知恵がないと真実の世界を考えることができませんが、知恵を持ちすぎると、優劣に溺れます。
仏の智慧をいただくとは、知恵そのものを相対化して、人間とはかくも愚かなものなのだ・私はその代表のようなものだと見つめ直せる豊かさを「知る」ところにあります。
今回は、浄土和讃の48です。
「総結勧信」と呼ばれる四首の御和讃の最後です。いよいよ浄土和讃のひと区切りとなりました。
仏慧(ぶつえ・〝ぶって〟とも発音します)は仏の智慧・仏さまの「ちえ」です。
仏教では「ちえ」について、仏の場合「智慧」と書き、人は「知恵」と書きわけます。翻訳の原語がそもそも違うからです【智慧(prajñā・プラジュニャー)・知恵(jñāna・ジュニャーニャ)】。
さて、これは以前にも書いたので復習になりますが、私たち人間の「知恵」は、知は矢+口で「言葉が的を射るように要点を言い当てる意」、そして恵(惠)は「糸車」を表し、ここから「しっかりとした要点を我が身に糸車のように巻きつける知恵」を意味します。つまり、知識量ですね。この「知恵」のおかげで高度に文明が発達し、文化的生活を送れるようになったのですが、実はこれだけでは決定的に不足していることがあります。それが仏さまの「智慧」です。
智は知+日で「知のひらめき」、慧は「2本のほうき(箒)」の意味です。知恵は勿論大切なのですが、知恵をたくさん身につけただけだと、知識量を誇るだけの、哀れな生き物に成り下がってしまいます。本来、恵は「めぐむ」とも読みます。だからお互いに得た知識を分かち合って豊かな社会を作るべきなんですが…人間ってなんでこんなにお互い比較し合うんでしょうね。だから人の知恵を「超えたひらめき」と、知恵だけにしがみつかないよう、何が人生にとって大切かを仏の力によって「啓(ひら)かれる」ことが必要なのです。
…この度の感染症拡大でもはっきりしましたが、どれほど知識量があっても、人の選ぶ知識には必ず「偏り」があります。これをバイアス(心理学の用語)と言います。人間にはバイアスが実に60種類もあって、人間はバイアス抜きに生きられないとも言えましょう。どんなに注意しても無意識に好きな情報を選び、嫌いな情報には耳を塞いでいるのです。そうして互いを「フェイク・嘘つき」と罵り合うようになります。これは今や、世界中で見られる光景・そして問題となっています。
今、仏の智慧は、〝箒を表す〟といいました。箒で掃くということは、すなわち掃除です。それを2本も使う「慧」とは何か。ここで仏教は掃除の本質を教えてくれます。掃除はもちろん、いらないものを捨てることなのです。でも本気で掃除をするとわかりますが、本当は「必要なものが散らかっている・そこにいらない埃やゴミが溜まっている」のを整えることが掃除です。
いわば、私たちはいらないもの、と言うより、必要なものが多すぎて手に余すことが日常なのです。だから智はそのことに気が付く・ひらめく。慧は、必要なものを整理する・しがみつかずに手放すと言う意味でもあります。
これが、知識ならなおさらです。これまでの人生で得てきた知識。それはとても大事なものですが、私のバイアスで偏っている可能性もあります。それが他者を排除し、自分を尊大に見せています。それが人間の持つ根源的な苦しみなのです。だから少しだけその知恵を横に退けて、生まれたまま・いのちそのものの地平にある、本当に大切なひらめき(智)に出遇おう、という呼びかけです。
自分が得てきた狭い見識を「信じ」、人を見下したり遠ざけたりする人類は、つねに互いに深く傷つきあい・傷つけあいます。そんな知識は所詮はこれまで身に巻き付けただけのものです。しかもちょっとバイアスで歪んでます。そうか、そうだったのだ、そもそも自分自身、ロクでもないのだ、さらに人間全般もお互いそうかもしれぬと、仏の眼差しをお借りして、個の視点を「疑う」ところが、浄土真宗の信心のスタートです。
親鸞聖人は「信心を得る」体験に、自身が積み上げてこられた知識そのものを疑い、否定することから出遇われました。
仏教の智慧は、お経をたくさん覚えることでもなく、修行をたくさん修めることでもなかったのです。でもお経をいただき、修行をすることがないとこれまた同じ地平には立てません。
相矛盾する人と仏の「ちえ」。知恵・知識の多少によらず、誰しも皆「仏さまの智慧に心配されているという功徳」に気づき、手を合わせ、南無阿弥陀仏と称えること。そのことが大切なのであって、それを和讃では「仏恩」と表現され、十方の有縁、つまり世界中の人に伝えなければ、とおっしゃるのです。
まさしく、浄土和讃の締めくくりにふさわしい御和讃だと思いませんか。
(翫湖堂・2021年7月号所収・web用に再編集)