レズリー・ニュービギンという英国国教会の宣教師がおられます。
その方は卓越した神学者でした。しかしインドで35年間、ヒンドゥー教徒に宣教をされた方です。
その方は毎週ヒンドゥー教の寺院に通い、そこにいるヒンドゥー教の指導者たちと一緒に、彼らの聖典である「ウパニシャッド」をサンスクリット語で学び、ヨハネの福音書をギリシャ語で学びながら、お互いの聖典について討論をしていたそうです。ところでヒンドゥー教の寺院に行くと、偉大な宗教指導者たちの肖像画が壁に掛けられているのですが、その中にはイエス様の肖像画も入っているそうです。そして彼らも毎年クリスマスになると、そのイエス様の肖像画の前でイエス様の誕生を祝うのだそうです。ヒンドゥー教は皆さんもご存じのとおり、汎神論を基礎として作られた宗教です。このすべての世界、宇宙は一つに帰結するのであり、それを神と呼ぶ人々が汎神論者です。
簡単に言えば、この宇宙そのものが神なので、何一つ神でないものはないということです。だから人間も最終的に解脱に至れば神になることができるというのが彼らの主張です。結局、汎神論というものは無神論と同じ根を持つものです。
すべてが神であるなら、何一つ神ではないのと同じではありませんか。
ところがそのヒンドゥー教の指導者たちの中に、罪と赦しについて研究する有神論的教理を持つ神学者がいたそうです。
レズリー・ニュービギン牧師がそのヒンドゥー教の神学者に、キリスト教で語る罪とキリストによる赦しの教理をよく説明してあげると、そのヒンドゥー教の神学者はこう言ったそうです。「あなたが言うそのイエス・キリストさえ除けば、あなたと私の教理はまったく同じです。」
私たちは皆罪人であり、罪の赦しを受けなければならないという点には、自分も同意するというのです。
そこでそのレズリー牧師が、「それならあなたも、イエスを信じなければ救われないということを認めるのですか?」と尋ねると、そのヒンドゥー教の神学者はこう言ったそうです。
「なぜそれが必ずイエスでなければならないのですか。もしイエスが私を救ってくれないなら、あの多くの神々の中から、私を赦してくれる別の神を探しに行けばいいではありませんか。」
そう言って、壁に掛けられている宗教指導者たちの肖像画を指さしたのです。
今日、礼拝堂の中にも、このヒンドゥー教の神学者のようにイエスを信じている人が非常に多くいます。皆さんはいかがでしょうか。皆さんはなぜイエスを信じるのですか。イエスを信じることによって皆さんに得られる益、皆さんに与えられる救いのためにイエスを信じているのではありませんか。間違った答えではありません。
しかし、私たちがイエスを信じる目的が「救い」という「私たちの必要」に焦点を当てるようになると、私たちはそこで「神の栄光」というものを見失ってしまいます。どういう意味でしょうか。
もし私たちがあまりにも「私たちの救い」に信仰生活の目的を置いてしまうと、私たちは私を救ってくださるその方がどのようなお方なのか、私はその方を全面的に信頼できるのか、そういったことには関心を持たず、「とにかく誰でもいいから私に救いさえ与えてくれるなら、その神について行く」という方向へ行ってしまうのです。
これは本当に危険な信仰です。私たちは救いを受けるために神に仕えるのではありません。私を救ってくださった神が、仕えられ、栄光と尊厳と賛美を受けるにふさわしいお方であるからこそ、その方に仕えるのです。
私たちが出エジプト記で学んだように、イスラエルがエジプトから出た後、モーセがシナイ山に登って40日間姿を見せなかったとき、シナイ山の下でイスラエルの民は金の子牛を作りました。
そしてその金の子牛を主(ヤハウェ)と呼びました。金の子牛はエジプト人が仕える豊穣と多産の神でした。つまりイスラエルの民は、自分たちを救ってくれた神に仕えたのではなく、
自分たちの必要を満たしてくれる「どんな神でもよい、不特定多数の中の一つ」を拝んだのです。
キリスト教で言う信仰とは、私の必要を満たしてくれる力ある存在にへつらうことを信仰と言うのではありません。キリスト教の信仰とは、私の必要が一つも満たされないとしても、
その方が主なる神であるからこそ、その方を信じることを信仰と言うのです。
皆さんはいかがでしょうか。皆さんは、皆さんに救いを与える方がどの神なのかを知ってその方に仕えているのでしょうか。それとも、その方が誰であるかは関係なく、ただ私を地獄から救ってくれる「ある神」を拝んでいるのでしょうか。なぜこの区別が重要なのでしょうか。後になれば、この二つの行き先が違ってくるからです。
私の救いが目的になると、私たちは救いの後の人生を走り続けることができません。
しかし、私を救ってくださった神の栄光が私の目的地になるなら、私は私を救ってくださったその大いなる神の栄光のために今日を生きるようになります。だから正しい救いの理解を持っている人とそうでない人の人生には違いが出るのです。
つまり、酒に酔う人が自分のためにすべてを動員するのに対し、聖霊に満たされた人は神の栄光を自分の人生の中で現そうと熱心になるように、信仰とは私から神へと私の目と関心を向けることなのです。
このように「神の栄光」に焦点を当てるべき信仰が、「私の必要、私の救い」という感覚的で限られた範囲の信仰へと変質してしまったのには、いくつかの根本的理由がありますが、その中でも最も大きな影響を受けたのがルネサンスです。
キリスト教の歴史の中で1500年間は、むしろ過度に神中心の信仰でした。そのため人間が卑下され、盲信が横行し、聖職者たちが高位の官僚のように扱われていた時代でした。
しかし宗教改革が起こり、ルネサンス、文芸復興がヨーロッパを席巻すると、過度な神本主義は崩れました。そして人間の理性が強調されるようになり、聖書の啓示でさえも人間の理性の審判を経なければ啓示としての価値を発揮できないほどになりました。人間の理性で理解できない部分は、聖書の中でも容赦なく神話や伝説として扱われ始めました。
そのようにしてキリスト教は極めて人間中心的な宗教へと変質し始めたのです。
その人本主義が物質主義を生み、キリスト教は急速に人間中心的で物質主義的な宗教へと転落していったのです。だから礼拝堂に来ても「神の栄光」を求めるのではなく、「私の利益、私の救い、私に注がれるべき恵み」ばかりを追い求めるようになったのです。
いつも私が中心です。イエスを語り、神を呼び、信仰や恵みを語っているのに、その話の中心はいつも「私」です。「私の家族、私が属している共同体」。厳密に言えば、それはキリスト教ではありません。
むしろそれを私たちは「罪」と呼びます。私たちは礼拝堂に来て感動することがあります。恵みを受けたと言うこともできます。
涙を流すこともあります。しかし皆さんが感動したその方が、主なる神ではない可能性もあります。そうした宗教的エクスタシーや感激は、どんな宗教にもあるものです。仏教にもあり、ヒンドゥー教にもあり、イスラム教にもあります。
私たちが信仰生活をしていると言いながら、このように「私の必要」に焦点を当てると、「神」という名前が付けられた偶像を作り出すことができるのです。
そのように礼拝堂で、目に見えない「神の栄光」ではなく、目に見える「私の必要」を求める人々は、何か感覚的で目に見える証拠を求めるようになります。
なぜなら彼らは、目に見えない神の栄光を知らないだけでなく、それを追い求めてもいないため、目に見える証拠を探すようになるのです。彼らがどこで一番安心するかご存じですか。
「大きなもの」や「多くの人が共通して認める感動的なもの」を追い求めます。「賜物を強調するとか、宣教を強調するとかして、他の人たちは簡単には経験できないことを私たちはできる」という自負心を与えるのです。「私の必要」が主な関心である人々は、そうでなければ安心できないのです。自分が目に見える何かをしなければ、神の前で堂々としていられないと感じるからです。
そのように「私の必要」を求める信徒たちが大多数を占めるようになると、教会という看板を掲げた場所で彼らの必要を満たし始めました。なぜなら、その宗教によって生計を立てている人々があまりにも多く増えてしまい、彼らを維持するためにあまりにも多くの機関が生まれてしまったため、人々を引き留めなければ献金が入らず、そうしてこそそれらを維持できるからです。
それで感動的なプログラムを導入します。ウィロークリーク教会のような所には良いプログラムがたくさんありますよね。韓国の大型教会がそのプログラムを導入する際に、数十万ドルのロイヤリティを支払って導入しました。「弟子訓練、新信者訓練、オープン礼拝」などのものを、数十万ドルも払って導入する意図は何でしょうか。人々の必要を満たすためです。そして彼らをつなぎとめるためです。
子どもを持つ多くの親たちは、どんな教会を探すでしょうか。日曜学校で何を教えるかは関係なく、「うちの子が好きなプログラムがあるかないか」「うちの子の関心を引きつける教育プログラムがあるかないか」そんなことばかりを探します。
子どもたちが好きなプログラムとは何でしょうか。彼らの罪性を刺激するプログラムしかありません。子どもたちは何が一番好きでしょうか。罪を犯すことが一番好きです。何が一番嫌いでしょうか。古臭く聖書を教えられることが一番嫌いです。それなのに教会はそれぞれ、子どもの礼拝で演劇をする、音楽会をする、運動をする、美術を教えるなど、大騒ぎしています。親たちはそれを喜びます。だから教会はそれぞれ、良いプログラムを導入するために心血を注ぎます。
ある教会は神秘的な聖霊の賜物を強調します。人々はそのような目に見える神秘的なものと自分が関係していると思うと、たとえ短い間でも非常に安心するからです。
どうせなら礼拝堂も大きく建てます。冗談のように聞こえるかもしれませんが、大きな礼拝堂におられる神は、何か自分のためにもっと大きなことをしてくださる方のように人々が錯覚するのです。そしてそのように人が多くなり礼拝堂が大きくなると、人々は必ず「自分は誰もが認める安全な共同体に入っている」という安心感を持つようになります。それで自分自身で走り続けなければならない信仰生活をおろそかにするようになるのです。本当に大きな教会や人気のある教会が、神が共におられる証拠なのでしょうか。
キリスト教は空間の宗教ではありません。空間の宗教とはバアルを拝む宗教です。
バアルは彼の神殿にしかいません。だからバアルを仕える女祭司や聖職者、あるいは一般信者がその神殿で性関係を持つと、バアルが興奮して雨を降らせ、豊穣を約束するというような雑多な宗教なのです。キリスト教は時間と歴史の中で理解されるべきものであって、空間の宗教ではないのです。
(列王記上8:27-30)
27 神は果たして地の上に住まわれるでしょうか。天も天の天もあなたをお入れすることができないのに、まして私が建てたこの宮など、なおさらです。
28 しかし、わが神、主よ、しもべの祈りと願いに目を留め、今日あなたの前でしもべが叫び求めている祈りを聞いてください。
29 あなたがかつて「わたしの名がそこにある」と言われたこの場所、この宮に向かって、昼も夜もあなたの目を注ぎ、しもべがこの場所に向かって祈る祈りを聞いてください。
30 しもべと、あなたの民イスラエルがこの場所に向かって祈るとき、その願いを聞いてください。あなたがおられる天で聞き、聞いて赦してください。
ソロモンが神殿を建て、その神殿を神に奉献する場面です。しかしソロモンはその時でも、神がその神殿に住まわれる方ではないことを知っていました。
(列王記上8)
32 あなたは天で聞き、行い、あなたのしもべたちをさばき、悪者の罪を定めてその行いをその頭に報い、正しい者を正しいとし、その義にしたがって報いてください。
34 あなたは天で聞き、あなたの民イスラエルの罪を赦し、彼らをその先祖に与えた地に帰らせてください。
36 あなたは天で聞き、あなたのしもべとあなたの民イスラエルの罪を赦し、彼らが歩むべき良い道を教え、あなたの民に嗣業として与えた地に雨を降らせてください。
39 あなたがおられる天で聞き、赦し、それぞれの心をご存じであるあなたが、そのすべての行いにしたがって報いてください。人の心をすべて知っておられるのは、あなただけです。
44 あなたの民が敵と戦うためにあなたの遣わされる道に出て行き、あなたが選ばれたこの町と、私があなたの名のために建てたこの宮の方に向かって主に祈るとき、
45 あなたは天で彼らの祈りと願いを聞き、その訴えを聞き入れてください。
人々が大きなものや多数を好むのは、このように目に見えない神の栄光を知らないからです。
もちろん、私たちが最初にイエスを信じるようになるときには、「私の必要、私の救い」に関心を持ちます。しかし一度イエスを信じ、成長していくにつれて、私たちの関心の焦点は移っていくものです。私たちが幼い子どもであったときには、親とはただ私の必要を満たし、私をよく育ててくれる存在として認識されます。しかし私たちが成長して分別がついてくると、それからは親から何をもらえるかではなく、「お父さんお母さんは何を召し上がれば健康で長生きできるだろうか」「何を差し上げれば喜んでくださるだろうか」と考えるようになるように、私たちもイエスを信じて成長していくと、関心の焦点が変わっていくのです。
15世紀にコペルニクスが現れる前までは、人々はこの宇宙の中心が地球だと思っていました。
地球を中心に太陽も月も星もすべてが回っているという天動説を信じていました。しかしコペルニクスは、地球こそ巨大な恒星の周りを回る惑星であることを発見したのです。
それをコペルニクス的転回と呼びます。天動説から一夜にして地動説へと変わったのですから、世界がどれほど驚いたことでしょうか。
私たちの信仰生活にも、まさにそのコペルニクス的な大転換が起こらなければなりません。今までは私が中心で神が私を助ける方でしたが、これからは神が中心で、私がその方のために存在するというコペルニクス的な大転換が、私たちの信仰生活には必要なのです。
とはいえ、アメリカ国民全体の中でも、いまだに天動説を信じている人が33%もいるそうですから、本当に言葉もありません。
このように、いまだに自己中心的な信仰にとどまっている人は、まだ自分自身が自分の人生の神であるため、自分で自分の力を強くしようとし続けます。財産や名誉はもちろん、世俗的な人気や他人からの認められること、そういうものを追い求めます。
皆さんは違うと思いますか。皆さんが「信仰が良い」「信仰が深い」「信仰が熱い」と認める人を一度思い浮かべてみてください。皆さんはその人たちの何を根拠にして、彼らの信仰を良い、熱い、深いと評価しているのでしょうか。
「教会の働きをたくさんしているから」「祈りが上手だから」「礼拝の時間によく泣くから」「聖書をたくさん知っているから」そのようなことではないでしょうか。信仰には大きい小さいというものはあり得ません。信仰は完全な全体が、私たちに一度に与えられるものだからです。
(第二テモテ3:14)
15 あなたは幼いころから聖書を知っており、その聖書はキリスト・イエスにある信仰によって救いに至る知恵をあなたに与えることができるのです。
(ガラテヤ3:23-26)
23 信仰が来る前には、私たちは律法の下に閉じ込められ、後に現される信仰の時まで閉じ込められていました。
24 このように律法は、私たちをキリストへと導く養育係となり、私たちが信仰によって義と認められるためでした。
25 しかし信仰が来た後は、私たちはもはや養育係の下にはいません。
26 あなたがたはみな、信仰によってキリスト・イエスにあって神の子どもだからです。
信仰はイエスの中にあるものです。そしてそのイエスが私たちの中に入っておられます。だから私たちの信仰は皆、同じ大きさの信仰なのです。その信仰をどれだけ自分の人生の中で味わい、用いるかということを、信仰生活を通して私たちは追い求めていくのです。
すでに私たちに与えられているその完全な信仰を、一つ一つ開いて見ながら、「ああ、私にはこのようなものが与えられていたのだ」と感激し、その信仰によって救いを与えてくださった神の栄光を現していく人生、それをキリスト者の人生と言うのです。
そのように神を知り、神の前に降伏し、その神の栄光を現す人を、私たちは信仰が良い人だと認めなければなりません。
しかし私たちの人生の中で、その神の栄光が現れる人生を生きるためには、私が現れることによって神の栄光が現れるのではなく、むしろ私が砕かれていくことによって神の栄光が現れるのです。
(第二コリント4:6-7)
6 「闇の中から光が輝き出よ」と言われた神は、イエス・キリストの御顔にある神の栄光を知る光を、私たちの心に照らしてくださったのです。
7 私たちはこの宝を土の器の中に持っています。それは、この非常に大きな力が神から出たものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。
私たちはイエス・キリストという宝を宿している土の器です。しかしそのイエス・キリストは、神の栄光をそのまま持っておられる方です。その神の栄光が現れるためには、土の器が砕かれなければ神の栄光は現れないのです。
ですからイエスを本当に信じるようになると、皆さんの人生は思いがけず、何度も砕かれるような経験をするのです。他の人が見て、「あの人はどうしてあの状況であんな忍耐ができるのだろう」「あの人はどうしてあんな悪い人をあのように赦すことができるのだろう」「あの人はどうしてあそこまで低くなりながらも顔一つ赤くしないのだろう」と言うように、私たちは自分が砕かれていく姿の中で、神の栄光、その方のご性質を私たちの人生の中で現す人々なのです。それを聖さと言うのです。それがまさに私たちの信仰の目的地なのです。
多くの人が誤解しているのは、十字架を私たちの救いの道具や方法としてだけ考えていることです。そうではありません。十字架は私たちの救いの方法でもありますが、十字架は十字架によって救われた神の民の中に満たされなければならない内容でもあるのです。私たちはイエス・キリストによって救いを得ましたが、その方が私たちの中に入っておられるように、十字架の原理もそのようなものなのです。
十字架は単なる刑罰の形ではありません。十字架は天の国の人生の原理です。
自分を死なせて敵を生かす天の国の人生の原理、いや、神のご性質を最もよく集約して要約したものがまさに十字架なのです。この世では愚か者のように扱われるその十字架が、天の国の人生の原理なのです。イエス様はこの地上に来られ、敵から苦しめられ、彼らを赦しながら、無理に歯を食いしばって耐えられたのではありません。それがイエス・キリストと神のご性質なのです。
私たちはその十字架の人生をこの地上でそのまま再現する人生を生きることによって、神の栄光、神のご性質を現すのです。それが私たちの目標地点です。
ですから私たちは、イエス様がそのように生きていかれたように、絶えず砕かれ、壊される苦しみの中へと投げ込まれていくのです。
では、私たちがそのように神の栄光のために生きるためには、その神の栄光が何であるのかを知らなければなりません。
では、その目に見えない神の栄光を、この地上で目に見える形で私たちに示してくださった方は誰でしょうか。イエス様です。しかし私たちは今、その方を直接お会いすることはできません。では、どのようにして私たちはそのイエス・キリストを学ぶことができるのでしょうか。それはまさに、そのイエスについて詳しく、私たちの理解できるレベルに合わせて記録してくださっている聖書を、熱心に学ぶことです。
(ヨハネ1:17)
18 いまだかつて神を見た者はいない。父の懐におられる独り子なる神が、神を現されたのである。
(ヨハネ5:39)
39 あなたがたは聖書の中に永遠の命があると思って聖書を調べているが、その聖書こそ、わたしについて証ししているのである。
皆さんが熱心に聖書を通してイエス・キリストを学ぶこと、それが神の栄光、神のご性質を学ぶことなのです。
キリスト教とは、「私」から焦点を移し、「神の栄光」へと目を向けることです。ですから私たちは、神の栄光を啓示してくださったイエス様を説明している聖書を、熱心に学ばなければならないのです。
そして私たちのすべての時間は、そこへ注ぎ込まれなければならないのです。
酒に酔ってはいけません。時間を大切にしなさい。自分の腹のためだけに時間を無駄にしてはいけません。そして聖霊に満たされなさい。聖霊の満たしは、聖書を通して受けることができます。
(ハバクク3:17-19)
17 たとえ、いちじくの木に花が咲かず、ぶどうの木に実がなく、オリーブの木の収穫がなく、畑に食物がなく、羊が囲いから絶え、牛が牛舎にいなくても、
18 それでも私は主にあって喜び、私の救いの神にあって喜び躍る。
19 主なる神は私の力であり、私の足を鹿のようにし、私を高い所に歩ませてくださる。この歌は指揮者のために、私の弦楽器に合わせて歌うものである。
(ピリピ3:8)
8 そればかりか、私の主キリスト・イエスを知る知識のすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私はキリストのためにすべてを失い、それらをちりあくたのように思っています。それはキリストを得るためです。
(第二ペテロ3:18)
18 むしろ、私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと、その方を知る知識において成長しなさい。栄光が今も永遠の日に至るまで、その方にありますように。
さあ、これで何が本当に重要なのか、もうお分かりになったでしょう。
레슬리 뉴 비긴이라는 영국 국교회의 선교사님이 계십니다. 그 분은 탁월한 신학자이십니다. 그런데 인도에서 35년간 힌두교 교인들에게 선교를 하신 분이십니다.
그 분은 매 주 힌두교 사원으로 출근 하셔서 그 곳에 있는 힌두교 지도자들과 함께 그들의 경전인 “우파니샤드”를 “산스크리트 어”로 공부하고 요한복음을 헬라어로 공부하면서 서로의 경전에 대해 토론을 했다고 합니다. 그런데 힌두교 사원엘 가면 위대한 종교 지도자들의 초상화를 벽에다 걸어 놓는데 그 속에 예수님의 초상화도 들어 있답니다. 그리고 그들도 매년 크리스마스가 되면 그 예수님이 초상화 앞에서 예수님의 탄생을 축하한답니다. 힌두교는 여러분도 아시다시피 범신론의 기초 아래 만들어진 종교입니다. 이 모든 세상, 우주는 하나로 귀결되는 데 그 것을 신이라고 부르는 사람들이 범신론자들입니다. 그러니까 간단히 말하면 이 우주 자체가 신이기 때문에 무엇 하나 신이 아닌 게 없는 것입니다. 그래서 인간도 결국 해탈에 이르면 신이 될 수 있다는 것이 그들의 주장입니다. 결국 범신론이라는 것은 무신론과 맥이 같은 것입니다. 모든 게 신이면 아무 것도 신이 아닌 것과 다를 게 뭐가 있습니까? 그런데 그 힌두교 지도자들 중에 죄와 용서에 대해 연구하는 유신론 적 교리를 갖고 있는 신학자가 있었답니다. 그 레슬리 뉴비긴 목사님께서 그 힌두교 신학자에게 기독교에서 말하는 죄와 그리스도를 통한 용서에 대한 교리를 잘 설명해 주었더니 그 힌두교 신학자도 “당신이 말하는 그 예수 그리스도만 빼면 나와 당신의 교리는 정확하게 일치 한다”고 하더랍니다.
