まぶさび行

まぶさび庵のこと

     読売新聞(東京本社)1999年11月6日付夕刊

 昨年から、自分の名刺や詩集あとがきなどに、まぶさび庵主という名前を入れたりしたうえに、最近はホームページ「まぶさび庵」を開設したりもしたものだから、何なのですかと、よくたずねられる。そんなときはおおむね、実体はないので、と答えて、すませてしまう。なにも、「まぶさび庵」という茶室や書斎をかまえたわけではないからだ。では、まったくのものめずらしい名前だけかといえば、そうでもない。
 「まぶさび」とは、「まぶしさ」と「さびしさ」とを組み合わせた造語である。当初は、「ひえさび」や「きれいさび」といった伝統的な美的境地に対して、自分だったら、どんな境地がいいかなと、漠然と考えているとき、ふと頭に浮かんだのが、その言葉だった。
 何年かたつうちに、このまぶさびが、滝になってしまう。宇宙のまぶしい光が、ひとりひとりの生のさびしさへとふりそそぐ、そんな滝である。短い詩型に凝っているものだから、「まぶしさの、さびしさに、ふりそそぐ」という具合に、俳句より二文字短い五五五の詩型で、このまぶさびの滝を言い表わしてみた。
 ところが、それだけでは終わらない。ある日、何気なしに坐禅めいた格好をして、ぼんやりと目をつむり、両掌でくぼみを作っていると、そのくぼみにうっすらとした光がさらさらとおりてくるように感じたのだ。そのままの姿勢でいると、そのうち、その光が掌のくぼみをあふれ出し、自分がその巨大な滝のただ中に浮かんでいるように思えてきた。ふたたびくぼみに収まっては、あふれ出す。それが何度か繰り返されると、心身がリフレッシュされたような、なんとも清涼な気持ちになることができたのである。まぶさび庵とは、たとえば、こんなふうに、まぶさびの滝を実感できるところのことだと思えばよい。いつ、どこにいても、そう実感できたところが、まぶさび庵なのである。
 要するに、滝好きが高じた結果ではないか。そういわれれば、それまでではある。しかし、まぶさび庵には、あの空海さんがかかわってくれたと、実はひそかに思っているのだ。
 まぶさびの滝を詩句にする少し前から、それを心身で実感する頃にかけて、空海さんが夢に三度現われた。最初は、死体として、二度目は、書のかたちで、三度目は、にこにこ笑っておられるお姿で、である。とはいえ、そのなま身のお姿を見たというわけではない。死体とはいっても、ほの暗い部屋の奥にある死体を前にしたのであって、死体が見えたわけではないのだし、にこにこ笑っているといっても、たくさんの人々の間のあちこちに、なにかきらきらとした笑いの気配が感じられたというだけのこと。でも、あのきらきらとした、上機嫌というほかない笑いの気配は、ぼくの中で、どうしてもまぶさびの滝と重なり合ってしまうのだ。そうであってほしいとの願いも、混じってはいるのだろうが。                             
   篠原資明(しのはら・もとあき)
Comments