当社は、初代別当(宮司)能順が創建後間もなくの延宝二年(1674)に藩に提出した由来書に、「天神の屋敷に、其始、小社一社御座候、其前に新地を御築添被為成、今度天神之社建立之由承及候」とあり、創建前に既に小社が鎮座している地に、新地を築いて建立されたものですが、この記述を裏付けるように、境内地に多量の川砂の埋め立てられていることが昭和六十年当時に行われたボーリング調査で判明しています。
さらに、安永九年(1780)より天明五年(1785)まで小松城番を務めた冨田景周の『越登賀三州志』には、「凡そ小松城の塹水は梯川の水也、其の水口は梅林院の向より入り、下駄橋下を歴て松任町に落ち。。。」と記されています。ほぼ同時期の寛政六年(1794)作成の小松御城之図(小松天満宮等専門調査報告書『加賀 小松天満宮と梯川』所収)(画像1)は、この記載を裏付けています。「梅林院すなわち小松天満宮が、梯川の水を小松城の堀へ導入する地点の対岸にあり、いわば咽喉を扼する要衝に位置していた」といわれる由縁であります。
また、当社が小松城の表鬼門の方角に建立されていることは知られていましたが、小松城本丸と金沢城本丸を結ぶ一本の直線上に本殿が立地していることが昭和六十二年当時確かめられました。さらに、この一本の線をさらに延ばしていきますと、守山城にたどりつきますが、この三つのお城(小松城、金沢城、守山城)は共に利常公が在城したお城でもあります。NHK大河ドラマ放映を記念して奉納された額(画像2)はこの位置関係を示しています。また、三つの城と利常公にかかる参考年表を記します。
画像1 小松御城之図(1794)
画像2 三城物語奉納額より
【参考年表】
「三城物語にみる利常公の生涯」
1.文禄二年癸巳(1593)十一月二十五日
利常公 金澤城にてご誕生
生後まもなく前田長種(利家公の長女幸の夫)に預けられる。
文禄四年(1595)秋 利長公新川郡を増賜さる。
慶長二年(1597)十月利長公 守山城から富山城に移る。
(守山は高き山城にて御不自由とて越中富山城に移る)
2.守山城代前田長種のもとで利常公(五歳)は守山城に在城
慶長三年戊戌(1598)三月下旬利家公(還暦)。この年、上州草津温泉入湯の途中今石動に宿した時に猿千代君(利常公の幼名)と初対面。
(脇の下から手を入れ背をなでた利家公が「早くもふとりたるかな」と喜んだという逸話有り)(「加賀藩史料一編」、「前田利常略伝」)
守山城は山頂にある山城であり冬期間は厳寒厳風の地である、このような厳しき環境下で幼年期をすくすくと成長された資質の高さを利家公が愛でられ、後年、特に選ばれて後継になられたことの背景の一端が理解しえます。
3.慶長五年(1600)九月 利長公は小松城主丹羽長重と和、猿千代君(八歳)は小松城にて人質となる(加賀藩歴代藩主中ただ一人人質を経験)
十月 丹羽長重は封を失う、前田長種は小松城代となる。
4.慶長六年(1601)九月 猿千代君(九歳)は、 金澤城に入、
犬千代と改める、将軍秀忠の次女珠姫(三歳)の入輿。
慶長十年(1605)四月 徳川秀忠 将軍となる。
同年六月 利長公は致仕、利常公は十三歳で封を嗣ぐ。
寛永十六年(1639)六月 利常公は四十七歳にて致仕。
5.寛永十七年(1640)六月五日 利常公 小松城入城と伝。
万治元年(1658)十月十二日 利常公 は六十六歳にて 小松城にて薨ず。