むかし、亡くなられたかたのお家に呼ばれたら、玄関に逆さまにされた屏風が置いてあり、布団の上に守り刀が置いてあったことがありました。
気持ちはわかります。人が亡くなるということは「めったにないこと」にしたいですよね。だからといってめったにないような「逆さ屏風」をしても死の事実は遠ざかりません。
また、亡くなった方を魔物から守りたい、と短刀を置くのも意味がありません。生前、南無阿弥陀仏を称えておられた方は「時剋の極促(教行信証)」、つまり一瞬・一刹那で、もう、阿弥陀様の手の中に居られるのですから。
今回は、浄土和讃の46です。
「総結勧信」と呼ばれる四首の御和讃の二首目です。
浄土真宗の門徒さんのことを、昔から他宗では「門徒もの知らず」と呼ばれることを知っていますか?
「もの知らず」は「物忌(ものいみ)知らず」なのだ。浄土真宗は物忌みしないから。などと解説する方もあるようですが、私はむしろ本当に「物知らず」と呼ばれていたのではないかと思います。
これは文字通り浄土真宗では「物忌(ぶっき・ものいみ)」をしないことから来ています。たとえば、亡くなった方がお盆に帰ってくるから乗り物を作って用意して、迷わないように火を焚いたり、あるいは亡くなったかたが穢れているといって塩を撒いたりする…これらをすべて仏典の意義に沿って、あえて手放してきたのが浄土真宗の歴史でした。しかし、他の宗派の方からみれば「なんでやらないんだ」「そもそも物忌を知らないのか」ということになります。これが物忌みしらずの詳細な説明です。
いっぽう「物を知る」ということは、世の中のしきたりやおこないをたくさん覚えているということです。そういう人は賢者の扱いを受けます。ただどうでしょう。たとえば、日本では当たり前のことでも、海外に行けば当たり前ではない、ということはよくあります。当たり前・常識とは、場所と時代によって移ろい変わりやすいものなのです。
浄土真宗の教えは「お念仏を申すこと」、これひとつです。念仏するからといって賢い人と尊敬されることもなければ、卑下する必要もありません。南無阿弥陀仏と申すことで仏の世界と直接通じ合えることはあっても、人間が付け足した都合や価値観・作法などには振り回されないのです。私たちの先達は、念仏一点を軸足に、時代の常識すら問い直してきたのです。
だからお念仏以外のことは全て「雑行(ぞうぎょう)」と名付けて退けられました。
亡くなったかたは迷うことがありません。仏の世界に帰られたのですから。亡くなった方は穢れてなんかいません。私の大切な人生を先んじて歩いてくださった菩薩です。こうして世間一般のしきたりにとらわれなかったので、世間から逆に「物知らず」と呼ばれたのでしょう。これはお経を人生の軸足にして生きる、高度に哲学的・精神的に豊かな生活態度です。
世の中は目に見えない決め事だらけです。特に葬儀や法事のしきたりには意味のないものが多くあります。私たちの先輩はその都度「それは、ほんとうにお念仏をお称えするにふさわしい行事かどうか」を、ひとつひとつ確認してこられました。
だから浄土真宗では盆提灯もなく、六曜など迷信もありません。守り刀も不要ならば、逆さ屏風や一膳飯、茶碗割りもいたしません。
この生き方こそが和讃にある「無碍人=とらわれない生き方をする人」です。念仏を人生の中心に据え、苦しみ多き現世を同行とともに生きてゆかれました。「弥陀の浄土に帰」する、「諸仏」の生活です。諸仏は無碍人を我が親友とほめてくださるのだと御和讃には表現されます。
さて、現代ではぎゃくにやすやすと、古いこと・行事ごとを安易に切り捨てたり・止めたりする状況をよく見ますが、果たして先達がなされたように、時の経過に耐えられるような哲学的・深みのある問いや検証はできているでしょうか。いささか、不安に感じます。
(翫湖堂・2021年1月号所収・web用に再編集)