現在残っている干拓の歴史を伝える堤防や石垣・樋門等を2025年に調べました。多くの旧堤防は道路として現在も使用されています。なくなっている旧堤防もあります。樋門(ひもん) 井樋(いび)とは、土地の水を排水または土地に給水するためにつくられた構造物のことです。ホームページの改良と修正は今後も行っていきます。西塘と東塘も調べてみます。
干拓により堤防で区切られた土地を 開(ひらき)といいます。
「現在の旧堤防 建造順」作成
現在残っている干拓の歴史を伝える堤防や石垣・樋門等を2025年に調べました。多くの旧堤防は道路として現在も使用されています。なくなっている旧堤防もあります。樋門(ひもん) 井樋(いび)とは、土地の水を排水または土地に給水するためにつくられた構造物のことです。ホームページの改良と修正は今後も行っていきます。西塘と東塘も調べてみます。
干拓により堤防で区切られた土地を 開(ひらき)といいます。
横島と大浜の開を、建造された年代順に並べてNo番号を付けています。赤文字は樋門です。
No1 石塘樋門群 No2 御内家 No3 陣殿 No4 官築新地(官築開)櫨方開樋門(赤井樋) No5 官築新地(東地区) No6 大井樋尻 No7 葭場(大浜) 鯨油開給水樋門跡 No8 一番 No9 二番 No10 三番 No11 一夜 No12四番と川浚料 No13 鯨油 No14 五番 No15 築添小開 No16 六番 No17 七番と大開 一番井樋跡 二番井樋跡 大開樋門 唐人川樋門 No18 葭場(横島) No19 八番 No20 芝原 No21 庄屋 No22 九番 No23 十番 十番開樋門(北と南) No24 上網干場と沖網干場 2基の給水樋門跡 No25 神崎 神崎開給水樋門 No26 久々原 No27 下久々原 No28 河添新地 No29 安甲 No30 明辰 明辰開樋門跡 No31 烏帽子 烏帽子開樋門 No32 入船 No33 富新 富新橋際樋門跡(五枚戸跡) No34 明豊 明豊開樋門(新と旧) No35 明丑 明丑開樋門(北と南) No36 明辰開尻 No37 末広 末広開樋門(六枚戸) No38 富田 No39 大豊 大豊開樋門 No40 有明 有明開樋門(新と旧)
No2~No40 の長さ合計 52.830km
大浜 16.715km 横島 36.115km
石塘は400m 西塘は1.8km 東塘は4.7km 国営干拓堤防は8km
No1
いしどもひもん
石塘樋門群 慶長10年 1605 江戸 昭和 平成も改修 玉名市登録遺跡
玉名市干拓遺産関連施設調査報告書より 平成23(2011)年3月 玉名市教育委員会
まぶはトンネルの水路で天保年間(1831-1845)
岩井樋溝は嘉永6年1853(ペリー来航)
まぶのある水路と岩井樋溝は別水路です。送る地域が異なります。
真石井樋が天保11年1840に築かれたとあります。真石井樋の前は板井樋でした。
まぶのある水路が真石井樋でしょうか あるいは樋門でしょうか
天保14年の高潮被害時には2基の樋門が存在していました。
新井樋と新内井樋は昭和23年に改修されています。
新石塘樋門は昭和53年3月に建造されました。
本井樋は平成10年に改修されています。
新井樋と新内井樋は平成21年に海側が閉鎖されました。
今昔マップon the webより 新井樋の橋が石塘橋 本井樋の橋が丹津橋(平成10年以降に撤去) 2008年は新井樋が閉鎖される直前の写真ですね
六枚井樋と越堰(せぎ でしょうか こえぜき でしょうか) 六枚井樋は農業用水の量を調整する役目 越堰は水が多いときオーバーフローさせる役目 越堰から奥のコンクリートが壊れて危険な状態で、立入禁止です。六枚井樋のコンクリート下の橋脚は石柱です。越堰土台の石垣にはすき間埋めのコンクリートがあります。越堰の上のテーブルと柱はコンクリートです。テーブルの役目は何でしょうか? テーブルは柱の補強で、柱の向きが水を右側へ誘導でしょう。1本の幅は狭いが6本は広い。
「石塘橋」
「いしどもはし」
