少しづつ活動記録日記 (日本語)

学部まで (1979~2002)

1979年8月25日、東京生まれ。松蔭幼稚園お茶の水女子大学附属小学校慶應義塾湘南藤沢中・高等部を経て、2002年に慶應義塾大学経済学部を卒業。中等部時代は野球部、高等部時代はテニス部に所属。大学時代は、鈴木晃仁先生の下で、医学史を学び、経済史計量経済学に興味を持っていました。卒論で、計量体格史と環境、死亡分析をテーマにした事で、ロバート・フォーゲル氏に憧れ、シカゴ大学に行ってみようと考えたのもこの頃(その願いは一年後あっさり叶います)。また、卒業間際、慶應を訪問していた経済学者ジェフリー・サックス氏の授業及び講演を聞き、影響され、GISに興味を持ち、卒業後半年間、慶應義塾大学湘南藤沢キャンパスにて地理情報システムを学びました。この頃、サックス氏が座長を務め、フォーゲル氏も参画していた世界保健機関の「マクロ経済学と健康委員会」の報告書を初めて読みました。

シカゴ時代(2002~2005)

2002年7月: 大学院の始まる二ヶ月前にシカゴ入りし、友人達と全米オープンの決勝を初めて見に行きました。全盛期にはほど遠い物の、ピート・サンプラスが王者の貫録を見せつけ優勝し、その後、サンプラスは試合に出ず、翌年に引退を表明した為、この試合は、ピート・サンプラスアンドレ・アガシ二人の長きにわたるライバルの最後の直接対戦となりました。大学院関係ないじゃんと言われるかもしれないけど、人生の一大イベントです。とりあえず、料理ができないため、大学の英語コースの友人達を中心に、いろんな国の料理の出来ない人達を集めて、クッキングクラブを設立。不完全ないろんな国の料理が食べれるようになり、また楽しそうと言う事で料理の出来る人達も入ってきてくれました。この後、世界中に散らばったクッキングクラブメンバー達との再開が僕の楽しみの一つとなります。

2002-2004年:学部卒業後、ほどなくしてシカゴ大学大学院に入学。シカゴ大学では社会科学の修士課程に在籍。当時のカリキュラムではPhDのコースから8個選んで履修する事が義務付けられていたので、自分の関心である人口学専攻のモデルコースを参考に、ゲーリー・ベッカーの「人的資本」、ロバート・フォーゲルの「人口と経済」、ジェームズ・ヘックマンの「実証ミクロ計量」、スティーヴン・レヴィットの「実証分析入門」、トマス・フィリップソンの「医療経済学」、アーノルド・ゼルナーの「実証分析1」、社会学部から山口一男先生の「合理的選択論」、ロス・ストルゼンバーグの「実験のデザイン」などを履修していました。特に、ロバート・フォーゲル の授業は、格別で、人口学が、様々な社会問題を解決するのに有用な学問であると毎週少しづつ説得されていくようで、一層、この分野の事が好きになりました。入学して3ヵ月、指導教官にしようと思っていた、医療経済学者のトマス・フィリップソンがサバティカルで世界銀行に行く事になってしまったため、ゲーリー・ベッカーが指導教官になりました。修士論文のテーマは、ビリヤードをしている時に雑談しながら思いついた「合理的中毒の理論と栄養転換」でした。シカゴ時代は、夜な夜なジャズ・バーに通い、そこで定期的に演奏していたカート・エリングパトリシア・バーバーフレッド・アンダーソン、そしてウェイン・ショーターのライブを堪能しました(それがきっかけで、ArcGISのキーを失くしたけど)。有名なミュージシャンに普通に話しかけられる環境っていいですね。11月にはマネタリストの創始者として有名な経済学者のミルトン・フリードマン氏の90歳記念カンファレンスに潜入しました。ここで、フリードマン氏にサインを貰えなかった事は今でも悔やまれます。この間、カリフォルニア大学サンタバーバラ校にある空間総合社会科学研究所にプチ留学しました。地理の専門家が20人も居てパーティー会場に行く道に迷ったりも。道中、LAに立ち寄り、友人にハリウッドを案内してもらい、ついでにカリフォルニア工科大学を見学しました(あ・・・ここ無理と思いました)。その後、シカゴに戻り、修士論文を仕上げ、2004年3月に無事卒業し、7月にはミシガン大学のICPSRのプログラムに参加しました。この時、政治学者のジョン・キャンベル家のBBQにも行きました。まさか、日本の医療制度分析の名コンビ「池上・キャンベル」のキャンベル氏だったとは・・・仲良くなっとけばよかった(涙)。

