合唱の勧め(音楽による健康維持の為に)
2020.6 小栗正裕
2009年にロシアのハバロフスクを訪れた際、丘の上の石畳の広場にある正教の教会が目に止まりました。時間つぶしに入口の扉を開けたところ、中は満員でしたが、気品のあるご婦人が優しく導いて下さったので入ってみると、ちょうどミサの最中でした。神父が香炉を振って人々の間を回っていて、2階からは少女聖歌隊の歌声がしました。聖歌の歌声は、心の浄化、精神の健康に非常に良いものです。中世ヨーロッパでは日本の戦国時代のように、人々は死と隣合わせの生活に安らぎを求め、日本で大乗仏教が広まったように、キリスト教が深く根を降ろします。こうした背景の中でキリスト教の教会では、人々に安らぎを与える音楽、特に合唱に対してその響きをいかに美しくするかの試みがなされてきました。
音楽は火をおこし、制御する技術の様に人間の発明品であり、その発明によって人間に変革をもたらし、文化に深くかかわっています。高度に発達した西洋音楽はRhythm、Melody、Harmonyの3要素から成り立っています。
リズムは太古の昔からありましたが、4拍子、ワルツの3拍子、行進曲や日本の宴会の歌の2拍子などの拍数、同じ3拍子でもワルツは1拍目が強拍であるのに対し、ノルウェイのHallingという民族音楽は3拍目が強拍など、色々あります。4分の3拍子よりも洒落た8分の6拍子は、イタリア語でBarcaroleというベニスの船頭が歌う舟唄、ホフマンの舟唄(フランスの作曲家オッフェンバックのオペラ「ホフマン物語」で夜のベニスで高級娼婦とその客が愛を語らう二重唱)、琵琶湖周航の歌など舟唄に使われます。寄せては返す波の感じですね。因みに八代亜紀が歌う舟歌は4分の4拍子ですから、題名は舟歌でも、所謂舟唄ではありません。
グレゴリウス1世 グレゴリオ聖歌のネウマ譜
メロディーは単一の旋律の聖歌から始まりました。西洋ではキリスト教が登場して、教会で神を讃える歌と歌う儀式が徐々に「聖歌」として発展しました。6世紀のローマ教皇グレゴリウス1世(540~604)が聖歌の大規模な収集・整理を行い、8世紀頃ローマで典礼聖歌の「グレゴリオ聖歌」として完成し、リズムとメロディーに対する形式が明確になりました。
作られたメロディーを普遍化するには音の組み合わせの音階が必要です。10世紀に「教会旋法(チャーチモード)」と呼ばれる音階が定型化され、1オクターブの中に7つの音を組み入れた音階が明確になってきました。旋法の図の各モードの左端の白丸は「終止音」と呼ばれ現代の調性の主音に相当し、メロディーの初めと終わりに使われます。また、終止音から数えて主に5番目の音は「主要音(テノール)」と呼ばれ、聖歌が朗読風に歌われた場合、非常に長くこの音に留まり保持される様式が作られました。「テノール」とはラテン語で「持ちこたえる」ことを意味する「テレネ」に由来します。現代では第5音を「属音(ドミナント)」と呼び、楽曲の調性を規定する最も重要な音で、長調のメロディーは属音の周りで躍動し、主音に落ち着くのが一般的です。この教会旋法の各々のモードは、現代の平均律で考えると違いが良く分かりませんが、中世に一般的であった後述する音律のピタゴラス音律で奏すると、黒丸の音は五線譜上の同じ位置にあってもモード毎に少しづつ音程が違います。この中で、イオニア旋法のいわゆる長調の「ドレミファ」とエオリア旋法のいわゆる短調の「ラシドレミ」が他の旋法から抜け出して、後に優位になったのは、16世紀の和声即ちハーモニーの登場に拠ります。
この時代の聖歌はもっぱら男性で歌われ、11世紀頃になると、一般の男性が出せる声の最低音が「低いソ」であったことから、その音を「γ(ガンマ=G)」と呼び、その1音上からABCDEFとしたのが音階の始まりとなりました。この「γABCDEF」という音階の真ん中にあるのが「C」の音です。そこでこの「C(ド)」が合唱(男声の低音・高音)における基準音となり、現在でも「ド」が大譜表の真中に位置しています。
また、イタリアではグイード・ダレッツォという修道士が、メロディーを構成する音を覚えやすいよう、「聖ヨハネ賛歌」の最初の6節の初めの音がそれぞれ「ド(C)」「レ(D)」「ミ(E)」「ファ(F)」「ソ(G)」「ラ(A)」になっており、各節の歌詞の初めの文字“ut-re-mi-fa-sol-la”を抜き出して、後に“si”が加わり、“ut”が“do”に替わってドレミを作りました。