우리는 모두 죄인이고 죄의 용서를 받아야 한다는 것에는 자신도 동의한다는 것입니다.
그래서 그 레슬리 목사님께서 “그럼 당신도 예수를 믿어야 구원을 받는다는 것을 인정하는 것이냐?“라고 묻자 그 힌두교 신학자는 ”왜 꼭 그게 예수여야만 하는가? 예수가 나를 구원해 주지 않으면 저 많은 신들 중 나를 용서해 줄 다른 신을 찾아가면 되지 않는가?“ 하고 벽에 있는 그 종교 지도자들의 초상화를 가리키더랍니다.
오늘 날 예배당 안에 이 힌두교 신학자처럼 예수를 믿는 사람들이 아주 많습니다. 여러분은 어떠세요? 여러분은 왜 예수를 믿으세요? 예수를 믿어서 여러분에게 얻어 지는 유익, 여러분에게 주어지는 구원을 위해 예수를 믿으시지요? 틀린 답이 아닙니다. 그런데 우리가 예수를 믿는 목적이 “구원”이라는 “우리의 필요”에 초점이 모아지게 되면 우리는 거기서 “하나님의 영광”이라는 것을 놓치게 됩니다. 무슨 말인가 하면 우리가 너무 “우리의 구원“에 우리 신앙생활의 목적을 두게 되면 우리는 나를 구원하시는 이가 어떤 분이신 지, 나는 그 분을 전적으로 신뢰할 수 있는지 이런 것에는 관심을 두지 않고 “그냥 아무나 나에게 구원만 주면 나는 그 신을 좇아 갈 거야“로 가게 된다는 것입니다. 이건 정말 위험한 믿음입니다. 우리는 구원을 받기 위해 하나님을 섬기는 것이 아니라 나를 구원하신 하나님이 섬김과 영광과 존귀와 찬양을 받으시기에 합당하신 분이시기에 그 분을 섬기는 것입니다.
우리가 출애굽기에서 공부한 것처럼 이스라엘이 애굽에서 나온 후 모세가 시내 산에 올라가서 40일 동안 두문불출 하자 시내 산 아래에서 이스라엘 백성들이 금송아지를 만들었습니다.
그리고 그 금송아지를 여호와라고 불렀습니다. 금송아지는 애굽 사람들이 섬기는 풍요와 다산의 신이었습니다. 그러니까 이스라엘 백성들은 자기들을 구원해 준 하나님을 섬긴 자들이 아니라 자기들의 필요를 채워 줄 “아무 신, 불특정 다수 중의 하나”를 섬긴 것입니다.
기독교에서 말하는 신앙이라는 것은 나의 필요를 채워주는 어떤 힘 있는 존재에게 아부를 떠는 것을 신앙이라고 하지 않습니다. 기독교 신앙은 나의 필요가 하나도 채워지지 않는다 할지라도 그 분이 여호와 하나님이시기 때문에 그 분을 믿는 것을 신앙이라고 하는 것입니다.
여러분은 어떠세요? 여러분은 여러분에게 구원을 주시는 분이 누구 신지를 알고 그 분을 섬기고 계십니까? 아니면 그 분이 누구인지는 상관없고 그저 나를 지옥에서 구원해 주는 “어떤 신”을 섬기고 계십니까?
왜 이 구분이 중요하냐 하면 나중에 가면 이 둘의 목적지가 달라지기 때문입니다.
나의 구원이 목적이 되면 우리는 구원 그 이후의 삶을 경주할 수가 없습니다.
그러나 나를 구원하신 하나님의 영광이 나의 목적지가 되면 나는 나를 구원하신 그 크신 하나님의 영광을 위해 오늘을 살게 되는 것입니다. 그래서 올바른 구원관을 갖고 있는 사람과 그렇지 못한 사람의 삶이 차이가 나는 것입니다.
그러니까 술 취하는 사람이 자기 자신을 위해 모든 것을 동원하는 반면에 성령 충만한 사람이 하나님의 영광을 자기의 삶 속에서 드러내려 열심을 내는 것처럼 신앙은 나에서 하나님으로 나의 눈과 관심을 돌리는 것입니다.
이렇게 “하나님의 영광”에 초점을 두어야 하는 신앙이 “나의 필요, 나의 구원” 이러한 감각적이며 제한된 한계 속의 신앙으로 변질이 된 것은 여러 가지 근본적인 이유가 있지만 가장 악 영향을 받은 것이 바로 르네상스입니다.
기독교 역사 중 1,500년간은 오히려 지나치게 하나님 중심의 신앙이었습니다. 그래서 인간이 비하되고 맹신이 판을 치게 되고 성직자들이 고위 관리처럼 대접이 되었던 시기였습니다.
그런데 종교 개혁이 일어나고 르네상스, 문예부흥이 유럽을 강타하면서 지나친 신본주의가 무너졌습니다. 그리고 인간의 이성이 강조되면서 성경의 계시까지도 인간의 이성의 심판을 거쳐야 계시로서의 가치를 발휘할 수 있게까지 되었습니다. 인간의 이성으로 이해가 되지 않는 부분들은 성경에서 가차 없이 신화나 설화로 매도되기 시작했습니다.
그렇게 기독교는 극히 인간중심적인 종교로 변질되기 시작한 것입니다.
그 인본주의가 물질주의를 낳으면서 기독교는 급속도로 인간중심적이며 물질주의 적인 종교로 전락을 하게 된 것입니다. 그러니까 예배당에 와서도 “하나님의 영광“을 추구하기보다는 ”나의 유익과 나의 구원, 나에게 쏟아져야만 하는 은혜” 이런 것만을 추구하게 된 것입니다.
항상 내가 중심입니다. 예수님을 말하고 하나님을 부르며 믿음과 은혜를 이야기하는데 그 이야기의 중심은 항상 “나”입니다. “나의 가족, 내가 속한 공동체“ 엄밀히 말해서 그건 기독교가 아닙니다.
오히려 그걸 우리는 “죄”라고 부릅니다. 우리가 예배당에 와서 감동을 받을 수 있습니다. 은혜를 받았다고 말할 수도 있습니다. 눈물을 흘릴 수도 있습니다. 그러나 여러분이 감동한 그 분이 여호와 하나님이 아닐 수도 있습니다. 그런 종교적 엑스터시나 감격은 어떤 종교에도 다 있는 것입니다. 불교에도 있고 힌두교에도 있고 이슬람교에도 있습니다.
우리가 신앙생활을 한다고 하면서 이렇게 “나의 필요”에 초점을 두게 되면 우리는 “하나님”이라고 이름이 붙여진 우상을 만들어 낼 수 있는 것입니다.
그렇게 예배당에서 보이지 않는 “하나님의 영광”이 아닌 보이는 “나의 필요“를 구하는 사람들은 뭔가 감각적이며 눈에 보이는 증거들을 구하게 됩니다. 왜냐하면 그들은 보이지 않는 하나님의 영광을 알지도 못할뿐더러 그 것을 추구하지도 않기 때문에 눈에 보이는 증거들을 찾게 되는 것입니다. 그들이 어디서 제일 안심하는지 아세요? “큰 것과 다수가 공통적으로 인정하는 감동 적인 것”들을 추구합니다. “은사를 강조 한다든 가, 선교를 강조 한다든 가해서 다른 이들은 쉽게 경험 할 수 없는 것들을 우리는 할 수 있다”라는 자부심을 줍니다. “나의 필요”가 주 관심인 사람들은 그래야 안심이 되거든요. 내가 눈에 보이는 뭔가를 해야 하나님 앞에 떳떳함을 느끼기 때문입니다.
그렇게 “나의 필요”를 구하는 교인들이 대다수를 차지하게 되면서 교회라고 간판을 붙인 곳에서 그들의 필요를 채워주기 시작했습니다. 왜냐하면 그 종교를 통해 먹고살아야 하는 사람들이 너무 많이 늘어나 버렸고 그들을 유지하기 위해 너무 많은 기관들이 생겨나 버렸기 때문에 사람을 붙들어 놓아야 헌금이 들어오고 그래야 그 것들을 유지할 수 있기 때문입니다.
그래서 감동적인 프로그램들을 도입합니다. 윌로크릭 교회 같은 곳에 좋은 프로그램들이 많이 있지요? 한국의 대형 교회들이 그 프로그램을 도입해 가면서 수십만 불의 로열티를 지불하고 들여갔습니다. “제자훈련, 새 신자 훈련, 열린 예배“ 이런 것들을 수 십 만 불 씩 주면서 들여가는 의도가 뭡니까? 사람들의 필요를 채워주기 위해서입니다. 그래서 그들을 붙잡아 두기 위해서입니다.
자식이 있는 많은 부모들이 어떤 교회를 찾습니까? 주일 학교에서 뭘 가르치든 그건 상관 안 하고 “우리 아이가 좋아하는 프로그램이 있나 없나“”우리 아이의 시선을 잡아끌어 줄 교육 프로그램이 있나 없나“ 이런 것만 찾아다닙니다.
아이들이 좋아하는 프로그램이 뭘까요? 그들의 죄 성을 자극해 주는 프로그램밖에 없습니다. 아이들이 뭘 제일 좋아할까요? 죄 짓는 걸 가장 좋아합니다. 뭘 제일 싫어할까요? 고리타분하게 성경 가르치는 걸 제일 싫어합니다. 그런데도 교회들은 저마다 아이들 예배 때 연극을 한다, 음악회를 한다, 운동을 한다, 미술을 가르친다, 난리들을 떱니다. 부모들은 그걸 좋아합니다. 그러니까 교회들이 저마다 좋은 프로그램들을 유치하기 위해 심혈을 기울입니다.
어떤 교회들은 신비한 성령의 은사를 강조합니다. 사람들은 그런 눈에 보이는 신비한 것과 자기가 관계가 있다고 생각하면 잠깐이지만 아주 안심을 하게 되기 때문입니다.
이왕이면 예배당도 크게 짓습니다. 우스개 소리 같지만 큰 예배당에 계신 하나님은 뭔가 나를 위해 더 큰 일을 해 주실 수 있는 분으로 사람들이 착각하는 것입니다. 그리고 그렇게 사람이 많아지고 예배당이 커지면 사람들은 어김없이 ”나는 모두가 공인하는 안전한 공동체에 들어와 있다“는 안심을 하게 됩니다. 그래서 자기 스스로 경주해 나가야 할 신앙생활을 소홀히 하게 되는 것입니다. 정말 큰 교회나 인기 있는 교회가 하나님이 함께 하신다는 증거일까요?
기독교는 공간의 종교가 아닙니다. 공간의 종교는 바알 신을 섬기는 종교입니다.
바알은 그의 신전에만 있습니다. 그래서 바알을 섬기는 여 사제들과 성직자들, 혹은 일반 신자들이 그 신전에서 성 관계를 하면 바알이 흥분을 해서 비를 내려 주고 다산을 약속하는 그런 잡교입니다. 기독교는 시간과 역사 속에서 이해되어져야 하는 것이지 공간의 종교가 아닌 것입니다.
(왕상8:27-30)
27 하나님이 참으로 땅에 거하시리이까 하늘과 하늘들의 하늘이라도 주를 용납지 못하겠거든 하물며 내가 건축한 이 전이오리이까
28 그러나 나의 하나님 여호와여 종의 기도와 간구를 돌아보시며 종이 오늘날 주의 앞에서 부르짖음과 비는 기도를 들으시옵소서
29 주께서 전에 말씀하시기를 내 이름이 거기 있으리라 하신 곳 이전을 향하여 주의 눈이 주야로 보옵시며 종이 이곳을 향하여 비는 기도를 들으시옵소서
30 종과 주의 백성 이스라엘이 이곳을 향하여 기도할 때에 주는 그 간구함을 들으시되 주의 계신 곳 하늘에서 들으시고 들으시사 사하여 주옵소서
솔로몬이 성전을 건축하고 그 성전을 하나님께 봉헌하는 장면입니다. 그런데 솔로몬은 그 때도 하나님이 그 성전에 계신 분이 아니라는 것을 알았습니다.
(왕상8)
32 주는 하늘에서 들으시고 행하시되 주의 종들을 국문하사 악한 자의 죄를 정하여 그 행위대로 그 머리에 돌리시고 의로운 자를 의롭다 하사 그 의로운 대로 갚으시옵소서
34 주는 하늘에서 들으시고 주의 백성 이스라엘의 죄를 사하시고 그 열조에게 주신 땅으로 돌아오게 하옵소서
36 주는 하늘에서 들으사 주의 종들과 주의 백성 이스라엘의 죄를 사하시고 그 마땅히 행할 선한 길을 가르쳐 주옵시며 주의 백성에게 기업으로 주신 주의 땅에 비를 내리시옵소서
39 주는 계신 곳 하늘에서 들으시고 사유하시며 각 사람의 마음을 아시오니 그 모든 행위대로 행하사 갚으시옵소서 주만 홀 로 인생의 마음을 다 아심이니이다
44주의 백성이 그 적국으로 더불어 싸우고자 하여 주의 보내신 길로 나갈 때에 저희가 주의 빼신 성과 내가 주의 이름을 위하여 건축한 전 있는 편을 향하여 여호와께 기도하거든
45 주는 하늘에서 저희의 기도와 간구를 들으시고 그 일을 돌아보옵소서
사람들이 큰 것과 다수를 좋아하는 것은 이렇게 보이지 않는 하나님의 영광을 알지 못하기 때문입니다.
물론 우리가 처음 예수를 믿게 될 때는 ”나의 필요, 나의 구원“에 관심을 갖게 됩니다. 그러나 일단 예수를 믿고 성숙해져 가면서 나의 관심의 초점이 옮겨지게 되어 있습니다. 우리가 어린 아이였을 때는 부모가 그저 나의 필요를 채워주고 나를 잘 키워 주어야 하는 분으로 인식이 됩니다. 그런데 우리가 자라면서 철이 들게 되면 그 다음부터는 그 부모에게 무엇을 뜯어낼까 보다는 우리 아버지 어머니, 뭘 드시면 건강하게 오래 사실까? 뭘 챙겨드리면 기뻐하실까? 이런 것을 고민하게 되듯이 우리가 일단 예수를 믿고 성숙해 져 가면서 우리의 관심의 초점은 변하게 되는 것입니다.
15세기에 코페르니쿠스가 나오기 전에는 사람들이 이 우주의 중심이 지구인줄 알았습니다.
지구를 중심으로 태양도 달도 별도 전부 돌아가고 있다는 천동설을 믿고 있었습니다. 그러나 코페르니쿠스는 지구는 오히려 거대한 항성 주위를 돌아야 하는 행성임을 발견한 것입니다.
그것을 코페르니쿠스 적 변혁이라고 부릅니다. 천동설에서 하루아침에 지동설로 바뀌어 버렸으니 세상이 얼마나 깜짝 놀랐겠습니까?
우리의 신앙생활에 바로 그 코페르니쿠스 적 대 변혁이 일어나야 합니다. 지금까지는 내가 중심이었고 하나님이 나를 돕는 분이었다면 이제부터는 하나님이 중심이고 내가 그 분을 위해 존재하는 코페르니쿠스 적 대 변혁이 우리의 신앙생활에 필요한 것입니다.
하긴 미국 전체 국민 중에 아직도 천동설을 믿는 사람이 33%나 된다고 하니 참 할 말이 없습니다.
이렇게 아직도 자기중심 적인 신앙에 머무르고 있는 사람은 아직도 자기가 자기 인생의 하나님이기 때문에 자기 스스로 자꾸 힘을 키우려고 시도합니다. 재물과 명예는 물론이고 세상 적인 인기와 다른 이들의 인정, 이런 것을 추구합니다.
여러분은 아닌 것 같지요? 여러분이 “신앙이 좋다, 믿음이 깊다, 믿음이 뜨겁다“라고 인정하는 사람들을 한번 떠 올려 보세요. 여러분은 그 사람들의 무엇을 근거로 그들의 믿음을 좋다, 뜨겁다, 깊다, 라고 평가하십니까?
“교회 일을 많이 하니까” “기도를 잘 하니까” “예배 시간에 잘 우니까” “성경을 많이 아니까” 뭐 이런 것 아닙니까? 믿음은 크고 작은 것이 있을 수 없습니다. 믿음은 온전한 전체가 우리에게 한꺼번에 주어지는 것이기 때문입니다.
(딤후3:14)
15 또 네가 어려서부터 성경을 알았나니 성경은 능히 너로 하여금 그리스도 예수 안에 있는 믿음으로 말미암아 구원에 이르는 지혜가 있게 하느니라
(갈3:23-26)
23 믿음이 오기 전에 우리가 율법 아래 매인바 되고 계시될 믿음의 때까지 갇혔느니라
24 이같이 율법이 우리를 그리스도에게로 인도하는 몽학선생이 되어 우리로 하여금 믿음으로 말미암아 의롭다 함을 얻게 하려 함이니라
25 믿음이 온 후로는 우리가 몽학선생 아래 있지 아니하도다
26 너희가 다 믿음으로 말미암아 그리스도 예수 안에서 하나님의 아들이 되었으니
믿음은 예수 안에 들어 있는 것입니다. 그리고 그 예수께서 우리 안에 들어와 계십니다. 그래서 우리의 믿음은 모두 같은 크기의 믿음인 것입니다. 그걸 얼마만큼 내가 내 삶 속에서 누리는가가 바로 신앙생활을 통해 우리가 추구해 나가는 것입니다.
우리에게 이미 주어진 그 온전한 믿음을 자꾸 까 보면서 “아 나에게 이런 것이 주어졌구나.” 하고 감격하며 그 믿음을 통해 구원을 주신 하나님의 영광을 자꾸 드러내는 삶을 그리스도인의 삶이라고 하는 것입니다. 그렇게 하나님을 알고 하나님 앞에 항복해 들어가며 그 하나님의 영광을 드러내는 사람을 우리는 신앙이 좋다고 인정해야 하는 것입니다.
그런데 우리의 삶 속에서 그 하나님의 영광이 드러나는 삶을 살기 위해서는 내가 드러남으로 하나님의 영광이 드러나는 것이 아니라 오히려 내가 자꾸 깨져야 하나님의 영광이 드러납니다.
(고후4:6-7)
6 어두운데서 빛이 비취리라 하시던 그 하나님께서 예수 그리스도의 얼굴에 있는 하나님의 영광을 아는 빛을 우리 마음에 비취셨느니라
7 우리가 이 보배를 질그릇에 가졌으니 이는 능력의 심히 큰 것이 하나님께 있고 우리에게 있지 아니함을 알게 하려 함이라
우리는 예수 그리스도라는 보배를 품고 있는 질그릇입니다. 그런데 그 예수 그리스도는 하나님의 영광을 그대로 소유하신 분이십니다. 그 하나님의 영광이 드러나기 위해서는 질 그릇이 깨져야 하나님의 영광이 드러나게 되겠지요?
그래서 예수를 잘 믿게 되면 여러분의 삶이 본의 아니게 자꾸 깨지는 모습을 경험하는 것입니다. 다른 사람들이 볼 때 “저 사람은 어떻게 저 상황에서 저런 인내가 나올까?”“저 사람은 어떻게 저런 악한 사람을 저렇게 용서를 할까?”“저 사람은 어떻게 저렇게까지 낮아지면서도 얼굴 하나 안 붉힐까?” 이렇게 우리는 우리가 깨지는 모습 속에서 하나님의 영광, 그 분의 속성을 우리의 삶 속에서 드러내는 사람들인 것입니다. 그 걸 거룩이라고 하는 것입니다. 그게 바로 우리의 신앙의 목적지인 것입니다.
많은 사람들이 오해하는 것이 십자가는 우리의 구원의 도구요 방법으로만 생각하고 있습니다. 아닙니다. 십자가는 우리의 구원의 방법이기도 하지만 십자가는 십자가로 구원받은 하나님의 백성들에게 채워져야 할 내용이기도 한 것입니다. 우리가 예수 그리스도로 말미암아 구원을 얻었지만 그 분이 우리 안에 들어 와 계신 것처럼 십자가의 원리는 그런 것입니다.
십자가는 단순히 형벌의 모양이 아닙니다. 십자가는 하늘나라의 삶의 원리입니다.
나를 죽여 원수를 살리는 하늘나라의 삶의 원리, 아니 하나님의 성품을 가장 잘 집대성하여 요약한 것이 바로 십자가입니다. 이 세상에서는 바보 취급을 받는 그 십자가가 하늘나라 삶의 원리인 것입니다. 예수님은 이 땅에 오셔서 원수들에게 수난을 당하시고 그들을 용서하시면서 억지로 이를 악 물고 참으신 것이 아닙니다. 그게 예수 그리스도와 하나님의 속성인 것입니다.
우리는 그 십자가의 삶을 이 땅에서 그대로 재현해 내는 삶을 삶으로써 하나님의 영광, 하나님의 속성을 드러내는 것입니다. 그게 우리의 목표 지점입니다.
그래서 우리는 예수님이 그렇게 살다 가신 것처럼 계속 깨지며 부서지는 고통 속에 던져 지는 것입니다.
그럼 우리가 그렇게 하나님의 영광을 위해 살기 위해서는 그 하나님의 영광이 무엇인지 알아야 하겠지요? 그 보이지 않는 하나님의 영광을 이 땅에서 가시적으로 우리가 볼 수 있게 보여주신 분이 누구십니까? 예수님이시죠? 그런데 우리는 그 분을 지금 뵐 수가 없습니다. 그럼 어떻게 우리가 그 예수 그리스도를 배울 수 있습니까? 바로 그 예수에 관해 자세하게 우리의 수준에 맞게 기록해 놓은 성경을 열심히 공부하는 것입니다.