2004-5年:その後、紆余曲折を経て、エバンストンにあるノースウェスタン大学の工学・応用科学大学院に入学する事になりました。社会基盤・環境工学(Civil and Environmental Engineering)の学部でリスク・マネージメントを学ぶ事に。しばらくして、当時、大学院の副学長で、交通・環境政策評価の専門家であったジョセフ・ショーファー氏が指導教授に。2年のコースを1年で修了したので大変でした。知識やスキルの取得はもちろんですが、今まで、理系分野のトレーニングを受けた事のない自分が、理系でも十二分にやっていけると確認できた点が一番良かったと思います。この時の経験により、理系のコースだろうが、工学系のコースだろうが、自分に必要な科目は迷わず履修するようになりました。また、博士課程では、工学出身者を対象とした奨学金取る事が出来ました。卒業後、僕がグローバル・ヘルスに進学した影響なのか、数年後、この時の僕の所属学部は、医療生体工学(Biomedical Engineering)部と共同で、アメリカ初の「グローバル・ヘルス工学」のプログラムを立ち上げる事なり、さらに18年後、僕はこの学部でグローバルヘルスと持続可能な観光について講演する事になります

ボストン時代 (2005~2012)

2005年: ノースウェスタン大学卒業後は、一番、提示された待遇のよかったハーバード大学公衆衛生大学院の博士課程に入学しました。グローバルヘルス・人口学部(GHP)の医療経済学トラックの学生と言う、今までのキャリアが一挙に生かされそうな学部の博士課程の学生となりました。入学時に一人だけ、Herbert S. Winokur Fellowship in Decision Scienceと言う経済学と工学の手法を使って医療制度を分析する奨学金が1人だけついていたため、トップ入学とされました(うちの学部では、先進国出身者は、Presidential Scholarship獲れず、僕の代にはその該当者がいなかったためです。)。ゲーリーの強い推薦状のおかげですね♪

2006年: シカゴ時代のボス、ゲーリー・ベッカー氏が法律家のリチャード・ポスナー氏と書いているBecker-Posner Blogで”There must be one Muppy in the world. My former student"とMentionされる。ちょっと嬉しかったが・・・後に、翻訳される時にはこの記事は取り上げられず(涙)。学期が始まり、「さあ、憧れの経済学者キップ・ビスクイジ氏に会いに行くぞ!」と会いに行った瞬間、彼の口から学期一杯でハーバード・ロー・スクールを去る事が告げられる。特別に彼の「リスクと環境規制」の授業を履修させてもらう(この時期、他校に移ろうか真剣に悩むが、何故かイタリア人街でパスタの作り方を習う事に・・・)。その後、国際連合世界食糧計画にてインターン。この時の経験のおかげで、後に30ヶ国語くらいでメールのやり取りができるようになり、この技術が、後に博士論文の1本目の論文に繋がります。2年目には、"Global Burden of Disease"研究で著名な医療経済学者&医師のクリストファー・マレー氏の「グローバル・ヘルスの挑戦」のティーチング・フェローとして働く事に。本格的に公衆衛生学っぽい事学んだのは始めてだったので、それはもうがんばって勉強しました。後にChrisが尊敬している人口学者であるサミュエル・プレストンをセミナーに呼んでくれたので、ここで人口学の大家である彼のプレゼンを初聴講。同時にマサチューセッツ工科大学にて「経済史」の授業をとる。歴史には夢があるな~。ここでMITの学生証を取得。以後たまにMITの学生に成りすま・・・したりもする。しかしMITはハーバードの学生に学生証くれて、逆はあげないなんて。ケチいぞ、ハーバード!

