シド・サクソンを追悼して
世界中のゲーマーが思いを分かち合う
REMEMBERING SID SACKSON: GAMERS SPEAK
世界中のゲーマーが思いを分かち合う
REMEMBERING SID SACKSON: GAMERS SPEAK
シドと献身的な妻のバーニスは、ニューヨーク、ブロンクスの特徴のない地域にある小さな一軒家に住んでいた。その家にたどり着くことはほとんど不可能だった。バスも地下鉄もアーノウ・アヴェニューなど聞いたこともなく、そしてそこに車でたどり着こうとする人は皆、一方通行、間違った道、道なき通りによる混乱を誘う迷宮を通じた苛立ちに満ちた冒険が待っていることを覚悟したほうがよい。
しかしながらその家の中は、世界の驚異の1つだった。信じられなく巨大なボード・ゲームのコレクションは全ての棚、生活空間の隅々、全ての隙間、そして巨大な地下室の隅から隅まで、床から天井までを占領していた。これは確かに人生をかけた大仕事であり、保存する価値のあるものだった。彼が語ってくれたのだが、シドの夢はこのコレクションが(おそらくはドイツの)博物館に収蔵され、そして彼自身は生涯そのキュレーターとなることだった。良い夢だ。しかしながら悲しいことに、それは実現しなかった。シドのコレクションは彼の死後すぐに解体し、オークションで売却された。
『ゲームズ・マガジン』誌における私の責務にはゲーム・レビューの章におけるマネジメントが含まれていた。よって私は新しいゲームならなんでも受け取っていたのだ。私はまた、シドが訪問してきたときにはいつでも、彼を楽しませるという愉快な責務も担うことになった。シドにとって私のオフィスは抗えない磁石だったのだ。そして彼は差別をしなかった。良いものも悪いものも、ゴミも宝も、全てのゲームに興味を持った。彼はそれらのゲーム全てについて喜んで、必要ならば背負ってまでブロンクスへと持ち帰ったものだった。ただし説明書についてはコピーをしなければならなかった。シドがいるときは、コピー機を使うことはあきらめることだ!
良い日々だった。この親愛なる男がいなくて寂しくなることだろう。
―― Burt Hochberg バート・ホッチバーグ / 『GAMES Magazine ゲームズ・マガジン』名誉編集者
非常に愛され、プレイされてきた多くのゲームの作者であるシド・サクソンが昨日、82歳で亡くなったことはもうお聞きだろう。
数年前、シドが病んでおり、シドにまとめて送るために見舞いの手紙を集めているという投稿をr.g.b【編注:ニューズグループrec.games.board】上で誰かが行っていた。私は『アクワイア』『キャント・ストップ』『カード・ベースボール』をプレイすることで過ごした多くの素晴らしい時間について彼に感謝する一文を書いた。
もし『アクワイア』がシドの発明した唯一のゲームだったなら、彼のゲーム界への貢献は単なる巨大なものであるだけにすぎなかっただろう。
昨晩、おそらくシドが出発した頃、私は彼のゲーム『サマルカンド』(近年のお気に入りの1つ)を2人の新規プレイヤーに対して教えていたところだった。ゲームは熱狂的な反応で迎えられた。
シドが去った先がより良い場所であり、そこでも熱狂的な歓迎を受けていることを願う。
―― Steven C スティーブン・C
私は光栄にも、シド・サクソン発明人生の中でも全盛期に彼と知り合いになった。
私たちが初めて会ったのは1973年、シドのエージェントであるフェリシア・パーカー(彼女は私自身のエージェントにもなった)を通じてである。信じようと信じまいと、私はイエロー・ページからフェリシアを探し出し連絡をしたのだ。私はいくつかのデザインをまとめており、友人に勧められ、あとはやるだけやってみなければならない状況だった。私は全ての面においてとても世間知らずであり、ミス・パーカーがパーカー・ブラザーズ一家の人間であると考え、そしてサクソンが何者なのか全く知らないほどだった。フェリシアが彼を、アメリカで最も偉大なゲーム発明家として紹介してくれ、そしてその後、その肩書は十分にふさわしいものであることを私は知ることになる。