音階の読み方は現代では次のようにとなっています。イタリア式のドレミに対して、ドイツ式はツェーデーエー、アメリカ式はシーディーイー、日本式はハニホです。日本ではどの読み方も使われていて、クラシックはドイツ読み、ポピュラーはアメリカ読み、調性は日本読みです。
因みに尺八の基本音階はロツレチリ、ドレミで言うとレファソラドの5音音階で、これは雅楽律旋法という日本音階です。雅楽呂旋法という日本音階は4音のファと7音のシが無く、一般に四七抜き音階と言われ、世界でもっとも分布している5音音階で、「七つの子」や「赤とんぼ」と共に、「蛍の光」や「夕空晴れて」など我々に親しまれているスコットランド民謡の多くはこの音階に基づいています。郷愁を誘うメロディーになっており、アメイジンググレイスもこの音階です。
音階としての「ドレミファ...」は全ての音が同じ間隔ではなく、音と音との間隔が「広い」ものと「狭い」ものがあり、それぞれ全音と半音と言われます。音程の最小単位が半音であること、つまり「1オクターブ」が「12の半音」から成る事はかなり早い時期から多くの民族で知られていました。ピアノの黒鍵の並びを見ると、2つ並んでいる所と3つ並んでいる所があり、その間の白鍵はミ~ファとシ~ドの半音になります。この並びが後に述べるハーモニーに大きく関係してきます。
1~8音の間を「オクターブ」、1~5音の間のように全音3つと半音1つから成る音程を「完全5度」、1~4音のように全音2つと半音1つから成る音程を「完全4度」言いますが、完全5度と完全4度は表裏の関係にあります。いずれも良く協和する音の関係です。教会旋法でみた属音ドミナントはこの完全5度に当たり、グレゴリオ聖歌は協和的な4度5度音程の進行が使われていた訳です。
音階について最初に理論化したのは古代ギリシャの数学者ピタゴラスです。二つの音の振動数の比率が単純な整数の比であればあるほど協和的に聞こえることが現代では分かっていますが、紀元前6世紀に彼は鍛冶屋の様々な金槌の音を聞いて、その金槌の重さの比率から協和音程の振動数の整数比(1オクターブは1:2、完全5度は2:3、完全4度は3;4)を発見し、それを基にモノコルド(一弦琴)に立てた支柱を動かして、弦の長さと振動数の比率を利用して考案したと言われています。
人間が音として聞き取り得る可聴音域はおよそ20Hz~2万Hzの範囲とされています。楽音の基本はノイズのように色々な周波数成分を持つ音ではなく、綺麗な波形で振動する単一の振動数の音です。両端を固定した、ある長さの弦を弾く(あるいは管を吹く)とその長さで空気が振動し、空気の密度の濃淡が発生して音が生まれます。その振動が可聴音域であったとき、人の耳にはそれが楽音として聞こえます
音速はおよそ340m/secなので
振動数(Hz)=音速(m/sec)÷波長(m)
から大譜表の真ん中のドの1オクターブ下のド(132Hz)の波長は2.6mとなります。両端を固定した1.3mの長さの弦を弾くと1.3mの長さで空気が振動し(波長は倍の2.6m)、空気の密度の濃淡が発生して音が生まれます。そして弦や管で出来る音は上図のように、ひとつの大きな波だけではなく、共鳴によって半分のポイントで分かれた2分の1の波、3分の1の波、4分の1の波といったような波が代わる代わる生まれ、この整数倍の振動数の音が重なって発生します。これを自然倍音と言います。
楽譜で表すと、図のように基音を132Hzの「ド」とすると、2分の1の波長の音はオクターブ上の「ド」、3分の1の波長の音は「ソ」、4分の1の波長の音はさらにオクターブ上の「ド」、5分の1の波長の音はその上の「ミ」というような音程になります。もちろん人間の耳に聞こえるのは基音の「ド」の音だけで、倍音を実際に耳で確かめようとしても、それは相当難しいことです。昼間に星を見ようとするのに似て、太陽に当たる基音があまりに強く響いているからです。又、人間の脳は基音、倍音すべて合わせて一つの音として認識します。自然界に存在する音は多くの倍音を含む複合音で、基音と同時に強く鳴る第2倍音は基音と同じ種類の音とみなすよう進化したのです。オクターブ離れた音を同じ音に聞こえるのはこの為です。