2007年アンドレ・シュライファー氏とルイス・カプロー氏の「法と経済学」の授業を履修、以後Comparative Law and Economics的なリサーチを始める。また「実践ガイド 医療改革をどう実現すべきか」という本の翻訳チームに参加し、この本の筆頭著者マーク・ロバーツ氏の「医療経済学」のコースのティーチング・フェローになりました。でも僕が訳したのはウィリアム・シャオ氏のパートでした。彼は一度ゲスト・レクチャラーとして授業に来てくれましたが・・・・!?。

2008年: 年始に誓いを込めて、ダイエット倶楽部を設立。3週間で7kg痩せる。しかしその後リバウンドが・・・。5月に、博論のコミティーが発足と言う事で、経済学者のデービッド・カニング氏がコミティーに加わります。本当に、彼およびデービッド・E・ブルーム氏には入学当初から学部内での問題解決に至るまで本当によく助けて頂きました。その後、次々と学内にポジションが増え。ハーバード大学ロシア・ユーラシア研究所(デイヴィス・センター)のアソシエートになり、旧ソ連憲法の研究を始めたり。全米経済研究所(NBER)のリサーチ・アシスタントになり、ファイナンシャル・リタラシ―と退職行動の研究を始めたり、ハーバード大学数量社会科学研究所のアソシエートになったりしました。CGISのオフィスも綺麗だったんですが、結局、卒業までNBERにオフィスを持つ事になりました。

2009:夏には、北京(中国)に学会出張:目標は子パンダを抱いて写真を撮る。しかし・・失敗。目指せアンドレアス・コントレオン氏!!!彼は僕の目標です。秋には、マラケシュ(モロッコ)に学会出張。ぼったくりを逆に罠に嵌めてマラケッシュの町を案内してもらったり、ラクダでサハラ砂漠を渡り、ベルベル人のテントの近くで、満天の星空の下で野宿してみたり。砂漠はすばらしい。

2008-9年: カレッジ&ケネディー・スクールで統計・計量経済学のティーチング・フェローをしてました。

2009年冬まで: 経済学者のキャサリーン・べイカー氏とアマルティア・セン氏がコミティーに加わりました。

2010年春: 経済学者のデール・ジョルゲンソン氏のティーチング・フェローとして、米・欧・亜の経済危機への対応と今後の経済成長に焦点を当てた「世界経済の成長と危機」のコースを作りました。慶應の「世界の経済」をモデルにしましたw。ついでにキャンパスで学部生の子と話しながら歩いていたら、突然、アナルコ・キャピタリズムで著名なデヴィッド・フリードマン夫妻に話しかけられました。その後、しばらく研究談義。それにしても、彼女、自分が話してる相手が有名人だと知らなかったとはw(ちなみにこの子はその後、ハーバードビジネススクールのPhDプログラムに進学。組織論の研究をする事となる)。

2010年夏: シカゴ大学にて価格理論サマーキャンプに参加。再び経済学者のゲーリー・ベッカー氏、ケビン・マーフィー氏、スティーヴン・レヴィット氏の特訓を再び受ける。シカゴ・ホワイトソックスの試合を個室で見る。これぞビジネススクール・クオリティーだね・・・。いろんな大学のPhDの学生と話せて楽しかった・・・。その後、アテネ(ギリシャ)に学会出張。アテネからギリシャの島々(ミコノス島サントリーニ島クレタ島)を転々とし、ミノタウロスのいたと言うラビリンスを探してみる。しかしクノッソス宮殿の地下にあるという事しか分からず。しかも伝説によればダイダロスの息子イカロスが空を飛んで脱出してることから地下にあるかも未だ不明。その後、さらにヘルシンキ(フィンランド)に学会出張。ムーミン・ワールドを訪ねる。またラップランド料理を堪能。トナカイを食べる。熊を食べる。しかし(日本では天然記念物指定を受けているらしい)ライチョウは食べれず・・・・。サンクトぺテルブルクに行こうとするもどうも入国にはVISAがいるらしく追い返される、その後は、スウェーデン&クロアチアに遊びに行く。魔女の宅急便の街を見にストックホルム(街中)とドブロブニク(石畳の城塞都市)を訪ねる。また自由の女神を見つけるため、コロンビア大学にプチ留学・・・。しかし・・・結局たどり着けず。自由の女神って都市伝説じゃね・・・・。

2010年冬:スタンフォード大学にプチ留学。全米の国立老化研究所 高齢化の人口学拠点から集った人口学者・医療経済学者達と戯れる・・・。

2011年冬:ミュンスター(ドイツ)にあるヴェストファーレン・ヴィルヘルム大学で開かれた、日独交流150周年記念カンファレンスに参加。11年ぶりのドイツ。テーマがリスクだったので、法学研究者に交じり、一人で費用便益分析について語る。しかしこの写真を見ると僕がピチピチの最年少若手という設定に無理がある気がする。恰幅が・・・。

2011年夏:トロント(カナダ)にて学会出張。風邪をひき、つらかった。結局、CNタワーの夜景の見えるレストランくらいしか行けなかった・・・。また全米経済研究所(NBER)のエレベーターで偶然会った元所長マーティン・フェルドシュタイン氏に、前日買ったばかりのペンギンTシャツをベタ褒めされる・・・てへっ^^v。

2012年春:博士論文"Rights, Health Laws, and Health Outcomes"のディフェンス無事終了(証拠写真?)。デービッドが目を瞑っている!ケイトに背中を押されている(><v)。アマルティアがカッコよく決めている!なぜ、ギュンター後ろ?

