大正14年作曲家信時潔の訳で発刊されたコールユーブンゲン(CHORÜBUNGEN DER MÜNCHENER MUSIKSCHULE ミュンヘン音楽学校合唱練習書)の序言で著者のフランツ・ヴュルナーは「音程練習や和音の練習は、すべて楽器の助けなしで行うべきである。階名唱法はまず伴奏なしで稽古させ、最後になって初めて伴奏をつけるべきである。しかもその時、歌うべき音をピアノで一緒に奏してはならない。平均律に則って調律されるピアノを頼りにして正しい音程の練習は望まれない。」と述べている。
19世紀半ば、ピアノの量産に伴って、西洋音楽では鍵盤楽器の調律に、オクターブを12の半音に等分する音程を使う平均律が、それまでの不等分律に代わって使われるようになった。平均律では三和音の響きに若干のうなりを伴う。2つの音の響きが協和的な音程は平均律と異なり、2音の周波数の比を表す整数値が小さければ小さいほど、その協和度が増す。うなりを生じない音程を純正と言い、平均律と純正律の各音程の周波数比は次図のようになる。
(平均律)
(長音階の純正律)
音程を測るとき、1度、2度などの「度」数で一般的に言うが、1オクターブを1200分割する「セント(c)」値を用いると12平均律では半音の値が100セントとなり、全音は200セントとなる。純正律を長音階、短音階で各々比較する(小数点以下四捨五入)と次のようになる。
第4音と第5音はほとんど同じだが、第3音、第6音と第7音が異なる。平均律に比し純正律の長音階の第3音と第6音は低く、短音階の第3音と第6音は高く取り、長音階の主音の前の導音(移動ド唱法のシの音)は低く取ると協和的となることが分かる。
では何故、現代の調律法は純正律ではなく、平均律となったか?平均律で調律されたピアノの鍵盤でド→ソ→レ→ラ…と5度ずつ上にとっていくと、鍵盤にある12音すべてが出せる。そして12番目の「ファ→ド」でドの音に戻る。しかし、純正な5度を積み重ねて行くと、12番目に出てくるはずの音は元の音よりずっと高い音になってしまう。前の表で見たように、平均律の5度に対して純正な5度は2セント大きいからだ。下図のような5度の積み重ねのサークル(五度圏)が閉じないことが、平均律に至る調律法研究の歴史を作り出したわけである。平均律が出現する以前の中世-ルネサンス-前期バロック時代には、純正をなるべく保ちつつ五度圏を閉じる為に、2c×12=24c(ピタゴラスコンマ、半音の約1/4)を調整する様々な調律法が研究された。
純正律は3度と5度を純正に保ちつつ五度圏を閉じたものである。この為に全音には8:9(大全音)と9:10(小全音)の2種類があり、D→Aの完全5度の周波数比は小全音が2つある為に27:40(680セント)と狭く協和的ではない。純正律は音程の幅が不均一の為、転調という概念がなく、楽曲の演奏に用いるのは事実上不可能である。
不等分律の最初はピタゴラス音律である。周波数の比率が2:3の純正な完全5度音程を積み重ねていくもので、24cの差を調整する為、11の純正な完全5度とピタゴラスコンマ狭い1つの完全5度をもって構成する。全音と半音の違いがはっきりしているのでグレゴリオ聖歌のような単旋律音楽では独特の美しい特徴が表れる。デメリットとしては長3度が不純であり、三和音を多用した曲が作曲され始めると、次第に5度よりも3度を純正にとる音律の研究が盛んになり、15世紀にはミーントーン(中全音律)が普及してきた。完全5度を2:3よりもごく僅か狭くしたもので、純正律の欠点であった大全音と小全音の変わりに、全音は「中全音」2:√5の一種類となり、17~18世紀のヨーロッパの鍵盤楽器に広く用いられた。その他キルンベルガーやヴェルクマイスターなど様々な調律法が試みられ、19世紀半ばにピアノの調律に採用され普及していった十二平均律もその1つである。
では、現代の十二平均律全盛の時代にどの様に協和的に演奏するかというと、既に述べたように、長音階の第3音は低く、短音階の第3音は高く取り、長音階の主音の前の導音(シの音)は低く取ることである。
(参考文献)
1.小方 厚 著 「音律と音階の科学」講談社ブルーバックス
2.平島達治 著 「ゼロビートの再発見」ショパン刊
3.平島達治 著 「ゼロビートの再発見 技法編」ショパン刊
以上 小栗正裕 記
(補足①)弦の固有振動と倍音
(補足②)平均律と純正律の各音階の周波数
因みに、セント値とは下記で定義される
Cent=1200×log(周波数比)/log(オクターブの周波数比(=2))
(補足③)音律の歴史
