3. その後

1982年、原子炉には核燃料が追加で挿入された。ウラン燃料棒5本入の核燃料用海上コンテナを積んだ船が、米西海岸から10日間の旅を終えて、大井埠頭に到着。厳重な警備体制の中で点検の後、日立運輸のトラックで、先導車と後尾車に守られながら、首都高から国道16号を通り武山の研究所へと移動した。 (注40)

1983年2月13日、原子炉で二次冷却水漏れ事故が発生する。原子炉の二次冷却系のパイプ(直径1.5センチ)がひび割れし、二次冷却水200リットルが床の溝に漏れた。検査の結果、漏れた冷却水に放射性物質は含まれていなかった。この修理完了まで3ヶ月間原子炉の運転は停止した。原因は二次冷却系系統の配管の継ぎ目の腐食によりものであった。(注41)

1985年には、研究所アネックス落成式が行われる。

1986年、研究所主催で、第一回アジア地域研究用原子炉国際シンポジウムが開催された。会議はウイリアム・ポラード司祭のオープニング・メッセージで始まった。レセプションでは、来学中の米国聖公会J・M・アリン前総裁主教の祝辞が述べられた。このシンポジウムは、日本原子力学会、米国原子力学会日本支部、日本原子力産業会議等が協賛し、日本学術振興会から補助を受けて行われた。(注43) 小川岩雄シンポジウム組織委員長はこの大会の報告書を作成するにあたり、次のようにコメントしている。「この記録はアジア地域全体の科学技術の発展と近代化の一段階を示す貴重な歴史的資料としても、今後長期にわたって重視されるに違いない。」(注44)

立教大学原子力研究所(以下、原研)の運営は大学の経営に依存せず、国庫負担と寄付金で賄うことになっていた。しかし、募金は順調にはいかず、1965年の時点ですでに学院財政圧迫の問題が深刻化していた。寄付金は、設立当初は米国における支援団体「立教友の会」によるものと、国内の第一原子力産業グループを主力とするものであった。

1972年、佃総長は「原研問題に関する方策」を提示し、学院の原研を大学が引き受け、規模を3分の1程度に縮小して存置する方策を取る決意を表明した。佃総長は「今後予想される原子力エネルギーの増大とそれに伴う基礎的研究の必要性からすれば、わが国として数少ない大学附置研究所として社会的に果たすべき機能にも貴重なものがあると考える」と述べている。1974年、原研は、立教大学直属の研究機関として再発足した。

1983年頃から、財団法人電力中央研究所(以下、電中研)と立教学院との間で原研敷地の一部売却の話し合いが持ち上がった。(注45) しかし、安全性確保の観点から見て条件が整っていないとの理由で、立教学院と電中研の契約は行われないままになった。

1993年、立教大学部長会において浜田総長は「原研の今後について(提案)を提出した。その骨子は「原研の敷地及び施設・設備を、研究用原子炉の機能を維持しうる相手先に売却する方向で交渉を開始する」というものであった。学内各学部において基本方針に対して強い反対はなかった。これに基づいて、総長が直接原研を訪問し、今後についての提案を原研所員に説明した。しかし「売却の方向」という提案に原研所員は強く反対の意見を示した。

1994年5月の部長会で、塚田新総長は、これまでまでの経緯を引き継ぐことを確認した。しかし、原研の電中研への売却の交渉は確認するにはいたらず、この問題に対する具体的方策について合意を得るための委員会を設置することになった。1995年1月に原研に関する諮問委員会より「原子力研究所に関する答申」が提出された。その答申では、これまでの経緯報告、原研の意義について記述され(注46)、原子炉の今後について「近い将来に炉の使用が不可能になるような事態が起こるとは考え難い」として、現状のまま利用し続けるか(注47)、あるいは売却して共同利用の形をとるか、という方向が示されている。廃炉についても検討されている。「使用済み核燃料保管施設を申請し許可を受け炉室内に設置する。原子炉から取り出された核燃料は保管施設に移され、炉施設は柵で区画され管理する。」「核燃料や炉施設につては管理状況の点検と年1回の科学技術庁の立会検査を受ける。」「原子炉を完全に廃炉にするためには、核燃料と原子炉解体で発生する放射性物質とを外部機関に引き渡す必要がある。しかし、これらの引渡し機関や引渡し可能な時期は不明であるが、国内での使用済み核燃料の再処理や廃棄物処理施設の稼働が本格化すれば明らかとなるであろう。」「解体によって発生する放射性廃棄物は低レベル廃棄物に分類されるが、立教炉の出力規模からみて量的には、現在国内で処分されている廃棄物の量に比較すれば微々たる量である。したがって、国内での低レベル廃棄物の処分が軌道に乗れば、近い将来正当な費用で引渡しできると予想される。」(注48)

「原研外の委員からは、売却によって大学にもたらされる収入と現状での財政的負担の軽減は、原研を含めた大学全体の存立と発展にとって意味を持つものであり、その資産価値は十分に考慮する必要があるとの指摘がなされた。」「いずれは来る原子炉廃止後の解体処理、および使用済み核燃料棒の処理・処分については現時点では見通し不能であり、今後、経費その他に懸案を残している」ことも売却の利用と一つとして挙げられている。もし「大学が所有する場合、従来からの共同利用への便宜供与を続けることは意味のある社会貢献ではあるが、その場合われわれの貢献度を学会・社会関係機関などに強くアピールし、ファイナンシャル・サポートの充実をはかるべきである。」この答申における見解としては、共同利用売却が「土地の資産価値を活用することを併せて考えると、案としての優先順位は高いと思われる」としている。(注49)

最終的に立教大学は廃炉の決断を行い、2001年12月15日、原子炉の稼働を完全に停止した。2002年8月には原子炉等規制法に基づき解体届を提出。2003年8月には使用済み核燃料を搬出し、契約に基づき米国に搬出。同年12月には一次冷却水を抜き取った。2007年、廃止措置計画が認可される。

なお、2011年2月8日、原子炉棟ホットセル内(管理区域内)において、施設を廃止するため整理を行っていたところ、許可を得ていない放射性同位元素(アメリシウム241/ベリリウム、1.11ギガベクレル)が発見された。

現在は、廃炉解体の準備中である。文部科学省研究炉等安全規制検討会によれば、廃炉に伴い発生する固体廃棄物の量のうち、低レベル放射性廃棄物が100トン、放射性物質として扱う必要のない廃棄物が200トン、放射性廃棄物ではない廃棄物が1200トンと推定されている。