2012年夏:ダルムシュタット(ドイツ)に学会出張。ヨーロッパの医療経済学者達と交流する。ヴァルトシュピラーレはなかなか良かったw。ヴィースバーデンで疲れを癒し、シチリア島パレルモへ!!!かつてピンタロスが「人の造りし最も美しき都市」と謡ったアグリジェント神殿の谷に行く!

2012年夏:ボストンに戻り世界人権宣言65周年記念本のケース・チャプターを書いています・・・・。苦。2013年7月にオックスフォード大学出版局から発売されました。ちょうど、そこに就職したので、やり取りが楽で良かった。

2012年秋:ジャカルタ(インドネシア)に学会出張。ついでにバリの呪術師についての現地調査もしてみる。その後、ジョグジャカルタボロブドゥールプランバナン寺院群を見学。その2週間後には再びカナダのトロント大学に出張、友人のケビン・チャンと久々に夕食を共にする!!!

2012年11月:卒業までに10人のノーベル経済学賞受賞者にサインを貰う計画、セン&マスキン氏による社会選択論の授業を聴講していた為、マスキン氏にサインを貰う事ができ11月に達成!!!現在まで、ロバート・フォーゲルゲーリー・ベッカージェームズ・ヘックマンジョセフ・スティグリッツポール・クルーグマンアマルティア・センダニエル・マクファデンロバート・ソローダニエル・カーネマンエリック・マスキンよりサインをGET!最終的には2人のノーベル賞受賞者に指導を受ける事ができ、5人のノーベル賞授業者に授業を教わる事ができ、10人のノーベル賞受賞者と研究やその他もろもろについてお話をする夢のような機会に恵まれ(経済学部の学生が来ないから、ダニエル・カーネマンさんとお昼食べてたとかもはやネタである)、長い大学院生活も捨てたものじゃない!と思いました。最終的に、僕が思ったのは、どこにいるかよりも、誰とInteractするかが重要で、長い大学院生活で過ごした教員、同級生、友達と過ごした時間が一番の財産だなと思いました♪ 自分が将来、大学院生活の話をする時に、もし「ハーバード」や「シカゴ」と言う言葉が、一人一人の教員や友人の名前よりも先に出てくるとしたら、それ程、今の自分から見て悲しい事はないでしょうね。

2012年11月:博士課程を無事に修了す。晴れてDr.Matsuura(Dr.マシリトではない)となった訳だが、中途半端な時期に卒業しても、5月まで何もイベントが発生しないんすね。ちょっと悲しかったです・・・。

オックスフォード時代 (2013~2014)

2013年1月:13年ぶりのイギリス、そしてオックスフォードに帰ってくる。オックスフォード大学の学際地域研究大学院で、日本経済論の専任講師となる。大学院名と同様、全てのGraduate Collegeの中で一番国際色が強いと言われるセント・アントニーズ・カレッジ(CIAやMI6に卒業生を排出する事で有名らしくスパイ・カレッジとも言われるらしい(汗))にも所属し、オフィスもそこにあるので、そこで働く。また「日本の経済政策」と「リサーチ・メソッド(数量分析)」の授業を教え始める。なんか、川が氾濫していて結構怖い・・・。

2013年2月:スペインの新聞社"El Punt Avui"にインタビュー記事を取り上げられる・・・。なんと写真付き。カタルーニャ語なんですね♪Facebookに貼って置いたら完全に捕まったと思われ、コメントを含め200人近くの人からたぶん誤解を受ける。

2013年4月:中国の新聞社”时代周报”にインタビュー記事を取り上げられる。プリンストン大の清滝信宏先生のコメントと共に載っていて、畏れ多くて、現実を受け止めるのに時間が・・・・(汗)。先に言ってよ。最近、医療経済学者、人口学者と言うより、経済学者やってる???

