感覚・知能・運動機能を備えた人工物
ロボットの定義の一つとして、感覚・知能・運動の3機能を備えた人工物というのがあります。分子ロボット技術はこの3機能をDNA、タンパク質、リン脂質という生体分子を用いて実現することをめざしています。生物と同じように生体分子からなるロボットの創成を目標としています。
ナノからマイクロスケールの人工物
分子ロボットはウィルスよりも小さいナノスケールから細胞や細菌と同サイズのマイクロスケールの人工物です。最先端の半導体技術ではナノスケールのトランジスタを実現していますが、このトランジスタと同サイズのナノスケールの分子を組み立てて、自律的に動作するロボットを作ることを目指しています。ちなみに、DNAの二重らせんは直径約2ナノメートルで、DNAオリガミはおよそ70ナノ~100ナノメートルになります。リポソームを用いた人工細胞では、直径はアメーバと同程度の10マイクロメートルになります。リポソームをさらに凝集させると100マイクロメートルサイズの膵島(膵臓にあり、インスリンを放出する細胞などの集合体)と同程度の大きさになります。
生体分子による感覚・知能・運動機能を備えたロボットの構築
分子ロボットは、生物と同じように、DNA/RNA/タンパク質/脂質といった生体分子を用いて感覚・知能・運動機能を備えたロボットを構築します。生体分子を用いることで、生物と同じようにナノスケールで複雑な構造や機能を人工的に創成することが期待できます。生物と同じ素材で生物とは異なる人工物を創成する点に分子ロボットの特徴があります。
ブラックボックスがないナノシステムの構築
iPS細胞や合成生物学のように既存の細胞を遺伝子レベルで改変する方法論では細胞分裂や環境適応という細胞の本来的な機能がブラックボックスとして残ります。分子ロボットの方法論では、細胞と同じようなナノシステムを生体分子をボトムアップに組み立てて創成(bottom up fabrication)するため、機能は限定的ですがブラックボックスがないナノシステムを構築することが可能です。
プログラマブルな情報伝達分子の活用
DNA/RNA/ペプチドのような生体分子は配列情報を変えるだけで異なる機能を持つ分子を創成できる点に特徴があり、生物はこれを遺伝子(プログラマブルな情報伝達分子)として活用しています。分子ロボットではこの情報伝達分子の概念をさらに発展させ、DNA配列をタグとして付加した分子やDNAオリガミのような複雑な形状のナノ構造体を用いて分子間相互作用をプログラミングすることで、自然界にはないナノシステムを構築したり、生化学反応を明示的に制御したりすることを可能にしています。
分子ロボットの進化シナリオ
分子ロボットの研究をはじめる際に、研究者達は実用的な分子ロボットを創成するためには、生物と同様に単純な分子ロボットからより複雑な分子ロボットに「進化」させることが必要と考えました。そこで考案されたのが、分子ロボットの進化シナリオです。分子ロボットの研究を開始した当時、すでに、DNA Spiderと呼ばれる動くDNA型ロボットの研究が発表されていました。ただし、このようなDNA型ロボットは駆動装置もなく、熱揺らぎにより動くだけの人工物でしたので、これを第0世代としました。素材として微小管を用いた微小管群ロボットの研究も進められました。
第1世代は外界と内部を分け隔ている人工膜を備えた分子ロボットで、これをアメーバ型分子ロボットと呼ぶことにしました。人工膜を備えることで、センサーによる外界の認識、プロセッサによる判断、アクチュエータによる動作機能を備えた分子ロボットが実現可能となりました。
第2世代はより大きなサイズの分子ロボットで、これをスライム型分子ロボットと呼ぶことにしました。このコンセプトに基づく分子ロボットとして、DNAを沢山並べたDNAゲルや筋肉を模倣した人工筋肉などが実現されています。
第3世代は機能が異なるヘテロな人工細胞をつなぎ合わせて動作する分子ロボットです。異なる機能を持つ人工細胞が協調して動作することで、より高度な感覚・知能・運動機能を備えた分子ロボットの実現が期待されています。
第4世代は生体分子からなる分子ロボットと電子機械式のロボットを融合した分子ロボットで、天然の細胞を凌駕する機能を備えた分子ロボットの実現が期待されています。
分子ロボット研究の系譜
分子ロボットの研究は、2010年に化学、生物、物理、機械、情報などの様々な背景知識を持つ研究者が分子ロボティクス研究会(主査村田智(東北大))を発足したことから始まった。2012年に新学術領域「分子ロボティクス」(代表萩谷昌己(東大)、2012-16年度)に採択されたことから本格的な研究開発が始まり、人工アメーバ(野村慎一郎、東北大)および分子人工筋肉(平塚祐一、JAIST)などが開発された。その後、分子ロボットの社会実装を目指して、科研費「分子人工膵島」(代表小長谷明彦(東工大)、2017-2019年度)、NEDO「分子人工筋肉」(代表小長谷明彦(東工大)、2016-2019年度)およびNEDO「VR共創環境」(代表小長谷明彦(分子ロボ総研)、2020-24年度)などのプロジェクトが開始された。
また、各大学では分子ロボットの要素技術の研究を継続するとともに、2020年度からは多細胞型の分子ロボットを目指した学術変革研究「分子サイバネティクス」(代表村田智(東北大)、2020-24年度)、2026年度からは様々な分野への展開を目指した学術変革研究「分子ロボットEX」(代表野村慎一郎(東北大)、2025-2029年度)が始まっている。
さらに、分子ロボットの社会実装には社会的コンセンサスの形成が必要という観点から、JST「分子ロボットELSI」(代表小長谷明彦、2017-2020年度)およびJST「分子ロボットRRI」の研究が倫理研究者との共同で進められた。
設計の壁
分子ロボットの創成には部品となる分子複合体の精密な設計が不可欠です。DNAオリガミに関しては作りたい構造を入力すると必要なDNA配列情報を出力するCADシステムがしられていますが、分子ロボットの設計には3次元構造や分子間相互作用を正確に予測する設計支援システムの開発が不可欠です。近年、AIエージェントを用いた分子設計が注目されていますが、分子ロボット研究においても、分子部品を自由に設計する技術の確立が求められています。
量産化の壁
分子ロボットはすでに試験管レベルでは実際に作ることが可能です。ただし、実際に応用するためには大規模な生産技術の確立が不可欠となります。バイオリアクターやマイクロ流路を用いた生産技術が求められています。
倫理の壁
分子ロボット研究は高度な知能を持つナノロボットを創成する可能性があるため、倫理研究者はその社会的影響について関心を示しています。また、分子ロボットを医薬品や医療機器として応用するためには、薬事認証が必要となります。分子ロボットの薬事認証に何が必要となるのかについては様々な意見があります。それらを議論するための土台となる医薬品応用ガイドラインの策定を進めています。