同じ種類のものでも、違いがあれば区別される。
人も多くの観点から、その違いで区別される。
優劣の違いで区別されても、それは差別ではない。
区別されるのに、その理由や原因がある、
すなわち、正当な「謂れ(いわれ)」があるものは、差別とならない。
差別となるのは、「謂れがあった」が、今はなくなったもの、
それらがない、「謂れのない」理不尽なものである。
差別されるとは、区別されることによって、
扱いの違いを受け、何らかの損害を受けることである。
そして区別された側に不満が起こって、それは差別となる。
人は、ホモ・サピエンスとして同種である。
他の生物とは一線を画する、万物の霊長と自らを位置づけている。
ゆえに人の間では、人権として人は同等であるとしている。
しかし人には、人種としての違いがある。
それは人の進化の過程で生まれた,遺伝による違いである。
アフリカから発出した人類が、世界に広がるとき、
その環境の違いから変化した、人種としての違いである。
人種としての違いは、かって文明としての差となり、
それは生産の効率の差となる。
効率の良いものは、豊かとなり、貧しきものを支配する。
また文明の差と豊かさは、武力としての差を生む。
武力の強い方が、弱い方を支配する。
支配する者と支配される者として、人種差別が生まれた。
そして同じ人種の中にも、差別が生まれる。
社会的地位による差別である。
支配する者は、将来にわたって、支配者でありたいと願い、
支配する社会に、不変の階層という仕組みを作る。
これは人が歴史の中で生み出した、階級差別である。
しかし社会が進むに連れて、世界における、
地域や環境による差、文明による差は縮まり、
また思想の発達により、人類平等、人権としての考え方も明確化され、
人種としての差別や、階級としての差別は、「謂れなきもの」となった。
もう一つの大きな差は、性による違いである。
男性と女性では、身体的違いがあり、
それが、欲求や感情、能力や習性に違いを生む。
男女間の差は、その生物的役割の違いから生まれた。
女性は、囲いの中で子供を産み育てる。
男性は、囲いの外に出て食料などを調達してくる。
そのために、身体的、精神的に、
おおよそ女性は優しく、細やかで、感覚的、保守的となり、
おおよそ男性は、強く、荒く、思考的、闘争的となった。
そして環境の違いが、男は女を守る、女は子を守るために守られる、
という立場の違いを生んだ。
これが、支配する、支配されるものとしての、性差別を生む。
囲いの外、いわゆる社会は、そこで主に活動する男中心に組み立てられる。
男のために作られた社会では、男優先で、女は蔑視される。
女は社会で長く差別されてきた。
しかしこの環境の違い、役割の違いも、
社会が進むに連れて、差がなくなってきた。
性差別も、「謂れなきもの」となっている。
社会には未だ、数多くの差別が起こっている。
社会に、微妙でわかりにくい形で内在している。
明確なルールで規定されて、フェアプレーを要とするスポーツにも、
その問題はある。
スポーツなどの競技において、人種による区別はない。
体重においての区別、階級はある。
これは、力を競う種目に多い。
これは体重と力に物理的な関係があるからであり、
「謂れがある」と言える。
区別があるにしても、下の階級の者が上の者に挑戦できる場があるのであれば、
それは差別ではない。
しかし、下の階級の者が上の者に挑戦できないのであるなら、
下の者に対する差別である。
下の者がその競技の頂点を目指せないからだ。
しかし下の者のほとんどが、そのことに不満がないのなら、
それは差別とならない。
スポーツなどの競技における、男女による種目の区別も上と同じである。
統計的に見れば、身体的違いによって、
男性が有利の競技、女性が有利の競技があるため、
ゆえに、男女混合にしては、ほとんどの場合、
片方の性が、一方的勝者になってしまうと予想されるから
種目を別として、同一の性の中で競わせるのであるが
しかし男性より、力強い女性、俊敏な女性、ワザのある女性は存在する。
女性より、しなやかな男性、かろやかな男性も存在する。
結果が一方的になると予想して、男女混合で争う場を作らず、
それぞれの種目への挑戦のチャンスを奪う点において、
これは「謂れなき」区別、差別となる。
しかし、男女別種目にして、ほとんどの者が不満を言わないのなら、
差別にはならない。
社会での活動では、性差は謂れなき差別につながる。
謂れなき差別は、社会悪である。
ゆえに社会での男女の活動に、生理学上以外の性差はないとされている。
しかし身体能力を競うスポーツにおいては、性差は認められ、種目は区別される。
男女別競技と分けることに、多くの者が不満を持たない、
不満を持たないから差別とはならないにしても、差別感は残る。
人々の多くも、スポーツに性差があるのを認めている。
性差は認めているが、それぞれに同等に競技の場を与えているから、
平等であるという理屈によって、納得しようとしている。
または、それはスポーツ上とか、エンターテイメント上、~上などと容認して、
一般の社会上とは異なる、特殊例としている。
いわゆるダブルスタンダードである。
一般においても、現状、多くの人が社会の潮流から、性差を認めることが良くないと思いながら、
暗黙に性差を認めている、または性差が直接、差別につながらないと感じている。
つまり、曖昧にしている。
曖昧にすることが、すべて悪いことではないが、
人々の表沙汰にならないところで、都合良く性差や性差別が使われてしまう恐れがある。
無思慮にダブルスタンダードがとられることが当然となる。
暗黙の了解や、ダブルスタンダード(表向きと裏向きの対応)が、
差別意識の温床となっている。
