆するにあたり、リヴィウのオーリハ・コザーチョク(Ольга Козачок)さん、シモン・シャーローム(Шимон Шалом)さんにお世話になりました。記して感謝申し上げると共に、お二人の安全と戦争終結を祈念します。

(安齋篤人)

2022年3月31日掲載

「和解と連帯に向けて——ポーランド、ウクライナにおけるカトリック教会の難民庇護と両国の歴史的関係に関する体験と考察」


 復活祭(イースター)を迎えた日曜日の深夜。留学先のポーランド南西部の街、ヴロツワフで、ウクライナの難民が滞在するカトリックの施設に、筆者はボランティアとして参加していた。仕事が終わり自宅の学生寮までのバスを待とうすると、同じシフトで働いていた30代程の男性が、車で送ってくれるというので、有難く同乗させてもらうことにした。道中、この男性がボランティアに今日初めて参加したというので、何故参加する気になったのか、と尋ねると、親しくしている会社の同僚であるウクライナ人のために役立ちたかった、と淡々と経緯を話してくれた。「それにポーランドとウクライナの間には何百年もの歴史的なつながりがある、特にヴロツワフとルヴフ(ウクライナ語名でリヴィウ)の間にはね。歴史を学んでいる君ならよく知っているだろう」。ここで彼が、「隣人愛」といった信仰心や、あるいはウクライナ人への素朴な同情ではなく、あえて歴史上の出来事を理由として挙げていたのは、印象的であった。ポーランドとウクライナの関係は、必ずしも友好的なものばかりではなく、むしろ第二次世界大戦時のような対立や葛藤、流血を伴う悲劇もしばしば想起される。そうした苦悩の歴史が何故、隣国の難民を庇護する動機や、両国の協力の礎になると、彼は考えていたのか。本稿では、教会の難民庇護に関する先行研究を参考にしつつ、歴史的な視点や筆者の体験を交えながら、ポーランドと西ウクライナにおけるカトリックの難民庇護とその背景について考察してみたい。なおウクライナから逃れた人々を、本稿ではポーランド国内で一般的に用いられる難民(uchodźca)で統一する。

 [続きはPDFファイルにてご覧ください]

(安齋篤人)

2022年4月3日掲載

和解と連帯に向けて(安齋).pdf

ウクライナに関するフォーラムに寄せて」


唐突だが、ギリシアの話から始めたい。ギリシア、特に同国北部の観光業は、コロナ禍に先立って、ロシア人旅行者の減少によって損失を被っていた。世界中から旅行者が押し寄せるギリシアの南部とは異なり、北部ではロシア人客の比重が群を抜いて大きく、地元経済にとってのお得意様だった。ギリシア北部には正教の聖地アトス山があり、テッサロニキを足がかりにアトス巡礼を組み込んだ観光プランが彼らの定番になっていた。アトスに入山するには男性であること、事前に入山を申請し許可を取得していることが条件づけられるが、細長い半島の先端に位置するアトスに海からアプローチするクルーズには誰でも簡単に参加できる。海岸に沿って移動しながらアトスの各修道院を眺め、沖合に停泊して、聖遺物を携えた修道士が小舟で乗りつける出前サービスを受けたりも出来る。


20191月、コンスタンティノープル総主教がウクライナ正教会の独立を正式に承認したことでギリシア正教とロシア正教との間に深い亀裂が生まれ、ロシア正教徒のギリシア巡礼ボイコットが引き起こされた。

 ロシアとウクライナの正教会はともに、キエフ・ルーシ時代の正教会(キエフ府主教座)をルーツとする(ベラルーシには独自の正教会がなく、同国の正教徒はロシア正教会に属す)。両者の分化のきっかけは、モンゴル軍によって壊滅させられたキエフから府主教座が北方に避難したことにある。避難先に落ち着いた府主教座は、やがてモスクワ府主教座へとタイトルを改めた。そして、モスクワ大公国の台頭を追い風に府主教座から総主教座へと昇格する(1589年)。


 一方キエフでは、新しい支配者リトアニア大公国が府主教座を再興した。モスクワに移った府主教座も、新しいキエフの府主教座も、ともにコンスタンティノープル総主教の管轄下にあったが、モスクワ府主教座は総主教座に昇格したことで独立を遂げた。当時ポーランド・リトアニア国家にあったキエフの府主教座は、このモスクワ総主教座の下には入らず、コンスタンティノープル総主教座の下に残った。アンドルソヴォ協定(1667年)によってキエフがモスクワ大公国に割譲された後に、コンスタンティノープル総主教座からモスクワ総主教座に移管(1686年)されたのが、キエフ府主教座のロシア正教への従属のはじまりであった。

 最初はコンスタンティノープル、続いてモスクワに従属したウクライナの正教会は、ウクライナ・ネイションの形成を機に、独立を志向するようになる。最初に独立を宣言したのは1921年で、「ウクライナ独立(Autocephalous)正教会」を名乗った。ウクライナ国家の独立がかなわなかった以上、この独立宣言は対外的には認められず(正教会は、国単位で独立した組織を持つのが普通だ)、ソ連はウクライナ独立正教会を非合法化した。


