1.はじめに



 つれづれに。


 漠然とした物事や現象を論じるとき、

その全体を把握することは難しい。

それらは多く流動的で、形を変え、増大したり収縮したりする。

それらを二次元的な言語で語るのは、非常に困難である。

そこでよく用いられる方法が、漠然とした「用語」を用いて、

それらを表現するのである。

例えば「社会は生命体である」という表現である。

漠然としたものを漠然と表現するのであるから、間違いとは言えない。

表現が斬新であったり、知的な用語や観念的、感性的な用語であると、

時にその表現が的確で優れていると思われ、理解できないほうが劣っていると思われる。

世の中にはそう言う表現や、それに伴うそんな評価が溢れている。

しかし何かを論じるならば、出来るだけ定義の明確な安易な言葉で説明すべきである。

そして全体を表現することはなかなかに難しく、全体のいつも一部しか説明しきれないことを

承知して論じるべきである。

そうせずにいたずらに物事を難しく言う者や決めつける者は、知性者でなく言葉を操る詭弁者である。

社会には、詭弁を弄する者が多い。

それは、その者たちが自分のプライドを守ることを、真実を求めることより優先するからである。

持つべきプライドをはき違え、欲望の赴くままになっているからである。


 人はプライドに生きる。

プライドとは、自尊心、

しかしそれは、群れの中で自分を誇示するものではない。

群れの中で、自分の位置を顕示するものではない。

自分を今まで生きさせてきた自分の生命に感謝し、

自分を大きな道理から外さないように導いてきた

自分の知性を尊重する気持ち。

それらを裏切らない気持ちが、プライドである。


 真のプライドに生きる人は、

自分の感情や欲求に振り回されない。

自分の感情や欲求と戦う。

それは孤高の、味方であるはずの自分との戦いだから、

過酷な戦いとなる

だがそれを制する人に、人は憧れる。

その人の美しさに感動する。

だが、なぜそうまでして戦い、

自分の真のプライドを守ろうとするのか?

そしてそれに憧れるのか?

それは人が知性というものを手に入れたから。

知性は人をより高い意識へ導くもの、

それは人の進むべき道であり、

人生を有意義にする。

人を真の幸福へ導くものであるからである。

しかし知性は、まず論理を優先する。

たとえそれが、行く道を遠回りにするものであっても。

論理思考こそ知性と言える。

では、論理とは何か?


 われわれが何かを論じるとき、それは全て仮定である。

しかし仮定だからと言って、ある程度、信憑性が高くなくては論じる意味がない。

はじめに述べた「漠然としたものを漠然と論じる」場合は、信憑性はあるが、

情報に有効性が少ない。

有効に物事を論じるとは、その状態が表している論理性を説くということである。

論理性には三つの形がある。

①物事の所属(定義)を表すもの、たとえば「人間は哺乳類である」という論理である。

②物事の因果を表すもの、たとえば「重力でリンゴが落ちる」という論理である。

③部分の集合は全体であることを表す、たとえば「1+1=2」という論理である。

 論理の信憑性をより確実なものとする方法として、科学的方法が用いられる。

科学的方法とは、

「できるだけ多くの、仮説の正当性を示す純粋に近いデータ(実証)を集め、有意性を確認する」ということである。

しかしこれらのデータ集積が容易にできることは少ない。

物事を論じるとき、すべてを科学的方法の結果を待ってからでは効率が悪い。

そこで用いられるのが「想定論理」という考え方である。

ⅰ)その論理の正当性が、過去や他の類似の事例に存在し、容易に類推できる。

ⅱ)その論理が不当であるとすると、他に容易に類推できる要因が発見できにくい。

ⅲ)その論理が不当であるとすると発生する、または正当であると発生しないはずの

別や他の状況の存在が認めにくい。

例えば、「重力でリンゴが落ちる」を論じると、

ⅰ)の事例は多く挙げることが出来、ⅱ)の一般には重力以外の落下の要因が説明出来ず、

ⅲ)の「空中に浮いているリンゴ」も存在しないことから、

その論理は信憑性が高いことになる。

では、例えば、「風が吹けばリンゴが落ちる」という論理は、

ⅰ)の事例は挙げることが出来る、ⅱ)の風以外の要因が見つけにくい

ⅲ)の「風で落ちないリンゴ」も存在する

以上から、その論理の信憑性は高いとは言えないことになる。

 論理は、科学的方法によって、その信憑性を問われる。

その信憑性の高い論理は、社会に精度の高い秩序を産み出す。

そして精度の高い秩序は、人をより真の幸福へと導くのである。


 人が生活を営むとき、

そこには仕組みが必要である。

仕組みとは、行う行為がより効率的になるように

仕向けるということである。

生きるということは、出来るだけ少ないエネルギーを使って、

出来るだけ多くのエネルギーを得るという行為である。

だから効率を求めることは、幸福に生きるための条件である。

複数の人間が共同で生活を行う場合は、

特に仕組みが必要である。

仕組みがしっかりしていないと、

人々は思い思い勝手に振る舞う。

そして絶えず不具合やトラブルが発生し、それが繰り返される。

仕組みとは何か?

