学長より
学長より
「問い」を立てるということ
学長 林 泰成
本年度、大学院を修了される皆さん、ご修了まことにおめでとうございます。
さて、皆さんは、どう考えても答えのでない問いについて頭を悩ませたことはあるでしょうか。そう問いかければ、「人生で出会う問いなんて、みんなそうだよ」というような答えが返ってくるような気もしますし、逆に、「合理的に考えれば、おのずと答えは出るもんだ」というような答えが返ってきそうな気もします。
私は、高校時代に、テストで思いもかけない悪い点数を取ったことがきっかけで、いろいろと悩むはめに陥りました。あまりに悩みすぎて、不登校になり、しまいには、大学で哲学と倫理学を学ぶことになってしまいました。しかし、そこは、苦悩に満ちた仲間のいる世界で、意外と居心地が良かったのです。
学生時代には、いろいろなことを学びながら、同時に、いろいろな問いについて考えました。まず、哲学ってなんだろうというのが大きな謎でした。おそらく、古代ギリシャで哲学が始まったときには、哲学以外の学問はなかったはずなので、「哲学=学問」と考えました。しかし、現代では、独自の研究対象を持ち、独自の研究方法論を備えた学問領域がたくさん存在しているので、そうしたことは当てはまりません。そうだとすると、現代の哲学は、いわば学問の残りかすのようなもので、まだ独自の研究対象を持たず、独自の研究方法論も持っていないものが、とりあえず哲学と呼ばれていると言えるように思いました。ただ、その考え方を敷衍すると、将来、科学的にさまざまなことが解明されて、哲学と呼ばれる領域は無くなるのではないかという気もします。
哲学者の中には、いやそうではなくて、「この自分の意識がなぜ自分の意識なのか」という問いは、哲学的な問いとして残るのではないかと言う人もいます。この私の説明では、実は十分に表現しきれていないので、もしかすると、「何を言っているんだ。あたりまえのことを問いの形にして言っているだけじゃないか」と言われそうですが、問題は、「この文章を書いている林泰成という人物の意識がなぜ林泰成の意識でなければならないのか」ということです。意識一般の特質が問題なのではなくて、「この私の意識がなぜこの私の意識なのか」ということです。こう説明しながら、私が皆さんに伝えたい事柄が、私の知っている日本語では表現しきれていないのではないかと少しもやもやした気持ちになります。「独我論をめぐる問題」と書けば、哲学好きの方々には通じるでしょうか。
西洋哲学の面白いところは、こうした問題をまじめに考え抜こうとする点です。ゼノンのパラドックス(たとえばアキレスと亀のパラドックス)のような、矛盾した話が出てくれば、なぜそうなるのかを説明しようとする。実生活の中でアキレスが亀を追い抜くところを見せて、「現実には問題ない」という言い方にはならないところがたいへん興味深いと思います。
皆さんは、本学大学院において、それぞれの専門領域での学びを終えて、学位を取得されるわけですが、今後も継続して取り組んでいこうと思えるような「問い」は見つかりましたでしょうか。もちろん、哲学的な問いである必要はありません。皆さんが在学中に追及した問題にかかわって、今後もそれを追求してみたいというような「問い」が見つかりましたでしょうか。
最近の学校教育は、知識を伝えることが中心ではなくて、子どもが主体的に問いを立てることが中心になりつつあるように思います。これから教壇に立つ皆さんが、問いを追求しているという姿を子どもたちに見せることができるとよいなと思います。また、本学には、連合大学院の博士課程後期課程もあります。さらなる進学の道も開かれています。
いずれの道を選ぼうとも、皆さんが選んだ道で、ご活躍されることを祈念しています。