新しい石柱で 「大正十年九月架設」
「たん志んはし」 「丹津橋」 「昭和四年十一月」 の3本の親柱 通常橋名の橋は濁点ではありません。川の水が濁らないようにと願いをこめて書かれてあります。
袖柱ともう一本の親柱もあります。新石橋樋門の横にあります。コンテナの中にはイバラのでかいトゲのつるの下にレンガが2つ入れてあります。
No2
ごないけ
御内家開堤防 寛永年間 1633~1637 地図番号1 長さ1790m
〇間は、現在ありません。
上の地図 左の〇 交差点から住宅の横までは堤防跡の道があります。
上の地図 右の〇
左の〇 Google Map ストリートビューに古石が写っています。長い石もありました。現在はありません。民家はリフォームされています。
No3
じんどん
陣殿開堤防 寛永20年 1643 地図番号3 長さ590m
陣殿開は島原の乱において、天草四郎時貞の首を取った陣佐左衛門(スケザエモン?)が、恩賞として築造の権利を得て築造しました。詳しい内容は「横島町の史跡文化財」ページの「横島に伝わる地名と由来」23ページ
西堤防の名残は現在ありません。東堤防の記載は1900年の古地図にはありません。1900年の古地図は250年後だから、干拓地図のほうが信頼性があります。南堤防の一部に古地図を裏付ける堤防の形跡があります。
オレンジの道路は、古地図には堤防ではなく道で記載されています。
薮にあるほぼ埋まっている旧堤防らしき石垣 青っぽいのが石垣
なぜここだけ国道が広い? 旧堤防だから。
官築新地(東地区)南堤防の端辺り
石垣の付近 国道の反対側
1900-1901年の古地図 〇は南堤防が東の官築新地南堤防とつながる地点 ここから斜めにつながっている右の道の奥が堤防ではないでしょうか。
No4
かんちく
官築新地(官築開) 延享~天明(江戸中期) 1744~1788 地図番号2 長さ2950m
直線をひいてみただけです。
櫨方開樋門 赤井樋 赤井樋は宝暦8年1758年設置らしい。櫨方(はぜかた)開の排水門。詳細は最も北の開を櫨方開といいます
赤井樋 排水樋門
赤樋と書いてある資料もあります。井樋(いび)とは 水門や水溝など水を通したり調整するための建造物のことらしいです。赤井樋の後ろの道路が旧堤防です。
両サイドにとび出ている石の凹部に招き戸を下げて排水のようです。横幅1.4mあります。道路下にトンネル水路があります。並行して現在の用水用水路トンネルがあります。
赤井樋の場所
国道501号のガソリンスタンドの裏
赤井樋は眉山崩壊の大津波を体験したようです
No5
かんちくしんち
官築新地(東地区)堤防 延享~天明 1744~1788 地図番号2 長さ1040m
〇間は現在ありません。オレンジ色は官築新地ができる以前からある簡単な土手や道路です。粟島神社付近は土手で囲まれていなくても土地はあったとおもわれます。古地図によると粟島神社を起点として東へ堤防が築かれています。
1900-1901古地図 〇粟島神社
No6
おおいびじり
大井樋尻開堤防 明和6年 1769 地図番号4 長さ740m
芝原東堤防と大井樋尻西堤防は、古地図ではつながっていて直線です。(No 20 芝原開の古地図) 赤い線は直線を示しています。〇間は現在ありません。
南堤防道路沿いの民家にある大石 話をうかがったら、天草から購入したそうですが、一番上の石は近くにあった石だそうです。下面の両端が斜めに加工してあるようです。
外嶋宮汐見神社
松原天満宮
加藤清正が築いた西堤防は、大井樋尻開の北側をながれる水路の道ですね。
九州農政局のホームページよりhttps://warp.ndl.go.jp/web/20200413155516/http://www.maff.go.jp/kyusyu/seibibu/kokuei/19/kantaku/index2.html
No7
よしば
葭場開堤防(大浜) 享和2年 1802 地図番号5 長さ980m
南西堤防(勝手に名付けた)の道沿いにやや長い石が多い 堤防だった石?