シドは口数が少なくとてもシャイであり、彼がどうやってデザインを始めたのか、フェリシアが語ることを許可していた。落ち込んだ子供であり(シドには多くの友人はいなかった)、自由時間のうち多くを数少ないゲーム・コレクションを1人でプレイするだけではなく、異なるゲームから駒を集め、それで新しいゲームを作ることにも費やしていた。お気に入りのゲームは『ロト』であり、それを彼はいくつかの異なる存在へと変形させ(その中には戦争ゲームも含まれていた)、そして最終的には『アクワイア』となった。シドが1つのアイデアに対してとことん献身するという点の証拠として、『アクワイア』は初版が印刷機からはき出されてから数十年後である現在においてもなお出版され続けている。
1973年から1982年の期間、私はゲームのデザインをやや活発に行っており、あまり大きくはない成功をいくつか収めていた。1番特筆すべきは『スーパー3』で、これはヨーロッパで50万個売れた。しかし私のアイデアのうち出版社の日の目を見るものはほんの一握りであった。巨匠と一緒にいる世間知らず。シドは多作だった。アイデアに次ぐアイデアが湧き出し、その全てが出版社の計画にそのまま沿ったもののように思われた。私は畏怖した。
ゆっくりと、私はなぜシドがここまで成功したのかを理解し始めた。まず、彼はおびただしい量のメモ魔だった。彼は常にメモ帳とペンを手元に持っており、私が彼と一緒にいるときはいつも、彼は何か書きつけなければならないものを発見していた。素早く動き回る極小のアイデアでさえも、シドは決して逃しはしないことが理解できる。即座に書きとめられてしまったのだ。彼はまた、自分がこれまでに買ったゲーム全てを保管しており、そしてそうすることによって信じられないほどのゲーム駒とボードのコレクションを持っていた。駒やボードたちを十分な時間ひっくり返していれば、それらと同じまたは似ている用具を使って、新しくそしてオリジナルな視点を持った豊かな創造力が喚起されるものだろう。シドはとても素晴らしくこれをやってのけた。既存のものから興味をそそる新しい視点を引き出したのだ。
パーカー・ブラザーズ社『キャント・ストップ』は明らかに彼の成功のうち最高の1つだが、このアイデアは手近にあるものによって簡単に組み合わせることができる。アイデアがどのようにして出発したのか、シンプルな11×11のマス目があればほとんど再現することができるだろう。ダイス2個によって作ることのできる数字を縦列にそれぞれ付与する。しかし2と12は7に比べて登場する頻度が低い、だからこの数字の道が短くなるように角を切り取ってしまおう。などなど。しかしダイス2個を使っていれば、あまりに頻繁に「ストップ」してしまう。それならダイス4個を試してみよう。達人にとって、過程はこんなにもシンプルなのである。
シドはまた、出版社自身によるアイデアを現実化するためにしばしば呼び出された。アイデアル社の『勝利のチケット』などがそうである。私が聞いた話では、アイデアル社は急成長する宝くじの魅力に対して投資をすることに興味を示しており、シドに対してこのテーマでゲームをデベロップすることを要求した。しかしながら宝くじはパブリック・ドメインであり独占アイデアではないことから、シドがアイデアを保護できなければ、アイデアル社は彼にロイヤリティを支払わないであろうことが予想された。よって、シドは自分のアイデアの特許を取り、アイデアル社はゲームを出版したのである。
私自身が控えめな成功により「プロフェッショナル」の領域へともう少しだけ深く足を踏み入れることになると、シドは私を応援してくれた。ある日、彼はアリと私をブロンクスにある彼の家での夕食に招待するために声をかけてくれた。私は1000分の1秒ほどでそれを快諾した。
アリと私は素晴らしい食事をごちそうになり、数時間にわたる会話をシドとバーニス(とても慈悲深い女主人)と行った。もちろん私は彼のコレクションを見せてもらうように頼み、シドはその要求に応じてくれ、私が驚嘆するその全ての瞬間を楽しんでくれた。簡単に言えば、私は吹っ飛ばされてしまった。私が大人になるまでに玩具店の棚で見たことのあるゲームが全てそこにあった。私は即座に、全ての箱を引き裂いて開き、中を凝視し賞味することで、私自身の思い出の光に浸っていたいという欲望に打ち負かされた。シドは完全に理解をしており、私がいくつかのお気に入りを開けることを喜んで許可してくれた。あの時間を忘れることはないだろう。どれほど興奮したことか!
