2. 原子炉設置の経緯

1955年6月、米国聖公会ワシントン教区会で「世界平和の協力するため原子炉を作る能力の乏しい恵まれない国に、原子炉を寄付する募金を募集する」という提案がチャールス・マーティン氏からなされた。それを受けて9月の米国聖公会総会において「米国聖公会が募金50万ドル(1億8千万円)を募集し、極東地域の大学として25万ドル(9千万円)支出できる施設に対して原子炉を寄贈する」という提案がなされる。この総会に日本代表として出席していた八代斌助主教は、この席上で立教への誘致を強く訴えた。(注1) そして原子炉の寄贈が可能かどうかの米国聖公会の調査委員会が設置されることになる。議案を持ち帰った八代主教は立教大学において松下総長らと委員会を立ち上げ実現の検討に入った。(注2)

11月、米国政府から原子力平和利用の活動を託されて、読売新聞社主催で米国国務省後援の原子力平和利用博覧会に出席するため、ウイリアム・G・ポラード博士(オークリッジ原子力研究所所長、米国聖公会司祭、米国聖公会原子力平和利用委員会副委員長)が来日した。(注3)(注4) その際、立教大学を視察し、大学当局と原子炉設置について懇談した。(注5)

翌年4月、立教大学の松下正寿総長が渡米し、原子炉寄贈調査委員会に出席し、またニューヨークのシェリル主教に会い、原子炉が立教でいかに必要かを詳細に説明した。そして、原子炉受け入れの申し入れと、その設置及び学部増設のための募金活動を準備した。帰国した松下総長は立教への原子炉寄贈が決定したことを発表し、原子炉の池袋校内への設置を示唆する。立教の学生に対しては「原子力時代の指導者になってほしい」と訴えた。(注6) その後、松下総長は国内での業界との協力体制を作るため、三菱、第一原子力産業グループ、東芝などと接触していく。

1957年6月、立教大学原子力研究所設置のための土地調査が開始された。理学部教員の武谷三男氏は当時、敷地選定について次のように話している。「発電原子炉の場合よりも危険性は少ないが、やはり、人口密度の高いところ、そして、水源地は絶対に避けるべきだろう。」(注7) この頃、京都大学、大阪大学の研究用原子炉が、相次いで地元の反対にあい、建設が頓挫していた。

8月、第一原子力産業グループと共に1000Kwの国産スイミングプール型原子炉設計の検討が始まった。しかし予算上困難となり、General Atomics社のTRIGA炉が検討されることになった。

1958年7月、立教大学当局は、横須賀市長と初めて接触し、観音崎を第一候補として原子力研究所の土地取得を要望した。渡辺横須賀市助役は次のようにコメントしている。「接収解除になることを予定して産業誘致に努力してきたので、くるものがきたという感じだ。立教大学から、100キロワットのウォーターボイラー型原子炉を中心とする原子力研究所建設敷地として、3.3ヘクタールの提供申し入れがあり、近く同大学から説明に来ることになっている。このほか小規模産業からも話があるので、追浜兵器廠跡への有力産業誘致と一緒に武山へも大産業誘致につとめる。」(注8) 8月21日、立教大学原子力研究所建設計画説明会が横須賀商工会議所において開かれた。米国聖公会から約40万ドルの基金を受け、また第一原子力産業グループが5000万円を出資して、武山キャンプに原子炉を設置することを横須賀市に申し入れる。(注9) 松下総長、中川原子力研究所所長、市長、助役、市議会、商工会議所、工業クラブなどの有力者約20名が、この説明会に出席した。松下総長は放射性廃棄物について「東海村の政府処理機関で処理するから危険性はない」と述べている。(注10) また、「研究所の建設により武山地区に関連作業が起こることは必至で、大学としても市の発展にできるだけ協力したい」と述べた。(注11) 市側では「原子力平和利用は、国策的なものであり、大蔵省が積極的にそれを希望し、別に横須賀市の生きる道を考慮してくれるならば、あえて反対ではない」と考えていた。(注12) 説明会後、総長は地元関係者の説得に歩きまわった。(注13日) そして横須賀市は26日に横須賀市全員協議会を開、立教大学原子力研究所問題は建設の内容、関連産業誘致の見通しなど、詳しい説明を聞いてから検討することを決めた。(注14)

