1 武山 原子炉前史

武山の海岸は遠浅の浜で稚魚が寄る海辺として知られ、海苔の養殖も行われる波静かな浜辺だった。(注1) 戦前までは、ほとんどが農家、あるいは半農半漁であり自給自足の生活であった。(注2) しかし、太平洋戦争に近づくと、住民約100戸が他の土地へと移動させられ、海岸線は埋め立てられ、農地と海岸を整備して海兵団の基地となった。(注3) 現地の人々は食糧増産にかり出され、わずかの空き地や山地を切り開いて、芋を生産したりした。(注4) 海岸線の埋立には朝鮮人労働者が多数徴用された。(注5) そして「一般人民が立ち入りできないようにして」(注6)、1941年11月20日、横須賀第二海兵団が開設された。朝鮮人徴用工約1300人は宿舎に収容された。周囲は板堀と鉄条網で囲まれ、工員は8畳ほどの板の間に12、3人ずつ詰め込まれていた。彼らの仕事は、長坂射撃場の山を崩して海岸を埋め立てることなどであった。 過酷な労働環境のため、逃亡事件もあり、捕まると精神鍛錬棒と呼ばれた大きな鉄の棒で失神するまで殴られた。(注7)

武山海兵団では、志願兵、徴兵、補充兵の新兵訓練が行われた。また、大学在学中の学生を短い期間で海軍士官とする予備学生の訓練も行われていた。(注8) 1943年12月の学徒出陣では、3354名が武山学生隊に入隊し、その後274人が戦死することとなる。(注9)

敗戦後、この敷地は米軍に摂取され、朝鮮戦線で名を馳せた米陸軍第一騎兵師団が使用した。さらにその後、米海軍が使用することになる。(注10) 当時横須賀市は1950年の朝鮮特需によって数多くの兵器工場が建てられ、軍需産業に多数の民間人が雇用されていた。

朝鮮特需の後、富士自動車(株)が3024名の大量解雇を行う。1955年10月、こうした労働者の失業対策のため、横須賀市失業対策協議会が設置された。この協議会は、離職者に就職を斡旋したり、自営業の指導をしたり、接収基地の解除を促進して跡地への企業誘致を早期に実現させるなどの取り組みを行っていた。(注11)

1956年1月15日、経済復興特別委員会が横須賀商工会議所で開かれた。この時に初めて、地元選出の国会議員で原子力委員会委員の志村茂治が、原子炉の武山誘致の説明を行った。(注12) 前年7月、日本政府は、東京周辺の国有地への実験原子炉と濃縮ウラン設備の設置のため原子力研究所の開設を示唆していた。(注13) 武山への設置が噂され、長井、武山、大楠地区の地元民をはじめ、横須賀市議会の有力者らは「そんな危険なものを」と反対の声を上げ、その後も一貫して反対をしてきたいきさつがあった。(注14) 長井地区選出の三神宗三郎市議は、商工会議所での特別委員会の席上で、次のように述べた。「危険なものにこの付近の住民2万余は安心していられまい。自分の知っている様子では住民は設置に反対していると語っている。また武山の反対運動から昨年、東京湾口の観音崎国有地への小型実験所設置のうわさが伝えられていたが、これも付近の地元は一致して反対している。」

数日後、横須賀市の有力者に日本商工会議所から原子炉設置における利点について情報が伝えられた。 (注15) そして、1月21日、横須賀市議会で日本原子力研究所の武山誘致への検討が始まることとなった。会議の中では、「研究所は平和利用というのは政府の口実で将来原子兵器製造に変わる心配がある。さらにこの土地は戦争中海兵団の敷地として取られたが、その補償などいつも守られたことがなかった」(注16)と設置に反対している地元の声も伝えられた。