「自然倍音」を豊かに含んでいる音ほど人間の耳には「綺麗な音」「音楽的な音」に聞こえます。ゴチック建築の教会や風呂場で歌うと音楽的に聞こえるのは、残響によって自然倍音が増幅されているからです。「音楽的な音」つまり「自然倍音」を豊かに含んだ音は「ド」に聞こえても、その向こうには常にオクターブ上の「ド」や「ソ」「ミ」の音が鳴っていることになります。このことは後に述べるハーモニーに大きく関係します。
これに対して基音のみの音も存在し、これを純音と呼び、機械から出る「ピー」という音のように、音楽の素材としては非常に貧弱な印象を与える音になります。倍音成分の豊かな管楽器はトランペットで、逆に倍音成分が少なく純音に近い管楽器はフルートです。
また、音に含まれる自然倍音の数、分布、強さなどの違いが音色の違いとなります。2,3,4,5,6という低次の倍音が強い音は豊かで幅のある音色となり、その反対に高次の倍音が、より強い音は硬く鋭い感じの音色となります。又、奇数番の倍音のみが響き、偶数番が弱いかほとんど存在しないときは、少し虚ろな感じの音色となります。この3つを管楽器で言うとホルン、オーボエ、クラリネットの音色に代表されます。
自然倍音を理解する為には、パイプオルガンのストップ(音栓)やハモンドオルガンのドローバー(操作子)を操作することによって体感出来ます。
さて、教会旋法の中でイオニア旋法のいわゆる長調の「ドレミファ」が他の旋法から抜け出して優位になったのは、主音「ド」から見て5つ目の「ソ」が振動数比2:3の完全5度、4つ目の「ファ」が振動数比3:4の完全4度に加えて、和声音楽に大きく関係する3つ目の「ミ」が振動数比4:5の長3度という自然倍音の理屈に沿った並び方で、ここから生まれる三和音の主和音「ドミソ」も、下属和音「ファラド」も属和音「ソシレ」も振動数比4:5:6と綺麗な整数比を持っているからです。この自然倍音列による単純な整数比の音の重なりは気持ちの良いハーモニーを生み出します。
中世から15~16世紀のルネサンス期に入ると、市民社会の確立に至る経済的、社会的発展を背景とした世俗音楽の普及や楽器の発達などにより、多声音楽が作曲されるようになります。同じメロディーの音型を複数の声部で追いかけるように並走させ組み合わせる「フーガfuga」が開発され、西洋クラシック音楽の作曲法の基本である「対位法」が生まれました。この対位法がルネサンス期に「どういう音を組み合わせると綺麗に響くか」「それぞれの音はどういう性質を持っているか」ということが研究され、理論化へと発展していきます。横に繋がって響いている「メロディー」を縦の「響きの組み合わせ」として捉える発想が生まれ、「和声法」が研究されます。そして、バッハ、ヘンデルを頂点とする18世紀前半の後期バロック時代に調性が楽曲を支配する原理として確立しました。
キリスト教から生まれた「単旋律の聖歌」は1000年程かけて複数の声部を交差させる「対位法」へと進化し、さらに700年程かけて「五線譜」というソフトを得て「和声(ハーモニー)」という概念へと到達しました。18世紀その全てのノウハウを統一して「クラシック音楽」の礎を確立したのがJ.S.バッハ(1685~1750)であり、音楽の父と言われる所以です。
関係年表を対数グラフで一望してみると、紀元前6世紀のピタゴラス、8世紀のグレゴリオ聖歌の完成、11世紀のドレミの成立、18世紀のバッハと和声法の確立と、ピタゴラスの紀元前6世紀からの音楽研究の歴史の長さが分かります。そしてこれ以降の記述に深くかかわる量産ピアノの普及は19世紀半ば以降です。
即ち、19世紀以降ピアノが量産されてからは、鍵盤楽器は自然倍音列から外れた12音平均律となってくるのです。
金管楽器やパイプオルガンは自然倍音列が基本です。トランペットで見ると、ピストンの無い軍隊ラッパは自然倍音列の「ドミソド」でしか鳴りませんし、オーケストラに使うトランペットでも「ド」と「ソ」の音はピストンをいじりませんから、管長が同じとなり自然倍音列です。弦楽器も4本の開放弦を自然倍音列の完全5度で調弦します。オーケストラではチューニングをする時に「ラ」の音1音を合わせて、後は個々の楽器にゆだねられますから、実は細かく聞くと、それぞれの楽器で同じ音程の音が同じ周波数とは限らないのです。
では何故そのようなことが起こっているのでしょうか?