鯨油開へ水を送る給水口とおもわれる石の樋門
石の構造物。道のバイクと比べて、かなりでかいです。
道路の反対側に水路があります。
推測ですが、明辰川からの農業用水取入れ樋門でしょうか。堤防の外だから、堤防は橋?あるいはトンネル?
1900-1901年地図 石の樋門がある堤防の内側の水路はここから始まっているようです。ここの水田には左に水路があるので、この水田には必要はないでしょう。鯨油開に供給する水の取り入れ口ではないでしょうか。
No8
いちばん
一番開堤防 文化4年 1807 地図番号9 長さ1510m
〇間は現在ありません。
1974-78の古地図 赤丸が北堤防起点 「今昔マップ on the web」より
No9
にばん
二番開堤防 文化5年 1808 地図番号10 長さ1590m
〇間は現在ありません。
馬頭観音堂
観音堂の土台は石垣 比較的新しい石垣
住宅の土台の石垣が古そう
旧堤防のままの石垣でしょう。反対側はコンクリートです。観音堂から東の交差点
この場所です。
道路にこんなのがありました。裏側は見ていません。花崗岩
大量の長い石が畑の周りにあります。
ここも昔、樋門があったとしてもおかしくない場所です。
馬場木材から南へ下った場所にあります。
写真は古地図にもある昔からの道と水路です。ひょっとして西堤防はこっちかもしれません。
北堤防の残っている部分 国道の横
No10
さんばん
三番開堤防 文化6年 1809 地図番号11 長さ550m
三番開堤防は南堤防だけです。短い堤防ですが、直線540mあります。歩道もあり整備されていて新しい道路になっていますが、古くからある道路です。
No11
いちや
一夜開堤防 文政6年 1823 地図番号6 長さ1040m
1900-9001年古地図に、今はない東堤防が描かれています。ガソリンスタンドとコンビニの間付近に道路として一部残っています。また、北堤防は堤防じゃなく道で記載されています。
現在の菊池川堤防の外 菊池川海岸 松並木の富田堤防がみえます。背後の新大浜橋の下に船着き場があります。
No12
よんばん
四番開堤防 文政10年 1827 地図番号12 長さ600m
かわざらえりょう
川浚料開堤防 文政10年 1827 地図番号13 長さ2170m
四番西堤防は今ありません。
八番九番の交差点で、堤防はやや折れ曲がっています。
昭和ですが、交差点付近に映画館がありました。
四番開と川浚開は同じ年です。四番開のなくなった堤防をピンクで表示していますが、四番南堤防はもともと無かったとおもわれます。西と東の堤防の位置と形からみて四番開と川浚料開は同一開のようです。
四番東堤防と二番南堤防のT字路にみえる四番東堤防の石垣
東堤防は道路です。北方向。石垣はみあたりません。水路の左は用水、右は排水
中央を縦に流れる用水路は自然なカーブで曲がって九番に流れる。堤防の曲がりも自然なカーブが特徴的な川浚料開です。
水路の曲がり付近にたくさんの石。旧堤防の再利用の石かどうかはわかりません。普通の石垣の2倍以上長い石もあります。この付近に海への排水樋門があったとしてもおかしくありません。
江戸時代、高瀬は年貢米の出荷港で、菊池川河口付近に大型船が来ていました。高瀬港から河口までは小型舟で運んでいました。菊池川の川底を整える仕事がありました。川浚料開の命名の由来は「横島町の史跡文化財」ページの「横島に伝わる地名と由来」26ページ
No13
げいゆ
鯨油開堤防 天保2年 1831 地図番号7 長さ1570m
カーブミラー下の西堤防石垣の道路の内側で水路の整備が行われています。
草におおわれた外側の石垣とは関係ない工事とおもわれます。
ファミリーマート横 明辰川樋門
大浜排水機場
排水池は金網フェンスで囲まれています。屋根にマフラー モーターじゃなくディーゼルなんですか? 停電しても使えるほうがいい スマフォのカメラだけフェンスに入れて撮影
この道路の下に排水管が設置されています。左の建物が排水機場
12月に吐出ゲートの開閉装置の交換が行われました。
