弁天様

松戸市で、一番古い7福神は、「曹洞宗・日蓮宗の七福神」です。

金ヶ作(かねがさく)の祖光院(恵比寿・大黒天)、

八ヶ崎(はちがさき)の金谷寺(毘沙門天)、

幸谷(こうや)の福昌寺(布袋)、

大谷口(おおやぐち)の常真寺(福禄寿)、

中金杉(なかかなすぎ)の広徳寺(弁財天)、

殿(との)平賀(ひらが)の慶林寺(寿老人)です。

※常真寺だけ日蓮宗、あとは曹洞宗。

歴史的には、江戸時代からの七福神もありますし、昭和になって新造されたものもあります。その中で、広徳寺の弁財天の石の祠には、松戸市で、もっとも古いと思われる記録が残っております。広徳寺正面参道の石段を登ると、左側にある六地蔵さま裏側の階段をおりると、弁天さまがあります。

現在の大谷口(おおやぐち)付近にあった小金城(こがねじょう)は、かつて松戸市の根(ね)木内(ぎうち)というところにありました。

享(きょう)禄(ろく)3年(1530)、広徳寺開基(お寺を造った殿様)の高城(たかぎ)胤(たね)吉(よし)公(こう)は、これまでの根木内城(ねぎうちじょう)が、てぜまになったため、大谷口に小金城を築かせました。城は、7年後の天文6年(1537)に完成しました。

広徳寺の弁天さまは、その小金城がまだ、根木内にあった当時、城内にお祀(まつ)りしてあった弁天さまを、城主高城公が、菩提寺である広徳寺に移転した、高城公ゆかりの弁天さまなのです。

このことが、 伊豆(いず)石(いし)の祠(ほこら)の左側に、字は磨り減っていますが、およそつぎのような意味のことが、刻まれてあります。

天正16年戊子(つちのえね)(1588)、9月9日、旧地より、(弁天さまは、中金杉の広徳寺境内に)遷(うつ)された。その後、享保11年丙午(ひのえうま)(1726)、2月17日、ときの広徳寺第十六代目の住職、㞭嚴雄(たいごんゆう)和尚が、再び祀(まつ)った。

文化10年癸(みずのと)酉(とり)(1813)、石宮を造った。

今、到るは、(2字不明)22?年 新造。【広徳寺】25世 實玄(じつげん)和尚。

その後、石祠はまわりも荒れはて、御神体もやがて失われてしまいました。

そこで、昭和のおわりに、1寸8分の御神体を新たに安置し、祠の向きを小金城の方向に南向きとして整備いたしました。

今回、新しくお迎えする弁天さまは、元の弁天様の石の祠(ほこら)のすぐ脇です。正面の石段を登り、六地蔵さまの手前を左に曲がり、石の階段を下に降りて行くと、そこに弁天さまがいらっしゃいます。