あいだ哲学

あいだ哲学のエッセンスを、篠原資明の著作からの抜粋により示します。

記号論と交通論

(篠原資明『エーコ』講談社、1999年、六章3、より)

使用の立場から

一九九〇年、ケンブリッジ大学で、興味深い催しが開かれた。同年、タナー・レクチャーの講師として招かれたエーコが、「解釈と過剰解釈」という論題のもとに、公開で講義とセミナーを行なったのである(前掲書『エーコの読みと深読み』はそれにもとづく)。セミナーは、リチャード・ローティ、ジョナサン・カラー、クリスティーン・ブルック=ローズとの間で、エーコが議論を取りかわすというかたちで進められた。エーコの講義内容は、同年、英語とイタリア語で公刊された『解釈の諸限界』と重なり合うものが多かったが、セミナーでは、とりわけ、ローティの主張ときわだった対照を見せた点が注意を引く。

プラグマティストを自称するローティは、エーコ的にいえば、はっきりと使用の立場に立つ。プラグマティストならぬプラグマティシストであるパースは、ローティにとって「忌々しい哲学者」でしかなく、「何かを解釈したり、理解したり、その真髄に迫ったりといった行為は、みな単にその何かを使用していく過程を表現しているにすぎない」(『エーコの読みと深読み』、前掲書、一四二頁)のである。

解釈と使用の区別を無意味なものとして、使用へと一元化しようとするローティの立場は、テクストであれ何であれ、目的を変え、人生を変えるよう、使用すればよいとする立場へと連接していく。使用を弁ずる彼の立場は、何よりも自分自身の生成変化を重視しようとする立場と不可分なのだ。

異交通と双交通

ローティとエーコの立場の違いを、交通論の立場から見てみよう。交通論とは、自分自身の方法論として、拙著の『トランスエステティーク』(岩波書店、一九九二年)や『言の葉の交通論』(五柳書院、一九九五年)などにより提案してきたものであり、存在論と

しての間論と不可分の関係にある。交通論は、間が存在するところには、次の四つの交通様態が生起しうると見なす。すなわち、単交通と双交通と反交通と異交通の四つである。単交通とは、一方通行的に支配空間を成立させようとする様態。双交通とは、なんらかの共通の媒体や規則を介するなり、共通の基盤によるなどして、双方向的に交わされる様態。反交通とは、なんであれ交通が遮断される様態。異交通とは、生成変化を出来させる様態をさす。

作者と作品と読者という三項の間を問題にするならば、それらの間にも、四つの交通様態が生起しうるだろう。それらの様態をそれぞれの間に即して、ここに列挙するつもりはないし、またその余裕もない。さしあたりここでは、ローティの場合、作品と読者の間で生じうる異交通に重点が置かれているのに対して、エーコにあっては、双交通に重点が置かれているということに、注意を促しておこう。

思えばエーコの場合、その記号論研究は、徹底して双交通という様態に配慮しつつ推し進められてきたように思われる。受け手の立場の重視も、そのことと無縁ではない。その記号論がコードにこだわり続けるのも、双交通が取り結ばれるためには共通の規則もしくは媒体が必要とされることを考えれば納得がいくだろうし、コードの百科辞典の迷宮的性格にしたところで、けっして秘教的な隠蔽的性格を目してのことではなく、むしろ徹底してあばき出されることを要求しさえするものである点も、忘れるべきではないだろう。

その上で、作品の意図を介して、モデル読者とテクストとモデル作者とが双交通を交わし合う、そのような様態に、エーコのテクスト記号論は、基本的に依拠しようとしているように思われるのだ。したがってエーコは、異交通が生起しえないと決めつけるわけではないだろうし、事実、使用を否定しさるわけではないのである。

作者の立場

ジョイスが、ブルーノやニコラウス・クザーヌスなどをとおして、ヘルメス主義に親しんでいたことは、誰にもましてエーコ自身が十分に理解していたに違いない。『フィネガンズ・ウェイク』を創作する過程で、ジョイスはヘルメス的記号過程に身をゆだねていたはずなのだ。『フーコーの振り子』を創作するエーコについては、どうだろう。すでに触れたとおり、『フーコーの振り子』は、『フィネガンズ・ウェイク』がシニフィアンにおいて行なおうとしたことを、シニフィエにおいて試みようとしたものだ。

興味深いことに、一九八六年から八七年にかけて、エーコはボローニャ大学での講義を「ヘルメス的記号過程の諸相」に当てている(マンリオ・ターラモ『「フーコーの振り子」指針』谷口勇&G・ピアッザ訳、而立書房、二九八頁)。『フーコーの振り子』刊行(一九八八年)の少し前に当たる時期だ。この小説で主要な登場人物たちが繰り広げる推論、およびそれに相関して生起する物語の増殖は、ヘルメス的記号過程以外の何であろうか。疑いもなく、エーコは、それを創作する過程で、全面的にではないまでも、ヘルメス的記号過程の誘惑に身をゆだねていたはずなのだ。