明辰川堤防はそのまま国道に使われています。豪雨の時はファミマの背後は水浸しになります。国道はかろうじて水没しないギリギリです。大浜排水機運営の担当者のおかげです。
No14
ごばん
五番開 弘化2年 1845 地図番号14 長さ1120m
google mapより 赤ラインより右が五番開東堤防 築添小開と五番開は同年に開かれています。河添新地は明治9年です。
五番開の堤防は道路として残っています。堤防だった今の道路に石垣はみつかりませんでした。道路の側面はコンクリートです。
金比羅橋は昭和14年に開閉橋が架けられました。その前は明治8年ころより渡し舟が65年間ありました。
No15
ちくぞえこびらき
築添小開堤防 弘化2年 1845 地図番号15 長さ340m
No16
ろくばん
六番開 弘化2年 1845 地図番号16 長さ720m 嘉永5年 1852 かも
右上の画像 水門用の石垣が2024年までありました。ストリートビューには2025年も映像があります。
北堤防を追加します。現在ありません。集落の端から一番開へつながっていました。
井手口建設さんが工事しました。そのまま埋めたほうが、道路として強いですよね。
No17
しちばんびらき おおびらき
七番開と大開 嘉永6年 1853 地図番号17と18 長さ4230m
七番開と大開は同じ開です。領主で分け合いました。
小天受免田旧渡し場
対岸は二番樋旧渡し場
明治21年ころより昭和35年9月まで 大開二番樋―小天受免開 間の渡し舟がありました。なぜ渡し場に田が付くのか調べてみます。
コンクリート内部の当時の石垣がみえます。この石積みは明治ですね。
大開樋門付近を二番井樋といいます。今でもここを二番井樋という人が多いです。
二番井樋から200m上流に一番井樋がありましたが、文久3年(1893)の潮害で決壊し、再築されませんでした。坂道に説明板があります。
大開の最も北にある舟着き場
唐人川樋門も舟着き場です。
google map ストリートビュー
唐人川防潮樋門は昭和54年(1979)建造です。
西堤防の石垣は潮害後復興の新しい石垣のようです。ここに平積みの古い石垣があります。北T字路からひと区画南 橋の横です。また、下部には補強されたようなコンクリートブロックがほぼ全西堤防にあります。
唐人川と大開堤防
小天側の堤防の上の同じ場所から
上流方向と対岸の大開堤防
正面の船の残骸付近から堤防の右上部は石垣です。
横島堤防も天水堤防も堤防上に道路はありません。
水は主に尾田の丸池の湧き水。両側堤防を整備して、ボート競技とか船漕ぎ競技イベントとかやってはどうでしょうか。
No18
よしば
葭場開堤防(横島) 嘉永6年 1853 地図番号19 長さ430m
唐人川堤防は現役なので、開閉ゲートが数個あります。
堤防上部のコンクリートは古いようです。
熊野神社標柱 坐は書いてありません
神社の参道階段の真正面にあります。熊野座神社は2025年で700年目です。葭場開ができた後の明治27年建設です。
横島郷土誌副読本より 横島町教育委員会 平成7年発行
熊野座神社 創建1325年 伊倉八幡宮より前 建物と資料は1832年の火災で全失
京泊を通る農業用水路
赤ラインは、現在使用されていません。
まぶ(トンネル水路)の入口
まぶの出口
まぶの出口に稲荷神社 きつね様の祠があります。
水路の山側の石垣
小さい穴はふさがれて使用されていない元水路に入る雨水の出口でしょう。
使用されていない道路下の水路 熊野座神社前の道路
ここから下流は現役水路
反対側から
石造りの小さな橋 なぜここに こんなに立派?
ここから道路下の水路
道路の端は水路
天照皇太神宮横の道路下水路
道路端は水路
ここから地表にあらわれます。
現在は白石堰からの流れが主です。ここから取り入れる給水門です。複数あります。
樹木の横は水路です。
以前はコンクリート水路はなく、この堀全部に水が流れていました。小さな石橋の裏あたり 海だった時の舟からのあがり口のような石組があります。
海への排水門があります。
Fにある小さな石橋と石垣の道 葭場開ができる前の舟着場でしょうか?