(요1:17)
18 본래 하나님을 본 사람이 없으되 아버지 품속에 있는 독생 하신 하나님이 나타내셨느니라
(요5:39)
39 너희가 성경에서 영생을 얻는 줄 생각하고 성경을 상고하거니와 이 성경이 곧 내게 대하여 증거 하는 것이로다
여러분이 열심히 성경을 통해 예수 그리스도를 배우는 것이 하나님의 영광, 하나님의 속성을 배우는 것입니다.
기독교는 “나”에서 초점을 옮겨 “하나님의 영광”으로 눈을 돌리는 것입니다. 그래서 우리는 하나님의 영광을 계시하고 가신 예수님을 설명하고 있는 성경을 열심히 공부해야 하는 것이고
우리의 모든 시간은 그리로 쏟아 부어져야 하는 것입니다.
술 취하지 마십시오. 시간을 아끼세요. 여러분의 배 만을 위해 시간을 헛되게 쓰지 마세요. 그리고 성령 충만을 받으십시오. 성령 충만은 성경을 통하여 받으실 수 있습니다.
(합3:17-19)
17 비록 무화과나무가 무성치 못하며 포도나무에 열매가 없으며 감람나무에 소출이 없으며 밭에 식물이 없으며 우리에 양이 없으며 외양간에 소가 없을지라도
18 나는 여호와를 인하여 즐거워하며 나의 구원의 하나님을 인하여 기뻐하리로다
19 주 여호와는 나의 힘이시라 나의 발을 사슴과 같게 하사 나로 나의 높은 곳에 다니게 하시리로다 이 노래는 영장을 위하여 내 수금에 맞춘 것이니라
(빌3:8)
8 또한 모든 것을 해로 여김은 내 주 그리스도 예수를 아는 지식이 가장 고상함을 인함이라 내가 그를 위하여 모든 것을 잃어버리고 배설물로 여김은 그리스도를 얻고
(벧후3:18)
18 오직 우리 주 곧 구주 예수 그리스도의 은혜와 저를 아는 지식에서 자라 가라 영광이 이제와 영원한 날까지 저에게 있을지어다
자, 이제 뭐가 진짜 중요한 것인지 아시겠지요?
イエスを信じるとは何でしょうか。どうやって信じればよいのでしょうか。
改革主義者たちが主張するように、聖徒の救いは行いによるのではなく、信仰によるものだということは、誰でも知っています。
今の時代、それを知らない人がどこにいますか。聖書を一度でも読んだことがあれば、誰でも分かることです。では見てみましょう。
エフェソの信徒への手紙 2章8–9節です。
エフェソ 2:8
「あなたがたは恵みにより、信仰によって救われました。これはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。」
2:9
「行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためです。」明快でしょう。
そして ローマの信徒への手紙 1章17節。
「福音には神の義が示されていて、信仰から信仰へと至らせる。
『義人は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」救いは行いによってではなく、ただ信仰によって与えられるのです。
では、イエス・キリストを信じるとは何でしょうか。一度考えてみてください。頭の中で整理してみてください。
イエスを信じるとは何ですか。
ただ漠然と、二千年前にユダヤの地に来られたイエスという方が、私のすべての罪を背負って死なれた――その事実を心に刻み、刻み、刻み、
頭の中に何度も刻み込めば、それが信じることなのでしょうか。
どうやって信じるのですか。教えてください。
どうやって信じるのですか。なぜ神ご自身がこの地に来られたのに、なぜこの世は一人として信じなかったのでしょうか。どうやって信じればよいのでしょうか。
聖書は、私たちがイエスのうちにあって死に、また復活したと言います。
それをどのように信じればよいのでしょうか。本当に皆さん、それが信じられますか。信じていますか。
ジャン・カルヴァン がそう言った、マルティン・ルター がそう言った、だから観念としてでもそう主張していれば救われるのでしょうか。
主は確かに、"幸いな者は悲しむ者である"と言われました。
この「悲しむ」という言葉は ペンテオ(πενθέω) で、過越し(過越の出来事)を指し示す言葉として用いられます。
そして「慰められる」は パラカレオ(παρακαλέω)、招かれるという意味です。
つまり、過越へ招かれる者が幸いな者であるということです。
それは、あなたが過越へ招かれて、小羊のように死ななければ幸いではないという意味なのです。
つまり、過越で死んだイエスになってみてこそ、「自分が過越の小羊として犠牲になって死んだイエスとなってみてこそ、その人が幸いな者だ」という意味なのです。
それが聖徒への慰めだと、聖書は語っているのです。
それならば、小羊の過越は、私たちが観念として信じる程度のものではなく、
「私」がその過越に招かれ(パラカレオ)、屠られて死ぬときに初めて、"それが私のものになる"ということです。
それを「信じる」と言うのです。そうなれば、もう私の人生の中で、別の犠牲のいけにえは必要ありません。
それが私の中で確かに体験されているからです。もう別の犠牲はいらないのです。
しかしそれは、この世の目から見れば、祝福ではなく呪いではありませんか。自分が犠牲になって死ぬことが祝福なのですから。
新約聖書で「幸い」と訳されているギリシャ語 マカリオス(μακάριος) は、皆さんがよく知っているヘブライ語 バラク(בָּרַךְ) を訳した言葉です。
ヘブライ語の祝福「バラク」は、祝福と呪いの両方を含む言葉です。
**申命記 28章では、
「わたしはあなたがたの前に祝福と呪いを置く」という内容の言葉が出てきますよね。
ゲリジム山 では祝福が宣言され、エバル山 では呪いが宣言されました。イスラエルを二つに分けてそれを叫ばせる。
それ自体が「祝福」なのです。しかし、それを祝福として受け取る者には祝福ですが、
「それのどこが祝福なのか」と言う者には呪いとなります。ですから、先ほど執事の方が祈られたように、律法は一つですが、
ある人には命の律法となり、ある人には死の律法となるのです。
律法は一つです。別の律法があるわけではありません。律法がある人には死の律法となり、ある人には命の律法となります。
「この中にイエスがいる。ここに本当の犠牲のいけにえがある」と分かるからです。それが祝福です。祝福( バラク)という言葉は、そのすべてを含んでいます。
しかしその祝福は、誰でも分かるものではありません。ほとんどの人には分からないのです。
けれども、ある人には分かります。理解できます。その人にだけ祝福となるのです。それが「バラク」です。
では、その祝福の実体をどうやって知るのでしょうか。
呪いとは何か、裁きとは何か、罪とは何かを知るとき、それが祝福になるのです。
呪いとは何か、善悪の木とは何かを知ることが命だと言いましたね。それを知れば、もう二度と善悪の実を食べないでしょう。
それが命の木の実を食べることなのです。ですから、創世記 のエデンの園では、木がずっと単数形で書かれているのです。
単数、単数、単数です。だから人間には、まず善悪の実が与えられたのです。
死んで生きるために。したがって、祝福を受けた者は、まず呪いの現実を経験し、その後に祝福の現実へと上がっていくのです。
よく聞いてください。皆さんがいくら耳にタコができるほど「イエス様が私たちのすべての罪を背負って十字架で死なれました」という言葉を聞き、暗記したとしても、
それがあなた自身の出来事にならないなら、それはただ鳴り響くシンバルの音にすぎません。それは信じていることではありません。
イエスの死、イエスの十字架は、私自身の死を認識するときに初めて、私のものになるのです。自分の死が自分に認識されるとき、
「ああ、だからイエス様が十字架を負って死なれたのだ」と分かるようになるのです。そのとき、イエスと私が一つに結ばれるのです。
それを「生きた」と言います。それが復活です。私という存在そのもの、そしてそこから出てくるあらゆる行い、思い、努力、情熱――
それらはすべて神の前では滅ぼされるべきものでした。イザヤ はそれを「汚れた衣」と言いました。
英語では “filthy rags” と訳されます。まるで汚れきったぼろ布のようだという意味です。私たちの最善の「義」ですら、そうなのです。
そのように、私と、私から出てくるすべてのものが神の前では無に等しいと悟るとき、
そのとき「私」が死ぬのです。そのとき初めて、「こんな無力な私のために、こんな汚れた私のために、イエスが死なれたのだ」
ということが、事実として迫ってくるのです。そのとき、十字架は初めて私のものになります。
その理解こそが生きることであり、それを信じると言うのです。それが祝福なのです。ですから、この現実の中での私の死が、
キリストの十字架を真理として明らかにするのです。もし私がこの地上でそれを真理として明らかにしないなら、
私の人生の中でその命が起こらず、私に対する赦しが起こらないなら、それは何でもありません。
それは嘘になってしまうのです。イエスを信じると言いながら、それと何の関係もない者として生きているなら、
それがどうして真実であり、真理と言えるのでしょうか。
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예수를 믿는다는 것은 무엇인가? 어떻게 믿어야 하는가?
개혁주의자들이 주장하는 것처럼 성도의 구원이 행함이 아니라 믿음이다, 라는 건 누구든지 다 알죠?
오늘날 그거 모르는 사람이 어디 있어요?
성경을 한 번만이라도 읽어보면 다 아는 거 그까짓 거. 한 번 보자고요. 에베소서 2장 8-9.
엡 2 : 8 - 너희가 그 은혜를 인하여 믿음으로 말미암아 구원을 얻었나니 이것이 너희에게서 난 것이 아니요 하나님의 선물이라
2 : 9 - 행위에서 난 것이 아니니 이는 누구든지 자랑치 못하게 함이니라
명쾌하죠? 또 로마서 1장 17절.
롬 1 : 17 - 복음에는 하나님의 의가 나타나서 믿음으로 믿음에 이르게 하나니 기록된바 오직 의인은 믿음으로 말미암아 살리라 함과 같으니라
구원은 행위로 되는 게 아니라 믿음으로만 가능한 거예요.
그렇다면 예수그리스도를 믿는다는 건 뭐예요? 한 번 생각해 보세요.
머릿속으로 정리해 보세요. 예수를 믿는 건 뭡니까?
그냥 막연히 이 천년 전에 유대 땅에 오신 예수라는 분이 내 모든 죄를 다 짊어지고 죽으셨다는 그 사실을 내 마음에 새기고, 새기고, 새기고 이 뇌리에 새기고, 새기고 또 새겨 놓으면 그게 믿는 겁니까?
어떻게 믿어야 돼요? 얘기 좀 해주세요. 어떻게 믿어야 돼요?
왜 하나님이 직접 이 땅에 내려 왔는데도 왜 온 세상이 단 한 사람도 안 믿었을까요? 어떻게 믿어야 돼요?
성경은 우리가 예수 안에서 죽었다고 하고 부활했다고도 해요. 그걸 어떠한 방식으로 믿어야 하느냐는 거예요.
정말 여러분 그게 믿어지세요? 믿습니까? ㅎㅎ
칼빈이 이야기 했고, 루터가 이야기 했으니까 그냥 관념으로라도 그렇게 우기고 있으면 구원이 되는 겁니까?
주님은 분명히 복 있는 자는 애통할 것이다, 라고 했어요. 그죠?
애통이란 단어가 펜때오, 유월절이라는 단어를 써요.
그리고 위로를 받다, 이게 파라칼레요가 초청받다 예요.
그러니까 유월절로 초청을 받는 자가 복 있는 자다.... 예요.
그 말은 네가 유월절로 초청이 되어 양처럼 죽어야 복이다, 라는 뜻이거든요.
그 말은 유월절에 죽은 예수가 되어 봐야,
즉, "내가 유월절의 어린 양으로 제물로 죽은 예수가 되어 봐야 그가 복 있는 자다" 라고 이야기 하는 거란 말에요.
그게 성도에게 위로래요. 성경이.
그렇다면 어린 양의 유월절은 우리가 관념으로 믿어야 하는 정도가 아니라 ‘나’가 그 유월절로 초청이 되어 (파라칼레요),
도륙당해 죽어야 비로소 그것이 내 것이 된다. 이런 말이에요.
그걸 "믿는다" 그래요.
그렇게 되면 다시는 내 삶 속에서 또 다른 희생 제사가 없어도 되죠?
나에게서 그게 확실히 체휼됐으니까. 이제는 또 다른 희생제사가 없어도 된단 말에요.
그런데 그건 세상 적으로 볼 때. 저주이지 복이 아니잖아요.
내가 제물이 돼서 죽는 게 신약성경이 복이라고 번역을 하는 헬라어 마카리오스는 여러분이 잘 아는 히브리어 바라크를 번역한 거예요.
히브리의 복 바라크는 축복과 저주를 동시에 가리키는 거예요.
신명기 28장에서 내가 축복과 저주를 너희 앞에 둔다, 라는 말씀이 나오죠?
그리심 산에서 축복이 선언되고 에발산에서 저주가 선언이 되죠?
반씩 나누어서 이스라엘에게 그걸 외치라고 하는 게 이게 복이에요. 그 자체가.
그런데 그걸 복으로 받아들이는 자에게는 복이지만 "그게 무슨 복이야? "라는 이들에게는 저주예요.
그래서 아까 우리 집사님이 기도하신 대로 법은 하나인데 생명의 법이 될 수 있고, 누군가에게는 사망의 법이 되는 거예요.
법은 하나라니까요. 다른 법이 있는 게 아니에요.
율법이 어떤 이들에게는 사망의 법이 되는데 어떤 이들에게는 그게 생명의 법이 돼요.
아, 이 안에 예수가 있네? 진짜 희생제사가 여기에 들어있네? 이걸 알게 되는 거니까.
그게 복이에요. 바라크라는 단어가 그 전체를 함유하고 있어요.
그 바라크를 파자하면 베잍 로시 카프 거든요. 이게 알지 못하는 복이라는 단어에요. 아무도 못 알아 봐요. 그 복을.
그런데 어떤 이들에게는 알아져요. 이해가 돼요. 그 사람에게만 복이에요. 그걸 바라크라고 해요.
그런데 그 복의 실체를 어떻게 알게 되는가 하면 저주가 무엇인지, 심판이 무엇인지, 죄가 무엇인지를 알면 그게 복이 돼요.
저주가 무엇인지, 선악과가 무엇인지 아는 게 생명이라 그랬죠? 그걸 알면 다시는 선악과 안 먹을 거 아녜요?
그게 생명나무 실과를 먹는 거예요. 따로 있는 게 아니라.
그래서 에덴동산에서 나무가 계속 단수예요. 단수, 단수, 단수.
그래서 인간들에게 선악과가 먼저 주어졌던 거예요. 죽어서 사는 거.
따라서 복을 받은 이들은 저주의 현실부터 경험하여 복의 현실로 올라오게 되는 거예요.
잘 들어보세요.
여러분이 아무리 귀에 못이 박히게 "예수님이 우리의 모든 죄를 다 짊어지고 십자가에서 죽으셨어요"라는 말을 들으시고 외우신다 해도
그게 여러분의 일이 되어 지지 않을 때 그건 울리는 꽹과리 소리에 불과해요.
그건 믿는 게 아니에요.
예수의 죽음은, 예수의 십자가는 내 죽음의 인식에서 비로소 내 것이 될 수 있어요.
나에게 나의 죽음이 인식될 때 "아 그래서 예수님이 십자가를 지고 죽으신 것이구나" 라고 알게 되는 거고
그 때, 예수와 내가 하나로 연합이 되는 거예요. 그걸 살았다, 라고 하는 거예요. 그게 부활이에요.
나라는 존재 자체, 그리고 거기서 나오는 그 어떤 종류의 행위, 사유, 시도, 열정 등도 하나님 앞에서 마땅히 멸할 것이 었잖아요.
그리고 더러운 옷, 이사야는 그걸 더러운 옷 그러죠?
Filthy rack, 더러운 옷. 똥 걸레라고 이야기한단 말에요.
그거 보다 더 더러운 표현이에요. 그거는요.
우리 최선의 ”의”가 그렇대요.
그렇게 우리와 우리 안에서 나오는 모든 것이 하나님 앞에서 아무것도 아님이 인식될 때, ‘나’가 죽는 거예요. 그게.
‘ 아니네?’
그렇게 ”나”가 죽게 될 때, 아, 그래서 이런 무력한 나 때문에, 이런 더러운 나 때문에 예수가 죽은 거구나, 라고 그게 사실로 와 닿게 되는 거예요.
그 때에 십자가가 비로소 내 것이 되는 거예요.
그 이해가 곧 살아나는 거고 그걸 믿는다고 하는 것이며 그게 바로 복이라는 거예요.
그러니까 이 현실 속에서의 나의 죽음이 그분의 십자가를 진리로 밝혀내는 거예요.
내가 이 땅에서 진리로 그걸 밝혀내지 않으면 내 삶속에서 그 삶이 일어나지 않고 나에 대한 용서가 일어나지 않으면 그건 아무것도 아닌 거예요.
그건 ‘거짓말’이 되는 거예요.
예수 믿는 내가 그것과 아무상관 없는 자로 사는데 어떻게 그게 참이며 진리입니까?
ローマ人への手紙 5:5-11
「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のために死ぬ者は、まずいません。
善い人のためなら、進んで死ぬ者がおそらくいるでしょう。しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、
神は私たちに対するご自身の愛を明らかにされました。ですから、今、キリストの血によって義と認められた私たちが、この方によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させていただいたのなら、和解させていただいた私たちが、御子の命によって救われるのは、
いっそう確かなことです。それだけでなく、私たちの主イエス・キリストによって、私たちは今や神を喜んでいます。このキリストによって、私たちは今、和解を授かったのです。」
聖書の最初の単語が「レシト(始まり)」、つまり「時間の始まり」という単語であることは、皆さんもよくご存じでしょう。
ヨハネの福音書の始まりも「レシト」、時間の始まりですね。それを改訳聖書では「初めに」と翻訳しているのです。
時間の始まりを「初めに」と訳したのです。ところが、聖書の最後の書であるヨハネの黙示録には、そのように開かれた時間がことごとく神に没収される、
歴史の滅亡の事件で満ちています。歴史の滅亡というのは、時間の没収ではないでしょうか。
時間が開かれ、そして閉じられること、時間が没収されること。皆さんがご存じのように、時間は客観的な実体ではありません。
時間は見ることもできず、触れることもできず、感知も不可能で、計算も不可能な、曖昧なものです。
セシウム原子の放射周期を根拠に人間同士で合意した「1秒」という算術的な概念は、時間を客観的な実体として作り出したり、証明したりできる根拠にはなり得ません。それは人間同士で合意した計算方法に過ぎないのです。しかし、人間はその時間を「一日、一週間、一ヶ月、一年」というふうに括って、
それを「命」へと変貌させます。一歳、二歳、三歳……時間は命です。そうではありませんか? その時間をたくさん持っている人を「長寿した人」と言い、
その時間を少ししか持てなかった人を「夭折した人」と言います。人間はその命を、自分たちの時間をより豊かに、脂ののった、長いものにするために、
自分たちのすべてのエネルギーを注ぎ込んでいます。ですから、「犬の糞の畑に転がっても、この世(現世)が良い」という言葉があるのです。
長く生きることを、人々は福(幸い)だと考えます。それが人間の「生存本能」というものです。生存本能というのは、人間の「命を守ること、命を作ること」の
本能という意味です。ですから、人間にとって時間とはすなわち命であり、一歳、二歳、三歳という命であり、目的であり、力であり、価値なのです。
だからこそ、ベンジャミン・フランクリンが「時は金なり」という命題を歴史の中に投げ入れたのです。お金というのは、人間が最高の価値として認める、
世のすべての財を凝縮したものです。世の力を、持ち運べるようにしたものです。そのお金は、今日の資本主義社会において、
人の価値を測定する基準として使われています。ですから、人々はお金を稼ぐために、それぞれ血眼になっています。
そのお金で自分の価値、すなわち自分の時間をより豊かに、健康に、長くするために、アダムたちは、お金を追いかけて走っているのです。
皆さんも私も、皆同じです。否定するのはやめましょう。
アンドリュー・ニコル監督の『TIME/タイム(In Time)』という映画を見ると、時間が通貨になった世界が出てきます。
もちろん、リアリティのある話ではありません。各自が自分が所有している時間を腕に刻み、その時間で取引をします。
コーヒー一杯は4分、車一台は5ヶ月、といったふうに。彼らはその腕時計に残された時間で、価値のある人か、価値のない人かを判断します。
腕に刻まれた時計が時間をすべて使い果たしてしまえば、その人は死にます。ですから、眠ることもままなりません。
7時間寝てしまえば、彼が寝ている間に「7時間」というお金が、命が飛んでいくのです。他人が自分が寝ている間に別の時間を稼いでいるかもしれないという思いから、まともに眠ることもできず、どこへ行くにも走らなければなりません、無条件に。時間というその命を無駄にできないので、ひたすら走ります。時間がすなわちお金だからです。のんびり歩き回って自分の時間を浪費することはできないのです。私は、アンドリュー・ニコル監督がこの歴史と人生の表面的な現実を、正確に診断していると思いました。
人間は時間、すなわち自分のこの命を豊かに、長くするために、毎日を生きるのです。日常を生きます。
豊かで長い時間を「永生(永遠の命)」と表現してもいいでしょう。もちろん、人間レベルでの永生の話です。
永生とは「神的な命」であって、そのように長く豊かな生ではありません。とにかく、人間は一人残らず、自分が意識していようがいまいが、
この制限された卑しい自分たちの時間、自分たちの歴史と人生を、豊かで長い時間、すなわち永生に変えるために毎日を生きているのです。
ところが問題は、そのように人間が熱心に追い求める永生、その命は、時間を集めて得られるものではなく、一生懸命自分が走って時間を集めて自分の命にな
るのではなく(それが人間が今追い求めて生きている姿ですが)、そうではなく、イエスの中に入っているのが永生なのです。
ヨハネの福音書1章4節に出てきますね。その中にだけ命があると言うのです。
「イエスの中」というのは、創世前の契約、すなわち「黙示の中」という意味です。その言葉は、この時間で満ちたこの歴史の中では、いかなる努力や苦労を
もってしても、その永生に到達したり、永生を成就したりすることはできないということです。
人間は時間を集めて、これを豊かにし、長くして、永生に到達しようとしますが、そのために神様は時間を開いて見せてくださったのです。
やってみなさい、と。しかし、命はここにはないというのです。聖徒はそれを知って行くのです。
ですから、聖書が時間が開かれること、「初めに」で始まって、この歴史が時間の没収である滅亡で終わるということを明確に示しているのです。
それでは、神様がこの歴史というものを開きながら、時間を与えられた目的は何だというのでしょうか。
「初めに」時間はなぜ始まったのでしょうか。永遠しかないその領域に、なぜ時間、歴史というものが創造されたのでしょうか。
そして、なぜ聖書が「初めに」というその時間の始まりから、この歴史の終局までを記録しているのでしょうか。
なぜですか? アダムたちよ、一生懸命時間を集めて積み上げ、お前たちのレベルの永生を作り出してみなさい、と与えられたのです。
この時間では、決して命を、永生を作り出すことはできないということを証明しようとされているのです。歴史の中で。
永生は、イエスの中にだけあります。命は、イエスによってのみ始まるとうことを、この時間が証明しているのです。なぜ時間が私たちに開かれたのか、分かりますよね?