1月24日には地元での初の懇談会が開かれ、地元選出の5任の議員と富沢県会議員、町内会役員、地元PTA、農業・漁業関係者、婦人会代表など、約100人が参加した。この時、長井漁業協同組合(480世帯)は、原子力研究所の受け入れにあくまで反対するとの姿勢を表明した。この懇談会の様子を嘉山市議は市議会で次のように語っている。「漁業者はビキニの水爆実験の後1年経って相模湾でとれた魚に放射能があった。原子力研究所ができて少量の放射能でも海へ捨てられたら害があると思われる。しかも相当な熱量を持つ冷却水が毎秒5トンも捨てられたら、小田和の海水も熱くなり魚とりのエサにするイケスの魚も死ぬだろうと心配している。」三神市議は「集まった人の7、8割は原爆と原子力を混合している」と述べた。(注17) 28日には、原子力平和利用の公開説明会が開かれ、地元住民約800人が集まり、初めて原子力講話を聞いた。(注18) 「研究所ができても地元民の生活をおびやかすような危険は何もない」という各講師の説明があり、原子力平和利用の映画が上映された。(注19) 志村代議士は「将来は原子力産業の中心地となり、さらにアジアの原子力センターとなる。地元の人が考えるような恐ろしいものではない」と述べた。(注20)

2万余人の地区住民は、原子力講演会、映画会など、たびたびの説明会で反対の空気は薄れていった。(注21) しかし地元の農漁民の間には、原子炉に対する不安は依然根強かった。(注22) だが2月2日、横須賀市全員協議会は全会一致で日本原子力研究所の誘致運動を起こすことを決定した。その利用として述べられていたのは次のようなことである。「帝国海軍を失った横須賀がいつまでも米軍基地で持つはずがなく、ソロバンをはじいた上でこのままではジリ貧をたどる横須賀の将来をアトムに寄せたからだ。」「将来は研究所2000名ぐらいという原子力研究所の構想、そしてこれがアジアの原子力センターになれば、日本はおろか外国からも研究や参観にたくさんの人が訪れて金を落とすに違いない。原子力産業も周辺に起こるだろう。」(注23) 長井漁業組合は2月4日に総代会を開き、「学者の説明を聞いても判らねえ。ともかく今まで知っている原子力というものはおっかねえもんだ」との意見が出され、設置反対を全会一致で決議した。(注24) 当時毎日新聞の「県民の声」というコーナーには、次のような意見が掲載されている。「地元の発展という利点は予想されるが、その影には地元の強い反対の声もあることを考えられたい。広島のピカドンやビキニの灰に恐怖を受けた人々、原爆マグロを釣って損害を受けた人々の恐怖。」「絶対に被害を外に及ぼさないのか、という質問に対しては、『大丈夫と思う。また被害を他に及ぼさないよう手段を講ずるはず』などのご返事では、私ならずとも安全感について十分に納得できなかったと思う。」(注25)

しかし誘致運動は「100の観光事業より原子炉を!」と市当局の熱の入れ方は大変なものであり、梅津芳三横須賀市長も「耳を大きくしても反対の声は聞けない」と述べていた。(注26) 広報車で市内を巡回したり、講演、映画、展示会を各所で開いたりした。さらに原子力研究所誘致を政府に働きかけるため、横須賀市の日本原子力研究所誘致促進連盟によって街頭署名運動、家庭署名運動が行われた。原子力写真展開催、署名運動にともなう街頭演説、2万枚のチラシ、1万5千枚の署名簿、2000枚のステッカー、宣伝カー、トラックなど啓発運動は活発化した。(注27) 3月9日、促進連盟は10万5160名の署名簿を携えて、首相官邸内の原子力委員会を訪問し原子力研究所誘致を訴えた。

ところが4月4日、日本原子力研究所の候補地から武山は除外された。

原子力研究所の武山への設置は最初からありえない話であった。正力松太郎原子力相は、この原子力研究所を、東海村に設置する意向を持っていた。しかし原子力法制定や原子力利用の予算獲得に党派を越えて努力していた自民党の中曽根康弘(群馬県)と、社会党の志村茂治(神奈川県)が、それぞれの選挙地盤に研究所を誘致したことから候補地が混迷することになった。

もし志村茂治が推薦する武山に建設するとなると社会党に名を成さしめるようなことにもなる。しかし、武山が学者や世論に支持され、また社会党の今後の協力を考えると武山もむげに断れない。そこで政府は、米軍が武山キャンプを解除しないことを見込んで、まず武山を候補地にしておき、米軍キャンプ解除不可能を理由に断念させた後、高崎に持って行こうとした。ところが、武山の解除の可能性がでてきたため、「絶対に危険がない」と豪語していた政府は「海水が汚染されて海岸一帯が大変なことになる」、「戦争にでもなれば潜水艦のえじきになる」と脅して、世論に失笑を買いながら、最後は国策という防衛上の理由を持ち出し、結局原子力研究所は東海村に設置されることになったのである。(注28)