No19
はちばん
八番開堤防 安政4年 1857 地図番号20 長さ1600m
南堤防内側の石垣 上写真の石垣の近くにあります。奥の石垣はかなり古そうです。
南堤防内側 ここも石垣がみえています。
西堤防外側 堤防全体に鉄板が打ち込んであり、コンクリートです。右端の建物の基礎は石垣ですが新しすぎます。
道路に側溝があれば下までコンクリートで固められています。
南堤防外側 横は農地 雑草でかくれています。道路に側溝はありません。古い石垣だから雑草が生えるんですね。この道路は県道 県で草刈りやってますよね。
南堤防外側 住吉神社の近く ほんのわずかみえます。
作成No20
しばはら
芝原開堤防 安政4年 1857 地図番号8 長さ580m
国道との交差付近は、新堤防が造られ、県道も盛り土されていて旧堤防のなごりはありません。
国道下のトンネルの道は国道ができる以前から普通の道で、直線で、ここが旧堤防でしょう。自転車で通学していました。もっと高かったような記憶。
1900-1901の古地図
カモの大集団 追いかけていったら菊池川河口を過ぎて、大浜漁港の外まで飛びました。
No21
しょうや
庄屋開堤防 安政5年 1858 地図番号21 長さ490m
栗之尾地区処理場 農業排水処理ですか? 生活排水も含むのですか? 京泊も京泊地区処理場
処理場横にある広場 遊具あるから公園 荒れ果て 水道もありますが、水が出るかは不明です。
公園の横は川への階段があります。対岸はファミマです。ファミマの横にカワセミがいました。
赤井樋は庄屋開にあります。No4 官築新地 で紹介しています。
No22
くばん
九番開 安政6年 1859 地図番号22 長さ2180m
2025夏から上部が整備されました。よくみると8段石垣は正面の電柱から左端あたりだけで、多くは6段ぐらいです。
No23
じゅうばん
十番開 慶応2年 1866 (江戸時代最後の開 豊明開の一部) 地図番号23 長さ1720m
西堤防の内側は近年圃場整備が行われ、近くで樋門が見れるようになりました。 それまでは西堤防内側全体がやぶの中でした。
No24
かみあみほしば
上網干場堤防 明治6年 1873 地図番号46 長さ300m
おきあみほしば
沖網干場堤防 明治6年 1873 地図番号47 長さ320m
沖網干場の北堤防は今はありません。こんなかんじだったのでしょうか。干拓地図は細部まではわかりにくいです。古写真は1961-1963年 オレンジはもっと左で曲がっていますね。
国道の新明辰橋の横に、旧明辰橋の橋脚の跡が残っています。昭和53年3月 1978 から新明辰橋。
千原桜の並木道が上網干場堤防 つきあたりに九番神崎開養水碑記があります。
九番神崎開養水関連の樋門跡 と 烏帽子末広開用水関連の樋門枠 (2基の樋門)
安政6年完成の九番開と明治8年完成の神崎開は、水不足が続いていました。明治14年、ここに樋門と九番と神崎への専用水路を完成させました。碑記は大正8年のものです。川底に樋門の跡があります。碑記横の流れにある樋門跡と、対岸の薮の外にもう一本の水の流れにあるコンクリート橋でできた樋門の枠が残っています。明治23・4年烏帽子開末広開に引水するために大浜も樋門を設置しました。結果、横島は減水したので、元にもどしました。
No25
かみざき
神崎開 明治8年 1875 地図番号48 長さ1180m
No26
くくはら
久々原開堤防 明治9年 1876 地図番号49 長さ260m
久々原開と下久々原開は同じ年の開で、区切りになる京泊地区処理場横の道は、堤防ではなかったとおもわれます。唐人川の対岸へは道が無く行けませんでした。
No27
しもくくはら
下久々原開堤防 明治9年 1876 地図番号50 長さ260m
対岸から下久々原開唐人川堤防
下久々原開唐人川堤防北端から対岸