(12音平均律)
(長音階の純正律)
図はピアノに使われている12音平均律の音律と自然倍音列をベースとする純正律の音律を示します。横軸は対数グラフで書かれていて、それを12に均等に割ったのが12音平均律です。オクターブは2倍の周波数比ですから、各々の音は基音周波数×2の(n/12)乗となります。純正律は周波数比2:3の完全5度のド~ソ、ファ~ドからファ~ソの全音の8:9が決まり、4:5の長3度のド~ミからミ~ファの半音の周波数比15:16が決まります。ド~レ~ミとソ~ラ~シの各々の全音は片方を8:9とするともう一方は9:10となり、大全音と小全音の2種類となります。
純正律と平均律を長音階、短音階について各々数値で比較すると下表のようになります。音程を測るとき、1度、2度などの「度」数で一般的に言いますが、1オクターブを1200分割する「セント(c)」値を用いると12平均律では半音の値が100セント、全音は200セントとなります。第4音と第5音はほとんど同じですが、第3音、第6音と第7音が異なります。平均律に比し純正律の長音階の第3音と第6音は低く、短音階の第3音と第6音は高く取り、長音階の主音の前の導音(移動ド唱法のシの音)は低く取ると協和的となることが分かります。
12音平均律で調律されたピアノの鍵盤でド→ソ→レ→ラ…と完全5度ずつ上にとっていくと、鍵盤にある12音すべてが出せます。そしてこれを右回りの円に描くと図のようになり、五度圏と言います。12番目の「ファ→ド」で、7オクターブ上ですが、ドの音に戻ります。12音平均律では半周すると、それ以上は左回り描いたものと異名同音の同じ音になります。しかし、右回りの#系と左回りの♭系の異名同音のところは純正律では異名異音なのです。
五度圏をオクターブの移動を戻しながら五線譜上に落としてみると図のようになります。純正な完全5度を積み重ねて行って12番目に出て来るドの音は、12音平均律の音より24セント高い音になってしまいます。前の表で見たように、平均律の完全5度に対して純正な完全5度は2セント大きいからです。完全5度の積み重ねのサークルが閉じないことが、平均律に至る調律法研究の歴史を作り出しました。
平均律が出現する以前の中世-ルネサンス-前期バロック時代には、純正をなるべく保ちつつ五度圏を閉じる為に、2c×12=24cを調整する様々な調律法が研究されました。この24cをピタゴラスコンマと言い、半音の約1/4で周波数差は440Hz付近で約5Hzであり一般的な人の可聴最低周波数差2Hzより大きい値です。また、1オクターブ高いドの音は基音のドの音に対して振動数比が1:2でしたが、24c高いと1:2.028となり、協和的でなくなります。
純正律はギリシャ時代に生まれましたが、次に記述するピタゴラス音律の影に隠れていました。1558年イタリアの音楽理論家で聖マルコ大寺院の聖歌隊指揮者であったジョゼッホ・ツアルリーノによって体系化されました。長3度と完全5度を純正に保ちつつ五度圏を閉じたものです。この為に全音には8:9(大全音)と9:10(小全音)の2種類があり、音程の幅が不均一の為、転調という概念がなく、楽曲の演奏に用いるのは不向きでした。
不等分律の最初はローマ時代を通じて使われたピタゴラス音律です。周波数の比率が2:3の純正な完全5度音程を積み重ねていくもので、24cの差を調整する為には、11の純正な完全5度とピタゴラスコンマ狭い1つの完全5度をもって構成せざるを得ません。又、五度圏図でみたように右回りの♯系の音と左回りの♭系の音、平均律では異名同音の音が異名異音になり、鍵盤楽器には不向きです。全音と半音の違いがはっきりしているのでグレゴリオ聖歌のような単旋律音楽では独特の美しい特徴が表れます。デメリットとしては長3度が不純です。三和音を多用した曲が作曲され始めると、次第に5度よりも3度を純正にとる音律の研究が盛んになって、15世紀にはミーントーン(中全音律)が普及してきました。完全5度を2:3よりもごく僅か狭くしたもので、純正律の欠点であった大全音と小全音の変わりに、全音は「中全音」2:√5(=2.236)の一種類となり、17~18世紀のヨーロッパの鍵盤楽器に広く用いられました。その他キルンベルガーやヴェルクマイスターなど様々な調律法が試みられ、19世紀半ばにピアノの調律に採用され普及していった12音平均律もその1つです。