「立教が産業を一緒につれてくれれば、武山に原子炉を作るのに賛成する」という声が横須賀市の有力者のあいだで高まってきた。そこで9月に入り、松下総長は何度か富士電機に出向いた。富士電機は武山に放射能計測器工場を建設するとの意向を表明することになった。9日には、総長らが市役所、商工会議所などを訪ね、「原子炉が設置されれば、これをめぐる第一原子力産業グループ17社の進出計画もある」と横須賀市に協力を申し入れた。(注15) 読売新聞はこの立教大学の申し入れについて次のように報道している。「立教大原子力研究所建設計画に対し市側では同研究所だけでなく関連原子力産業誘致の具体的な計画があるか否かにむしろウエイトをかけ関連産業建設計画の具体的資料の提出を大学に求めていた。」「横須賀市としては原子炉の危険度などということより関連作業が進出してくるならむしろ歓迎すべきだという考えに傾いてきている」「駐留軍離職者の救済、建設工事の下請け、完成後は多数の見学者の来訪など、市の発展にプラスになるとして乗り気になってきている。」(注16) 13日には総長らが横須賀市議会で、原子力関連作業団体からの2000人の雇用や建設データ等について詳しい説明を行った。松下総長は「マイアミで開かれる聖公会の大会で決まる。それまでに敷地がはっきりしないと3年先の次の大会にのばされるが、その時は世界情勢も変わり、あてにならなくなる。この大会には各界の著名人が1万人も参加する。そこで立教の原子炉を横須賀に建設することに決まったことを堂々と発表できるようにしてほしい」(注17)と、建設受け入れ決定を催促した。(注18)

10日の横須賀市議会市政特別対策委員会では、「地元一帯の漁業者間に、この原子炉というものに危険を感ずる向きもあるので、立教大学の出張説明を要望」するという提言がなされた。(注19) そこで15日、地元民に対する懇談会が開かれることになった。立教大学から中川研究所所長、服部、高石教員らが出張し、原子力研究所について説明した。出席者は、地元の武山、長井、大楠の農漁業組合、町内会の代表ら約100人で、代表の中には「空気、海水などが放射能の危険を絶対に生じないとは考えられない」など反対を唱えるものがあったが、大勢は受け入れに傾いた。(注20) ただ、漁業組合側から、関連産業の工場設置で海面が汚染されはしないか、との心配から「もう一度漁師を対象に説明会を開いてほしい」との希望が出たり(注21)、「やはり危険だ、とする人たちもあったので」(注22)、19日にも地元住民説明会が開かれ、大学側と、市長、市議会議長の説明も行われた。カツオ漁業の生きエサを扱い、沿岸にイワシの生簀を持つ佐島漁業組合から、(1)安全性を保ってもらいたい(2)海面の汚れに注意してほしい(3)佐島一般の水産振興(4)小田和湾の制限解除を促進してもらいたい、という4点の希望条件が出され、受け入れを認めることになった。(注23) この日の説明会で、ある漁師は次のように発言している。「研究所ができて文化が進み、工場ができて横須賀が発展するということにわしらは反対はできん。若い者やこれからの時代の者は研究所や工場でお世話になるようになるかもしれない。しかしわしらは魚をとることしか知らないんだ。わしらにしてみればたとえ真水が流れ込んでも魚に影響があるんじゃないかと心配する。わしらは決して反対するんじゃないが、文化が栄え、市が発展する影にわしらのようなものがいることだけは忘れないでほしい。」 別の年配の参加者からは「俺は三浦大根の名付け親だ。この土地は大根だけを作っていればいいのだ」「絶対に反対だ」といような発言もあった。 (注24) 教員の中川茂雄は地元説明会の様子を、後日次のように振り返る。「学者のやることはまず認めなければならないという空気はありました」「内心地元が一番怖かった」「あそこら辺は海軍に買い上げられた土地なんですね。だからもとは土地の人の畑だったのかもしれない。それを安く買われたのに、今土地の値が上がってくるというので不服があって、そういう感情もまじっているのかもしれませんね」「魚魚が非常に悪くなるという心配が地元の人達に鋭くあらわれていましたね。」(注25) 20日にも地元説明会が開かれ、松下総長は「もし万々一にも事故が起き、みなさんに迷惑をかけるようなことがあれば、良心的にその保証の責任を負う」と確約した。そして住民側も大学側の誠意を認め受け入れを承認した。(注26) そして22日、横須賀市議会において立教大学原子炉の武山での建設が満場一致で承認されたのである。

10月10日、こうした経緯を受けて、マイアミで開かれた米国聖公会総会において、1959年の日本聖公会宣教100年祭を記念した原子炉寄贈募金決議案が可決された。(注27) 「原子力を平和のために利用することに、聖公会が率先してしたいというので、日本唯一の聖公会所属の大学立教大学に科学推進のため、トリガタイプ原子炉が寄付される」ことになった。(注28) 圧倒的賛成多数での可決であった。(注29) 松下総長はオブザーバーとして出席していた。