私たちはその時間を命だと考えているから。違うというのです。しかし、厳密に言えば、時間というのはそれ自体が客観的な実体として、
集められたり積み上げられたりできる種類のものではないと言いました。それならば、時間を集めて積み上げ、豊かで無限な永生を作ろうという人間の試み
は、結局何を言っているのでしょうか。結局、時間を積み上げる、時間を集める、この腕時計に時間をただ永生のように集めよう、百万年ほど集めよう、
とする人間の試みは、何を指し示しているのでしょうか。自らの力で生を営み、保存してみようというアダムのその姿、
その姿が「時間を集める」という人間の試みを象徴していたのです。
私が自分の力で一生懸命走って、腕に刻まれた時間に時間を蓄積しようというのです。これがバベルの塔ではありませんか。よく考えてみてください。
アダムとエバが、神の国を象徴するエデンで「成人」として創造されました。それ自体で完了(完成)です。エデンでは老いることもありません。
それ自体で完了です。それは神の国の完了性、永遠の現在性を暗示するものでした。
神の国はこのような場所だ。赤ん坊として生まれて、成熟して、育って、変化するのではなく、神の創造の御言葉によって、ただ完了されるのが神の国である
ということを示しているのです。だから成人として来るわけです。神の国は発展し、成熟し、変化する場所ではありません。神によって完成される場所です。
それを、アダムとエバが成人として誕生することで見せているわけです。そのように完了されている世界で、時間が必要ですか?
考えてみてください。完了されている世界では、時間が必要ありません。時間は、厳密に言えば、人間の「駆け足(走ること)」なのです。
しかし、完了されている世界には、人間の駆け足、変化と成熟に向けた苦労が必要ありません。なぜ? 完了だからです。
そこから、より優れた何らかの存在へと発展することが不可能な場所なのです。なぜ? 完全さなのだから。だから、時間がないのです。
簡単に言って、アダムとエバの時間、すなわちアダムとエバの年齢に意味がありますか? 永遠のその国で、何の意味がありますか、アダムとエバの年齢が。
ないのです。彼らは神の御言葉によって完了した、そのような創造物として生まれた存在であるため、もはや成熟や変化が必要ない状態なのです。
ですから、神の国は「永遠の現在」と言うのです。
それが、神への絶対依存の国です。神様がすべてをなさる国。神様が統治される国。神の国の民は、自らの熱心と努力で時間を積み上げ、成長と成熟と発展
をして命を勝ち取らなければならない存在ではなく、神様から永遠の時間、永生をプレゼントされて完成される存在だということです。
福音は、皆さん、非常にシンプルなものなのです。ところが、アダムとエバが神様の全般的な保護と導きから外れて、自ら善悪判断の主体となり、
神のように生きることを追求するようになり、「私たちも走って神のようになってみよう」という、この「神のように」という生を追求するようになってから、
人間が年を取り始めるのです。つまり、人間が走りながら時間を生きる時、老いるのです。年を取るのです。
善悪の果実を食べた人間の実存、それがそれなのです。そして彼らは成熟するようになり、変化するようになりました。走りながら。
善悪の果実を食べて、走り始めたではありませんか。
創造の国から離れた人間が、自ら神のように生きてみようと、言い換えれば神の創造の御業を真似してみようと乗り出し、人間が成熟し始めました。ところ
が、成熟と変化が、老いと朽ち果てることを同伴したのです、時間が。そして結局、人間が作り出した成熟の絶頂が「死」で終わります。
時間を積み上げて永生を得ると思ったのに、時間を積み上げながら老い始め、結局、時間をたくさん積み上げて死へと向かっていったのです。
ですから、創世記5章のすべての人間が、死へと引きずり込まれるような場面で点綴されているのです。「死んだ、死んだ、死んだ……」と。皆死ぬのです。
これが時間を集め、積み上げて永生に到達しようとするアダムたちの結末であり実体であることを証明するのが、歴史の役割です。
この時間の役割なのです。
そのような中で、聖徒という人々が時間の領域外のその「黙示」を抱いて、この地に投げ込まれます。彼らはこの時間の中で、時間に沿って共に流れていけば、
その時間が積み重なって結局は死になるということを知っている人々です。皆さんは啓示を受ける方々ですから。
ですから、しきりにこの時間から抜け出さなければならない、と考えるようになります。もちろん、聖霊によって来られた信仰によって、
そのような考えも浮かぶようになるのです。ところが、この歴史の中では「時間は金」です。
価値なのです。ですから、この時間から抜け出すことは容易ではありません。聖徒も同様です。
分かっているのに、この肉がそこから抜け出そうとしないのです。時間が好きなのです。ですから、神様が彼らの人生に介入されるのです。
神様はご自身の民の人生の中に介入され、彼らの時間がどれほど虚しいものであるか、その時間を潤いのある長いものにすることが、
本当の福(幸い)な生、幸いな命ではないということを悟らせてくださるのです。それが聖徒の人生です。
神様はご自身の民の時間を患難で満たすこともあれば、病で満たすこともあります。
そのようにして、彼らに「この時間が積み重なって永生になる」などということは言語道断であることを悟らせてくださるのです。
それが聖徒の歴史、この時間の存在意義です。ですから聖書が「初めに(時間の始まり)」という単語で始まるのです。
時間を与えてみるから、その時間で一生懸命永生を作り出してみなさい、ということです。
だから善悪の果実を口に含ませて「時間」へと投げ捨てたのです。一生懸命走りなさい、と。
あなたたちには、そのような能力がないということを悟らせてくださるのです。
時間、その歴史は、決して命になることはできません。ですから、時間の始まりで始まった聖書が、本当の命であるイエスが来られることで終わるのです。
黙示録22章20節を見てください。「これらのことを証しする方が言われる。『しかり、わたしはすぐに来る。』。主イエスよ、来てください。主イエスの恵みが、すべての人とともにありますように。
(黙示録 22:20-21)
時間を開いておいて「一生懸命命を作ってみなさい、生産してみなさい」と言われた神様が、歴史の最後に何と言われますか?
「本当の命が行く!」と言って終わるのです。イエスの中の命。時間という偽物の命で始まった聖書が、イエスという本物の命で終わるのです。
聖徒は主イエスの恵みで生きるものであって、時間で生きるのではないということです。
一生懸命走って生きるのではないということです。主イエスの恵み、これが聖서の結論であり、大主題です。聖書の最後の最後、結論が「主イエスの恵み」なの
です。その単語で終わります。ところが、この事実を聖徒だけが感知し、首肯(納得)するようになるのです。
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로마서 51번째 말씀 중에서.. 생명을 사기 위해 뛰는 사람들.
본문 롬 5: 5-11.
소망이 부끄럽게 아니함은 우리에게 주신 성령으로 말미암아 하나님의 사랑이 우리 마음에 부은 바 됨이니 우리가 아직 연약할 때 기약대로 그리스도께서 경건치 않은 자를 위하여 죽으셨도다 의인을 위하여 죽는 자가 쉽지 않고 선인을 위하여 용감히 죽는 자가 혹 있거니와 우리가 아직 죄인 되었을 때에 그리스도께서 우리를 위하여 죽으심으로 하나님께서 우리에게 대한 자기의 사랑을 확증하셨느니라 그러면 이제 우리가 그 피를 인하여 의롭다 하심을 얻었은 즉 더욱 그로 말미암아 지노하심에서 구원을 얻을 것이니 곧 우리가 원수 되었을 때에 그 아들의 죽으심으로 말미암아 하나님으로 더불어 화목 되었은 즉 확목된 자로서는 더욱 그의 살으심을 인하여 구원을 얻을 것이니라 이뿐 아니라 이제 우리로 화목을 얻게 하신 우리 주 예수 그리스도로 말미암아 하나님 안에서 또한 즐거워 하느니라
성경의 첫 단어가 ‘레시트’ 시간의 시작,이라는 단어라는 것은 여러분도 잘 아실겁니다. 요한복음의 시작도 ‘레시트’ , 시간의 시작이죠? 그걸 개역성경이 ‘태초에’ 라고 번역을 해 놓은 거죠. 시간의 시작을 태초에 로 번역을 해 놓은 거예요. 그런데 성경의 마지막 책인 요한계시록에는 온통 그렇게 열린 시간이 하나님께 몰수 당하는 역사의 멸망의 사건으로 가득차 있죠? 역사의 멸망이라는 건 시간의 몰수 잖아요? 시간이 열렸다가 닫히는 거, 시간이 몰수 당하는 것. 여러분이 아시다시피 시간은 객관적 실체가 아니예요. 시간은 볼 수도 없고 만질 수도 없고 감지도 불가능하며 계산도 불가능한 모호한 거죠?
세슘원자의 복사주기를 근거로 인간들끼리 합의해 놓은 1초라는 산술적 개념은 시간을 객관적 실체로 만들어 내거나 증명해 낼 수 있는 근거가 될 수 없어요. 그건 인간들끼리 합의한 계산 방법에 불과한 겁니다. 그런데 인간들은 그 시간을 하루, 일주일, 한달, 일년 이렇게 묶어서 그것을 생명으로 둔갑시키죠? 한 살, 두 살, 세 살 시간은 생명입니다. 맞습니까? 그 시간을 많이 가진 사람을 장수한 사람이라고 그러고 그 시간을 조금밖에 못 가진 사람을 요절한 사람이라고 그러죠? 인간들은 그 생명을, 자신들의 시간을 좀 더 풍요롭고 기름지며 길게 만들기 위해서 자신들의 모든 에너지를 쏟아 붓고 있어요. 그래서 개똥 밭에 굴러도 이승이 낫다 라는 말이 있는 거예요. 길게 사는 걸 복이라고 여겨요 사람들은요. 그게 인간들의 생존본능이라는 거예요. 생존본능이라는 건 인간들의 생명 지키기, 생명 만들기의 본능이란 뜻이예요.
그러니까 인간들에게 있어서 시간이란 곧 생명이며, 한 살, 두 살, 세 살 이렇게 생명이며, 목적이며 힘이며, 가치 인거죠? 그래서 벤자민 프랭클린이 시간은 돈이다 라는 명제를 역사속에 던져 넣었던 거예요. 돈이라는 건 인간들이 최고의 가치로 여기는 세상 모든 재화의 축약이예요. 들고 다닐 수 있게 만든거예요. 세상의 힘을. 그 돈은 오늘날 자본주의 사회에서 사람의 가치를 측정하는 기준으로 사용되는 거예요. 그래서 사람들은 돈을 벌기 위해 저마다 혈안이 되어 있어요. 그 돈으로 자신의 가치 즉, 자신의 시간을 보다 풍요롭고 건강하고 길게 만들기 위해서 아담들은 돈을 따라 달리고 있는 거예요. 여러분이나 저나, 다 마찬가지예요. 부정하지 말자구요.
엔드류 리콜 감독의 ‘인 타임’ 이란 영화를 보시면 시간이 화폐가 된 세상이 나와요. 물론 개연성이 있는 이야기는 아니예요. 각자가 자기가 소유하고 있는 시간을 팔뚝에 새기고 그 시간으로 거래를 해요. 커피 한 잔은 4분, 차 한 대 5개월 뭐 이렇게. 그들은 그 팔뚝시계에 남겨진 시간으로 가치 있는 사람, 가치 없는 사람을 판단해요. 팔뚝에 새겨진 시계가 시간을 다 소진해 버리면 그 사람은 죽습니다. 그래서 잠도 제대로 못 자요. 7시간을 자버리면 그가 자는 사이에 7시간이라는 돈이, 생명이 날라가는 거예요. 다른 이들이 자기가 자고 있는 시간 동안에 다른 시간을 벌어 들일 수 있다는 생각에 잠도 제대로 못 자고 어디를 가도 달려야 되요, 무조건. 시간을 그 생명을 허비할 수가 없으니까 무조건 달려요. 시간이 곧 돈이니까요. 슬슬 걸어다니면서 자기의 시간을 낭비할 수는 없는 거예요. 전느 엔드류 리콜 감독이 이 역사와 인생의 표피적인 현실을 정확하게 진단하고 있다고 생각했어요.
인간들은 시간, 즉 자신의 이 생명을 풍요롭고 길게 만들고자 매일을 사는 거예요. 일상을 살아요. 풍요롭고 긴 시간을 영생이라고 표현을 해도 되요. 물론 인간들 수준에서의 영생을 이야기 하는 거예요. 영생은 신적 생명이지 그렇게 길고 풍요로운 삶이 아니예요. 아무튼 인간들은 한 사람도 빠짐없이 자기가 의식을 하던 의식을 하지 못하던 이 제한되고 비루한 자기들의 그 시간, 자기들의 역사와 인생을 풍요롭고 긴 시간, 영생으로 바꾸어 내기 위해 매일을 살고 있는 거예요. 그런데 문제는 그렇게 인간들이 열심히 추구하는 영생, 그 생명이 시간을 모아서 되는 게 아니라, 열심히 자기가 달려서, 시간을 모아서 내 생명이 되는 게 아니라 ,( 그게 인간들이 지금 추구하고 살고 있는 모습이잖아요) 그게 아니라, 예수 안에 들어있는 게 영생이에요. 요한복음 1장 4절에 나오죠? 그 안에만 생명이 있다 그래요.
예수 안이라는 건 창세전 언약, 즉 묵시속 이란 말이예요. 그 말은 이 시간으로 가득찬 이 역사 속에서는 그 어떤 노력과 수고로도 그 영생에 도달 하거나 영생을 성취할 수 없다는 거예요. 인간들은 시간을 모아서 이걸 풍요롭게 하고 길게 하여 영생에 도달할려고 하는데, 그래서 하나님이 시간을 열어 주어 본 거예요. 해보라고. 그런데 생명은 여기에 없다는 거예요. 성도는 그걸 알고 가는 거예요. 그래서 성경이 시간이 열리는 것, ‘태초에’ 로 시작을 해서 이 역사가 시간의 몰수인 멸망으로 끝난다는 걸 명확하게 보여주는 거예요.
그렇다면 하나님께서 이 역사라는 걸 여시면서 시간을 주신 목적이 뭐래는 거예요? ‘태초에’ 시간이 왜 시작 되었느냐고요? 영원밖에 없는 그 영역에 왜 시간, 역사라는 게 창조 되었냐구요. 그리고 왜 성경이 ‘태초에’ 로 그 시간의 시작부터 이 역사의 종국까지를 기록을 하고 있죠 왜? 아담들아 열심히 시간을 모으고 쌓아서 너희들 수준의 영생을 만들어 내어보라고 주신 거예요. 이 시간으로는 절대로 생명을 영생을 만들어 낼 수 없다는 것을 증명 하시겠다는 거예요. 역사 속에서.
영생은 예수 안에만 있어요.
생명은 예수로만 비롯될 수 있다는 걸 이 시간이 증명해내고 있는 거예요. 왜 시간이 우리에게 열렸는지 아시겠죠? 우리는 그 시간을 생명으로 여기니까. 아니라는 거예요. 그런데 엄밀히 말해 시간이라는 건 그 자체가 객관적 실체로서 모아지거나 쌓아질 수 있는 종류의 것이 아니라고 했어요. 그렇다면 시간을 모으고 쌓아서 풍요롭고 무한한 영생을 만들겠다는 인간들의 시도는 결국 무얼 말하는 거겠어요? 결국. 시간을 쌓겠다, 시간을 모으겠다. 이 플뚝 시계에 시간을 그냥 영생만큼 모아야지, 한 백만 년 쯤 모아야지 하는 인간들의 시도는 무얼 가리키는 거겠어요? 스스로의 힘으로 삶을 영위하고 보존해보겠다는 아담의 그 모습, 그 모습이 시간을 모으겠다는 인간들의 시도를 모형하고 있었던 거예요.
내가 내 힘으로 열심히 달려서 팔뚝에 새겨진 시간에 시간을 축적하겠다는 거예요. 이게 바벨탑이잖아요. 잘 생각해보세요. 아담과 하와가 하나님 나라를 모형하는 에덴에서 성인으로 창조가 되었어요. 그 자체로 완료예요. 늙지도 않아요 에덴에서는. 그 자체로 완료예요. 그 하나님 나라의 완료성, 영원한 현재성을 암시하는 거였어요. 하나님 나라는 이런 곳이다. 애기로 태어나서 성숙하고 자라고 변하는 게 하나님 나라가 아니라 하나님의 창조의 말씀에 의해 그냥 완료가 되는 게 하나님 나라 라는 걸 보여주는 거예요. 그래서 성인으로 오는 거란 말입니다. 하나님 나라는 발전하고 성숙하고 변화하는 곳이 아니예요. 하나님에 의해 완성되는 곳이예요.
그것을 아담과 하와가 성인으로 탄생하는 것으로 보여주는 거란 말입니다. 그렇게 완료가 되어 있는 세상에서 시간이 필요있어요? 생각해보세요. 완료가 되어 있는 세상에선 시간이 필요 없단 말예요. 시간은 엄밀히 말해 인간들의 달음박질이란 말예요. 그런데 완료가 되어 있는 세상에는 인간들의 달음박질, 변화와 성숙을 향한 애씀이 필요가 없어요. 왜? 완료니까. 거기서 더 나은 어떤 존재로 발전이 불가능한 곳이예요. 왜? 완전함인 거니까. 그래서 시간이 없는 거예요. 쉽게 말해서 아담과 하와의 시간, 즉 아담과 하와의 나이가 의미가 있어요? 영원한 그 나라에서 무슨의미가 있어요? 아담과 하와의 나이가. 없단 말예요. 그들은 하나님의 말씀으로 완료된 그런 창조물로 생겨난 존재이기 때문에 더 이상 성숙이나 변화가 필요 없는 상태란 말예요. 그래서 하나님 나라는 ‘영원한 현재’ 라고 하는 거예요.
그게 하나님 절대의존의 나라예요. 하나님이 다 하시는 나라. 하나님이 통치하시는 나라. 하나님 나라의 백성은 스스로의 열심과 노력으로 시간을 쌓아서 성장과 성숙과 발전을 하며 생명을 쟁취해 내야되는 존재가 아니라 하나님으로부터 영원한 시간, 영생을 선물 받아 완성되는 존재라는 거예요. 복음은 아주 심플한 거예요 여러분. 그런데 아담과 하와가 하나님의 전적인 보호와 인도에서 벗어나서 스스로 선악 판단의 주체가 되어서 하나님 처럼의 삶을 추구하게 되면서 부터 우리도 달려서 하나님 처럼 되보겠다 라는 이 하나님 처럼의 삶을 추구하게 되면서 부터 인간들이 나이를 먹기 시작하는 거예요. 그러니까 인간들이 달리면서 시간을 살게 될 때 늙는 거예요. 나이를 먹는 거예요.
선악과 따먹은 인간들의 실존이예요 그것이. 그리고 그들은 성숙하게 되었고 변화하게 되었습니다. 달리면서~. 선악과 먹고 달리기 시작했잖아요. 창조의 나라에서 벗어난 인간이 스스로 하나님 처럼 살아보겠다고, 다른 말로 하나님의 창조사역을 흉내 내보겠다고 나서면서 인간들이 성숙하기 시작했어요. 그런데 성숙과 변화가 늙음과 썩어짐을 동반하더라는 거예요. 시간이. 그리고 결국 인간들이 만들어 낸 성숙의 절정이 사망으로 끝이 나요. 시간을 쌓아서 영생을 얻는 줄 알았는데 시간을 쌓으면서 늙기 시작하더니 결국 시간을 많이 쌓아서 죽음으로 가더라는 거예요. 그래서 창세기 5장의 모든 인간들이 죽음으로 끌려 들어가는 그런 장면으로 점철이 되어 있는 거예요. 죽었더라, 죽었더라, 죽었더라, 죽었더라 계속. 다 죽어. 이게 시간을 모으고 쌓아서 영생에 도달해 보겠다는 아담들의 결국이며 실체임을 증명하는 게 역사의 역할이예요. 이 시간의 역할이라구요 그게.
그러한 가운데 성도라는 사람들이 시간의 영역밖의 그 묵시를 품고 이 땅에 던져져요. 그들은 이 시간 속에서 시간을 따라 함께 흘러가다 보면 그 시간이 쌓여서 결국 사망이 된다는 걸 아는 사람들이예요. 여러분은 계시를 받는 분들이기 때문에. 그래서 자꾸 이 시간에서 빠져나가야 한다는 생각을 하게 되죠. 물론 성령으로 오신 믿음에 의해서 그러한 생각도 들게 되는 거예요. 그런데 이 역사 속에서는 시간이 돈 입니다. 가치란 말예요. 그래서 이 시간 속에서 빠져나오기가 쉽지 않아요. 성도도 마찬가지예요. 아는데 이 육이 거기서 빠져나오려고 하지를 않아요. 시간이 좋아요. 그래서 하나님이 그들의 삶에 개입을 하시는 거예요.
