Norvember 1991
゛前略、 いま、コミュニティ・カレッジでコンピューターを学んでいます。 毎日、勉強勉強で大変ですが、充実しています。゛
最近、日本にちらほら手紙を書くようになった私は、こんな文を送っている。1990年3月に拓殖大学商学部経営学科を卒業し、5月にカリフォルニアに渡った。目的は、コンピューター・サイエンスを勉強するため。それにアメリカで生活したいという夢もあった。
1986年、普通の経営学科の学生として入学した私は、実は、重度の障害を持っている。入学した当初は、階段の上がり降りがやっとで、言語障害もひどく、 友人と話すのにもかなり苦労した。通学も母の車だった。その頃から海外にあこがれていた私は、カナダ分校を夢見て、ウィル先生の英会話の授業などもとっ た。
しかし、一歩も1人で表に出られなかった私であった。海の向こうなどいけるはずもなかった。大学1年の冬、障害者のスキー大会をきっかけに、自立した障害者と友達となり、自分も自立したいと思うようになった。海の向こうより、まず1人で出かけられることが先決である。
2年では、宇宙科学の谷口先生のプロゼミを受け、夏休みの合宿へも1人で参加した。たった2泊3日の旅行であったが、私にとっては親元を 離れての大冒険に感じた。そして、その夏休みあちらこちらへ遊び歩き、その後期には一人でたびたび通学した。夏の合宿のさなか、谷口先生から卒業後の進路 について問われ、アメリカでコンピューターをもっと勉強したいと、伊豆の浜辺で答えたことを今でも覚えている。
3年になり、校舎は文京区の茗荷谷に移った。八王子の家から車で1時間半から2時間のところ。自宅通学はかなりきつい。それなら、「ア パートに入っちゃえ」とばかり、アパートを探し、幸運にも学校の近くのアパートに入ることができた。そして多くの友達の協力をえて、一人暮らしを始めた。 その向こうにアメリカでの暮らしがあることを意識していた。
3年、4年と高橋敏夫先生のゼミでコンピューター、特にソフトウェアを勉強した。オペレーション・システムや色んな言語でプログラムを 組んだ。(これは今、すごく役に立っている。) ソフトウェアはやればやるほど面白い。もっと基礎的なことから、勉強したい。そんなことを思った。高校時 代、数学や物理が好きだった事と相まって、留学してコンピューターをやりたいという思いが高まっていった。
アパート生活して、料理・洗濯・掃除(?)、何とか自分で自分の命をキープできるように感じた。家族も私の留学に対しては、とても協力 的だった。残るは英語力。3年で卒業単位をとってしまった私は、4年では英語に集中した。瀬籐嶺二先生、大橋正章先生、2つの外書講読を取ったのである。 正直言うが、この2つのコース、商・政経両学部でいちばん厳しいコースではあるまいか。とにかく、ノルマが厳しく、英語をかなり読まされた。最後の方で消 化しきれなくなってしまったほどである。しかし、初めはめちゃくちゃに訳していたが、終わりの方は、先生方のご意見は知らないが、結構まともに訳せていた と思う。渡米後、英語学校で、最初から中の上級のクラスには入れたのは、この2つのコースのお陰だと思う。
1990年、拓殖大学を卒業し、5月、アメリカへ渡った。アメリカへは、両親が付いて来たが、父はすぐに仕事でワシントンへ、母は私が 落ち着くまで、4ヶ月いた。私の住みついた町は、カリフォルニアのバークレイ。サンフランシスコのベイをはさんで反対側の町で、カリフォルニア大学バーク レイ校(UCB)の学生町、日本では、障害者自立運動の発祥の地としても有名だ。何しろ、バークレイではとっくに障害者とホームレスが市民権を得ており、 これからアメリカを背負って立つようなブレインと、一生の間に1セントも稼げないようなホームレスが通りを行き交い、その横を電動車椅子に乗った障害者が すり抜けていくような町である。大半のアメリカ人は、バークレイはクレージーだという。そんな町で、私が入ったのは、UCB付属の英語学校だ。