私が別の仕事に引き寄せられていき、シドが歳をとっていくにつれ、私は彼の成功を遠くから断片的に追うようになった。ロング・アイランドでゲームを毎週プレイするグループに参加した後、ついに彼の作品は再びテーブルの上に登場した。数年前のある夜、私は彼に電話し、シドとバーニス両名をメモリアル・デイ午後のゲーム・セッションに招待した。子供を含めて25人以上の参加が予想された。私は彼が非常に衰弱しており、記憶が衰えていることを聞いていた。シドに敬意を表する日を1日でも用意することは、非常に重要なことのように思えたのだ。彼は即座に私たちの招待を受けてくれた。たしかに、シドに対する噂は真実であることが判明した。彼は弱っており、その心はかつてのようではなかった。しかし彼はそこにおり、全てに参加し、席を辞するまで6つのゲームをプレイしたのだ。私たちは最後に彼を『ゼニ!ゼニ!ゼニ!』へと参加させた。永遠の競争心。シドは自分のゲームで勝利したのだった。
シドの創作を発展させた要因が何であれ、それは我々がこの特別な娯楽形態を追及するようになった要因と同じものであるように思える。不況が国内を荒廃させる中、友達がほとんどいなかったというシドに関する物語が真実だとすれば、彼はおそらく人の相互作用に飢えており、そしてその結果は、彼の想像力による相互作用の世界となって我々に届けられた。そしてその結果は、我々全員の勝利なのでる。
シドは去ったわけではない。我々は、これから100年は彼のゲームをプレイすることだろう。
―― Alan Newman アラン・ニューマン / 『Super 3 スーパー3』『Babuschka バブーシュカ』『Tin Soldiers ブリキの兵士』等のゲーム・デザイナー
寒々とした2月のある日、シドと私はトイ・フェアの期間中に出版社のオフィスを周るために200フィフス・アヴェニューで落ち合った。70年代終盤の数年を除き、出版社は発明者を実に抑圧しており、トイ・フェア中においてもその冷遇は変わらなかった。シドはいつも、メディア用入場証によって入場していた。今から思い返せば、彼がアメリカのゲーム産業にもたらした影響の広大さの結果がこのメディア用取材許可であるとするならば、それは皮肉であり、そして単純にひどいことであるように思う。しかしながらパーカー・ブラザーズ社副社長ビル・ドールマン、ローリー・クラン、フィル・オーバンスといった数少ない新顔の努力により、発明者たちを中心部に少しだけ近づけるという努力はなされていた。パーカー・ブラザーズ社は数年にわたり「年次」カクテル・パーティの開催さえ行い、そこで私は何人かの有名人と出会った。たとえばアレックス・ランドルフだ。
とにかく、その日、シドと私はロビーで落ち合い、メディア・ルームへと直行した。そこで我々は、誇張なしにこの業界の全員からカタログを入手することができたのだ。ああ、あの時代、これが私の体験できる中でも最もエッセン・スタイルに近い経験だったんだ。全てのカタログを集めること、それだけで楽しかった。
そしてシドと私は200フィフス・アヴェニューを上から下まで進み始めた。我々は私が考える限り、メゴ以外の全ての出版社を周った。メゴは公園から道路向こうにある別のビルにいたのだ。いやいや、寒かったんだよ!