하나님 께서는 당신 백성의 삶속에 개입하셔서 그들의 시간이 얼마나 허무한 것이며 그 시간을 윤택하고 길게 만드는 게 진짜 복된 삶이, 복된 생이 아니라 걸 알게 하신단 말예요. 그게 성도의 인생이예요. 하나님은 당신 백성들의 시간을 환란으로 채우기도 하시고 , 질병으로 채우기도 하세요. 그렇게 해서 그들로 하여금 이 시간이 쌓여서 영생이 된다라는 건 언어도단이라는 것을 깨닫게 해주는 거란 말예요. 그게 성도의 역사, 이 시간의 존재 의미예요. 그래서 성경이 ‘ 태초에’ 시간의 시작,이라는 단어로 시작 되는 거예요. 시간을 줘볼테니까 그 시간으로 열심히 영생을 만들어 내 보라는 거예요. 그래서 선악과 입에 물려 ‘시간’으로 던져 버린 거예요. 열심히 달리라구. 너희들한테는 그런 능력이 없다는 걸 알게 해 주시는 거예요.
시간, 그 역사는 결코 생명이 될 수 없어요. 그래서 시간의 시작으로 시작된 성경이 진짜 생명이신 예수가 오시는 것으로 끝나는 거예요. 계시록 22장 20절 보세요.
계22:20 – 이것들을 증거하신 이가 가라사대 내가 진실로 속히 오리라 하시거늘 ‘ 아멘, 주 예수여 오시옵소서’ 주 예수의 은혜가 모든 자들에게 있을 지어다. 아멘.
시간을 열어 놓고 열심히 생명을 만들어 봐, 생산 해봐 라고 하신 하나님 께서 역사 마지막에 뭐라 그래요? 진짜 생명이 간다! 라고 하고 끝나는 거예요.예수 안의 생명. 시간이라는 가짜생명으로 시작된 성경이 예수라는 진짜생명으로 끝이 나는 거예요. 성도는 주 예수의 은혜로 사는 거지 시간으로 사는 게 아니라는 거예요. 열심히 달려서 사는 게 아니란 말입니다. 주 예수의 은혜, 이것이 성경의 결론이며 대 주제예요. 성경 맨 마지막이, 결론이 ‘ 주 예수의 은혜’ 라니까요. 그 단어로 끝나요. 그런데 이 사실을 성도만 감지하고 수긍하게 되요.
(ローマの信徒への手紙 1:11-15)
11 あなたがたに会いたいと切に望んでいるのは、霊の賜物をいくらかでも分け与えて、あなたがたを強くしたいからです。
12 それは、あなたがたの間で、あなたがたと私の互いの信仰によって、共に励まし合いたいからです。
13 兄弟たち、知らずにいてほしくないのですが、私はあなたがたのところへ行こうと何度も計画しました。それは、他の異邦人の間と同じように、
あなたがたの間でも、いくらかの実を結びたいと思ったからですが、今に至るまで妨げられてきました。
14 私は、ギリシャ人にも未開の人にも、知恵のある人にも愚かな人にも、果たすべき義務を負っています。
15 だから、私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。
本文を見れば、使徒パウロはローマ教会に行って霊的な賜物を分かち合いたくてたまりませんでした。1
1節の「あなたがたに会いたいと切に望んでいる」という表現や、13節の「私が何度もあなたがたのところに行こうとしたことを、あなたがたに知らずにいてほしくない」という切実な曲言法(否定的な表現で強烈な肯定を強調する表現法)の表現などが、それをよく物語っています。
11節の「望んでいる」という単語は、ギリシャ語の「エピポセオー」を翻訳したものですが、それは「切に祈る、ひどく渇望する」という意味です。
使徒はそのようにローマ教会に行って、自分が持っている霊的な賜物を分かち合いたいと神に切に祈っていたのです。
ところが、神は使徒の祈りを聞き入れてくださいませんでした。ただ手紙だけを送らせました。
後でローマに送られはしますが、福音を伝えるために堂々とローマに進軍させたのではなく、囚人となって鎖に繋がれ、ローマに引かれて行かせたのです。
しかし、神の仕事は完璧にすべて成就されました。使徒はローマに行って華々しく福音を伝えたのではなく、そこで殉教しました。死んだということです。
ところが、使徒が計画し推進したこととは比較にならないほど、ローマ全体がキリスト教に屈してしまいました。
そのような歴史的事件は、神の権能と人間の限界を極明に対照させて如実に示しているのです。
そういう面で、私たちは祈りの答えに関する偏見を打ち砕く必要があります。パウロの書簡を見れば、使徒パウロは本当に祈りの答えとは縁遠い人であることがわかります。
病気を治してほしいとあれほど切実に祈ったのに、「私の恵みはあなたに十分である」と拒絶されたかと思えば、今日の本文だけでなく他の場所でも、
パウロが熱心に祈りながら行こうとした道を随時阻まれたことを見ることができます。
(使徒言行録 16:6-7)
「6 聖霊がアジアで御言葉を語ることを禁じられたので、彼らはフリギア、ガラテア地方を通って行った。7 ムシアの近くまで来ると、ビティニアへ行こうとしたが、
イエスの霊がそれを許さなかった。」
(ローマの信徒への手紙 15:22-24)
「22 それで、あなたがたのところへ行こうとして、何度も妨げられました。
23 しかし今は、この地方にはもう働く場所がなく、また、何年も前からあなたがたのところへ行きたいと切望していたので、
24 スペインへ行くとき、寄らせてもらいたいと思います。途中であなたがたに会い、まず、しばらくの間あなたがたとの交わりを楽しんでから、
そこへ送り出してもらいたいのです。」
見てください。さらにアジアでの伝道働きが、もはやこれ以上することはないというほどに進展したのに、神はパウロの祈りに答えませんでした。
(テサロニケの信徒への手紙一 2:18)
「18 だから、私たち、特にこのパウロは、一度ならず二度までもあなたがたのところへ行こうとしたのですが、サタンが私たちを妨げました。」
ご覧のように、神はパウロの祈りによく答えませんでした。ただ神の御旨のままに、神の計画のままに、御自身の仕事を成就していかれます。
そのように、神は御自身の計画を人間の祈りによって変えたり改めたりされません。神は神の仕事をされます。「御座を動かす祈り」?そんなものはありません。
ならば、神はなぜ私たちに祈りをさせるのでしょうか?聖徒の祈りは、自分の成し遂げたいことを成し遂げたり、なりたいものになったりすることを一次的な目的とするのではなく、
神の栄光の前に降伏することに第一の目的があるのです。それが歴史と人生の目的でもあります。
聖徒はそのように万事が自分の祈り通りにはならず、神の御旨の通りになるのを見ながら、神の偉大さとその方の真実さを認めるようになるのであり、それが即ち善であり、
それが即ち真理であることを自覚する自己否定の過程を通過することになるのです。
そういう面で、聖徒の祈りはあまりに答えが良すぎてもいけないのです。依然として肉的な自己を所有している人間から出てくる計画や意図や願いに、
どれほど善いものがあるでしょうか。それにもかかわらず、祈りの答えがスラスラと出るのは、何だか怪しいものです。
使徒たちも祈りの答えをまともに受けられなかったということを、絶対に肝に銘じなければなりません。
さて、使徒がそれほど熱心にローマに行こうとした理由が何なのか見てみましょう。
本文11節を見れば、使徒はローマ教会に霊的な賜物を分かち合って、彼らを堅固にするためだったと言います。それが使徒がローマに行こうとした第一の理由です。
一体その霊的な賜物とは何であり、それによってローマ教会が堅固になれるというのでしょうか。
本文15節を見れば、その霊的な賜物が何であるかが正確に出てきます。
(ローマの信徒への手紙 1:15)
「15 だから、私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。」
使徒パウロがそれほど切実にローマ教会に伝えたかった霊的な賜物は何ですか?「福音」です。ならば、ローマ教会に福音がなかったという言葉でしょうか。違いますよね。
確かに使徒は8節で、すでにローマ教会の信仰が全世界に語り伝えられているという事実を記録しています。
ならば、使徒がローマ教会に行って福音を伝えることを望んだというのは、どのように理解すべきでしょうか。
11節を見ればその第一の理由が出てきますが、それが「堅固にするため」です。その単語は「強固に建てる、確固たるものにする、強くする」という意味です。
使徒は、できたばかりのローマ教会を強固に建て、確固たるものにする必要があると考えたのです。なぜそのような作業が必要だったのか。
ローマ教会は使徒たちによって建てられた教会ではありません。
ローマ教会は五旬節(ペンテコステ)の聖霊降臨の時に回心をしたローマ居住者たちが、ローマに帰って建てた教会です。
ある人々は、どちらでもない貿易業者たちによって福音が伝えられ、そこに教会ができたとも言います。
ローマ・カトリックは、彼らが初代教皇として崇めているペトロを祭り上げるために、ローマ教会の設立者はペトロであるとそれとなく主張しますが、
聖書の状況からしてペトロはローマ教会の胎動期にローマにいませんでした。
したがって、ローマ教会は使徒ではなく一般の信者たちによって自発的に生まれた教会で間違いありません。
ところが、もしローマ教会を建てた人々がユダヤ人だったなら、ガラテア教会のように律法主義やユダヤ主義が多く混ざっていたでしょうし、
異邦人によって教会が建てられたなら、教理的な部分が非常に脆弱だったでしょう。ですから使徒パウロが、
教理的に軟弱で不純物が混ざっているかもしれないローマ教会に、御言葉をさらに深く教えて、彼らの信仰を堅固にしてあげたくて、
ローマ教会にあれほど行きたがったのです。ローマ書15章に行くと、使徒パウロのそのような心がよりよく表れています。
(ローマの信徒への手紙 15:19-20) 「19 私は、エルサレムから始まってイルリコ地方に至るまで、キリストの福音をくまなく伝えました。
20 その際、他人の土台の上に建てないように、キリストの名がまだ知られていない所に福音を伝えることを、私の名誉としてきました。」
ご覧の通り、使徒は福音が正しく堅固に伝えられた場所には行きませんでした。なぜなら、彼が福音を持って行って説教をしなければならない場所があまりにも多かったからです。
ところが、彼がすでに福音が伝播していたローマ教会にあれほど行ってみることを望んだというのは、
ローマ教会の教理的背景が堅固でなかったためであるということを反証しているのです。それで書かれたのが、まさにこのローマ書です。少し上の句に行ってみましょうか。
(ローマの信徒への手紙 15:14-15)
「14 私の兄弟たち、あなたがた自身が、善意に満ち、あらゆる知識を身に着け、互いに訓戒し合うことができる者であると、この私自身も確信しています。
15 しかし、あなたがたに思い起こさせるために、神から与えられた恵みに基づいて、ある点では非常に大胆に書きました。」
15節の「大まかに(あるいは大胆に)」という単語(メロス)は、いい加減にという意味ではなく、「ある部分において」という意味です。
つまり、使徒がある部分では非常に衝撃的であるほど大胆に福音を記録してローマ教会に送ったのは、彼らがすでに受けた福音をより明瞭に伝えて、
彼らが持っているものを想起させ、それによって彼らの信仰が堅固になることを願う心で書いたのだという言葉です。
私たちはここで、神の御言葉の持続的な学習と供給の重要性を知ることができます。
そして聖徒には、明らかに成熟の過程が存在することも知ることができます。「軟弱さ」と「堅固さ」、明らかに違うものですよね。
だからといって誤解しないでください。私の言葉は、聖徒の肉的自己が変化するという言葉ではなく、聖徒の肉的自己が否定されることによって、
その土の器のような聖徒の肉的自己の中に入っておられる宝のようなイエス・キリストがより鮮明に現れるようになる、そのような種類の成熟を言っているのです。
その成熟の主体は聖徒ではなく、イエス様です。しかし、明らかに可視的であり実存的な変化が存在するということです。
その言葉は、黙示の中の救いはすでに創世前に完了している状態ですが、この歴史の中での救いは過去・現在・未来の三つの時制で現れるという言葉です。
(コリントの信徒への手紙一 3:1-2)
「1 兄弟たち、私はあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、すなわち、キリストにある幼子に対するように語りました。
2 私はあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。あなたがたには、まだそれを食べる力がなかったからです。実は、今でもないのです。」
見てください。使徒がコリント教会に手紙を書きながら、彼らをキリスト・イエスの中での乳飲み子の幼子だと表現します。
その言葉は、固い食べ物を食べる大人もいるということです。エフェソ書にも同じ話が出てきます。
(エフェソの信徒への手紙 4:14-15)
「14 こうして、私たちはもはや幼子ではなく、人間の悪だくみや人を惑わすずる賢い欺きにより、どのような教えの風にも吹きまわされたり、あおられたりすることがなく
15 むしろ、愛を持って真理を語り、あらゆる点において、頭であるキリストに向かって成長するのです。」
ここで「幼子」と翻訳された「ネーピオス」は、当時未成熟なクリスチャンを指していた単語でした。
聖徒はある地点に向かって方向性と志向性を持った躍動的な存在だということです。
肉的自己の側面から聖徒を観察するとき、聖徒という人間は死ぬ日まで罪だけを吐き出していくように見えますが、
その中に住む聖霊の熱心の観点から聖徒を観察すれば、明らかに神の働きが彼の人生の中に現れるということです。
ところがそのような変化は、聖化主義者たちの主張のように人間の熱心によって触発されて出てくるのではなく、神の御言葉によって武装解除され、
肉的自己が否定される中で、神の主導の下に現れるのです。
(フィリピの信徒への手紙 2:13)
「13 あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神だからです。」
この句をよく見れば、聖徒の中で起こる「行い」の主体が神であることを知ることができます。
ところがそのような神の行いが外に現れるとき、神の喜ばれる御旨のために生きたいという聖徒の念願として現れるのです。
だからといって、何か立派に善い行為が出てくるというような言葉ではありません。
神の喜ばれる御旨は、聖徒が罪から離れることです。
ところが罪というのは、不道徳で非倫理的な行為だけを言うのではなく、人間が主体となって自分の人生に責任を負おうとするすべての思惟と行為をすべて
罪と言います。したがって、人間が罪から離れるということは、自分が主体の座から降りて被造物の座に正しく着地することです。
そしてその座で、神の導きに自分を任せるようになることを救いと言います。
したがって、聖徒が神の喜ばれる御旨のために願いを持って行うということは、自分の主体性と自己実現の野望を捨てる方へと押し流されるようになる、
そういう意味です。それが善です。それが罪から離れた、神の喜ばれる御旨を念願する人生なのです。
それを別の言葉で「信仰の生活」と言います。信仰というのは、人生の主体が「私」から対象へと移ることです。
自分に対する信頼が崩れ、他者の助けが切実な自分の実存を正しく自覚した状態で、
他の他者に「私」という存在を任せる行為を信仰と言うのではないですか。
ですから、信仰ということの前提は徹底した自己否定なのです。それが神が喜ばれる行為、本当の聖化なのです。
私たちが今ではほとんど暗記しているイエス様の御言葉をもう一度確認しましょう。
(ヨハネによる福音書 6:27-29)
「27 朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならず、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。
これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。
28 そこで彼らが、『神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか』と言うと、
29 イエスは答えて言われた。『神が遣わされた者を信じることが、神の業である。』」
聖徒が必ずしなければならない神の業は何ですか?神が遣わされた者を信じることです。
人間が、神の遣わされた者イエスだけを信じなければならないという事実の前に、すべての人間の行為は否定され、拒否されるのです。
イエスを信じるということは、「私」という存在とその存在から出てくるすべての行為に対する不信と否定が前提されたものですから。
そのように、神は御自身の民に信仰を与える瞬間、彼らのすべての行為を差し押さえてしまわれます。
人間自身の行為に対する信頼を一つ一つ打ち壊していくという言葉です。
その前には自分の善い行為が自分の地位を高め、人間としての自尊心を守ってくれるものと考えていましたが、神の御言葉が、
福音が持続的に落ちてくるので、自分の善い行為の中に入っている隠れた意図、
すなわち自己の「義」を確保しようとすることがあまりにも明確に見えるようになります。
その時、聖徒は自分に対する信頼を少しずつ失っていきます。
そして自分の外の他者、その中でも自分が全面的に依存できる神に自分を少しずつ任せるようになるのです。
それを自己否定と言います。そしてそのような自己否定の中で、イエス・キリストに対する信仰がより堅固になるのです。それを成熟と言うのです。
そのような成熟の結果としては、世界と歴史を眺める眼識の変化や価値観の変化などが現れます。
もちろんそこで触発される行動様式の変化も現れます。それが霊的な福音によって堅固にされることです。
使徒パウロがエフェソを去りながら、エフェソ教会の長老たちに頼んだ言葉を見れば、神の福音だけが聖徒を堅固にする唯一の道具であることが明確に出てきます。
(使徒言行録 20:29-32)
「29 私が去った後、残忍な狼があなたがたの間に入り込んで、群れを荒らすようになることを、私は知っています。
30 また、あなたがた自身の中から、弟子たちを自分に引きつけようとして、歪んだことを語る者たちが現れるでしょう。
31 だから、私が三年の間、夜も昼も涙を流して、一人一人を絶えず訓戒してきたことを忘れないで、目を覚ましていなさい。
32 そして今、神とその恵みの御言葉とにあなたがたをゆだねます。御言葉は、あなたがたを堅く建てることができ、聖なる者とされたすべての人々と共に、あなたがたに受け継ぐべき財産を与えることができるのです。」
使徒が神の御言葉に委ねます。その御言葉だけがあなたがたをしっかり建てることができるというのです。エフェソ教会に直接送った手紙にも同じ内容が出てきます。
(エフェソの信徒への手紙 3:17-19)
「17 信仰によって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛を基盤とする者としてくださるように。
18 そうして、すべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、
19 知ることを超越したキリストの愛を知るようになり、神の満ちあふれる豊かさのすべてによって、あなたがたが満たされるようにと祈ります。」
キリストの十字架の愛、すなわち福音を知るようになれば、その愛の広さと長さと高さと深さがどのようなものであるかを悟り、
根が張られ基盤が固められるようになるということです。これがまさに堅固になることです。
私は時々、私たちの青年たちのブログやホームページで彼らの文章を読みますが、
彼らの文章の中に成熟と変化の真意が何であるかをはっきりと見ることができます。7年前に教会が始まった頃に彼らが書いた文章と、
最近の彼らの文章を比較してみれば、天と地の差です。文章の中には必ずその当時の筆者の世界観と価値観と人生観が込められるようになります。
7年前の私たちの青年たちの文章の中には、世界に対する稚気な楽観と野望と夢とビジョンがたっぷりと込められていました。
ところが最近の文章を読んでみると、正しい自己認識、つまり正しい自分の最初の位置の認識と人間の無力さと無能さ、
あれほど執着していた世界の事物に対する放棄と絶縁、巧妙に隠蔽しておいた自己の暴露などが、とても正直に表現されているのを見ることができます。
以前はどうすれば自分を素敵に包装できるかに文章の焦点があったとすれば、今はそこから自由に解放されています。
それがまさに成熟であり変化です。
自分が自分を見るときには、まあ別に変わったこともなく、相変わらず利己的で、相変わらず執着と中毒に陥ってもがいているように見えますが、
明らかに彼らの世界観と価値観と人生観が変わっているのです。だんだんイエスの恵みだけを頼る者に変わっていくのです。
明らかにそのような聖徒の中での変化と成熟が、神の主導の下に行われます。
どうして聖霊を受けた者が、そうでない世の人々と同じ世界観と価値観と人生観を持って生きることができるでしょうか。
そんなことはあり得ません。幼子の時は分からなくても、持続的な御言葉の授乳によって必ず変化が起こります。
行為の変化が大きくは起きないとしても、世界観と価値観と人生観の変化が方向性を持って志向性を持って起きるようになっているのです。
それが生きていて動力のある御言葉のパワーなのです。
神の御言葉が実際に骨髄と関節を切り裂いて、人間の実体をことごとく解剖して暴露してしまわれます。そこでイエス・キリストの恵みと愛だけがひたすら
現れるようになるのであり、徹底的に否定された自己の中でイエスの恵みだけを頼って立つことこそが堅固になることなのです。
使徒が今その仕事のために福音を持ってローマ教会に行こうとしているのです。
ところが、使徒がそのような切実な念願をどのように神に求めているか見てください。
ローマの信徒への手紙 1:10)
「10 いつでも祈るたびに、神の御心によって、何とかして、ついにはあなたがたのところへ行く道が開かれるようにと願っています。」
「神の御心によって」、このように使徒は自分の意図と念願を常に神の御心の中で点検し検証してみた人です。
それがもしや自分の考えや知恵から出たものではないか、いつも恐れ戦きながら確認し、また確認したのです。ここで「行く道が開かれる(良い道を得る)」
と翻訳された語句を直訳すると、「道がはっきりと明らかにされる」という意味です。
使徒は自分の念願が神の御心の中で正しいものであるかを点検しただけでなく、それが神が望まれることなら明らかに確実な道が開かれることを信じまし
た。そして、確かな道が開かれるその時まで待ったのです。
いかがですか?使徒の一挙手一投足がすべて神に依存されていることを見ることができるでしょう?