クラシック音楽では曲のタイトルにいちいち「ハ長調」とか「ニ短調」のように所謂「調性」の名前がついています。 例えば、
モーツアルト作曲/交響曲第41番(ジュピター) ハ長調
ベートーベン作曲/交響曲第5番(運命) ハ短調
ブルックナー作曲/交響曲第4番(ロマンティック) 変ホ長調
五度圏図を12音平均律で見た場合、#系の右回りと♭系の左回りで半周すると、それ以上は異名同音の同じ音になります。半周までの音をそれぞれ主音とする相対的なドレミファを考えると(これを移動ドと言います)、長調では次の図のように12の調性が出来上がります。
バッハの「平均律クラヴィーア」やショパンの「プレリュード」はこの12の調、短調を加えると24の調全ての調性の曲を並べた曲集となっていますが、同じ楽器で自由に調性を変えて演奏することが出来る為、楽器の量産に合わせて、12音平均律が普及して行きました。他の音律では平均律の異名同音の所が異名異音になる為、調によっては音程をチューニングする必要があったり、鍵盤のキーを使い分けるお化けのような楽器となるからです。
ここでもう一度教会旋法に戻ると、#や♭の臨時記号を1つ付けるとそれぞれ、ドーリア→ニ短調、フリギア→ホ短調、リディア→ヘ長調、ミクソリディア→ト長調となり、移動ド唱法の長調の「ドレミファ」と短調の「ラシドレミ」になることが分かります。
では12の調性はどのように使い分けるのでしょうか。人の声や楽器にはそれぞれ演奏可能な音域があります。この為、使う楽器の音域に適した主音の調を選ぶことが良く鳴る演奏となります。又、楽器によって得意な調と苦手な調があります。弦楽器では開放弦、例えばヴァイオリンでは4本の開放弦の音程ソレラミを主音とするト長調、ニ長調、イ長調、ホ長調が自然倍音豊かに良く響く調になります。これらは#系の調で、弦楽器は♭系の調は苦手です。木管楽器は手に持って演奏できる長さの制約がある為、本体の長さから出る基音の音を主音とする調が良く響きます。例えばクラリネットでは基音が「ラ(A)」と「シ♭(B♭)」の2種類の管があります。それぞれドレミファを吹くと前者がイ長調、後者が変ロ長調になり#系の曲なら「A」管、♭系の曲なら「B♭」管と使い分けられました。ピアノは白鍵だけを叩く「ハ長調」が基本ですが、12音平均律で調律された現代のピアノはどんな調でも弾くことが出来ます。人間の指は弧を描いている為、黒鍵を含む調が素早く弾くことが出来る事から、黒鍵の多い調の方が技巧を利かせやすく、ショパンやリストなどは#や♭の多い調で作曲しています。
この様にして12音平均律が普及していくと、5度音程では2セント、3度音程では14セントも異なる為、それぞれの自然倍音の周波数の違いから、和音の響きに唸りを伴うことになります。オーケストラ編成の楽曲では、さらに弦楽器、管楽器、鍵盤楽器でそれぞれ微妙に音程が異なることも起こり、ストレスを感じることになります。さらに、20世紀中頃からは弦楽器は独奏者のみならずオーケストラ演奏でもヴィブラート奏法が流行し、ハーモニー感の無い濃密かつ重厚な演奏へと変わってしまいました。
