あんたも おこつになるよ いきとるんか うごいとるんか どっちや 〜ふじい じとう 〜
藤井慈等先生は以前、「妻は坊守として、私は住職として、それぞれが仏法を聞いてきたという思いに立っていましたけども」と振り返り、妻が病床に臥した時の「(死を)侮(あなど)っとった」という一言で、仏法を「我がごと」としてきくことがどれほど難しいかを思い知ったと告白しておられる(真宗会館・言の葉サイトより)。
大切な人を見送った後、私たちはご法事をご縁として自分自身を見つめ直す。今はすっかり見なくなったが、昔は御命日を「御“明”日」と表記したという。生を明らかにする日の意味だ。そもそも、なぜ一周忌を二回忌と呼ばないのだろうか。それは死者の記憶を起点として、私自身、年月を〝一周〟して、さていかがかと自問自答するためではないだろうか。
私たちは「生きて・活動している」。だから生活という。だが今、その「活動」さえ豊かならばそれで「幸せ」と錯覚させるような綺麗ゴトが世間には溢れている。本来コロナ禍で思い知らされ、そして忘れてならなかったことは「私も(いつかは必ず)お骨になる」という事実であろう。そこから、やがて未来に終えてゆくであろう生の厳粛さを、深く「我がごと・私の問題」と考えるべきではないのか。
そしてそれ以上に問い続けないといけないのは、今まさに、そのイノチをちゃんと「いま、生きとるのか」。それとも、モノとコトとカネに踊らされて、ただ「動いとる」だけなのかということである。私の人生は一度きりだというのに。
コロナ禍で時間がもったいないと、職場の寮仲間で筋トレがブームになった。NHKで“筋肉は裏切らない”という言葉が流行したように、筋トレは苦しく厳しいが、その分「健康」という楽しみが待っている。
実は精神にもトレーニングが必要であって、それは「私はなぜ生まれてきたのか」「私はどう生きるべきか」「人生の意味とは何か」と妥協することなく問うことである。しかしどうだろう、現代は「日々の生活」と「精神の探求」が混同され、人生の厳しさといっても目先の金もうけや人間関係の苦労ぐらいにしか興味がなさそうだ。多くの人が自分自身の内面と本気で向き合う厳しさから逃げ、安っぽい感動を求めたり、安易な言葉にすがりつく。そして、自分を深く問うことをしないからこそ、何か問題が起きれば他者に転嫁し、辛辣に責め立てている。
先日、コロナ禍に寄せ「そもそも不安はなくならないものだ」という一文を書いた。すると「厳しすぎる」「優しい言葉が欲しい」などというご意見をいただいた。日常生活ならまだしも、人生の事実に対して真剣に考えるとき「大変だったね」と撫でてくれるような思想は偽宗教・偽哲学にすぎないと申し上げたい。それらは精神に贅肉をもたらすだけで、まことの生の喜びからは遠ざかるばかりである。
まことにもって にんげんは いずるいきは いる をまたぬ ならいなり 〜れんにょ しょうにん〜
人間は呼吸をして生きていることを皆知っている。その呼吸はいつか止まることも知っている。しかし、その日がいつのことなのかは、誰も知らない。全く当たり前のことなのに、私たちは普段それを見ようとせずにいる。蓮如上人が御文でおっしゃるように、私たちは出した息を必ず吸える保証を持たない。生を受けたからには、いつか「帰る」身を生きているのだ。
昨今の「世界同時鎖国」と表現されるコロナウイルス騒動。これが昨日まで文明社会とやらを生きてきた私たち人間の真の姿だ。それほどまでに「その日への備え」が一切できていなかったのである。生と死を憶念することもなく、つい今の楽しみばかりを追いかけてしまうのが私たちの悲しい性なのだ。
そもそも人は病いで死ぬわけではなく、もとより死ぬ身を生きている。それが如来真実である。蓮如上人はさらに「人びとはただ、目の前の人生について、いつまでも生き延びられるように思い込んでいるようである。浅ましいというよりも愚かとしか言いようがない(取意)」ともおっしゃる。
「生の終わりを見つめながら今を意識して生きる」大切さと難しさを教訓としなければならない。逃れられない生死の真実を受け止め、今をどう生きるかに気づかせてくれる教え。それこそが私たちが拠り所とすべき「本尊(本当に尊いもの)」なのだから。
ただしさは にんげんからは なりたたない ただしさは あたえられる もの 〜いけだゆうたい〜
私たちが話し合い、議論する時には必ず双方で「立場」をもつ。
例えばAさんにはAさんの、BさんにはBさんの立場があって話をすることになる。ということは互いに川の対岸に立って議論するようなもので、自分の「正しさ」を抱きしめているが故に、どれほど努力したとしても、双方の歩み寄りは起きない。
考えればわかるようなことだけれど、人はそれに気づかなくて、友人・家庭・地域・国家で争いを起こす。実は家庭内問題も国際問題も結局同じこと。「自分の正しさを握りしめて相手を殴りつける愚」が根底にあるのだ。
では真実の正しさはどこで得られるのか。それはお互いの「偏り」を教えてくれる眼に照らされるしかない。
人である以上、AさんもBさんも双方に正義の思いはあるだろう。けれどもその正義自体が、必ず自分目線に思考する偏りをもつもの。偏りを知らしめ、気づきを与えてくださるはたらきが真実である。
南無阿弥陀仏は一見、頼りないように見えるだろう。だがそれこそが偏った自分の正義に気づけよ、という真実からの呼び声そのものである。