ピタゴラス音律とは古代ギリシャの数学者、哲学者であるピタゴラスが鍛冶屋の様々な金槌の音を聞いて、その金槌の重さの比率から協和音程の振動数の整数比(オクターヴは1:2、完全5度は2:3、完全4度は3:4)を発見し、それを基に弦楽器の弦の長さと振動数の比率を利用して考案した、という説があるため、彼の名前が付されている。周波数の比率が2:3である純正な完全5度音程を積み重ねていくもので、完全5度を6回積み重ねると7音からなる全音階が得られ、11回積み重ねると12音からなる半音階が得られる。
F→C→G→D→A→E→H→Fis→Cis→Gis(As)→Es→B
本文で述べたように、完全5度を12回積み重ねると7オクターブ上の同音階になるが、周波数比は3/2(純正な完全5度)を12乗しても2(オクターブ)の7乗にはならない((3/2)^12=129.746>2^7=128)。その差は23.46セント(半音の約1/4)でこれをピタゴラス・コンマと呼ぶ。この為、ピタゴラス音律を鍵盤楽器上に施す時は、11の純正な完全5度とピタゴラス・コンマ狭い1つの完全5度が出来る。下表では代表的なGis→Esの間が狭い完全5度となっているが、不純な狭い完全5度をどこに持ってくるかは、ピタゴラス音律で常に完全5度を純正に演奏する為に、楽曲によって決めることが本来的である。ピタゴラス音律のメリットは一箇所を除いてすべての完全5度が純正であり、全音と半音の違いがはっきりしているのでグレゴリオ聖歌のような単旋律音楽では独特の美しい特徴があらわれる、デメリットとしては長3度が不純である。ローマ時代以降15世紀後半まで、ヨーロッパ音楽全般の音律として用いられた。純正律もギリシャ時代に存在したが、ピタゴラス音律の影に長らく忘れ去られていた。
一方、イギリスでは14世紀中頃から三和音を多用した曲が多く作曲され、3度と5度の両方を純正にとる純正律が流行した。しかし転調が出来ないため、次第に5度よりも3度を純正にとる音律の研究が盛んになり、ミーントーンが15世紀には一般化したと考えられている。その具体的な調律法はイタリアのピエトロ・アーロン(1516年)によって発表され、その後改良されたミーントーンが17-18世紀のヨーロッパの鍵盤楽器に広く用いられた。純正律の欠点を補う協和的な音律として普及したミーントーン(meantone中全音律)は完全5度を4回重ねて得られる2オクターブ+長3度(Cを起点とすると、C→G→d→a→e’)が、倍音列に由来する4:5(純正長3度)となるように、4回重ねる完全5度を2:3よりもごく僅か狭くしたものである。2:3の純正な完全5度を4回重ねて得られる長3度(=(3/2)^4÷2^2)64:81と、倍音列に由来する純正長3度4:5の差(=81/64÷5/4)80:81(21.5セント)をシントニック・コンマと呼ぶが、完全5度を2:3よりも1/4シントニック・コンマ狭くして音階を得る方法である。ミーントーンの完全5度は1:5^(1/4)〔5の4乗根〕=1.49535と定義され、純正律の欠点であった大全音と小全音の変わりに、全音は「中全音」2:5^(1/2) 〔5の平方根〕=2.23607の一種類となる。
ピタゴラス音律やミーントーンで見たように、ある音程(例えば5度)を全て純正に保とうとすると、他の音程(例えばオクターブ)が純正にならないといった現象が避けられない。こういった矛盾を解決するため、歴史上様々な調律法が試みられ、その1つが十二平均律である。平均律はギリシャのアリストクセノス(前4世紀ごろ)が数比に依拠するピタゴラス派の音楽理論を批判して、音律は聴覚によって判断されなければならないとし、全音を12等分してテトラコルドの分割を説明した為、その祖とされているが、理論的記述が始まるのは16世紀初頭からで、1636年のフランスのマラン・メルセンヌの発表によって確立されたとされる。19世紀半ばにピアノの調律に採用され、その後全楽器に広まったとされている。純正律では、2つの音を同時に出し、完全に協和するように、またはうなりが消えるように調律できるのに対し、平均律ではそれができず、機械的な手法か、耳を十分に慣らした上で調律する(一定時間内のうなりの回数を数えるという手法など)といった方法がとられる。この為、ピアノでは演奏家ではなく専門のピアノ調律師によってのみ調律されることとなった。
この他に、バッハの弟子のキルンベルガーによるピタゴラスとミーントーンを組み合わせた「キルンベルガーの第3調律法」、ドイツのオルガン奏者のヴェルクマイスターによる「ヴェルクマイスターの調律法」などがある。音律の研究は、歴史と、数学・物理、技術・工学、美学、教育の問題を含んだきわめて大きくて、深い課題である。