和声音楽はオクターブ8度→完全5,4度→長・短3度と変遷して、12音平均律が登場し、教会音楽から離れてストレスを利用し、躍動的な曲、悲しい曲、虚ろな曲へと作曲技法が多様になりました。7音音階のダイアトニックスケール(全音階)から離れて、フランスのドビッシー(1862~1918)の2度和声やオーストリアのシェーンベルク(1874~1951)の12音音楽へと進み、もはや3度体系の和声音楽が過去のものとなりつつあります。また、ポピュラー音楽ではブルース→ジャズ→ロックなどの台頭によって、セブンスやディミニッシュなど複雑な和声を使う難解な音楽の世界に移っています。
ここで音楽による健康維持に話を戻します。楽器は基本的に離散的な音程しか演奏することしか出来ませんが、人の声は連続的に音程を調整することが出来ます。この為、12音平均律では自然倍音列と乖離の大きい3度音程を演奏中に純正に近づけることが出来ます。フレットの無い弦楽器だけの4重奏では上手なアンサンブルでは、同様に音程を調整して綺麗なハーモニーを奏でます。
若者はストレスのある音楽を好みますが、年配者は、やはり教会音楽のような透きとった和声音楽に美しさを感じますし、精神の安定ひいては健康維持に役立ちます。この為には平均律から離れて微妙に音程を調整出来る人間の声による合唱が最高です。
大正14年作曲家信時潔の訳により国内で発刊されたコールユーブンゲン(CHORÜBUNGEN DER MÜNCHENER MUSIKSCHULE ミュンヘン音楽学校合唱練習書)の序言で著者のフランツ・ヴュルナーは「音程練習や和音の練習は、すべて楽器の助けなしで行うべきである。階名唱法はまず伴奏なしで稽古させ、最後になって初めて伴奏をつけるべきである。しかもその時、歌うべき音をピアノで一緒に奏してはならない。平均律に則って調律されるピアノを頼りにして正しい音程の練習は望まれない。」と述べています。
さて、合唱をする時、自然倍音を豊かに含んでいる声を出すには、イタリアで19世紀前半にロッシーニオペラと共に完成したベルカント唱法が最適です。これは腹式呼吸をベースとして、腹筋を柔らかくして下腹部を徐々に押し上げながら、気道を通る空気の流れで声帯を振動させ、振動した空気を咽頭や口腔で良く共鳴させて歌う方法です。
まず、発声の仕組みから見てみましょう。下図は発声器官の形状を図示したものです。発声器官は呼吸器官、声帯、声道の三つから成ります。その機能は図に示すように、呼吸器官は腹筋や横隔膜筋等によって肺にある空気を圧縮して声門や声道を通過する空気流を生成するコンプレッサとして働きます。発声は空気流が声帯を通過することによる声帯振動によって音を生成することによります。この音を喉頭音源と呼びます。喉頭音源は声道を通過することによって音響的に整形され、口から12cm離れた所で融合して声となります。
下図は喉頭の様々な軟骨と、声帯まわりを描いたものです。声帯前方の甲状軟骨と後方の披裂軟骨の距離が長くなると、声帯は引き延ばされ、より長く、薄く、高い張力を持つことにより、発声周波数はより高くなります。声帯の声門閉鎖で遮られた気道に呼気圧を加えて息を流し込むことによって声門が繰り返し開閉し、空気のパルス列が生成され、これによる空気圧の変動によって喉頭原音が生じます。喉頭原音は金管楽器のマウスピースに当てた唇が振動して出るブザーの音に似ています。
声帯発信器で作られた喉頭原音は基本波と整数倍音の波を有し、周波数に対して振幅は単調に減衰するスペクトルとなっています。一方、声門の直上から口唇の開口部までの声道は共鳴器であり、その伝達特性に従って喉頭原音はフィルタリングされます。声道の伝達特性は、特定の周波数の音のみ良く伝播させる共鳴周波数を有し、これをフォルマントと呼びます。この結果、口唇から開放された整数倍音の波は、フォルマント近傍では他の部分音より振幅の大きいスペクトルとなって放射されます。
