~~ April 2006 ~~
それは、93年、春の出来事だった。その2年前、アメリカで大学進学を果たせず、コミュニティー・カレッジの2年生。アメリカにわたり3年が過ぎようとしていた。前年の秋、頼りがいのある学生アテンダントのEさんが、突然、カレッジを辞め、2日のうちに、音もなく、闇に落ちていくように、日本へ帰国してしまった。もちろん、責任感ある彼女のこと、後の人も見つけてくれたが。私は、しみじみ、海外生活、自立生活のつらさを味わっていた。
そのころ住んでいた町は、私が一番、時間のある日曜日に限りバスがなく、陸の孤島と化す、P市。自分で稼ぐすべを知らず、親の仕送りだけに頼る25歳の私。せっかく、苦労して、海を渡ったのに、ハイ・レベルの学問もできず、遊ぶことも、稼ぐこともままならず、だけど、独立心と、プライドだけは高く、気は焦るばかり。
そんなときである、Dに出会ったのは。年明けから、生活に張りを持たせようと、車椅子サッカーを始めた。土曜日は、1時間半掛けて、バスとBART(地下鉄)を乗り継いで、B市までサッカーに通っていた。B市の障害者スポーツのグループが主催するもので、スキートリップも企画しており、スキー病患者ともいえる私は、言ってみれば、その付き合いで、サッカーも始めたわけである。チーム・ワークや相手に攻め入る格闘技のような面白さはあったが、車椅子を操縦するだけで、体を動かせられない歯がゆさも少しあった。物足りない。まだ、若かったから、体を動かすことを当然のように考えていた。
土曜日の、その帰り道、少し寒い夕暮れ、バスを一人で待っていると、電動車椅子に乗った30代の白人男性が、近づいてきた。それがDだった。脳性まひかなっと思ったが、言葉ははっきりしている。目が、少しうつろ。あまりに、積極的に話しかけてくるので、好奇心もあり、友達になり、電話番号を交換した。もちろん、近くにいた人に頼んで、メモしてもらった。
Dは、積極的である。それから、何回か電話で話し、そのたびに、遊びに行っていいかと聞いてくる。はじめは、取り合わなかったが、金曜日の午後、私のアパートの近くのバス停で、待ち合わせして、会うことにした。Dは、ちゃんと来た。ちょっと楽しそう。アパートで、話しているうちに、Dが、若いころ、バイクの事故で、脳挫傷を負い、障害を持ったこと、昔、B市に住んでいたこと、働いていないこと、今は、母親と住んでいること、など知った。彼は、なかなか自由に表に出られないようであった。
数時間たっただろうか、外は、夕暮れを迎えた。西日が窓から差し込む。彼に家に帰る気配がない。そうするうち、彼は、ここに泊まっていく!と言い出した。私も、驚いたが、普段、家から出してもらえない、彼の気持ちも、痛いほど分かった。一応、家の電話番号だけ聞きだして、泊めることにした。親や周囲からの束縛を逃れ、一夜くらい自由にさせてあげたい。私は、彼に、自分を映していたのかもしれない。
一方で、彼を嫌う感情もあった。彼の食べるものがないので、当時、電話でキータイプを送るテレタイプで、ピザを取った。ペパロニがいい、と、わがままを言う。そして、私が隣の部屋で、カレッジの宿題をやっているときに、彼は、テレビを見ながら、ピザを食べていた。なかなか、寝ようともしない。よほど、自由の身が楽しい様子。よくわかる。
夜中1時を回ったころだろうか、彼は、のどが渇いたので、買い物へ行くと言う。確かに、近くのSストアは、24時間営業だった。一人で大丈夫かと聞くと、平気だと、答えるので、私は、彼を大人扱いした。彼は、本当にそんな夜中に、買い物へ行った。そして、無事に帰ってきた。だが、アパートのドアの前で、車椅子のタイヤを溝に落とし、車椅子が倒れた。幸い、彼に怪我なく、だが、二人では、重い車椅子を立て直すこともできない。仕方なく、私は、生まれてはじめて、Emergencyにコールした。まもなく、消防車が来て、倒れた車椅子は、起こされ、ホースの水で、泥も払ってもらった。
明らかに、Dは、社会性を無くしている。多分、障害のせいだ。それから、彼は、また、話し始めた。「俺には、子供もいる。」、と。本当かどうか、分からないが、首から、男の子の写真が入ったペンダントを、ぶるさげていた。B市にいたころ、香港からの留学生をLive-inという形で、アテンダントをしてもらっていたらしい。それで、その女性との間にできてしまった。まあ、アメリカでは、ルーム・メイト同士なら、よくあるケースだけど。もちろん、その女性と、子供は、その女性の兄に連れられ、香港へ帰ったらしい。私は、とても悲しい、やりきれない気分になった。
翌朝、土曜日、サッカーの日。私は、B市へ行くが、彼はどうかと聞くと、行くという。彼は一人で、シャワーを浴び、遅れながら、私についてきた。BARTの中でも、Dは、ペンダントの子供の写真を、自慢そうに、周りの人に見せていた。悲しいなーと、私は思った。
サッカーの練習。彼は、初めのうち、練習に参加していたが、すぐに、どこかへ消えてしまった。サッカーをサポートしているボランティアに事情を話すと、別に私に責任があるわけでないし、煙に巻いて、帰ってもいいのではないかという。そして、私も、ひとりで1時間半かけて、帰った。彼も、一人で出歩けるのだから、一人で帰れるだろう。
だが、・・・、私が帰って1時間もたつと、私のアパートのドアを強くたたく音がする。Dであった。「開けて、ここで一緒に、住もう。」なんて、言っている。そして、また、ドンドンと、ドアを強くたたく音。それは、私自身が、自由の扉をたたく音だったかもしれない。ドンドン、ドンドンと。
だけど、私には、ドアを開けることは、できなかった。どんなに強く叩かれても。「許してくれ」とつぶやきながら、ただ、そこにいた。そして、私は、近くに住む友人に電話し、Dのお母さんに連絡と取ってもらった。そして、友達夫妻と、その年老いたお母さんが、アパートに着いたとき、初めて、ドアを開けた。Dは、「あと1時間、ここにいさせて」、といい、お母さんは、「そこら中探したよ、どこ行っていたの。」と、目に涙をためた。Dは、お母さんと帰っていった。
その後も、Dから、電話があったし、B市で、偶然出くわしたこともある。私は、そのたびに、Dから逃げた。それが、よき行いだったなのかどうか、分からない。責められても、当然のように思う。お母さんの話によると、Dは、脳性まひの人を見ると、仲間だと思うらしい。彼にとっては、ただ、それだけのことであるが・・・
人の自由と、自分の自由、本当は、手を携えて、獲得していければ、いいのに。若かった私は、深い深い、闇の中へ入っていった。誰の手も届かない、深い闇の中に。
ただ、38歳になった、今の私、一言だけ、あのころの私に、「お前は、何も悪いことしていない、ただ、それだけ、遠くまで来てしまっただけ。焦らず、静かに、このまま、突き進めばいい。」といってやりたい。そして、Dと、その別れてしまった家族のしあわせを祈らずには、いられない。