物事を行えば、その結果が生じる。

その結果を望み通りにするのが仕組みである。

望みとは、行為の目的がより効率的に達せられることである。

ゆえに仕組みは、自然の因果に従っていること、

物理的、化学的法則に従うもの、

いわゆる出来るだけ論理的でなければならない。

観念的、慣習的にならないように注意しなければならない。

そしてだけ出来るだけ色々な状況に対応できること、

状況が変わっても、対応が維持できるように、

システマチックであることが望ましい。

しかし対応が事細かすぎたり、複雑すぎて、

混乱してしまわないように、シンプルであることも望ましい。

このように仕組みには、多くの要素や条件が必要とされるが、

それらが互いに対立したり齟齬を生むことも多い。

その状況においての、程よいバランスも求められる。

論理的、システム的、シンプル的、バランス的

これら四つの要素で作られた仕組みが効率良く行われる状況、

それが「秩序」である。

これらが実行されるためには、

まず上の条件を出来るだけ満たすルールが作られ、

それがその行為に関連する人たちに周知(教育)されなければならない。

そしてそのルールに従って規律正しく実施されのが望ましい。

当然、そのルールを守らない者が出てくる。

それはその者がルールを十分に理解していない、

またはルールがわかりにくい、誤解を生んでいる。

ルールがあやふやである、ルール内に矛盾がある場合もある。

そしてその者に守る気がない。

その者が、あえて守ろうとしない、ルールに反発している、

ルールに必要性を感じていない場合もある。

その仕組みは監視され、明らかに行為者が違反をしている場合は、注意する。

より理解を求めて教育をし直す。

しかしルールの方に問題がある場合もある。

その場合は、その状況がフードバックされ、ルールが改正されるのが望ましい。

PLAN(プラン)ーDO(ドウ)ーCHECK(チェック)ーACTION(アクション)

いわゆるPDCAサイクルが回るのである。

しかしルールが変わってばかりいるのも混乱を生む。

複雑化してしまう恐れもある。

変えるべきものは変え、保持すべきものはしばらく維持する。

ここでもまた「論理的、システム的、バランス的、シンプル的」思考が必要である。

この思考を「秩序思考」と呼ぼう。


 上でルールの必要について述べた。

それが秩序の基本である。

しかしそれに係る人の行動すべてをルールで規定することは出来ない。

出来るだけ細かくルール化するのは理想的だが、

内容が煩雑、複雑になり、人々が重要なルールを見落とす恐れがある。

その仕組みの中で、通常は知らない、その場独自の決め事のみをルール化することになる。

これを「組織上のルール」と呼ぶ。

それ以外の基本的なものを「社会上のルール」と呼ぶ。

これらの境界はあいまいである。

これら二つのルールは、「集団上のルール」であり、

他に「個人上のルール」もある。

この境界もあいまいである。

例えば「挨拶をする」というルールがあるとする。

これがその組織内で明確に規定されているなら問題はない。

一般には社会的通念として存在する。

親からの躾け、学校などからの教育、社会からの指導による。

しかし「挨拶をする」というルールは、人間関係を良好に保つ程度の価値しかなく、

絶対に必要なものでなく、状況においては無視されるルールである。

結局は、個人でそれを行うかおこなわないかを決めるもの

「個人上のルール」ということになる。

秩序の必要性を述べてきたが、なかなか効果的な秩序が構築されないのは、

これらあいまいな基本的ルールの上に秩序が乗っているからである。

「個人上のルール」を秩序思考によって明確なものにする「自己秩序」、

これを構築することによって、改めて「社会上のルール」を見直し抱合する。

「社会上のルール」の中には、慣習化、惰性化、形式化、形骸化してしまったものが多くある。

それらを見直し、意味がなく害のみ残ったものは排除して、

「自己秩序」の中のルールとして取り入れる。

「自己秩序」がある程度満たされた状態の上に、それぞれの集団の「秩序」が構築される。

それが理想である。

「自己秩序」は「人は幸福を目指す」ことを基本としている。

幸福とは「生きることを効率よくすること」である。

効率が良くなれば、生きやすくなる。

生きることがシンプルになる。

シンプルになれば、より複雑をとり入れれるようになる。

それは生きることを豊かにする。

そして効率を良くする最も重要なポイントは、

他者と協調することである。

一人では時間も能力も限られている。

力を合わせること、または分業することで

物事を効率よく進めることが出来る。

「協調」を尊重する「自己秩序」は当然、

「集団の秩序」をより完成させる。




(2015.2.2)