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シャチについて

シャチ(Orcinus orca)は海洋の高次捕食者として、場合により生態系に大きなトップダウン的効果をもたらすことが指摘されている(Barret-Lennard et al. 1995, Estes et al. 1998)。シャチは全海洋に分布し、現在のところ単一種とされているが、様々なバリエーションが知られている。北米大陸西岸の東部北太平洋では、少なくともレジデント、トランジェント、オフショアの3つの生態型が存在することが知られている(Ford 2002)。レジデント型は沿岸に定住し、サケなどの魚類と頭足類を捕食する。最も基本的に観察される群れの単位は母系であり、同じ母系の祖先を共有するポッド、共通する鳴音のパターンを持つクラン、さらに交流のある群れ全体を指すコミュニティが社会構造の単位として認識されている。母系内の個体の結びつきは非常に強く、安定した群れを形成する。一方、レジデント型とほぼ同所的に生息するトランジェント型は哺乳類食である。その社会性については十分明らかでないが、母系が基本となっていることが考えられている。しかし、レジデント型と比べて個体間の繋がりは弱く、個体が群れを離脱するために群れの個体数は少なく、雄はしばしば単独でいることも知られている。オフショア型もほぼ同所に生息するが、時々しか出現しないためこの型について分かっていることは少ない。これら3つの型はどれも遺伝的に異なっていることが知られている。さらに、ロシア側でもカムチャッカ半島東岸にレジデント型に相当する個体群がいることが報告されており(Tarasyan et al. 2005)、トランジェント型の存在も予想されている(Burdin et al. 2004)。


シャチの個体識別と鳴音

シャチの個体識別は、背びれおよび背びれ後方のサドルパッチ(サドルマーク)の形状やその付近に見られる様々な模様や傷跡を写真撮影することによって観察し(Bigg et al. 1987)、個体ごとの特徴を示す個体識別写真(ID)をカタログ化することによって行われてきた(Towers et al. 2012等)。鳴音にも幾つかパターンがあることが知られている(Ford 2002)。シャチの鳴音には継続時間が短いパルス音からなるクリックス、口笛のような連続音として聞こえるホイッスル、さらに密に連続するパルスから成るコールがある。クリックスは普通エコーロケーションに用いられるとされているが、ホイッスルとコールはコミュニケーション音として用いられる。特にコミュニケーション音には繰り返し出現し、典型的な形を示すDiscrete callと呼ばれるコールがポッドごとに十数種存在する事が知られており、母系を中心とする社会構造との関連が指摘されている。Discrete callについてもカタログ化(Burdin et al. 2006等)が行われており、群れや地域間での比較が行われている(Filatova et al. 2012等)。レジデント型の場合にはコールのレパートリーはポッド内では共有されるが、異なるポッドでは一部異なるレパートリーが見られる。このような変異はdialect(方言)と呼ばれ、レパートリーの共有が見られる範囲はクランと認識されている(Ford 2002)。トランジェント型の音響行動は、レジデント型に比べて鳴音行動そのものが少ないという特徴がある。これは獲物となる動物の逃避行動に対する適応と考えられており、コミュニケーション音だけでなく、エコーロケーション音でも同様に少ないとされる。コールについてはコミュニティ全体で共有される多数のコールがあるほか、幾つか地域特有のコールもあるとされているが、レジデント型に見られるようなdialectは明らかでなく、これも群れが比較的一定しない社会構造と関係すると考えられている(Ford 2002)。


日本におけるシャチ研究

我が国におけるシャチ研究はあまり多くないが,最もまとまった研究の一つはNishiwaki and Handa (1958)であり、1948年から1957年の間に捕鯨によって全国で捕獲された計567頭について生物学的特徴や胃内容物等を報告したものである。その後、調査航海で発見されたシャチの報告などが散発的にあったが、1997年には和歌山県沖で特別捕獲された5頭が水族館に収容され、繁殖生理や遺伝子等について研究された。また、2005年に根室海峡の相泊にシャチが座礁し、死亡した9頭から各種の標本が採集された。2007年にはそれらの研究成果を含む、日本におけるシャチ研究の現状を取りまとめたシンポジウムが開かれ、報告書が出版されている(加藤&吉岡 2009)。最近国内でもシャチがしばしば目撃される海域が知られるようになってきた。特に北海道の知床半島と国後島の間に位置する根室海峡と釧路市の沖合ではよく見られる。これらのシャチについては、特に根室海峡で地元の有志により個体識別写真が蓄積されるようになり(佐藤 2009)、基本的な研究の基盤が整備されるようになった。釧路沖のシャチについては三重大学により調査が始められ、個体識別写真の蓄積の他、根室海峡のシャチとの関連についても検討された(幅 2012)。しかし、全体として日本周辺のシャチに関する科学的情報は整備中の段階にあり、不明な点が多い。特に、本種の生物学的特徴である高度な社会性を考慮に入れた研究は非常に不足している。また保全を巡る状況としても、水産庁によって原則捕獲禁止の措置がなされているほかは特になにも配慮されていない。


北海道シャチ研究大学連合(Uni-HORP)について

日本に生息するシャチについて特に保全学的見地から研究を行うためには、生息が明らかな海域での研究基盤の整備を進め、その個体群の現況を明らかにしていくことが重要である。釧路沖と根室海峡のシャチについては個体識別調査が既に始められているが、生物が世代交代していくことを考慮すれば、データの蓄積を継続的に行っていくことは本質的に必要とされる。本研究グループでは、根室海峡と釧路沖に出現するシャチについて、佐藤や幅らによって行われてきた個体識別データの蓄積を引き継ぎ、さらに鳴音データの蓄積,発信器の装着を図ることで、現在北海道周辺で頻繁に観察されているシャチの社会構造と行動圏について明らかにすることを目的としている。