1959年2月18日、立教学院理事長の八代斌助主教を設置者として、原子炉設置許可の申請書類が科学技術庁に提出された。(注30) 9月には、会長に吉田茂、副会長に池田勇人、ほか正力松太郎や石川一郎ら17名が発起人となり、立教大学後援会が発足した。後援会では、原子炉建設費3億2800万円と校舎関係4億6800万円の募金が計画された。(注31)

12月22日、立教学院原子力研究所地割式が行われた。「大学側から松下総長、中川研究所所長、服部教員らの学校関係者、地元側から長野市長、田村市議会議長、菊池管財横須賀出張所長ら来賓約100人が列席した。」(注32) 「式では同市ではめずらしいキリスト教聖公会方式で同大学竹田牧師の司祭で進められた。」牧師の聖書朗読があり、「賛美歌のコーラスが流れるおごそかな雰囲気のうちに松下総長が鍬入れを行い、原子力平和利用の第3の火が来秋には点火されることが神の前で誓われた。」(注33)

1961年11月8日、武庫春丸で立教の原子炉用の核燃料が米国から到着した。これは、米国原子力委員会から受け取った核燃料物質を米国General Dynamic社が加工したもので、20%濃縮ウランと水素化ジルコニウムとの合金である。立教の原子炉にはこの燃料棒が全部で62本あり、1本の中にはウラン235が約36グラム含まれている。12月8日には原子炉火入式が行われた。松下総長、General Atomic社のD.ホフマン副社長(米原子力委員)、科学技術庁原子力局技官などが出席した。(注34) 午後8時16分、燃料棒57本で臨界となる。立教大学の原子炉(TRIGA II型)が日本で4番目の原子の火として運転を開始した。 翌午後0時59分、燃料棒62本が挿入され、熱出量は100Kwとなった。

1962年5月13日、原子力研究所の開所式が、石川一郎原子力委員、正力松太郎読売新聞社社主など政府や企業、教育関係、教会関係の代表者を多数迎えて行われた。(注36)開所式は原子炉の建物のまわりをプロセッションが行進して始まった。「式は聖公会から立教大学への授受にはじまり、キリスト教式に聖歌隊が賛美歌を歌ううちにハイム司祭が松下総長に贈呈の言葉を述べ、松下総長は原子炉舎玄関のテープにはさみを入れた。」(注37) 米国聖公会のリヒテンバーガー総裁主教の原子炉奉献の祈りが八代斌助主教によって献げられた。(注38) 立教大学チャプレンによって、建物、原子炉、その他の付帯設備が祝福された。また、八代主教よりGeneral Atomic社及び清水建設に対し感謝状が贈呈された。(注39)

注1 立教大学新聞1956年6月5日付

注2 立教大学新聞1955年10月20日付

注3 ポラード博士は、マンハッタン計画に参加していた。しかし、自分の研究が広島・長崎の原爆投下につながってしまったことに悩み、その後牧師になる。そして、被爆国の日本のために原子力の本来の良い面を伝え、平和のために利用してもらおうと献身的な努力をした。

注4 The Oak Ridger, No.230(1986),P.7.

注5 立教大学新聞1955年11月20日付

注6 立教大学新聞1956年6月5日付

注7 立教大学新聞1957年4月20日付

注8 読売新聞神奈川版1958年8月19日付

注9 読売新聞神奈川版1958年8月22日付

注10 読売新聞神奈川版1958年8月22日付

注11 毎日新聞神奈川版1958年8月22日付

注12 神奈川新聞横須賀・湘南版1958年8月23日付

注13 立教大学新聞1958年9月20日付

注14 読売新聞神奈川版1958年8月27日付。立教大学の原子炉は大学の研究用ではあるが、将来の原子力発電のためのものでもあった。立教大学教員の中川重雄は「将来の動力源として原子力の平和利用は真剣に考えなければならない」と述べる。第一原子力産業グループは次のようにコメントする。「石炭の欠乏を見通しこれを原子力に切り替える。そこで原子炉の基礎データを得るためにまず実験用の原子炉の必要性が出てくるのである。」(立教大学新聞1958年9月20日付) 服部学は次のように話す。「民間産業にも利用してもらい、その成果が日本の原子力産業の発展に役立つことは望ましいことである。」(立教大学新聞1958年10月10日付) 京都大学原子炉実験所教員の柴田俊一は「研究炉と動力炉は違う、研究炉の経験は動力炉に対しては重要ではない、という意見がある。先進諸国で研究炉の果たしてきた役割を知らない素人の意見と思いたい。臨界実験装置から研究炉あるいは試験炉とすすみ、その経験データから大型動力炉へ進んできたことは専門家なら周知のことである。(東京大学原子力研究センター『立教炉共同利用十年誌』1985年)

