花見川地峡の自然史と交通の記憶 69
2013.08.28記事「地名「横戸」の由来と香取の海との関係」の記述内容を裏付け、補強する情報が集まりましたので、追補します。
同記事では、地名「横戸」の由来に関する既存説(余部関連説)を批判・否定し、風景の分析から地名「横戸」の由来仮説を述べました。
この追補では、既存説の批判・否定を裏付ける情報として「千葉県の歴史 通史編 古代2」の付録「古代房総三国の郡・郷・里の変遷と比定地一覧」を紹介します。
また、横戸が平戸川を遡って来た人々によって命名されたという仮説を補強する情報として、横戸が村上と精神的に結ばれていることと横戸が村神郷に属していたことを述べた「千葉県印旛郡誌」の記述を紹介します。
1 律令制時代において横戸が属していた郡・郷
律令制時代において横戸が千葉郡に属していたのか、印旛郡に属していたのか、不明です。
「千葉市の町名考」(和田茂右衛門、昭和45年)によれば、横戸町について次のように説明しています。
「当町の第六天神社は、天御中主命を祭神とした妙見社であることと、「千葉郡誌」に「千葉氏の一族千脇作太郎名主役を勤む」とあるところから考えて、往古は千葉家の勢力範囲だったと思われる。」
「往古は千葉家の勢力範囲だった」ことは事実ですが、律令制時代の最初から千葉郡に属していたという証拠は全くありません。
むしろ、次の2で述べるように、律令制時代の最初は印旛郡に属していたと考える方が自然です。
そこで、律令制時代において、横戸が千葉郡であった場合と印旛郡であった場合の2ケースを設定して、ケース毎にどの郷に属していたか、検討します。
検討の材料は、「千葉県の歴史 通史編 古代2」の付録「古代房総三国の郡・郷・里の変遷と比定地一覧」です。
(この資料があることを千葉市立郷土博物館より教えていただきました。千葉市立郷土博物館に感謝します。)
ケース1 横戸が千葉郡であった場合の郷対応
郷名、郷の比定地は「千葉県の歴史 通史編 古代2」の付録「古代房総三国の郡・郷・里の変遷と比定地一覧」による
横戸が千葉郡であった場合、横戸は山家郷に属していた可能性が高いと考えられます。千葉郡には余部郷の存在は知られていないので、横戸が余部郷に属していた可能性はありません。
ケース2 横戸が印旛郡であった場合の郷対応
郷名、郷の比定地は「千葉県の歴史 通史編 古代2」の付録「古代房総三国の郡・郷・里の変遷と比定地一覧」による
注
「千葉県の歴史 通史編 古代2」の付録「古代房総三国の郡・郷・里の変遷と比定地一覧」は、「和名類聚抄」大東急記念文庫を底本とし、高山寺本、古活字本・名古屋市立博物館本を対照している。
◇は名古屋市立博物館本にみえない郷。
×は高山寺本にみえない郷。
□は「和名類聚抄」にはみえないが、木簡などにみえる郷。
地辞は大日本地名辞書
地志は日本地理志料
図志は利根川図志
横戸が印旛郡であった場合、その位置が明確になっている村神郷に属していたと考えられます。印旛郡には余部郷がありますが、この場所は佐倉市天辺周辺と考えられますので、横戸が余部郷に属する可能性はありません。
検討の結果、ケース1、ケース2のどちらでも、横戸が余部郷に属していた可能性はありません。
従って、横戸の(そして天戸も)地名由来を余部関連にて解釈しようとする角川日本地名大辞典の試みは完全に否定されます。
参考 千葉郡と印旛郡の郷分布
ケース1とケース2の情報を概略分布図にしてみました。
2 横戸と村上との関係
千葉県印旛郡誌(千葉県印旛郡教育会編、大正2年)の阿蘇村誌沿革誌に次のような記述があります。
「下総国旧事考云、村上村あり是なるべし、此の村の鎮守を七百余箇所明神といふ、いかなることにや米本、村神、神野、保品、先埼、上高野、下高野、下市場、勝田、横戸以上十村の氏神なりと云ふ、此村々村神郷の地なるべし。」
村上村の鎮守が十村の氏神であり、その村々は村神郷であると書いています。
横戸が元来は印旛郡村神郷に含まれていたことを示しています。
平戸川筋にあるという、横戸の置かれた地勢から考えても、横戸が印旛郡村神郷に属していたと考えることは自然です。
横戸が村上村の鎮守を氏神にしているという精神的つながり、及び、元来は印旛郡村神郷に属していたという記述は、私の横戸地名由来仮説(平戸川を遡って来た海の民によって、横に拡がる台地が横戸と命名された)を強く補強します。
千葉県印旛郡誌(原は下総旧事考)による村神郷であった十村
注 村神郷の構成は、この十村以外にもあったと考えます。
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【余談】
昭和29年、犢橋村が千葉市に編入される際、横戸、柏井の住民は八千代町編入を望んで、八千代町に分割編入する運動を展開しました。(千葉市史 現代編)
横戸の住民から見ると、千葉市(中心市街地)より八千代町の方が、物理的距離はもとより心理的距離(帰属感)がはるかに近かったようです。
この心理的距離の近さの背景には、古代からのつながりが底流としてあったのかもしれません。
また、この心理的距離の近さの背景には、平戸川流域という地勢、印旛沼堀割普請による平戸川(新川)と花見川の連結があったものと考えます。
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つづく