青森市浪岡の沿革と概要

① 青森市浪岡(旧浪岡町)の沿革

 旧浪岡町は、昔行丘、行岳、波岡等と呼称され、その創始は甚だ古く、詳細に知ることは出来ない。文献に現れたのは平城天皇の大同2年、坂上田村麿が当地にう狭太神を勧請し、国家鎮護の神宮を建立したのが始めである。(貞観縁起)

 鎌倉時代以来当地は、山辺部に属し、津軽六郡時代には田舎館郡に属していた。建武中興の際、北畠顕家、陸奥国府にあって多田氏を目代として当国を鎮撫させた。ついで室町時代の初期には国司北畠守親及び顕成が初めて当地に居城し、累世南朝のために勤め、守親及び顕成の子孫200有余年波岡御所と称し、華栄を誇ったが、天正6年に至って亡び、今その城趾は史蹟として墓所と共に県文化財の指定を受け、昔時の壮観をしのばせることが出来る。

 下って津軽藩政時代、当地は枢要区として宿駅が置かれ、又藩倉を設けられ、そして、年々3組の貢米4万7千俵を収納した。

 又村治は代官、手代、庄屋、五人組制度によって統治され、維新後明治6年区制をしかれるに及んで当町は第二大区ー小区に属し、同11年、区を郡に改めて南津軽郡に編入となり、郡長、戸長、村用掛の支配をうけ、同16年6月18日組合町村制施行によって組合役場を設け、郡は更に分割され、管内は浪岡村、五本松村、王余魚沢村、吉野田村、郷山前村、樽沢村、銀村、下十川村、増館村、女鹿沢村、大釈迦村、徳才子村、長沼村、高屋敷村、杉沢村、細野村、本郷村、相沢村、吉内村、北中野村等官選戸長役場となった。

 かわって明治22年4月1日町村制実施によって、浪岡村、五郷村、女鹿沢村、大杉村、野沢村となり、昭和15年6月1日浪岡村が町制をしいて浪岡町となり同22年4月17日地方自治法が公布され、地方自治が確立されるに至った。次いで同28年9月1日「町村合併促進法」が公布されるに及んで県の合併計画にもとづき、地方住民の福祉の増進を図るため、昭和29年12月15日浪岡村、五郷村、野沢村、女鹿沢村、大杉村が合体合併を行なって新たに浪岡町として誕生新発足した。

 更に昭和31年9月30日北津軽郡七和村の廃止に伴い、その一部大字下石川の区域を編入した。平成17年4月には青森市と合併し、青森市浪岡となった。

② 青森市浪岡(旧浪岡町)の概要 (平成17年4月青森市と合併)

 旧浪岡町は青森県の中央部、津軽平野の東端に位置している。北東は旧青森市、北西は五所川原市、板柳町(現在のつがる市の一部)、南部は黒石市、藤崎町(旧常盤村)と隣接している。

 総面積132.13㎢ 、東西約19㎞、南北17㎞の地域を有し、北西部と東部一帯が山地及び台地状の丘陵地、西部から中央部が沖積低地となっている。

 人口は約19,000人で、近年の推移では減少傾向にある。

 交通体系を見ると、北東部に青森空港、ほぼ中央部に東北自動車道浪岡インターがあり、また、JR奥羽本線、国道7号線、国道101号線が走っており、さらに平成6年には浪岡インターから日本海に通じる津軽自動車道も着工され、現在、中泊方面まで開通している。このように青森県の陸空の要衝として重要な役割を担っている。