松代街道(長野県道35号線)の下氷鉋交差点から南へ約200メートルいくと、道に東面して善導寺と刻まれた自然石が立っています。石畳の参道の両側には松の木などが並び、その木々の間にいくつかの石像や石碑があります。参道は仁王門、六地蔵、山門、本堂へと続いています。
浄土宗に所属するお寺で、正式には 「終南山 光明院 善導寺」といいます。
寺名の「善導」とは、中国の高僧である善導大師(613-682)のことで、我が国の天智・天武天皇時代に活躍し、浄土教の大成者です。
本尊は阿弥陀如来立像で、京大仏師弥陀清七の作です。享保七年(1722)11月、丹波島の柳島鉄之助氏の寄進したもので、木製金箔塗りで像高は約90センチあります。
寺伝によると、最初「永正三年(1506)天台宗の明山天誉聖道和尚を開山として、無量院という寺名で氷鉋斗賣神社の神宮寺として創建されました。開基は、当地の豪族・野池氏になります。
その後永禄四年(1561)九月に川中島合戦等の戦災に遭い荒れ果ててしまいました。
元亀三年(1572)江戸増上寺十世鎮蓮社感誉上人願故存貞大和尚が、善光寺参詣のみぎり、荒廃した寺跡を見聞しました。そこで現在の地に小院を建立し、浄土宗に改宗して終南山光明院善導寺と号しました。それ以降、感誉存貞上人を開山としています。
元和年中(1615-1624)に、真田信之公の娘・見樹院(飯山藩佐久間勝次未亡人)は、当山十五世在誉直求上人に帰依浅からず、寺田を寄せて寺の興隆をはかったといいます。
本堂(間口九間半・奥行き八間半)は享保六年(1722年)再建となっており300年の歴史があります。内には、老中を務めた真田幸貫公の「善導教林」の扁額があります。
庫裡(間口十五間・奥行き間)は、天保六年(1835年)改築でまもなく改築200年を迎えます。
真田幸貫の「善導教林」の扁額
参道の仁王門(間口八メートル・奥行き四・ニメートル)は、明治五年(1872)十月の建立です。
仏教の守護神である那羅延金剛(京仏師光雲子の作)が右に、左に密迦金剛(京仏師光栄子作)がおさまっています。
この仁王尊は、延享元年(1744)九月に、真光寺村の山崎与一が戸隠宝光院(社)に奉納したもので、明治初年の神仏分離令により当山に移転したものです。
この移転には、当山第二十五世願誉弘賢上人の弟子で、茨城県飯沼の弘経寺第七十世因誉大順大僧正が、帰跡(得度)等をした善導寺の恩謝に報いるため、明治三年(1870)二月、松代藩に寄付仕度旨の願書を出し、認可され移したものです。
徳本行者の坐像
本堂内に安置されております徳本上人の像は西田立慶作で、文化十四年(1817)三月十日に行者自ら開眼したものです。
像の腹中には仏舎利六粒と行者の髪、爪を納めています。
徳本行者は紀州に生まれ、浄土宗の念仏行者として知られ、文化十三年(1816)信州全域を巡錫して、各地に念仏講を組織させました。
徳本行者は、同年四月十四日から十七日まで善導寺に滞在し、教化活動をおこないました。その時の様子について『応請攝化日鑑』には
4/15
中氷鉋講中127人 外242人 二組に大幅名号差し遣わす。
真島村講中132人 下小島田村講中82人 上小島田村講中43人 岡田村より少人数大幅名号七枚差し遣わす。
本堂九間半に八間、門内向拝より中門まで十五間、南北三十二間、中門より黒門までおおよそ三十六間である。朝夕は右の場所へ七分ほどの参詣の群衆で埋まった。
中座後は本堂、門の内外まで群衆で埋めつくされ、小幅名号千七百枚位づつ三度配布した。六万べん御名号二十六人願い人へ遣わす。
4/16
下氷鉋村上組104人 北組185人 丹波島村159人 三組講中へ大幅名号三枚差し遣わす。
大塚村講中157人 大幅名号差し遣わす。
善導寺が月並み本尊にしたいと「唐紙一枚御名号」と願い出たので、直ちにお書きになられて遣わした。
と記載があります。
稲荷堂は、本尊が叱枳尼真天と称し、文政四年(1821)十一月に豊川稲荷より分霊奉祀しました。
観音像は、北向厄除観世音と称し、元亀三年(1572)当寺中興開山感誉上人が行基菩薩御作の聖観音像を招集して以来、道俗の信仰を集め、上田市別所の観音様と共に尊崇されています。堂は江戸時代末に火災に遭い、文久元年(1860)に再建されました。
寺宝には弥陀聖衆迎接図三幅、三尊来迎図三幅(以上伝恵心僧都の筆)の書画軸や華頂宮尊超法親王の真筆などがあります。
毎年 八月十七日には北向厄除観世音の大祭が行われ、近郷の参詣者が集まります。
当日は参道に屋台店なども並び、縁日として地元の人々に親しまれています。
浄土宗寺院として三十二代にわたり、法燈を連綿としています。