注15 この計画によると研究所に隣接して、第一原子力産業グループの富士電機の計測機工場、古賀電工の原子燃料生成加工工場、第一原子力産業グループの原子力応用研究所を建設することが盛り込まれている。計画では、各工場に約1000人ずつの雇用が見込まれ、建設費総額は40数億円である。

注16 読売新聞神奈川版1958年9月10日付。立教大学新聞の論説でも「関連産業をも誘致するという具体的計画を発表してから、現地の空気は非常に好転している」と伝えている。また、手島横須賀市商工会議所専務も「立大研究所だけで招致するだけでは意味が薄い。富士電機、古賀電工なども関連産業発展には尽力を約束したが協力を再確認して地元の正式決定がなされると思う」と述べている。(立教大学新聞1958年9月20日付)

注17 神奈川新聞横須賀・湘南版1958年9月14日付

注18 読売新聞神奈川版1958年9月14日付

注19 聖公会新聞1958年10月15日付

注20 読売新聞神奈川版1958年9月15日付

注21 朝日新聞神奈川版1958年9月17日付

注22 聖公会新聞1958年10月15日付

注23 神奈川新聞横須賀・湘南版1959年9月21日付

注24 『立教』(第12号)、立教大学、1959年

注25 また次のように述べている。「原子炉を使って大学生を養成する機関はほかにないんですよ。これが一番現在の日本に必要であり、そしてこれらの人々が育っていったときに、日本の将来に非常に役に立つと思うんです。」(座談会「原子炉の火が燃えるまで」『立教』第12号、1959年、10-23頁) また、河西立教大学経済学部長はこの座談会で次のように発言した。「土地の問題は金よりもむしろ住民の同意を得ることがきわめて困難だという点で苦慮していたようだった。ちょうど関西の大学が住民の反対で困っていましたからね・・・。」「この土地問題を解決したということは大手柄だと思うんです。これで日本における原子炉の設置場所の問題解決を一歩おし進めたことになるのじゃないでしょうか。この問題がうまくまとまった一番の理由は産業誘致をうまく実現したということで、市会がうまくまとまったということですか。」

注26 読売新聞神奈川版1958年9月21日付

注27 JAPAN MISSION,Vol.XII,No.2 Summer 1962.(Published by the Japan Liaison Office of the National Council of the Protestant Episcopal Church in the Unite States of America)

注28 松下実「米国聖公会総会に参加して」『聖公会新聞』(1958年12月15日付)

注29 サウス大学総長マクグレディ 博士は「教会は福音の宣布に専念すべき」という主旨の反対演説を行った。(松下正寿「聖公会と原子炉」『チャペルニュース』(第74号)、1958年、3頁。)

注30 『TRIGAII型原子炉設置申請書 説明書その1ー4 他』

注31 『立教』(Vol.4 No.3.) 立教大学、1959年、59頁

注32 神奈川新聞横須賀・湘南版1959年12月23日付

注33 読売新聞神奈川版1959年12月23日付

注34 読売新聞神奈川版1961年1月29日付

注35

注36 『セントポール』第133号、セントポール発行所、1962年

注37 読売新聞神奈川版1962年5月14日付

注38

注39 『セントポール』第133号、セントポール発行所、1962年

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米国聖公会総裁主教の祈りは以下の通り

原子炉奉献のため

主にある信仰あつき兄弟たちよ。

ここに、保健と治療に必要なる原子炉を建設せり。故にわれら、このよき企ての祝福せられんがために祈るべし。

全能の神よ、主はその栄光をもろもろの天のうちに現わし、アブラハムには燃ゆる柴のうちに、エリアには、いと細き静かなる声のうちに現したまえり。また、このわれらの時代には大いなる原子力のうちに、自らを示したまう。

願わくば、主の与えたまいし知恵と能力(ちから)を破壊にあらず、建設のため、危害にあらず癒しのために用いさせたまえ。又、願わくば常に地上に平和と善意とを望みたもう神への信仰を新たにし、世に満つる恐怖(おそれ)と不信、敵意と不和を、われらのうちより除き去りたまわんことを、すべての人の救主、イエス・キリストによりて、こいねがい奉る。

アーメン

父と子と聖霊の御名によりて、我らこの国の人々の福祉と神の栄光のために、ここの原子炉を主に捧げ奉る。

アーメン

米国聖公会総裁主教

A・リヒテンバーガー