雑感
雑感
このたび国書刊行会から、「ベル・エポック怪人叢書」が始動し、その第1巻としてレオン・サジ『ジゴマ』(上下2巻)が刊行されました。上下合わせて1000ページに上る長編小説で、訳者の安川孝氏の労苦には脱帽です。テンポ良く、読みやすい訳文で、フランス大衆文学の傑作がみごとに蘇りました。この後には、ガストン・ルルー(あの推理小説史上の傑作『黄色い部屋の謎』の作者)の『シェリ=ビビの最初の冒険』(宮川朗子訳)、スヴェストル/アラン『ファントマと囚われの王』(赤塚敬子訳)が続いて完結します。フランス本国でも名のみ知られ、読まれることの少ない作品がこうして日本語で読めるようになるのは、喜ばしいの一語に尽きます。フランスがあらゆる面で繁栄し、文化的名声を誇っていた1900年前後のベル・エポック期に、新聞に連載されて絶大な人気を博した怪しいヒーローたちの活躍をご堪能ください。
なお私は、この叢書に次のような推薦文を寄せましたので、参考までに以下に掲載しておきます。
「ベル・エポックとは「美しい時代」という意味で、フランスの19世紀末から20世紀初頭を指す。当時のフランスには、世界でも破格の100万部前後の発行部数を誇る新聞が4紙もあり、その紙面を飾ったのがしばしば犯罪をテーマとする連載小説である。美しい時代は、犯罪者や悪党がうごめく不安な時代でもあった。〈ベル・エポック怪人叢書〉は、この時代を代表する作品を収めた魅力的なシリーズ。同時期のルブランが創造した怪盗ルパン以上に裏社会で暗躍する恐るべき、時として悲劇的な、そしてつねにカッコいいダークヒーローが登場して、息もつかせぬ物語が展開する。大衆文学とあなどるなかれ! 作者は当時最新の科学、医学、テクノロジーの知を駆使して、社会の闇と民衆の秘めた欲望をあぶりだす。現代人でもあっと驚くような技術や、状況の反転が利用される(詳細は読んでのお楽しみ!)。そしてこれらの作品は、誕生してまもない映画の題材にもなった。時代の感性と鋭敏に共鳴し、その後の大衆小説の流れに大きく影響した作品群の邦訳は、まさしく快挙である。」
(2022年7月18日)
先日、「キース・ヴァン・ドンゲン展 フォーヴィスムからレザネフォル」(パナソニック汐留美術館)を観てきました。ヴァン・ドンゲン(1877-1968)はオランダ生まれ、フランスで活躍した画家で、新印象派の影響を受けながら画家として活動を始め、ピカソやマティスのフォーヴィスムに伴走しながら、独自の境地を開きました。そして第一次世界大戦後のいわゆる「狂乱の時代 レザネフォル」には、上流階級の人々の肖像画(とりわけ女性の肖像画)、パリやヴァカンス地の風俗画で名声を確立しました。
今回展示されている作品を観るかぎり、赤と緑の色彩がとても印象的な画家です。《楽しみ》や《女曲馬師》は傑作で、とりわけ後者は、1922年に発表されてスキャンダラスな評判をとったヴィクトル・マルグリットの小説『ギャルソンヌ』のヒロイン・モニックを思わせるような、精神的、身体的に開放された女性の表象を提示しています。参考までに言い添えると、日本でほとんど知られていないこの小説について、私は『逸脱の文化史』(2019)の第3章で論じたことがあります。
比較的小ぶりの展覧会ですが、ヴァン・ドンゲンという画家の変化と一貫性がよく分かるお勧めの展覧会です。
(2022年7月16日)
2022年6月3日、ロマン・ポランスキー監督のフランス映画「オフィサー・アンド・スパイ」が封切られました。19世紀末のフランス社会を揺るがしたドレフュス事件を題材にした大作です。原題は J'accuse「私は告発する」で、ドレフュス事件の際に作家エミール・ゾラがドレフュスの無実を確信し、軍部の不正を暴いた新聞記事のタイトルです。
映画の主人公はドレフュスでも、ゾラでもなく(もちろん二人とも登場しますが)、陸軍情報局長として事件の捜査にあたり、やがて真実を明らかにしていくピカールです(演じているのはジャン・デュジャルダン)。反ユダヤ主義を背景にして、国家権力がいかにして冤罪を作り上げるかを見事に描いた歴史映画です。風俗、衣裳、室内装飾など細部の再現がすばらしい。
時代背景になっている19世紀末~20世紀初頭は、ベルエポック(麗しき時代)と呼ばれ、フランスが経済的繁栄と文化的隆盛を誇った時代です。それを象徴するのが1900年にパリで開催された万博で、総入場者数は5000万人を超え、歴史上もっとも成功した万博の一つと言われています。ロンドン留学前にパリに立ち寄ったあの夏目漱石も見物して、感嘆しています。そうした状況を示す場面(パリ郊外へのピクニック、上流階級の夜会、歓楽街)もあちこちに織り込まれて、時代の雰囲気を浮き彫りにしています。
(2022年6月13日)
昨日(2021年6月26日)の『毎日新聞』読書欄に、5月に刊行されたアラン・コルバン『草のみずみずしさ 感情と自然の文化史』(共訳、藤原書店)の書評が掲載されました。評者は本村凌二氏です。著書の内容と意義を的確に紹介していただき、多謝です。
訳書の冒頭に「本書を読むにあたって」という一文を加えました。日本とフランスでは気候、風土、地理的条件などの差異ゆえに、草や草原にたいする感性も少し異なります。その点を了解してもらうために、担当した編集者の求めに応じて付加した文章です。
コルバンの本は、人間の生の営みの流れに寄り添うかのように、草という自然要素が、人間の感情や感覚生活と分かち難く結びついていることを、さながら一編の抒情詩のように描いています。また、西洋の古代から現代までの作家たちが数多く引用され、草と草原をめぐる文学史的研究とも見なしうる著作になっています。
コルバンは2013年に樹木にたいする感性を辿った大著を上梓しました。また近著は2021年4月に出版された風に関する本です。樹木、草、風・・・。いずれも環境と自然をめぐる感性の歴史であり、文化史です。次は何を主題にするのだろう、と期待せずにいられません。
(2021年6月27日)