これがまさに御言葉によって堅固にされた者の、神への絶対依存の姿なのです。明らかに自己否定による変化と成熟が現れていますよね。
ここでまた一つ見逃してはならない重要な事案があります。皆さんが今日の本文やその他の他のいくつかの場所でご覧になったように、
使徒が判断するにローマ教会は必ず養育され堅固にされるべきキリストの中の幼子でした。
ところが神様は、彼らを堅固にするためにローマに行くという使徒の願いを許しませんでした。阻まれたのです。
だからといってローマ教会が御言葉で堅固になる過程を経ずに、なあなあで流れていったでしょうか。いいえ。神の教会は必ず救いの現在時制を生きなければなりません。
ローマ教会は使徒パウロの手紙によって、そしてパウロではない他の僕たちによって御言葉の授乳を受け、堅固になる過程を通過しました。
ならば、この歴史の中のすべてのことの主体が誰だということになりますか。神様です。
使徒パウロがその仕事をしなければ神様もどうしようもない、そのようなことではありません。神は独りで、そして自ら御自身の仕事をされます。
したがって、神の関心は、御自身の民を使用して御自身の仕事を成就させることにあるのではなく、その民一人一人の信仰と救いにあります。
ですから時々、御自身の僕たちの忠情までも黙殺してしまわれます。さらに悪魔までも使用して、人間の無力さと不可能さを教えられます。
(テサロニケの信徒への手紙一 2:17-18)
「17 兄弟たち、私たちは、あなたがたからしばらく引き離されたので、心においてではないが、顔において、なおさら切実に、あなたがたの顔を見たいと熱望しました。
18 だから、私たち、特にこのパウロは、一度ならず二度までもあなたがたのところへ行こうとしたのですが、サタンが私たちを妨げました。」
そうでしょう?なぜ神様は使徒のその忠情を、そのように悪魔まで動員して阻まれたのでしょうか。
神の仕事は神が実行し完了するということを教えてくださるためです。
神は使徒パウロを通じてされる「仕事」に関心があったのではなく、使徒パウロという神の民の信仰と救いに一次的に関心があったのです。
使徒はそのように度々自分の計画と意図が霧散する経験をすることによって、自分が何か大変な資格や条件を備えて神に用いられるのではなく、
神が杖として使ってくださるものであることを悟ったはずです。
そのような使徒の経験が、このような告白をさせました。
(コリントの信徒への手紙一 15:9-10)
「9 私は、使徒の中で最も小さい者であり、神の教会を迫害したのですから、使徒と呼ばれるに値しない者です。
10 しかし、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に与えられた神の恵みは無駄にならず、私は他のすべての使徒たちよりも、
もっと多く働きました。しかし、それは私がしたのではなく、私と共にあった神の恵みなのです。」自分は絶対にどんな資格や条件を備えて使徒になった者ではないということです。
自分から出たすべての行為と業績はすべて神の恵みの産物であることを彼が知りました。
それが信仰であり、それが自己否定なのです。ローマ書15章にも同じ内容が出てきます。
(ローマの信徒への手紙 15:17-18)
「17 それで、私はキリスト・イエスにあって、神に仕えることを誇りにしています。
18 異邦人を従わせるために、キリストが私を用いて、言葉としるし、不思議な業の力、また聖霊の力によって成し遂げてくださったこと以外には、私は何もあえて語ろうとは思いません。」
使徒パウロの言葉と業、しるしと不思議な業の力などすべてが、聖霊の力によってなされたものだと言います。
自分はただ神の道具だったという言葉です。ですから使徒は、自分の意図と計画が悪魔によって阻まれるように見えても、焦ったり神を恨んだりせずに済ん
だのです。神が成し遂げられることであれば、悪魔ではなく悪魔のおじいさんが邪魔をしても成し遂げられるだろうし、神が阻まれることであれば、どんな
に素晴らしい名分で偽装したとしても神が必ず阻まれることを知っていたからです。
二番目に使徒がローマ教会にそれほど行きたがった理由は、本文12節によく表れています。
(ローマの信徒への手紙 1:12)
「12 それは、あなたがたの間で、あなたがたと私の互いの信仰によって、共に励まし合うためです。」
使徒は互いに励まし合う(慰め合う)ためにローマ教会に行きたかったのです。ここで「励まし合う(安らぎを得る)」と翻訳されたギリシャ語の「シュンパ
ラカレオー」という単語は、「共に慰め合う(comfort together)」という意味です。私はこの単語を見ながら、使徒の孤独さと疲れ果てた姿を切々と感じること
ができました。使徒が今、ローマ教会だけを慰めるために行くというのではありません。自分も彼らから慰めを受けなければならないということです。
使徒がなぜそれほど遠くまで行って慰めを受けなければならないのでしょうか。使徒はイエス様がそうであったように、常に孤独でした。
使徒の時代にも、それほど本当のクリスチャンが少なかったということです。
彼は自分が開拓した教会でも毎回誤解と嫉妬と謀略によって追い出されなければならず、共にいた同労者たちからも随時見捨てられました。
(テモテへの手紙二 1:15) 「15 アジアにいるすべての人が私を見捨てたことは、あなたも知っています。その中にはフゲロとヘルモゲネがいます。」
(テモテへの手紙二 4:10-11, 16) 「10 デマスはこの世を愛し、私を見捨ててテサロニケへ行き、クレスケンスはガラテアテトスはダルマティアへ行きました。
11 ルカだけが私と共にいます。…
16 私が最初に弁明したとき、誰も私に味方せず、皆私を見捨てました。彼らにその罪が帰せられませんように。」
このように福音を生きる者たちは、世の人々から孤立させられます。
そして見捨てられます。世の中がイエスを憎んで殺してしまったように、そのイエスが残していったイエスの兄弟たちを同じように憎みます。
それはイエス様の預言でした。そのような孤独で辛い信仰の旅路の中で、自分と同じ道を歩んでいる真の信仰者たちに出会うことほど大きな慰めはありません。
当時ローマ教会は、言い表せない迫害の中に投げ込まれていたと言いましたよね。
使徒も同様でした。使徒は、あれほど苦労して十字架の道を歩んでいる自分の現実をローマ教会と分かち合い、彼らだけがその険しい苦難の道を歩んでい
るのではないことを教えてあげたかったのです。そして自分もそのように熱心に耐え抜いているローマ教会の現実を見ながら、やはり慰めを受けたかったの
です。使徒はそれをコリントの信徒への手紙二でこのように説明します。
(コリントの信徒への手紙二 1:6-7)
「6 私たちが苦難に遭うのも、あなたがたの慰めと救いのためです。私たちが慰めを受けるのも、あなたがたの慰めのためであり、その慰めが、
私たちが受けているのと同じ苦しみにあなたがたを耐えさせる力となるのです。
7 あなたがたに対して私たちが抱いている希望は揺るぎません。あなたがたが苦しみを共にするように、
慰めをも共にする者であることを、私たちは知っています。」
神の鉄の杖によって徹底的に自己否定作業を受けている聖徒の苦難が、お互いに慰めになるというのです。
だから教会は集まることに励むのです。同じ道を歩む同志に出会うと、涙が溢れ出すこともあります。
今回の韓国の集会で出会った私たちのスムナ(スミルナ)インターネット家族たちが、休暇を取って集会の場所まで訪ねて来られ、宿まで取って全体の集
会にすべて参加された後、最後の日、私の手を握って一様に涙を流されるのを見ながら、私が大きな慰めを受けました。彼らも同様です。
どれほど孤独で辛かったら、ニュージーランドから、日本から、益山から、梁山から、統営から、休暇を取って訪ねて来られたでしょうか。
同じ道を歩む聖徒たちは、そのようにお互いの顔を見るだけでも慰めになるのです。
自分だけが残ってこのように孤独な道を歩んでいるのかと思っていたら、ここにもいて、あそこにもいて、そこにもいたのかという安堵、
それより大きな慰めがどこにあるでしょうか。使徒もそのように慰めが必要な人でした。ましてや皆さんはどうでしょうかですから皆さんは、集まることに励まなければならないのです。
テレビが皆さんを慰めてくれると思われますか。趣味活動が皆さんを慰めてくれると思われますか。
世の中の友達が皆さんを慰めてくれると思われますか。文明が皆さんを慰めてくれますか。いいえ。
とんでもありません。皆さんが聖霊を受けた聖徒なら、皆さんはそのようなものからむしろ憎まれ、失望しなければ正しいのです。そのようなものは決して聖徒を堅固にしてくれるものではありません。むしろ聖徒を殺すものです。聖徒を堅固にしてくれるのはただ神の福音だけであり、聖徒を慰めてくれるのは聖徒間の交わりの中でのみ可能なのです。
ところが人間たちは、自分たち自身の認識を操作してまで福音を拒否します。自ら騙されているということです。
「イエスだけ頼ればいい」「イエス様の功労だけ頼ればいい」「神に降伏さえすればいい」と言うのに、それが嫌なのです。
善悪の知識の木の実を食べて神のようになってしまった、偉大な人間の自尊心を守りたいのです。
ペンシルバニア大学のジェームズ・サーペル教授の『In The Company of Animals(動物の会社で)』という本を見れば、人間の自己認識操作の手段が具体
的に説明されますが、それが「絶縁(detachment)」「隠蔽(concealment)」「責任転嫁(shifting the blame)」「歪曲(misrepresentation)」です。
最近韓国で発生した口蹄疫の生き埋め事件を例に挙げて説明すると、このようになります。
過去3ヶ月間、韓国の牛や豚数百満頭が、単に伝染病に感染する可能性があるという理由だけで生き埋めにされました。
皆さん、ザリガニも苦痛を感じると言うのに、ましてや牛や豚はどうでしょうか。
ところが私たちはそのようなニュースを聞きながらも、依然として箸で豚の三枚肉を掴んでいます。どうしてそんなことができるでしょうか。
(それが悪いということではなく、人間の自己認識の歪曲と操作の手段を説明するために例を挙げているのです)
人間はあのようなことが起きれば、すぐに「絶縁(detachment)」をしてしまいます。
「自分と豚は違う存在だ」ということです。そして豚は汚くておぞましい動物だと「歪曲(misrepresentation)」します。
ナチスがわざと収容所の中のユダヤ人たちを豚や犬のように不潔にした後、何ら罪悪感なしに殺したように。
そうしながら「口蹄疫なんて私が広めたのか?」という「責任転嫁(shifting the blame)」をします。
そしてすぐにその証拠物を埋めてしまうのです。そしてきれいに包装された、豚の形態を全く推測することすらできない、
きれいに整えられた豚肉のパッケージ商品として「隠蔽(concealment)」を試みます。
これが人間と豚の関係だけで起きる歪曲であり操作であればいいのですが、人間と人間の間でも同じ自己認識の操作と歪曲が繰り広げられるということが問
題です。今は社会法や道徳・倫理などの神の一般的恩寵が人間たちを繋ぎ止めていて、大量虐殺は頻繁には起きていませんが、
神が宇宙と歴史を支えている一般的恩寵をパッと抜いてしまわれる日、人類はお互いを大量虐殺して地に生き埋めにする仕事をためらわないでしょう。
いいえ、人々の心の中ではすでに起きていることですよね。
今この時間にもリビアでは数千人が虐殺されています。なぜ私たちはそのような虐殺にも胸を痛めないのですか。
なぜツインタワーの中で数万人が焼け死んでも、私たちの感情はこんなに淡々としているのですか。今この時間、アフリカでは食べ物がなくて餓死する人々が続出しています。
ところが私たちは今、今日のランチメニューが何かを考えます。これが人間の自己認識の歪曲と操作の実態です。
絶縁、隠蔽、歪曲、責任転嫁。人間の共感の器はそれほど小さいのです。
さらに人間と歴史は、自分たちのその残酷さを立派な行為で偽装したりもします。
皆さん、人類の歴史上、最も包括的な動物保護法を作って、ペットだけでなく一般の家畜までもひどく愛した政府がどこの政府か知っていますか。
ヒトラーのナチス政府でした。ヒトラーは動物保護法を制定し、動物を虐待することを禁じたのはもちろんのこと、鶏に強制的に餌を与えること、
家畜を残酷に屠殺することも禁じましたし、ロブスターを殺すときにも定められた時間内に早く殺さなければなりませんでした。
苦痛なく殺せというのです。さらに魚を殺すときは必ず麻酔をしてから殺さなければなりませんでした。
つまり、サンマ一匹を焼いて食べるために、生きたサンマを麻酔させた後に殺して料理しなければならなかったのです。
ナチス政府がどれほど動物保護に気を配ったか、ヘルマン・ゲーリングの演説を見ればわかります。
「動物は有機的な意味での生命体であるだけでなく、各自の人生を生き、知覚能力を付与された存在であり、苦痛と喜びを感じ、忠誠心を持った愛情の対象で
ある。したがって、動物を依然として所有物として扱ってもよいと考えている者は、強制収容所に送ってやる」
立派に見えますよね。博愛主義者様の登場です。ところがゲーリングはこの演説をした日も、数千人のユダヤ人をガス室で虐殺しました。
何の罪悪感もなしに。これがまさに、歪曲され操作された自己認識の中の人間の姿です。
自分たちの汚い姿を善い行為で偽装してしまうのです。その中で聖徒が何によって堅固になれるでしょうか。
その中で聖徒が何によって慰めを受けられるでしょうか。御言葉です。聖徒間の出会いです。聖徒間の交わりです。
それが不足するとき、聖徒は霊的な栄養失調にかかることになります。
パウロがローマに行って自分が持っている福音を分かち合おうとしたように、聖徒間の交わりで慰め合い、慰めを受けようとしたように、
皆さんもローマに行きたがなければなりません。皆さんの「ローマ」は教会です。
教会に熱心に通って御言葉を真剣に勉強し、聖徒間の豊かな交わりを分かち合ってください。
「ローマに行きたい」、このパウロの哀切な念願が、礼拝が終わって日常に戻った皆さんの耳に耳鳴りのように響くことを願います。
「御言葉を分かち合いたい」「天国の家族たちに会いたい」「堅固になりたい」「天の慰めを受けたい」、これが皆さんの願いにならなければなりません。
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본문을 보시면 사도 바울이 로마 교회에 가서 신령한 은사를 나누어 주고 싶어 안달이 났습니다.
11절의 ‘내가 너희 보기를 심히 원한다’라는 표현이나 13절의 ‘내가 여러 번 너희에게 가고자 한 것을 너희가 모르기를 원치 않는다’라는 절절한 곡언법(부정적 표현으로 강렬한 긍정을 강조하는 표현법)의 표현 등이 그것을 잘 반증해 주고 있습니다.
11절의 ‘원한다’라는 단어는 헬라어 ‘에피포데오’를 번역한 것인데 그것은 ‘간절히 기도하다, 대단히 갈망하다’라는 뜻입니다.
사도는 그렇게 로마 교회에 가서 자기가 갖고 있는 신령한 은사를 나누어 주고 싶어 하나님께 간절히 기도를 했던 것입니다.
그런데 하나님께서 사도의 기도를 안 들어주셨습니다. 그냥 편지만 보내게 하셨습니다. 나중에 로마로 보내시긴 보내시는데 복음을 전하기 위해 보무도 당당히 로마로 진군하게 하신 것이 아니라 죄수가 되어서 쇠사슬에 매여 로마로 끌려가게 하셨습니다.
그런데 하나님의 일은 완벽하게 모두 성취가 되었습니다. 사도는 로마로 가서 멋들어지게 복음을 전한 것이 아니라 그곳에서 순교를 당했습니다. 죽었단 말입니다.
그런데 사도가 계획하고 추진했던 것과는 비교도 안 되게, 로마 전체가 기독교에게 넘어와 버렸습니다.
그러한 역사적 사건들은 하나님의 권능과 인간의 한계를 극명하게 대조하여 여실히 보여주는 것입니다.
그런 면에서 우리는 기도 응답에 관한 우리의 편견을 깨버릴 필요가 있습니다. 바울의 서신 서들을 보면 사도 바울은 참 기도 응답과는 거리가 먼 사람임을 알 수 있습니다.
병 좀 고쳐달라고 그렇게 애타게 기도를 했는데도 ‘내 은혜가 네게 족하다’고 거절을 당했는가 하면 오늘 본문에서 뿐만 아니라 다른 곳에서도 바울이 열심히 기도하면서 가려고
했던 길을 수시로 막으셨던 것을 볼 수 있습니다.
(행 16:6-7) “6 성령이 아시아에서 말씀을 전하지 못하게 하시거늘 브루기아와 갈라디아 땅으로 다녀가
7 무시아 앞에 이르러 비두니아로 가고자 애쓰되 예수의 영이 허락지 아니하시는지라”
(롬 15:22-24) “22 그러므로 또한 내가 너희에게 가려 하던 것이 여러 번 막혔더니 23 이제는 이 지방에 일할 곳이 없고 또 여러 해 전부터 언제든지 서바나로 갈 때에 너희에게 가려는 원이 있었으니 24 이는 지나가는 길에 너희를 보고 먼저 너희와 교제하여 약간 만족을 받은 후에 너희의 그리로 보내줌을 바람이라”
보세요. 심지어 아시아에서의 전도 사역이 더 이상 할 일이 없을 만큼 진행이 되었는데도 하나님께서 바울의 기도에 응답하지 않으셨습니다.
(살전 2:18) “18 그러므로 나 바울은 한번 두 번 너희에게 가고자 하였으나 사단이 우리를 막았도다”
보신 것처럼 하나님은 바울의 기도에 잘 응답하지 않으셨습니다. 그냥 하나님의 뜻대로, 하나님의 계획대로 당신의 일을 성취해 가십니다.
그렇게 하나님은 당신의 계획을 인간의 기도에 의해 바꾸시거나 변개치 않으십니다. 하나님은 하나님의 일을 하십니다. 보좌를 흔드는 기도? 그런 거 없습니다.
그렇다면 하나님은 왜 우리에게 기도를 하게 하시는가? 성도의 기도는 자신의 이루고자 하는 일을 이루거나 되고자 하는 것을 성취하는 것을 일차적 목적으로 하는 것이 아니라
하나님의 영광 앞에 항복을 하는 것에 첫 번째 목적이 있는 것입니다. 그게 역사와 인생의 목적이기도 하고요.
성도는 그렇게 만사가 내 기도대로 이루어지지 않고 하나님의 뜻대로 이루어지는 것을 보면서 하나님의 위대하심과 그 분의 신실하심을 인정하게 되는 것이고, 그것이 곧 선이며
그것이 곧 참이라는 것을 자각하는 자기부인의 과정을 통과하게 되는 것입니다. 그런 면에서 성도의 기도는 너무 응답이 잘되면 안 되는 것입니다.
여전히 육적 자아를 소유하고 있는 인간에게서 나오는 계획과 뜻과 소원이 뭐 그리 선한 것이 있겠습니까? 그럼에도 불구하고 기도 응답이 척척 되는 것은 뭔가 수상한 것입니다. 사도들도 기도 응답을 제대로 못 받았다는 것을 절대로 명심하셔야 합니다.
이제 사도가 그토록 열심히 로마에 가려고 했던 이유가 무엇인지 볼까요? 본문 11절을 보시면 사도는 로마 교회에 신령한 은사를 나누어 주어 그들을 견고케 하려했다고 합니다.
그게 사도가 로마에 가려고 했던 첫 번째 이유입니다. 도대체 그 신령한 은사라는 것이 무엇이기에 그것으로 로마교회가 견고케 될 수 있다는 것일까요?
본문 15절을 보면 그 신령한 은사가 무엇인지가 정확하게 나옵니다.
(롬 1:15) “15 그러므로 나는 할 수 있는 대로 로마에 있는 너희에게도 복음 전하기를 원하노라”
사도 바울이 그토록 간절하게 로마교회에게 전해주고 싶었던 신령한 은사가 무엇입니까? 복음입니다. 그렇다면 로마 교회에 복음이 없었다는 말인가요? 아니지요?
분명 사도는 8절에서 이미 로마 교회의 믿음이 온 세상에 전파되었다는 사실을 기록하고 있습니다. 그렇다면 사도가 로마 교회에 가서 복음을 전하기를 원했다는 것은 어떻게 이해를 해야 합니까? 11절을 보시면 그 첫 번째 이유가 나오는데 그것이 ‘견고케 하기 위함’입니다. 그 단어는 ‘공고히 세우다, 굳건하게 다지다, 강하게 하다’라는 뜻입니다.
사도는 이제 막 생긴 로마 교회를 공고히 세우고 굳건하게 다질 필요가 있다고 생각을 했던 것입니다. 왜 그런 작업이 필요했는가?
로마 교회는 사도들에 의해 세워진 교회가 아닙니다. 로마 교회는 오순절 성령 강림 때 회심을 한 로마 거주 인들이 로마로 돌아가 세운 교회입니다.
혹자들은 그도 저도 아닌 무역업자들에 의해 복음이 전해지고 그 곳에 교회가 생겼다고도 합니다. 로만 가톨릭은 그들이 초대 교황으로 떠받들고 있는 베드로를 추켜세우기 위해 로마 교회의 설립자가 베드로라고 은근히 주장을 하지만 성경의 정황상 베드로는 로마 교회의 태동기에 로마에 있지 않았습니다.
따라서 로마 교회는 사도들이 아닌 일반 신자들에 의해 자발적으로 생겨난 교회가 맞습니다. 그런데 만일 로마 교회를 세운 사람들이 유대인들이었다면 갈라디아교회처럼 율법주의나 유대주의가 많이 섞였을 것이고 이방인들에 의해 교회가 세워졌다면 교리적인 부분이 아주 미약했을 것입니다.
그래서 사도 바울이 교리적으로 연약하고 불순물이 섞여 있을 지도 모르는 로마 교회에 말씀을 더욱 깊이 가르쳐서 그들의 믿음을 견고케 해 주고 싶어서 로마 교회로 그토록
가고 싶어 했던 것입니다. 로마서 15장으로 가면 사도 바울의 그러한 마음이 더 잘 나타나 있습니다.
(롬 15:19-20) “19 이 일로 인하여 내가 예루살렘으로부터 두루 행하여 일루리곤까지 그리스도의 복음을 편만하게 전하였노라
20 또 내가 그리스도의 이름을 부르는 곳에는 복음을 전하지 않기로 힘썼노니 이는 남의 터 위에 건축하지 아니하려 함이라”
보시다시피 사도는 복음이 올바로, 견고하게 전해진 곳에는 가지 않았습니다. 왜냐하면 그가 복음을 들고 가서 설교를 해야 할 곳이 너무 많았기 때문입니다. 그런데 그가 이미 복음이 전파되어 있었던 로마 교회에 그토록 가보기를 원했다는 것은 로마 교회의 교리적 배경이 견고하지 못했기 때문이었다는 것을 반증해 주고 있는 것입니다. 그래서 쓰여 진 것이 바로 이 로마서입니다. 조금 윗 구절로 가볼까요?
(롬 15:14-15) “14 내 형제들아 너희가 스스로 선함이 가득하고 모든 지식이 차서 능히 서로 권하는 자임을 나도 확신하노라
15 그러나 내가 너희로 다시 생각나게 하려고 하나님께서 내게 주신 은혜를 인하여 더욱 담대히 대강 너희에게 썼노니”
15절의 ‘대강’이라는 단어는 ‘대충’이라는 말이 아니라 ‘메노스, 어떤 부분에서’라는 뜻입니다.
