5.正義について

 人は群れで生きる動物である。

集団で生活するためには、群れにルールが必要である。

その目的は、個が、その生を全うするために、効率良くものごとを行うためである。

しかし、個と個の効率の互いの求めが衝突しては、それが障害となる。

ゆえに、集団自体として効率良くものごとを行わなければならない。

そこには、抑制やバランスが必要となる。

そのためにルールが必要ということである。


 効率の良さは、数値で表わされるものではなく、

その効果は、知識や経験や感覚で考えられる。

ゆえに、それによって作られるルールは、多様、曖昧となる。

ルールを作る者に、こだわりや思い込み、偏見などがあると、

ルールはアンバランスに作られることになる。

一部の者にとってのみ有利であり、他に犠牲を求める、などである。

アンバランスなルールは、全体の効率化の障害になる。

しかし完璧なルールは作れない。

ルールは効率化の手段であることを忘れず、

それを目的に、バランス良く作られ、修正されることが望ましい。



 人間社会の集団には、大きな集団が有り、

その中にまたいくつかの集団が含まれ、さらにその中小さな集団が含まれる。

より小さな集団ほど、身近なものとなる。

それぞれの集団にはルールがあり、

より大きな全体的な集団のルールに基づいて、

その含まれる集団のルールは作られるが、

それは身近な個別的な、具体的なルールとなる。

それは現実的で、目先の利益を優先する判断が求められ、

上で述べた偏向に、より左右されやすい。

そしてより大きな集団のルールと、その間に矛盾や齟齬が生まれる。

しかし、大きな集団のへの所属は不確かで、その束縛も弱い。

だから、優先、重視されるのは、より直結する

小さな方の集団のルールである。

ルールは横方向(集団内)同様、縦方向(所属層)にも

アンバランスになりやすいのである。



 そのルールを守るのが、正義である。

ルールは集団内で作られるが、

上で述べたように、

大きい集団のルールと、それに所属する集団のルールの間に、

違いや齟齬があった場合、

守られるのは、より身近な下位の集団のルールである。

そしてそのために、正義の意義が揺らぐのである。


 たとえば、人類という大きな集団から見れば、

人が人を殺めることは、効率が悪く、正義ではない。

人が人を殺すことを安易に許せば、

自分やその一族も容易に殺されてしまうからである。

だから、人を殺してはいけないことは基本ルールとなり、

それを守るのは正義である。


 世界は国家という単位で動いている。

国家内においては、法律で人を殺すことは禁じられている。

その国家に多大なる害を及ぼした国家内の者は、

その罰として、またさらなる害を及ぼさないように

国家において処刑される。

人を殺さないこと、

そしてそのルールを破った者を殺すことは

国家内のルールにおいて、正義である。


 しかし国家間において、

人を殺しててはいけないという大前提はあるものの、

それらを制御する、明確な国際的な仕組みがない。

ルールが明確に作られていないため、

人を殺すことが、国家間において、正義かどうかが曖昧となる。

他国からの、自分たちを脅かし、害を与えるものから身を守るために、

軍隊などの統一的な集団のもと、他国や他の種族の者を殺すことが、

国内のルールの延長として許される。

そして解釈は拡大し、害を受けないことから、

利を奪うことに発展し、殺戮は拡大する。

戦争も許される。

国際的なおおよその制約はあるが、

それぞれの国家の下に、戦いのルールが作られ、

敵を殺す。

そして、それを守るのが正義となる。

敵を殺すというルールに従わなければ、

国家では、反逆となる。

そして違反する者は処刑される。


 正義は、所属する組織のルールによって決められる。

そして、そのルールが曖昧である、または不十分であると、

その正義も、そのようになる。

そのルールが厳密に作られれば、そこでの正義も厳密となるが、

さらに上の所属のルールが、反対の意義を持っていたりすると、

人々は惑い、正義はまた曖昧で、不十分となる。 


 正義は、侵し難い、尊いもののように思われる。

正義に反するものは、悪とされる。

正義とは、ルールを守る意識であり、

悪とは、ルールを守らない意識である。

 しかし、多くのルールは、上で述べたように、

いくつかの所属の層によって違い、

常識や言い伝えのように、曖昧に作られたものも多い。

法律のように厳密に作られているものでも、抜け落ちはある。

また時代によって変化していく。

ゆえに正義は、曖昧で、いいかげんな面を持っことになる。



 ルールを作るのは、効率UPのためと述べた。