声道のフォルマントは低い方から4ないし5つが重要で、フォルマント周波数によって母音の音韻性や声質が決定されます。フォルマント周波数は声道の長さと形状に依存し、声道長が短いほどフォルマント周波数は高くなります。成人男性の声道長は17~20cm程度で、子供のそれは7~10cm程の短さです。成人女性は成人男性より短い声道長です。声道長は喉頭の上下動によって変化させることが可能です。また、笑い顔を作って口角を引き上げると、声道長は短くなります。声道の形状、主に断面積は口唇、顎の開き、舌、軟口蓋、喉頭の調音器官によって変化します。第1フォルマントは顎の開きが大きくなると周波数が上がり、第2フォルマントは舌の形状に影響を受け、第3フォルマントは前歯の後ろの空間の大きさに左右されます。
成人男性で、第1フォルマントは250~1000Hz、第2フォルマントは600~2500Hz、第3フォルマントは1700~3500Hzに変化可能で、第4,第5フォルマントは変化があまりありません。フォルマントの周波数やパタ-ンの違いは声質の違いに影響します。
調音器官は母音の種類、音程などによって意識せずとも複雑に動作します。我々の脳の計算機は声の生成の音響理論に素晴らしく秀でているようです。
喉頭原音の基音は、歌唱ではG 99Hz~C3 1056Hz程度ですが、第3、第4、第5フォルマントの共鳴方法により、男性オペラ、コンサート歌手ではシンガーズホルマントと呼ばれる3kHz付近の高次倍音成分にピークを持つ豊かな歌声を発声しています。オーケストラの音における最も強い部分音は450Hz 付近に現れ、シンガーズホルマントの周波数領域ではかなり弱くなります。人間の話し声の部分音も同様ですが、3kHz近傍に強い部分音を持つように歌う歌手は、この周波数領域で主導権を握ることになり、オーケストラが大きい音を出しても、歌手の声を容易に聞き分けることが出来ます。周波数の低い部分音は全ての方向に概ね等しく分散し、放射はほとんど全方向であるのに対し、高い周波数の部分音は歌手の前方に向かって放射する為、より効果を発揮します。
シンガーズホルマントを生成させる為には、咽頭の拡大と喉頭の下降による喉頭室の拡大が重要になります。即ち、「あくびをするように呼吸する」あるいは「バラの匂いを嗅ぐように呼吸し」、「泣いているように歌う」ことで、喉頭の下降と咽頭の開放が出来ます。話す時と同じ顎の位置で高い声を出そうとすると、声道長を短くしようと喉頭が上昇します。これを避ける為には顎を柔らかくして、下顎を斜め後方に開くと喉頭の上昇を抑えられます。あくびの時に下顎が大きく下降するのと同様です。
歌唱指導で「口角を上げ笑い顔で」とか、「軟口蓋を上げて」などが言われることがありますが、笑い顔は喉頭を上昇させること、軟口蓋を上げると声道と鼻腔の間のつながりを閉鎖することなど、声道共鳴空間を狭くすることになるので注意が必要です。
ベルカント唱法は自然な受動的呼吸と同様の腹式呼吸をし、柔らかい声で歌唱する方法です。受動的呼吸に関連する筋肉の動きを図及び表に示します。成人男子における全肺気量は約7ℓで、最大呼気の後も常に肺に残る空気の量、即ち残気量は約2ℓであり、その差の肺活量は5ℓです。通常の受動的呼吸では約0.5ℓが吸い込まれ、吐き出されます。肺活量の10%に過ぎません。話声においては50%程で、歌唱ではもっと多くを必要とします。但し、急速な吸気における流量は現実的には5ℓ/秒程度の為、歌唱では呼吸法の戦略が必要です。
歌う時の立ち居姿勢で呼吸する場合、肺に吸気した空気を腹壁の筋肉によって押し出して吐き切り、肋間筋による肺の受動的な復元力と内臓に懸かる重力を利用して横隔膜を収縮させ、鼻と口の両方を利用して自然に吸息する方法が重要です。1回の呼息で歌う時間よりブレスの為に使う時間は非常に短い為、吸息する事に意識し過ぎると口先だけの胸式呼吸となり十分なブレスが出来ません。