2013年5~9月:ケンブリッジ大学のセミナーに呼んで貰い発表。学生の頃から、憧れ続けたケンブリッジ・グループで発表・・・しかも伝説的な歴史人口学者トニー・リグリーまでセミナーに来てくれるなんて・・・ホント感無量でした。その翌週はキングス・カレッジ・ロンドン(KCL)にて発表。今度は、グローバル・ヘルスの学部に呼んでもらったので、人権とグローバル・ヘルスにもの凄い興味を持ってくれる学生や教員達が聞きに来てくれて、嬉しかった。 6月はユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)にて医療倫理のセミナーで発表。20世紀最大の人権活動家マハトマ・ガンジーを輩出し、18世紀にいち早く法制度化されていない人権を批判したジェレミー・ベンサムの作った大学。こんな所に発表に呼んでいただいて光栄です。帰りにベンサムさんとツーショット写真とって来ました♪ その後も、ウィーン人口研究所や経済協力開発機構(OECD)とトーク旅行は続き、8月には東北大学に招待して頂きセミナー発表をし、ついでに被災地や松島を案内して貰いました。9月には韓国の釜山に学会出張で発表。こちらは4年に1度しかない、人口学の国際的なイベントなので、いろんな人に再開できて嬉しかったです。リトルエンジェルス芸術団のライブもついてました♪ もの凄くPrestigiousなグループらしく友達も子供の頃入りたかったらしいです。

2013年9月:9ヶ月にして、オックスフォード大学全38カレッジを制覇する。成果はここに。定年間近の教員にすら驚かれるこの快挙♪

2013年10月:Center for Global Developmentハーバード大学スタンフォード大学に、それぞれセミナー発表に招待していただく。初のワシントンDCなのに、アメリカ連邦政府閉鎖に伴い、観光が(涙)。ハーバードでの発表は、博士時代のアドバイザーがチェアをしてくれて、緊張するとともに、もの凄くアットホームなセミナーでした♪ スタンフォードもまた本当に至れり尽くせりでした。ありがとう。

2013年11月: マックス・プランク社会法社会政策研究所のミュンヘン高齢化の経済学センター(MEA)にホストして頂き(ちなみにMEAはアメリカのHealth and Retirement Study(HRS)、日本のJapanese Study of Aging and Retirement(JSTAR)と並ぶ、ヨーロッパのデータ、Survey of Health, Aging and Retirement in Europe (SHARE) を管理している所です。) ルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘンで発表させていただく。前年度の指導学生2人やミュンスターの時に出会った友人と再会できて楽しかった。またミュンヘンにあるTakumiというラーメン屋で、ただただ、そのクオリティーの高さに感動する・・・♪

2013年12月: 米開発系シンクタンク Center for Global Developmentの(非常勤)客員研究員となる。錚々たる顔ぶれの中にポツンと僕が・・・(汗)。ちなみにアジア初らしいです。またオックスフォード大学 医療経済学研究所、東京大学経済学部実証ミクロセミナーでそれぞれ発表する。オックスフォードではクリスマスが近かったので、クリスマス・ギフト貰えた~♪ また僕の「健康の権利」の論文のグラフが、ピューリッツァー賞も受賞した科学ジャーナリストで、現在、外交問題評議会でシニアフェローを務めるローリー・ギャレットさんのブログで取り上げられる。いぇい。サインもらえないかな・・・。

2014年1-6月: 1月にロンドン・スクール・オブ・エコノミクス、2月にインペリアル・カレッジ・ロンドン、3月に京都大学、4月にマンチェスター大学、5月にパリ第一大学パンテオン・ソルボンヌ校にて発表。その間、国際連合開発計画のコンサルタントとして、統計分析の外部レビューを行い、本年度の人間開発報告書でもAcknowledgeして貰ったり、前年度訪ねたルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘンの経済学部と関係のあるCESifo Group MunichのDice Report (Journal for Institutional Comparisons)から招待を受け、僕の博士課程での一連の研究のまとめっぽいものを書かせて貰ったりする。