対岸の堤防には行けませんでした。2本の簡易橋がありますが、細くて左右に揺れて落ちそうなのでやめました。どちら側の堤防も上部に道はありません。
三角公園 メンテナンスされていません。
公園前の堤防に石階段 舟つき場用でしょう。
No28
かわぞえしんち
河添新地開堤防 明治9年 1876 地図番号51 長さ285m
金比羅橋付近の唐人川堤防
干潮時の唐人川堤防 国道より下流
国道より上流の唐人川堤防
No29
あんこう
安甲開堤防 明治9年 1876 地図番号39 長さ1220m
安甲川にあった樋門 1961-1963の写真 〇は碑記の場所
蛇行が多い安甲川(今は明辰川)樹木は対岸側 この付近は対岸も大浜町
No7葭場開で紹介している樋門は、葭場開堤防横の安甲開にあります。
No30
めいしん
明辰開 明治21年 1888 地図番号40 長さ695m
明辰開が築造されたのを期に、安甲川は明辰川に変更されました。
明辰橋の横 川底に平坦な石板らしきもの 両岸の石柱は倒れています。
もうひとつの橋の横 両岸に石柱がまっすぐ立っています。
No31
えぼし
烏帽子開 明治24年 1891 地図番号41 長さ2920m
烏帽子龍神社跡の石垣 烏帽子開北堤防の起点 内側 神社があった場所 隣接していた住宅がなくなり、見えるようになっています。神社は烏帽子区ふれあい館前に新築移転されています。
この場所の龍神宮が google map ストリートビューにまだあります。
15年ぶりに行われた大浜の年紀祭
No32
いりふね
入船開堤防 明治25年 1892 地図番号52 長さ50m
明治6年に両サイドの上網干場開と沖網干場開ができ、18年間漁港だった場所です。
明治24年に烏帽子開が築かれ富新開との間の明辰川に五枚戸樋門ができ、海から舟の通行ができなくなり、この地も干拓されました。
五枚戸は次の No33 富新開で紹介しています。
No33
とみしん
富新開 明治25年 1892 地図番号53 長さ1270m
南堤防の森
山以外でこんな樹木のトンネル初めて
誰も歩かないらしく足がしずむ
富新にもほげがありました。平成6年の地図
大正3年の潮害でできた沼 明丑の堤防決壊でおしよせた海水が富新の堤防も破壊してほげた(「ほげた」は横島弁 くぼんだ 掘られた の意味)現在は埋め立てられて農地になっています。 水色の線が旧堤防 2002年の地図には記載されていません。
1961-1964年の航空写真
富新橋際樋門跡 五枚戸跡
五枚戸樋門があった場所
昭和30年頃撤去されました。それまでは富新橋はなく五枚戸の上を歩いて行き来していたそうです。その後木造の富新橋が現在の場所にでき、今のコンクリートの橋に架け替えられました。
樋門の少し下流
ここで馬を洗っていたそうです。
No34
めいほう
明豊開堤防 明治26年 1893 地図番号55 長さ2780m 南堤防は国指定重要文化財
西堤防の道路 当時の堤防より低くなっています。
明豊開樋門は閉鎖されています。水があった内側に水はなく、樋門の下部は土砂で埋まっています。
外側はコンクリートで固められています。自然石が貼ってあります。
南堤防外の新栄へ排水
横島公民館のロビーにある豊明村(とよあけ)の掲示パネル
豊明村は文久3年に大型台風により消滅しました。一部は十番開として復旧しました。明治になって、豊明干拓を開くにあたり開の名を逆にして明豊としました。
明豊のほげ 1961-1964 航空写真 現在全て埋め立てられています。
2025年に残っているほげは明丑の西川ほげだけです。2025年6月には池の半分が埋め立てられました。
No35
めいちゅう
明丑開 明治26年 1893 明豊開の1月後 地図番号54 長さ2420m 明丑南堤防は国指定重要文化財
明丑龍神宮のすぐ近くに住んでおられたのが西川さん
堤防決壊後は熊本市
2024年に西川さんの子孫の方々が明丑の年紀祭に来られました。