我々がミルトン・ブラッドレイ社に到着すると、王族のようにもてなされた。友よ、なんて気分だろう。私はここでこの国で最も偉大なゲーム作者と一緒であり、そして「私」がレッド・カーペットの上を歩いているのだ。最高!
さて、我々は彼らの製品群の中を1つ1つ進んでいった。それぞれの前で少し止まり、そのゲームがどのようにプレイするものなのかを見定め、そしてゲームの長所について承認のうなずきを行うか、または冷淡に肩をすくめていった。そして我々は「戦略ゲーム」出場者の1つ『トライ・トラック』にたどり着いた。ある仕事熱心な重役がルールを説明し、我々の反応を辛抱強く待った。シドは私を見た。私には彼の頭に何が浮かんでいるのかわかっていた。私は彼を見て、にっこり笑った。そして彼は重役の方を向き言った。「しかし、このゲームは機能していませんね。」その重役は指を唇に当て、こう言った。「わかってますよ。シーッ!」
――Alan Newman アラン・ニューマン 【※原文ママ】
シドは私がこれまでに会った中で誰よりもゲームを愛した人物であり、そしてまたゲームも彼を愛し返した。
しかしながら、私にとってシドに関する最も強い思い出は、驚くべきことにほとんどゲームに関係するものではない。私にとってゲームはこの素晴らしい老人と知り合いになるための言い訳に過ぎなかった。全ての家族が持つべきであり、私がこんなふうになりたいと考えるクレイジーな叔父さん。自分のパウンド・ケーキに唐辛子を振りかけるが、同時に航空母艦の武器システムを設計し、またヴェラザノ・ナローズ・ブリッジの建設を手伝った叔父さん。
私はいつまでも彼のゲームを所有し続けるだろう。しかし悲しいことに、彼自身はもういないのだ。
―― Kevin Maroney ケヴィン・マロニー
私がサクソン氏と光栄にもお会いしたのは1度だけだが、まるで自分の人生のほとんどの期間で彼と知り合いだったかのように思える。
私がゲーム趣味の世界に最初に入場したのは1977年、初めて自分でミニ・ゲームを買ったときであった。それ以来、立ち止まったことはない。しかしながら、さらに若い頃、私には両親によってゲームの種が植え付けられていたのである。両親と一緒にプレイした初期のゲームのうち1つが『アクワイア』だった。
我が家における『アクワイア』セットは多くの家庭における『モノポリー』セットと同等の扱いだった(母は『モノポリー』には運要素が多すぎると考え、嫌っていた)。最終的に私はそのゲームには作者がいることを知り、そして書籍の場合と同様、同じ作者によるゲームを好む傾向となり、作者によってゲームを追跡することを始めたのだ。私はすぐにシド・サクソンが、私が心から楽しんだ数多くのゲームの作者であることに気付いた。私がシドのゲームを真剣に集め始めてから既に15年であり、そしてこのコレクションを完成させるためにはゲーム6つと書籍1冊が足りない状態である。
私はたった1度だけサクソン氏にお会いしたことがある。それはアル・ニューマンによるメモリアル・デイのパーティであり、そこで彼にお気に入りゲーム5つにサインをしてもらったのだ。(ケヴィン・マロニーは、サインしても良い個数には制限があると私に対して冗談を言った。)私はさらに、試作ゲーム『プラン・アヘッド』をプレイする機会にも恵まれた。これは最終的に『ビジネス』(彼の最後のゲーム)として出版された。私はただ、私や私が長年一緒にゲームをした人々全員に対して彼が与えてくれた楽しい時間について、もう1度彼に感謝をする機会が欲しいと思った。彼の死を聞いたとき、まるで私の心から小さなかけらが盗まれたように感じたのだ。彼がいなくて、これから本当にさびしくなる。
―― Nick Sauer ニック・サウアー