ジェンダーの平等の考えの発達により、スポーツにおいても性差の考えはなくなる傾向にある。
これはやがて、男女別の競技がなくなり、混合の競技となっていくということである。
これはこのダブルスタンダードがやはりスポーツ界にあり、
それが良くないとして、なくなる方向にあるということである。
再び述べよう。
「謂れある」区別は、差別ではない。
そして「謂れなき」区別においても、
そこにほとんど何の損害も発生しない場合は、差別ではない。
そして区別された方のほとんどに、何の不満もない場合も、差別とはならない。
つまり、区別された側に、何らかの損害が発生し、
その者たちに不満が発生するとき、それは差別となる。
優遇も、差別の一種とする説がある。
区別による優遇はある。
上で述べた男女別競技も、混合では男性ばかりが勝ち残るであろうから、
女性にも陽を当てたいと考えた、女性優遇と言える。
その端的な例として、「女性専用列車」という男女区別がある。
女性は一般車両にも乗れるのだから、女性優遇である。
性差を認め、性的犯罪の被害者に多くの女性がなることからとられた処置である。
これは男性差別になると思われるが、そこに不満、批判をする者は少ない。
男性がこの差別で受ける損害よりも、
女性が、この優遇で受けない損害の方が大きいからである。
こういう女性を擁護しての、男女平等のケースは多い。
擁護されての平等、優遇されての平等である。
優遇されると言うことは、何らか劣っていると判断されたということである。
優劣によって、区別されたということである。
区別されたことによって、実質の損害を受けていない、
逆に、優遇されている利得感がある。
また、優遇されない方にとっても、もともと優位にあるから、
そこに優越感はあり、不満や批判も起こりにくい。
ゆえに差別感は生まれないように思える。
しかし、標準より下に見られたのは確かである。
人によって受ける感じは違う。
ただの違和感、嫌悪感、屈辱感を感じた者や、
諦め、怒り、悲しみなどを感じる者もいる。
しかし、優遇されたことによって、ショックやパニックなど、
精神的に損害を受けたとまで言う者は少ないだろう。
やはり優遇されたのであるから、それを喜ぶ人は多い。
だからこれは、差別とまでは言い難い。
しかし優遇された、その根拠には劣等がある。
これによって後々に、差別へと続くことも多い。
これも上で述べた、暗黙の了解、ダブルスタンダード(表裏二面)の
温床となる可能性がある。
擁護や優遇による平等を否定するものではないが、
安易なそれらは、そういう危険性がある。
ダブルスタンダードの例を挙げよう。
ルッキズム(容姿、外見重視)が偏見や差別につながるとして、
世の中では、ミスコンなどが廃止され、牽制される方向にある。
しかし社会での映像の発達により、コーマーシャリズムでは、
ルッキズムがさらに活発化している。
人々は、美しいもの、かっこよいもの、可愛いものを見ると、快楽を得る。
それを集客に利用しているのである。
人の性質を利用して、ある効果を用いることは、
節度があれば、趣向として、すべてを否定すべきものではない。
しかし社会では、ルッキズムへの反発から、
それを重視しながらも、それを利用していない振りをする、
ダブルスタンダードである。
テレビ局の女子アナなどはタレント化し、
明らかに採用にルッキズムの傾向があるが、
アナウンサーの能力に、その要素は必要ない。
採用の合否に、この要素が含まれるなら、
それは「謂れなき」差別である。
おそらく会社はそれを認めない、
認めないが誰もが承知している、ダブルスタンダードである。
一方的に情報を伝えるテレビ局は、公明正大をモットーとすべきであるが、
それがこの立場をとれるのが、現代社会の「ご都合主義」である。
人々は、平等ではない。
遺伝子の違い、環境の違いから、
その体質・性格・能力に差が生まれる。
しかし平等には扱われたい。
だから人は皆平等であるという概念を信じたい。
優劣を問わず、誰もが標準として対応されたい。
ゆえに人々は、標準を決めておきたく、
標準から外れることを恐れる。
標準から外れれば、異常である。
劣っている、または特異であれば、異常とされる。
それらは程度の差があれ、疎まれ、嫌がられ、恐れられ、区別される。
通常に対応してもらえず、損害を受ける。
誤った判断から異常とされ区別されたなら、それは差別となる。
標準から明らかに大きく外れた者の多くは、
「謂れある」区別を受けている。
例えば、犯罪者が収監されて自由を奪われるや、
重度の感染者が隔離されて自由を奪われるなど、
多くは法律でその処置が規定されている。
しかし標準が曖昧、または厳密すぎて、
それより外れたと判断された者の場合、
それは「謂れなき」区別を受ける。
これが差別に繋がる。
感覚、常識、または生半可な知識で、曖昧に決められる標準、
または学問上で、細分化し厳密すぎるほどに決められる標準、
これらが権威を持つと、元来、許容範囲にあるものが、
異常と判断されてしまう。
この歯車が回り始めると、差別された者は容易にそこから抜け出せない。
標準から外れた者を除外しようとする大衆の力が働くと、
一度貼られたレッテルを払拭するために、徒労の戦いを繰り返すか、
やがて諦めるしかなくなる。
差別意識は、自分が標準だという確信を得たい思い、
標準を外れる者を除外したい思い、それらから生まれる。
標準とは何か?
人々は標準という脅迫観念に襲われている。
それは自分の存在価値が脅かされるのを恐れて、
過剰に反応してしまっている。
差別される恐さがわかっているから、差別するのである。
その反応を止める、「嫌われる勇気」「嫌わない勇気」を持たなければならない。
(2023.2)