그러니까 사도가 어떤 부분에서는 매우 충격적일 정도로 담대하게 복음을 기록하여 로마 교회에 보낸 것은 그들이 이미 받은 복음을 더욱 명료하게 전해주어 그들이 가진 것을 상기시키고 그로 말미암아 그들의 믿음이 견고하게 되기를 바라는 마음에서 쓴 것이라는 말입니다. 우리는 여기에서 하나님 말씀의 지속적인 학습과 공급의 중요성을 알 수 있습니다.
그리고 성도에게는 분명 성숙의 과정이 존재한다는 것도 알 수 있습니다. 연약함과 견고함, 분명 다른 거잖아요? 그렇다고 오해하지 마세요.
제 말은 성도의 육적 자아가 변화된다는 말이 아니라 성도의 육적 자아가 부인됨으로 해서 그 질그릇 같은 성도의 육적 자아 안에 들어와 계신 보배로우신 예수 그리스도가 더욱 선명히 드러나게 되는, 그러한 종류의 성숙을 말하는 것입니다. 그 성숙의 주체는 성도가 아니라 예수님입니다. 그러나 분명 가시적이며 실존적인 변화가 존재한다는 것입니다.
그 말은, 묵시 속의 구원은 이미 창세전에 완료가 되어 있는 상태이지만 이 역사 속에서의 구원은 과거, 현재, 미래의 세 가지 시제로 나타난다는 말입니다.
(고전 3:1-2) 1 형제들아 내가 신령한 자들을 대함과 같이 너희에게 말할 수 없어서 육신에 속한 자 곧 그리스도 안에서 어린 아이들을 대함과 같이 하노라 2 내가 너희를 젖으로 먹이고 밥으로 아니 하였노니 이는 너희가 감당치 못하였음이거니와 지금도 못하리라“
보세요. 사도가 고린도 교회에게 편지를 쓰면서 그들을 그리스도 예수 안에서의 젖먹이 어린아이라고 표현을 합니다. 그 말은 밥을 먹는 어른도 있다는 것입니다. 에베소서에도 동일한 이야기가 나옵니다.
(엡 4:14-15) “14 이는 우리가 이제부터 어린 아이가 되지 아니하여 사람의 궤술과 간사한 유혹에 빠져 모든 교훈의 풍조에 밀려 요동치 않게 하려 함이라 15 오직 사랑 안에서 참된 것을 하여 범사에 그에게까지 자랄 지라 그는 머리니 곧 그리스도라”
여기에서 ‘어린 아이’라고 번역이 된 ‘네피오스’는 당시 미성숙한 그리스도인들을 지칭하던 단어였습니다. 성도는 어떤 지점을 향해 방향성과 지향성을 가진 역동적인 존재라는 것입니다. 육적 자아의 측면에서 성도를 관찰할 때, 성도라는 인간은 죽는 날까지 죄만 쏟아놓고 가는 것처럼 보이지만 그 안에 사시는 성령의 열심의 관점으로 성도를 관찰하면 분명 하나님의 일하심이 그의 삶 속에 나타난다는 것입니다. 그런데 그러한 변화는 성화주의자들의 주장처럼 인간의 열심에 의해 격발이 되어 나오는 것이 아니라 하나님의 말씀에 의해 무장해제가 되어 지고 육적 자아가 부인이 되어 지는 가운데 하나님의 주도하에 나타나는 것입니다.
(빌 2:13) “13 너희 안에서 행하시는 이는 하나님이시니 자기의 기쁘신 뜻을 위하여 너희로 소원을 두고 행하게 하시나니”
이 구절을 잘 보시면 성도 안에서 일어나는 행함의 주체가 하나님이심을 알 수 있습니다.
그런데 그러한 하나님의 행함이 밖으로 드러날 때에 하나님의 기쁘신 뜻을 위해 살고자 하는 성도의 염원으로 나타나더라는 것입니다.
그렇다고 해서 뭐 대단하게 착한 행위들이 나온다는 그런 말이 아닙니다. 하나님의 기쁘신 뜻은 성도가 죄에서 벗어나는 것입니다. 그
런데 죄라는 것은 부도덕하고 비윤리적인 행위들만을 말하는 것이 아니라 인간이 주체가 되어 자신의 인생을 책임지려 하는 모든 사유와 행위를 다 죄라 합니다.
따라서 인간이 죄에서 벗어난다는 것은 자신이 주체의 자리에서 내려와 피조물의 자리에 제대로 안착하는 것입니다. 그리고 그 자리에서 하나님의 이끄심에 자신을 맡기게 되는 것을 구원이라 합니다. 따라서 성도가 하나님의 기쁘신 뜻을 위해 소원을 두고 행한다는 것은 자신의 주체성과 자아실현의 야망을 버리는 쪽으로 밀려가게 된다는 그런 뜻입니다.
그게 선입니다. 그게 죄에서 벗어난, 하나님의 기쁘신 뜻을 염원하는 삶인 것입니다. 그걸 다른 말로 믿음의 삶이라 합니다.
믿음이라는 것은 삶의 주체가 ‘나’에게서 대상에게로 옮겨지는 것입니다.
나에 대한 신뢰가 무너지고 타자의 도움이 절실한 자신의 실존을 올바로 자각하게 된 상태에서 다른 타자에게 ‘나’라는 존재를 맡기는 행위를 믿음이라고 하잖아요?
그러니까 믿음이라는 것의 전제는 철저한 자기부인인 것입니다. 그것이 하나님이 기뻐하시는 행위, 진짜 성화인 것입니다.
우리가 이제는 거의 외우는 예수님의 말씀을 다시 한 번 확인하고 가지요.
(요 6:27-29)
“27 썩는 양식을 위하여 일하지 말고 영생하도록 있는 양식을 위하여 하라 이 양식은 인자가 너희에게 주리니 인자는 아버지 하나님의 인 치신 자니라
28 저희가 묻되 우리가 어떻게 하여야 하나님의 일을 하오리이까 29 예수께서 대답하여 가라사대 하나님의 보내신 자를 믿는 것이 하나님의 일이니라 하시니”
성도가 반드시 해야 할 하나님의 일이 뭡니까? 하나님의 보내신 자를 믿는 것입니다. 인간이 하나님이 보내신 자 예수만을 믿어야 한다는 사실 앞에 모든 인간의 행위는 부정되고 부인되는 것입니다. 예수를 믿는다는 것은 ‘나’라는 존재와 그 존재에게서 나오는 모든 행위에 대한 불신과 부정이 전제된 것이니까요.
그렇게 하나님은 당신의 백성들에게 믿음을 주시는 순간 그들의 모든 행위들을 차압해 버리십니다. 인간 자신들의 행위에 대한 신뢰를 하나하나 부수어 가신다는 말입니다.
그 전에는 자신의 선한 행위가 자신의 위상을 높여주고 인간으로서의 자존심을 챙겨주는 것으로 생각했는데 하나님의 말씀이, 복음이 지속적으로 떨어지니까 자신의 선한 행위 속에 들어 있는 숨은 의도, 즉 자기‘의’ 챙기기가 너무나 분명하게 보이게 됩니다. 그때 성도는 자신에 대한 신뢰를 조금씩 잃어가게 됩니다.
그리고 자기 밖의 타자, 그 중에서도 자신이 전적으로 의존할 수 있는 하나님께 자신을 조금씩 맡기게 되는 것입니다. 그걸 자기부인이라고 합니다.
그리고 그러한 자기 부인 속에서 예수 그리스도에 대한 믿음이 더욱 견고하게 되는 것입니다. 그걸 성숙이라고 하는 것입니다.
그러한 성숙의 결과로는, 세상과 역사를 바라보는 안목의 변화와 가치관의 변화 등이 나타납니다. 물론 거기에서 격발이 되는 행동양식의 변화도 나타납니다.
그게 신령한 복음에 의해 견고케 되는 것입니다. 사도바울이 에베소를 떠나며 에베소 교회 장로들에게 부탁하신 말씀을 보면 하나님의 복음만이 성도를 견고케 하는 유일한 도구임이 명확하게 나옵니다.
(행 20:29-32) “29 내가 떠난 후에 흉악한 이리가 너희에게 들어와서 그 양떼를 아끼지 아니하며 30 또한 너희 중에서도 제자들을 끌어 자기를 좇게 하려고 어그러진 말을 하는 사람들이 일어날 줄을 내가 아노니
31 그러므로 너희가 일깨어 내가 삼년이나 밤낮 쉬지 않고 눈물로 각 사람을 훈계하던 것을 기억하라
32 지금 내가 너희를 주와 및 그 은혜의 말씀께 부탁하노니 그 말씀이 너희를 능히 든든히 세우사 거룩케 하심을 입은 모든 자 가운데 기업이 있게 하시리라”
사도가 하나님의 말씀에게 부탁을 합니다. 그 말씀만이 너희를 든든히 세울 수 있다는 것입니다. 에베소 교회에 직접 보낸 편지에도 동일한 내용이 나옵니다.
(엡 3:17-19) “17 믿음으로 말미암아 그리스도께서 너희 마음에 계시게 하옵시고 너희가 사랑 가운데서 뿌리가 박히고 터가 굳어져서
18 능히 모든 성도와 함께 지식에 넘치는 그리스도의 사랑을 알아 19 그 넓이와 길이와 높이와 깊이가 어떠함을 깨달아 하나님의 모든 충만하신 것으로
너희에게 충만하게 하시기를 구하노라”
그리스도의 십자가 사랑, 즉 복음을 알게 되면 그 사랑의 넓이와 길이와 높이와 깊이의 어떠함을 깨달아 뿌리가 박히고 터가 굳어지게 된다는 것입니다. 이게 바로 견고케 됨입니다. 저는 가끔 우리 청년들의 블로그나 홈피에서 그들의 글을 읽는데 그들의 글 속에서 성숙과 변화의 진의가 무엇인지를 분명히 볼 수 있습니다.
7년 전 교회가 시작될 무렵 그들이 쓴 글과 요즘 그들의 글을 비교해보면 하늘과 땅 차이입니다. 글 속에는 반드시 그 당시 필자의 세계관과 가치관과 인생관이 담기게 됩니다.
7년 전의 우리 청년들의 글 속에는 세상에 대한 치기어린 낙관과 야망과 꿈과 비전이 듬뿍 담겨 있었습니다.
그런데 요즘의 글들을 읽어보면 올바른 자아인식, 그러니까 올바른 자신의 처음자리 인식과 인간의 무력함과 무능함, 그렇게 집착하던 세상 것들에 대한 포기와 절연,
교묘하게 은폐시켜 두었던 자아의 폭로 등이 아주 솔직하게 표현되어 있는 걸 볼 수 있습니다.
예전에는 어떻게 하면 자신을 근사하게 포장을 할까에 글의 초점이 있었다면 지금은 거기에서 자유롭게 해방이 되어 있습니다. 그게 바로 성숙이며 변화입니다.
자신이 스스로를 볼 때에는 뭐 별로 변한 것도 없고, 여전히 이기적이고, 여전히 집착과 중독에 빠져서 허우적대고 있는 것처럼 보이지만 분명 그들의 세계관과 가치관과 인생관이 변해있더라는 것입니다. 점점 더 예수의 은혜만을 의지하는 자로 바뀌어 가는 것입니다.
분명 그러한 성도 안에서의 변화와 성숙이 하나님의 주도하에 이루어집니다. 어떻게 성령을 받은 자가 그렇지 못한 세상 사람들과 동일한 세계관과 가치관과 인생관을 갖고 살 수 있습니까? 그럴 수는 없는 것입니다. 어린 아이 때는 몰라도 지속적인 말씀의 수유에 의해 반드시 변화가 일어납니다.
행위의 변화가 크게 일어나지는 않을 지라도 세계관과 가치관과 인생관의 변화가 방향성을 가지고 지향성을 가지고 일어나게 되어 있단 말입니다.
그게 살아서 운동력이 있는 말씀의 파워인 것입니다. 하나님의 말씀이 실제로 골수와 관절을 쪼개어 인간의 실체를 낱낱이 해부하여 폭로해 버리십니다.
거기에서 예수 그리스도의 은혜와 사랑만이 오롯하게 드러나게 되는 것이고 철저하게 부인된 자아 안에서 예수의 은혜만을 의지 하고 서는 것이 바로 견고케 됨인 것입니다.
사도가 지금 그 일을 위해 복음을 들고 로마 교회로 가겠다고 하는 것입니다. 그런데 사도가 그렇게 간절한 염원을 어떻게 하나님께 구하고 있는지 보세요.
(롬 1:10) “10 어떠하든지 이제 하나님의 뜻 안에서 너희에게로 나아갈 좋은 길 얻기를 구하노라”
‘하나님의 뜻 안에서’ 이렇게 사도는 자신의 뜻과 염원을 항상 하나님의 뜻 안에서 점검하고 검증해 보았던 사람입니다. 그것이 혹시 자신의 생각과 지혜에서 나온 것이 아닌지 늘 두렵고 떨림으로 확인하고 또 확인했던 것입니다. 여기에서 ‘좋은 길’이라고 번역이 된 어구를 직역을 하면 ‘길이 분명히 밝혀지다’라는 뜻입니다. 사도는 자신의 염원이 하나님의 뜻 안에서 옳은 것인지를 점검했을 뿐만 아니라, 그것이 하나님이 원하시는 일이라면 분명 확실한 길이 열릴 것이라는 걸 믿었습니다. 그리고는 분명한 길이 열릴 그때까지 기다렸던 것입니다. 어떠세요? 사도의 일거수일투족이 전부 하나님에게 의존되어 있는 것을 볼 수 있지요? 이게 바로 말씀에 의해 견고케 된 자의 하나님 절대의존의 모습인 것입니다. 분명 자기부인에 의한 변화와 성숙이 나타나지요?
여기에서 또 한 가지 놓쳐서는 안 될 중요한 사안이 있습니다. 여러분이 오늘 본문과 그 밖의 다른 여러 곳에서 보셨다시피, 사도가 판단하기에 로마 교회는 반드시 양육되고 견고케 되어야 하는 그리스도 안의 어린 아이였습니다. 그런데 하나님께서 그들을 견고케 하기 위해 로마로 가겠다는 사도의 간구를 허락하지 않으셨습니다. 막으셨단 말입니다. 그렇다고 로마 교회가 말씀으로 견고케 되는 과정을 겪지 않고 그냥저냥 흘러갔을까요? 아닙니다. 하나님의 교회는 반드시 구원의 현재 시제를 살아야 합니다. 로마 교회는 사도 바울의 서신에 의해 그리고 바울이 아닌 다른 종들에 의해 말씀의 수유를 받아 견고케 되는 과정을 통과했습니다. 그렇다면 이 역사 속의 모든 일의 주체가 누구라는 말이 됩니까? 하나님이십니다. 사도 바울이 그 일을 하지 않으면 하나님도 어쩔 수없는 그런 것이 아닙니다. 하나님은 홀로, 그리고 스스로 당신의 일을 하십니다. 따라서 하나님의 관심은 당신의 백성들을 사용하셔서 당신의 일을 성취시키시는 것이 아니라 그 백성 하나하나의 믿음과 구원에 있습니다. 그래서 때때로 당신의 종들의 충정까지도 묵살시켜 버리십니다. 심지어 마귀까지도 사용하셔서 인간의 무력함과 불가능함을 가르치십니다.
(살전 2:17-18) 17 형제들아 우리가 잠시 너희를 떠난 것은 얼굴이요 마음은 아니니 너희 얼굴 보기를 열정으로 더욱 힘썼노라
18 그러므로 나 바울은 한번 두 번 너희에게 가고자 하였으나 사단이 우리를 막았도다“
그렇지요? 왜 하나님께서 사도의 그 충정을 그렇게 마귀까지 동원하셔서 막으셨을까요? 하나님의 일은 하나님께서 실행하시고 완료하신다는 것을 가르쳐 주시기 위함입니다. 하나님은 사도 바울을 통하여 하실 ‘일’에 관심이 있으셨던 것이 아니라 사도 바울이라는 하나님의 백성의 믿음과 구원에 일차적으로 관심이 있으셨던 것입니다. 사도는 그렇게 번번이 자신의 계획과 뜻이 무산되는 경험을 함으로 해서 자신이 뭐 대단한 자격과 조건을 갖추어서 하나님께 쓰임을 받는 것이 아니라 하나님께서 지팡이로 써 주시는 것임을 깨달았을 것입니다. 그러한 사도의 경험이 이러한 고백을 하게 했습니다.
(고전 15:9~10) “9 나는 사도 중에 지극히 작은 자라 내가 하나님의 교회를 핍박하였으므로 사도라 칭함을 받기에 감당치 못할 자로라
10 그러나 나의 나 된 것은 하나님의 은혜로 된 것이니 내게 주신 그의 은혜가 헛되지 아니하여 내가 모든 사도보다 더 많이 수고하였으나 내가 아니요 오직 나와 함께 하신 하나님의 은혜 로라”
자신은 절대로 어떤 자격이나 조건을 갖추어서 사도가 된 자가 아니라는 것입니다. 자신에게서 나온 모든 행위와 업적은 다 하나님의 은혜의 산물이라는 것을 그가 알았습니다. 그게 믿음이며 그게 자기부인인 것입니다. 로마서 15장에도 동일한 내용이 나옵니다.
(롬 15:17-18) “17 그러므로 내가 그리스도 예수 안에서 하나님의 일에 대하여 자랑하는 것이 있거니와
18 그리스도께서 이방인들을 순종케 하기 위하여 나로 말미암아 말과 일이며 표적과 기사의 능력이며 성령의 능력으로 역사하신 것 외에는 내가 감히 말하지 아니하노라”
사도 바울의 말과 일, 표적과 기사의 능력 등 모든 것이 다 성령의 능력으로 이루어진 것이라 합니다. 자기는 그저 하나님의 도구였다는 말입니다. 그래서 사도는 자기의 뜻과 계획이 사단에 의해 막히는 것처럼 보일 지라도 조급해 하거나 하나님을 원망하지 않을 수 있었던 것입니다. 하나님께서 이루실 것이면 사단이 아니라 사단 할아버지가 방해를 해도 이루어질 것이고 하나님이 막으실 것이면 그 어떤 훌륭한 명분으로 위장을 한다 해도 하나님께서 반드시 막으실 것을 알았기 때문입니다. 두 번째로 사도가 로마 교회에 그토록 가고 싶어 했던 이유는 본문 12절에 잘 나타나 있습니다.
(롬 1:12) “12 이는 곧 내가 너희 가운데서 너희와 나의 믿음을 인하여 피차 안위함을 얻으려 함이라”
사도는 피차 안위함을 위하여 로마 교회에 가고 싶어 했던 것입니다. 여기에서 ‘안위함’이라고 번역이 된 헬라어 ‘쉼파라칼레오’라는 단어는 ‘서로 위로하다(comfort together)’라는 뜻입니다. 저는 이 단어를 보면서 사도의 외로움과 고단함을 절절하게 느낄 수 있었습니다. 사도가 지금 로마 교회만을 위로하기 위해 가겠다는 것이 아닙니다. 자기도 그들로부터 위로를 받아야 하겠다는 것입니다. 사도가 왜 그렇게 멀리까지 가서 위로를 받아야 하나요? 사도는 예수님이 그러했던 것처럼 늘 외로웠습니다. 사도의 시대에도 그만큼 진짜 그리스도인들이 적었다는 것입니다. 그는 자신이 개척한 교회에서도 매번 오해와 질시와 모함에 의해 쫓겨나야 했고, 함께 하던 동역 자들로부터도 수시로 버림을 당했습니다.
(딤후 1:15) “15
아시아에 있는 모든 사람이 나를 버린 이 일을 네가 아나니 그 중에 부겔로와 허모게네가 있느니라”
(딤후 4:10-11,16)
“10 데마는 이 세상을 사랑하여 나를 버리고 데살로니가로 갔고 그레스게는 갈라디아로, 디도는 달마디아로 갔고
11 누가만 나와 함께 있느니라 네가 올 때에 마가를 데리고 오라 저가 나의 일에 유익하니라 16 내가 처음 변명할 때에 나와 함께 한 자가 하나도 없고 다 나를 버렸으나 저희에게 허물을 돌리지 않기를 원하노라”
이렇게 복음을 사는 이들은 세상 사람들로부터 고립을 당하게 됩니다. 그리고 버림을 받습니다. 세상은 예수를 미워하여 죽여 버렸던 것처럼 그 예수가 남기고 간 예수의 형제들을 똑같이 미워합니다. 그건 예수님의 예언이었습니다. 그렇게 외롭고 고달픈 신앙의 여정 속에서 나와 한 길을 가고 있는 참 신앙인들을 만난다는 것보다 더 큰 위로는 없습니다. 당시 로마 교회는 말할 수없는 핍박 속에 던져져 있었다고 했지요? 사도 역시 마찬가지였습니다. 사도는 그토록 힘겹게 십자가의 길을 가고 있는 자신의 현실을 로마 교회와 나누며 그들만이 그 힘겨운 고난의 길을 가고 있는 것이 아님을 가르쳐 주고 싶었던 것입니다. 그리고 자신도 그렇게 열심히 견뎌내고 있는 로마 교회의 현실을 보면서 역시 위로를 받고 싶었던 것입니다. 사도는 그것을 고린도 후서에서 이렇게 설명을 합니다.
(고후 1:6-7)
“6 우리가 환난 받는 것도 너희의 위로와 구원을 위함이요 혹 위로 받는 것도 너희의 위로를 위함이니 이 위로가 너희 속에 역사하여 우리가 받는 것 같은 고난을 너희도 견디게 하느니라
7 너희를 위한 우리의 소망이 견고함은 너희가 고난에 참예하는 자가 된 것같이 위로에도 그러할 줄을 앎이라”
하나님의 철장에 의해 철저하게 자기부인 작업을 당하고 있는 성도의 고난이 서로에게 위로가 되더라는 것입니다. 그래서 교회가 모이기를 힘쓰는 것입니다.
한 길을 가는 동지들을 만나면 눈물이 터지기도 합니다. 이번 한국 집회에서 만난 우리 서머나 인터넷 식구들이 휴가를 내서 집회 장소에 찾아와 아예 숙소를 잡고 전체 집회에 다 참석을 하신 후 마지막 날 제 손을 잡고 하나같이 눈물을 쏟으시는 것을 보면서 제가 큰 위로를 받았습니다.
