「信心」はどこの宗派でも、どこの世界宗教でも必ず課題になります。でも浄土真宗の信心への概念は、世界唯一だとおもいます。
なぜなら「信じきれないこの私の愚かさを信じる」ことで、豊かさ・真実の側からの呼びかけに気づく、という構造ですから。心そのものを分析したり見つめるわけではありません。
今回は、浄土和讃の47です。
「総結勧信」と呼ばれる四首の御和讃の三首目です。
信心を「歓喜」するとは〝予(か)ねてよろこぶ〟つまり事前によろこぶことです。続く「慶所聞」は〝得てのちによろこぶ〟という意味です。だから信心を得る前も、また得てからもよろこぶことがあるのだよ、ということです。浄土真宗の根本は、「信心ひとつ」なのですから、ご信心の喜びをお伝えすることは当然のことです。
ただここで考えなければならないのは「信心」とはなんであろうかということです。
浄土真宗でもっとも大切な「信心」。ただ、信心ほど考えても考えてもわからないものはありません。「仏を信じる心」というものの、徹底して厳密に考えて、〝信じている〟という〝その心〟、本当の本当に、一点の曇りもないでしょうか。むしろ真正直に、真剣に見つめれば見つめるほど、怪しくなってくるのではないですか。
それこそ宗祖・親鸞聖人が一生をかけて見つめ続けられた「人間の側から信じる」問題点・内実です。実は私たちはどこかで必ず常に、仏を疑い続けているのです。調子の良い時は信じているふりもできますが、一たび思い通りにならないことが起きると「神も仏もあるものか」と仏を恨み、批判すら平気でおこなうものです。コロナ禍が良い例です。
浄土真宗は易行難信と言われます。お念仏の行は易しくとも、信を問い始めるとたいへん難しいという意味です。私たちの根性は、それほどまでに徹頭徹尾「自分ファースト」にできているからです。
宗祖のお言葉に「真実信心必具名号(しんじつのしんじんは かならずみょうごうを ぐす)」とあります。〝真実の信心を得た人は必ず口に南无阿彌陀佛と称える〟というのです。すばらしいですね。しかしこれで終わらないのが「我らが宗祖」です。続く言葉に「名号必不具願力信心也(みょうごうはかならずしも がんりきのしんじんを ぐせざるなり)」と仰います。これは〝南无阿彌陀佛を称えたからと言って必ずしも弥陀願力の信心を具えておられるとは限らないよね〟という意味です。人のココロの本質をズバッと言い切られます。
〝信心がある〟といえば徹底できません、とはいえ信じたい心は誰の心にもあるもの。だから信心を「私が起こしている程度の深さ・浅さ」で考えてはならないのです。
「如来様の側から願われ、いただいた信心」として、南無不可思議光仏、と常日頃、返すがえす「頭面に礼」する謙虚さを忘れないこと。そしてお念仏申して、我欲による心中の曇りがないかと、毎朝毎晩、その私の心の曇りを拭き続けなければならないのです。
残酷なようですが、私ごときに一点の正義もないと自覚できたときに、阿弥陀様の側から包まれる。それが浄土真宗の「信心」です。
乃曁(ないかい) は、〜に至るまで、つまり一念にまっすぐな至心者(信心を獲得した人はすべてに至って)という意味
(翫湖堂・2021年7月号所収・web用に再編集)