私は、学校が始まって以来、勉強一筋という感じだった。アメリカは、英語学校と言えども宿題が多い。毎日、、朝8時から12時半まで授 業。午後はフリーだが、宿題が山のように出る。初めのうちは体力もあるが、疲れてくるとそうそう徹夜もできない。それに追い討ちをかけるようにテストが やってくる。宿題は別に義務ではないのだが、これを乗り越えなければ、大学どころではない。
生活の方は、母が帰ってからは、アテンダント(介助員)を1時間7ドルで週2回、掃除と洗濯を頼んだ。食べる方は、UCBの寮の食堂 で、夕食だけちゃっかりUCBの学生を装って食べた。ちなみに、障害者の手足となって働き、お金を得るアテンダントという考え方は、1960年代にここ バークレイででき、その後アメリカ全土、そして世界へ広がっている。日本でも最近(注:1991年ごろ)活発な動きを見せているようで、ボランティアを兼 ねた大学生のアルバイトとしてもよいようだ。
英語学校では、数ヶ月勉強するとクラスが上がる。宿題のレベルも変わる。初のクラスの゛括弧の動詞を変形せよ゛位の問題が1・2枚だっ たのが、2週間に1回の作文に変わり、1・2ページの読書が5ページくらいの細かい字の物語の読解、そしてその討論(もちろん英語で)に変わり、最後に とった最上級のクラスの1つでは、テーマを個々に決め1ヶ月かけて何冊かの本を読み、インタビューし、その結果をレポート10枚から20枚にまとめあげ る、というまでになる。その最上級のクラスと並行するクラスでは、2週間に1度、2・3回の書き直しを含んだレポート用紙1枚から4枚の作文が宿題とな る。拓大の4年生の時、半年かけて訳した量を数時間で速読しなければならない。結局、1年間、宿題の多さと戦いながら、地獄のような生活を送るうちに、い つしか頭の中で英語で考え、映画を見ても自然と言葉が英語のままで入ってくるようになった。
しかし、英語学校の宿題だけをこなせばよいというわけではない。アメリカの大学へ行くためには、いくつかの試験にパスしなければならな い。学部ならTOEFL、大学院ならアメリカ人と同じ、大学院用共通テスト・GREを受けなければならず、その他にもSATやGMATなどいろいろある。 試験にもよるが、TOEFLなどは1ヶ月に1回行われ、目標得点が得られるまで何回でも受けられる。ここがアメリカのおおらかなところだ。
私が受けたのはTOEFLで、これが中々のくせものだ。私は、はじめ世界共通のInternational TOEFLを受けようと、手が利かないので、その配慮をお願いできるか問い合わせたのだが、゛障害者の英語能力はTOEFLでは測れない。゛と断られてし まった。そこで、Institutional TOEFL(学校内TOEFL)に賭けることにした。このTOEFLは、学校内で実施され、英語学校の責任者さえ承知してくれれば、いくらでも配慮が受け られる。
英語学校で学んで4ヶ月目、2度目のTOEFLを受験。失敗。6ヶ月目、3度目を受験。「もしここで駄目だったら、…だけど、今まで4 年以上積み上げてきた事を簡単にパーにはできない。」 そんな思いが頭をよぎる。結果、合格ライン突破、首の皮一枚つながった。「これで思う存分、好きな 数学やコンピューターが勉強できる。」 心のそこから嬉しいと思った …のは束の間だった。
新しい難問が待っていた。時間は前後するが、アメリカの大学に個人で留学する場合、必ずやらなければならないのが、就職活動ならぬ、就 学活動である。簡単に言えば、願書を出す前から、入れる見込みがあるかどうか、入学担当者や入りたい学部の教授にインタビューすること。これは、自分を売 り込む機会としても利用できる。私の友だちを見ていると、この就学活動がうまいほど、早く駒を進められるようだ。