明丑のほげ google map より 西川ほげは2025年6月で左半分が埋め立てられました。
2025年8月あたりから明辰川堤防の圃場整備がおこなわれています。左端の六枚戸樋門がみえるようになっています。132年目の現役堤防です。
明辰川堤防の10月中旬時の整備状況です。堤防上部の樹木は伐採されました。側面の石垣の様子がよくみえます。
六枚戸樋門と雲仙
2025年8月10日深夜からの豪雨で 西川ほげが一時的に復活しました
復活した西川ほげ ロードローラーのタイヤがほぼ浸かっています
No36
めいしんびらきじり
明辰開尻 明治26年 1893 地図番号42 長さ650m×2
明辰開尻は大浜町です。周りの堤防は完成していたので、明辰川両サイドの堤防を構築して土地化したということでしょう。
No37
すえひろ
末広開堤防 明治28年 1895 地図番号43 長さ3650m 南堤防と末広開樋門は国指定重要文化財
二枚戸付近の南堤防 内
昭和2年の潮害で決壊した北堤防
湾曲している部分の北堤防 この辺りが決壊では
二枚戸 内 手前の草で覆われた金網石フェンスは樋門保護でしょうか
六枚戸からみえる小さな樋門と明辰川堤防 外
小さな樋門の内側 両側は石積み こちらも手前に石フェンス
2025年も表示している google map ストリートビュー 2013年以前の末広開西堤防最北と有明排水樋門改修
2025年の末広開西堤防最北
末広開樋門(六枚戸) 西三枚戸樋門と東三枚戸樋門
横島の明丑開は明治26年 明丑開堤防との接合部
明丑側三枚戸 南から 全部自然石 沈下していません
明丑側三枚戸 真ん中の門
明丑側三枚戸 南門を上流から
明丑側三枚戸 南門を下流から
明丑側三枚戸 南門と北門の間から北門 北門に招き戸の金具
末広側三枚戸 上から 門のおさえの部分はコンクリート
末広側三枚戸 門柱もコンクリート
昭和2年のコンクリート 海と閉ざされて久しくなりますが、魚貝類の生ぐさい海のにおいがします。なんで?
階段は全部同じ素材の石ですね 潮害後に補強されたとおもわれる石積みのすき間のコンクリートも全部同じですね
三枚戸と三枚戸の中央にある石垣
石垣にひび割れがみられます。
上から6段の石の高さが下の石より高い 階段もそのあたりから上は急になっています。
末広側の西三枚戸樋門は昭和2年の潮害で崩れ修復されています。六枚戸全体も改良されています。 近代干拓技術の足跡を見せる「旧玉名干拓施設」 建設コンサルタンツ協会ホームページ
No38
とみた
富田開堤防 明治33年 1900 地図番号44 長さ1000m
菊池川堤防は松の並木がきれいな堤防です。富田開の築造者3名の名が富田。
南堤防の外側は石垣です。住宅の裏は石垣がみえますが、残り半分は薮におおわれています。
南堤防の内側はコンクリートです。堤防は四輪通れますが、樹木の枝がボディをこすります。
小さな石の樋門です。海への排水ではなく、水路の調整用です。現在の水路にあり、現役の雰囲気があります。
看板に玉名市漁港(富田開泊地)小さな漁港です。台風のときは一番安全な港のようです。すぐ近くに大浜漁協の事務所があります。
11月下旬 港の外の菊池川はカモだらけ。
No39
だいほう
大豊開堤防 明治35年 1902 地図番号56 長さ1420m 南堤防は国指定重要文化財
大豊開唐人川堤防 内 金峰山はここからみえる真ん中の二ノ岳が一番高い 岱明中の生徒はゴリラ山って言ってました。
大豊開唐人川堤防 外 2022年ころに唐人川から海水漏れがあり修復工事がおこなわれました。google map ストリートビューはそのころでしょう。
No40
ありあけ
有明開堤防 大正2年 1913 地図番号45 長さ1020m
新排水樋門の外側 排水口がみえます。新排水樋門と道路は2012年に建造されました。
新排水樋門と内側の調整池 手前の堤防は有明開南堤防 100年間潮受堤防でした。
有明開の最北から南方向