2014年夏:教員としては無事退職出来た(同僚に餞別としてオックスフォード100年前写真集を頂きました♪)ものの、教員用プログラムPGDipLATHEの卒業論文が終わらずオックスフォードに居残り。博論のトラウマを思い出しながら、泣きながら仕上げる。何とか終り、8月26日には、無事スペインのトマト投げ祭りへ、風邪をひくも(エボラではない)、そのままポルトガルのリスボンにエッグタルト発祥の店、パステル・デ・ベレンにエッグタルトを食べに行く(これは15年来の夢)。卒論を提出し、晴れて自由の身に。アイスランドにオーロラを見に行く事にする。オーロラの活動はアクティブな物の運悪く火山の一個が噴火し、そらが雲に包まれ、結局見えず、寒空に毎夜毎夜曝されたせいか、風邪が悪化する・・・・う~・・・。

2014年9月:エラスムス大学、米コロンビア大学、米イェール大学にて、それぞれ、医療経済学、環境意思決定学、グローバル正義のセミナーに呼んで頂いたので、それぞれ発表。コロンビアに寄ったついでに、15回目のNYにして、念願の自由の女神を見に行きました。もうこれでアメリカに悔いはなし・・・。イェールではクッキングクラブの友人と12年ぶりに再会。僕にヘブライ語で、「テーブル・サッカーしようぜ」って言葉を教えた張本人です。

東京・厚木 (2014~)

2014年11月:13年ぶりの日本で、神奈川県厚木市にある松蔭大学の副学長としてスタート。目標は、日本にありがちな「賢い学生に教育してるフリしてる施設」をつくる事ではなく、教員がちゃんと研究して、ちゃんと教育する大学をつくる事。そんな、あたり前の大学(意外とない?)を日本で作りたい。ハーバードとオックスフォードでしか教育経験ないけど、初めから賢い学生なんて誰でも育てられるので、自分が教育した事で伸びる学生を実感出来たら、この選択は成功なのだと思う。イギリスのエディンバラ大学のGlobal Health Academyのポジションと、アメリカのシンクタンクであるCenter for Global Developmentのポジションは今後も継続に。とりあえず、最初の1週間は、やる事がなかったので、6ヶ国語でHP作ってみました。どうでしょう?これを見た国の大学から早速、協定のオファーが来たり♪

2014年12月:北京大学にて、今までの総括として、”The Effect of a Right to Health or to Health Care on Population Health: Theory and Current Evidence"と題したトークを行う。大学は綺麗だったし、お土産まで頂くし、至れり尽くせりって所でしょうか♪ その時の話は北京大学经济与人类发展研究中心のHPに掲載されています。

2015年1月: 出身学部のDepartment of Global Health and Populationが、IDEASの「医療経済学」ランキング17位まで上昇している。1位のNBER、3位のMIT経済学部、7位のハーバード経済学部、10位のハーバードケネディースクールには及ばぬもののIZA、コーネルPAMとほぼ同位。これは立派。「高齢化の経済学」ランキングでは、なんとMIT経済と並んで6位に・・・。グッジョブ!

2015年3月: 「松蔭大学学術コミュニティーの一員としての誓い(Shoin University Honor Code Pledge)」を作成。入学者全員にサインして貰う事により、入学時から大学と学生の契約関係を明らかにし、コピペなどの学術不正に対して厳しい罰則が加えられるようにした。また、ヘルシンキ宣言に則った研究活動に関する倫理委員会および支援室の構築および整備に関する規則を作成。数年後、東名厚木病院で研究倫理委員会の委員になり、その知識が活かされる。 4月1日:松蔭大学学術総合センターが開設。センター長に就任。今後、大学における学術研究を引っ張っていく事となる。

2015年4月: 結婚する。引越しする。車で通勤するようになる。

2015年5月: 持続可能な開発目標(SDGs)インタラクティブ・ヒアリングのため国連総会へ。日本からの参加は我々1校だけっぽい。大学としては、目標11「包括的、安全、レジリエント、かつ持続可能な都市および居住区の実現」への協力を目標とする。

2015年7月: 国連大学世界開発経済学研究所のコンサルタントとなる。 

2015年8月: NBER Japan Projectに出席。食べ物がおいしい♪ 来年こそは発表しようと心に決める(達成できず)。

2015年9月: シンガポール国立大学オーストラリア国立大学にそれぞれセミナーに呼んでもらう。特にオーストラリア国立大学では、向こうの副学長(元同僚)にカンガルー肉を食べさせてもらう約束をしていたので、その約束を果たして貰って大満足♪ ただ、オーストラリアが冬だと知らず、Tシャツでうろうろしてたため、風邪を引く(レイキャビクの秋みたいな天候だった)。また、大学として、国連アカデミックインパクト(UNAI)、国連世界観光機関(UNWTO)、国連人間居住計画(UN Habitat)、持続可能な開発目標解決ネットワーク(SDSN)に加盟。後者の三つは、日本の大学で初っぽい。さらに協定校が正式に2校追加。文化祭にて「厚木市と持続可能な開発目標(SDGs)」のタイトルで講演する。