解釈と使用の区別は、すでに『物語における読者』の中で提示されていた。ボルヘスがその短篇「『ドン・キホーテ』の著者ピエール・メナール」で推奨していたやり方、すなわち、『オデュッセイア』を『アエネイス』以後のものであるかのように読むこと、『キリストに倣いて』をセリーヌによって書かれたものであるかのように読むやり方は、もちろん、あくまで使用の立場である。しかし、この立場のそれなりの創造性を、エーコはその時点で認めていた(『物語における読者』、前掲書、九四頁。また本書の 頁も参照)。

同じ箇所で、次のような、極端ではあるけれども興味深い例を出していたのも、エーコである。時刻表のモデル読者といえば、時間継起について精密な感覚を備えた者であるだろうが、プルーストは、その作品中で「ネルヴァルがシルヴィーを求める旅の甘美で迷宮的なエコーを見出しながら、列車の時刻表を読むことができた」(同前、九五頁)と。プルーストは時刻表のモデル読者であることをやめることにより、すなわち解釈を断念することにより、それを使用したのである。使用の創造性を、これ以上によく示す例は見出せまい。

ほかでもない、エーコ自身が『薔薇の名前』の中で、たとえばボルヘスを使用していたことは、すでに示唆しておいたとおりだ(本書、 頁)。『フーコーの振り子』において自らヘルメス的記号過程にのめり込んでみせるエーコについては、いうまでもあるまい。彼はそこで、膨大な数のテクストを使用して見せたのである。もっとも、そこで使用されたそれらテクストのモデル読者が、使用することしか知らない読者であるかもしれないのだが。

トマスとボルヘス

それにしてもエーコが、西洋の合理主義の伝統と非合理主義的なヘルメス主義の伝統とを弁別し、解釈の立場を合理主義的な伝統の上に基礎づけようとするかに見えるとき、そこに一抹のもの足りなさを感じざるをえない。創作者としては、使用の立場を自らに許し、学者としては、解釈の立場に立つ、というだけでは、何かが足りないように感じられるのだ。それを交通論の立場からひとことでいうならば、やはり、異交通の立場の理論的な意味づけというに尽きるだろう。

合理主義的な伝統を体現するものとして、エーコはトマスによる次のような推論を挙げている。神は純血を取り戻す力をもつか、という問いに対して、トマスは、処女を失った女性に純血を取り戻させる力はあると答えるだろう。しかしである、神といえども、起きてしまったことを無かったことにすることはできないと、トマスは続ける。そんなことができるとすれば、「pが起こった」と「pが起こらなかった」という矛盾する事態を許容することになるだろうし、そのように無矛盾律を破り、時間の法則に反すること自体、神の本性に反することになるからだ。

ボルヘスは、その短篇「もうひとつの死」の中で、トマスにとっての神の本性に逆らうことを、神自身に行なわせている。この短篇の主人公、ペドロ・ダミアンは、ある戦闘の際の臆病ぶりを恥じて、人目を避けて余生を送り、臨終の折の譫妄状態の中で、当の戦闘を生きなおし、勇敢に戦って死ぬ。神は、ダミアンの念じたとおりに奇蹟を起こし、ダミアンが勇敢に討ち死にしたことにしただけではなく、ダミアンのことを知っていた者たちの記憶を修正しさえしたというのだ。

ここでの神は、別様でありえたかもしれない過去の過剰に対して寛容な神だろう。過去のある時期に、臆病な戦い方をしたダミアンは、その時期に別様でありえたかもしれない自己を夢想し、勇敢な討ち死にをする自己の可能性を選び取り、それを完遂したからである。このような過去の修正に応ずる神は、トマスの合理主義的な神に反する存在かもしれないが、その一方で、生成変化に手厚い神といえるだろう。別様でありえたかもしれない過去の過剰は、生成変化の、交通論的にいえば異交通の、不可欠の要素であるからだ。何であれ、新しいものの生成は、それとともに過去に対して、別様でありえたかもしれない過去の過剰を際だたせもするのである。

そのことが顕在化するのは、やはり引用によってだろう。新たな観点から引用を行うことは、引用される過去に対して、それが別様でありえたかもしれないという過剰のただ中にあることを思い起こさせるのだ。たとえば、藤原定家とともに知られる本歌取というかたちでの引用が、よい例となるだろう。本歌取りにより詠まれた歌は、定家のような名手の作の場合、本歌に対して、それを新たなものへと生成させるだけでなく、本歌自体を別様のおもむきへと変質させもする。すなわち、生成変化は、現在だけでなく、過去、未来をも変質させ、それらを相互に過剰なものとして浮上させるのだ。生成変化が生起するはずの間とは、そのような過剰と過剰との間なのであり、異交通とは、そのような過剰と過剰との間で織りなされつつ、過剰性を相互に増幅させるような交通にほかならない。異交通とは、過剰と過剰との間という存在を際だたせるものでもある。方法論としての交通論が、間の存在論と相補的で不可分であるという、ひとつのゆえんだ。