尚、本解説は2000年以上に亘る音律研究の歴史を簡単に鳥瞰出来るよう記述した為、細部のところで史実の経過と異なることをお許し願いたい。
参考: 1オクターブを1200セントとしたときの、主要音律の比較。
(補足④)五度圏
本文の五度圏図は、右に進めると5度づつ上に取って行き、左に進めると5度づつ下に取って行くことになるが、Cを頂点とするハ長調の五度圏は底部で右回りのFisと左回りのGesの同音名が記述される。平均律の5度は700セントだから、700×12=8400=1200×7となって、7オクターブ隔たっていることが分かる。純正の5度で五度圏を回していくと、このFisとGesは7オクターブ+ピタゴラス・コンマ異なっていることは本文に記述した通りである。平均律以前の不等分律では、このピタゴラス・コンマを様様な方法で調整して五度圏を閉じているが、純正律とミーントーンについて記述すると、補足⑤の通りである。
同じ五度圏図で、頂点Cの左隣のFから5つ右のHまでの7音でハ長調全音階(鍵盤楽器の白鍵部分)の音が全部存在する。五度圏図の頂点から左に30度と右に150度の間の180度の半円だけに注目すると、五線譜で#が1個付くことは、図を右に1コマ回すことと同じことが分かる。頂点がGとなり、左30度はCでFは消えて、右150度にFisが出現して、ト長調の全音階の音が現れる。2コマ回すと頂点はDとなり、Cが消えてCisが出現し、ニ長調の全音階の音となる。さらに3コマ、4コマと右に図形を回すことは、五線譜上で#の記号を増やしていくことと同じと分かる。逆に左へ1コマづつ回していくことは、♭の調号を増やしていくことと同じことが分かる。
平均律では、E→F、H→Cの全音階的半音と、臨時記号(#や♭)による半音階は同じ100セントで、たとえばCisとDesは異名同音となるが、不等分律では異名異音となり別の音である。この為、黒鍵を二つに割ったチェンバロが作られたり、バイオリオンの練習では#系と♭系の半音を別の音として練習させられたりした。半音階的半音は五度圏図から長3度と短3度の差と定義出来、純正律では70セントとなる。純正律の全音階的半音は周波数比が16/15であり、112セントである。
(補足⑤)純正律とミーントーン
純正律ハ長調は、D→Aの5度を680.45セントと純正5度701.96セントに比しシントニック・コンマの21.51セント狭くするのを全部背負わせているが、ミーントーンでは四つの5度の間で分割して割り振ることによって、純正律の欠点を修正したことは本文で記述した。純正律の大全音は203.91セントで小全音は182.40セントであり、この2つの和が純正な長3度となる。ミーントーンの全音は大全音と小全音の和の半分の193.16セントとなり、中全音と言われる所以である。中全音2個で純正な長3度が得られる。
純正律ハ長調のシントニック・コンマ狭い5度はH→Fis、B→Fにも存在し、五度圏を閉じる為にGis→Esを743.01セントと広い5度がある。しかしこれらは通常の音階では使われない為、D→Aの狭い5度のみが問題となる。
ミーントーンでは五度圏を閉じる為に、Gis→Esが737.64セントと広く、ウルフを発生させるが、その他の5度は全て696.58セントである。
アカペラの合唱団で「純正調で歌っています」と表現する場合があるが、それはほとんど不可能で、「純正に近づけて」と言うべきであろう。前記のように、純正調で歌うと、ある特定の和音の連続の時にピッチがずれてしまう。それを避けるためには2種類の全音を歌い分ける技術がなければならない。純正調を施した鍵盤(白鍵が割れている)がかつて実験的に作られたが、それの伴奏なくしては歌うのは困難である。
では実際にはどうするかというと、ミーントーンの響きをイメージして歌うことがまず推奨される。ミーントーンの5度はかなり狭いのだが、もともと人間の感じる5度というのは純正よりやや狭くなる傾向があることが実験によって証明されており、狭い5度はさほど不快感を与えない。ミーントーンは簡単に転調ができるし、アカペラの合唱のみならず鍵盤楽器でも使うことができる。弦楽器や他の楽器とのアンサンブルもできる。なにより長3度、長6度を純正に取ることができるというのは大きい。ぜひ試したい音律である。
本文の最初の音程分布の太字表記を見れば分かるように、長調には平均律に比べて「低く」取るべき音程が多いのに対して、短調では「高く」取る音程が多い。しかし現代の音楽教育を受けた者にとっては、これは逆に感じるのではないだろうか、長調は「元気よく(上ずってもまあOK)」取って、短調では「暗く(フラット気味に)」歌うようにしてきたのではなかったか?
