<田宮流居合術>
田宮流居合術は、表之巻十一本、奥伝虎乱の巻十四本の型の修練を通して、その「美」「位」と共に、和の心と精神修養を学びます。日常生活の中に、武術を通した豊かな精神性を取り入れることは現代生活をさらに豊かにしてくれると思います。
<田宮流の歴史>
田宮流居合術は、今からおよそ400年前に居合の祖とされる林崎甚助重信の直門である田宮平兵衛業正によって興され、「美の田宮」「位の田宮」とうたわれた流儀である。業正の嫡子の田宮対馬守長勝常円は、関が原の役、大阪冬の陣で池田輝政に仕え、目覚しい働きをしたことにより徳川家康に讃えられ、池田家からもらい受け、家康の第十子、浜松城主徳川頼宣の家臣とした。1619年に頼宣が紀州に移るや長勝も従い、その地で嫡子・田宮平兵衛長家に家督を継がせた。
三代目となった長家は1651年3月6日紀州藩士で柳生宗矩の門人・木村助九郎とともに召されて将軍家光の台覧に供し、懇ろな上意を賜った。このことは長家にとって栄誉なことであると同時に、田宮流という流派を全国に知らしめる一大行事となった。
長家の後を継いだのは四代目田宮三之助朝成であったがこれよりは病魔に見舞われ、五代目田宮次郎右衛門成道も病に倒れ、代々直系の血縁による継承を続けた田宮流は、門弟の中村是右衛門に譲らざるを得なくなった。五代目の後を受けた中村是右衛門は田宮流の名跡を絶やすことのないよう、その氏名を田宮千右衛門と改名したが、百年にわたってその道統を守り伝えてきた田宮流も思わぬところで、正統を失うこととなった。現在この五代成道まで続いた直系の流儀を「古田宮流」と称している。
この途絶えた田宮流と並行して、徳川頼宣の次男・頼純が、紀州藩の分家である伊予西条藩に移った際、田宮対馬守長勝常円の弟子・江田儀左衛門によって、田宮流が伊予西条藩に伝えられている。この江田儀左衛門を、(流祖)田宮平兵衛業正、(初代)田宮対馬守長勝常円のあとの二代目としての流派が「紀州田宮流」と呼ばれ、1800年に妻木順次郎元あやが八代目の道統を次ぐことになり、以来妻木家が一子相伝として、当代の宗家第十五代妻木和夫元和と続いている。
他に田宮平兵衛業正の高弟三輪源兵衛の流れをくみ、水戸藩の和田平助政勝が興したと通説でなっている「新田宮流」がある。これらを総して「田宮三流」と呼ぶ。
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