効率UPは、幸福を目指すからである。

自分が幸福になるためには、出来るだけ他者も幸福であることが望ましい。

自分の所属する集団も、効率UPが望まれる。

それはさらに、上の集団の効率UPを導く。

これらのために、ルールを守り、正義を貫くのである。

真の効率UPは、真の幸福を求める。

これに従えば、集団や組織間での、正義の齟齬は起こらない。

人々が正しく、正義を貫けるのである。

しかし現実は、そうはいかない。

それは人間が基本的に「生存競争」の中にいるからである。

そして、正義の意義は揺らぐのである。



 生物は、生存競争の中にいる。

競争は、生物をより強く進化させる。

より強くなって生物は、出来るだけ自分や自分の子孫を残そうとする。

人も同じである。

人の競争は、経済活動で顕著である。

社会のルールを破らない範囲で、

他を犠牲にして、自己の効率UPをなす、

自己の利益を追う。

ルール違反をしては拙いが、

ルールの曖昧なところ、抜け落ち、または忘れ去られたところを狙い、

慣習、流行に従ったようにして、ルール違反の際を狙う。

まっとうなことをして、勝機を運に任せるよりも、

危ういことをして、勝機を確実にするのが、経済の競争の法則である。

その行為が悪と判定されれば、負けである。

見逃されれば、勝ちである。

正義は、ここでは微妙で弱い。

悪ではだめだが、悪に近い方が競争に勝ちやすい。

正義が、生物の生存競争、社会での経済の競争に立ち向かうことになる。

正義は、万人の幸福には必要だが、個人や個別の集団の幸福には邪魔である。


 ルール守ることが、正義であり、

ルールを破ることが、悪である。

 たとえば、ある商人が、品薄な商品を高額な値段に変更したとする。

それは法規的に、ルール違反ではない。

しかし「人の弱みにつけ込む」行為は、社会的慣習ではルール違反とされる。

人々は正義をもって、この商人を悪と見なす。

この商人は信用をなくし、やがて誰も彼から買わなくなる。


 たとえば会社が不正を起こしたとする。

それは社会のルール違反だが、その違反には、社内の者以外、誰も気づかないとする。

その不正は、会社に多くの利益を与える。

不正が暴かれれば、会社は罰を受け不利益をこうむる。

信用をなくし、潰れるかも知れない。

あなたがその会社の者として、

正義のもと、その不正を公にするだろうか?

それを行えば、あなたもまた多くの不利益をこうむる。

しかし、その不正を見逃せば、さらに大きな不正に会社はつき進むかも知れない。

さらに大きな損害を、会社もあなたも受けることになるかも知れない。


 再び述べよう。

ルールを作り、それを守るのは、効率化のためである。

効率化は、幸福を目指すからである。

全人類、全世界の幸福のためである。

効率化も、ルールも、その手段である。

ゆえにルールを守ろうとする正義も、手段である。

ゆえに正義を行おうとするなら、その目的を忘れてはいけない。

そのためには妥協することも必要となる。




 ルールをつくるのは、秩序を保つためである。

効率を上げるために、秩序が必要である。

しかしあまりに厳格な秩序は、社会の動きを鈍らせる。

効率が悪くなる。

ある程度の融通、寛容が必要であろう

正義の実行も同様である。

しかしこの融通、寛容が、ルールを曖昧、不確かなものにもしてしまう。

そのバランス、これが正義を考える上での問題である。


 自分の行動に対して、正義を貫くことは、

自分の承知したルールに基づいて行えばいいので、容易である。

しかし他人の行動に正義を求め、

またそうでないからと非難するのは、難しい。

所属する組織や集団のルールを

明確に、正確に把握していることが必要となる。

そしてそれは、非常に難しい。

また、ルールを厳密厳格に、過剰に理解し、理解したつもりで、

些細なこと、取るに足らないことまで非難するのは、

社会の円滑化を遅らせ、効率もよくない。


 厳密に作られる法律においても、多種多様にわたると、

それぞれのルールにおいて、齟齬や違和、曖昧、矛盾が発生する。

それらを合理的、総合的に解釈して、判断するために、裁判が開かれる。

法律においてさえ、このような妥協が行われるのである。

正義と妥協、互いに受け入れられない概念のようであるが、

正義もまた手段であることを認識すれば、

妥協も、正義を行う大きな要素となる。


 しかし重要なのは、妥協は理不尽なことも許容するということではない。

許容できる範囲において、判断にゆとりを持たせる、

他の判断を受け入れると言うことである。

正義もまた効率UPの手段、万人の幸福を目的とする手段である。

目的追求には、多様な判断が求められる。