シドの死後、私はアレックス・ランドルフと話をした。おそらく彼は最も古いシドの友人であり、仲間である。「シドは私にとって初めての同僚だったんだ」アレックスは語った。シドの『アクワイア』とアレックスの『トゥイクスト』はとあるゲーム会社らしからぬ企業「ミネソタ・マイニング&マニュファクチュアリング」にとって大きな成功を収めた最初の2ゲームだった。「私たちが3Mの始まりだったんだ」彼らのゲーム・ベンチャーについて言及することで、アレックスは私にそのことを思い出させた。アレックスは長年イタリアに住んでおり、この20年以上、シドは自分の特別な署名入りゲームについて、ヨーロッパがアメリカよりも良い市場であることに気付いていた。
時折、私はブロンクスにあるシドが長年住んでいた家を訪問した。私たちは市場に出回る最新のゲームについて話したものだった。なぜこんなにもたくさんの良いゲームがドイツから現れ、アメリカからは少ないのか。彼は新しく購入したもの全てを私に見せ(彼は自分が発明した最新のゲームについてはあまり話さなかった)、そして次に私が何を持ってきたのかを尋ねるのだ。私たちは、特にアメリカのゲーム会社の数がここまで急速に減少している中で(ハズブロ社による大量の買収のおかげだ)、ゲーム発明家(私もちょっとしたゲーム発明家である)として成功することがいかに難しいか議論をした。あるとき私は彼に、彼のゲーム『ハグル』の拡張を開発したことを報告した。それは私が『ネゴシエーション』と呼んでいるものであり、数々のパーティでプレイテストをし、数々の企業イベントで採用されていた。「素晴らしい」シドは興奮して言った。私が彼のゲームの1つを改造し、変更したことを不愉快に感じる様子はなかった。「2人は金持ちになるかもね!」
この非常に不定期な訪問以外でも、私は毎年トイ・フェアでシドに会うことができるであろうことがいつもわかっていた。彼は電車に乗り、帰宅するための電車を捕まえられるまでの間、可能な限り全てを見るために走り回っていたのだ。自ら課したスケジュールがハードなものだったにも関わらず、彼はプレス・ルームに座る時間を作り、自分が見た有望なゲームについて語り、私が何か面白いものを見つけたかどうか尋ね、そして人生について雑談をしたのだ。シドは友人で、同僚だった。彼がいなくて、これからさびしくなる。
シド・サクソンに関するちょっとした話:
新世紀が始まった頃のある夜、ニューヨークのロチェスターでのことだ。我々がいつも参加していたゲーム・プレイ集団はたった3人の定期メンバーにまで減ってしまい、4人目のメンバーはこのグループにおける新人だった。誰かが新しい、ミルトン・ブラッドレイ社の『アクワイア』を持ってきて、我々はそれをプレイすることに決めた。新版のルールのうち1つ、オリジナル版と少し異なっている箇所があった――ゲーム開始に関する何かだったように思う。新メンバーがなぜこの変更が行われたのか尋ね、我々のうち誰もそのはっきりとした理由がわからなかった。「シドに電話して聞いてみる必要があるな」私は宣言した。私が受話器を取り、ダイヤルし始めたのはほとんど真夜中近くだった。新人の顔は疑念を表していた。しかし私は、シドは自分のゲーム・プロジェクトに取り掛かるために非常に遅くまで起きているだけではなく、もっと忙しいために話す時間が十分に取れない午後11時より前に電話をしてこないよう、実際にお願いをしていたことを知っていたのだ。シドは電話に出て、いつものちょっとした会話を挟み、私の質問に回答した。ハズブロ社の誰かによる提案によって発生した、ほとんど独断的な決定について言及しながら。さらにちょっとした会話。私は彼に感謝し電話を切った。私が「あの」シド・サクソンと本当に会話をしていたはずがなく、むしろ自分が陽気ないたずらのカモにされたに違いないとこの新人が考えていたことがわかり、我々常連3人は愉快に思ったものだった。
―― Bruce Whitehill ブルース・ホワイトヒル / 編集者 「全てはゲームの中に」ニュースレター www.thebiggamehunter.com