2016年:2月は、国連大学世界開発経済研究所シンポジウム「途上国における社会保障の政治経済学」に招待され、まずメキシコへ。ついでにメキシコ国立自治大学法学研究所でセミナー発表。その2週間後、イギリスに飛び、ロンドン大学衛生学熱帯医学大学院に招待してもらい発表。その後、オックスフォード大学でPGDipLATEの修了式に参加。英国高等教育アカデミーのフェローとなる。4月には、長男由眞誕生。日本高等教育評価機構大学評価員となる。11月には結婚式を挙げ。12月には、日米先端科学シンポジウムと言う様々な分野の日米の有望な若手研究者が交流する会に招いて貰い、米国科学アカデミーへ行く。その後、マサチューセッツ工科大学のセミナーに呼ばれたので、ボストンへ。顔を出さないと怒られそうなので、ハーバードにも顔を出すと、そこには激やせに成功し、ハリソンフォードみたいになった指導教授・・・(汗)。

2017年1~3月:大阪大学にて、病院の歴史ワークショップに参加。英Child Abuse Review誌、英Sociological Research Online誌編集委員に任命される。

2017年4月:観光メディア文化学部長を兼任する。由眞をひいおばあちゃんに合わせるため、テネシーへ。帰りにヴァンダービルト大学により、医療経済学・政策セミナーにて発表する。ついでにハーバード1年目の時にヴァンダービルト大学に移籍してしまったキップ・ビスクイジ教授と再会。

2017年7月:英Child Abuse Review誌のインパクト・ファクターが急騰。社会政策分野で9位の雑誌となる。Top10ジャーナルの編集委員になると言う目標達成。僕の授業「持続可能な開発目標と国際社会」が持続可能な開発目標解決ネットワークが主催するSDGアカデミーの大学パートナープログラムの初年度10校のうちの1校に選ばれる。

2017年9月:カリフォルニア大学バークレー校の観光学セミナーで発表。コロンビア大学のICSDで、自然災害の経済学と人口学のセッションのオーガナイザーをやる。

2018年2月:シカゴ大学の医療経済学セミナーおよびマギル大学の人口動態セミナーで発表。ミシガン大学でのセミナーは雪で中止。サンドイッチだけ食べて帰る・・・。

2018年9月:ペンシルベニア大学リスク研究所およびチューリッヒ工科大学の科学技術政策研究ユニットで発表。コロンビア大学のICSDで、自然災害の経済学と人口学のセッションのオーガナイザーをやる(2年目)。

2019年3月:日本高等教育評価機構における第三者評価で不適合判定。入学定員の削減より、学生数を増やす方が早いとの判断だが、審査委員会を逆撫でしたっぽく、初回では指摘されなかった法整備の不備を再審査で指摘される。まあ、実際、入学定員の50%は切ってる訳だし、その場合の審査基準は、学生数増加のための対策ができてるかどうかなので、審査委員の主観的な判断が優先されるのは仕方ない。ただ、このペースで増加していれば、数年後には確実に満たせたし、黒字化も容易にできる。しかも財政面では近隣の大学よりだいぶ恵まれてるので、経営上、問題ないはずなんだけどね。ただ、自分自身も当機構の審査委員なので(審査基準を知ってるのは自分が審査委員だから)不適合には多少の罪悪感はある。(追伸:ちなみに入学定員の方は学生数が急増し1年後、あっさり満たしてしまった。審査委員、自分達の見る目がなかった事を反省せい。)。トロント大学医療経済学研究所のセミナーに呼んで貰い発表。

2019年6月:世界保健機関(WHO)Global Health Histories Seminarの日本開催、最初のスピーカとして、恩師の鈴木晃仁先生と共に登壇する。原稿を読むタイプの発表は初めてだったので、がちがちに。

2019年9月:国連世界観光機関の世界観光倫理委員に当選。歴代最年少。国内では初代観光庁長官 本保芳明氏以来2人目の日本人の就任らしい。就任当初は恐縮していたが、翌年、新型コロナウィルスが蔓延した事により、公衆衛生と観光の知見が重要視される事になり、積極的に発言できるようになった。