双交通の選択

しかし、その『不在の構造』における構造主義批判以降、エーコは存在論に触れるのを断念したのではなかったのか。この問いに対しては、かならずしもそうではないと答えざるをえない。鍵になるのは、パース、それもその力動的対象についての考えである。

力動的対象とは、「記号をなんとかその表象項へと規定する実在である」とするパースの定義を、エーコは繰り返し捉え直すだろう。また、結果的には習慣にほかならない最終的解釈項については、次のように述べられていた。

最終的解釈項は、力動的対象を支配する法則を、その対象の知覚経験を獲得すべき方式 を指令することによってであれ、この対象 が機能し知覚されうる方式を記述することに よってであれ、表現するのである。 (『物語における読者』、前掲書、六九頁)

そしてまた、力動的対象の存在論的な局面については、次のようにも述べられていた。

記号論的観点から、力動的対象が具体的経験の可能な対象とされるのに対して、存在論 的観点からすると、力動的対象は、可能な経験の具体的対象なのである。 (同前、七〇頁)

パースによるかぎり、力動的対象が実在性をもつだけでなく、力動的対象が生起させる記号過程の真の帰結としての習慣もまた、実在性をもつ。パースのこのような実在論者としての側面を、エーコは否定したことはなかったし、事実、それどころではないのだ。エーコは最近の論考「存在について」の中で、ライプニッツの「なにゆえに無ではなく、むしろ何ものかが存在するのか」という問いを捉え直し、この何ものかを「存在」と呼んだ上で、記号を生産するよう促す「力動的対象」を、この何ものかとしての「存在」に等置しているのである(「存在について」、『カントとカモノハシ』一九九七年、所収、一-四頁)。

最終的解釈項としての習慣が、探求者相互の同意を保証するものと見なしうることを、エーコは指摘していた(『解釈の諸限界』、前掲書、三九-四一頁)。そのことを前提とするならば、エーコにとっての存在とは、双交通に重点を置かれた「存在」であるといえるだろう。

これに対して、エーコの忌避する存在論とは、単交通と反交通に重点を置かれたそれであるように思われるのだ。というのも、構造主義者の想定する「言語が語る」という主語=主体の位置に置かれる言語としての存在であれ、また一部の存在論者の「存在そのものが語る」とされる当の存在であれ、具体的なあれこれの存在者に対して、支配的で一方通行的な関係、すなわち単交通の関係に立ちつつも、当の存在に対して、それ以上の探求を許さないとする点で反交通の関係が想定されているように思われるからである。

このような単交通と反交通の組み合わせのもとに思考されているという点では、トマスの語る神の存在も、基本的には変わるまい。すでに美について見たとおり、トマスにとって美とは、あくまで知性によって構造的に把握されねばならないが、形もしくは形相についての構造的理解は神のみが所有するものである以上、美の把握は、人間によっては、せいぜいのところ不十分にしか行なわれないからである(本書の第一章2を参照)。

また、ヘルメス主義の理解する究極の存在については、より以上にそうであろう。究極の存在としての絶対者については、文字どおり、知りえず語りえぬものとしてあるほかないからである。人は、その空虚であるほかない秘密=絶対者のしもべとしてヘルメス主義的な解読者であり続けるばかりなのだ。これらの解読者は、だからこそ、「ヴェール護持者」とも呼ばれたのである。

このように単交通と反交通の組み合わせのもとに思考される存在については、それをエーコは拒否するだろうが、まじめな探求の結果としてなんらかの合意へと開かれた存在については、それを拒否するどころではないのだ。だからこそ、解釈に関して、唯一の解釈しかありえないとする立場を採らない一方で、どんな解釈も許されるとする立場についても、それをはっきりと否定するのである。複数の解釈であれ、テクストの意図、モデル読者、モデル作者との双交通の結果として、最終的なある種の共同体の中での合意は、あくまで可能だと見なされるのだ。

そうはいっても、やはり異交通的な立場からの存在論については、ほとんど手づかずのままといってよい。物足りなく思えるとしたのは、その点も顧慮してのことである。しかし、この点については、簡単に指摘するにとどめねばなるまい。

あいだ哲学のための参考文献

篠原資明『漂流思考 』弘文堂、1987年(1998年より講談社学術文庫)

同『トランスエステティーク 』岩波書店、1992年

同『五感の芸術論 』未来社、1995年

同『言の葉の交通論 』五柳書院、1995年

同『エーコ 』講談社、1999年

同『まぶさび記 』弘文堂、2002年

同『(編著)『現代芸術の交通論 ― 西洋と日本の間にさぐる 』丸善、2005年

同『ベルクソン ― 〈あいだ〉の哲学の視点から 』岩波新書、2006年

同『空海と日本思想 』岩波新書、2012年

同『差異の王国 ― 美学講義 』晃洋書房、2013年

同『まず美にたずねよ 』岩波書店、2015年

同『あいだ哲学者は語る ― どんな問いにも交通論』晃洋書房、2018年


あいだ哲学のためのリンク

京都大学2015年度最終講義:美と政治 ― いまかつて間の立場から