 1991年末、ついにウクライナは独立国となり、その翌年、改めてロシア正教会からの独立を宣言したのが「ウクライナ正教会」である。この教会はキエフに総主教座を戴いたが、当然ロシア正教会はこれを認めなかった。一方、地下活動と在外ディアスポラの支援で命脈をつないでいたウクライナ独立正教会も、本国で表舞台への復活を果たす。ウクライナの新旧二つの正教会はともに、正教世界においては「カノン(教会法)」に則した存在とはみなされず、名目的には独立を認知されない状況が続いた。

 ウクライナのすべての住民がウクライナ語を母語とするわけでないのと同様、ウクライナのすべての正教徒が独立派であったのではなく、ロシア正教(モスクワ総主教座)の下に残る信徒も多かった。カノン上の認知を受けられていないウクライナ独立正教会とウクライナ正教会に対し、ロシア正教会は公認教会であったわけで、むしろロシア正教の信徒でいようとするウクライナ人も少なくなかった。


 「ウクライナ正教とロシア正教は、何がどう違うのか」と現地の人に問うたところ、ドレスコードや言語の面でロシア正教のほうが保守的ではあるが「教義も典礼も同じ。基本、同じ信仰です」という答えであった。しかしウクライナ人愛国者にとって、ロシア正教には許せない部分があるという話だった。ロシア正教の礼拝では、イヴァン・マゼッパへの呪詛が唱えられる。マゼッパは大北方戦争でスウェーデン国王と組んでツァーリに反旗を翻したウクライナ・コサックの首領である。ウクライナでは英雄視されるが、ロシアにとっては国賊なのである。

 ウクライナにおいて、ロシア正教とウクライナ正教とは長年の間ほぼ互角にせめぎあってきたが(信徒数においてはウクライナ正教が上回り、管轄下にある施設数ではロシア正教が上回っていた)、2013年から翌年にかけての「ユーロ・マイダン」でウクライナ・ナショナリズムが高揚すると、ロシア正教会からウクライナ正教会への信徒流出が相次ぎ、形勢はウクライナ正教に傾いた。


 さらに事態が大きく動いたのが2018年から2019年にかけてである。まず2018年に、統合へ向けて交渉を重ねてきた新旧のウクライナ正教会(ウクライナ独立正教会とウクライナ正教会)が合併に至った。そして周到な根回しを経て、2019年には世界総主教たるコンスタンティノープル総主教から独立を承認する「トモス(勅書)」を得て、既成事実だった独立を正式のものとすることに成功した。ウクライナ正教はロシア正教から独立するのであるから、モスクワ総主教を蚊帳の外に置いて事を進めたコンスタンティノープル総主教は越権行為のそしりを免れない。そこでコンスタンティノープル総主教は、1686年のキエフ府主教座の(コンスタンティノープルからモスクワへの)移管自体を覆すという、いささかトリッキーな理屈で、モスクワからの抗議を一蹴することにした。ロシア正教の面子は大きく傷つけられ、モスクワ総主教の怒り心頭もうなずける経緯であった。

まだウクライナ正教会の公認前の出来事だが、キエフにあるウクライナ正教の大聖堂(聖ヴラジーミル大聖堂)の前で、ロシア人親子が交わす会話に耳を奪われた。「ここはどっちの教会?私たちのほう?」「私たちの教会じゃない。ラスコーリニキだよ」。「ラスコーリニキ」とは教会分裂(ラスコール)の支持者たち、という意味で、ロシアの古儀式派を指して使われれてきた言葉だが、ロシア人がウクライナ正教に対して使うこともあるのだ。すなわち、正教世界は「シスマ」の真っただ中にある。


2022年の2月末、ロシア軍がウクライナに侵攻し、キエフに迫った。キエフ屈指の観光名所にして現役の僧院であるペチェルスカヤ(洞窟)大修道院は、地上に壮麗な寺院建築群、そして地下には洞窟を張り巡らせた空間を擁するが、ここを避難所として提供することを拒否して非難を浴びた。ウクライナのみならずロシアの、そしてベラルーシにとっても文学の原点といえる重要な古典で、最古の歴史叙述である『過ぎ去りし日の物語(原初年代記)』はここの修道士によってしるされた。ロシア人にとっても大切な場所であるここは、ロシア軍の砲撃を受ける可能性は限りなくゼロに近く、逃げ込むには格好の場所だ。一方で、この修道院はモスクワ総主教の管轄下、すなわちロシア正教会に属していて、ウクライナのナショナリズムとはずっと距離を取って来た。

 プーチンとロシア正教会、特に総主教キリルとのかかわりについては、日本の報道でもしばしば目にするようになった。キリルが是とするロシア正教会のありかたは、プーチンの提唱する「ルースキー・ミール」と重なるのだろう。「ビザンティン・ハーモニー」の今様のかたちなのだろうか。そして、ウクライナ・ナショナリズムとロシア帝国主義の衝突に行き着いた歴史観の相違に根差す今回のシスマは、「戦後」に果たして解消されうるのだろうか。

(福嶋千穂)

2022年5月16日掲載