ブロンクスにあるシドとパーニスが50年間住んだ家に、ブルース・ホワイトヒルと私で聖地巡礼をしたときのことを覚えている。私の頭にあったのは、自分がこれから、アメリカにおけるゲーム・デザインのレベルを上げた男と会おうとしているということだけだった。しかしながら私がその日に見たものの中で、控えめではないものは何もなかった。
家は控えめだった、ゲーム・エリア(地下室のスチール棚と階段の下、そして洗濯機とドライヤーの周り)は控えめだった、バーニスは控えめだった、そして驚くべきことに、シドもそうだったのだ。
彼は自分がデザインしたゲームについてもちろん誇りを持っており、書籍や仕事場、そして会計士でさえ驚くであろう数十年にわたる微細なメモについて、我々の要求に応じてツアーを行ってくれた。しかしながら彼は我々が彼に対して興味を持っていたのと同じくらい我々に興味を持っているようであり、そして私はその家が、訪問者がにぎやかに登場しない時期には完全に閉ざされてしまっているという印象を振り払うことができなかった。
我々は他の発明者によるゲームについて語りあった。私はバーニスと一緒に地元のデリへ買い物に行き、その後巨大な昼食を楽しみ、そしてシドは私が持っていた彼の『ゲーム大全』初期版にサインをしてくれた。(正確には、彼は献辞を書いてくれたのだが、それが最も重要な部分であることを私が思い出させるまで、自分の名前を残しはしなかった。)
その日私は複雑な気持ちで去った。友情や善意を感じても許されるほどにこの男に近づいたが、それでいてなお、彼がゲーム・デザインの世界に与えたインパクトを否定するものを、彼から見出すことはなかった。彼がゲームの中に閉じ込めた喜びは私とともにあるが、彼の深い分析や素晴らしい想像カは、私が行くことのできない場所にしまわれてしまった。その埋め合わせをするには失われたものがあまりにも大きく、そしてその場所は、おそらくバーニスですらもたどり着くことができないであろう場所だ。
心から
―― Wayne Saunders ウェイン・サンダース
私は30年以上にわたるゲーム・プレイヤーでありコレクターである。私はGAMAの通信メンバーであり、ゲーム&パズル・コレクター協会のメンバー、ゲーマーズ・アライアンスのメンバー、等々である。かつてシド・サクソンと話すことは喜びであったし、そして彼はいつも友好的で、開かれていて、面倒見がよく、そして知識を与えてくれた。シドはゲームのことを知っており、そしてゲーマーのことを理解していた!彼の近寄りやすさと協調性には驚かされたものだ。彼はゲームの「伝説」なのだ。彼は唯一の存在であり、今後、他の誰かが取って代わることは絶対にない。シド・サクソンがいなくてこれからさびしくなる。しかしながら、これから『アクワイア』と『キャント・ストップ』――私のお気に入りゲーム2つ――をプレイするたびに、私は彼のことを思い出すだろう。
―― Tony Elam トニー・エラム
ここ数年、シドの体調が悪化していることを聞いてはいたが、それでも彼の死を知りとても悲しく思っている。人の創造的な才能によって人生に良い方向で影響を受けた場合、このような悪いニュースによって個人的に動揺しないようにすることは難しいものだ。
私はゲームの喜びを10代になる前に学び、10代には『スルース』『ベンチャー』『社長の決断』そして『モナド』によってゲームの経験値を上昇させていた。その当時、この「奇妙な」人物に関する記事を読んだことも覚えている。その人物は私が楽しんだ多くのゲームを開発し、そして世界最大の個人ゲーム・コレクションを所有していたのだ。「ワオ」私は考えた。「もしこのシド・サクソンって男があのゲーム全てをデザインできて、しかもそんな巨大なゲーム・コレクションを作ることを楽しんでいるんだったら、たぶん僕が同じようにゲームについて真剣に考えたいと思う気持ちをおかしなことだと感じる必要はないんだ。」その思想のもと、私は生涯を通じた趣味人としての道を着実に進んできたのだ。