(補足⑥)旋律的短音階と自然短音階
本文でセント値を記述した短音階は自然短音階であったが、ヨーロッパ音楽に見られる旋律的短音階の上行形では自然短音階のF(第6音)とG(第7音)を半音階的半音上げた次のようになる。
純正律ではGis→A’は長音階のH→C’の導音の関係112セントとなり、フリギア終止形などの場合に生きてくる。また旋律的短音階を作るのは#記号のFisとGisの70セント高い音であって、♭記号のGesとAsではないことが分かる。
(補足⑦)53音平均律
ピタゴラスが発見したとされる純正な完全5度の周波数比3/2に対し、1オクターブの周波数比が2であるから、12音平均律の完全5度の周波数比は2^(7/12)で表された。広島大・木村俊一教授の著書「連分数のふしぎ」により、連分数で読み解くと、2を底とするlog(3/2)=0.584962...を連分数展開した4次近似が7/12だと分かる。精度を上げて5次近似では31/53となる。全音の周波数比を2^(9/53)、半音の周波数比を2^(4/53)として53音平均律が出来上がる。完全5度は近似精度を上げたので、12音平均律より純正に近くなる。
木村教授は「12音平均律よりも53音平均律の方が美しい音律かもしれない」と結論付けているが、残念ながらピタゴラス音律により近い平均律を見つけたと言う事であって、53音平均律の長3度の周波数比は2^(18/53)となり、12音平均律のそれより純正な長3度の周波数比5/4から遠ざかりウルフとなるのは自明である。田中式純正調オルガンの様に、長3度を17/53とすれば改善出来ると木村教授も書いている。
53音平均律で興味深いのは、半音の周波数比が全音の半分より小さい為、♯と♭では音が異なる。この差2^(1/53)はピタゴラスコンマに相当し、5度ピッチの4本の弦で構成されるヴァイオリンの演奏で、♯と♭を異なる指とする事の具体的方法が理解出来る。実際には5度圏図で見たように、右回りの♯と左回りの♭の音のピタゴラスコンマのずれは臨時記号のつく元の音から離れる方向、即ち♯の付いた音は元の音から114セント上で元の音の全音上の音から90セント下に、逆に♭の付いた音は元の音から114セント下で元の音の全音下の音から90セント上にあり、運指は♯と♭で24セント分クロスすることになる。尚、2^(1/53)の周波数差は440Hz付近で約5Hzであり、人間の可聴最低周波数差2Hzより大きい。
因みに、連分数とは分数の分母がまた分数で、そのまた分母が分数という、分数が連なった形になっている数で、πや無理数の様に、小数点表示した時に小数点以下が延々と続く数の近似分数を見つけるのに役立つ。例えば1年365日の暦を地球の公転周期365.24219日に近づける為、4年に一度閏年としたユリウス暦を改善した現在のグレゴリオ暦に対し、連分数で読み解くと128で割り切れる年は閏年としないとすれば、精度を高めることが出来ることが分かる。木村教授の著書は黄金比やフィボナッチ数など実社会で役に立つ情報も多く、連分数の威力を次々に解説してくれる本であり、是非一読をお勧めしたい。
(補足⑧)弦楽器のイントネーション
ヴァイオリンの演奏は12音平均律ではない。クリスティーネ・ヘマン著「弦楽器のイントネーション」に次の様に記されている。
弦楽器は開放弦のG,D,A,Eを純正な完全5度に調弦して、メロディー演奏の線的イントネーションはピタゴラス音律で、四重奏のハーモニーパートの和音的イントネーションは純正音程で演奏することの必要性が説かれている。
ピタゴラス音律で演奏することとは、長3,6度と導音を高めに取り、半音階的半音を全音階的半音より広く取ることで、当然#と♭では指がクロスする事になる。又、協和音程を正しく認識する為には、重音演奏で鳴る結合音(差音)に耳を傾けることを説いている。
多くの譜例を用いて説明しているが、短いフレーズのみである為、転調した時にどのようにするのか分からない。開放弦の音高が固定されている為、ピッチのズレは解消されるのだろうか?アカペラの合唱の場合、ハーモニーを協和的にすればする程、和音進行の状況によってはピッチがズレてしまうのは発声の問題だけでもない。