次回に詳細に記しますが、阿難が見たお釈迦様の威光・つまりお釈迦さまが光り輝いて見える相(すがた)は、阿羅漢の悟りを得た人しか見えない光だったのです。でも阿難はその光を目にした、とお釈迦さまに告げます。今回はそういうシーンですね。
今回は、浄土和讃の49です。
浄土和讃の「大経意(だいきょうのこころ)」と呼ばれる御和讃に入ります。
「大経」とは三部経の一つ「仏説無量寿経」を指します。「双巻経」の別名を持ち、上下二巻からなる長いお経です。現在、大谷派では「抄」といって「要点を選んだ読み方」をします。ですから、さほど長くは感じられないかと思いますが、そもそも丁寧に拝読すれば2時間近くかかるお経です。
さて、この大経を親鸞聖人は「それ、真実の教を顕ささば すなわち大無量寿経これなり(真宗聖典152頁)」、つまり「真実の教えはこれだ」と大切にされ、ご著作にも多くの引用をされています。その上「なぜ真実の経典なのか」と言うことについては極めてピンポイントかつ明快に記しておられます。
そこが今回から続く一連の御和讃で詠われるシーンです。
和讃中の“尊者阿難”とはお釈迦様のお弟子の名前です。尊敬して尊者という敬称がつくのですね。阿難は生涯、お釈迦様の身の回りのお世話をし、お釈迦様の言葉を丸暗記するという、驚異的な記憶力を持っていました。なお現存する「仏説」と付くお経はすべて阿難の記憶力のたまものです。
ところが阿難は、それほどの記憶力を持ちながらも、お釈迦様が生きておられるうちに「阿羅漢」という悟りの位に至ることができませんでした。
なぜなら阿難は多くの言葉を覚えることは得意だったのですが、その言葉の意味する内容を阿難本人が充分受けとめきれていなかったからです。
これは現代の私たちにも通じますよね。「たくさん知識を持っている人」は評論家とか大学教授などの専門家などに多くおられます。しかし知識量と人間性は必ずしも比例するとは限りません。実際、本当の知識人になればなるほど、そういうことを逆におっしゃる方は多いです。「自分の努力だけじゃどうにもならない・いっぱい覚えているだけじゃ意味がない」と。
さてさて、ある日、阿難はお釈迦様のお姿を見て、座より立ち、尊敬の念を示して、「今日はお釈迦様のお顔はいつになく素晴らしく光り輝いておられますね」と声をかけたのです。それが「座より立ち」「世尊の威光を瞻仰し」です。
阿難が目にしたお釈迦様のお姿は「光顔巍巍」、つまり悟りの光で包まれていたと言います。清らかな鏡のようでもあり、それでいて威厳があり、見たことがないような輝きでした。阿難は「こんなお姿を曾(かつ)てみたことがない(未曾見)」と驚いたのでした(でも実は、本当に驚かれたのはお釈迦様の方なのですが)。
親鸞聖人はこの「出遇い」を本当に大切にされています。
その時、阿難は思いました「今日のお釈迦様はいつになく光り輝いておられる。どうしたことだろう」と。そこで思わずいつもの座より立ち上がって、そのことをお釈迦様に伝えたのでした(座よりたち)。これは「大無量壽経」に記されているお話です。
実は阿難が驚いているいっぽうで、お釈迦様は内心もっと驚いていました。阿難が見たという光は、そもそも悟りを開いたものしか見ることができない光だったからです。「もしや阿難は希有の心を生した(悟った)のだろうか?と。
そこでお釈迦様は阿難に2度尋ねます。「自らの知恵のまなこでその輝きを見たのかね」「それとも誰かに聞けと言われたのかね」と。それほど阿難がお釈迦様の光を見ることは難しいことだったのです。ところが当の阿難は「見たままを申しております」とキョトンとしています。
実は親鸞聖人は大経のこの部分こそが「真実のあかし」だとおっしゃいます。事実、教行信証の「教巻」はここだけが繰り返し記載されているといっても過言ではありません。
なぜここが「真実」なのでしょう。それは私たちと真実との関係にあります。私たちの側から気づくことも、触れることもできないのが本当の意味での「真実」です。昨今、テレビや作家が使う「真実」という言葉は軽すぎます。なぜなら物事の内面や背景はどれほど言葉で尽くしても語りきれませんから。
私たちが知ることができるのはそのままに明らかにする、つまり「事実」だけ。事実関係しかわかり得ないのです。そしてさらに、私たちは常に自分の都合でものごとを見ます。それを「現実」と言います。これが私たちなのです。
ところがこの後に続くお経のシーンでは、悟りを開いた釈尊から、阿難よ、お前は悟りを開いたに等しいのだ、と驚きと喜びをもって「承認」されています。現実サイドから真実を見ることはできませんが、真実からは常に私たちを見られており、どれほど真実から離れていたとしても、心の向きによっては、真実から認めていただくことはあるのです。
このことを親鸞聖人は感動を持って受けとめられたのですね。
(翫湖堂・2022年1月号・2月号所収・web用に再編集)
※今回は2号分ということで長文になりました。最後までお読みくださり、ありがとうございます。