我々のほとんどが知っている通り、シドは「初期の時代」において、大人に喜ばれるゲームを現実に制作し、ゲームというものは必ずしもダイスを振りトラック上でポーンを移動させる必要はないのだということを世界に示した、数少ないデザイナーの1人だ。あなたが開拓のために費やした苦労と、あなたのデザインに本当に数多く存在する特有の輝きに感謝したい。ありがとう、シド、サクソン。あなたのデザインが生んだ遺産が生き続けますように。
―― Barry Ellis バリー・エリス
個人的なヒーローの1人が去ってしまったような気持ちだ。サクソン氏は子供の私を偉大な3Mゲームたちによってゲーム世界へと案内してくれた。彼の『ゲーム大全』は10代の間、私に途方もない影響を与え、ゲームは単にプレイするだけではなく、デザインすることができるものなのだということを私に真に気付かせてくれた。そして彼は、彼の友人であるアレックス・ランドルフと同様、ドイツにおける近代ゲーム革命の創始者だった。『アクワイア』『フォーカス』『ベンチャー』『スルース』『キャント・ストップ』『メトロポリス』『サマルカンド』『ゼニ!ゼニ!ゼニ!』――なんと偉大な創造物。しかし私が考える彼の最も偉大な創造物は、我々が今日知っており、愛しているゲーム産業なのである。
多くの人が、近代ボード・ゲームは60年代の3Mデザインに由来するという意見を表明しており、そこにはもちろんサクソンとランドルフによる多くのゲームが含まれている。たしかにそれには同意するが、私はサクソンが1960年頃に組織したNYGA(ニューヨーク・ゲーム協会)という名前のゆるやかなゲーム・グループこそが真の創造物なのではないかと考えている。『ゲーム大全』に描写されているように、この協会は主に自分のゲームをデザインし、プレイテストすることに興味を抱いているグループだった。サクソン自身以外にも、このグループにはランドルフ、ロバート・アボット(『エリューシス』『コード777』)、そしてクロード・ソーシー(『ラインズ・オブ・アクション』)が参加している。【※訳注:ランドルフはNYGAのメンバーではないため、事実誤認と思われます】 確かなことはわからないが、ゲーム・デザインにおける「技術」はあたかもこの小さなグループによって初めて積極的に追及されたかのように思えるのだ。NYGAのさまざまなメンバーが近代ゲームに与えたインパクトは途方もないものである。そしてサクソンはその設立者であり、最も活発なメンバーだった。彼は全世代のゲーム・デザイナーへ影響を与え続けた。自分自身によって、あるいはその素晴らしいデザインを通じて。
これらと、そして他の多くの理由から、私はシド・サクソンの生涯を称えたい。ありがとう、シド――ゲームたちが我々の顔に笑顔を運び続ける限り、あなたのことを忘れることはないだろう。
―― Larry Levy ラリー・レヴィ
シドの死を聞いて悲しく思う。間違いなくゲームに大きな愛を持ち、そして心の底では茶目っ気のあるユーモア・センスを持った、なんと親しみやすくとても謙虚な男だったことか。シドのゲームに対する洞察については、『アクワイア』をプレイするだけで理解できるだろう。
――Andrew Berton アンドリュー・バートン / エクセル・デヴェロップメント・グループCEO
1968年、大学生の頃に初めてシド・サクソンと会った。それに続く年月の間、シドは自分の目的(ゲームに対する愛)に忠実であり続け、そして我々が初めて会ったときと同様に、私に対して親切であり続けた。