私も英語学校へ入った直後から、英語学校のカレッジ・アドバイザーを通じ、やったのであるが、学部へ行けば、「学士号を持っているか ら、学士のないアメリカ人優先で、入学できる可能性は、ほとんどない。」と言われ、大学院へ行けば、「商学士では駄目。」と言われ、ただ1つの希望は、 「コミュニティ・カレッジで、Lower-Division(教養課程)のコンピューターの専門科目を取ってきなさい。もしそれが優秀な成績であるなら ば、君の専門課程への編入も特別に考えよう。」 という言葉だった。
だから、TOEFLに命を賭け、合格ラインを突破したのである。今度はコミュニティ・カレッジへの就学活動だ。と、ここでまたトラブ ル。一人、電動車椅子とともに3校回って、それぞれに願書を提出したのであるが、1校目で出鼻をくじかれた。「願書が受け取れない。」というのである。な ぜだ、「International TOEFLのスコアが欠けている。」 慌てて、電話で英語学校のカレッジ・アドバイザーを呼び出し、助っ人を頼んだ。スコアが欠けているのは、前記のとお り、私のミスではないのである。あとの2校は、Institutional TOEFLのスコアを認めていたので、願書は提出できた。
この出願受諾拒否の件では、私よりカレッジ・アドバイザーの方が怒った。向こう側がちょっと態度を硬化させたから、「出願受諾拒否は障 害者に対する差別であり、違法のように思う。」 (事実、その通りだったのだが) また、「これ以上のことになったら、アメリカ連邦政府に差別を報告す る。」と言い、本当に報告に必要な書類を取り寄せた。言いたいことははっきり言い、公にしていく。アメリカ人は、黙っていることは満足していると判断する のである。
結局、カレッジ側の独自のテストを受け(これも正確には違法行為) 合格した。たとえ障害者であっても能力を見て判断するところは、さ すがアメリカである。そして私も他の第一志望のカレッジに合格した。苦労して合格したカレッジ(日本的に考えれば、そこへ行くというのが人の道と言うもの だが)を蹴ってしまったところも、アメリカの個人主義的考え方だ。要するに障害を持っている留学生に対する出願受諾拒否と、私自身の合否・カレッジの選択 は全く別問題なのである。この事で、すごくアメリカ的考え方が肌で分かってきたような気がした。また、アメリカで生き延びていくために必要な事を教わった 気がした。しかし、アメリカは豊かな国だ。これだけ障害者を守る法律が整って機能している。
5月末、英語学校の最上級クラスを終了し、卒業した。夏は、日本からの障害者の旅行団と、ロスアンジェルスへ行ったり、ふらふらしてい た。そして志望するカレッジから正式の合格通知がきて、バークレイからカレッジのあるプレザント・ヒルに移った。友達の協力もあり、拓大の時と同様、幸運 にも、カレッジの目の前のアパートへ移る事ができた。アテンダントも見つかった。今は、食事の用意もしてもらっている。まとめて3.4日分、作ってもら い、食べる時、自分で電子レンジで温めるのである。
私が入学したカレッジは、ディアブロ・バレー・カレッジで、授業は8月末から始まり、現在、Writing、数学、プログラミング (PASCAL)の3教科を取っている。授業は、数学が毎日1時間、あとの2教科が週2回 90分ずつ。宿題は、渡米以来もう慣れてしまったが、かなり多 い。数学やプログラミングはアメリカ人と対等にやっているが、それでも今のところよい成績を取っている。これなら、もしかして、大学に編入できるかも、そ して大学院へという微かな望みが頭をよぎる。やっとやりたいことができたという喜びとともに。今の調子だと、コミュニティ・カレッジに3年、学部に2年、 大学院(博士課程)に5年、あわせて10年かかりそうな気配。まあ、どこまでいけるかわからないが、のんびりとじっくりとやっていくつもりだ。夢に追われ ながら。
後記:その後、1993年8月に、UCBに編入しましたが、大学院はスキップ?し、現在に至っています。今の仕事は、ソフトウェアの調査・改良ですので、すこし、アカデミックな雰囲気です。詳しくは、履歴を見てください。(2003年7月記)