CURRICULUM VITAE

1983 徳島大学大学院 薬学研究科修士課程卒業

1983 和光純薬工業株式会社入社 大阪研究所勤務

1988 京都大学薬学部 受託研究員

1988 東洋紡績株式会社 総合研究所・バイオ研究所勤務(研究チームリーダー)

1997    研究コンサルタントとして富士写真フイルム㈱および旭化成㈱の創薬研究部門において勤務(富士写真フイルム㈱では研究チームリーダーを兼務)

2004   京都薬科大学において博士号(薬学)を取得

2006   京都薬科大学 21世紀COEプログラム COE所属教員

2011 神戸学院大学 薬学部 分子薬学部門

2014 神戸薬科大学 薬学部 薬品化学研究室

免許: 薬剤師、危険物取扱者甲種、中型自動車免許

所属学会: 日本薬学会、日本薬学会医薬化学部会、日本病態プロテアーゼ学会

日本ケミカルバイオロジー学会、日本ペプチド学会

J-GLOBAL研究者情報:

http://jglobal.jst.go.jp/public/20090422/200901000817516252

RIS大学連携研究者データベース

http://www.senryaku-kyoto.jp/contents/search/index.php?mode=show_print&seq=679

過去を振り返って

徳島大学での恩師は藤多哲朗先生(現在、京都大学名誉教授)で、当時の仕事は天然物化学でした。現在は計算化学を基礎とした創薬研究やバイオ研究を行なっていますが、天然物化学は生物試料からの抽出および生理活性のアッセイ(⇒バイオテクノロジー)、構造決定(⇒機器分析、計算化学)、全合成(⇒有機合成、創薬科学)のエッセンスが詰まった学問であり、現在の仕事には大学院時代の密度の濃かった経験が役に立っています。

和光純薬株式会社に入社してからは、研究所で有機合成の仕事に従事しましたが、どうしてもバイオ研究がやりたく退社しました。(退社しましたが、当時の同僚とは今でも年賀状の交換をさせていただいております。)

京都大学薬学部の矢島先生の研究室(当時の助教授は藤井信孝先生)にお世話になり、ペプチド化学の研究に従事し、その後、東洋紡績株式会社に就職し、バイオ研究所においてチームリーダーとしてバイオ研究に携わりました。バイオ事業部の主力商品を開発するなど、それなりの成果を上げておりましたが、東洋紡がジェネンテック社との特許紛争で敗北し、医薬研究から撤退することとなり、残るバイオ事業は研究設備のない福井県敦賀に集約されることになりました。

そこで東洋紡績を退社し、富士写真フイルム㈱および旭化成㈱の創薬研究部門において研究コンサルタントとして創薬研究に従事しました。特に、富士写真フイルムでは研究チームリーダーを兼務し、実験室とは別に専用の居室を与えられるなど破格の待遇でした。ところが当時、富士写真フイルムは医薬事業から撤退することを決定しており、富士写真フイルムが米国に設立したベンチャー企業(現在のSynta社)の売却を決定していました。後で分かったことですが、破格の待遇には訳があったのです。当時の経営はデジタルカメラ事業が好調でしたが、さらに経営資源を高収益事業に集中させるため医薬から撤退したようです。(今はデジタルカメラもダメになり、やはり医薬だという事で再参入していますが。)当時、研究者が富士フイルム社内の工場へ異動(名目は栄転)になったりして、一度失った人材は戻ってきません。

そうゆう訳で、京都薬科大学で博士号を取得し、そのまま京都薬科大学21世紀COEプログラムのCOE所属教員となり、COEの教育担当教員としてCOE教育関連の業務に携わるとともに、HIVプロテアーゼ阻害剤やアルツハイマー病の根本的治療薬として有望なBACE1阻害剤の開発研究に従事しました。当時、所属していた研究室の教授(平成23年3月に定年退職)は教授になられた頃はコンピュータがあまり普及してなかったこともあって、コンピュータをまったく使えない方でしたので、教授が拠点リーダーをされていたCOEプログラムや科研費など補助金の申請書や報告書、講演スライドや招待講演要旨などの作成をお手伝いさせていただけたことは、(定年退職後の教授の再就職のための書類や履歴書まで作成しました。依頼された時はさすがに引きましたが、本当に何もできない方でした。)、貴重な経験となり感謝しております。平成23年4月からは、神戸学院大学薬学部分子薬学部門に在籍しています。