「ま、幅広く広く募っているという認識でございまして、募集しているという認識ではなかったのであります。」
みなさんもご承知のように、言語明瞭、意味不明な答弁が大手を振ってまかり通ったり、まったく質問に答えていないのに議事録には答弁として記録されたり、言葉の教育に携わる者としてまったく不可解きわまりない、笑うに笑えない悲喜劇が展開されています。
「朝ごはんは食べましたか」→「食べていません(パンは食べたけどね)」
いわゆる「ごはん論法」も、こうした運用を積み重ねてきた国会という言語空間が生み出したものです。
最高学府に進み、多くは熾烈な受験勉強を勝ち抜いて超難関大学に進学したエリートたちが、どうしてこれほどまでにグロテスクな言語運用を平然と展開し続けることができるのかという問いに向き合った時に、浮かび上がってくるのが「教育」の問題です。
こういう言語運用を許容してしまうメンタリティーは、いったいどのようにしてつくられているのでしょうか。
文脈依存度の高いハイコンテクストな言語運用の豊かさを学ぶことの価値を否定するわけではありませんが、行間を読む高度な技能を操ることばかりに目を奪われてしまうと、国会答弁の悲喜劇をなくすことは難しいのではないでしょうか。
「答えになってない」と感じる力。答えになっていない答えを口にすることを恥じる感覚。
こうした感覚を養うためには、行間を読む技能だけではなく、シンプルに対話するための基本的な言語運用能力を育むことも重要です。
空気を読み、忖度をし、阿吽の呼吸でわかりあってきたこの国の珍妙な言語運用のあり方を、国語の授業というフィールドの中で考えてみたいと考え、都留文科大学大学院の国語教育学研究の受講生に課題を提示し、考えてもらいました。
都留文科大学 野中 潤