呼吸のメカニズムの中で声帯が必要とするのは、肺の中の空気の過剰な圧力であり、この圧力を声門下圧と言います。声門下圧は声の大きさと発声周波数の重要な要因です。吐き切る為には、歌っている時に腹を柔らかくする事です。腹を柔らかくして歌うと、体が硬直せず、発声の為に必要な呼息を十分に送れるので、より高い音や低い音が出しやすくなります。
明治期、日本の西洋音楽教育導入に当たっては、19世紀後半から主流になっていたドイツ流の音楽教育が導入された為、長くドイツ流の発声法が根付いています。ドイツ語の子音を多用する発声では、腹筋の支えを保ったまま行います。しかし小さな体格でも良く響く声を出す方法として生まれたベルカント唱法は、欧米人に比し体格の劣る日本人にはちょうど良い歌唱法と言えます。
体に良いスポーツは有酸素運動です。深い有酸素運動の為には腹の周りの筋肉を柔らかくすることが必要になります。ゴルフスウィングも腹筋を固めてスウィングすると、体の軸の腹の周りが悪くなり手打ちになります。ドライバーを飛ばす為には、バックスウィングの時息を吸い、ダウンスウィングで息を吐くことによって、腹の周りの筋肉が柔らかくなり、腰の回転がスムーズにいって、飛距離が出ます。
高い音程の声を出す時に腹筋を硬くして、話し声と同じ感覚の弱い基本波の音源で歌おうとすると、声が「前歯に当たる」感じになり、喉詰め発声となります。この時、喉頭は上がり気味で喉頭室は狭くなり、浅く平たい印象を与える声になります。
また、ベルカントでは声を力で無理して鳴らしたりせず、自然な鳴りに任せることが重要ですが、人間には低音(胸声域)、中音(胸声と頭声のミックス)、高音(頭声域)の三つの声区と言われる発声の為に発声器官が無意識に形状を変化させる区分があり、その境目のイタリア語でチェンジを意味するパッサッジョと言われる換声点、特に中音から高温への遷移の所で自然な通過を阻むものがあります。パッサッジョは男性のバスでは上のド~レ、バリトンではレ~ミ、テノールではミ~ファ#程で、女性はそのオクターブ上です。このパッサッジョでは何か違った感じがして、緊張感が生まれます。そして、「頭声的な」音のほうへ逃げることによってその不安を回避しようとすると、不安定な声となってしまいます。これに対処するためには、よく支えられた息の圧力や、奥まで弾力的に広く開いた喉など、中音域と同様に発声し、さらにそれを強化することです。
ベルカントBel cantoとは「声を吐き出したり、押し出したりせず、その反対に音を吸い込む、あるいは飲み込むように歌う。外側に向かって爆発するのではなく、内側に向かって破裂するように歌う。響きで頭の中を満たして、鳴り響くベルのようになる。」とも言われます。
有酸素運動で歌うと楽に歌声の響きを出すことが出来ます。腹筋を柔らかくして息を十分に送り込んで咽頭、口腔などで十分に共鳴させることによって、心地良い歌声とすることが出来ます。
この腹式発声を効率よく行う為には、腹を柔らかくして息を十分に使うことが必要で、この為には吸うことを意識するのではなく、吐くことを意識することです。腹式発声による有酸素運動によって、筋肉細胞のミトコンドリア内に取り込まれた脂肪を燃焼させれば健康維持に大いに役立ちます。
最近の海外の研究によると、長生きした人の生活状況を調査した結果、合唱を楽しんでいる人を1位に上げています。仲間との会話を楽しむと共に、和声音楽と呼吸法の所以であると思います。
以上
(参考文献)
1.芥川也寸志著 「音楽の基礎」岩波新書
2.吉松 隆 著 「調性で読み解くクラシック」ヤマハミュージックメディア刊
3.小方 厚 著 「音律と音階の科学」講談社ブルーバックス
4.平島達治 著 「ゼロビートの再発見」ショパン刊
5.フィリップ・ボール著 「音楽の科学」河出書房新社刊
6.ヨハン・スンドベリ著 「歌声の科学」東京電機大学出版部刊
7.エスター・サラマン著 「声楽のコツ-自由な発声法への鍵」音楽之友社刊