그분들도 마찬가지고요. 얼마나 외롭고 힘이 들었으면 뉴질랜드에서 일본에서 익산에서 양산에서 통영에서 휴가를 내어 찾아오셨겠습니까?
한길을 가는 성도들은 그렇게 서로 얼굴만 봐도 위로가 되는 것입니다. 나만 남아서 이렇게 외로운 길을 가고 있는 줄 알았는데 여기도 있고, 저기도 있고, 거기에도 있었구나 하는 안도, 그것보다 더 큰 위로가 어디 있겠습니까? 사도도 그렇게 위로가 필요했던 사람이었습니다.
하물며 여러분은 어떻겠어요? 그래서 여러분은 모이기를 힘쓰셔야 하는 것입니다. TV가 여러분을 위로해 줄 수 있을 것 같으세요?
취미활동이 여러분을 위로해 줄 수 있을 것 같으십니까? 세상 친구들이 여러분을 위로해 줄 수 있을 것 같으세요? 문명이 여러분을 위로해 줄 수 있나요? 아니요. 천만에요.
여러분이 성령을 받은 성도라면 여러분은 그러한 것들에게 오히려 미움을 받고 실망을 하셔야 맞습니다.
그러한 것들은 절대로 성도를 견고케 해 줄 수 있는 것이 아닙니다. 오히려 성도를 죽이는 것입니다. 성도를 견고케 해 줄 수 있는 것은 오직 하나님의 복음뿐이며 성도를 위로해 줄 수 있는 것은 성도 간의 교제 안에서만 가능한 것입니다.
그런데 인간들은 자기들 스스로의 인식을 조작하면서까지 복음을 거부합니다. 스스로 속고 있단 말입니다.
예수만 의지하면 된다는데, 예수님의 공로만 의지하면 된다는데, 하나님께 항복만 하면 된다는데 그게 싫은 겁니다.
선악과 따먹고 신처럼 되어 버린 위대한 인간의 자존심을 지키고 싶은 것입니다. 펜실베니아 대학의 제임스 서펠 교수의 ‘In The Company of Animals’라는 책을 보면
인간의 자인식조작의수단이구체적으로설명이되는데그것이절연(detachment),은폐(concealment), 책임 전가(shifting the blame), 왜곡(misrepresentation)입니다.
최근에 한국에서 발생했던 구제역 생매장 사건을 예로 들어서 설명을 해 드리면 이러합니다.
지난 석 달간 한국의 소와 돼지들 수백만 마리가 단지 전염병에 감염될 가능성이 있다는 이유만으로 생매장이 되었습니다
. 여러분, 가재도 고통을 느낀다고 하는데 하물며 소와 돼지는 어떻겠습니까? 그런데 우리는 그러한 소식을 들으면서도 여전히 젓가락에 돼지고기 삼겹살을 들고 있습니다.
어떻게 그럴 수 있을까요?(그게 나쁘다는 것이 아니라 인간의 자 인식 왜곡과 조작의 수단을 설명하기 위해 예를 드는 것임) 인간은 그러한 일들이 생기면 얼른 절연(detachment)을 해 버립니다. 나와 돼지는 다른 존재라는 것이지요. 그리고는 돼지는 더럽고 역겨운 동물이라고 왜곡(misrepresentation)이라고 합니다.
나찌가 일부러 수용소 안의 유대인들을 개돼지처럼 지저분하게 만든 후 아무런 죄책감 없이 죽인 것처럼.
그러면서 ‘구제역이 뭐 내가 퍼트린 건가?’라는 책임전가(shifting the blame)를 합니다. 그리고는 얼른 그 증거물들을 묻어 버리는 것입니다.
그리고 깨끗하게 포장이 된, 돼지의 형태를 전혀 추측할 수조차 없는 깨끗하게 다듬어진 돼지고기 포장 상품으로 은폐(concealment)를 시도합니다.
이게 인간과 돼지와의 관계에서만 일어나는 왜곡이요 조작이면 괜찮은데 인간과 인간 사이에서도 동일한 자 인식의 조작과 왜곡이 벌어진다는 것이 문제입니다.
지금은 사회법이나 도덕과 윤리 등의 하나님의 일반 은총이 인간들을 붙들고 있어서 대량 학살은 자주 일어나고 있지는 않지만 하나님께서 우주와 역사를 붙들고 계신 일반 은총을 확 빼버리시는 날 인류는 서로를 대량 학살하여 땅에 생매장하는 일을 서슴지 않을 것입니다.
아니 사람들 마음속에서는 이미 일어나고 있는 것이지요. 지금 이 시간에도 리비아에서는 수 천 명이 학살을 당하고 있습니다.
왜 우리는 그러한 학살에도 가슴 아파하지 않지요? 왜 쌍둥이 빌딩 안에서 수 만 명이 불에 타 죽어도 우리의 감정은 이렇게 밋밋합니까?
지금 이 시간 아프리카에서는 먹을 것이 없어서 굶어 죽는 이들이 속출하고 있습니다.
그런데 우리는 지금 오늘 점심 메뉴가 뭘까를 생각합니다. 이것이 인간 자 인식의 왜곡과 조작의 실태입니다.
절연, 은폐, 왜곡, 책임전가. 인간의 공감의 그릇은 그토록 작습니다. 심지어 인간과 역사는 자신들의 그 잔인함을 근사한 행위들로 위장하기도 합니다.
여러분, 인류의 역사상 가장 포괄적인 동물 보호법을 만들어 반려 동물 뿐 아니라 일반 가축까지도 끔찍이 사랑한 정부가 어떤 정부인지 아세요?
히틀러의 나찌 정부였습니다. 히틀러는 동물 보호법을 제정하여 동물을 학대하는 것을 금지한 것은 물론이고, 닭에게 강제로 모이를 주는 것, 가축을 잔인하게 도살하는 것도 금지했으며, 바다 가재를 죽일 때에도 정해진 시간 안에 빨리 죽이지 않으면 안 되었습니다.
고통 없이 죽이라는 것입니다. 심지어 어류를 죽일 때는 반드시 마취를 하고 죽여야 했습니다.
그러니까 꽁치 한 마리를 구워 먹기 위해서 산 꽁치를 마취시킨 후 죽여서 요리를 해야 했던 것입니다. 나찌 정부가 얼마나 동물 보호에 신경을 썼는지 헤르만 괴링의 연설을 보면 알 수 있습니다.
"동물은 유기체적 의미에서 생명체일 뿐 아니라, 각자의 삶을 살고 지각 능력을 부여받은 존재들이며, 고통과 즐거움을 느끼고 충성심을 지닌, 애정의 대상이다.따라서 동물을 여전히 소유물로 취급해도 된다고 생각하는 자들은 강제 수용소로 보내버리겠다" 훌륭해 보이죠? 박애주의자 나셨습니다.
그런데 괴링은 이 연설을 한 날도 수 천 명의 유대인들을 가스실에서 학살해 버렸습니다. 아무런 죄책감도 없이요. 이게 바로 왜곡되고 조작된 자 인식 속의 인간의 모습입니다.
자신들의 더러운 모습을 착한 행위로 위장해 버리는 것입니다.
그 속에서 성도가 무엇으로 견고케 될 수 있겠습니까? 그 속에서 성도가 무엇으로 위로를 받을 수 있겠습니까? 말씀입니다.
성도 간의 만남입니다. 성도 간의 교제입니다. 그것이 부족할 때 성도는 영적 영양실조에 걸리게 됩니다.
바울이 로마에 가서 자기가 가진 복음을 나누려 했던 것처럼, 성도 간의 교제로 위로를 하고 위로를 받으려 했던 것처럼, 여러분도 로마에 가고 싶어야 합니다.
여러분의 로마는 교회입니다. 교회에 열심히 나오셔서 말씀을 진지하게 공부하시고, 성도 간의 풍성한 교제를 나누십시오.
‘로마에 가고 싶다’ 이 바울의 애절한 염원이 예배가 끝나고 일상으로 돌아간 여러분의 귀에 이명 현상처럼 울리기를 바랍니다.
말씀을 나누고 싶다, 천국 가족들을 보고 싶다, 견고케 되고 싶다, 하늘 위로를 받고 싶다,
이게 여러분의 소원이 되어야 합니다.
「三つの霊は、ヘブライ語でハルマゲドンと呼ばれる所に王たちを集めた。」
地球の終末をテーマにした映画は多い。どうやら人々の好奇心を刺激するのに適した素材であるため、映画会社が製作に乗り出すのではないかと思う。さらに、地球温暖化による異常気象のニュースが頻繁に登場する現実において、地球終末の問題は人々の関心の対象となるに十分である。このような現実が、興行を重視する映画監督の想像力を動かしているのだ。
私が記憶している終末映画は『アルマゲドン』と『インターステラー』だが、周知の通り「アルマゲドン(ハルマゲドン)」という用語はヨハネの黙示録に登場する。そして、この用語を知る人々は皆、地球の終末をもたらす「最後の戦争」として理解している。
映画『アルマゲドン』は、小惑星が地球と衝突する危機に直面した際、NASA(米航空宇宙局)が宇宙飛行士を派遣し、核弾頭を用いて小惑星の進路を変えて地球を救うという、ある意味お決まりの結末へと続く。しかし、天文学者たちはそのような出来事が現実にならないという保証はないとも言う。とにかく、人々はハルマゲドンを地球を滅ぼす戦争として理解している点で、まだ現実ではない「未来に起こりうる戦争」として受け止めている。そしてキリスト教徒もまた、ほとんどそのような意味で理解している。
では、聖書が語るハルマゲドンとはどのような戦争なのだろうか。まず、「三つの汚れた霊がハルマゲドンに王たちを集めた」と言及されているのを見ると、三つの霊が主導して引き起こした戦争であることがわかる。その三つの霊の正体は、竜の口、獣の口、そして偽預言者の口から出てきた「悪霊の霊」である(黙示録 16:13)。
そして、彼らが王たちを集めた理由は、「神、全能者の大きな日の戦い」のためである(黙示録 16:14)。したがって、地球を滅ぼす最後の戦争としてのハルマゲドンは、人間の想像力による産物に過ぎない。14節を見ると、「彼らは、しるしを行う悪霊の霊であって、全世界の王たちのところへ行き、全能者なる神の大きな日の戦いのために、彼らを集めるのである」と述べられている。
悪霊の霊が王たちを集める方法は「しるし(奇跡)」である。これは悪魔がイエスを試みた時と同じだ。石をパンに変えることや、神殿の頂から飛び降りることは、人々を集めるのに十分なしるしである。悪魔がイエスにそのようなしるしを行うよう言ったのは、イエスを「世の中が好み、歓迎するメシア」として立てようとしたからだ。
竜の口、獣の口、偽預言者の口から出た三つの汚れた霊は、「嘘をつく霊」を意味する。その嘘とは、「イエスは人間を助けるために来た」ということだ。生存に必要なパンを与え、世の栄光を与え、高い所から落ちても怪我をしないというしるしで守ってくれるという言葉で惑わす。そして世界は、このような嘘の下に集まるのである。
今日、教会が何を追求し、教えているイエスがどのような存在であるかを見れば、教会が汚れた霊の嘘を真理として受け入れる「悪魔の思考方式」と一つになっていることを否定できない。
「全能なる神の大きな日」とは、神の全能さが完全に現れる日を意味する。つまり、人の力では不可能なことを神が成し遂げられたことが「全能さ」である。したがって、「大きな日」とは、イエスが来られて十字架で死なれることにより、救いの能力となったことを指す。イエスの血によって、イエスの中で罪のない聖なる者として神との和解を成し遂げ、共にいられるようになるという、人間には到底不可能なことが成し遂げられたのだ。悪魔は神のこのような救いの方程式を嫌う。
それゆえ、神の大きな日には戦争があるしかなく、悪魔の戦争は、神の救いの方程式を拒否し、人間の力でも可能な救いによって人間を支配することとして現れる。そして、人間が望む「しるし」によって自分の民を呼ぶのである。
では、なぜ三つの霊が王たちを集める場所を「ハルマゲドン」と言うのだろうか。ハルマゲドンは一般的に「メギド」と解釈される。山を意味する「Har」とメギドを意味する「Magedon」が合わさり、「メギドの山」を意味するというものだ。単なる発音の類似性だけでメギドと解釈するのは無理があるという主張もあるが、聖書に一度だけ登場するハルマゲドンの意味を正確に見つける方法がないことを考えれば、メギドと見るのが最も信憑性が高い。
したがって、メギドからハルマゲドン戦争の意味を探ることが必要だ。聖書にメギドという言葉はそれほど多く登場しないが、ゼカリヤ書 12:11の「その日、エルサレムに大きな哀哭がある。それはメギドの平地にあるハダド・リンモンの哀哭のようだ」という内容が、ハルマゲドンを理解する鍵となる。
エルサレムの大きな哀哭は、神が注いでくださった恵みと祈りの霊によるものであり、自分たちが突き刺した彼を仰ぎ見ることによって出る哀哭である(ゼカリヤ 12:10)。したがって、この哀哭は将来、イエス・キリストによって悲しむ者が現れることを預言している。自分のためにイエスを求めた自分が、実はイエスを突き刺した者であったことを悟り、十字架で血を流されたイエスを仰ぎ見て嘆き悲しむようになるということだ。この哀哭が、神が注いでくださった「恵みと祈りの霊」によって起こるのである。
そして、メギドの谷で哀哭があったであろう事件は、ヨシヤ王の死と言える(列王記下 23:29)。ユダを信仰によって正しく治めたヨシヤ王の死は、民にとって大きな喪失であり、それによって哀哭したならば、エルサレムの大きな哀哭もまた「喪失」の意味を含んでいると言える。言い換えれば、イエスを突き刺したのが自分であると悟った時、それまで誇りであった自分の信仰の功績が偽りであり、虚しいものであったことを知った喪失による哀哭なのだ。自分がイエスを突き刺した迫害者であったことを知らず、祝福と救いのためにイエスに仕えると言ったその「偽り」に心が痛むのである。これが、神が与えられた「砕かれ、悔いた心」である(詩篇 51:17)。
汚れた三つの霊は、しるしを求めて集まった者たちを、「世の中の自己」のために嘆き悲しませる。自分の熱心さで望むものを得ることが目的であるため、目的通りにならなかった時の哀哭である。
結局、哀哭の意味が違うのだ。これがハルマゲドンで繰り広げられる戦争であり、今の現実である。十字架において自分の失敗を悟り、悲しむ「恵み」と、望むものを得られなかった喪失による「哀哭」の衝突なのである。
지구 종말을 주제로 한 영화가 많다.
아무래도 사람들의 호기심을 자극하기에 좋은 소재이다 보니 영화사들이 제작에 나서는 게 아닌가 싶다.
더군다나 지구온난화로 인한 이상 기온 현상에 대한 뉴스가 자주 등장하는 현실에서 지구 종말의 문제는 사람의 관심거리가 되기에 충분하다.
이러한 현실이 흥행을 중요시하는 영화감독의 상상력을 움직이는 것이다.
내가 기억하는 종말 영화는 ‘아마겟돈’과 ‘인터스텔라’인데 알다시피 아마겟돈이란 용어는 요한계시록에 등장한다.
그리고 아마겟돈이란 용어를 아는 사람들은 모두 지구의 종말을 가져오는 최후의 전쟁으로 이해한다.
영화 ‘아마겟돈’은 소행성이 지구와 충돌할 위기에 처했을 때 나사(미 항공우주국)가 우주인을 보내 핵탄두를 이용해서 행성의 진로를 변하여 지구를 구한다는 뻔한 결말로 이어지는데 천문학자들은 그러한 일이 현실이 되지 말라는 보장이 없다고도 한다.
어쨌든 사람들은 아마겟돈을 지구를 멸망하게 할 전쟁으로 이해한다는 점에서 아직 현실이 아닌 미래에 있을 수 있는 전쟁으로 받아들인다.
그리고 기독교인 역시 거의 그런 의미로 알고 있다.
그러면 성경이 말하는 아마겟돈은 어떤 전쟁일까? 먼저 세 영이 아마겟돈으로 왕들을 모으더라고 말한 것을 보면 세 영이 주도하여 일으킨 전쟁임을 알 수 있다.
세 영의 정체는 용의 입과 짐승의 입과 거짓 선지자의 입에서 나온 귀신의 영이다(계 16:13).
그리고 이들이 왕들을 모은 이유는 하나님 곧 전능하신 이의 큰 날에 있을 전쟁을 위해서다(계 16:14).
따라서 지구를 멸망시키는 최후의 전쟁이라고 하는 아마겟돈은 인간의 상상력에 의한 작품일 뿐이다.
14절에 보면 “그들은 귀신의 영이라 이적을 행하여 온 천하 왕들에게 가서 하나님 곧 전능하신 이의 큰 날에 있을 전쟁을 위하여 그들을 모으더라”라고 말한다.
귀신의 영이 왕들을 모으는 방법은 이적이다. 이것은 마귀가 예수님을 시험한 것과도 같다.
돌들로 떡덩이가 되게 하라는 것, 성전 꼭대기에서 뛰어내리라는 것은 사람들을 모으기에 충분한 이적이다.
마귀가 예수님께 그런 이적을 행하라고 한 것은 예수님을 세상이 좋아하고 환영할 메시아로 세우고자 하는 것이다.
용의 입과 짐승의 입과 거짓 선지자의 입에서 나온 세 더러운 영은 거짓말하는 영을 의미한다.
세 영의 거짓말은 예수가 인간을 돕기 위해 왔다는 것이다.
생존에 필요한 떡을 주고 세상의 영광과 높은 곳에서 떨어져도 다치지 않는 이적으로 지켜준다는 말로 속인다.
그리고 세상은 이러한 거짓말 아래 모인다.
오늘날 교회가 추구하는 것이 무엇이고 가르치는 예수가 어떤 존재인가를 살펴보면 교회가 더러운 영의 거짓말을 진리로 받아들이는 마귀의 사고방식에 하나 되어 있음을 부인할 수 없다.
전능하신 하나님의 큰 날은 하나님의 전능하심이 온전히 드러난 날을 의미한다.
즉 사람의 힘으로는 되지 않은 불가능한 일을 하나님께서 되게 하신 것이 전능하심이다.
따라서 큰 날은 예수님이 오셔서 십자가에 죽으심으로 구원의 능력이 되신 것을 말한다.
예수님의 피로 인해 예수 안에서 죄 없는 거룩한 자로 하나님과 화목을 이루고 함께 하게 되는 사람으로는 도무지 할 수 없는 일이 이루어진 것이다. 마귀는 하나님의 이러한 구원 방식을 싫어한다.
따라서 하나님의 큰 날에는 전쟁이 있을 수밖에 없고 마귀의 전쟁은 하나님의 구원 방식을 거부하고 인간의 힘으로도 가능한 구원으로 인간을 지배하는 것으로 드러난다. 그리고 인간이 원하는 이적으로 자기의 사람을 부르는 것이다.
그런데 세 영이 왕들을 모으는 장소를 ‘아마겟돈’이라고 하는 이유는 무엇일까? 아마겟돈은 므깃도로 해석하는 것이 일반적이다.
산을 의미하는 ‘Har’와 므깃도를 의미하는 ‘Magedon’이 합쳐져 ‘므깃도의 산’을 뜻한다는 것이다.
단지 발음의 유사성 때문에 므깃도로 해석하는 것은 무리라는 주장도 있지만 성경에 한 번 등장하는 아마겟돈의 뜻을 정확히 찾을 방법이 없음을 생각하면 므깃도로 보는 것이 가장 신빙성이 있다.
따라서 므깃도에서 아마겟돈 전쟁의 의미를 찾는 것이 필요하다.
성경에 므깃도라는 말은 많이 등장하지 않은데 슥 12:11절의 “그 날에 예루살렘에 큰 애통이 있으리니 므깃도 골짜기 하다드림몬에 있던 애통과 같을 것이라”라는 내용이 아마겟돈을 이해하는데 열쇠가 될 수 있다.
예루살렘의 큰 애통은 하나님이 부어주신 은총과 간구하는 심령에 의한 것이며 자신이 찌른 그를 바라봄으로 나오는 애통이다(슥12:10).
따라서 이 애통은 장차 예수 그리스도로 인해 애통하는 자가 있을 것임을 예언하는 것이다.
자기를 위해 예수를 찾은 자신이 예수를 찌른 자임을 깨닫고 십자가에 피 흘리신 예수를 바라보고 애통하게 된다는 것이다.
이 애통이 하나님이 부어주신 은총과 간구하는 심령에 의해 있게 된다는 것이다.
그리고 므깃도 골짜기에서 애통이 있었을 만한 사건은 요시야의 죽음이라고 할 수 있다(왕하 23:29).
유다를 신앙으로 잘 다스렸던 요시야 왕의 죽음은 백성들에게 큰 상실로 다가왔을 것이고 그로 인해 애통을 했다면 예루살렘의 큰 애통 또한 상실의 의미를 담고 있다고 할 수 있다.
다시 말해서 예수를 찌른 자가 자신임을 깨달았을 때 그동안 자랑이 되었던 자신이 행한 믿음의 공로가 거짓이고 헛된 것임을 알게 된 상실로 인한 애통이다.
자신이 예수를 찌른 박해자였음을 알지 못하고 복과 구원을 위해 예수를 섬긴다고 했던 거짓 됨에 마음이 상하게 된다.
이것이 하나님이 주신 상하고 통회하는 마음이다(시 51:17).
세 영은 이적을 바라보고 모인 자들을 세상 속의 자기로 인해 애통하게 한다.
자신의 열심으로 원하는 것을 얻는 것이 목적이기에 목적한 대로 되지 않았을 때의 애통이다.
결국 애통의 의미가 다르다. 이것이 아마겟돈에서 벌어진 전쟁이며 지금의 현실이다.
십자가에서 자신의 실패를 깨닫고 애통하는 은혜와 원하는 것을 얻지 못한 상실로 인한 애통의 충돌인 것이다.