その後1957年9月には、米軍武山キャンプ・マクギルの労務者約700名が解雇され、11月に武山キャンプから駐留軍が撤退した。翌年には、米海軍横須賀基地の800余名の解雇が発表され、また特需会社の日本飛行機(株)の1000人が解雇された。8月、米軍座間司令部より特需打ち切りの発表もあり、米軍追浜兵器廠付属の日本飛行機、富士自動車追浜両工場の特需打ち切りで、6700人の従業員の解雇も見込まれることとなった。(注29)武山キャンプなどの駐留軍関係の失業者も約6000人にのぼっていた。

1958年9月19日、米軍武山キャンプ返還式が行われ、この土地は国有地となった。(注30) 具体的には大蔵省に返還され、関東財務局横浜財務部横須賀出張所が管理することになった。(注31) そして、大蔵省案により、その大部分が陸軍自衛隊武山駐屯地として引き継がれ、その際に一部が民間に開放され、産業地区と公共利用地区となっていく。

注1 「小田和は全国で有数の鮎の稚魚が集まる湾でした。稚魚を捕まえて、あちこちの川へ放流していたのですが、埋立て後は湾も汚れてきたため、今はほとんど集まらないようです。平凡に見える小さな湾にも、現在では環境破壊による大きな変化が押し寄せてきていることを、私たちは知っておかなければならないと思います。(横須賀市編『古老が語るふすさとの歴史 西部編』1982年、18頁。)

注2 横須賀市小学校社会科サークル『小学校社会科資料集III 横須賀市の移り変わり(下) 東部・西部』1978年、116頁

注3 横須賀市編、同書、19頁

注4 横須賀市小学校社会科サークル、同書、115頁

注5 神奈川と朝鮮の関係史調査委員会『神奈川と朝鮮 神奈川と朝鮮の関係史調査報告書』1994年

注6 聖公会新聞1958年10月15日付

注7 神奈川と朝鮮の関係史調査委員会、同書、同頁

注8 石井昭『ふるさと横須賀 下』神奈川新聞社、58頁

注9 『創立百年誌 たけやま』横須賀市立武山小学校、1991年、97ー98頁

注10 読売新聞神奈川版1958年8月19日付

注11 横須賀百年編さん委員会『横須賀百年』横須賀市役所、1965年、237-239頁

注12 原子力研究所土地選定委員の談話「ここならば出力1万キロワット程度の原子発電実験炉も作れる。実験炉は爆発の危険はなく、排水はなんども冷却して流すので海が熱くなる心配もないし、放射能もなく絶対無害で漁業にもさしつかえない。将来アジアの文化センターになり、周辺の都市に大きな発展をもたらす。(読売新聞神奈川版1956年1月28日付)

注13 毎日新聞神奈川版1955年7月9日付

注14 毎日新聞神奈川版1956年1月15日付

注15 1)多くの現金を集中投下する 2)高給者が現地に住むため、完成の暁には高級都市を形成する 3)原子力センターとなる 4)放射能の影響は少ない (毎日新聞神奈川版1956年1月22日付)

注16 毎日新聞神奈川版1956年1月22日付

注17 毎日新聞神奈川版1956年1月26日付

注18

注19 読売新聞1956年1月29日付

注20 毎日新聞神奈川版1956年1月29日付

注21 毎日新聞神奈川版1956年2月2日付

注22 朝日新聞神奈川版投書欄1956年2月2日付

注23 読売新聞神奈川版1956年2月5日付

注24 読売新聞神奈川版1956年2月5日付

注25 毎日新聞神奈川版1956年2月4日付。朝日新聞投書欄において「原子炉への不安」と題して次のように述べられている。「地元農漁民の間には、科学的にははっきりとした理由を持たないまでも、原子炉に対する不安は依然根強く、なお今後とも地元民への啓発教育を必要とする声もあるようだ。このことはせんじつめれば、現在の原子力の不可避的産物である死の灰の危険性について、徹底した予防措置が果たして十分に考慮されているのかどうかという不安感にほかなるまい。(朝日新聞神奈川版1956年2月8日付)

注26 朝日新聞神奈川版1956年2月14日付

注27

注28 毎日新聞神奈川版1956年4月8日付

注29 毎日新聞神奈川版1958年8月14日付

注30 毎日新聞神奈川版1958年9月20日付

注31 読売新聞神奈川版1958年8月19日付