2020年1月:ノースカロライナ大学チャペルヒル校とデューク大学が共催するTriangle Health Economics Seminarで発表。その後、PPEの学生からインタビューを受け、健康の権利や感染症対策について解説する。

2020年7月:新型コロナウィルス蔓延下での初の学期を終える。外部からウィルスが持ち込まれたものの学内での新規感染はゼロ。他校と比べると、濃厚接触者のトラックを重視した事に特徴があると思う。

2020年11月:92カ国の賛同を得て「渡航客保護のための国際規約」の策定のための政府間委員会が発足。世界観光倫理委員会の代表としてオブザーバー参加する。新型コロナ後の不確実性の高まった世界における国境を越えた移動に影響を与える重要な国際的枠組み作りなので頑張りたい。コロンビア大学のICSDで、自然災害とパンデミックの経済学と人口学のセッションのオーガナイザーをやる(4年目)。

パドヴァ大学で開催されたInternational Conference on Data-driven Human Rights Researchにて発表。また、日本子育て学会にて「緊急事態における迅速評価と新型コロナウィルス」を報告。

2020年12月:International Journal of Social Welfareのアジア代表の編集委員に。

2021年1月:1916年創刊のBiodemography and Social Biology誌の編集長のお話しを頂き、引き受ける事に。母体となっていたアメリカの学会が2018年に消滅した事、出版社と編集長の関係の悪化などが原因で、後任探しに難航したっぽい(実際、同誌は、2014年には人口学で9位の雑誌でしたが、2018年には16位まで落ち込んでいます)。これまではアメリカの雑誌だったけど、これを国際的なジャーナルとして再出発させるのが、僕のお仕事っぽい。104年の歴史の中でアメリカ人以外の編集長は初めてで、初代編集長がプリンストン大学人口研究所の創設者だったり、直近二人の編集長がアメリカ人口学会の会長務めてたり、編集委員の中にはこの分野のトップジャーナル”Demography”の編集長がいたりと、これ怖くて誰も引き受けられないよね・・・みたいなレベルですが、日本人で人口学のそれなりのジャーナルの編集長になった人って、未だ一人もいないので、とりあえず挑戦してみる事にしました(この結果、日本人の学術誌編集長としては、人口学と社会学分野で1位、生命医学社会科学でハーバードのカワチ先生に続き2位になりました)。創刊時は、優生学のトップジャーナルだった事もあり、負の歴史も背負っておりますが、それ自体が人口学の発展の歴史に他ならない事、遺伝子データを収集する社会科学的調査は年々増加しており、(遺伝子決定論に陥る必要はないものの)その影響を否定する立場がもはや科学的に可能と言えない事、であれば、人権とポピュレーションヘルスの研究者としてこの分野に参入する事で将来の仕事の幅が広がる事を総合的に考慮して判断しました。頑張る。

2021年5月世界観光倫理員会から、COVID-19証明書(ワクチンパスポート、陰性証明を含む)が満たすべき倫理的指針に関する勧告を出す。その後の半年は旅行者保護に関する国際規定策定のための政府間委員会に、世界観光倫理委員会の代表として参加。まさか、自分がこの年で準国家(国民9人?)の代表になってしまうとは・・・。12月には、無事、総会で同規則が採択され、僕の提案したChapter 3 Part I-IV-5もそのまま採用。国際法の世界に足跡を残す🐾

2022年:Demographic ResearchのAssociate Editorに就任。厚木市の観光推進委員会の委員長に就任。

2023年:4月は母校ノースウェスタン大学工学・応用科学大学院で「土木・環境工学者のためのグローバルヘルスと持続可能な観光」の講演後、米国人口学会に初参加。10月には国連世界観光機関の世界観光倫理委員の任期が終わる。カルロスIII世大学の経済史セミナーで発表。11月に世界保健機関が新設する二つの技術諮問委員会(「環境・気候変動・健康の経済学に関する技術諮問委員会」「健康・気候変動政策に内在する倫理に関する技術諮問委員会」)から同時指名される。奇しくも、気候変動分野において、経済学と倫理の二刀流というアマルティア・チックな立ち位置となる。

2024年:日本高等教育評価機構における第三者評価で適合判定。5年前の雪辱?を晴らす。さすがに学生数2倍くらいになってるからな。