その初めての出会い、私がトイ・フェアのためにニューヨークに滞在している間、彼は私と他の何人かを彼の家の夕食に招待してくれた。その夜、我々は私が制作中だった新しいゲーム、いずれ『カルテル』と呼ばれることとなるゲームのプロトタイプをプレイした。シドのゲーム、『アクワイア』は私と友人たちの間で高く崇拝されていた。『カルテル』もまた経済発展ゲームであったことから、私はシドが『カルテル』に対し過度に批評的になるのではないかと神経質になっていた。しかしながら、ゲームの中盤が過ぎ、戦略的獲得のための競争オークションが発生し、シドが勝利した。シドは、戦略上のリスクを取り、そして打ち勝ったゲーム・プレイヤーなら誰でも取るような反応をしたのだ。その瞬間、シドは私のゲームを保証してくれただけではなく、その後私のキャリアとなるものに保証をしてくれたのである。私はシドが他人の作品を評価する際、いかに公平であるかという点について尊敬するようになった。
最初に会ったときから最後まで、私に対して変わらず示してくれた敬意について、シドに永遠に感謝している。また、彼のコレクションからゲームについて学ぶ多くの機会を設けてくれたこと、私の大学生活終了後、ニューヨークに到着した後に行った新しいゲームのコラボレーションの数々についても感謝している。
彼のような人物は2度と登場しないだろう。これから来る数世紀にわたりゲームを学ぶ者たちが、称賛による輝かしい光の中に彼を位置づけ続けることが私の望みであり、そして彼はそうされるのにふさわしい人物である。
―― Phil Orbanes フィル・オーバンス / ウイニング・ムーブス社長
シドの逝去を知りとても残念に思った。私は彼に、ニューヨークに住んでいた小さい頃に初めて出会い、そして彼と知り合いになったことにとても感謝している。6年前のトイ・フェア、彼にとっての良き日にシドと私が交わした非常に明晰な会話について、特に感謝している。多くの、本当に多くの人と同様、彼がいなくてさびしく思う。彼は真の人間であり、私の家族の友人であり、真のゲーマーだった。
―― Philip C. Orbanes フィリップ・C・オーバンス / ウイニング・ムーブス副社長
何てことだ。ゲーム産業から離れて本当に長くなるので、シドの逝去を知らなかった。私は70年代から80年代初期までミルトン・ブラッドレイ社でクリエイティブ・デザインのディレクターをしており、シドとは非常に親しくなった。光栄なことに、ブロンクスにある彼らの家で彼とバーニスと夕食を共にする機会が数多くあった。
ゲーム以外にも、我々はスパイシーな食事の楽しみを分かち合ったものだ。ある夜、バーニスがお手製のアップルパイを食卓に並べたときのことを忘れることはないだろう。シドは表面の皮を器用に剥がし、唐辛子を加えたのだ!クールじゃないかい?
――John Vernon ジョン・ヴァーノン / ヴァーノン・デザイン
シドは私がこれまで出会った中で1番の好人物だった……シャイで、おとなしく、聡明で、そしていくらか「ナード」(この単語が辞書に入る前の時代に)。
―― Joseph Balkoski ジョセフ・バルコスキー / ゲーム・デザイナー(『Atlantic Wall アトランティック・ウォール』『2nd Fleet セカンド・フリート』『5th Fleet フィフス・フリート』『7th Fleet セブンス・フリート』『Wacht am Rhein ラインの守り』他)
シドのことは懐かしい思い出だ。彼はSPI仲間たちの中でも静かで、思いやりの深い声で話していたものだ。シドはボードゲーマーがクールではなかった時代のボードゲーマーだった。
―― Davis C. Isby デイヴィス・C・イスビー / ゲーム・デザイナー(『To The Green Fields Beyond トゥ・ザ・グリーン・フィールズ・ビヨンド』『Hitler's Last Gamble ヒトラー最後の賭け』等)、『Strategy & Tactics ストラテジー&タクティクス』誌元編集